現代語訳『海のロマンス』87:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第87回)

五、スコット大佐の弔慰(ちょうい)祭

ぼくらの船がケープタウンに入港した際、最も人気のある重要な時事問題は、議会の開会とスコット大佐*の哀悼(あいとう)会であった。

* スコット大佐: ロバート・ファルコン・スコット(1868年~1912年)。英国の海軍軍人・探検家。
大成丸が世界周航に出発した一九一二年、スコット隊は二度目の南極大陸探検で南極点に到達したものの、先着争いでは犬ぞりを使ったノルウェーのアムンセンに敗れ、その帰途に遭難し死去した。

スコット大佐はその最後の偉大なる航海に出る前、その航海準備のため長い間、ケープタウンのそばのサイモンス湾に滞在し、自然にケープタウン人士とも密接に往来していたため、極地におけるその悲壮なる最後は甚大(じんだい)なる痛ましき反響をケープタウン及び付近の人心に与えて、同情や哀悼(あいとう)の声はいろいろの行事において具体的に現れた。二月十四日、カテドラル寺院の弔慰祭(ちょういさい)もその具象化した哀悼(あいとう)の表現の一つであった。宰相ボタ将軍以下の内閣大臣、市長ハリブ氏、アドミラル(提督)キングホール、ゼネラル(将軍)ヒックマンという陸海の両将軍等、南アフリカの重要人物が参列し、重々しく厳粛(げんしゅく)な宗教儀式が行われた。 続きを読む

現代語訳『海のロマンス』86:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第86回)

三、温和な気候

さすがに鳥の悲しさである。客観的に考えることのできない春のヒバリは、自分ほど上手に歌いうる者はなかろうと信ずるゆえに、身も世もなく空で短い春の日を惜しんで鳴き続ける。自分ほどに空高く舞い上がりうる者はあるまいと信ずるゆえに、薄き翼の焦(こ)げるのも忘れて、春の太陽(ひ)近く飛ぶ。ケープタウンの住民が、ケープタウンの気候は温和(モデレート)だと自賛するのも、このヒバリに似たところがある。彼らは言う。

「およそ世界広しといえども、ケープタウンおよびその周囲のごとく、一年を通じて気候より来たる生活状態の障害を度外視(どがいし)することのできる土地はあるまいと」

うぬぼれるのは各人勝手である。ただ人間は現に自分がうぬぼれつつもなお、わが信ずるところが単なるうぬぼれにすぎないと他人から笑われたくないという矛盾した思いを抱えているため、ただちにこの問題を他人の判断に訴え、なるだけ色よい賛成の返事を得てようやく安堵しようと努める。勝手なものである。ここにおいてか、お世辞(せじ)迷惑なるものが起こり、巧言令色(こうげんれいしょく)なるものが生じる。

「ケープタウンの気候(ようき)はどうお考えになりますか」と聞かれたとき、汽車にロハ(無料)で乗せてもらったり食事に招(よ)ばれたりしている身には、「はい。しごく結構で快適な気候(ようき)です」と、相手に調子をあわせるより他は答えようもない。ところが、上着一枚下は滝のような汗をかいており、ワイシャツもカラーも汗が染み出して目も当てられないしだいである。

ある本に、こういうことが書いてある。

「模糊(もこ)たる水平線のかなたにテーブル・マウンテンの青い姿を見いだした人々の胸には、炎暑地(ヒート・アショア)として名高いケープタウンがすぐに想起された。あそこはどんなに暑いだろうと期待する人々も五、六マイルの近距離に近づいてなお依然(いぜん)として涼しくて爽(さわ)やかであるのを知ると、おやっとばかり驚いた。

しかし、この驚きと喜びは単に一時的なものであった。船がビクトリア・ベイスンの桟橋に着いたとき、燃えるような南半球の太陽の直射が激しく青い蒼穹(そら)から降ってきて、たちまちのうちに、人々に熱せられた釜の中にいるような苦しみを与えた。乗組員が三ヶ月も海の上に浮かんで得られる黒さを、わずか十五分間ほどの間に桟橋で焼きつけられたのである。

この急激なる温度の変化は、太陽の直射をさえぎる層雲が、海岸線から五、六海里ほど離れた海上から内側のケープタウンの空に発生すること希(まれ)なることに基づくのである。」

ケープタウンの住人の言葉に信用を置くべきか、この本の言うところに従うべきかは疑問であるが、二週間の停泊中、これぞという爽快感を味わわず、なるほどヒート・アショアだなと感じたのは確かである。

四、フラワーデー

水曜日と土曜日とは花を買う日(フラワーデー)と決められていて、植民地の雑(ざっ)ぱくな空気も少なからず融和(ゆうわ)され美化されて、道路から受ける直線的な印象も、そのために一種の余裕のある丸みを帯び、閉塞(へいそく)しかかった市民の情緒をほぐれさせるように見える。

例のアスファルトの歩道と、木口(きぐち)を並べて車道との境を画する縁石(カーブ・ストーン)に寄せかけて、ヒース(エリカ)、ベリーダイサ、カイゼル・クラウン、エヴァーラスティング・フラワー(永遠に続く花、いわゆるドライフラワー)など、紅紫(こうし)とりどりの花が朝の沈んだ空気の中に、気高い花の香りを放ちながら、もったいなくも粗末なカゴの中に同居している。中には「ベテルヘムの星」とか「テーブル・マウンテンの誇り」とか、あるいは「化粧(よそお)える淑女(レディー)」とか、なかなか上品な気どった名前をいただいているものもある。

こう書いてくると、想像力の強い読者は美しい花にふさわしい田舎娘のしとやかさを連想するだろうが、ここのは少し毛色が違って、花売り娘でなくて花売り男である。それもただの男ではなく、目と歯に鮮やかな白い色を見せた顔の黒い、アフリカの人口のほぼ半分を占めるバントウー族である。しかし、商売が商売であるからあまり無鉄砲に野郎状態を表した者はなく、破れたりといえども多くは中折れ帽か鳥打ち帽(ハンチング)をかぶり、牛皮の靴をはいている。時によると、頭からスポリと白い布(きれ)の袋をかぶったズールー娘の黒い手に、赤いフューシアの花が売られているのを見ることもある。無心の花が亡国*の少女の手に抱かれて、白人の客間を飾るべく塵(ちり)の多い街頭に売られているところは、なかなか豊かな気分に富んだ図である。

花で思いついたが、一九一〇年に南アフリカ連邦から輸出した「押し花」**の総価格は、七万五千円***という侮りがたい巨額に及んだそうである。

* 亡国: ズールー王国はアフリカ大陸のインド洋岸(東部)にあった君主国。
一八七九年、イギリスとのズールー戦争に敗(やぶ)れて南アフリカ連邦に組み込まれた。
** 押し花: 現在も輸出されているドライフラワーなど、何らかの保存加工を施した花卉(かき)類を指す(と思われる)。
*** 一九一〇年当時の七万五千円を日本の消費者物価指数(CPI)の推移に基づいて現在の価額に換算すると約2億6千万円になる。

[ 戻る ] [ 次へ ]

現代語訳『海のロマンス』85:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第85回)

ケープタウン雑記
一、博物館

すこぶる古色を帯(お)びた大小さまざまな石塊(いしころ)の表面に、かすれた横文字の跡が、かすかに、かすかに匂(にお)っている。インスクライブド・ストーンといって石に文字を刻んだもので、昔、テーブル湾を訪れた船が記念として書き残していったものだという。突拍子(とっぴょうし)もない気まぐれな事柄(ことがら)について、つじつまの合う連想を加える癖のあるぼくは、このときどこかに「美しいビクトリア、ときにはそのかわいらしい口元であどけないくしゃみをしておくれ」といった風な文句がありはしないかと夢や幻を探すように見まわした。が、事実は冷淡にして無愛想であって、そんな空頼(からだの)みはよせよせと忠告されて、従順(すなお)に左側の部屋へと入りこんだ。暑い夏の午後の光線(ひかり)は南アフリカ博物館の年とった玄関番の顔を残酷に照らしている。

向かいの部屋で盛装した二人の婦人(レディ)が日頃のたしなみをすっかり忘却したという体(てい)で、腰をまげてキャッキャと笑っている。重要な用件がある風を装って海産物を陳列した部屋を急ぎ足に通り抜けて先へ行ってみると、ズールー、ブッシュ等のアフリカ原住民の身体やその習性・風俗を示す器具などが配列されている室内の一隅に、かつて地理の先生から聞いたアフリカ最古の住民といわれるコイコイ人の女性が六体ほど安置されていた*。二階にはマンモスやシマウマやムースの大きな剥製(はくせい)の獣(けもの)が並べてあったが、直径六寸(約十五センチ)を超える大きな二本の角を持った犀(さい)はちょっとうらやましかった。

* 原文には身体的特徴についても述べられていますが、現代の基準に照らして割愛しました。

帰りがけに金剛石(ダイヤモンド)室をのぞいたら、黒いの白いのとさまざまな小さな石がキチンと台に乗って勢揃(せいぞろ)いをしている。中に「アフリカの星」とかいうエンドウ豆大のやつが王様然と幅をきかせて光っておった。この手で例の貫一*を悩ましたかと思ったら、そういうものとは関わるまいと目をおおってそこそこに退却した。ただ左側の二番目の部屋に「一七三〇年オランダ・インド会社の総督イメリード、これを持ち帰る」とかいう掲示の下に、青銅製の蝶番(ちょうつがい)が見る影もなくさびついた一つの書類箱(キャビネット)が大事そうに置いてあったことが記憶に残っている。

* 貫一: 尾崎紅葉の小説『金色夜叉(こんじきやしゃ)』の主人公。
熱海の海岸での間貫一(はざまかんいち)と富豪に嫁(とつ)ぐお宮とのやりとりは何度も芝居化され、よく知られている。
この作品は大成丸が世界周航に出航する十年ほど前まで読売新聞に連載されていたが、作者死亡により未完となった。

二、美術館

博物館の後方にあるアート・ギャラリーをのぞいてみると、階下は有名な植民地の画家の作品を並べた部屋と、大理石、石膏等の塑像(そぞう)を陳列した部屋とに仕切ってあって、階上の明るい部屋はただ一面に大小色々の額が所狭しと陳列されていた。

ここには博物館のような陽気な見学者は一人もなく、分別くさい顔をした若い男や静寂(しとや)かにふるまう淑女(レディ)の静かな群れが、軽いかかとを静かに青い敷物(カーペット)の上に落としているばかり。

船に帰っての下馬評では「プリウ・ガウン」と題した貴婦人の肖像と「禁じられた果物(フォービドン・フルーツ」というエデンの想像画が最も人気が高かった。

テーブル・マウンテンの中腹にヘンリー・ハッチンソンとウッド・ヘッドという二つの貯水池(リザーバー)がある。堅固な花崗岩(みかげいし)をコンクリートで固めた厚いダムが四方に延び、すこぶる念入りにできている。この貯水池こそケープタウンの十万人の喉(のど)を潤(うるお)し、なお余ったものをボタニカル・ガーデンその他の花畑に供給する水源である。

これらの貯水池では三月から九月にわたる雨季(ウェット・シーズン)に水があふれるほどに蓄えられて、太い鉄管で処理場に送られる。飲用水はそこの処理装置で濾過(ろか)したものを用いるのであるが、いろいろな化学成分が十分に除去できないためか、決して清冽(せいれつ)とか透明とかいう形容詞を冠することはできない。少なくとも、胡椒(こしょう)を振った水くらいには混濁している。

本船でもその水を多少は積み込んだが、気味の悪い赤い色を見ては、喉(のど)の括約筋(かつやくきん)が反射的に飲むのを拒絶するほどの不人望(ふじんぼう)極(きわ)まる種類のもので、やむなくこれを洗濯用に使ったほどであった。ケープタウンに住む人々もこれにはさぞかし苦しんでいるだろうと想像したのであるが、あるいは案外に平気かもしれない。今頃は先生たち、「必要は発明の母であって、なんでも臨機応変(りんきおうへん)に対応しなけりゃ」とかなんとかと言っているかもしれない。

[ 戻る ] [ 次へ ]

現代語訳『海のロマンス』84:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第84回)

グルート・シューア(続き)

グルート・シューアの部屋はいずれもさほど大きくない。客間の鏡板(パネル)は実に見事なインド産チークでできていた。すこぶる神秘的な構図の大きな織物のタペストリーが壁にかかっている食堂には、十五、六人も並べるような大きな長方形の食卓が置かれてあった。

「日曜休日ごとに市民に庭園を公開したローズはまた、その食卓で食事することの名誉と愉快とを彼らに与えた」と本に書かれているのは、これであろう。また歓談(かんだん)笑語(しょうご)のうちに本国からわざわざ下ってきた名士と南アフリカの政策を議論したのもここであろうし、イエズス会の一長老の金剛石(ダイヤモンド)発見の風変わりな新しい方法を揶揄(やゆ)したのもここであろう。

そもそもローズは食卓において自分から話を進める人ではなくて、客が意見や理想を述べるのを微笑をもって静かに聴取するといったタイプの人柄であった。

彼の治世と事業と人格とを生みだした研鑽(けんさん)の部屋、つまり図書室は居間の次にある。布張りの本や革装の本、山羊皮を使った本などが色々の美しい背皮を厚いガラス窓の奥に輝かせ、ギッシリと大きな本棚に積んである。

日頃からローズはギボンの不世出の名著たる『ローマ帝国衰亡史』を読んで、シーザーの人となりや彼に心躍らせていたとのことである。そして一方、彼の寝室にナポレオン大帝が使用したと伝えられる古色蒼然たる時計(クロック)と、ナポレオンの立像とが飾られてあるのを見れば、英雄崇拝(えいゆうすうはい)の傾向がある人々の系統について、面白い事実を発見することができる。

遊戯室の二階はローズの寝室で、その大きな張り出し窓(ベイウインドウ)は人間界の巨人が朝な夕な天然界の巨人たるテーブル・マウンテンに親しんだところだという。

もともと日本人は偉人ゆかりの跡とか、一族存亡の跡とかいう歴史的に著名な場所に到(いた)ると、たちまちインスピレーションに感銘して、むやみに感慨にふけり、むやみに憧憬(どうけい)し、追憶して、同情的にかられた涙もろい気分に陥(おちい)ってしまうのが癖(くせ)である。

ところがこの第一の癖(くせ)に次いで、その強烈な感興(かんきょう)も決して長持ちがしないという第二の癖(くせ)を十分に発揮するので、はたの者は幸いにしてあまり当てられずにすむ。まことに淡泊な、あっさりしたよい気象である。どんな偉人でも、護国救世(ごこくきゅうせい)の大人物でも等しくお宮や銅像で葬(ほうむ)り去られたが最後、きれいに忘れられてしまう。これでようやく義理がすんだというようにすましてしまう。古い昔のことは言うに及ばず、今日この頃の谷垂(たにだれ)の墓地*を訪問した者はなるほどと合点するであろう。

* 谷垂(たにだれ): 現在の東京都品川区西大井。初代内閣総理大臣・伊藤博文の墓所がある。

こういう気象から論じていくと、キンバレーの金剛(ダイヤモンド)鉱を英人の権力内に収め、かのローデシアを創出し、北方のいわゆる国土拡大(グレイト・エキスパンション)に努力し、ケイプ植民地の首相となってはよく善政をしいたローズのために、デビルス・ピークの中腹に広壮な一大記念堂を設立して、どんな男でもいざとなるとローズ、ローズと口癖のようになつかしがる南アフリカの英人は、執拗(しつよう)なネチネチした思いきりの悪い国民かも知れない。

タウンからワインバルグ行きの汽車に乗る人は終始(しゅうし)右側の車窓を通じて、縦線が特に目立つ白い建物を、うっそうたるデビルス・ピークの緑葉の間に見いだすであろう。

ゆるやかな傾斜をもって隠れたる技巧と努力をしのばせる、美しく加工されたけわしい山道が、のどかな春の光陰(ひかり)にのんびりと浮かれ出た蛇(くちなわ)のように延々と山をうねり登る。

快い肺の拡張と、生ぬるい身内の汗とを意識しつつ登り登りて、ホッと軽い息をついたとき、目の前に「肉体(フィジカル)の精華(エナジー)」の像が出現し、それを仰(あお)ぎ見ながら、なるほど評判に聞いたとおり勇ましい武者ぶりだと褒(ほ)めたくなった。見るからに荒馬然とした精悍(せいかん)なる裸馬(はだかうま)に、いわゆる眼光するどく引き締まった体の男が、これもまた裸体(はだか)のまま著(いちじる)しく身体を左方にねじ向けながら危うげに踏みまたがって、拳闘家(けんとうか)に見るような、たるみのない隆々たる筋肉美を、新緑の炎を吐くという盛夏(せいか)の大気のうちに匂わしている。

ギリシャ神話の女怪物ゴルゴン・メドゥーサを斬ったというペルセウスの腕もかくやと思うような手を、精悍(せいかん)の気あふれるばかりにただよう眉間(みけん)に添えて、不敵(ふてき)な面魂(つらだましい)を北の方なるローデシアへと向けている。

なぜ「心霊の精華(スピリチュアル・エナジー)」と呼ばずして、フィジカル・エナジーと呼びならわしたかはわからない。こういうときには、あれこれ考えこんだりせず、あるものをそのまま素直に受け入れる性格の人がうらやましい。

この騎馬像(エケストリアン)は、かの英国はロンドンのケンジントンにある像と同じくワッツ*の作であって、グレイ伯とワッツ夫人との承諾のもとにここに飾られたという話だ。

* ジョージ・フレデリック・ワッツ: 英国の画家・彫刻家(1817年~1904年)。フィジカル・エネルギーと題する騎馬像は南アフリカのセシル・ローズにささげられた。鋳造された作品は二体あり、それぞれロンドンのケンジントンと南アフリカのローズ・メモリアルに設置されている。

夕闇(ゆうやみ)の空に美しくちりばめられた星のように光る多くの鉱物を含む花崗岩(みかげいし)を重ねた、コロシアム式に太い円柱(コリーム)の列群と二つの翼房(ウイング)とを持つ、いわゆる「殿堂」に通じる石燈(せきとう)の左右には、スワンの作と伝えられる八つのいかつい獅子(しし)の像がある。

「殿堂」の中にはベイカーの作とされる、テーブルにもたれてまさに来るべき飛躍(ひやく)を夢見つつ瞑想(めいそう)にふけっているローズの胸像(バスト)がある。すこぶる陰気(グルーミー)な表情をしているが、最もよくローズを表しているとの評判である。

像の上の碑文に To the Spirit and Life work of Cecil John Rhodes who loved and served South Africa (南アフリカを愛し奉仕したセシル・ジョン・ローズの精神と生活に捧げる)と彫られてあるのを見て、意味もなく気まぐれな悲哀が胸に満ち、そぞろに涙ぐむ心地がした。

この心地は、グルート・シューアの一部を占めるジェイムソン博士の邸宅のほとり、深い涼しい松並木や美しい花の冠をいただく生け垣の間を、かわいい目つきをしたリスの幾群れかが飛び交う平和な郊外の風光にふれてきたことによる複雑な気分から来たのか、またはこの山腹から茫漠(ぼうばく)として涯(はて)しなきテーブルのように平らな夕暮れの夢幻的な情趣(じょうしゅ)――それは泰西(たいせい)の風趣(ふうしゅ)に一貫して独特なる――にかられたためか、いまだに疑問である。

[ 戻る ] [ 次へ ]