オープン・ボート 1

今回からスティーヴン・クレインの『オープン・ボート』の新訳をお届けします。

 スティーヴン・クレイン(1871年~1900年)は米国の自然主義文学の先駆とされる作家で、『赤い武功章』『街の女マギー』などの作品があります。

 二十八歳で早世したため、作品の数は多くなく、日本で知られているとは言えませんが、フォークナーやヘミングウェイなど後の世代の作家にも大きな影響を与えました。

 特にヘミングウェイは、若い作家志望者に与えた必読書十六冊のリストに、クレインの『オープン・ボート』と『青いホテル』の二作品を含めるなど、高く評価していました。このリストにはトルストイの『戦争と平和』やドフトエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、スタンダールの『赤と黒』、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』など、世界文学の傑作が網羅されています。

 

『オープン・ボート』は、クレインが通信員として向かうために乗っていた船がフロリダ沖で沈没したため、三十時間漂流した後に生還したという彼自身の実体験に基づくものです。

 

最初はノンフィクションの手記として発表され、後にフィクションとして『オープン・ボート』という作品にまとめられたものです。

 

ちなみに、ヘミングウェイが若い作家志望者に示したという必読書十六作は、こうなっています。

 

『青いホテル』スティーヴン・クレイン
『オープン・ボート』スティーヴン・クレイン
『ボヴァリー夫人』ギュスターヴ・フローベール
『ダブリン市民』ジェームズ・ジョイス
『赤と黒』スタンダール
『人間の絆』サマセット・モーム
『アンナ・カレーニナ』トルストイ
『戦争と平和』トルストイ
『ブッデンブローク家の人々』トーマス・マン
『歓迎と別れ』ジョージ・ムーア
『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー
『英語韻文集』オックスフォード大学出版
『大きな部屋』E.E.カミングス
『嵐が丘』エミリー・ブロンテ
『はるかな国 とおい昔』ウィリアム・ハドソン
『アメリカ人』ヘンリー・ジェームズ

 

オープン・ボート

 

沈没した蒸気船コモドア号から脱出した四人の男たちの、
事実にもとづく物語

スティーヴン・クレイン 著
明瀬 和弘 訳

誰も空の色はわからなかった。視線は水平線に向けられ、自分たちに次々に迫ってくる波を見つめていた。波はスレートのような濃い灰色で、頂点は白く泡だっていた。四人とも海の色ははっきり見えていた。水平線は狭くなったり広くなったり、急に沈みこんだり盛り上がったりしていて、その縁はけわしい岩山のようにギザギザになっていた。

彼らが今乗っているボートは、たいていの家にあるバスタブよりも小さいくらいだった。次々に押し寄せてくる波は悪意に満ち残忍で、切り立っていて、しかも大きかった。こういう波の頂点にある泡は、舟を支える実体がないので、小さなボートの操縦ではやっかいだ。

コモドア号の調理担当だったコックはボートの舟底にしゃがんで、自分と海を隔てている六インチの船べりを見つめていた。両腕の袖をまくり上げていたが、舟底にたまった海水をくみ出そうとするたびに、ボタンをとめていないベストの前みごろが垂れ下がって揺れた。「くそったれ! いまのはやばかったな」と何度も言った。そう言うたびに、コックはきまって大荒れの東の海面を見た。

機関士は小さな救命ボートに積んであった二本のオールの片方で舵をとり、ときどきふいに立ち上がっては船尾ごしに渦をまいて飛びこんでくる海水を避けようとしていた。そのオールは薄くて小さく、何度も折れそうになった。

乗客だった記者は、もう一本のオールで漕ぎながら、波を眺めては、自分はどうしてこんなところにいるんだろうと思っていた。

負傷した船長は船首で横になっていた。この時点ではすっかり意気消沈し、周囲の状況にも無関心になっていた。どんなに勇敢で忍耐強い人でも、会社が倒産したり、戦闘で敗北したり、船が沈んだりというような場合には、否応なく、少なくとも一時的には、こういう心理状態に陥ったりするものだ。新米だろうとキャリア十年のベテランであろうと、船長の心は船と共にあるものなのだ。しかも、この船長は、夜明け前の薄明で見た光景、振り返った七つの顔と、先端に白い玉をつけたトップマストの帆柱が波に揺れながらだんだん低くなり、やがて沈んでいった様子に衝撃を受けていた。

それから彼の声音に変化が生じた。言葉や涙をこえた、落ち着いてはいるが、深い悲しみが感じられた。

「舟の向きはもう少し南だ、ビリー」と、船長が言った。
「もう少し南ですね、船長」と、船尾の機関士が応じた。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (50)

元の社会へ




それからの二日間の航海についてはほとんど覚えていないし、ノートにも何も書いてない。快適な風景の中を川は安定して流れていた。青い服を着た洗濯女たちや青いシャツを着た釣り師たちが川岸の緑に変化をつけていて、この二つの色は、忘れな草の青い花と葉のようだった。忘れな草のシンフォニー。フランスの詩人テオフィル・ゴーティエなら、この二日間に見えた景色をこう描写しただろう。空は青く、雲一つなかった。川は平原をゆるやかに流れていき、なめらかな川面には空や岸辺が映っていた。洗濯女たちが大きな声でぼくらに笑いかけ、ぼくらはといえば、川を下る間ずっと、寝ぼけまなこで、とりとめもなく物思いにふけったりしていたが、その間も木々のふれあう音や川の音は伴奏のように聞こえていた。

川はまさに大河の風格でとぎれることなく流れていて、そのことはずっと念頭にあった。ここまで来ると川も終着点も近く、十分に決意をかためた成人男子のように、力強く、そしてゆったりと流れていた。ル・アーブルの砂浜では、波が音をたてて岸辺に打ち寄せていた。

ぼくはといえば、バイオリンのケースのようなカヌーに乗って、この動く大通りのような大河を移動していきながら、海を待ち遠しく感じはじめていた。文明化された人間にとって、遅かれ早かれ、文明に戻りたいと思う時が来るものなのだ。ぼくはパドルを漕ぐのにも疲れたし、人の生活の周辺で生きていくというのにも飽きてきた。もう一度、実社会に戻りたいと思った。仕事につき、自分の言うことを理解してくれる人々と、好奇の対象としてではなく同じ条件の人間として、会ってみたいと思った。

そして、ポントアーズで受け取った一通の手紙で、ぼくらは旅を終える決心をし、雨のときも日光が輝いているときもずっとぼくらを楽しませてくれたオアーズ川からカヌーを引き上げたのだった。長い距離を航海し、ぼくらと運命を共にしてくれたが、別れはいつか来るものだ。ぼくらは実社会から離れたところを旅してきて、今やっとなじみのある場所に戻ってきた。ここでは、人生そのものが激しく動いていて、パドルを漕がなくても人生という冒険の渦中に否応なく投げだされてしまう、そういうおなじみの世界に戻ってきたのだ。劇中の航海者のように故郷に戻ってきて、運命によりぼくらの周囲がどう翻弄されたのか、家に戻るとどんな驚きが待っているのか、留守中に世の中がどれほど、そしてどんな風に変わったのかを知らされる。カヌーは日中はずっと漕いでいられるが、夜になれば自分の部屋に戻ることになるし、ストーブの脇で愛や死が待っていたりするのだ。最も美しい冒険とは、ぼくらが探し求めて出かけていった先にあるものではないのだ。

[了]

ロバート・ルイス・スティーヴンソンの『スティーヴンソンの欧州カヌー紀行』は今回で終了です。
次回からは米国の作家、スティーヴン・クレインの『オープン・ボート』(新訳)をお届けします。
これはジャーナリストだった著者が実際にフロリダ沖で体験した船の沈没と救命ボートでの脱出をもとにしたフィクションで、ヘミングウェイは小説志望者の必読書として、16冊の作品リストの冒頭にこの作品をあげています。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (49)

彼がワイン片手に語る体験談は傾聴に値した。話がとてもうまくて、自分の失敗談も笑いにまじえて披露したし、大海原で危険に遭遇し、押し寄せる波の音をきいたときのように、いきなり深刻な顔になったりした。二人分の鉄道料金と宿泊費で三フラン支払わなければならないのに、前の晩の公演で得た金は一フラン半だけだったとか、客席の前列に金持ちの市長が座っていて何度もフェラリオ嬢をほめくれはしたものの、その夜の公演では三スーしか払わなかったとか、そういう話だ。地方の役人が旅芸人の芸術家に注ぐ目も厳しかった。そう! ぼく自身もそういう仕打ちを受けたことがあるのでよく知っている。ぼくもまったくの誤解から情け容赦なく収監されたことがあるのだ。デヴォーヴェルサン氏が歌う許可を得るために警察をたずねたときのことだ。警察官はくつろいでたばこを吸っていたが、氏が入っていくと丁寧に帽子をぬいだ。「おまわりさん」と、氏は話しかけた。「私は旅公演をしている者なのですが──」 すると、くだんの警官はすぐに帽子をまたかぶったという。太陽神アポロの仲間として芸術を追求している者に対する礼節など持ちあわせていないのだ。「そんな感じで、ひどいもんですよ」と、デヴォーヴェルサン氏は煙草を持つ手を動かしながら言った。

とはいえ、ぼくが一番面白いと思ったのは、放浪生活の困難や受けた侮辱や苦しみについて夜を徹して話をしていたとき、氏が感情を爆発させたことだ。そういう生活をするくらいなら百万くらいの大金を手にして普通の暮らしをしたほうがいいなと誰かが述べ、フェラリオ嬢もそっちがいいと認めたときだった。「そうじゃない、私は違う──私はそうは思わない」と、デヴォーヴェルサン氏はテーブルを手でたたきながら叫んだのだ。「世の中に失敗者がいるとすれば、それは私でしょうよ。私は芸術にたずさわっていたし、その当時は上手にやれてましたよ──何人かには引けをとらず──そして、それ以外の者たちと比べたら、たぶんもっと上手に。今となっては過去のことなんですがね。今は旅をしながら、つまらない歌をうたって小金を稼ぐ生活をしていますが、私が自分の人生を後悔していると思いますか? 牛のように太った市民になっていたほうがよかったとでも? いや、そうなったらもう私は私でなくなってしまう! 私は舞台で何度も拍手喝さいされたことがありますが、そんなことはどうでもいいんです。劇場で誰も拍手しないときに、言葉の抑揚だとか、台詞と仕草の絶妙なバランスだとか、そういうコツをつかんだと人知れず感じる瞬間があったりもするんです。つまり、喜びとは何なのか、物事をうまくやるとはどういうことか、芸術家であるとはどういうことかということを、私は自分で体験して知ってるんです。そうして、芸術とは何かを知るということは、日常のささいなことでは見い出せない、いつまでもつきることのない興味を持ち続けられるということでもあって、それは、いわば──宗教みたいなものなんですよ」

ぼくの記憶があいまいだったりフランス語の理解に誤りがあるかもしれないが、氏はだいたいそういう意味の信念を表明したのだった。ギターとたばことフェラリオ嬢のことに加えて、彼の本名をここで出したのは、ほかの旅人が氏と出会う可能性もあるだろうと思ったからだ。彼のように誠実に美を追及していて運にめぐまれない人については、周囲の人はもっと丁重に遇してもよいのではなかろうか。詩の守り神でもある太陽神アポロが、これまで誰も夢想だにしなかった詩句を氏に贈ってくれたり、川では銀色に輝く魚が次から次へと氏のルアーにかかりますようにと、祈らずにはいられない。冬の旅で寒さに苦しめられず、ふんぞりかえった村の小役人に侮辱されず、彼があこがれのまなざしで見つめながらギター伴奏をしていたフェラリオ嬢がこれからも彼から離れることがありませんように!

一方、プレシーの人形劇の方はさんざんだった。『ピラムスとティスベ』と題する死ぬほど退屈な五幕物が演じられたが、全編すべてが人形と同じくらい長ったらしい十二音節のアレクサンドル格の韻律で書かれていた。人形の一つが王で、もう一つは邪悪な顧問官、第三の登場人物が比類ないほど美しいというティスベだった。他にも衛兵や頑固なおやじや通行人がいた。ぼくが座って見物していた二幕か三幕では何も特別なことは起こらなかった。しかし、時間と場所と筋は一つに限定され、三一致の法則は守られていた、そして劇全体は、例外が一つあったが、古典における役割にそって展開した。その例外とは、やせた人形が演じる、木靴をはいた道化の田舎紳士で、彼は韻文ではなく散文を語ったが、ひどいなまりがあって、それが観客には受けていた。君主に反逆し、他の人形の口を木靴で蹴りつけ、韻文調で恋を語る求婚者がいないときには、きついなまりのある、ふざけた散文でティスベをかきくどくのだ。

劇の全体を通して笑えたのは、この田舎紳士の所作と、興行主が劇団員を整列させ、彼らが毀誉褒貶には関心を払わず芸術に身をささげていることをほめた、ユーモラスな前口上のところだけだった。とはいえ、プレシーの村の人たちは芝居を楽しんでいたように思えた。実際に何かが演じられ、それを見るために料金を払っているのであれば、それを楽しもうという気にはなるものだ。夕日が沈むころ、ぼくらがそれを見るのにかなりの料金を払い、また神様がサンザシの花が咲く前にふれ太鼓をどんどん鳴らして宣伝したりすれば、ぼくらはその美について大騒ぎをすることだろう! だが、こうしたことについて、愚かな人間は、得がたいよき仲間と同じように、そういうものをすぐに当たり前だと思いこんで、じっくり眺めるのをやめてしまう。馬車に乗った商売人は、路傍に咲いている花や頭上の空の様子には目もくれず、通り過ぎていくのだ。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (48)

以前、セーヌ・エ・マルヌ県の宿に滞在していたとき、旅芸人の一行がその宿にやってきたことがあった。父親と母親、それに夫婦の娘二人と色の黒い若者で、娘の方はどちらも歌をうたったり芝居をしたりしたものの、これで舞台に立つとは厚かましいと思えるレベルで、若者の方はどこか教師のようでもあり生意気な塗装工のようでもあるといった感じだったが、歌も演技も悪くはなかった。こういうお粗末な旅芸人の一行に芸達者という言葉を使ってよいのであれば、一座で一番の芸達者は母親だった。興行主の父親は、おかしな田舎者をうまく演じている妻をどうほめてよいかわからず、ビールで赤くなった顔をしてうなづきながら「ま、ご覧になってください」とだけ述べた。ある夜のこと、彼らは厩舎前の庭にランプをともして上演を行った。ひどく出来の悪い出し物で、村の観客たちも冷ややかに眺めていた。翌晩はランプが点灯されるとすぐに雨が激しく降ってきたので、彼らは大急ぎで荷物を片づけ、寝泊まりしていた納屋に避難しなければならなかった。体は冷え切り、びしょ濡れで、晩飯も抜きになってしまった。朝になり、ぼくと同じように旅芸人に好感を持っている親しい友人が連中をなぐさめようと少しばかりカンパを集めてきたので、ぼくが連中のところへ持っていくことになった。その金を父親に渡すと、彼は丁重に礼を述べ、台所で一緒にコーヒーを飲みながら、道路や観客について、また景気が悪いことなどについて話をした。

ぼくが戻ろうとすると、その旅芸人の親父は立ち上がって帽子を脱いだ。「すいません」と彼は言った。「ずうずうしいと思われるかもしれませんが、もう一つお願いがあるんです」 ぼくはとたんにうんざりしかけた。が、彼は「私らは今夜も公演をするんです」と語を継いだ。「もちろん、あなたやお友達からお金はいただきません。もう十分いただきましたからね。でも、今夜の出し物は本当にいいものなんです。あなた方に来ていただけると信じていますよ」 それから、肩をすくめて笑った。「おわかりでしょうけど、これも芸術家の見栄ってやつです!」 これだ! 芸術家の見栄! ぼくが人生についてそれほど捨てたものではないと感じるのは、こういうことがあるからだ。くたびれた服を着て、酒をちびちび飲んでいる、能なしの放浪者にも見えるような人間が、こうやって紳士然としてふるまい、芸術家としての見栄や矜持を持っているのだ。

とはいえ、この人よりもぼくの印象に残っている人がいるのだが、ヴォーヴェルサン氏という。最初に会ったのは二年ほど前だが、ぼくとしては、これからもまた再会できればと本気で願っている。ここで彼の最初の出し物を紹介しておこう。このプログラムは朝食のテーブルに配ってあったもので、楽しかった日々の思い出としてとっておいたのだ。

皆様
マドモアゼル・フェラリオとデヴォーヴェルサン氏が今夜歌う曲目をご紹介します。

マドモアゼル・フェラリオの歌う曲は「ミニオン」「小鳥」「フランス」「フランス人が眠っている」「青い城」「どこへ行きたいの?」です。

デヴォーヴェルサン氏の歌う曲は「マダム・フォンテーヌとロビネット氏」「馬に乗って」「不幸な夫」「おだまり、子供たち」「ちょっと変わった私の隣人」「このような幸せ」「私たちは間違っている」です。

彼らは食堂の隅にしつらえられた舞台で公演を行った。口に葉巻をくわえたデヴォーヴェルサン氏がギターをかき鳴らし、従順で忠実な犬のように、マドモアゼル・フェラリオから目を離さない様子は見ものだった! 公演の最後にトムボラという福引券を賭けた一種のビンゴゲームのような競売が行われた。ギャンブルの刺激すべてが織りこまれているが、夢中になったからといって恥ずかしいわけではないという、娯楽としては申し分のないものだった。というのも、皆が負けるのだ。デヴォーヴェルサン氏とマドモアゼル・フェラリオのために皆がポケットを探ってお金を出し、それを失うのを競いあうのである。

デヴォーヴェルサン氏は小柄で、黒々と豊かな髪をして、愛想がよく魅力的な雰囲気をまとっていた。歯並びがよければ、その笑顔の魅力はもっと増したことだろう。氏はパリのシャトレ座で役者をしていたのだが、舞台のフットライトの熱やまぶしさのため神経をいためてしまった。そういう舞台には向いていなかったのだ。そのとき、マドモアゼル・フェラリオ、つまり当時のアルカザール座にいたマドモアゼル・リタ嬢が旅芸人になることを選択した彼と人生をともにすることに同意した。「彼女の思いやりは忘れられません」と彼は言った。とても細いズボンをはいていて、氏を知る者の間では、それをどうやって脱いだり着たりするのかというのが問題になっていたほどだ。彼は水彩でスケッチを描き、詩を書き、辛抱強い釣り師でもある。宿の庭の隅を流れている澄みきった川で、魚を釣りもせずに、何日もずっと釣り糸をたらしていたこともある。