ヨーロッパをカヌーで旅する 39:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第39回)


第七章

朝になると、大気に不思議な変化が生じていた。あたり一帯が白く濃い霧に包まれていた。これは「ぞくぞくするような川下り」ができそうだと思ったので、急いでこの乳白色の世界にカヌーを浮かべた。たとえば、橋の下をくぐるとする。人々の声がまるで頭上から、というか天から降ってくるように感じられるのではないかと思ったのだ。しかも、この霧は十一月のチェシャ―チーズほどにも濃厚で、それだけ興味深いものになりそうだった。川旅での霧は何度か経験しているのだが、今回は、つい目と鼻の先にあるカヌーの先端すらまったく見えない。こういう状況──何も見えないまま速い流れに乗って漕ぐという状況──は、まったく予想外だし、新鮮でもあった。何も見えないという状態が、大きな喜びを感じさせてくれる。

空想はいつも無限だ。しかも、脳裏に描く絵はいきいきとして、色もあざやかだ。結局のところ、外部の物体の印象というものは絵にすぎないと、哲学者たちも述べているではないか。景色など見えない霧中の川旅だとしても、頭の中で思い描きながら楽しめばよいのではないか、と。

音もそうだ。声はたしかに聞こえるのだが、魔女や妖精がしゃべっているようでもある。実際には、川岸で女たちが洗濯しながらおしゃべりしているだけなのだろうが。とはいえ、現実と空想の両方で姿の見えない人々の相手をしつつ、神経は極限まで集中させる。またも声が近づいてくる。これは、カヌーがまっすぐ岸に向かっているということだ。気をつけろ! そのうちに霧が晴れてくると、自然の景色の移り変わりが最も興味深いものの一つとなった。山や荒野の旅で、こうした霧に遭遇し、また霧のカーテンが急激に、あるいは徐々に薄れていくのを楽しんだ人は多いと思う。が、なにしろ自分が今いるところは、美しい川の上なのだ。

こうした様子についてうまく表現できればと思ってはいるのだが、なかなかうまく伝えられない。いわば、ターナーの一連の風景画のような景色が左右にちらほら見えたり、頭上に木々や空や城が一瞬だけ輝いて見えたりもした。それがまたベールに包まれ、すっかり隠れてしまったりもした。心の中で、そうした一連の景色をつなげて想像してみるしかない。たまに日光が差しこんできて現実の風景が見えたりもするのだが、それはまったくの興ざめだったりした。しまいには霧はすっかり晴れてしまったのだが、これは太陽神ソールが異様なほど暑い光線を投げかけて霧を払いのけ、自分を隠した恨みをはらしたのだろう。

このあたりのライン川は、土手が急な崖になっている。その向こうには、気持ちのよい草原やブドウ畑、それに森がバランスよく混在して広がっていた。もっとも、カヌーの川下りがそれなりに快適なときは、どんな景色でも好印象になりがちだ。やがて、森が深くなった。背後の山々は屹立していく。流れはどんどん速くなり、丘の上に点在していた家々はぐんぐん近くなり、だんだん都会風になってきた。と思うと、視界がパッと開けて、シャフハウゼンが見えてきた。その間も、不機嫌そうな川音が「前方に急流あり」という警告を発している。こういうところを航行する際は注意が必要だ。とはいえ、別に難所というわけではない。というのも、このあたりになると、蒸気船が通ってきているからだ。蒸気船が航行するような川は、むろん、カヌーにとっては何の支障もない。大きな橋のところまでやってくると、「ゴールデネン・シフ」(英語では、ゴールデン・シップ)という名前のホテルがあった。こういうのを見てしまうと、人は我知らず愛国者になる。というのも、名前はイギリスのもののパクリだし、隣接する壁には、なんとも微妙な一人のイギリス人の巨大な絵が描かれていた。その絵のイギリス人は、スコットランドのハイランド地方の民族衣装らしきものを着ていて、キルト特有の格子柄らしいのだが、イギリスではまったく見かけることのない柄なのだった。

ここでもカヌーは人々を驚かせた。が、その反応は今までにない新しいものだった。現地の人々が「どこから来たの?」とたずねるので、ぼくがイギリスからと返事をする。ところが、相手は、そんなことはありえないと、なかなか信じてくれない。ぼくがたどってきたコースでは、ドイツから来たとしか思えないらしい。

とりあえず宿を確保するという午前の作業はすぐに終わり、それからは一日中ぶらぶらと街を散歩した。太鼓や楽団の演奏が聞こえたので、そっちに行ってみると、そろいの制服を着た二百人ほどの子供たちの集団がいた。本物の銃を持った少年兵だ。命令を聞く合間にリンゴをかじったりしていたが、なかなか勇ましい一団で、歩調を乱す年少の子供をにらんだりもしていた。その子はまだ八歳くらいで、歩幅が足りず、行進についていくのに苦労していた。

連中は小競り合いを模した演習をしていた。ラッパではなく、小さなヤギの角で命令を伝えている。角笛は鉄道でも使われていた。音は明瞭で、遠くからでもよく聞こえる。イギリスの軍事演習でも、この手の角笛を使えば、もっとましになるかもしれない。

シャフハウゼンの滝の上にあるベル・ヴューまでは、わずか三マイルだった。そこまで行けば、気品のある景色が一望できる。ライン川のこの大きな滝は何年か前にも訪ねたことがあった。そのときの記憶よりはずっと立派に見えた。最初に見たときより二度目の方が印象が強くなる景色というのはうれしいものだが、珍しいことではある。夜になると、川はベンガル花火の光を反射して一段とすばらしかった。そして、沸き上がるような水の泡や絶えることのない豊かな水量の流れにその光が当たると、まるで光の川が流れ落ちているようで、魔法のような美しさと華やかさだった。そうした光景はホテルのバルコニーからよく見えた。ホテルにはいろんな国から大勢の旅行者が来ていた。ぼくの隣にはロシア人が、反対側にはブラジル人がいた。

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現代語訳『海のロマンス』25:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第25回)


人食い魚の来襲

船は昨日から暑気(しょき)にあてられた中風病みのように、ブラリブラリと二度目の無風(デッドカーム)を味わっている。

わが練習船も帆前船(ほまえせん)である。先年ドーバー海峡で不慮の災厄にかかった一万二千トン五本マストのバーク型*1のプロイセン号もまた帆船である。ホワイトスター社やキューナードや北ドイツハンブルグ汽船会社等の大会社の練習船もまた帆船である。何故であるか、帆船は石炭を食わぬから……と、世の一般の人々は即答するだろう。それも一つである。因数(ファクター)の一つである。しかし、必須の要点(エレメント)ではない。

わが練習船は大小三十二枚の帆の他に、わざわざ多くの不便と──純帆船に比べると高い──費用とを犠牲にして、立派な補助機関を持っている。時と場合とによってはドンドンと機走をする。氷を作る、電灯をともす。しかし、事情の許す限りは風の慈悲(マーシ―・オブ・ウインド)を頼りに帆走する。風の慈悲にすがるとは、風を受けて進むのを喜ぶだけではなく、風に置いてけぼりを食らわせられるのを喜ぶという気持ちである。真無風(デッドカーム)を楽しむの心である。

青い蒼空(そら)と赤い星(ほし)とを朝に夕にながめ暮らし、しかも単調(モノトニー)を感じないとき、数日にわたる真無風(デッドカーム)を味わって、しかも倦怠(ダル)を知らないとき、われわれは海に慣れたという。最もよく海に慣れたとき、最も長く真無風(デッドカーム)を経験したとき、六十万円の巨額*2を投じて建造された練習船の本来の使命はいかんなく遂げられるのである。このようにしてはじめて、練習船を帆前(ほまえ)にした意味があるというものである。

今本船は、この高貴で偉大な使命の一部を遂行するため、甘んじて無風のうちに逍遥(しょうよう)している。

無風になって、フカが来ないのは、フランス料理にカタツムリが出ないようなもので、コーランを読んでメッカに詣(もう)でないようなものである。物足りないこと、おびただしい。鉛色に悪光(わるびかり)した海は鷹揚(おうよう)にゆらりゆらりとうねって、これでも太平洋かと思わせる。笹舟(ささぶね)を浮かべて吹いたらツイツイと行きそうである。そろそろおいでなさるころだがと思う耳元で、「ホラ、来た」という喜びの声が響いた。

すわ敵が接近したかとばかりに身構える。指さす方(かた)にと眼をこらせば、さても面(つら)憎きまでおさまりかえった敵の振る舞いかな。鋸(のこぎり)の目のような鋭い背びれと、静かに極めて静かに平らに重い水面を破って進み来る様子といったら。美人がにやりと笑うのには不気味なものがあるし、暴君ネロの親切は薄気味が悪い。人食い魚(フカ)*3が静かにふるまう様子は……やはり、すごく恐ろしく薄気味が悪く感じる。船尾の舵で分けられた水が一面に白い軽い泡を吹き、その下に、海の怪物(モンスター)が悠々と長くしなる尾をヘビのようにくねらせている。薄茶の背は直下に見る海の透徹(とうてつ)した色に彩られて、美しい褐色がかって見え、その輪郭(アウトライン)に近づくにしたがって腹の一部分は目も覚めるような深緑色をしている。口とおぼしきあたりは、ただ銀色に光っている。あれで一口にパクリとくるかと思ったら、少なからず興が覚めた。

カツオ釣りの名人にして、アホウドリをとらえるのも巧みだった水夫長(ボースン)は、またこの怪魚の征服者として有名である。フカと聞いて、とるものもとりあえず駆けつけてくる。知己(ちかづき)になろうぐらいの勢いで、さっそく牛肉(にく)の一片を投げてやる。獰猛(どうもう)に寄ってきた怪物は、ユラリとその巨大な腹をひるがえす。その速さ! その軽さ! アッという間に、キラキラと青白く光って落ちていった肉はその巨大な口におさめられた

どうしても針にかからない。「外国のフカは利口だ」と、水夫長(ボースン)が嘆(なげ)く。このとき、一人が「あれ、きれいな小さい魚が──」という。船上から眺める多くの乗員の影法師がはっきりと海面に写っている。多くの眼が一瞬ひかる。ブリモドキとも呼ばれる水先魚(パイロットフィッシュ)である。萌黄(もえぎ)色の細長い体に、暗緑色のシマが見事に列をなしている、二尺ぐらいの小さな魚が四匹。ちょうどフカの案内をするように、鼻先をヒラヒラと喜遊している。どんなに腹が減ってもフカはとって食わないそうだ。それもそのはず、フカはこの魚をダシとして獲物を釣りよせ、水先魚(パイロットフィッシュ)はまた頭部の吸盤でフカに密着して旅行する*4とは水夫長(ボースン)の話(レクチャー)である。「それでは水先魚(パイロットフィッシュ)はちょっと、タバコ屋の看板娘という恰好(かっこう)だね」といって、一同を笑わせたものがいた。



脚注
*1: バーク型 - マストが三本以上あり、一番後ろのマストだけに縦帆を持つ帆船(前側のマストは横帆)。


*2: 六十万の巨額 -物価変動データに基づいて百年前の金額を現在の金額に換算すると、ほぼ二十億円ほど。が、この金額で同規模の帆船を新規建造するのは、現代ではむずかしいかもしれません。
ちなみに、大阪市が二十世紀末(1993年)に竣工させた三本マストの練習帆船「あこがれ」(現「みらいへ」)は、大成丸に比べると二回りほど小さいのですが、建造費は十四億円だったとされています。


*3: フカ -鮫(サメ)と同じ。一般にフカは西日本でよく使われ、古事記に出てくる因幡(いなば)のシロウサギの神話ではワニ(ワニザメ)とも呼ばれている。


*4: 吸盤で - サメとブリモドキが共生しているのは、本文にある通り。しかし、ブリモドキには吸盤はないため、この部分は同じように共生しているコバンザメとの混同があるようです。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 25:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第38回)


宿の主人はぼくのスケッチブックに興味津々(きょうみしんしん)だった。それで、フランス語のできる友人を一人連れてきた。その人はブリキの管でボートを作ったのだそうだ。人が乗るところが補強されていて、腰かけとオール受けも付いている、世にも奇妙な外観をした細身のボートだ。それはぜひ浮かべてみなくっちゃと、ぼくはなんとか彼を説得してボートを川に浮かべさせ、自分もカヌーに乗って伴走した。二艇で近場を巡航した。二本の金属製チューブを並べたボートは、チューブ以外の部分は足の長いクモのように水面から高いところにある。それに比べると、こっちはオーク材で作った木製カヌーで高さも低い。とはいえ、デッキはニス塗りで小粋に光っているし、旗も風になびいている。二艇で並走する。どっちも単独ですら珍しいのに、それが二隻も並んでいる光景は前代未聞だったろう4

原注4: 英国では今ではペダルを漕いで動かす外輪を持つ双胴船をよく見かけるが、動きは鈍重だ。二つに分かれた船体の内側部分が平行な垂直面になっていれば、この双胴カヌーでの帆走は波のない水面では快適だ。

このあたりの川の雰囲気は、スコットランドのクライド川やその河口付近のカイルズ・オブ・ビュートと呼ばれる多島海に似ていた。国境も入り組んでいる。川に沿ってフランスの集落があり、頭上にはイタリアの空が広がっている。ぼくらは大勢のユダヤ人が住んでいるという集落までやってきた。ユダヤ教の礼拝堂(シナゴーグ)を訪れてみたかったのだ。だが、なんと、ここもまたバーデン大公国になっているのだった。しかも、武装した衛兵が油断なく見張っていて、ぼくらが領土に接近してくるのに気づくと、彼は配置についた。ぼくらと正面から対峙し、上陸するんなら、どこか他の場所にしろと命令した。この男は民間人だったが、その命令はもっともでもあったので、ぼくらはその場を去り、スイス側に向かった。そうして、二隻並んでイバラの生い茂る岸辺に上陸したのだった。イバラの草陰にボートを隠し、丘の上にある休憩所に向かった。六ペンスでワインを飲むためだ。

休憩所では、かわいらしいスイス娘が店番をしていて、イギリス人なら一人知ってるわ、と言った。「イギリス人て、みんなプライドが高いから気の毒よね」とも。そのイギリス人は彼女に英語の手紙を書いてよこしたのだそうだ。じゃあ、その手紙を読んでみてくれないかと、ぼくは彼女に頼んだ。手紙は「いとしの君、あなたを愛しています」と始まっていた。手紙の書きだしとしては、それほど高慢ちきと言われる筋合いのものでもない気がした。連れのブリキ製の双胴船の男は、彼女にコーヒーポットを作ってやろうと約束していた。なにしろ、彼がブリキ職人であることは一目瞭然だったし、なんとも好人物のブリキ職人なのだ。

娘はぼくらがボートやカヌーに乗りこむところまでついてきた。そこに彼女の父親がやってきたのだが、娘が二人の男と一緒にいるのを見て目をぱちくりさせていた。アメリアというこの娘は「誇り高き」イギリス人と船に乗ったブリキ職人に手を振って見送ってくれた。ぼくら二人もそこで別れた。ブリキ職人は大きな四角い彩色した横帆を揚げて帆走し、ぼくはといえば、それと反対の川下の方へ漕ぎ下っていった。

「誇り高きイギリス人」──この言葉を口にした娘が視界から消えても、ぼくの耳にはこの言葉が響いていた。そもそも、ある国の人間が他の国の人間を「誇り高い」──言い換えれば、自尊心が過剰だと判断できるものだろうか。というのも、誇りとかプライドというのは、誰でも同じように持っているものではないのだろうか? これに簡単に答えをだせる人は、天から降ってきた哲学者に違いない。なぜなら、イギリス人でもフランス人でもアメリカ人でもいいが、彼らを第一印象で断言するのは簡単なのだ。だが、実際にその国の人々の間で暮らし、本当に知り合った上で、では彼らはどういう人たちかを判断するとなると、そう簡単ではない。

いわく、ジョン・ブル(イギリス人)は自由を獲得した大昔の勝利を、また世界各地に進出し繁栄していることに、またこの世の終わりまで平和が続くという希望を思い描いて自己満足している。

いわく、ブラザー・ジョナサン(アメリカ人)はまさしく十年前に始まり、ぼくらすべてを本当に驚愕させた南北戦争の勝利に誇りを抱いていて、大海原のかなたの大陸で領土が拡大していく輝かしい未来を楽観的に思い描いて喜んでいる。

いわく、フランス人は自国が輝かしい光に包まれていることを喜んでいる。その光は安全な港を示す灯台というよりは、危険が迫っていることを警告する信号であることの方が多いのだが。いや、それよりもっと悪く、危険な火花や大きな音を伴う戦争という大爆発の予兆かもしれないのだが、それでもフランス人は、他の国がその光を見なければならないこと、その騒音を聞かざるを得ないのに最後にどうなるのかわからないでいることを喜んでいる。

いわく、ジョン・ブルは高所から見下ろして満足している。ブラザー・ジョナサンはその高所を見上げて満足している。フランス人は自分の悪行を他者に見せつけ、自分が世界の手に負えない子供(アンファン・テリブル)であることに満足している。

これまで何週間も、ぼくにとっては毎日がピクニックみたいなものだった。だが、この日に限っては、ぼくは夜も航海を続けた。空気はとてもさわやかで、日没の赤い太陽は、やがて昇ってくる白い月と入れ替わる。川もここまで下って来ると、航海には何の危険もなかった。数マイルごとには集落がある。ぼくは月の光の下での航海を十分に堪能し、シュテインの町で上陸した。夜も遅かったので、川辺にはもう人っ子一人いなかった。到着が遅れたときには、よくあることだ。ぼくはパドルで水音を立てて一かきか二かきし、大きな声で歌を歌った。イタリア語にオランダ語、それにスコットランドのピブロックというバグパイプで奏する景気のよい曲だ*1。それに実際の物音も加えた。すると、それを耳にした暇人たちが集まってくる。そうやって必要な人手を集めるわけだ。

集まってきた人々のうちの一人がすぐにカヌーを宿屋に運ぶ手伝いを買って出てくれた。夜も遅く変な客だったが、宿では上品な女将さんが歓迎してくれた。そのときから、すべてがあわただしくなった。英語でぼくと話をしてみたいというドイツ人がやってきたのだ。何もわからず黙って聞いていた他のドイツ人たちと同じように、彼の英語はぼくにもちんぷんかんぷんだった。

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現代語訳『海のロマンス』24:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第24回)


小さきホーム

 四時間の当直勤務をすませた三十人の海賊王の子供たち(シーキングス・チャイルド)は、冷たくなった足を暖めようと期待して小さな寝床へ向かう。

寝床の数は八つ。涼しげな水色のカーテンが引かれた奥に、静かに並んでいる。鈍く光るハンドルを押して入れば、四面を磨いたような白い塗装に反射した海洋(うみ)の光線(ひ)は直ちに瞳に迫ってまぶしいかとばかり視神経を驚かす。拭き清められた二つの舷窓(スカッツル)からあふれ入る海軟風(シーブリーズ)は、芳醇(ほうじゅん)なオゾンの清冽なエキスを五百三十二立方フィートの小さなホームにみなぎらせる。

朝の八時である。ローヤル*1を揚げ、ジブ*2を下ろし、あふれ出るエネルギーにまかせて一気呵成(いっきかせい)に甲板洗いまでこなし、ヘトヘトになった身体(からだ)で、やけにふくよかで暖かい毛布の上に倒れこむ。碧波(なみ)が目もさめるほど窓外にどこまでもつらなっていて、気も遠くなるほどはるかかなたの霞(かす)み匂うあたりまで続き、わずかに一本の髪の毛のような細い水平線(ホライズン)となっている。張り詰めた強弓(ごうきゅう)の弦(つる)のように舷窓(スカッツル)の中央を芋刺しに貫く直線(ライン)は、空の白と濃い青緑色の海をクッキリと二つに断ち切っている。つかのまの休息をむさぼりたい身には、頭をめぐらすことさえ億劫だ。できるだけ瞳孔(ひとみ)を左に寄せて、美しいマドンナの額像を瞳に収める。

ほっと一息ついて一歩部屋に入るときにあざやかに目に飛び込んでくるのが、この清楚(せいそ)なマドンナの像である。ここからこうやって斜めに眺めていると、また別な風な美しさが感じられる。聡明なる額(ひたい)と美しい髪とは、開(ひら)いている舷窓(まど)の縁(へり)に生じる暗い陰影(かげ)の中にうずもれて暗く感じられるが、その慈愛を示す豊頬(ほうきょう)と強い意志を示す引き締まった口とは、さわやかな夏の朝(あした)の光線(ひかり)が穏やかにさし入っている中でも、いとも気高く見える。

クレオパトラの鼻はアントニウス*3を迷わし、アウグストゥス*4をもてあそぼうとした卓絶した武器と聞く。たしかに鼻は──すぐれたる鼻は多くの顔面美の要素を総合し結びつける要(かなめ)の存在である。寝床からはその高尚なローマ風の鼻が横向きに見える。いたずらに鋭くはなく、といって軽薄でもなく、遅鈍(ぐどん)にならない程度に丸みを失っている。なるほど、鼻は美人を支配す、である。まことにいい形である、いい線美(ライン)であると一人で悦にいっていると、けたたましい靴音が上甲板に乱れて、「カッパ、用意」という声が響いた。つづいて「ローヤル、ハリヤード、スタンバイ」*5という士官の号令が聞こえる。スコールが来たらしい。

互いに相手の心を読もうとするように、八つの眼が空中にかち合って激しく火花を散らす。すわっという間に元の静寂(しずけさ)にもどる。あぶない。甲の二つの目が「やっちょるな」とばかりに会心の笑みをひらめかす。ただちに乙が「うん」と受ける。丙(へい)と丁(てい)の目には「気の毒に……」という憐憫(あわれみ)の色がほの見える。四人は再び目をそらしてマドンナを見る。相変(あいか)わらず入口を見つめたまま、気高い尊い表情を示している。横になっている四人の者が起き上がって部屋を出ても、ローヤルは降りても、船がサンディエゴに着いても、四人の者が口髭(くちひげ)をはやして大層な月給をもらうようになっても、依然として気高く尊く入口を見つめていることだろう。

甲が会心の笑みをもらしたからといって、丙と丁とが憐憫(れんびん)の光を見せたからといって、マドンナの像を奥ゆかしく思って眺めていたとしても、この八フィート立法の狭い空間で何かを刷新する運動でも起こそうというのではない。一室八人、十六のホームをして各自、自分のことは自分でするという自治の精神を会得せしめ、自分らの部屋や自分らの受持区域(パート)は自分らで治め、自分らで営み、決して他の部員に笑われないようにせよという一等運転士(チーフオフィサー)の方針は、すこぶる賢い方法である。

かくて十六の小さい自治の王国や侯領(こうりょう)がおのおの研鑽し錬磨して、やがて三十人の四分舷直(コーターワッチ)はその面目を発揮し、六十人の左右の両舷ただちにその出色をほしいままにし、百二十五のミカドの練習生はサクソンやゲルマンの船員たちと舷(げん)を並べマストを連ねてもあえて遜色のない水準に達することができる。何の肩書も特権もない外交官として、任命書を持たない使者として、強くたくましい平和の戦士として、千里の外に国民が広がっていく先駆となすことができる。



脚注
*1: ローヤル - 帆船で微風のときにマストの最上部に展開する横帆(ロイヤル・セイル)。


*2: ジブ - マストの前に展開する縦帆。

*3: アントニウス - 共和制ローマの政治家マルクス・アントニウス(紀元前83年~紀元前30年)。
エジプトのプトレマイオス朝最後の女王クレオパトラと昵懇(じっこん)だったとされるシーザー(カエサル)の部下で、その死後は第二回三頭政治を行った三頭の一人となった。シーザーの死後、クレオパトラと親密な関係になり、最後にはライバルのアウグストゥスに滅ぼされた。

*4: アウグストゥス -シーザー(カエサル)の姪の息子で、第二回三頭政治の三頭の一人。
後にローマ帝国の初代皇帝(紀元前63年~紀元14年)。

*5: ローヤル、ハリヤード、スタンバイ - ローヤルは微風用なので、風が強くなると下ろすことになる。ハリヤードは帆を上げ下げするロープで、「ローヤル、ハリヤード、スタンバイ」は「ロイヤル・セイルを下ろすため、担当者はハリヤードを持って待機せよ」という意味になる。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 37:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第37回)

言葉が通じない海外で話をするとなると、絵を描く必要がでてくる。これは、アラブをのぞけば、身振り手振りよりもずっといい。ロシア中央部のニジニ・ロヴゴロドの市場を訪ねたとき、ぼくは「中国人街」で多くの時間をすごしたのだが、チン・ルーという中国人と話をするのがとても難しかった。身振り手振りも役に立たない。だが、連中は茶箱に赤いロウを持っていて、そばには白い壁があった。そこで、ぼくは自分のやっていることについて英語で説明しながら、同時に白い壁に赤いロウで絵を描いてみた。すると、それが興味を引いたらしく、中国人やロシアのカルムイク人、それにどこの国かわからないが異国風の人々が何十人と集まって来るではないか。自分が伝えようとしていた相手の集団は、ぼくの言いたいことを完全にわかってくれたように思えた。

というわけで、カヌーに上達したら、次は通じやすい身振り手振りを覚え、ちょっとした筆記具を携帯しておけば、飢え死にすることもないし、寝るところが見つからないということもなく、ずっと遠くまで、いろんな土地やそこの人々と知りあって楽しく旅を続けることができる。

ヴォルガ川からライン川に話を戻そう。ツェラー湖(またの名をウンター湖)に入ると、流れはずっと穏やかになる。コンスタンス湖の景色に比べると満足できるとまではいえないが、冠雪した山々を背景に持つこの湖は美しくはある。しかも、残念ながらコンスタンス湖には島がなかったが、このツェラー湖にはいくつかあって、そのうちの一つはかなり大きいのだ。ぼくが到着する前、フランス皇帝*1が湖畔の城に二日滞在していたらしい。カヌーで旅している男がやってくると皇帝が知っていたら、もう一週間ほど滞在を延ばしていてくれたのではあるまいか3

皇帝陛下と朝食をともにするには遅すぎたとはいえ、ぼくはカヌーを漕いでシュテックボルンの村に入った。文字通り川の縁に宿屋が一軒建っていて、川旅をする者には便利この上ない環境だ。ライン川のこの付近では、こうした場所をよく目にした。そういうところでは、パドルを手に持ったままドアをたたき、犬に吠えられたりもせず食事を注文できる。熱々のジュージュー音を立てている食事にありつけるのだ。テーブルの支度ができるのを待つ間、カヌーの荷物を整理し、カヌーを窓辺のバルコニーに係留しておく。朝食や食事をとる間も、休憩したり本を読んだり絵を描いたりしている間もずっと、自艇は目の届くところにあるわけだ。

経験から学んだことだが、子供というものは、どんなやんちゃな子であっても、川に浮かべてあるカヌーにちょっかいを出す者はほとんどいない。だが、大人は別だ。どんなに好人物でも、小さな舟が岸辺に残されていたりすると、それを引っ張ってみたり、つっついてみたりしないと気が済まないらしい。



原注
3: この皇帝とカヌーについては、次の記事が参考になる。この記事は四月二十日(皇帝の誕生日)の「グローブ」誌に掲載されたものだ。


「今朝発行された1866年4月6日付の布告により、大臣は、1867年の万国博覧会において、プレジャーボートおよび河川の航行に付随する技術と業界に関連するすべてについて特別展示を行う団体のための特別委員会を設置する。この措置は、素人愛好家の航海が過去数年間に担ってきた重要性を示し──報告書で示されているように、この新しいスポーツに名誉を与えるもので、フランスにおいてこれが発展することを長く妨げてきた古く馬鹿げた偏見をなくすことにつながると考えられている。なんでも英国風を好む皇帝は、特に英国のスポーツすべてを模倣して取り入れることを積極的に後援するようになっているが、マクレガー氏の『ロブ・ロイ・カヌーの航海』を読んだ後、カヌーを展示するよう提案したと言われている。『ロブ・ロイ・カヌーの航海』では、プレジャーボートは単に楽しいだけではなく、フランスの若者たちに人里離れた未知の川や渓流を一人で探検するという多くの新しい発想が展開されている。」


バルト海での航海に用いたロブ・ロイ・カヌーはパリで開催されたこの博覧会に展示された。皇帝はセーヌ川でこのカヌーの性能を自分の目で確かめ、すぐにサールから姉妹艇のカヌーを購入し、それを王位継承者に与えた。この継承者はロイヤル・カヌークラブの一員となったとき、愛艇をローヌと命名し、船長とカードを交換するという良き慣習に従った。

訳注
*1: フランス皇帝 - ナポレオン三世(1808年~1873年)。フランスの英雄ナポレオン・ボナパルトの甥(ルイ・ナポレオン)のこと。
ドイツとの普仏戦争で捕虜になった後、晩年は英国のロンドンですごし、その地で没した。


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現代語訳『海のロマンス』23:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第23回)


水の上で水の苦労

「事業やめ五分前」という風下当番(リーサイド)の予告に、今日もまたこれで平安に暮れたという、ちょっとのどかな気分が人々の胸に浮かぶころ、午後三時半の事業やめのラッパが心地よく、あまねく響きわたる。

フィラデルフィアの鐘*1が独裁(ティラニー)と独立(リバティ)との鮮やかなる分界線をなしたように、このラッパの音は力仕事と遊戯との鮮やかな境界線である。このラッパを境にして、二つの相異なれる性質と内容とを有する王国が隣(となり)あっている。本船では、左右両舷の当番の交代により、午前は九時より十一時半まで、午後は一時より三時半まで、二時間半の日々の作業がある。帆縫い、錆(さび)おとし、ペイント塗り等がその主な成分(エレメント)である。


*1: フィラデルフィアの鐘 - アメリカの独立や奴隷解放などの節目に、この鐘が鳴らされ、自由独立の象徴となっている。 現在は「自由の鐘」と呼ぶのが一般的。

三時半から七時半までの四時間を子供時間というのは、すこぶるゆかしい響きを与える。輪投げに二つ勝った、三つ負けたと、大の男が互いにシッペをしあっていると思えば、一方には、甲板球技(デッキゴルフ)にAは2、Bは5と血眼(ちまなこ)になって勝ち負けを争っている。ある者は船倉蓋(ハッチ)の上で禅ざんまいの瞑想にふければ、船首楼(フォクスル)で岡田式静座法で肺と横隔膜の操(あやつ)りに夢中の者もある。この労苦(ろうく)から放楽(ほうらく)に移る瀬戸際に立って思い切りの悪い雨雲のように、うろうろと歩きまわっている者がある。真水(みず)当番がこれだ。

一号から二十二号に分かれた十六の部屋から毎日一人ずつの真水(みず)当番なるものを選出して、一室八人が使用する真水(みず)が支給される。本船は品川を出帆するときに総容積七百トンの船槽(タンク)にいっぱいの真水(みず)を積みこんできたが、三時半のラッパを合図に真水(みず)士官とも呼ばれる四等運転士(フォース)が来て真水用のポンプの鍵を外す。薄汚い事業服(ジャンパー)を着た十六人の男が三つずつ小桶(バケツ)を持って中甲板(ちゅうかんぱん)に集まる。見ようによっては、鮫ヶ橋(さめがはし)近辺の共同井戸の光景(さま)とも思われるだろう。

一つの小桶(バケツ)にはほぼ五升(しょう)ほどの真水(みず)が入るので、一人一日が使用できる水の量はわずか二升である。この二升の水で顔も洗えば口もすすぐ。なかには冷水摩擦などとしゃれるのもいる。その使い方の細かいこと、細かいこと、なかなかの手際で、鮮やかだとほめてやるべきである。海水(みず)の上で真水(みず)に不自由するのは、銀行に勤めて金に不自由するようなもので、医師を商売にして病気をやるように、また嘘の花柳界(ちまた)に育ってもだまされるように、皆、前世の宿縁(しゅくえん)である。船乗りに向かって海水浴を平常(へいぜい)するから体が丈夫になるだろうとか、海からの生魚を直ちに口にするのはうらやましいなどと言ったら、それこそ大変! 神経質な船乗りはそれを比喩的(アイロニカル)な喧嘩(けんか)を吹っかけていると早合点するだろう。

おっと話が上陸した。そうそう、そこで十六人がわれがちに飛びつく。いの一番にかけつけた者が水を一番先にとるのだから、横着者(おうちゃくもの)は気の毒にも呆然として、十五分ほどは立ち続けて待っていなければならない。後から行ったものは、たちまちベヤリ損(そこ)なうことなる。

弥生が岡の寮舎(りょうしゃ)にコンバル、ギキョルなどの新語があるように、練習船の中にもベヤル、コミヤルなどの珍熟語がある。ベヤルはいわゆるベヤリングをとる(方位を知る)の省略(アブリビエーション)で、着目するとか先鞭(せんべん)をつけるとかいう場合に用いられる、外国の港でスタイルのよい金髪の女性が客としてたくさん来るときなどは、盛んにこの言葉が用いられる。コミヤルはヤリコメラルの反対で、コッソリ失敬するとの意味である。

せっかく汗水たらして汲(く)んできた真水(みず)を、いつの間にかコミヤられて落胆(がっかり)することがしばしばある。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 36:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第36回)


スイスの国境付近のホテルでは一般にドイツ語とフランス語のどちらも通じるし、人々はこうした外国の旅行者の相手をすることにも慣れている。

とはいえ、村をめぐる川旅では、こうした便利なウェイターや複数の言語ができる案内係がどこにでもいるというわけではない。つまり近くにいる人とか、ぶらぶら歩いている通行人に話しかけるしかないわけだ。

言葉が通じない外国からの旅行者と頻繁に接する機会のある人々は、少しずつ「身振りで示す言葉」を習得していく。互いに同じような仕草をやっていると、仲間意識も芽生えてくる。そうなってくれば土地の方言とかなんとかってことも関係がなくなって、カヌーを運ぶ手伝いをしてくれる人を見つけたりするのも簡単だ。つまり、こんな風にやるのだ。

まずカヌーを岸につける。カヌー内部を片づけ、スポンジで水を拭き取ったり、スプレースカートを外したりしていると、そのうち人々が集まってくる。そこで、ズボンのベルトを締め直して歩く用意を整えておく。、ニコニコしながら周囲を見まわし、気のよさそうな人を探し、英語で丁寧に次のようなことを話しかける。身振り手振りは、自国語でその内容を説明しながらやると、より自然にできるようになる。「え~と、ずっとご覧になってたので、ぼくが何をしたいかわかりますよね。これからホテルに行きたいんですけど、そう、ヤ・ド・ヤ。ほら! あなた、──そう、あなたですよ! カヌーのそっち側を持ち上げてくれませんか、そう──そっと、ね、ゆっくり、ゆっくりですよ!──いいよ、そう、腕の下に、こうやって。そう。じゃ行きましょうか、ホテルまで」

となると、自然に行列ができる。子供たちが面白がって先導してくれる。そういうのが好きな子供って、どこにも必ずいるものだ。ギリシャ神話の上半身が人間で下半身が馬のシーレーノスを取り囲む家畜神のファウヌスのように、皆がカヌーを取り囲み、踊るように飛び跳ねたりしている。女たちはそれを見つめたまま、群衆が通り過ぎるまで、おとなしく待っている。土地のお年寄り連中は行列から少し離れた安全なところにいる。こうした行進は、じっくり眺める価値があるのだろう。
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というような具合に、身振り手振りで何かを伝えたいときには、それにあわせて、彼らがわかるような名詞や副詞をその国の言葉で一言、口にするだけで足りる。その代わり、はっきりと発音し、正確に使う必要がある。それが相手にうまく伝わりさえすれば、後は無言でも、全体として間違いだらけの下手なドイツ語でも、うまく理解してもらえる。

とはいっても、その肝心の名詞が思い出せなかったり──あるいは、そもそもそういうことすら下調べしていなかったり──した場合でも、しっかり考えてやれば、それなりに分別のある人が相手の場合は身振り手振りでもかなりの程度正確に伝えることができる。こんな風に──

少し前のことだが、北アフリカのチュニジアにあるカルタゴを出て、アルジェリアの海岸沿いにカヌーで旅したことがある。案内人は、現地で見つけた生粋のカビル族の男だった。どこに行きたいかについては、あらかじめ彼と契約し、訪問地のリストを作っておいた。ところが、その案内人は、ぼくが訪問を希望していた場所を平気で通り過ぎていくではないか。

ぼくはそれを伝えようとしたが、どうしても通じなかった。というのは、ぼくのアラビア語はシリアで覚えたもので、彼の言葉とは発音が違っていたのだ。そうしたある夜、ラバを飼っている集団と出会い、長老がぼくらをジプシーの馬車のような小屋に泊めてくれた。そこで、ぼくは英語で話しながら身振りで目的地について長老に説明した。この案内人はぼくの希望する場所を通り過ぎてしまったのだ、と。それから、ぼくはその場所の名前を発音してみたのだが、全部違っているか、相手にわからせることはできなかった。その場所は「マスクタイン」とか「魅惑的な水域」と呼ばれているのだが、火山性の美しい渓谷で、いたるところで水が沸き上がるように流れ、小さな塩の山ができているところだった。

月の光に照らされて座りながら、身振り手振りでこのむずかしい場所について伝えようとした。ぼくはパイプを砂に浅く埋め、手に水をくんだ。アラブ人はこうした身振り手振りの言葉が好きなので、長老は穴のあくほど見つめている。ぼくは掌の水をパイプのボウルの火に上から降りかけ、吸い口から息を吹き込んでそれを砂ごと吹き飛ばした。その間もずっと英語では説明をしているのだ。同じことを再度やってみた。すると、このイシュマエル*1の子孫の黒い瞳がパッと輝いた。彼は額を打ち、飛び上がった。「わかった」と言っているのだ。それから彼はいびきをかいていた連れのガイドをたたき起こし、大きな声でそのことを教えた。それで、ぼくらは翌日、ぼくが行きたかった場所にまっすぎ向かうことができたのだった。



訳注
*1: イシュマエル - 聖書の創世記に出てくるユダヤ教、キリスト教、イスラム教を信仰する人々の始祖とされるアブラハムの長男。

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現代語訳『海のロマンス』22:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第22回)


無線電信

どこか天空から断続的にぶきみな音が聞こえてくる。薄い鼓膜に耳に残る波調(リズム)を与え、非音楽的な共鳴を起こさせる間隔をとって、細かくきざんだツゲのクシの目を逆なでしたような音がしたと思うと、ピカピカッピカピカッと長短(ちょうたん)相連続(あいれんぞく)する青い閃光(せんこう)が後檣(ミズンマスト)の空を激しく彩(いろど)った。

午後八時から初夜当直(ファーストワッチ)に立っている三十人六十の眼(まなこ)は一斉に、百メートル四方の闇の空に飛ぶ。波は平らで雲もない穏やかな夜である。空中にある電気のエーテルの弾力性(エラスティシティ)は最もよく安定しているだろう*1。無線電信にはもってこいの夜だと言わねばならぬ。青い閃光はくだけて夏の空に散りばめられた星になったかと思うほどに飛散して光っている。その闇の空に向けられた人々の眼(め)には、欣喜(よろこび)の色があふれている。

母国での最も荘重なる、最も偉大なる、最もめざましいできごとを見ることができないのは遺憾(いかん)の極みである。せめては一瞬も早く事の成り行きを知りたいというのが、四千海里離れた船上にいる二百人の日本臣民の悲しき衷情(ちゅうじょう)である。無線電信は二十日ぶりに八百海里をへだてたサンフランシスコの領事のもとに打たれたのであった。年号が大正となったと、誰やらがしたり顔で噂をしている。大正は大成に通じるという喜びもある。

しかし、住みにくい世の中をのがれ、誘惑の多い刺激と色彩の追っ手の眼をくらますには、船に乗って悠々と大海原に浮かび出るにかぎる。霞(かすみ)を食らい露(つゆ)を飲まずともすむわけである。盛者必滅(せいじゃひつめつ)色即是空(しきそくぜくう)と観(かん)ぜなくてすむわけである*2

そういう者には、無線電信はいらぬおせっかいである。呪詛(じゅそ)すべき仇敵(きゅうてき)である。憎むべき外道(げどう)である。マルコーニはデビルに相当することになる*3。陸上(おか)から二千海里の沖に出たときにはじめて、世間のしがらみのない別世界にたどり着くわけで、そうなると、自(おの)ずから微笑が浮かんでくるだろう。すべての人間社会の権威や約束や情実などとは関係のない大自然の懐(ふところ)に入るのだ。一生涯このような境地にあるのは無理だとしても、一月(ひとつき)でもよろしい。一日でもよろしい。永劫より永劫に続く、時の流れの一瞬をつかみ、ごく短い間でも心の落ち着きを勝ち得たならば、その分だけ陸上(おか)の煩瑣(はんさ)な生活に比べて幸福だろう。

昔、陸上(おか)に住む人間がこう言った。周囲の海は清く、天下泰平(てんかたいへい)である。しごく平穏なので、吾、これから酒を飲もう、と。いかにものんきそうである。いかにも虚心坦懐(きょしんたんかい)のようである。しかし、その次に、たちまち酔って下手な踊りを踊る、ときた。これだからウンザリする。いくら酔ったって、いくら太平だったって、下手な踊りでは何の役にも立たない。祈祷(いのり)の席で、あくびをしたよりもひどい。船の上ではいくら踊りを踊っても、人としての情などない海を相手では、手ごたえがなかろう。無線電信で耳元で青い火を出してジッジッと来るまでは、吾、まさに酔わんとす、である。海という詩境に逍遥(しょうよう)することができる。すべての煩悩(ぼんのう)や絆(きずな)から解脱(げだつ)することができる。何を好き好んで利害の風に吹かれたいのだろう。何のために浮世(うきよ)の音をききたがるのだろう。……と、ふいに自分は大成丸の船上にいる一人であって、船はすでに一時間五マイルの速力で無線電信の有効距離圏に入っているのだと悟ったとき、いくらもがいても駄目(だめ)だと思った。

だからサンディエゴを出帆して再び海に出るまでは、この世間と没交渉の別世界については、当分見合わせとする。そのサンディエゴには、手紙というすこぶるつきの人間世界のしがらみの束が届いているに違いない。ヤレヤレ。


脚注
*1: エーテルの弾力性 - かつてアインシュタインの特殊相対性原理や光量子仮説が登場するまで、エーテルは「宇宙に満ちている物質」で、光の波動説では「光を伝えるもの」とされていた。
今の知識では意味不明に思われるが、ここでは無線電信の電波の伝搬状態がよいことを述べている。


*2: 盛者必衰、色即是空 - 前者は平家物語でよく知られているが仏教の無常観に由来し、後者も仏教の般若心経に出てくる言葉で、いずれも世の中が無常であることや万物は空であるといった趣旨。


*3: マルコーニ -グリエルモ・マルコーニ(1874年~1937)はイタリア出身の発明家で、無線電信の発展に貢献したとしてノーベル物理学賞を受賞している。
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ヨーロッパをカヌーで旅する 35:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第35回)


ここから湖の反対側にあるコンスタンツの町まで漕いでいくのは楽勝だった。とはいえ、そこには税関があり、これを避けて通るわけにはいかない。「カヌーの検査が必要です」「かまいませんよ、どうぞお調べください」というやり取りをしたものの、担当者の上司が不在だったので、明朝までにカヌーを税関まで運んでおいてくれ、という。この件で議論をし、一時間も無駄にした。ぼくはまず「スイスは自由なんじゃないのか」と抗議したい気持ちだ。とはいえ、コンスタンツはスイスにあるのではなかった。この場所は、厳密にはバーデン大公国になっていて、「大」公国という名前を守るために重箱の隅をつつくようなことをやって旅行者を閉口させているわけだった。気のいい地元の人が一人、そういうお役所仕事は恥だと思ったみたいで、カヌーを調べて問題がなければ通してやれよと説得してくれた。

その担当者はまるで三千四百トンもあるブリッグ型帆船でも調べているかのように、小さなカヌーの検査にたっぷり時間をかけた。で、その検査が船尾まで達したところで、ぼくはおもむろにカヌーの隔壁にある丸い穴を指さした。彼はその穴をのぞいた。人だかりができていたが、沈黙して見守っている。穴からのぞいても真っ暗で何も見えない(実際、何も入ってはいないのだ)。お役人は厳かにカヌーについて「入国可」と宣言した。というわけで、晴れてカヌーをホテルまで運ぶことができたのだった。

とはいえ、コンスタンツは、ヤン・フスという、実際に「大」という尊称をつけたくなる、真実を探求する気高い殉教者*1とも縁のある土地なのだ。公会堂では、数百年前にヤン・フスが投獄されていた正真正銘の独房があり、以前に旅行でここを訪れたとき、ぼくは塔から望遠鏡でそれを眺めたことがある。ヤン・フスは鉄の棒で串刺しにされ、火あぶりに処せられた。そのため、彼の偉大な魂は、燃え盛る薪(まき)の山を脱して昇天した。

報復を、ああ、主よ、あなたの聖徒が虐殺され、その骨は凍てつくアルプスの峰々に
捨てられてしまいました
神父たちがことごとく物や石ころをありがたがっているときでさえ
純粋にあなたの真理を守り続けていたというのに

ミルトン*2

ライン川は川幅が広かった。水深があって、かすかに青みがかっている。透きとおっていて、水面下のものもよく見えた。小石まじりの川底は下の方からカヌーへ向けてめくれあがってくるようだったし、集落にある教会なども土手の上で静かに回転しているようだった。川ではなく、土地とそこにあるものの方が動いているように思えた。それほどに川面は鏡のようになめらかで、川はおだやかに流れていた。

この川でもまた漁師を見かけるようになった。立派な網を仕掛けたりしている。さらに、川には四本の杭(くい)の上に建てた標的小屋もあった。標的というのは、一辺が六フィートほどの巨大な立方体である。川の中にある柱の上に設置された別の小屋から、その標的に向けて射撃がなされるのだ。巨大な木片の背後の安全なところに隠れた記録係が、巨大な木片を縦軸に沿って回転させて銃痕を修復し、当たった位置を知らせていた。

コンスタンツ湖はボーデン湖とも呼ばれるが、湖を離れてライン川に入るとまもなく、水路の幅が急激に狭くなった。川幅は逆に幅一マイルか二マイルほどに広がっていた。つまり、あちこちに草の生い茂る島ができていて水路が枝分かれしているのだ。長い棒を差し込んでみると、水の勢いに押されて揺れ動くのがわかる。蒸気船の航路は非常な回り道となっているが、カヌーはそういうところでも快適に飛ぶように流れていくことができる。丈の高いアシの茂った島の背後には、それぞれきまって釣り船がいて、川底に打ちこんだ二本の杭に係留されていたり、釣り船の主が片手でオールを操って音もなく漕ぎながら、魚がいそうな淀みに向かって移動したりしていた──かなり新しいやり方だ──その漁師のもう片方の手は網を繰り出しているのだ。粗雑な造りの荷船も浮かんでいた。深くて流れのあるところでは、なすすべもなく、ぐるぐる回っていたり、巨大な四角い帆を揚げてもっと深い方へ向かおうとしていたり、あるいは無風状態で巨大な四角い横帆が垂れ下がっていたりした──帆の外観については、上下に幅広の紺色の線が二本引かれていた。帆ということでは、ジュネーブの先端がとがった大三角帆*3を広げた様子、特に二本マストで白い帆をこちらに向けて穏やかな追い風を受けて両舷に二枚の帆を展開している様子は、艤装という観点からは、巨大な横帆よりはずっと優雅に見える。

このあたりの川底はかなり起伏があって流れも速いので、ところどころで大きな渦ができている。しかも沸騰するように下から突き上げては盛り上がり、また奇妙な崩れ方をしたりしていた。そしてまた、さっと大きな円を描くように渦をまいてから前方へと進むのだ2



原注
2: こうした大渦は、慣れていないと、接近するにつれて非常な注意が必要に思われるが、そうたいしたことはない。というのは十分に水深があるので、渦はカヌーをひねるように傾けて回転させようとするだけだ。帆を揚げているときは別だが、そう気にすることはない。後戻りしていないかだけ注意していればよい。こうした渦の一つを全速力で横切ってみれば、バウの突然の動きにパドルで対抗する必要すらないことがわかるだろう。何かがカヌーの航行に干渉するわけではなく、そのままこらえておいて、それから渦と逆の方向に漕いでやれば何の問題もない。
 

訳注
*1: ヤン・フス(1369年~1415年)は、チェコ出身の神学者で宗教改革家。歴史的に見ると、マルチン・ルターの宗教改革より百年以上も前から、さまざまな宗教家がカトリック教会の腐敗を糾弾していた。
ヤン・フスもその系譜に連なる一人で、ローマ・カトリック教会を非難したために破門となり、1414年のコンスタンツ公会議で異端として火あぶりの刑にされた。
 

*2: 「報復を……」 - 『失楽園』で知られる十七世紀・英国の詩人ジョン・ミルトン(1608年~74年)の「ピエモント山の虐殺」と題するソネットの冒頭。
1414年~1418年にコンスタンツで開かれたローマ・カトリック教会の公会議で、ヤン・フスは異端とみなされ火刑に処せられたが、この詩はその出来事に触発されたもので、教会の腐敗に対して「神に報復を求め」ている聖書の黙示録の一節(6-10)を下敷きにしている。

*3: 大三角帆 - 帆の形やリグ(艤装)については、こちらで図解しています。

帆(セイル)やヨットのリグ(艤装)による分類と名称

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現代語訳『海のロマンス』21:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第21回)


船に無賃乗船した生き物たち

本船が七月十八日に房州(千葉県南部)の一角から辞し去ったとき、三種類の生き物が勢力を増やそうと、この世界的大旅行の途(と)に加わった。すなわちネコと赤とんぼとハエである。ネコは前に述べた船随一の愛嬌者である。

けなげにも一人、雄々しくも、なつかしき故郷の山野を離れ多くの仲間と別れて、本船に舞い込んだ赤とんぼ君は、二、三日の間はその美しい姿を船室(キャビン)の中に輝かせていたが、船が北上するにつれて加わってきた寒気のためにか、露が多く空気が冷ややかなある朝、そのあわれな最後の姿が後甲板の上に見出された。

最後に登場するハエこそ、世にも横着にして動いてやまざる底(てい)の不敵な曲者(くせもの)である。室町幕府の知恵袋といわれた細川頼之(ほそかわよりゆき)*1を出家させて以来、ハエはうさんくさいもの、しつこいものと相場が決まった。四枚の羽と六本の足でさえだいぶ厄介であるのに、複眼という八方にらみの怪しい道具を頭につけている。ときどきは造物主の持つ気まぐれな、いたずら好きの一個性をつくづくうらめしく思うことがある。こんな奇妙な動物を人間の厨房(キッチン)や居間に放った造物主の行動はすこぶる皮肉である。冷ややかなアイロニーである。いろいろの妖怪変化(ようかいへんげ)をパンドラ姫の箱に入れたジュピターの悪戯(いたづら)と同じである。いままで梁(ビーム)におった一匹のやつがブーンと不気味にうるさい音をだして降って来たと思ったら、自分の当然の権利であるかのようにゆらりと筆の先にとまる。じっとしばらくその行動を注視する。

悠々(ゆうゆう)として慌(あわ)てず急がず、後足をくの字に曲げて薄い羽をしごいている。しゃくにさわったから軽くフーッと吹いてみる。それでもいやに落ち着いて、静かに片方の二枚の羽と三本の足を動かして巧みに元の姿勢に戻り、効力の平均(バランス・オブ・エフィカシー)という力学的証明を最も簡単に最も愚弄(ぐろう)する方法でやってのける。愛想もこそもつき果てて、ただ見ていると、図に乗って今度は前の二本足を熊手のように動かし、例の傑物の眼をでんぐり返るほどゴリゴリとこする。やりきれない。ヒョーッと突然(だしぬけ)に一大陣風(スコール)を口から吐き出す。少しはひるんだろうと思ったら、パッと飛んでツーと電光石火(でんこうせっか)のごとく眉間(みけん)の真ん中にへばりついた。いまいましいと思って、十分の用意と成算とをもって、くたばれとばかりに額を打ったら、いたずらに悄然(しょうぜん)たる響きを残して高く飛び、舷窓(スカッツル)の縁(へり)にいた仲間の一つに飛びついた。付和雷同(ふわらいどう)と模擬踏襲(もぎとうしゅう)との両性能の活用において、ハエは犬にも劣らぬ豪(ごう)の者である。

一波起こって万波生じる。一匹の奴がさわぎだしたらもうだめだ。喧々囂々(けんけんごうごう)と百畳の食堂は一面にただハエの羽音のみだ。本船には種々の生の食料が保管されており、日々の献立(メニュー)を塩梅(あんばい)する衛生係は三人の学生が担当している。今、一人の衛生係が黒板に何か書いている。

今やハエはわれらの仇敵(あだ)となった。うるさいこと、おびただしい、諸君、とろうじゃないか、衛生部はこの犠牲的努力に向かって寸志を提供する。

    一、ハエ三十匹ごとにサイダー瓶一本
     一、ハエを追ってみだりに士官室に飛びこまないこと

と。
敵将を得たる者には報奨金と領地を与えるとは、春秋時代からの論功行賞の目安である。サイダー瓶一本はすこぶる奇抜(きばつ)である。

ただでさえ長航海の無聊(ぶりょう)に苦しみ、何かないかと手ぐすね引いて機会を狙っている連中である。
ワーッと鬨(とき)の声をあげて歓迎したのも無理はない。ある者は草履(ぞうり)を片手に天井を望んで震天動地(しんてんどうち)の大活劇を演じている。ある者は石油を入れたコップを持って巧みに壁間のハエを誘殺し、孔明の七縦七擒(しちしょうしちきん)の妙計*2を学ぶもの、用意周到に罠(わな)をしかけて待つ者、食堂はたちまちの間に一大修羅場(しゅらば)となった。なかには遠く厨所(ギャレー)や船倉(ホールド)にまで遠征して、にわかごしらえのハエ取りウチワや棕櫚(シュロ)の箒(ほうき)を手に普段は行かないところまで遠征して大量に捕獲した者もある。

多人数の努力というものはおそろしいものだ。さしも真っ黒に見えたハエ群も見事に全滅しさった。ついて衛星係に聞けば、サイダー瓶の支出百四十四本、ハエの死骸は実に四千三百二十と。テルモピレーの激戦*3も奉天の大勝利*4も一歩譲るだろう。



脚注
*1: 細川頼之(ほそかわよりゆき) - 室町時代の守護大名で幕府の管領(かんれい)を務めた。京都の地蔵院(臨済禅宗)に頼之の木像と墓がある。


*2: 孔明の七縦七擒(しちしょうしちきん)の妙計 - 中国の春秋三国時代の英雄・諸葛孔明(しょかつこうめい)が敵将を捕獲しては釈放するという硬軟両方の措置を使い分けて敵将を心酔させるに至ったことから。
原文では七擒七縦(しちきんしとちしょう)となっているが、一般に用いられる語順に改めた。意味は同じ。


*3: テルモピレーの激戦 - 紀元前五世紀のペルシャ戦争におけるギリシャ軍とペルシャ軍との戦闘。ギリシャ軍の中心だったスパルタ国の兵士三百人が全滅したとされる。


*4: 奉天の大勝利 - 日露戦争(1904~1905年)最後の大規模な戦闘となった奉天会戦。

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