現代語訳『海のロマンス』158:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第158回)

あれ、芙蓉峰(ふようほう)が

十月十六日朝――時、船は薄曇りにとぼけた空と、昨日のシケがきまり悪げにまだ十分に静(しず)まらない海との間を、心細く前後左右に揺れながら、危なかしげに進んでいる。

涙にうるむ声をあげて、「微笑(ほほえみ)のうち涙あり」と、悲しき、嬉しき、はずかしきすべての情操(じょうそう)を傾けつくして歌いこがれたその翌日である。

船の右舷(うげん)の水平線には、大島を先頭に、利島(としま)、新島(にいじま)、式根島(しきねじま)、神津島(こうずじま)、三宅島(みやけじま)……と例の伊豆の七島が、あるいは平たくうづくまり、あるいは円錐形(えんすいけい)に高く「直立不動」をしている。みな同じ色の淡い藤紫の色に染まりながら……。

この苦しい楽しい長途(ちょうと)の航海から帰ってきた練習船(ふね)を迎えるように、一斉に勢揃(せいぞろ)いした列島(しまじま)にそそいだ視線を左に転じると、白く、黒く重なるSの雲*の下に曙色(あけぼのいろ)に光っている伊豆の山脈が見える。

* Sの雲  気象用語としては層雲(stratus)を指すと思われる。
「白く、黒く重なる」とあるので、この場合は乱層雲かもしれない。

天城(あまぎ)はいずれ、伊東はいずこと、鋸歯状(きょしじょう)の輪郭(ライン)をなした山の背を伝う視線がはからずも、銀白色に光った一つの頂上(いただき)を見つけ出す。

「おい、伊豆の住人はおらぬか」「半島の男はいないか」「一体、あの山は何というか」と、口々に罵(ののし)り騒ぐ言葉の下から「バカっ! 何を騒(さわ)ぐ!? あれは芙蓉峰(ふじ)じゃないか!!」と一喝(いっかつ)……。

さては吾が恋人ではおはしませしか!? 十五ヶ月前には、底ふるう大海原の脈拍(ロービング)の下に美しくも悲しく消えていった、その芙蓉峰(ふじ)であるのか?!

十五ヶ月三万六千海里(マイル)の大航海の間、二百の船乗りの想像に、常に美しく、常に気高(けだか)く生きていた、唯一の「日本」の代表者よ!! 三千年の昔から、神秘性をそこなうことのない、汚れなき、白き冠(かんむり)! 春は桜草に、夏は月見草に、秋はナデシコに色彩々(いろとりどり)の草花を育(はぐく)めるその慈愛(じあい)ある裾野(すその)!!

ああ、なつかしき恋人よ、吾は御身(おんみ)を見て笑い、御身(おんみ)を見て泣き、御身(おんみ)を見て歌い、喜悦(きえつ)と哀愁(あいしゅう)と羞恥(しゅうち)とに、いたずらに狭き胸を焼き、狭き胸を傷(いた)む。

そうであれば、唱(うた)わんかな、わが恋人よ。

ああなつかしき芙蓉峰(ふようほう)、ああ幸(さち)多き今日の日や、
幾夜(いくよ)重ねし夢さめて、使命を果たして海の児(こ)が、
歓喜(かんき)あふるる大成(たいせい)の、誇りに満ちしその姿!!

鏡ヶ浦(かがみがうら)の抱擁(ほうよう)

白い西洋ローソクのように、チラチラと夕日に輝く野島の灯台はやがて洲の崎の山陰に隠れ去って、船の針路は直ちに鏡ヶ浦の湾口に向かっている*。

* 野島の灯台  千葉・房総半島の先端(南端)にある日本で二番目に古い野島埼灯台のこと。
鏡ケ浦は、野島崎灯台を右に見て北上する船舶が東京湾に入る直前の、右舷側(千葉県側)にある入り江。現在は一般に館山湾と呼ばれている。

情趣多い鏡ヶ浦の水江(みず)から浮き上がって、絵のような二つの島がうれし涙にかすむまなざしに落ちてくる。鷹の島と沖の島である*。

* 鷹の島と沖の島  いずれも現在は陸続きとなっている。

感慨(かんがい)深き胸を抱いてクレインにもたれて立つ。躍(おど)る胸を抑(おさ)えれば抑(おさ)えるほど、高鳴りする心臓を、なだめればなだめるほど、胸騒(むなさわ)ぎし、脈高く打ち、はずかしや五尺(ごしゃく)の丈夫(じょうぶ)*、われとわが身の始末に困り果てる。

* 五尺の丈夫  一人の男というほどの意味。
 五尺は長さの単位で百五十一センチほどだが、具体的に身長を示しているのではなく、成人男性一般を指す。丈夫(じょうぶ)は「ますらお」とも読み、健康で頑丈な男。

なつかしき鏡ヶ浦に二トンの大錨(おおいかり)をぶちこんだのも十五ヶ月ぶり。石橋校長閣下から賜(たまわ)った和菓子の「鹿(か)の子」も十五ヶ月ぶりのおいしい味わい。なんでもかんでもすべて十五ヶ月ぶり……。

十月十六日の夜の雨は嬉しい細雨(あめ)でもあった。なつかしい日本に降る雨、美しい鏡ヶ浦に降る雨は、実になつかしく、実に美しいと思った。

ジジーと、カジカかミミズでもうめき泣くような、細雨(あめ)と海洋(うみ)との水のしずくのささやきを枕近く聞きながら、嬉(うれ)しくて嬉(うれ)しくてたまらない胸を抱いて、うつらうつらと眠っている耳へ、ドブーン、ドブーンという音がどこかなつかしく聞こえてくる。ビール瓶を海に捨てる音である。「下甲板(げかんばん)」のどこやらで安着(あんちゃく)祝(いわ)いをしていると見える。

やがて、うとうとと、なかば夢幻(むげん)の境に彷徨(ほうこう)しかかった意識を引き戻すように、「行(き)会う女という女が、どれもこれも、みなきれいに見えてね……」という雑役(ざつえき)の話し声が、夢のごとく幻のごとく聞こえてくる。

「女よ、幸福(さいわい)とは汝(なれ)のまたの名なり」と口ずさんだように、自分は記憶している。十五ヶ月の長い、つらい、楽しい航海から帰ってきたばかりの自分は……。

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