現代語訳『海のロマンス』26:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第26回)


海洋の変化

雲行けば船も従い、船行けば雲もまた追って、紫紺(しこん)の海に銀(しらがね)と咲く潮(うしお)の花を眺めくらしつつ、今日ははや三十八日の汐路(しおじ)を重ねた。

弓を引いては発し、引いては射るといったように、風は絶え間なく変化する。あるときはごうごうと音を立てる猛烈な台風となり、あるときはすね毛の根本にまつわりつく気流のくすぐりほども感じさせない。はるかな海底からこんこんと湧き出てくる潮(うしお)の脈拍。あるときは渦を巻き、みなぎるように沸き上がり、その堂々たる響きは赤き血潮(ちしお)の色も濃い船乗りの血管にも強く共鳴し、あるときは腕達者で繊細な、さざ波のように途切れずに続く音(ピアノ)となって、その何とも言えない妙なる音は、空想にふけるマドロスの胸に奥ゆかしい海の琴の音を伝える。

朝になると明けの明星も姿を隠し、夕べには月の光に照らされる。海の変化は秒を削り、分を割りて、なお一瞬時のいとまを与えない。

今や練習船大成丸は静かに太平洋のうねり(スウェル)に揺られながら、二度目の真無風(デッドカーム)を味わっている。四本のマスト、十八本のヤードは再びスウェーデン式体操やスパニッシュダンスを強いられる苦しい羽目にあるのである。

つい昨日までリギンは風に鳴り、バウは波に吠(ほ)え、弓を離れた矢のように、一時間八海里も走ったのを思えば、うそのようである。

帆船にとって、風がなくなり船が進まなくなったことほど、心細く、また哀傷(みじめ)なことはないだろう。見渡す限り空は一面の瑠璃(るり)色に染められ、水平線のかなたには干からびたような雲が不機嫌そうな面(つら)をさらしている。海の面(おもて)は、ありとあらゆる波の起伏的行動(モーション)を封じ去って、大小高低さまざまな波浪はネプチューンの巨砲に削られたようになめらかで、少しの変化もない。風といえばアホウドリの胸毛をゆるがすほどの力もなく、速度を調べる側程儀は引き上げられ、大小三十四枚の帆(セイル)は一斉に意気地なくマストにへばりついて、天地の間に見えるものは、ことごとく倦怠(アンニュイ)と退屈(ダル)との象徴(シンボル)でないものはない。油を流したような海とはこのことであろう。なだめられ、すかされ、だまされて泣き寝入りになったように……。おとなしいと言うより、むしろ無気力の沙汰(さた)である。

海はこのように恭順(きょうじゅん)の体を示しているのに、ここにうねりというつむじ曲がりの彰義隊(しょうぎたい)が控えている。風がへこたれ、海は変わってしまった、そっちがそうなら、……と静かに収まっている水の層を、その平らになろうとしている水の重さに逆らって、むりやりに上下に揺すりはじめる。そのたえざる微動が薄い水の表面を破らない範囲内において、はるか遠くから伝わってくる力を強く感じられる帆船は、汽船や軍艦に比べて、一層安定(ステイブル)である。さらに大なるスタビリティ―を持っている。本船のGM値*1は実に三フィート二インチ余もある。うねりが来ると、二千四百トンの大船も、くすぐられるように竜骨(キール)の下からユラリユラリと持ち上げられる。

見渡せば、船の横動(ローリング)に応じて、マストやヤードは皆それぞれに勝手気ままな方向(むき)にダンスをやっている。前檣(フォア)のやつは盛んにポルカをやっている。負けるものかと中檣(メイン)のヤードは浮いた浮いたとカドリーヌをやる。後檣(ミズン)のやつはと見ると、皆さん陽気に騒ぎましょうとばかりに、コチロンをやっている。御大喪(ごたいそう)中であるぞ、控え! とどなっても、帆柱(マスト)とうねり(スウェル)との妥協である。いっかな聞きそうにない。とにかく、波長の長いうねり(スウェル)は船乗りにとって鬼門である。

無風(カーム)で相当に苦しめられた船乗りは、またさらに苦しむべく、ここに時化(しけ)なるものを迎えなければならない。なんとも因果なことである。

一番上に展開するロイヤルはもう前の初夜当直(ナイトワッチ)に絞られた。風力七*2となる西方の疾風(ゲール)はヤードリギンに当たってビュービュー悲鳴を発し、海は夜目(よめ)にも目立つ雪のような波頭をいただいて震え走るのである。

怒り、狂い、焦(じ)れ、騒ぐ、北太平洋の広大な海域を伝わってきた波浪(なみ)は、相手ほしさのその矢先で、恐れる気配もなく乗り入れた二千余トンの帆船の鋭い船首(ステム)で、むざと二つに切り破(わ)けられた腹立たしさに、憤然としてガンネルを噛む勢いものすごく、ドシンと舷(ふなばた)に当たりざま、たちまち三千尺の高さに跳ね上がる。それを待ち構えたように、意地の悪い烈風がそれとばかりにけしかける。

軽佻(けいちょう)な波は、この尻押しのおだてにたやすく乗せられて、何の容赦もなく大きな煙突のような藍青色(エメラルドグリーン)の長い大きい水柱が水煙をたてて踊りこむ。リギンに時ならぬしぶきが散り、甲板はたちまち泡立つ海となり、洪水のような海水が滝のように風下の方へ流れ走る。こういうとき、中夜(ミッドナイト)の夜話は例の怪談話をするのに最もふさわしい。今も左舷二部の当直員は二番船倉口(ハッチ)の周りに円座して、N氏の大阪川口の綿問屋木ノ吉の所有にかかる新造スクーナーの進水当夜の奇談に心を奪われていた。と、たちまち頭上の船橋(ブリッジ)から「ゲルン絞れ!」*3という士官の号令が凛(りん)として夜の沈静(しず)んだ空気を震わせつつ、高く響いた。

ハリヤードを延ばし、シートをやり、クリュ―ラインを引き、囚われた大鷲のようにバタつく帆を巧みにヤードにまで縛りつける。やがて「絞帆(こうはん)たため!」の号令が下る。

すわと、はやりきった心を沈めて猿(ましら)のごとくスラスラとリギンを伝う後ろから、海洋(うみ)の男性的素質(ネイチャー)の両極を見よとばかりに、礫(つぶて)のような獰猛(どうもう)な驟雨(スコール)が激しく洗い落すようにやってくる。驟雨(スコール)の過ぎ去った後のヤードを見上げれば、蒼穹(そうきゅう)を燦然(さんぜん)と散りばめている無数の星くずを、今にも払い落すように横動(ローリング)するマストの上で、雨に濡れてパンパンの板のようになった帆をたたみ上げるその速さ、その手練(てだ)れ。

陸にしがみついている人、セイラーを軽視する人にぜひ見せたい見事な光景である。



脚注
*1: GM値 - 船舶で、G(重心位置)とM(横揺中心)間の距離を指し、この値が大きいほど復元力が大きくなる。「(横)メタセンタ高さ」ともいう。

*2: 風力七 - 風の強さは一般に「ビューフォート風力階級」で示される。風力七は風速13.9m~17.1mで、風力階級表によると、海上では「波頭が砕け、白い泡が風に吹き流される」状態。
ちなみに、太平洋では風速が17.2mを超えた熱帯低気圧が台風と呼ばれる。


*3: ゲルン - トップギャランと呼ばれる横帆のこと。
横帆式の帆船では、帆(セイル)は、マストの下から順に「コース」「トップスル」「トップギャラン」「ロイヤル」と呼ばれる。数が多い場合はさらに細分化され、「アッパー(上)**」「ロワー(下)**」が付く。
強風で縮帆する場合、上の帆からたたんでいく。

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