スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (30)

オアーズ川をモイまで下る

ぼくらがオアーズ川でカヌーを預けた例のカーニバル氏はとんでもない食わせ物だった。出発する朝、カヌーを置いたところに向かうぼくらを追いかけてくると、料金を安くしすぎたと後悔したらしく、ぼくを脇につれていき、なんだかんだと理由をつけて、あと五フラン払うよう請求した。ばかげた話だが、ともかく言われるままに金を支払った。もう親愛の情なんてものは消え失せて、それからはイギリス人特有の慇懃無礼な態度で、氏をまともに相手しないようにした。氏はすぐにやりすぎたと悟ったらしく態度をあらため、顔を伏せた。もっともらしい言い訳を考えつくことができたら、余分にせしめた金をこっちに返したくなったのではないかと思う。酒を飲まないかと誘ってきたものの、ぼくは彼に酒をおごられるなど、まっぴらだった。氏は哀れを誘うほどにしょんぼりしていた。ぼくは彼の横を無言で歩くか、言葉を交わすときは素っ気ない調子で応じた。そして上陸地点までやってくると、シガレット号に英語の隠語で顛末を説明した。

出発する時間については前日には正確に伝えていなかったのだが、橋の周辺には五十人ほどの人が集まっていたようだ。カーニバル氏は別にして、ぼくらは彼らにはできるだけ愛想よくした。別れの挨拶をかわし、川をよく知っている老紳士や英語のできる若い紳士と握手をしたが、彼のことは無視して声もかけなかった。哀れなカーニバル氏! さぞ恥ずかしい思いをしたことだろう。カヌーに関係する者として存在感を増した氏は、ぼくらの名前で指図したり、カヌーやそれに乗っているぼくらも自分の配下にあるかのように振る舞っていたのだが、いまではサーカスの花形のライオンたるぼくらに、こうしてあからさまに無視されているのだった! ぼくはこれほど意気消沈した人を見たことがない。彼は人混みに姿を消し、ぼくらの感情がやわらいだと判断すると、おずおずと前に出てきたものの、冷たい視線に出会うとあわてて引っこんだりしていた。彼がこれを教訓にしてくれればと期待するばかりだ。

カーニバル氏の姑息な手口はフランスでは珍しくないというのであれば、そんな話をここで披瀝するつもりはなかった。これは、ぼくらが今度の航海全体を通して体験した唯一の正直さを欠く行為というか狡猾な手段だったのだ。イギリスでは英国民は正直だと語られることが多い。だが、ささいな美点が大仰に表明されるような場合は用心したほうがよい。イギリス人が自分たちについて外国でどう語られているかを聞いたとしたら、あまりのひどさに、しばらくはそうした事実を解決しようと躍起になるだろうし、それが解決できたとしても当分は自分たちが正直だと自慢したりはしなくなるだろう。

オリニーの恩寵ともいうべき若い娘たちは出発のときには姿が見えなかった。二つ目の橋にさしかかると、そこにも黒山の見物人がいた! 歓声を受けて橋の下を通過するのは気持ちがよかった。若い男女が喝采しながら土手を追ってくる。川の流れは急だし、オールで漕いでもいたので、ぼくらはツバメのように一瞬にして通りすぎた。カヌーを追いかけて木々の茂った岸辺を駆けるのは大変だ。だが、娘達は自慢のかかとを見せるかのようにスカートの裾をつまみ上げ、息が切れるまでカヌーを追いかけてきた。最後まで残ったのは例の三人の娘と仲間の二人だった。もう無理となると、三人のうちの先頭の娘が木の切り株に飛び乗り、カヌーに向けて投げキッスをした。月の女神のダイアナというより、この場合は美の女神のビーナスというべきだろうが、彼女はそれをこの上なく優雅にやってのけた。「また来てね!」と彼女は叫んだ。他の者も皆それに唱和し、オリニーの山々に「また来てね」がこだました。しかし、川は急カーブを描いて曲がってしまい、ぼくらの周囲はまた緑の木々と流れる川だけになった。

「また来てね」だって? 人生という急流で「また来る」なんてことはないのだよ、お嬢さんたち。

商人は船乗りを導く星に従い、
農民は太陽を見て季節を知る。

そして、人は皆、運命という時計に自分の懐中時計をあわせなければならない。時間と空間を奔流のように流れる、人間を彼の抱く夢と一緒に一本の麦ワラのように押し流していく潮流がある。オリニーの曲がりくねった川のように、この人生の潮流には曲がり角が多い。快適な田園地帯をゆっくり流れ、また戻ってきたように見えたりするものの、同じ場所に戻ってきているわけではない。同じ牧草地を何時間も同じようにぐるぐるまわっているように思えたとしても、時間と時間の間をゆったりと流れ、多くの小さな支流が流れこみ、水は太陽に向かって蒸発している。同じような牧草地ではあっても、オアーズ川の同じ流れではない。このように、ぼくが変転する人生のうちに再びオリニーの娘たちのところに、君たちが死を待っている川のそばへと運んでいかれることがあるかもしれないが、そのときの老人はいま通りを歩いているぼくとは違っているだろうし、その老人がめぐりあう人妻や母親がはたしていまの君らと同じだとはいえないのではあるまいか?

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (29)

狩猟のことから、話はパリと地方の一般的な比較になった。プロレタリアを自称する亭主はパリをたたえてテーブルをたたいた。「パリって何だ? パリはフランスの精髄だ。パリジャンなんてものはいない。それは諸君であり、俺であり、パリ市民すべてなんだ。パリでは成功するチャンスは八十パーセントもある」 そして彼は労働者が犬小屋ほどしかない部屋で世界中に行き渡る物を作っている様子をいきいきと描写し「てなわけだ。すばらしいじゃないか」と叫んだ。

悲しそうな顔をした北部出身者がそれに異議をとなえ、農民の生活を賛美した。パリは男にとっても女にとってもよくない。「そもそも中央集権だし」と、彼はいいかけた。

が、宿の主人はすぐに反撃した。彼にとってはすべてが論理的で、すべてがすばらしいという。「まったく壮観だぜ! いろんなものがあるじゃないか!」 そしてテーブルをドンとたたき、皿がテーブルの上で舞った。

ぼくは二人をなだめようと、フランスにおける言論の自由はすばらしいと口にした。これはとんでもない失敗だった。皆、すぐにだまりこんだのだ。彼らは意味ありげに頭を揺らした。この主題が場違いなことは明らかだったが、悲しそうな顔をした北部出身者は自分の思想信条で迫害されたのだと、彼らはぼくに理解させた。「ちょっと聞いてみなよ」と、彼らはいった。「聞けばわかる」

「そうなんだ」と、彼はぼくがまだ何もいわないのに静かに答えた。「あんた方が考えているほど、フランスに言論の自由はないんじゃないかと思うよ」 そうして下を向き、その話はそれで終わりにしようと思っているらしかった。

ぼくらの好奇心はむしろ強くかきたてられた。このリンパ体質の外交販売員はどういう風に、あるいはなぜ、いつ迫害されたというのだろうか? ぼくらはすぐに、それは何か宗教的な理由のためだろうと推測し、主にポー*1の怪奇物語だとか、トリストラム・シャンディー*2に出てきた説教だとか、酔っ払った状態で記憶を探った。

翌朝、さらにこの問題を掘り下げる機会があった。というのも、ぼくらは出発する際にぼくらに共感する人々に見送られるのは苦手だったので早起きしたのだが、彼はぼくらよりもっと早く起きていたのだ。思想信条に殉教した者としての人格を保つためだとぼくは勝手に思ったのだが、彼は朝食に白ワインと生のタマネギを食していた。ぼくらは長いこと話をした。彼はその話題を避けようとしたものの、ぼくらは知りたかったことを知ることができた。しかし、このとき非常に興味深い状況が生じた。ぼくら二人のスコットランド人とこの一人のフランス人で半時間ほども話をしたのだが、それぞれが国籍によって異なる思いこみで議論していたのだった。話の最後になって、ぼくらは彼の異端信仰が宗教的なものではなく政治的なものだったことに気づき、彼がぼくらの思いこみが誤っているのではないかと疑うようになったのも議論の最後になってからだった。彼が政治的信念を話す言葉づかいや心構えは、ぼくらには宗教的な信念のように思えたし、逆に彼にとってもぼくらの言葉づかいは同様だった。

こうした誤解は、スコットランドとフランスという二つの国の特徴をよく示している。かつてナンティ・エワートが「ひどい宗教だ」と述べたように、政治がフランスの宗教なのだった。一方、スコットランドのぼくらは、賛美歌や誰もちゃんと翻訳できないヘブライ語のささいな相違点をめぐって言い争っていた。そして、こうした誤解は、異なる人種間だけでなく男女間においても、多くのはっきりと明確にならないことがある典型ということになるだろう。

迫害されたというぼくらの友人についていえば、彼はコミュニストか、それとはかなり異なるがパリ・コミューンの支持者といった程度にすぎなかった。そして、その結果として一つ以上の職を失っている。結婚もうまくいかなかったようだ。が、これについては、彼が仕事について情緒的な言い方をしたので、ぼくが勘違いしたのかもしれない。彼は穏健で親切な人物だったし、ぼくは彼がもっとよい職を得て、自分にふさわしい伴侶を得ていればよいがと願っている。

———————————
脚注
*1: エドガー・アラン・ポー(1809年~1849年)は、一九世紀アメリカの短編作家。『アッシャー家の崩壊』のような恐怖小説やゴシック小説、『モルグ街の殺人』のような初の推理小説といわれる作品があり、ジューヌ・ヴェルヌに影響を与えた『アーサー・ゴードン・ピムの物語』のようなSF小説の祖とされる作品もある。
異端審問については『落とし穴と振り子』という短編で取り上げている。


*2: トリストラム・シャンディーは、一九世紀英国の作家ローレンス・スターン(1713年~1768年)の未完の小説。ヨークシャーの地主である紳士トリストラム・シャンディーの自伝という体裁をとりながら、二〇世紀の「意識の流れ」の先取りともいえる荒唐無稽な断片が連続し、これを日本で最初に紹介したとされる夏目漱石によれば


(スターンが作家として後世に知られているのは)怪癖放縦にして病的神経質なる「トリストラム、シャンデー」にあり、「シャンデー」ほど人を馬鹿にしたる小説なく、「シャンデー」ほど道化たるはなく、「シャンデー」ほど人を泣かしめ人を笑はしめんとするはなし


 となる。
『我が輩は猫である』はこれに影響されているという人もいる。
(主牟田夏雄訳の三巻本が岩波文庫から出ています)

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (28)

オリニーで相席になった三人目は宿の女将の亭主だった。といっても、昼間は工場で働き、夕方に自分の家である宿に客としてやってくるので、厳密には宿屋の主人というわけではなかった。たえず興奮していて、ひどくやせた、頭のはげた男で、目鼻立ちははっきりしていて、よく動くいきいきした目をしていた。土曜日に、カモ猟でのちょっとした冒険について話をしているとき、彼は皿を割ってしまった。何かいうたびに必ずあごをしゃくってテーブル全体を見まわし、目に緑色の光をたたえて同意を求めるのだ。宿の女主人は部屋の出入口にいて食事の様子を監視しながら、「アンリ、そう興奮しないで」とか「アンリ、そんなにそうぞうしくしなくても話できるでしょ」といっていた。正直な男で、実際にそうすることはできなかった。つまらないことにも目を輝かせ、拳でテーブルをたたき、大きな声が雷鳴のようにひびきわたった。こんな爆弾のような男は見たことがない。悪魔がとりついていたのではなかろうか。彼にはお気に入りの表現が二つあった。状況によって「それは論理的だ」か「論理的じゃない」というのと、もう一つは、長い話を朗々と語りはじる前に横断幕を広げるようにちょっと虚勢をはって「俺はプロレタリアなんだ、諸君」という。実際に、彼は労働者そのものだった。パリの街で彼が銃を構えるなんてことがなければよいと切に思う! 人々にとってろくなことにはならないだろうからだ。

この二つの言いまわしは、彼の階級の長所と短所を、そして、ある程度はフランスの長所と短所を表している。自分が何者なのかを公言し、それを恥ずかしく思わないのはよいことだ。とはいえ、それを一晩に何度も口にするのはよい趣味とはいえない。同じことを公爵なんて立場の人がやったとしたらひんしゅくものだが、こういう時代に、労働者がそうすることは尊敬に値すると思う。その一方で、論理を信頼しすぎるのはほめられたことではない。とくに自己流の論理をふりかざすのは一般的にいっても間違っているからだ。言葉や学のある人を信頼するようになると、どこで終わりにすべきかがわからなくなってしまう。人間の心には公正な何ものかが存在していて、それはどんな三段論法より信頼できる。人間の目や共感や欲望は、論争では決して語られることのないものを知っている。根拠なんてものはブラックベリーほどにもたくさん存在し、げんこつを一発くらわせるのと同じように、どっちの側の正義にもなりうる。教義はそれが証明されることによって真偽が明らかになるのではなく、賢明に用いられている限りにおいて論理的であるにすぎない。有能な論争家が自分の根拠が正しいことを有能な将軍以上に証明することはない。フランスは一つか二つの立派な言葉に振りまわされているが、どんなにすばらしいものであっても、それは単なる言葉にすぎないと得心するには多少時間がかかるだろう。そのことに気づけば、論理というものはそれほどおもしろいものではないとわかるだろう。

ぼくらの会話はまず、その日の狩猟についての話からはじまった。村の狩猟者たち全員が村の共有地で勝手に鉄砲を撃ちまくれば、礼儀作法とかと優先権といった多くの問題が起きるのはいうまでもない。

「ここがその場所だ」と宿の主人が皿を振りまわして叫んだ。「ここがビート畑で、それから、俺はここにいて、前に進んだってわけ。で、諸君」 さらに説明が続く。大きな声で修飾語や言葉を重ねる。話し手は共感を求めて目をきらめかせ、聞き手は皆、騒ぎを起したくないので、うなづいてみせた。

北部から来た血色のよい男は自分の言い分を通した武勇伝をいくつか披露した。その相手の一人は侯爵だった。

「侯爵」と、私はいったのさ。「一歩でも動いたら、あなたを撃ちますよ。あなたは間違ったことをしたんです、侯爵」

すると、すぐに反応があった。侯爵は帽子に手でふれると、そのまま引き下がったのだ。

宿の主人はやんやと拍手喝采した。「よくやった」と彼はいった。「あんたはできることを全部やった。やつは自分が間違っていたのを認めたんだ」 さらに罵詈雑言が続く。宿の主人も侯爵なんてものが好きではなかったのだ。こんな調子だったが、ぼくらのプロレタリアたる宿の主人には正義感があった。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (27)

相席になった人々

ぼくらは夕食に遅れてしまったが、同じテーブルをかこんだ人々は、スパークリングワインをふるまってくれた。「これがフランス流のもてなしなんだよ。一緒に食事したら友達だってわけ」と一人がいい、他の連中も喝采した。

相席になったのは三人だが、日曜の夜を一緒に過ごすにはちょっと変わった組み合わせだった。

三人のうち二人はぼくらと同じように宿の客で、どちらも北部の出だった。一人は血色がよく体も大きくて、豊かな黒髪とひげをたくわえた、恐れ知らずの、猟や釣りが好きなフランス人で、獲物がヒバリや小魚であってもつまらないとは思わず、どうだと自分の腕を自慢するような人だった。そんな巨体で健康そのもの、サムソンのように豊かな髪をした、バケツで流すように赤い血が勢いよく動脈を流れていそうな男がちっぽけな獲物を自慢するのは、鋼のハンマーを使ってクルミを割るような、ちぐはぐな印象を与えた。もう一人は物静かで、金髪、リンパ体質の悲しげな人で、どこかデンマーク人のように見えた。ガストン・ラフネストルがかつていったように「悲しきデンマーク人」といった風だ。

ガストンの名を出したので、もう亡くなってしまった、この最高の人物の話をしないわけにはいくまい。ぼくらは狩猟服を着たガストンをもう見ることはないし――彼は誰にとってっもガストンであって、下の名前を出すのは馬鹿にしているわけではなく、それだけ親しみを抱いているからなのだが――そのガストンの角笛の音色がフォンテーヌブローにこだまするのを再び聞くこともない。また彼の人なつっこい笑顔があらゆる人種の芸術家すべてに平和をもたらすことも、フランスでイギリス人に母国にいるように感じさせることもなくなってしまった。さらに羊が自分にまさるとも劣らない無垢な心の持ち主の動かす鉛筆の被写体になって、それを意識せずじっとしていることもないだろう。彼は芽を出しはじめて何か価値のあるものを花開かせようとした、まさにそのときに、あまりにも早く逝ってしまった。彼を知る者はだれも、彼の人生がむなしかったとは思うまい。ぼくは彼を知悉しているというわけでもないのだが、ずっと親愛の情を抱いていたし、人が彼をどれくらい理解しその価値を認めているかが、その人がどういう人物かを推し量る尺度にもなるとすら思っている。ぼくらと一緒にいるとき、彼はぼくらの人生によい影響を与えた。彼の笑い声はすがすがしく、彼の顔を見るだけで気が晴れた。心ではどんなに悲しんでいたとしても、彼はいつも元気で明るく落ち着いていて、災難があっても春のにわか雨ぐらいにしか思っていなかった。だが今となっては、彼が苦しく貧しいときにキノコを採ったりしていたフォンテーヌブローの森のそばで、彼の母親は一人で暮らしているのだった。

彼の絵には英仏海峡をこえたものも多い。ある卑劣なアメリカ人は絵を盗んだだけでなく、英国硬貨二ペンスしか持たず英語もろくにできない彼をロンドンに置き去りにしたのだ。この文章を読んだ人で、このすばらしい人物の署名のある羊の絵を持っている人がいれば、その人には、あなたの部屋には最も親切で最も勇敢だった者の一人があなたの部屋を飾るのに手を貸しているんですよと教えてあげたい。イギリスの国立美術館にはもっとすぐれた絵があるかもしれないが、何世代もの画家たちのうち、これほど善良な心を持った画家はいなかった。聖書の詩編によれば、人類の王たる神から見て、聖人の死はかけがえのないものであるし、またかけがえのないものでなければならなかった。というのも、発作で死んでしまうと、母親は悲しみのうちに一人残され、周囲の人々に平和をもたらし安穏を求めていた者がシーザーや十二使徒のように土に埋められてしまうのは大きな損失だからだ。

フォンテーヌブローのオークの森には、何か欠けているものがある。バルビゾンでデザートが供されるとき、誰もが今は亡き彼の姿を求めて、つい扉に目がいってしまうのだった。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (26)

 

夕方、ぼくらは手紙を出すために、またカヌーに乗った。すずしくて快適だった。サーカスの見世物になっている動物を見るように、ぼくらについてくる何人かの腕白小僧をのぞいて、この細長い村に人影は見えなかった。大気はすみきっていて、村のどこからでも、山々や木々の梢が見えた。教会の鐘がまた別の儀式のために鳴っていた。

ふいに、さっきの三人の娘たちが四人目の妹と一緒に街道沿いの店の前に立っているのが目に入ってきた。ぼくらはついさきほどまで彼女たちと意気投合していたのは確かだ。とはいえ、こういう場合、オリニーではどうするのがエチケットなのだろう? 田舎道だったら、もちろん声をかけるわけだが、ここでは人目もあるし噂もたちやすいだろう。会釈するくらいならかまわないだろうか? シガレット号の相棒にどうするか聞いた。

「ま、あれ見ろよ」と彼はいった。

ぼくは見た。四人の娘は同じ場所にいたが、四人ともぼくらに背中を向けて体を硬くし、話しかけてくれるなというのがありありだった。慎み深く、娘たちはそろってまわれ右をしたのだ。ぼくらの姿が見えている間、彼女たちはずっとそうしていたが、くすくす笑っているのも聞こえたし、初対面の四人目の娘は肩ごしにこっちを見ながら、口を開けて笑っていた。こうしたことはすべて慎み深いといえるのだろうか、それともこの地方独特の挑発なのだろうか?

宿屋に戻る途中、白亜の崖や頂上に生えている樹木の上、金色に輝く夕方の空に何かが浮かんでいるのが見えた。凧にしては高すぎるし、非常に大きくて、安定しすぎてもいる。暗くなっていたが、星であるはずはなかった。というのも、星がインクほどにも黒く、クルミほどにもでこぼこしていたとしても、こんな状況で日光をあびれば、ぼくらには光の点のように輝いて見えるはずだ。村のあちこちで人々が空を見上げていたし、子供たちは通りを駆けていたが、その通りは山の上へと一直線に続いていた。そこにも駆けている人影がぱらぱらと見えた。正体は気球だった。後で知ったのだが、夕方の五時半にサンカンタンを出発したものらしかった。大人のほとんどは冷静にそれを受けとめていた。だが、ぼくらはイギリス人だし、すぐに必死で丘を駆け上った。ぼくら自身も旅行者の端くれなので、同じ旅行者たちが空から舞い降りてくるところを見たかった。

しかし、丘の頂上に近づく頃には、見るべきものは終わっていた。金色の空は色あせかけていたし、気球の姿は消えていた。どこへ? ぼくは自問した。はるかかなたの天まで昇っていってしまっただろうか? それとも、坂道が続いている青みがかった起伏のある景色のどこかに着陸しているのだろうか? 上空は寒いらしいし、気球を操縦していた人たちは今頃はどこかの農場の暖炉で体を温めているのかもしれない。秋の日はつるべ落しで、すぐに暗くなった。道路沿いの木々や、牧草地を通って戻っている見物人たちの姿が、地平線に沈みかけた赤い夕陽をバックに黒い影となっていた。登ってきた坂の方が明るいので、ぼくらはそのまま引き返して丘を降りた。木の生い茂る渓谷のはるか上空にメロン色の満月があり、背後の白亜の崖は燃えさかる窯の炎のように赤くなっていた。

川沿いにあるオリニー・サント・ブノワットの村に灯りがともり、夕食のサラダが作られていた。