現代語訳『海のロマンス』160:練習帆船・大成丸の世界周航記(最終回)

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第160回: 最終回)

土産(みやげ)話

古い言いぐさだが、「なくて七癖(ななくせ)……」という諺(ことわざ)がある。たいていの人は何かしら癖を持っているという。もちろん、ぼくも持っている。しかも毛色(けいろ)の異(かわ)った妙な癖を。

十二、三歳から二十歳(はたち)ぐらいまでの、美しい、従順(すなお)な、かわいらしい娘の多い家庭にお客となって、若い華(はな)やかな雰囲気(ふんいき)に包まれながら、強烈(きょうれつ)なる色彩とかんばしき芳香(ほうこう)とに富んだ若い生を味わいたい――と、これがぼくの癖である。

しかし、何らの野心も、謀反(むほん)も、冒険もない。ただ、そういう華(はな)やかな家庭の空気にふれていればよい。念のため、ちょっと断っておく。

敏(とし)さんと百合(ゆり)ちゃんと武(たけし)君の家庭は、そういう意味から、ぼくの勝手に選定した家庭の一つである。先方(むこう)ではさぞかし有難迷惑(ありがためいわく)であろうが、とんだ者に見こまれたのが災難と、あきらめてもらいたい。

十五ヶ月ぶりで──どうも「十五ヶ月ぶり」が多いようだが、ぼくらのようなコスモポリタンにとっては、誇(ほこ)りと欣喜(よろこび)とを感じるこんな嬉しい言葉はない──勝手(かって)知った玄関口に立つ。敏(とし)さんが、ニコニコ笑って出てこられる。

お母さんも、百合ちゃんも、武君も、みんな中学校の運動会に行っておられるとのお話である。そういえば、さっきから花火が盛んに鳴るようである。

百合ちゃんといえば、先年のサン・ペドロ航海*のとき、「あの……お船で外国へ? 海の上ですわね、それじゃ海ほうずきが捕れなくって?」と、海ほうずきのお土産(みやげ)を請求(せいきゅう)した娘である。今年はさぞかし尺寸(たけ)が伸(の)びて大きな娘になったであろう。

*  商船学校の練習船(初代)大成丸は一九〇三年に進水し、日露戦争で海軍の輸送船として徴用された後、商船学校の練習帆船として、第一次、第二次……と毎年のように遠洋航海を繰り返した。
大正三年発行の原著では「サンピードロ(サン・ペドロ)」、昭和二六年発行の誠文堂新光社版では「サンビードロ(サン・ビドロ)」となっている。
サンピードロはロサンゼルス近郊のロングビーチの西端、サンビードロはブラジルに同名の地がある。
大成丸は今回の世界周航の直前にも一回目の世界周航に成功しているが、著者は今回が初めての世界周航なので、ブラジルではなく、ロスのサン・ペドロと判断。
ちなみに、この初代練習帆船・大成丸(四本マストのバーク型帆船)は、太平洋戦争が終了した後の一九四五年十月、神戸港において、残存していた機雷に接触して沈没。都合六十三回の遠洋航海で六十三万海里を走破している。

恋に死んだジュリエットの、紅い血液(ち)のほとばしったような紅葉(こうよう)が今ぞたけなわなる信山(しんざん)の秋を、一家の団楽(まどい)暖かきコタツの上の柿に偲(しの)びながら、十五ヶ月の長い航海中のことを思い出すままに語り続ける。

華(はな)やかな美都(びと)リオの媚(こび)ある美女(おんな)の話や、浮世(うきよ)を離れたセントヘレナの島物語、巨大なテーブルマウンテンと慈母のようなスワン河の追憶(ついおく)、あるいは喜望峰沖の「恐ろしき一夜」の感想、インド洋の底深く永久に逝(ゆ)きし両人(ふたり)の級友のことなど。

敏(とし)さんはしみじみと感じ入った表情を巧(たく)みに美しい顔に現(あら)わし、百合(ゆり)ちゃんは、まつ毛の長いかわいらしい目をつぶらにして、まあと感嘆し、武君はただただ、面白い面白いという。快(こころよ)い酔(よ)い心地を顔を表した先生は、機嫌(きげん)よくアフリカの原住民の話を請求される。

「恐ろしき一夜」で、今宵(こよい)限りと覚悟を決めたことを話したときは、奥様までが「おう嫌(いや)だ。なんで船乗りなぞに好(この)んでなったんです? およしなさい」と仰(おお)せられる。

奥様の頭にはもちろん「無冠(むかん)の外交官」の権威もなく、「海外発展の先駆者」たるの責任も認知せず、海洋美の憧憬(しょうけい)も没交渉(ぼつこうしょう)であるらしい。

が、しかし、仕方がない。

これが自分の行くべき道である。自分のために運命(フェイト)の神が紡(つむ)んでくださった生涯である。趣味性から生の必要意義に転化した苦しい人生の一象面(フェイズ)である。

海洋(うみ)の話を喜んで聞き、怖(おそ)れて聞き、笑って聞き、楽しんで聞きうる人は幸福(さいわい)である。

怖(おそ)れも悲しみも楽しみもなく、虚心(きょしん)に海洋(うみ)の話をしうる人は、世にも不幸なる人である。

敏(とし)さんは「どこが一番面白かったかい?」と聞く。

心苦しくも少しく窮(きゅう)した自分は「アメリカ」と答えたが、ケープタウン、セントヘレナ、リオ、フリーマントル、南洋も、皆ことごとく、その後につけ加えたかった。

もしも敏(とし)さんが「どこが一番苦しかったかい?」と問われたならば、心苦しくも少しく窮(きゅう)した自分は、またアメリカ、ケープタウン、セントヘレナ……と繰り返したであろう。

(了)

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『海のロマンス』(米窪太刀雄著)は、今回ですべて終了です。
あしかけ四年にわたり、お付き合いいただき、ありがとうございました。

さらに読みやすくするため、全編にわたり、
現代表記という観点から見直しを行った上で、

今年の夏に電子書籍+オンデマンド出版で刊行される予定です。

2 thoughts on “現代語訳『海のロマンス』160:練習帆船・大成丸の世界周航記(最終回)

  1. 完訳おめでとうございます。海洋文学のマイナーなわが国ですが、この名著が現代語で美しい挿絵を伴って復活されたことはまことに喜ばしい限りです。翻訳ありがとうございました。

    • 福谷さん、ありがとうございます。
      連載中は貴重な助言をいただき、大変に助かりました。
      現在は出版に向けて最終校正を行っている段階で、Web連載用に追加した画像については、ある程度、取捨選択せざるをえませんが、
      原著に掲載されていた写真については、極力すべて掲載する予定です。

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