現代語訳『海のロマンス』83:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第83回)

グルート・シューア
――セシル・ローズを想う――

「ケープタウンの名物はテーブル・マウンテンとシルバー・リーフ、それにセシル・ローズにて候(そうろう)」と、誰かの手紙にこんな文句があったのを覚えている。名物とはおかしな言葉だが、南アフリカを最も簡単明瞭に代表するものとして、この三者を選ぶのはすこぶる適切である。

偉人の生活は、彼らの生きていた年代と、その当時の周囲の状態とが与える景色(パースペクティブ)によって、最も明確に描写されうるとのことである。かの汎英国主義(パン・ブリタニズム)の張本人にして、キンバリーのダイヤモンド鉱山の経営者であり、アフリカ縦貫鉄道の企画者にして、偉大なる平民的な南アフリカ人(サウス・アフリカンダー)であることに満足していたセシル・ローズ閣下(ライト・オノラブル)が、風光明媚のミューゼンバーグで、”So Little done, so much to do”(達成したことは少なく、やるべきことは多い) という有名な別辞と共に逝去されたのは、つい一九〇二年のことである。されば、われわれはこの世界的偉人の内的生活を想い、かつは同時に偉大な業績をしのぶため、氏の拠点でもあったグルート・シューアの与える景色(パースペクティブ)に浴するのは、唯一にして最も確実な方法である。

「グルート・スキュアーへの道順は……」と尋ねるや否や、テーブル・マウンテンの一件で知りあいになった例のアディックソン老は無遠慮にもアハハハハと心地よげに笑い出した。何がアハハハハだ。英国人にも似合わぬ無作法者めと腹の中で少しく憤慨(ふんがい)していると、すこぶる悦にいった先生、おかしくてたまらぬという表情を強いてやわらげながら、「誰でも初めての者はついグルート・スキュアーとやりたくなるがね、実はオランダ語でグルート・シューアというのさ。英本国から来るそうそうたる名士でさえきっと失策(しくじ)るんだからね」と、なぐさめるように言って、「君なんかは無理はないさ、まあ安心したまえ」は、得意の表情に富んだ目で物を言っている。

厚い皮張りの見事なイスに腰を下ろしたとき、光沢(つや)やかにニスを塗った樫の客車の重い扉(ドア)に Wacht tat dat de trein stopt と Wait till the Train stop (列車が停車するまでお待ちください)とが行儀よく二行に書かれてあるのを見て、今日のグルート・シューア行きの期待と感興とに少なからぬ恐慌(きょうこう)を生じたのを自覚した。議会で英語とオランダ語の二カ国語が差し障(さわ)りもなく併用されているのみか、こんなささいな汽車の中の注意書きにさえ、南アフリカのオランダ人に対する配慮が見られるのは、かの偉大なる大英主義を唱道した人の権威を疑わしめるようで、行きずりのぼくらにさえあまり気持ちのよい感じがしないのに、本家本元の英国人がよくも辛抱できることよと、少なからずその根気のよいのに感服(かんぷく)した。もっとも、ローズを称揚するのは英国人だけで、オランダ人は「フフーン、あのジョンが」と、しゃくにさわるほど軽く鼻の先であしらっている。

汽車はロンデボッシの停車場(ステーション)にぼくらを下ろし、さっさと行ってしまった。樫(かし)の涼しい木陰を、強い昼下がりの太陽光線をさけながら歩いて行くと、道をひとめぐりするまもなく、ぼくらの前に多くの鋭角と曲率(カーブ)とを組み合わせた奇形の破風(ゲイブル)を前景にした、目もさめるような広壮なオランダ式の一大建築が現れた。細緻(さいち)の技巧を示す赤レンガと、理髪店(とこや)の看板のような、例の飴(あめ)の棒のように奇妙によれた煙突(チムニー)と、中央の破風(ゲイブル)を飾るファン・リーベック上陸*を表現した浅浮き彫り(ロー・レリーフ)とが際立(きわだ)って訪問者の好奇の心をそそる。

* ファン・リーベックの上陸: ヤン・ファン・リーベック(1619年~1677年)は、アフリカ大陸南端にあるケープ植民地を建設したオランダの植民地監督。
この植民地を建設する前、鎖国中の日本の長崎・出島にも来ている。

ローズがその華々しい公的な生涯に入って、その名声がようやく世間で認められるようになったとき、彼は自分の名声を慕(した)ってくる多くの訪問者に適切に応接するため、住居を定める必要を感じた。かつてキンバリーでジェイムソン博士と二人で移動式ベッドを唯一の休養所としていた独身者の簡易生活も、またはアデレイ街の一銀行の二階で、同居者たるキャプテン・ベンフホルドに衣服の世話までやかせた仮住まいの生活も、共に周囲の状況がこれを許さぬこととなった。

テーブル・マウンテンに到る裾野(すその)にかけての広大な地面がローズによって購入されたとき、彼がみずから「お寺」と呼んだその丸い破風(ケイブル)に大理石の付柱(ピラスター)がある家も、ライオンやシマウマやラマなどが飼育されている大きな動物園も、日本の伊万里焼やローデシアのオランダ式遺物や有名なるジムバベ塔の装飾物などを陳列しているその博物館も、みなこの敷地の上に建てられるように設計されていた。そのとき、彼は声明を出して、このわが企画には二つの目的がある――市民共同の遊歩地とすることと、わが愛するテーブル・マウンテンの雄姿をこれによって引き立たせることである、と。ぼくは天下に希有(けう)な、この天然の壮大なる引き立て者を反対に引き立てるのだと言い放った彼の肝(きも)の太さと抱負の偉大さとに、心からの痛快味(つうかいみ)を感じずにはいられない。

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現代語訳『海のロマンス』82:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の(82回)

厳格な選挙法案

南アフリカ連邦がわざわざ「プレトリアを連邦政府の首都となし、ケープタウンに連邦立法部を設置する」という法(アクト)を宣言して、事実上、連邦の首都として機能しているケープタウンを継子(ままこ)扱いにし、ただ単に立法府のみにとどめたについては、為政家(いせいか)や経世家(けいせいか)といった、いわゆる政治家が新しい国を併合して一体化させて統治する際の政治や複雑な国政運営に向けて、いかに甚大(じんだい)な苦心と配慮が必要とされるかをおのずから語っているのみならず、波乱と曲折に富んだ、政治の世界における紆余曲折(うよきょくせつ)を究(きわ)めようというときに、言外に、その興味深い帰結が示されている。

いかに地勢上の均衡をはかるためとはいえ、連邦の首都を遠く南北トランスヴァールのプレトリアに定めたことは、国会(ナショナル・コンベンション)において優勢なるボーア側の委員が多数選出されたことや、雄弁博識にして威厳があり、経験豊かなメリマン(英)を捨てて、あえてボーア側勢力の中心人物たるボタ将軍を二度までも連邦の首相に任命したことなどを考えると、インドでの統治につくづくてこずって、威圧するのではなく信服させようと方針変更した英国が、いかに南アフリカ連邦のオランダ系国民を手なづけようと努力したかをうかがい知ることができる。

南アフリカ共和国における
ケープタウン(最大の都市)とプレトリア(首都)の位置関係

しかし、気の毒にも、この政策はまったくの失敗に終わり、極端な平等主義はかえって英国系を抑制しオランダ系を優遇する結果になっている。下院において三十七の議席を有する英人の統一党(ユニオニスト)に対し、オランダ人の国民党(ナショナリスト)は六十七という過半数を占めている。その他に十三の独立党(インデペンデント)、四の労働党(レイバー)があるけれど、要するに現状維持の守旧派にすぎない。

下院においてこのありさまだから、他は押して知るべしだ。英政府は遅まきながら微笑戦術で「白い歯」を出しすぎたのを後悔していることであろう。この点では「およそ人を遇するには位をもってし、位を極めているときは残す。これに対しては恩をもってし、恩が極まると慢心する」と喝破(かっぱ)した諸葛亮(しょかつりょう)*の方がはるかに賢いようである。

* 諸葛亮(しょかつりょう): 後漢(ごかん)末期から三国時代に活躍した中国の武将。三国志の英傑として知られている諸葛孔明(しょかつこうめい、西暦一八一年~二三四年)のこと。
 ちなみに人気マンガ/アニメの『キングダム』は、それより四百年ほど前の秦の始皇帝にまつわる話である(日本では縄文時代の終わりから弥生時代に移るころ)。

ところで、このオランダ系の勢力圏内にある下院議員の選挙法は、科学的に制定されたとでもいうか、すこぶる厳格なものである。

当初、一九〇九年に南アフリカ連邦の組織構成に関する諸種の法(アクト)を制定するための仮議会なるものが招集されたが、このとき多数を占めたのは無論、オランダ系の政党であった。この仮議会において、一九一〇年に初めて開会する連邦下院の議席は百二十一とすべきこと、またそれ以降は人口の増加に従って徐々に増大させて最大百五十に達することが宣言された。このときの最初の議会における百二十一の内訳はケイプ・コロニーが五十一、ナタールが十七、トランスヴァール三十六、オレンジ自由国十七という割合であった。

次いで連邦の総選挙区を構成するため、各植民地からジャッジと称される四人の委員が任命された。この段階で、委員会はクォータと呼ばれる一定単位の選挙人団(当選に必要な人数を示す基準となる数)について、一九〇四年の人口調査(センサス)の結果として、ヨーロッパ系成人男子の総人口(連邦の全州)を連邦議会の議席数で割り、2891.2なる数が得られた。すなわち、

地区 有権者数
ケイプ・コロニー 167,546
ナタール 31,784
トランスヴァール 106,403
オレンジ自由国 44,014
349,837

対象となる有権者数349,837 を議席数121で割ると2,891.2 という結果が得られる。この制定法では、このクォータおよび計算法が同様に各州の議会の議席数を定める際にも適用される。たとえば、ケイプ・コロニーに対して 「X(エックス)÷ 61」というクォータが得られた委員会は、当該州をこのクォータに応じた選挙人数を持つよう多数の選挙区に分割する方法を採用した。

よって、一九一〇年の第一議会に当たって選出されるべき議席は、ケイプ・コロニーは 167,646÷2891.2=57で、議席数は六増となる。ナタールは十七に対して十二、自由国は十七に対して十四で、いずれも既定の数には満たず、トランスヴァールは三十六に対して三十六で、すでに上限に達している。しかして、一九一一年の人口調査(センサス)の報告によれば、トランスヴァールの人口膨張は123.554の加速度を示していて、まさに次回議会では若干の議席増がありうる勢いを示している。*

* ここで説明されている南アフリカの選挙制度は一種の比例代表制である。
クォータとは、当選に必要な基準となる(有権者の)数を指す。
選挙で比例代表制を採用している国々においても、議席の配分など細部の規則については、それぞれ手法が異なっている場合が多い(例:ドント式、ドループ式など)。
日本でも衆参両院で比例代表制が採用されているが、衆議院は小選挙区制と拘束名簿式比例代表制を併用し、参議院の比例区は非拘束式比例代表制となっている。

このように、五年ごとの人口調査の結果、2891.2なるクォータを超過するか、またはその倍数を超過する人口膨張を示した州は、それに応じて追加した議席数を得ることになっている。しかして、この議席数が既定の百五十に達するまでか、または今後十年にわたる期限内においては、下院は解散を命じられる場合をのぞき改造されないことになっている。

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現代語訳『海のロマンス』81:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第81回)

(前回までのあらすじ)
日本を出発した大成丸は太平洋を横断し、最初の寄港地、米国南西部のサンディエゴに無事到着した。しかし、航海中に明治天皇が亡くなり、時代は明治から大正へと移り変わった。

サンディエゴでは船長が失踪(しっそう)するなど前代未聞(ぜんだいみもん)のトラブル続きで、代役の船長が就任するまで想定外の長期滞在となった。そして、そのことがその後の大成丸の世界一周のルートにも大きく影響してくることになる。

サンディエゴを出港した大成丸は太平洋を南下し、赤道をこえ、南米大陸最南端のホーン岬をまわり、大西洋に出た。本来であれば、そのまま北上して南半球から北半球へと大西洋を縦断する形で大英帝国の首都ロンドン(当時の世界の中心地)に寄港するはずだったが、日程に余裕がなくなり、また経費も当初の予算を超えたことから、ロンドン行きは中止となり、アフリカ南端の喜望峰にあるケープタウンへと向かうことになる。

ケープタウンでは、テーブルマウンテンに登ったり議会を見学したりして学校行事の一環として見聞を深めていく。

ケープタウン滞在後、大成丸はいったんは大西洋に引き返し、ナポレオンが島流しにされた南大西洋の孤島セントヘレナ島へ向かうことになるが、それまでしばらくはケープタウン滞在記が続く。


連邦下院参観(続き)

とかくするうち、議場正面に向かって右の野党側のフロント・ベンチから、きかん気の面魂(つらだましい)をした髭(ひげ)の濃い一人の議員が立って、とうとうと何事か弁じたてては鼻眼鏡を振り、振ってはまたちょっと気休めに鼻にかけたりしている。座席表(リスト)と照合すると、ケイプ・コロニー出身の下院議員(オノラブル・メンバー)のミスター・ジャッガーとある。

……一例を挙げれば、ケイプ・コロニーは、本来は当然のこととして連邦議会の教育経常費目として計上されるべき教育費にかかる公債を独立して募集し、かつ、その利子を支払っております……その意味で、ケイプ州だけが重い課税を分担しているのです、と論じた。すると、ナタール選出の一人の議員が立って、それは弱い者いじめというものである、そういう論がまかり通るのであれば、ナタールは当然連邦には加入しないと駄々をこね、議場で笑いがおきる。退屈そうに聞いていた議長(スピーカー)はちょっと失礼とばかり中座した。与党のフロント・ベンチから一人出てきて議長を代行する。と、衛視(サージェント・アト・アームス)がさっと机の上の大きな職杖(メイス)を下の壇に下ろした。いちいち厄介千万(やっかいせんばん)なことだ。要らざる儀式だといいたくなる。

先に着いていた学生の二、三人が見たというところを聞くと、午後の二時に、この金ぴかのメイスを大名行列の先頭の飾りをつけた毛槍のように、後生大事に抱えたメイス・ベアラー(サージェント・アト・アームスの異名)に続き、二人の書記官を露払いとして前(さき)に立たせ、各員が起立している間をしずしずと登場してきた議長(ミスター・スピーカー)にはなかなか威厳があったという。

議長(スピーカー)が中座する頃、右手の特別席にいた名誉領事ジェッピーと大成丸の小関船長、英語教官ミスター・フィリップもそろって退場した。たぶん南極点到達で不覚にも二番手となり失意のうちに死んだスコット大佐に弔意をささげる儀式に出席するつもりなのだろう。

政府与党の有力な論客で前回には蔵相の重責をにない、次回の内閣ではまたもや大臣に就任するとの噂があるハル氏が精悍(せいかん)なる顔をクリーム色の洋服から突き出して、力強い反駁(はんばく)をジャッガー氏の負担金を連邦にもお願いしたいという説の上に加える。いわく、この問題の解決はナショナル・コンベンション以来の難事で一朝一夕に論じることはとうてい不可能である。もしも各員勝手にあの下院議員(ジャッガー氏)のように自説に固執(こしつ)するならば、公債証書(ビル)は結局引き裂かれるしかあるまい、などと皮肉って、自党からのヒヤヒヤという喝采を博している。

この喝采(かっさい)なるものがすこぶる難物(なんぶつ)でもある。すこぶる活気のないペースで、いかにも苦しそうに重々しく呻吟(しんぎん)する。ことにオランダ系白人のボーアなまりの激しい英語で発せられる政府与党のヒヤヒヤは賛成しているのか反対しているのか、ちょっと見当がつかない。しかし、こんなに心細いヒヤヒヤでも、それを聞く身になると嬉しいと見え、ハル君のごときは目指す相手に向かって手を振って反駁(はんばく)を加えた後、どうだ、そうじゃないかという様子で振り向いて、自党の陣笠連中を見まわし、ヒヤヒヤの要求をしている。どうも政府与党が優勢のようである。野党の領袖席(フロント・ベンチ)からワルトン卿が立ち、しばらくハル氏を論駁(ろんばく)する。

議長(スピーカー)の上の二階には新聞記者が二、三十人目白押しに並んでいる。セッセと書いている者、あくびをしている者、鉛筆で耳あかの掃除をやっている者など、なかなかにぎやかである。左手の二階には深々とヴェールをかけた淑女の一団がひそひそと何事かささやいている。午前に婦人参政権論者(サフレジェット)が大挙して押しかけたというから、たぶんその名残(なご)りであろう。

とかくするうち、左手のフロント・ベンチの中程から温厚な半白の爺さんが立ち上がる。熱心な拍手が両派から起きる。さてはと座席表(リスト)を見ると、先年、首相候補者として元首相ボサ将軍と共に呼び声が最も高かったメリマン卿(国民党だが英人なり)である。「彼らは地方政務を論議するために理想的な責任分担を行う会議を開こうと努力するようであるが、気の毒にも彼らの努力の結果は議会の私生児というべきものを生み出すにすぎぬだろう」などと、群小の論争を巧みに揶揄(やゆ)してみんなを笑わせる。そして、「もし蔵相および政府与党のハル氏をはじめとする人々が、「海の巨人」の重き桎梏(しっこく)にあえぎあえぎて、ついにその重荷に耐えきれず謀反(むほん)するに至った「水夫シンド・バッド」の寓話を記憶されているならば、現下の重税に苦しむ州民の将来に向けて深慮する必要があるだろう」などと、傑出した例を引きながらの論に満場の喝采を博する。はたして翌日のケイプ・タイムス紙には、メリマン氏の名演説(ブリリアント・スピーチ)として、近来希(まれ)なる大演説であると褒(ほ)めてあった。

やがて空席がチラホラと見えてきて、メッセンジャーの往来も静かになった。それではとばかり、自分も外へ出る。アデレイ通しへ出かかるとき頭脳(あたま)に残っている印象を点検してみたら、「真似の好きな連邦下院」という言葉になった。議場の寸法や装飾はもちろん、正面や最前列の議員席(フロント・ベンチ)のたたずまい、議長や書記以下の衛視や案内係に至るまで服装の細部についても話に聞いた英国議会に酷似(そっくり)である。さらに、その上、無精なヒヤヒヤのかけ声から無作法な居眠りの稽古(けいこ)まで、全部真似ているとは人をバカにするにもほどがあると言わねばならぬ。すべての非常識の礼法(エチケット)と融通のきかない式次第書(リチュアル)とを、そっくりそのままロンドンの空から南アフリカの一角に上陸させたのがこの議会である。

議会内部の雰囲気は、全体に暗く角ばった沈鬱(ちんうつ)な印象を与えるので有名だが、ここでも努めてそういう風に認められたいと希望していると見えて、翌日のケイプ・タイムス紙には「日本の練習生が議場を見学」の項(くだり)に、…… and the white tunic of the young Oriental sailors, lent a touch of relief to the usually somber appearance of the chamber(……若い東洋の船乗りたちの白い上着のおかげで、普段は厳粛な外観を呈している議院にやすらぎがもたらされた)と書かれていた。

※本文中に議会の職杖(メイス)が出てきます。日本では見られない光景なので、参考までに、英国BBCのニュースでご覧ください。英国下院の金色に輝く職杖が動画開始から15秒前後のところで出てきます。

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