現代語訳『海のロマンス』159:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第159)。

帰山の途

……広い桔梗ケ原(ききょうがはら)*の片ほとりに、幾星霜(いくとしつき)をさびしくたたずんだ村も、今日はさまざまな秋の草花と、歓迎の文字を記(しる)した色とりどりの旗とで、盛装した花嫁のごとく飾られ、軽く喜んでいる村人の心を、さらにはしゃがせるように、さらにそそのかすように、陽気な昼花火が、青い高い秋の空に男らしく砕け散る。

* 桔梗ヶ原  長野県塩尻市にある、奈良井川の扇状地。

古いモーニングを着た村長殿、中尉の制服をいかつく身体にまとった在郷軍人の団長、黒門付(くろもんつき)に仙台平(せんだいひら)の村会議員、タンスの底からいま出したばかりと──その畳(たた)みジワで一目に証明している──とっておきの矢絣(やがすり)を着た、日焼けしている娘たちがみな、一斉に小さな村の停車場(ステーション)に集まる。

四時の時計が、暮れやすい高原の夕景を先導するようにさびしく高く鳴ると、三千の群衆はすわとばかり襟(えり)をととのえる。飯田町(いいだまち)一番の列車が堂々たる様子で構内に進み入って、「万歳」の歓呼(かんこ)のうちに、商船学校の制服を着用した色の黒い、小さな男がプラットホームに出る。

……ところは、小学校の庭である。海の神たるネプチューンやその息子のトリトン、タイやカツオやサバなどに仮装した村の若者の行列が通り過ぎた後、轅(ながえ)や車輪に紅白だんだらの布巾(きれ)をきれいに巻いた車が一つ出てくる。その中に、三人の娘が座っている。村でも評判の、器量よしの娘が……。皆、一様に黄金(きん)の刺繍(ぬいさし)をしたお納戸色(なんどいろ)のローブを着ている。

しもぶくれのかわいらしい頬をした一人の娘は、青いヒーズと黄金色のシダからできた花の冠をいただいている。愛嬌(あいきょう)のある口元と白い額の別の乙女は、ホップとヒルガオとの冠をいただき、長いまつ毛と潤んだ黒い瞳とローマ風の気高い鼻とを持つ最もきれいな娘は、ヤチヤナギ(ボグ・マートル)の冠で、ユラユラと波打ちながら匂いこぼるるばかりの美しき金髪をかざって……。

この花冠(かんむり)の美人の車がぼくの椅子の前に来たとき、ヤチヤナギの娘はつと立って、はにかみの色うるわしく、声も朗(ほが)らかに歌う。

君こそは世界をめぐってきた、
男の中の雄々(おお)しき男、
君がになう誇りは黄金(こがね)、君がいだく欣喜(よろこび)は白銀(しろがね)、
その黄金(こがね)にもまして、その白銀(しろかね)にもまして、
尊(とうと)きものを、われは奉(たてまつ)る、
わが雄々(おお)しきアルビオン*の児(こ)に、

* アルビオン  英国本島(グレートブリテン島)の呼称。

かく歌い終わったと思ったら、娘はヤチヤナギの花冠(かんむり)をとって、その手でぼくの頭に載(の)せる。ハーブの一種、ヘリオトロープの強い芳香(におい)がプンと鼻をうつ。

何か返歌(かえし)をしようと立ち上がったぼくを、真正面から意味ありげに鋭く見つめた娘は、美しくニッと笑(え)む。思わず赤くなったぼくは、出鼻(ではな)をくじかれ気味で、ウウウウウと口ごもる。

と同時に、夢はさめた。

汽車はいま日下部(くさかべ)駅を出たばかりで、車窓(まど)を通して、はるかに甲府の盆地が煙(けむり)のごとくかすんで、ぼんやり見える。薄衣(うすぎぬ)をすかして見るように、薄青い松林の間を、銀色(ぎんしょく)に光った笛吹川(ふえふきがわ)の清流がチラチラと見え隠れしている。

手に『ウエストワード・ホー』*を握ったまま、うたた寝の夢からさめたぼくは、美しい幻想の境地からたちまち明るい辛辣(しんらつ)なる現実に呼び戻された、その哀愁(あいしゅう)をつくづくと感じる。
花火の音も聞こえず、村の花も見えず、村長も花冠(かんむり)の娘も皆消え去って、後には「アミアス」**ならぬ一練習生がみすぼらしく取り残された。

* ウエストワード・ホー  十九世紀英国の作家チャールズ・キングズリーの歴史小説。
** アミアスは、政府(この場合は英国)から敵国の船舶を襲撃する許可を得ている、いわば政府公認の海賊たる私掠船(しりゃくせん)船長サー・フランシス・ドレークに同行してスペインと戦った、前出の物語の主人公の名前。

軌道(レール)の脇に咲いている石竹(せきちく)の花も、城山の上に生えている老松(ろうしょう)の姿も、皆、十五ヶ月ぶりに可憐(かれん)に、十五ヶ月ぶりに気高(けだか)くある。

「自然を好み、人間を好まず」とは、ぼくのモットーである。

塩尻(しおじり)の停車場(ステーション)には「ヨー、帰村(かえ)ったか」と、迎えてくる友の一人もいないだろう。また、いないことをひたすらに希(のぞ)むのである。

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