スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (13)

移動販売の商人

モリエールの喜劇で、召使たちが使用人部屋で上流階級の真似事をしているところに本物の高貴な人々が入ってきたときのように、ぼくらは本物の行商人と出くわすことになった。ぼくらにとって、これがつらい教訓となったのは、彼らがぼくらがそうだと思われた底辺に近い行商人ではなく、もっと立派な立場の商人だったということだ。その人たちはネズミの群れにまぎれこんだライオン、あるいは二隻の小舟の間に割りこんできた軍艦といった感じだった。もはや行商人という範疇にはおさまらなくて、荷馬車で移動販売をしている商人なのだった。

モーブージュの成功しているエクトル・ジリヤール氏がロバに荷馬車を引かせてぼくらの宿にやってきたのは八時半ごろで、威勢よく宿屋の連中に声をかけた。細身でせわしなく落ち着きのない人で、役者のようでもあり騎手のようでもあった。教育の成果は見られないものの商売に成功していることは明白だった。というのも、氏はフランス語の名詞や形容詞について頑固なまでに男性形しか使わず、夜がふけるにつれて、未来形も文法なんか無視したものになった。一緒に旅をしている妻の方は、髪を黄色いスカーフで包んだ、魅力的な若い女だった。息子はまだ四歳で、シャツを着て軍帽をかぶっていた。息子が両親より立派な服装をしているのは明らかだった。すでに寄宿制の学校に入学していたが、学校が休みに入ったので両親と一緒に旅をしているという話だった。たくさんの貴重な商品を満載した荷馬車で、お父さんやお母さんとずっと一緒に、道の両側に広がる田園風景をながめながら旅をし、村々の子供たちから羨望と驚きをもって見つめられるというのは、なんともすてきな休みのすごし方ではないだろうか? 休暇の間は、世界一の紡績業者の息子であり後継ぎであるより、移動販売する商人の息子でいる方が楽しいだろう。絶対的な王子ということについていえば、このジリヤール氏の息子ほどぴったりする子供に会ったことがない。

エクトルさんと宿屋の息子がロバを馬屋につなぎ、貴重品すべてに厳重に鍵をかけている間に、女主人はビーフステーキの残りを温め、冷たくなったじゃがいもを薄く切って揚げた。ジリヤール夫人は息子を起こした。長旅で疲れているのかぐずっていて、灯りをまぶしそうにしている。その子は目をさますと、夕食が出される前にガレット*1や熟していない梨、冷めたジャガイモをつまんで食べた。ぼくの見るところ、それでますます彼の食欲はましたようだった。

女主人は母親としての対抗心を発揮して自分の娘を起こし、二人の子供を対面させた。ジリヤール氏の息子は娘を一瞥したが、犬が鏡に映っている自分の姿をちらっとみて走り去るように、すぐによそを向いた。彼はガレットに興味を奪われていた。母親は息子が娘に興味を示さないことにがっかりしたようで、率直に失望した様子を見せたものの、まだ子供だからともっともな判断を下した。

この子が女の子にもっと関心を示すようになり、母親のことはそれほどかまわなくなるときがくるのは間違いないだろう。そのときに彼女がいま思っているのと同じくらいそれを受け入れてくれればよいのだがと思ったりした。とはいえ奇妙なことに、男への軽蔑を隠さない女でも、自分の息子については、男の最も醜い特質があらわれていても、それを元気がよいと誇らしく思うようだ。

一方、娘は男の子よりずっと長く彼をみつめていた。おそらく、彼女は自分の家にいて、男の子の方は旅をしていて珍しい光景に慣れていたからだろう。しかも、ガレットは彼女には与えられていなかった。

夕食の間ずっと、夫妻は息子のことばかり話していた。両親はどちらも自分の子供を溺愛していた。夫の方は息子がいかに賢いかを、この子は学校の子供全員の名前を知ってるんですよ、などと自慢し続けた。確かめてみるとそれが本当ではないとわかってしまったが、すると、この子はいかに慎重か、びっくりするくらい几帳面で、何か質問されると、じっくり考えて、もし知らなければ「本当になんにも言わないんですよ」と述べた。それが本当なら確かにとても慎重ではある。そうした会話の合間に、夫はビーフステーキを口にほうばったまま、息子が何か印象的なことを言ったりやったりしたときいくつだったかねと妻を証人にしながら、しゃべりまくった。夫人の方はそういう話はふんふんと聞き流していた。母親は息子自慢をするタイプではなかったが、息子の世話に没頭しつつも、その子が出あった幸運な出来事すべてを思いだしては静かに喜んでいる風だった。この子はまだはじまったばかりの休みのことばかり話し、後で必ずやってくる辛い学校生活のことはあまり考えなくてすんでいたが、こんな境遇にある子は他にはいないだろう。母親は息子が独楽や笛やヒモをポケットに詰めこんでいるのを、仕事柄もあってか、自慢そうに示した。彼女が訪問販売で家をたずねるときは息子も一緒についていき、売れるといつも、得られた利益から一スー*1をもらっていたようだ。実際に彼らはとてもよい人たちだったが、息子についてはひどく甘やかしていた。とはいえ、両親は息子の様子には目を配り、ちょっとやんちゃをするとたしなめた。こうしたことは、夕食の間、ときどきあった。

[脚注]
*1:ガレット - フランス北西部の粉を使った素朴な郷土料理/お菓子。生地をうすく丸く広げて焼き、これがクレープの元になったとされる。
*2: スー - フランスの通貨で、1フランの20分の1。十進法が導入されると、1スーは5サンチームに相当するとされた。サンチームは補助単位で1フラン=100サンチーム。現在は通貨としてユーロが導入されている。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (12)

ストーブの隙間や空気穴から見える赤い炎を別にすれば、部屋は真っ暗だった。女将が新しい客のためにランプをつけた。暗かったおかげで断られずにすんだのだと思う。というのも、彼女がぼくらの身なりをみて喜んだ風にはみえなかったからだ。ぼくらが入った部屋は広かったが殺風景で、音楽や絵画を寓意的に描いた二枚の版画と、公衆の面前で酩酊してはならないという法律の写しが貼ってあった。片側にバーカウンターがあり、ボトルが半ダースほど並んでいた。労働者が二人、疲れきった様子で夕食を待っていた。地味な格好の女が眠そうな二歳くらいの子供の世話をしていた。女将はストーブに載せた鍋をかきまぜ、ビーフステーキを焼きはじめた。

「行商してるのかい?」と、彼女がやさしくはない口調で聞いた。会話はそれで全部だった。ぼくらは本当は行商人になったのかもしれないと思うようにもなった。ポン=シュル=サンブルの宿屋の経営者ほど、相手がどういう人間か推測する幅の狭い人たちを見たことがない。しかし、その場所の流儀や作法はその地で使われている銀行紙幣が通用する範囲と似たり寄ったりだ。どんなに偉ぶっても、ちょっと遠くへ行けば通用しなくなる。このエノー州の人々は、ぼくらとごく普通の行商人の区別がつかなかった。ステーキが焼きあがるまで、ぼくらは、彼らがぼくらを彼ら自身の価値判断でどう受けとめるのか確かめようとした。つまり、できるだけ礼儀正しく振る舞って、場をなごませようとした。だが、そうしたこと自体、ますます行商人という彼らの確信を強めるだけになってしまい、考えこんでしまった。それだけ一生懸命やっても彼らの印象を変えることができなかったことからすると、フランス語圏では行商人というものがイギリスのそれとは違っているのかもしれない。

やっと食事の用意ができた。二人の労働者(そのうちの一人は過労と栄養不足で病気になったように蒼白だった)の夕食は、一枚の皿にパンと皮つきのじゃがいも、氷砂糖で甘くした小さなコーヒーカップ、タンブラーに注いだ自家製の酒だった。女将とその息子、それに子供連れの女も同じものを食べた。ぼくらの食事はそれに比べると豪華だった。見かけほどは柔らかくないビーフステーキにジャガイモ、チーズ、自家製の酒。コーヒーには白砂糖がついていた。

それが紳士──いや、行商人というものだ、ということだ。ぼくはそれまで行商人をたいした存在だと思ったことはなかったが、こういう労働者相手の宿ではたいした存在なのだと、自分がその立場におかれてはじめてわかった。ホテルでスイートルームに泊まるような一ランク上の存在だとみられているのだ。人生の経験を積むにつれてわかってきたが、人間には無限の段階があり、おそらくは神のご加護により、その最底辺にはだれも存在せず、だれもが他のだれかに対して何かしら優位性を感じ、ともかくプライドが保てるようになっているのだろう。

とはいえ料理はまずかった。とくにシガレット号の相棒はそう感じたようだ。ぼくはいろんな冒険や固すぎるビーフステーキも含めて、すべてが面白いと思いこもうとした。ルクレティウスの説によれば、ぼくらのステーキは他の人々の粗末なパンを見て自分のステーキがうまいと感じるはずだった。しかし、現実にはそうはならなかった。自分よりつましい暮らしをしている人々がいると頭で理解していても──同じテーブルで、実際にまわりの人より豪華な食事を出されると、あまり気持ちのよいものではないし、摂理にも反する。かつて食い意地の張った少年が自分の豪華なバースデーケーキを学校にこれ見よがしに持ってきたことがあるが、それ以来、そんな光景は見たことはなかった。なんとも鼻もちならないし、自分がそうする立場におかれると思ったこともなかった。だが、ここで行商人とみなされるというのは、そういうことなのだ。

イギリスでは、より貧しい階級の人々の方がより豊かな人々に比べて気前がよい傾向があることに疑いはない。そして同じような階級の人々の間では、気前のよい人々と気前のよくない人は区別しにくい、ということ大きく関係しているに違いない。労働者とか行商をする人々は、自分より苦しい立場の人々から自分をまったく切り離しておくことはできない。自分が贅沢するときは、そんな贅沢が許されない人々の面前で行わなければならない。となれば、目の前にそういう人がいれば、気前よくせざるをえないではないか……人は人生に仮住まいしているわけだが、そうやって食べ物を口に入れるたびに、それがもっと腹をすかせた人々の指からもぎとられたものであることを思い知らされるはめになる。

一方、それなりの段階にある富裕層では、気球が天に昇っていくように、そういう幸運な人々は雲を通り抜けてしまうので、地上の出来事は視界から隠されてしまう。見えるのは天体だけで、すべて賞賛に値する秩序に満ち輝いている。そういう人々は、自分が神意により感動するほど庇護されていることを知り、自分をふと百合やヒバリのように感じたりもする。むろん歌ったりはしないが、立派な馬車に乗って謙虚にふるまっているように見える! もし世界中の人々が一つのテーブルで食事したとすれば、そういう境地にある人々はひどい衝撃を受けるだろう。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (11)

ポン=シュル=サンブル

行商人

シガレット号が朗報を持って戻ってきた。ぼくらのいるところから歩いて十分ほどのポンと呼ばれるところに宿があるらしかった。穀物倉庫にカヌーを置かせてもらって、子供たちに道案内を頼んだ。子供たちはぱっとぼくらから離れ、ご褒美をあげるよという申し出にも返事をせず黙りこむ。子供たちにとって、ぼくらは明らかに二人連れのおそろしい青ひげ*1だったのだ。公共の場で話しかけたり数の優位を頼りにできるときはいいが、この穏やかな日の午後に自分たちの村に雲の上から舞い降りてきた、腰帯を締め、ナイフを差した二人連れ、遠いところから旅してきたらしい、物語にでも出てきそうな怪しい大人を一人で道案内するとなると話は別なのだろう。穀物倉庫の主人が出てきて、案内役として一人の子供を無理やり指名した。ぼくらは自分で道を探していくべきだったかもしれない。だが、その子はぼくらより穀物倉庫の主人の方を怖がっていた。前にどやされるようなことをしていたのかもしれない。この子の小さな心臓は激しく脈打っていたに違いない。というのも、彼はぼくらよりずっと前を小走りにどんどん進み、ぼくらを振り返るその目はおびえているようだったからだ。ジュピターやオリュンポスの神々*2をその冒険で案内したのも、こんな風な子供たちだったのかもしれない。

教会やくるくる回る風車のあるクアルトから、どろんこ道の上り坂が続いていた。農作業を終えた男たちが家路についている。元気のいい小柄な女性がぼくらを追いこしていった。彼女はロバに横向きに乗り、ロバの背にはきらきら輝く牛乳缶が左右に振り分けて吊るされていた。追いこしながら彼女はロバの腹を蹴り、徒歩の連中に声をかけていく。疲れ切った男たちはだれも返事をしなかった。まもなく道案内の子供は道を外れ、野原を進んだ。太陽は沈んだが、ぼくらは西に向かっていて、前方の空は金色に輝く湖がひろがっているようだった。開けた田園地帯がしばらく続き、やがて葉の生い茂った木々がアーチのように道におおいかぶさってくるようになった。道のどちら側も薄暗い果樹園で、木立ちの間に農家が低く点在し、煙が空に昇っていた。西の方角には、ちらちらと大きな金色に輝く空が見えた。

シガレット号の相棒は、これまで見たことがないほど、くつろいでいるようだった。この田園風景に感動し抒情的になっている。ぼくの方も少し気分が浮きたっていた。歩くにつれて、夕方の心地よい空気や木々の影、輝くような明るさや静寂も調和を乱さずついてくる。ぼくらは、これからは市街地を避けて農村に泊まろうと心に決めた。

道はしまいに二軒の建物の間を抜けて、広いがぬかるんだ幹線道路に出た。見渡す限り、どちらの側にも不格好な集落が並んでいる、家々は道路から離して建てられていて、道路の両側の空き地には積み上げた薪や荷馬車、手押し車、ゴミの山があり、草も生えていた。左手の離れたところには、不気味な塔が通りの真ん中に立っていた。かつてそれが何だったのかはわからないが、たぶん戦争があったころの陣地のようなものだろうか。今では文字盤の数字が読めなくなった時計が上の方に取りつけてあり、下には鉄製の郵便受けがあった。

クアルトで教えてもらった宿屋は満室だった。あるいは女将がぼくらの身なりを気に入らなかったのかもしれない。ぼくらは長くて濡れたゴム製のかばんを抱えていたので、いかにもうさんくさい格好──シガレット号の相棒によればゴミを集めて回っている業者も同然──だった。「あんたたち、行商してるの?」と女将が聞いた。そして、わかりきったことだと思ったのか、返事を待たず、街のはずれに旅行者を泊めてくれる肉屋があるので、そこに行って泊めてもらうようにといった。

ぼくらはそこへ行ってみた。だが、肉屋は忙しそうで、そこでも満室だと断られた。やはり、ぼくらの格好が気に入らなかったのかもしれない。別れ際に「あんたら行商人かね?」と聞いた。

暗くなってきた。よく聞きとれない夕方の挨拶をしていく通りすがりの人の顔を見ても区別がつかない。ポンの人々は油を倹約しているようだ。長く伸びた村で、窓に灯りがともっている家は一軒もなかった。ここは世界で一番長く村ではないかと思う。暗くなってきたのに宿が見つからないという困った状況で、一歩が三歩にも感じられた。最後の宿屋に来た時には体力も気力もなくなっていて、薄暗い扉ごしに、おずおずと今晩泊めてもらえますかと聞いた。まったく愛想のない女の声で、いいよという返事があった。ぼくらはかばんを投げ出し、手探りで椅子のところまで行った。
脚注]
*1: 青ひげ - グリム童話などに出てくる、何人もの妻を殺した殺人鬼。
*2: ジュピターやオリュンポスの神々 - ギリシャ神話でオリュンポス山(標高2919m)の神殿に住むとされた十二神。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (10)

サンブル運河は小さな丘の間を縫って蛇行しながら流れていたので、クアルトの水門の近くまでたどりついた時には午後六時を過ぎていた。船を曳いて歩く道には何人か子供たちがいて、道沿いにぼくらを追いかけてきた。シガレット号の相棒は彼らと冗談を言いあっている。ぼくは相手にわからないよう英語で相棒に警告しようとした。やつらは最も危険な生物で、下手にかかわると、しまいには石が雨のように飛んでくるぞと、ね。だが、ダメだった。ぼくはといえば、にっこり笑って頭をかしげ、フランス語があまりわからない、無害な人間だというふりをした。実際にぼくは母国で経験しているのだ。こういう元気いっぱいの悪ガキの相手をするくらいなら危険な野生生物と出会うほうがましだ。

だが、ぼくはこの若く友好的なエノー州の子供たちに対して不当な仕打ちをしていたのだった。シガレット号が宿を探して運河を離れたので、ぼくは土手に上がってカヌーの番をしながらパイプをくゆらせたが、すぐに好奇心旺盛な、この人なつっこい連中に取り囲まれた。そのころまでには、子供たちに若い女性と片腕のない温和な青年が加わっていたので、ちょっと安心ではあった。ぼくがフランス語を一言二言口にすると、少女の一人が妙に大人ぶった様子でうなずいた。「やっぱりね」と、彼女は言った。「この人、ちゃんとわかるのよ。さっきは、わかんないふりしてただけ」 そして、子供たちは人が好さそうな笑い声をたてた。

ぼくらがイギリスから来たと聞くと、とても驚き感銘を受けたようだった。さっきの少女は、イギリスは島で、ここからずっと遠いんだよ(ビヤン・ロワン・ディシ)と説明している。

「そう、ここからずっと遠いんだ」と、片腕の若者が言った。

ぼくは人生ではじめてホームシックを感じた。子供たちの反応を見ていると、とんでもない遠くまで来た実感がわいてきた。子供たちはカヌーについて口をそろえてほめてくれた。この子供たちはちょっとした配慮もみせたのだが、それはここに書いておくに値するだろう。というのは、ぼくらが上陸しようとする最後の百ヤードほど、子供たちは乗せてくれと耳を聾するほどの大声をあげていたし、翌朝ぼくらが出発するときも同じ調子で頼みこんできたくせに、カヌーを岸につけて空っぽで係留しているときに乗せてくれとは口にしなかったのだ。それなりに気を使ったということだろうか? それとも、カヌーに自分たちだけで乗って、ぐるぐる回転するだけでうまく進めずに恥をかくことを心配したのだろうか? こういう皮肉というか、斜に構えたものの見方は好きじゃない。というか、この二つは同じことなのかもしれない。感傷にひたろうとする者に冷水をあびせ、バスタオルでごしごしこすれば元気が出てくるように、感受性が鋭敏すぎる人間には、人生においてこういう皮肉な見方も必要なのかもしれない。

子供たちの関心はカヌーからぼくの服に移った。彼らはぼくの赤い帯に感心し、ナイフには畏怖の念を抱いた。

「イギリスでは、こんな風に作るんだ」と、片腕の少年が言った。現在のイギリスで作られているナイフがどれほどひどいものか彼が知らなくてよかったと、ぼくは思った。「こういうナイフは船乗り用なんだ」と、彼はつけ加える。「大きな魚から自分の命を守るためにね」

言葉をかわすごとに、ぼくは自分が子供たちにとって、だんだんロマンティックな存在になっていくのを感じた。実際にそう思われていたのだと思う。ぼくが持っているパイプはフランス製の粘土でできた、ごくありきたりのもので汚れてもいたのだが、彼らの目には、遠くから運ばれてきた貴重なものに見えたらしい。ぼくの服にほめるところがなければ、それはすべて海を超えてきたからだとされた。とはいえ、ぼくの服装で一つだけ、そうしたほめ言葉の対象にならなかったものがある。泥まみれのズック靴だ。彼らとしても、この泥だけは自分たちの国のものだと認めざるをえなかったのだろう。さきほどの少女は子供たちのリーダー的な存在だったが、ぼくに恥をかかせないよう率先して自分の汚れた木靴を見せたりもした。彼女がいかに優雅に明るい調子でそうしたことを行ったか、みんなにも見てもらいたかった。

若い女性は取っ手が二個ついた真鍮製の牛乳入れを抱いていたが、いまは少し離れた草地に置かれていた。ぼくは連中の注意を自分以外のものに向ける機会を見つけてうれしかったし、それをほめることで少しはお返しをすることができた。ぼくは缶の形と色の両方を本気でほめ、金でできているみたいに美しいと言った。彼らは少しも驚かなかった。この地方では明らかに誇らしく思われている製品だったからだ。子供たちは口々に、この缶がいかに高いかを語った。一個が三十フランで売られることもあるのだという。この缶をロバでどうやって運ぶのかというと、サドルの両側にそれぞれ一個ずつ吊るすのだが、それだけで豪華な飾りをつけたようになる。しかも、この地方一帯に広く普及しているため、大きな農場には大きな缶がたくさんあるのだ、と。