現代語訳『海のロマンス』21:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第21回)


船に無賃乗船した生き物たち

本船が七月十八日に房州(千葉県南部)の一角から辞し去ったとき、三種類の生き物が勢力を増やそうと、この世界的大旅行の途(と)に加わった。すなわちネコと赤とんぼとハエである。ネコは前に述べた船随一の愛嬌者である。

けなげにも一人、雄々しくも、なつかしき故郷の山野を離れ多くの仲間と別れて、本船に舞い込んだ赤とんぼ君は、二、三日の間はその美しい姿を船室(キャビン)の中に輝かせていたが、船が北上するにつれて加わってきた寒気のためにか、露が多く空気が冷ややかなある朝、そのあわれな最後の姿が後甲板の上に見出された。

最後に登場するハエこそ、世にも横着にして動いてやまざる底(てい)の不敵な曲者(くせもの)である。室町幕府の知恵袋といわれた細川頼之(ほそかわよりゆき)*1を出家させて以来、ハエはうさんくさいもの、しつこいものと相場が決まった。四枚の羽と六本の足でさえだいぶ厄介であるのに、複眼という八方にらみの怪しい道具を頭につけている。ときどきは造物主の持つ気まぐれな、いたずら好きの一個性をつくづくうらめしく思うことがある。こんな奇妙な動物を人間の厨房(キッチン)や居間に放った造物主の行動はすこぶる皮肉である。冷ややかなアイロニーである。いろいろの妖怪変化(ようかいへんげ)をパンドラ姫の箱に入れたジュピターの悪戯(いたづら)と同じである。いままで梁(ビーム)におった一匹のやつがブーンと不気味にうるさい音をだして降って来たと思ったら、自分の当然の権利であるかのようにゆらりと筆の先にとまる。じっとしばらくその行動を注視する。

悠々(ゆうゆう)として慌(あわ)てず急がず、後足をくの字に曲げて薄い羽をしごいている。しゃくにさわったから軽くフーッと吹いてみる。それでもいやに落ち着いて、静かに片方の二枚の羽と三本の足を動かして巧みに元の姿勢に戻り、効力の平均(バランス・オブ・エフィカシー)という力学的証明を最も簡単に最も愚弄(ぐろう)する方法でやってのける。愛想もこそもつき果てて、ただ見ていると、図に乗って今度は前の二本足を熊手のように動かし、例の傑物の眼をでんぐり返るほどゴリゴリとこする。やりきれない。ヒョーッと突然(だしぬけ)に一大陣風(スコール)を口から吐き出す。少しはひるんだろうと思ったら、パッと飛んでツーと電光石火(でんこうせっか)のごとく眉間(みけん)の真ん中にへばりついた。いまいましいと思って、十分の用意と成算とをもって、くたばれとばかりに額を打ったら、いたずらに悄然(しょうぜん)たる響きを残して高く飛び、舷窓(スカッツル)の縁(へり)にいた仲間の一つに飛びついた。付和雷同(ふわらいどう)と模擬踏襲(もぎとうしゅう)との両性能の活用において、ハエは犬にも劣らぬ豪(ごう)の者である。

一波起こって万波生じる。一匹の奴がさわぎだしたらもうだめだ。喧々囂々(けんけんごうごう)と百畳の食堂は一面にただハエの羽音のみだ。本船には種々の生の食料が保管されており、日々の献立(メニュー)を塩梅(あんばい)する衛生係は三人の学生が担当している。今、一人の衛生係が黒板に何か書いている。

今やハエはわれらの仇敵(あだ)となった。うるさいこと、おびただしい、諸君、とろうじゃないか、衛生部はこの犠牲的努力に向かって寸志を提供する。

    一、ハエ三十匹ごとにサイダー瓶一本
     一、ハエを追ってみだりに士官室に飛びこまないこと

と。
敵将を得たる者には報奨金と領地を与えるとは、春秋時代からの論功行賞の目安である。サイダー瓶一本はすこぶる奇抜(きばつ)である。

ただでさえ長航海の無聊(ぶりょう)に苦しみ、何かないかと手ぐすね引いて機会を狙っている連中である。
ワーッと鬨(とき)の声をあげて歓迎したのも無理はない。ある者は草履(ぞうり)を片手に天井を望んで震天動地(しんてんどうち)の大活劇を演じている。ある者は石油を入れたコップを持って巧みに壁間のハエを誘殺し、孔明の七縦七擒(しちしょうしちきん)の妙計*2を学ぶもの、用意周到に罠(わな)をしかけて待つ者、食堂はたちまちの間に一大修羅場(しゅらば)となった。なかには遠く厨所(ギャレー)や船倉(ホールド)にまで遠征して、にわかごしらえのハエ取りウチワや棕櫚(シュロ)の箒(ほうき)を手に普段は行かないところまで遠征して大量に捕獲した者もある。

多人数の努力というものはおそろしいものだ。さしも真っ黒に見えたハエ群も見事に全滅しさった。ついて衛星係に聞けば、サイダー瓶の支出百四十四本、ハエの死骸は実に四千三百二十と。テルモピレーの激戦*3も奉天の大勝利*4も一歩譲るだろう。



脚注
*1: 細川頼之(ほそかわよりゆき) - 室町時代の守護大名で幕府の管領(かんれい)を務めた。京都の地蔵院(臨済禅宗)に頼之の木像と墓がある。


*2: 孔明の七縦七擒(しちしょうしちきん)の妙計 - 中国の春秋三国時代の英雄・諸葛孔明(しょかつこうめい)が敵将を捕獲しては釈放するという硬軟両方の措置を使い分けて敵将を心酔させるに至ったことから。
原文では七擒七縦(しちきんしとちしょう)となっているが、一般に用いられる語順に改めた。意味は同じ。


*3: テルモピレーの激戦 - 紀元前五世紀のペルシャ戦争におけるギリシャ軍とペルシャ軍との戦闘。ギリシャ軍の中心だったスパルタ国の兵士三百人が全滅したとされる。


*4: 奉天の大勝利 - 日露戦争(1904~1905年)最後の大規模な戦闘となった奉天会戦。

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