現代語訳『海のロマンス』106:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第106回)

四、ソバとジワジワ

耳元で何人(だれ)だか、グーグーと大きな艶(つや)消しのいびきをして、それが無遠慮にも、薄い鋭敏な自分の鼓膜に響いて、とかくに覚めやすい暁(あかつき)の夢を破る。誰だろうと不審がるにも及ばず、その雄大な音量からも、その無作法な呼吸運動からも、たしかに人間である。しかも、この船の上の人間のうちで最もわがままな、最も勢力ある練習生の仕業(しわざ)であることもまた確かである。

四時間ごとに否応なしに起こされて当直勤務に立つべく出てくる三十人あまりの練習生は――どうも練習生と十把(じっぱ)一絡(ひとから)げに扱うのがあまりに多くてお気の毒であるが、相当の敬意を表しつつも誤解を招かないこの呼び方は他の表現ではぴったりこない――当番を交代し整列が済むと、彼らはたちまちバラバラと列を乱し、すぐさま寝そべって夢にひたる極楽境へと旅だってしまう。

樹下(じゅか)や石上(せきじょう)に宿を求めて草を枕とし、花を主人(あるじ)にした古人(こじん)のよい心がけは知らないが、ハッチを寝床とし、ロープを枕とする練習生の考えは、暑苦しい下甲板の寝床(ボンク)を、心地よい風が吹き渡っていとも涼しい上甲板の別荘に移したつもりでいる。

この眠っている連中から少し離れて、二人の学生が何かしみじみと密談している。古い言い草だが、「聞くともなしに」立ち聞きをすると、なんでも日本へ着いたら上陸早々一番先に何を食うかという問題で、一人はソバと言い、他はジワジワ*と言い、今や盛んに議論しあっているところである。

「君、ジワジワなんていうものは俗中の俗なるものだあね。そんなことを言うと、趣味が低級だと馬鹿にされるよ」

などと、趣味高尚と心得たソバ屋党が反駁(はんばく)すると、

「すべての欲求の本体は絶対的に抜群無比の実質を具備しなければならない。ソバなんか食いたければ缶詰にしても持ってこられるからね」

などと、どうでもいいようなことに力こぶを入れて堂々と議論している。

* ジワジワ: 具体的にどういう食べ物なのか(何かの俗称?)不明。

当人はこれでも紀元前にマケドニアのフィリッポス二世を弾劾したデモステネスくらいの雄弁であると信じている。自分は情けないような、つまらないような気がして、結果を見ずに、先に失敬して寝てしまった。

五、連日の無風

この二、三日、連日の無風(カーム)で、船は「ビクともするもんじゃない」というように少しも動かない。騒がず迫らず泰然(たいぜん)と重い尻をドッシリとおろしている。まさか「日本を出るときふんどしを忘れた」せいでもあるまいが、これでは真(まこと)に長い道中ブラブーラである。やりきれない、やりきれないと練習生たちが不平を言うのも無理はない。

セントヘレナを出たのはつい少し前のように思われたものが、今日ははや四月六日である。

この頃は海も空も静かで、大気は乾燥しきって軽く澄みきっているためか、昼間は馬鹿に暑苦しく、夕焼けは馬鹿にきれいで、夜中は馬鹿に涼しく露っぽい。

ことに夕焼けの壮大にして艶麗(えんれい)なる風趣は、情緒に富んだ大自然の技巧の一端を示す一大キネオラマ*である。平常見慣れた練習生たちも船縁(ふなべり)に寄りかかっては思わず「いいなあ」とかなんとか、賛美の声をもらしている。練習生の一人の日記には、次のように書かれてあった。

* キネオラマ: パノラマの景色に光線を当てて変化させて楽しむ、明治から大正にかけてはやった興業。語源は「キネマ+パノラマ」。

この海洋(うみ)に輝く雲の色を見れば、はかなきものは若き恋なり。ときどきは日が海に没してまもなく、奇っ怪な形のKの雲が水平線をおおって、呉(ご)でもなく越(えつ)でもなく、どうやら見慣れた羽田の岬の蜃気楼かとも疑われる夕べもある。

雲とは承知で見るが、意識の理と智とをちょっとごまかせば確かに陸影(りくえい)だ。

鈍い頭はこの不思議な情景を前において、半ば修正に引きづられ半ばは実感に脅かされて、現実と幻覚との、想像と実在との、写真と神秘との間に彷徨(ほうこう)する。

菅原道真(すがわらみちざね)の口から吐き出されたザクロの炎のような*深紅(しんく)に染められた雲は、上に向かって爛紅色(らんこうしょく)――朱泥(しゅでい)色――橙紅色(とうこうしょく)――に薄められ、雲と接する蒼穹(そら)の部分も、上から順次に濃い碧瑠璃(へきるり)から藍青色(らんせいしょく)、群青、ヨモギ色と反対に下に向かってぼかされ、崇高(すうこう)にして偉大なる日輪の臨終を飾る下(もと)に、まつげを動かすわずかな時間も与えぬ勢いで、夕暮れの海がまさに一日の多様多種だった様子を刻々と変化させつつ終わりを迎えようとしている。

* ザクロの炎: 左遷され太宰府で死亡した道真は怨霊(おんりょう)となって朝廷をはじめとする人々に祟(たた)りをもたらした――ザクロを口に含み、種を吐き出すと、怨念が炎となって家を燃やした――という故事から。

[ 戻る ] [ 次へ ]

現代語訳『海のロマンス』105:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第105回)

二、洋上の練習生たち

いつだったか、セントヘレナを出て間もない頃のことであった。ホカホカと暖かい午後の陽気にそそのかされて、ジメジメと暗い汚い湿っぽい茶箱の巣を出て人声のする方へとおもむろに歩いて行くと、食って、寝て、修業日誌を書いて、ブレースを引くという同じ事の繰り返しをする以外には深刻なる生活の意義を認めぬ洋上の練習生たちが、浮世のせちがらい風はどこを吹くかとばかり、天下泰平に寝そべり返っている。航海中、彼らは決まって十二時から一時までの昼の休みには二番船倉(ハッチ)のまわりに非生産的に円座して、ディズレーリ*のいわゆる「仰視(ぎょうし)せざる青年は俯瞰(ふかん)すべし、上昇せざる精神は匍匐(ほふく)するの運命を免れず」という有名な格言を現実に立証しながら、ガヤガヤと、何かさも愉快そうに話している。いずれはまた例の血の気の多い割には脳みそのうすっぺらな頭脳(あたま)からひねりだすおべんちゃらだろう。

* ディズレーリ: ベンジャミン・ディズレーリ(1804年~1881年)は英国の首相を務めた政治家であり作家でもあった人物。

しかし、こんな輩(てあい)でも集団(モッブ)となればなかなか勢力のあるもので、さすが世界に雷名(らいめい)をとどろかした巨頭たる宰相も群衆(モッブ)のためにはずいぶん痛めつけられた例(ためし)もある。さわらぬ神に祟(たた)りなし。ここはこっそりと穏便に通り抜けようと、足下をまわって司厨所(ギャレー)の方へと向かう。と、すばやく気づいた一人が、「こやつは実際に無愛想な動物だな」と口火を切ったのを機会(きっかけ)に、ヤレ無神経だとか、のろまだとか、無気力だとか、いろいろとあまり利益にならぬ言葉が出たのち、とうとう自分の最も嫌いな「馬鹿」という言葉が飛び出した。

いやな心地をさせられた自分は恨(うら)めしさのあまり、その男の顔をつくづくと見てやった。

ところが、どこやら見覚えのあるのも道理、この君子殿(くんしどの)は、先日ジャガイモの一切れを自分の鼻の先ににおわせながら、ご苦労にもメインデッキを三遍連れまわって、タバコにもせず、ぽんと無常にも芋を海の中に投じた不届きの男である。それ以来、芋を食うたびに、この男の顔が眼前に浮かんできて、思わず歯に力が入るのである。

この男が、今デッキに頬杖(ほおづえ)をつきながら、隣の男に向かって、「ね、君、ほら、ギリシャ神話でアポロがダフネを追いかけるときダフネを形容した『恐怖(おそれ)をもった大きな目は黒く潤んで足はしなやかに鹿のごとく速く――』とかいう語(ことば)があるだろう。よくたとえたものだね、まったくこの夢二(ゆめじ)式の大きな黒い目と細いすらりとした足つきは美人の象徴(シンボル)だね」などと、今日は柄にもなく褒(ほ)め立てる。末が恐ろしい。

三、享楽主義者の悪戯(いたずら)

かく理不尽(りふじん)に中途で自分を抑留した連中(モッブ)は徒然(つれずれ)なるままによい暇つぶしの対象物を捕まえたと考えたのか、大喜びで、ヤレ、中甲板のある室(へや)の寝床(ボング)に失敬したとか、士官のサルーンに粗相(そそう)したとか、英語教官の室(へや)でカミソリ用のレザーストラップを食ったとか、さかんに自分の旧悪をあばきにかかる。

とかくするうち、さすがにだじゃれや人笑わせの種もなくなったのか、多くの練習生たちはさもしゃべりくたびれたというように、今度は仰視せる青年の姿勢に戻って、ゆったりとして青い空と品よく前方にふくれだした鼠色(ねずみいろ)の帆とを見上げている。

座が分れて無駄話が種切れとなり、座興の材料の供給が不十分となると、先天的に幇間(ほうかん)の才能を多少とも持っているおっちょこちょいは、必死になって尻すぼみの状況を元に戻すため少しでも挽回(ばんかい)しようとつとめ、苦し紛(まぎ)れに何を試みるかわかったものではない。

かかる輩(てあい)こそ「歓楽の盃(さかづき)を飲んでは幻想に行きつ戻りつする」人種である。「一挙手(いっきょしゅ)も一投足(いっとうそく)も中途半端な」輩(てあい)である。「日々の雀躍(じゃくやく)をもって生の歓喜(よろこび)となし、生の充実となし、意義ある現実の生活となす」輩(てあい)である。自分が楽しければいいという主義を貫徹(かんてつ)するため、苦し紛(まぎ)れに何を試みるかわかったものではない。

ここまで推理してきたとき、はたして享楽主義者をもって自(みずか)ら任じる一人がむんづと自分の尾をつかんだ。

誰でも知っている通り、たいがいの人間は腰のあたりをさすられると非常にこそばゆく嫌な感じがするものである。我輩(わがはい)の尾は、まさにその腰に相当する。そこで自分は余儀なく嫌悪の念をこめた第二低音(テノール)を発声して、そんなことをされるのは不愉快だという意志を十分表明したつもりであった。

しかるに、意外にも、驚きと落胆とに陥(おちい)った余の面前で、不思議にも思わぬ歓声のどよめきが起こった。

「これは面白い。まるで猫と山羊とをかけあわしたような声だ」

「あの波動(リズム)は音階の何調になるのだろう?」

「あんな奇声が表象する心理状態とは、どんな種類だろう、や、実に珍奇だ」

などと、二十五の今日までまだ鹿を見たことのなかった連中が手を打って嬉しがる。

尾をつかんだ享楽主義者は、思わぬ手柄に呆然(ぼうぜん)と本来の悪戯(いたずら)の目的を忘れた。

それは糸くずを小生(それがし)の小さな尾の先に結(ゆ)いつけ、小生が気味わるがって後足でピョンピョンと蹴上(けあ)ぐる様子を、ヤレ面白い、やれ神経過敏な動物だ、とかいって手をたたこうとする下心であった。でなければ、二、三日前のように汚いシャツを頭からかぶせて士官のサルーンに追い込む考えであったに違いない。

しかし、このとんでもない災難も、おりから大声で整列一分前と怒鳴った風下当番(リーサイド)君の声で運よく免(まぬが)れたのは幸福の至りであった。

[ 戻る ] [ 次へ ]

現代語訳『海のロマンス』104:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第104回)

上甲板の鹿

ここにちょっと「大成丸観」の著者としての自分を紹介しておく必要がある。

余は名前はまだない。種族は双蹄類(そうているい)の鹿族(しかぞく)で、スプリンクボック属である*。今から一年と三ヶ月前にアフリカの東岸モザンビークの森林中で生まれたのだ。

* この「鹿」は一見するとシカそのものだが、現在の分類では、「偶蹄類(ぐうているい)ウシ科スプリングボック属」になる。
並外れたジャンプ力を持つことでも知られている。

今から一年と三月ばかり前にアフリカの東岸モザンビークの森林の中で生まれたそうである。ところが、まだほんの子供のときに捕らえられて同地のユニオン・キャッスル汽船会社の支店長の手元で養われることになった。それが、数奇(すうき)なる運命は執拗(しつよう)に罪のない自分に祟(たた)ったものとみえ、いくばくならずしてその支店長がある機会を利用して敬意を表するための進物(しんもつ)としてケープタウンの同じ会社の支店長に贈られた。

ところが元来気の小さいケープタウンの衛生局は、動物は伝染病の媒介者だという口実で、一切輸入し上陸させることを差し止めたので、処置に苦しんだ汽船の船長は、見当違いの敬意を表するため自分をとうとうこの練習船の船長の足下(そくか)に捧(ささ)げたという次第である。

幸いに、練習船には好物のジャガイモの貯蔵にことかかなんだので、自分はさしさわりなく丸々と太ってきた。

ジャガイモは船中で唯一の生鮮食品だとのことである。いつぞや、「この鹿も幸福(しあわせ)なものさ、ぼくらでさえあまり食えないフレッシュを常食としているからな」などの、心細い会話を立ち聞きしたこともあった。

一、すさまじい唱歌

このごろは朝から晩まで鍋(なべ)の上に座っているような暑さである。午後の四時というにもう夕飯を済ましてしまう学生諸君の動作をひそかに偵察すると、ボタボタとインゲン豆のような汗をこぼしながら、「こうなると、食事をするのが一種の苦痛だね」などと、先を争っては逃げるように上甲板へとはい上がる。

いかに熱帯の航海でも、南東の涼しい貿易風に吹かれる上甲板はさすがに広い涼み台の観がある。

で、ここで、すこぶるいい気持ちになった連中はやがて浮かれ出して、日課のごとくさまざまの軍歌や唱歌を合唱する。自分は南アフリカで鹿となってまだ日本語というものに親炙(しんしゃ)せぬためか、それがなんだか唐人(とうじん)の寝言(ねごと)のようでさっぱりわからぬが、連中の歌は多くは竜頭蛇尾(りゅうとうだび)で、いつの間にかフーッと途中がなくなってしまう。

ただ、その中で完全に最後まで歌い終わるのは、なんでも「桃から生まれた桃太郎」という歌である。聞くところによると、この歌は日本ではわんぱく盛りの鼻たれ小僧か小娘の社会に限ってのみ使用されるそうである。それを子供の二、三人分もありそうな年配の堂々たるひげ面の男が臆面(おくめん)もなくドラ声で怒鳴り散らすところは天下の奇観である。

しかし、こんな乱暴な輩(てあい)の乱暴な合唱も、さすがに四時から七時半までの薄暮当直(イブニング・ワッチ)中に限られているのは、混乱と無権威のさなかに一筋の自覚と節制が通っているのを示す一例で、儒教主義や黙従主義の教育家、社会政策家の杞憂(きゆう)をうち消すに十分なる発見であろう。

初秋の静かに力ない夕日はリギン(索具)の隙間(すきま)から甲板(デッキ)を照らして、飽満(ほうまん)した芋腹(いもばら)で倦怠(けんたい)を味わいながら、うつらうつらと夢心地に、まさに人の世の一切の杞憂(きゆう)を忘れようとする大事の瀬戸際に、にわかに耳元の近くでハンドポンプの運転が始まって、続いてそれに拍子を合わせて二、三十人の合唱の声が起こった。

彼らはいましもサニタリータンク(浄化槽)に水を入れつつあるので、歌は今まで聞いた種類のものに比べると、リズムといい抑揚といい、内容といい効果といい、全然毛色の異(かわ)ったものであった。

ボヒーの夢を揺籃(ようらん)の 静けき床に結ぶとき
目玉ランプのものすごく あたりかわまず怒鳴り込む。

冷たき雨に寒き風 寝ぼけ眼(まなこ)を襲い来て
破れかぶれの雨合羽(あまがっぱ) 淪落(りんらく)の身をかこちつつ。

見張りの務め重くして 偲(しの)ぶ無常の鐘(かね)の音に
落花の邦(くに)を嘆じつつ ゲルンリギンに鼻(はな)赤し。

ブレイス引けとの号令に 飛び出す健児(けんじ)足早く
顔のみ猛(たけ)き野次馬の 声は力にまさるなり。

菜(さい)の不足を補いて 辛(つら)さも辛(つら)しタクアンに
さらに二杯を追加して 我迎天の威(い)も凄(すご)し。*

すさまじい歌もあったものだ。

練習生の一人のMという男の作だそうだが、これほど赤裸々に、これほどてらいもなく、これほど虚心坦懐(きょしんたんかい)に自己を告白し自叙できれば、まずもって会得(えとく)し悟(さと)りを開き達観(たっかん)せる大勇者と認めてやって差し支えない。こういう勇者に限って必ず座右にうぬぼれ鏡などというけち臭いものを備え付けておく不心得(ふこころえ)はないそうである。

船乗りになって、「真の男らしい」生業でひとつ苦しんでみようなどと志す若い男たちはすべからく、この辺の機微をわきまえる必要があるだろう。

                                あなかしこ。

* タンツー節として現代の帆船でも歌い継がれている(?)。
歌詞については、時代や船ごとに微妙に異なっているが、本書の記述から推して、由来はこの練習船・大成丸にあるらしい。

ちなみに、タンツーとは「仕事にとりかかる」という意味の (to) turn to が語源とされるが、ヤシの実を二つに割ったもので甲板を磨く作業。これを厳冬期に裸足(はだし)でやるのは……

こちらは、現代の航海訓練所のタンツー節

*****

ボビーの夢を揺藍(ようらん)の 静けきベットに結ぶ時
目玉ランプの物凄(もの)く あたりかまわず怒鳴り込む

ブレイス曳(ひ)けとの号令に 飛び出す健児(けんじ) 足早く
顔のみ猛(たけ)き野次馬の 声は力に優(すぐ)るなり

草木も眠る丑(うし)三つに 暫(しば)しまどろむハッチメン
折(おり)から呼子(よびこ)が鳴りわたり リーフォアブレース よいやさのさ

タンツーかかれの号令に ガシャガシャサイドに 押しやられ
七つのお鐘が鳴るまでは プープデッキをはいまわる

七つの鐘はまだおろか 八つのお鐘が鳴るまでは
八つのお鐘が鳴るまでは プープデッキをはいまわる

霙(みぞれ)降る夜の冷たさも ロイヤル畳(たた)めの号令に
脱兎(だっと)のごとく飛びついて ゲルンリギンを登り行く

一人旅路の大成(たいせい)に 言い寄る英船「チーフ船」
暫(しば)しウインク千鳥足(ちどりあし) 老大成も気は若い

洋上はるか東に 思案(しあん)たっぷり白砂の
かんざし姿は誰を待つ 惚(ほ)れた信夫翁(あほうどり)が離りゃせぬ

帆影(ほえい)映ろう甲板に ごろーり夢を結ぶ時
通うは遠き故郷の 夢を破られログ流せ

寒さと霧にせめられて 外套合羽(がいとうかっぱ)の達摩(だるま)さん
ブレース引けとの号令に ハッチの陰から踊り出す

ダウンローヤル待構え 猿のごとくに駈け上り
ゲルンのあたりで一休み ローヤルヤードで一仕事

※細部の表現については資料によって異同があります。

[ 戻る ] [ 次へ ]

現代語訳『海のロマンス』103:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第103回)

セントヘレナへの決別

セントヘレナは、三月二十日の朝十時に出帆した。

あまりにも風向が見事だったので、文字どおり帆で出るという予定であった。ところが、いわゆる月に叢雲(むらくも)、花に風、「帆船に軍艦」といえばいえるわけで、あいにく当時、石炭積み込みのため練習船の風下に碇泊(ていはく)しておった英国軍艦ヒヤシンス号のお尻がだんだんと出張ってきて、あわよくば鞘当(さやあ)てでもしかねまじき形成となったので、にわかに変更して、平常(いつも)の通り機走で出てしまった。 続きを読む

現代語訳『海のロマンス』102:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第102回)

花雫(はなしずく)せよ、沈黙の谷

いずこに彼は今や在(あ)る!!
かつては超人と謳歌(うた)われ、傲慢(ごうまん)と誹謗(そし)られた彼。
全欧の覇権(はけん)とたわむれ、各国の王の位を弄(もてあそ)び
地球というテーブルで、人骨(ほね)のサイコロを振った彼。
すさまじき最後を見なかったか。人の世から離れた遠き孤島に。
心ある人は独り静かにただ微笑(ほほえ)みて泣くべし。

とは、「人食鬼」、「悪魔」、「猛獣」などと恐れ、嘲(あざけ)り笑う以外にはこの大英傑を呼ぶことのできなかったジョンブル(英国人)の中のただ一人(いちにん)の、真摯(しんし)にして感傷的な謳歌者たるバイロン卿の有名な賛辞である。

ナポレオンが死去した際には遺骸(いがい)を英本国に送るべしという、コックバーン司令官に下った内令は途中で変更された。新総督サー・ハドソン・ローエは、万一の際におけるナポレオンの墓地は、生前に彼が最も愛慕(あいぼ)した谷に定むべしとの訓令を受け取った。

ごつごつとした形状(かたち)のセントヘレナという孤島における六年間。

ナポレオンは、まぶしいくらいに光り輝き、目もくらめくばかりに絢爛(けんらん)だった過去の追憶に生きるの外(ほか)は、閑暇(ひま)あるごとに日々、気の毒なほどに狭苦しく限られた土地の上に、窮屈な馬上の散策を試みては、はかなき瞬間の満足を、意義も努力も責任もない当時の生活において見いだすことを寂(さび)しい日課とした。

そして、その散策は常に、ロングウッドの館から三マイルほど北西にあたるゼラニウムの谷に向けられた。鬱然(うつぜん)と茂る木の間に鳴く鳥の音もかすかに、風もないのにホロホロと散るゼラニウムの花雫(はなしずく)がなんとも艶(えん)なる山懐(やまふところ)に、この偉人は散策する場所を静かに見いだした。

猜疑(さいぎ)と白眼(はくがん)との圧迫に耐えずして、水に乏(とぼ)しく霧に苦しめられるロングウッドの館をさまよい出た彼は、ビロウドのような青い草に身を投げて、耳元近くでこんこんと湧き出る泉の声を聞きながら、木の間を透(す)かして悠々(ゆうゆう)たる白雲の流れていく様子を仰ぎ見るとき、しばしば、志を得ず囚(とら)われの身となった愁(うれ)いを忘れたのであろう。

清らかに湧(わき)いずる泉の音と、無心の風に吹かれてなびける二本の柳樹(りゅうじゅ)とは、彼をこれほどまでに強くゼラニウムの谷に執着させた最大のものであった。

帝(てい)が後年、総督本人に向かって、「今後十数年をいでずして英国のカストレリー卿やバサルスト卿やその他の連中は、今、吾(われ)と言葉を交わしている君ももろともに、いずれも皆、忘却の墓に葬られてしまうだろう。もし、将来において君らの名前を記(しる)す者がいるとすれば、それは君らが吾に対して無礼侮辱(ぶれいぶじょく)を加えたとしてであろう。これに反してナポレオン帝は長く歴史上の花となり――」と憤慨(ふんがい)したごとく、ハドソン・ローエの過酷(かこく)で無情なる圧迫の手はひしひしと帝(てい)の周囲に加えられた。

――実際、ローエはこの偉大なる囚人の看守役たる歴史的名誉をまっとうするの道は、ただもっぱら誅求(ちゅうきゅう)束縛(そくばく)を厳にするの一途(いっと)のみであると考えたかも知れぬ

――しかも、帝(てい)はなお平素(へいそ)、このローエが統治している小領地たるこの谷を思慕(しぼ)して、その最後の病褥(びょうじょく)にあっても、

「余(よ)、もし健康を回復したら、あの泉のほとりに記念碑を建てよう。もしまた、このままに死ねば、あそこに遺骸(いがい)を葬(ほうむ)ってくれ」とまで言われた。

一八二一年五月五日、紆余曲折(うよきょくせつ)の多かった五十二年の生涯を遺伝性の胃がんに終わった帝(てい)の葬儀は、ゼラニウムの谷で、同年五月八日に行われた。

英国の歩兵にかつがれた棺(ひつぎ)の上には、紫色のビロウドと、帝(てい)がマレンゴの決戦で銃弾により穴があいた外套とが置かれた。

追悼(ついとう)し回想して涙に泣き崩れたる女性等を乗せて随行する馬車、馬に乗ったベルトランとモントロンの二人の伯爵、総督ローエおよび提督マルコルム二の両氏、帝(てい)の生前の愛馬などからなる葬列は、島生活の六年間を通じて帝に最も愛撫(あいぶ)された小ナポレオン、ベルトランを先頭に静かに谷へと下っていった。

宗教上の儀式が終わってレンガ工事に着手中、いちじるしく帝(てい)を敬愛していた群衆は、争って帝(てい)が生前に好きだった柳の枝をとって記念にしようとした。この憧憬にもとづく真情の流露(りゅうろ)を見せつけられた総督は、いちじるしく機嫌をそこない、制止するよう厳命を発した。が、群衆の来襲はますますはなはだしくなり、制止の命令も役に立たなかったので、ついに帝(てい)に対する最後の反抗的私憤を示すため、墓に柵をめぐらせ(今も墓の周囲には柵が現存している)、さらに、見張りの哨兵(しょうへい)を配置して人民の墓参を禁ずるに至った。

されど、ぼくは、死後においてなお迫害と陵辱(りょうじょく)から脱することができなかった憐れなる世界最後の偉人に報いるに、

“Si taceant homines, facient te sidera notum, sol nescit comitis immemor ease sui”
(人が沈黙を守れば、星、なんじの名を輝かす。彼の輝ける太陽は永劫にその友を忘れない)というエピグラムを以てしよう。


セントヘレナ島での滞在記は今回で終了し、次回からは、セントヘレナを出発して南大西洋、インド洋、太平洋を進む帰途の航海となります

[ 戻る ] [ 次へ ]

現代語訳『海のロマンス』101:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第101回)

ああ、ボナパルト将軍

L'impératriceMarie-Louise
ナポレオン夫人、マリー・ルイーズ皇后の肖像画(ルーブル美術館蔵)
François Gérard, Public domain, via Wikimedia Commons

一八一五年の八月十一日、愁(うれ)いをおびて静かなるドーバーの海を横切って北の方トーベイの港へと急ぐ英国軍艦ベルロフホン号の後甲板(こうかんぱん)に、新たに悲しき追憶の痛手に悩み、悲憤(ひふん)し懊悩(おうのう)する心持ちを包み隠すことができないまま、希代(きだい)の英雄たる大ナポレオンが立っていた。 続きを読む

現代語訳『海のロマンス』100:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第100回)

ロングウッド館を振り返って

またもやド・ラ・カーズ伯の回想録のご厄介になるのであるが、ナポレオン臨終の箇所に

『……藍色の羅紗(らしゃ)の外套は帝(てい)がマレンゴの役*に着用されたものであるのだが、これで御遺骸(ごいがい)をおおった。手足を自由にし、左の腰間(ようかん)に御剣(ぎょけん)を帯(お)びさせ、胸上に十字架を持たせた。御遺骸(ごいがい)から少し離れたところに銀器を置き、その内に御心臓(ごしんぞう)と御胃(おんい)とを盛る……。』

という一節がある。

* マレンゴの役: 一八○○年六月にナポレオン率いるフランス軍とオーストリア軍が相対した、イタリア北部にあるマレンゴでの戦闘。ナポレオンはその勝利を記念して愛馬をマレンゴと名づけた。

この御心臓(ごしんぞう)と御胃(おんい)については

『……卿(おんみ)はまた朕(ちん)の心臓を取りてこれをアルコールに漬け、バタムに携えて行き、これを朕(ちん)が愛するマリー・ルイーズ皇后にもたらせよ、かつ朕(ちん)がために后(きさき)に言え、朕(ちん)は深く后(きさき)を愛して一日も忘れたることなしと……』

また

『朕(ちん)は卿(おんみ)に、朕(ちん)の胃を特によく診察検査して正確で詳細な報告を作り、これを朕(ちん)の太子(たいし)*に渡すよう依頼する……お願いだから、わが太子がこの苦しい病にかからないようにしてくれ……』と言っている。

* 太子(たいし): 皇位を継承する者のこと。皇太子、王太子とも呼ばれる。ここではナポレオンの息子であるローマ王を指す。
Nap-receis 50
二十代で夭逝したローマ王(ナポレオン二世)の肖像画
[Moritz Michael Daffinger, Public domain, via Wikimedia Commons]

どんな偉人でも豪傑でも子に対する純愛のためには盲目的となるのは下世話(げせわ)にいう『親馬鹿ちゃんりん』の一句につきている。

しかし、囚(とら)われ人として六年間の流刑地生活で、それを慰謝(いしゃ)するような書簡を一通も送らなかったマリー皇后の冷淡な所作と、病気で苦しく呻吟(しんぎん)しつつもなお思慕(しぼ)の情を最愛の后(きさき)の上にはせている帝(てい)の心持ちとを比べると―-もっとも、当時は島の内外の書簡の交通は実に厳重で、帝(てい)からの手紙もしばしば総督に抑留されたが、逆に欧州より帝(てい)に宛てた書信は問題なく届いたようだし――女の恋は橄欖(かんらん)の杜(もり)の火事のごとし*、手管(てくだ)に乗るな甘い男たちと言ってやりたい。

* 橄欖(かんらん)の杜(もり)の火事: 出所不詳。
橄欖とは「かんらん科」の常緑高木のことだが、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に出てくる橄欖の森は「オリーブの森」の誤訳という。また、女性心理の機微を描くのが巧みなモーパッサンの短編集『オリーブ園』(Le champ d’oliviers)も当時は橄欖の森と訳されていた。

ぼくは――ぼくに限らず、ナポレオンを偉人として崇拝するすべての人々はたぶん――その政策に、兵略に、その外交に、人びとの信頼を得るやり方に、彼の行くところ必ず現れる性格のうちに、必ず啓示される精神力に、離れようとして離れられない魅力を持つ、雄渾(ゆうこん)な思想の閃(ひらめ)きをみとめざるをえない。

こうした色彩を有すると信じられる彼の性格や気魄(きはく)は、ぼくをして過去の歴史上に現れた人物の中で最も崇拝するにいたった理由であろうと思う。清盛に見るような、秀吉に見るような、その鋼鉄をあざむくような冷ややかにして強固なる意志と、いったん志を定めるとあくまでも徹底せずにはおかないといった微動だにしない気概(きがい)は、いかにも男の中の男らしいという、快(こころよ)い響(サウンド)を吾人の耳に与えるのである。

しかも、その境遇がいささか異なるといえども、同じく悲惨極まる末路をたどりながらも、その一方で浄海入道(じょうかいにゅうどう)*は煩悩(ぼんのう)解脱(げだつ)の大事な瀬戸際に立ちつつ不可避の、悪病のむくいたる重い病にうなされつつ、なお、わが死後は一切の供養(くよう)念仏(ねんぶつ)はこれを営むに及ばず、ただ急ぎ右兵衛佐(うひょうえのすけ)の頭をはねて吾が墓前にかけよと豪語したが、それに比べると、なんとも心弱き大ナポレオンの臨終の遺言なることか!!

* 浄海入道(じょうかいにゅうどう): 平清盛(1118年~1181年)のこと。出家後の法号が太政入道浄海。

胃や腸の痙攣(けいれん)、深いため息、悲しい叫び声などに続き、絶え間ないむせび泣きに見舞われた臨終の苦痛は、病気に倒れた日から、湯や水も喉に入らず、その胸中の熱いこと、あたかも火のごとく、その寝ているところから四方へ四、五間(八、九メートル)内では熱気が燃えるように、ほんとうに怪しい病であった、とされる入道が死去した際の苦悩と比べてみると、かの入道にも負けない大なる執着を有し大なる意思の征服を遂行したナポレオンの遺言が、たとえようもなく見劣りすることこそ、口惜(くちお)しくも恨(うら)めしき限りである。

朕(ちん)はセーヌ河畔(かはん)、朕(ちん)の深く愛したるフランス国人民のうちに朕の遺骸が葬られんことを希望する。これは、まずまずよいだろう。

朕(ちん)がために后(きさき)に言え、朕は后を愛して一日も忘れたることなしと。

とは、さてもさても芸のない、のろけなることよ!

卿(おんみ)の目撃したるところをことごとく、彼ら(ナポレオンの母および一家)に告げよ。ナポレオン大帝は身に一物をも所持せず、たった一人で遺棄(いき)され、きわめて悲惨な状態で崩御したと。

というに至っては、はかなく落ちぶれて死んでいく人の声である。

[ 戻る ] [ 次へ ]

現代語訳『海のロマンス』99:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第99回)

ナポレオン臨終の部屋

Death mask of Napoleon-IMG 1535-black
ナポレオンのデスマスク(Rama, CC BY-SA 2.0 FR, via Wikimedia Commons)

ド・ラ・カーズ伯の回想録に

『ロングウッドの家は、その入口は新設の室にて、この部屋は前室にもなれば食堂にもなりたり。その隣室は客室、その次には第三の薄暗き室ありて、これは帝(てい)の書類等を入れる部屋たりしが、後にこれを食堂とせり。この部屋に入りて右折すれば、帝の御室(おんしつ)の戸あり。御室(おんしつ)は二間続きにして、広さは等しく、二室いずれもはなはだ狭し。一つを書斎とし他を寝室となせり……。』

とあるもの、および

『帝(てい)は正六時にしてまったく絶命せられた。余(よ)は御髪(みぐし)を剃(そ)り、御骸(おんむくろ)を洗わせて、これを他の寝床に移す……。』(同上)

とあるもの、また

『御遺骸(おんいがい)はこれを寝室に安置し、室内をおおうに黒き羅紗(らしゃ)をもってせり。』

とあるものなどから推測すると、現在は塑像(そぞう)が安置してある部屋(当時は客間に使用されていた)の入口の長押(なげし)にある『皇帝崩御の間』なる銘板に十分な信用を置く以上は、当時ナポレオンが書斎とし寝室とした二間とは、現在はロングウッド駐留のフランス国代理領事兼ロングウッド周辺の土地管理者たるボージェ氏の私室となっている部屋で、ナポレオンはなにか偶然の出来事から客間だったこの翼面(ウイング)の第二室で発病し、そのまま起きることができず寝たきりになったために死後に母屋(おもや)の寝室に移したのか、または初め母屋の寝室で病臥(びょうが)したのを自分の希望で比較的に明るくて風の通りもよい客間に移させたまま、そこで永眠したと推定しなければならない。

食堂の左側半分は一時はモントロン伯一家の住居にあてられたが、後にナポレオンの図書室となり、並列している別棟は回想録の著者ド・ラ・カーズ父子および皇帝の随行者の居室にあてられ、元帥(げんすい)ベルトラン伯一家にはこれより二マイルほど後方に孤立している『仮小屋』が与えられた。

寝室にはナポレオンが常用していた小さな寝台と長椅子とがあり、マントルピースの左右には、孤島における六年もの軟禁生活でナポレオンをして最も力強く執着せしめた最愛の子ローマ王の額がかかり、マントルピースの上には同王の大理石の半身像(バスト)が置かれた。この半身像(バスト)が熱烈なるナポレオンの望郷の念を癒(いや)やすべく、わざわざ四千マイルの大海原を超えてセントヘレナに送られたとき、ことごとく反抗的態度をとった狭量なる小心者のハドソンローエはこれを破砕するよう命じて、ナポレオンから『利害が対立する問題のため彼らの加える圧政はなお耐え忍ぶ。しかれども、清らかで尊ぶべき家族間の愛情の表現をも阻止せんとするはこれを許しがたし』と憤怒(ふんぬ)の一喝(いっかつ)をくったという面白い逸話(いつわ)が伝えられている。

* ローマ王: 皇帝ナポレオン(ボナパルト)とオーストリア出身の皇后マリー・ルイーズの息子。
帝政下ではナポレオン二世とも呼ばれたが、父ナポレオンの死から十一年後、二十一歳で病死した(1811年~1832年)。
ちなみに、ナポレオン三世(ルイ・ナポレオン)はナポレオン・ボナパルトの甥(弟の子)で、二世より三歳年長。

その他ローマ王を抱擁(いだ)ける皇后マリー・ルイーズの肖像画、フレデリック大王使用の銀時計およびナポレオンがイタリアでの戦争で所持していた時計などが飾られてあった。しかし、これらの記念物は一八四〇年にことごとくパリに持ち去られて、今もなおブランテイション・ハウス(セントヘレナ総督官邸)に保存されているものはわずかにピアノ、ビリヤード台、食器棚、タンス、書棚などにすぎないとは、ぼくがジェームズタウン港の写真の裏に花押(シグネチュア)を依頼したとき、フランス領事ボージェ氏が親切に教えてくれた話の一節であった。

元来、ロングウッド館は一七四三年に総督ダムバーが予備糧食庫(よびりょうりょくこ)にあてるために建造した納屋(バーン)であって、後年に改造されて副総督の住居となり、一八一六年以降はナポレオンの寓居(ぐうきょ)となった、疎漏(そろう)きわまれる、間に合わせ的のものであった。

このように元は納屋であったためか、ネズミの類が大繁殖していたるところに侵入し、あるときはまさに着用せんとした帽子の中からネズミが踊り出でてナポレオンを驚かせたこともあったとか。

かてて加えて、安定した穏やかな気候とは言いがたいロングウッド台地の天候は、あるときは強風が吹き、あるときは暴雨にさらされ、あるときは妖霧(ようむ)に包まれるというように、すこぶる不健康なもので、屋外は精神(こころ)をくじく湿潤の瘴気(しょうき)に満ち、屋内ではビンの中にいるようなひどい暑さに苦しませられるという、ずいぶん手数のかかった厄介きわまる僻地(へきち)で、その上に給水も完全ではないときているから、賓客(ひんきゃく)たる世にも怖い囚人をまんまともだえ苦しませて死亡させる意図のある人々にとっては、世界に二つとない、おあつらえむきの流刑地である。

[ 戻る ] [ 次へ ]

現代語訳『海のロマンス』97:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第97回)

ナポレオンの墓

稲妻のようにジグザグに覇王樹(サボテン)の谷を迂回(うかい)し、屈曲した角石(かどいし)だらけの路は、今日を晴れの日だと清浄(きよ)げに身なりを整えた色黒き案内の好々爺(こうこうや)の指さす杖の先にかすんでいる。混然として白い路と青い峰との溶けあうあたりには、ふわふわと巻雲の浮いているのが見える。 続きを読む

現代語訳『海のロマンス』96:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第96回)

怖ろしい大波(ローラー)

どこにもいろいろの名物はあるが、セントヘレナの名物となっている巨大波のローラーは実に怖ろしい。無風のとき何らの危険な前兆も予知できない状況で、間髪をいれず殺到してくる津波のことだ。

毎年、二月と十月にこのジェームズタウンに停泊する船は、きまって輪転性の、波長に比して振幅がすばらしく大きい長濤(スウェル)の襲来を実際に体験する。ことに、空はうららかで海は穏やかな、いわゆる天気晴朗(てんきせいろう)のときを選んで奇襲してくるから始末が悪い。だから、うかうかと油断してのんきにかまえていようものなら、それこそ大変である。知らぬ間に錨を引きずられて梅ケ香丸(うめがかまる)の二の舞*を演じないともかぎらない。セントヘレナの海浜の底質は花崗岩(みかげいし)で、錨爪(いかりづめ)のかきが悪いのだ。練習船の停泊は三月でいくぶんか危険な時期をそれていたが、どうしてまだまだ油断ができない。そこでエンジンは絶えずスチームを上げており、錨鎖(ケーブル)に注意し、錨の位置(ベヤリング)の変化に注意するなど、警戒おさおさ怠りなかった。

* 梅ケ香丸(うめがかまる): 練習船・大成丸が世界周航に出発して約二カ月後の一九一二年九月二十三日、門司港沖で停泊中、荒天のため舷窓から浸水して沈没した。新造船として進水してわずか三年目のことだった。

その長濤(スウェル)の方向は十一月より二月までは北東―北―北西で、五月より十月までは南西―西―北西である。

原因については、あるいは島の北西に短期間の強風(ゲイル)が吹いているからだとか、島の北東に低気圧(サイクロン)が生ずるからだとか、周期的に地滑りによる地震が海底に起こるからだとか、学説まちまちで一定しない。これが普通の年であれば桟橋(さんばし)や道路を洗われて陸上との交通が途絶(とぜつ)するくらいですむけれど、海神のネプチューンやトリトン*の腹の虫の居所が悪いことになると、それこそ惨憺(さんたん)たる光景となる。一八二七年七月のやつを除(のぞ)けば、一八二八年、一八四六年、一九〇二年の三回とも二月にやって来ている。そのうちで最も有名な一八四六年のローラーについて書いてみよう。

* ネプチューンはローマ神話の海神で、ギリシャ神話ではポセイドン。トリトンはポセイドンの息子。

二月十六日、十七日はきわめて息苦しく、温度は危険なほどいきなり急上昇し、夜中にはときどきスコールが来て磯浪(サーフ)はますます高く強く砕(くだ)け、ついに十八日には、海神の激怒はその絶頂に達して堤防は破れ、クレーンは飛び、倉庫はさらわれ、人畜は死傷し、埠頭(はとば)は影も形もない惨状(さんじょう)を呈した。停泊の船は一八艘(そう)のうち一三艘まで転覆(てんぷく)したり沈没したりして、苦しみに泣き叫ぶ阿鼻叫喚(あびきょうかん)の世界が海にも陸(おか)にも一時的に生じてしまった。無風(カーム)の津波であるから、帆船は風を利用して沖合はるかに難を避けることができなんだのがそもそのもの原因であった。当時、その修羅場(しゅらば)を目撃して描写(スケッチ)した郵便局長トーマス・ブルースの絵を見ると、多くのあわれな帆船が海に踊るイルカのようにもんどり打って、波の谷に沈んでいく様子がきわめてグロテスクに描かれてあった。

トーマス・ブレースの描いたローラー到来時の様子( “The Rollers of 1846” )

こちらは一部を拡大したもの

取り残された孤島

一五一三年にポルトガルの貴族が遠島(えんとう)を申しつけられて以来、世界に二つとない島流しの適所となったセントヘレナは「南緯一五度一五分、西経五度四十六分」の位置にあり、アフリカ大陸から西へ千二百海里、南米大陸から東へ千八百海里の、どこまでも青くて広い南大西洋中の一孤島である。大きさは南北に十里、東西に六里四分の三の長さで、面積は四十七平方マイルだという*。

* セントヘレナ島: 面積はメートル法に換算すると約122平方キロメートル。
日本でいえば伊豆大島よりやや大きく、瀬戸内海の小豆島(しょうどしま)よりやや小さい。

中央にあるダイアナ峰(ピーク)を中心に、いくつかの狭い急峻(きゅうしゅん)な谷(バレイ)が四方に滑り落ちて、あるところ(東西二つの側)では急な断崖(だんがい)絶壁(ぜっぺき)となり、あるところ(南北二つの側)では比較的に緩慢な斜面を形成し、かろうじて停泊地となる入江(北のジェームズタウン、南のサンデイ湾)を抱(だ)いている方には、ロングウッドのような高くて乾燥した場所がある。これがセントヘレナの地勢である。そして、この谷といわず丘といわず高原といわず、いたるところ、何々(なになに)砲台(バッテリー)、何々(なになに)砲座の名のついた物騒(ぶっそう)な跡が、突っついて壊(こわ)したハチの巣のように散在している。

ロングウッドは別として、一般の気候は想像したほど悪性のものではないらしい。もちろん、夏は厳しい暑さであるが、それでも(華氏)七十五度から八十五度*である。降雨はなかなか潤沢で一年平均三十五インチ(九百ミリ弱)の雨量があるという。風は北西から南西の地方風が感じられることもあるが、地理的位置から多くは南東の貿易風に吹きさらされている。

* 華氏(かし)七十五度から八十五度: 摂氏(せっし)に換算すると23度~30度。

同島の貿易は、これを歴史的、人文的、地理的などいろいろの方面から見て、その栄枯盛衰には三つの要因がある。一八六九年のスエズ運河の開通は、わざわざ喜望峰をめぐって行われていた、従来の対東洋貿易に激(げきじん)甚なる革命を与え、南大西洋から多くの船影を奪い去ってしまった。結果として、一時は帆柱が林立し、「泊まりはいつも春景色だった」 ジェームズタウンの賑(にぎ)わいは短期間で消滅してしまった。これが第一の要因である。

一八〇三年に、かのフルトンが世界最初の外輪汽船をハドソン河に浮かべて以来、帆船の権威はゼロとなった。便利という二字は気概(きがい)とか風流を解するとか、神秘とかロマンスとかいうのんきな気分をすべて海の上から追いやってしまった。広大無辺(こうだいむへん)の大洋を横切る船は、わざわざ航路を曲げてまで、この小さくて、たいして役にも立たない小島に寄港するという不便利は避けるようになった。これが第二の要因である。

長い航海をする船乗りにとって、最も怖ろしかったものは青い新鮮な食物の欠乏であった。壊血病(かいけつびょう)の横行(おうこう)であった。ところが「青物屋の天才」が乾燥野菜と缶詰肉などを発明して以来、船乗りはもはや長い航海をこわがるものではなくなった。セントヘレナへ寄港して積みこみをしなくても南大西洋を航海できることとなった。これが第三の要因である。これら三つの要因が現実に裏づけされると、セントヘレナはあわれにも秋になって捨てられた扇(おうぎ)の悲哀(ひあい)をかこつ身となった。

セントヘレナは現在、英王室の植民地である。総督の下にあって重要な政務に参加し、行政組織としては協議に参加できる四人の評議員がいる。その中の一人は駐屯兵(ちゅうとんへい)の指揮をとり、総督不在のとき、これに代わる者である。島で命令を布告(ふこく)する全権はすべて総督の手中にあって、それとは別に立法部といったものはないが、評議員会は本国の王様の勅令の下に議会を設立する権利を保留している。現時点の総督はキャプテン・コルドーという人だそうだ。総督邸はジェームズタウンの南西三マイルばかりのプランテーションにあって、花崗岩(みかげいし)の二階づくりで、本島一の建物である。

飲料水は非常に潤沢で、清冽な泉が計四十カ所もある。その上で、この泉のない唯一のロングウッドをわざわざナポレオンの適所に選んだのは、英人の意地の悪さを極めて露骨に示しているといってよかろう。

灯火は全島みな、パラフィン・ランプかまたはロウソクである。ひとりジェームズタウンの素封家(そほうか)で有力者たるジャックソン商店のみは、自家用の機関とダイナモとを動かして電灯をつけている。

セントヘレナの花は音に名高きもので、その種類の多さと色彩と芳香とは、やさしく旅人の胸に迫るものがある。アラム・リリーやベコニア、ペチュニア、ゼラニウムの豊かな色彩、カメリアやクチナシ、アオイの姿の優美さ。そうした花々がごつごつした岩だらけの離れ島に静かに咲き出でて、浮世(うきよ)の栄枯盛衰(えいこせいすい)をよそに、もの言わぬ島守りのゆかしき心意気を示すと言わんばかりだ。

教育機関としては小学校が八つ(生徒六三九人)と洋裁(レイス)学校が一つある。寺院にはジェームズタウンにセントジェームズ派とセントジョン派が二つ、島の東区にセントマシュー派が一つ、東区にセントポール派が一つある。

人種はオランダ、ポルトガルの移住民と、ズールー等の南アフリカ原住民を奴隷的に輸入したものとの混血が大部分を占めて、英国人は極めて少ない。

同島には海軍の貯炭所(ちょたんじょ)があって、軍艦は一年に二回の割合で入港するので、現に練習船・大成丸が碇泊(ていはく)していた間もヒヤシンスという名前だけはすこぶる優美な巡洋艦(実は古い汚い船で、この航海で服役期間が満了すると水兵は言っておった)が碇泊(ていはく)していた。その他、英国のユニオン・キャッスル・ラインの船が三週間に一回寄港する。一九〇九年、入港船舶総トン数は一五九、七六六トンで、うち外国船はわずかに八三四トン、他はみな英国船であるが、今年は大成丸*入港のため外国船入港トン数の相場を狂わせるだろうと大笑いであった。

* 大成丸(初代): 2224トン。

[ 戻る ] [ 次へ ]