スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (43)

オアーズ川を下る(続き) ── 教会の内で

まずコンピエーニュからポン・サント・マクサンスまで下った。翌朝、六時ちょっと過ぎに宿の外に出てみた。空気は刺すように冷たく、霜もおりているようだった。広場では二十人ほどの女たちが朝市に出された品物に群がって声を張り上げていた。値段の交渉であれこれ言いあう声が、冬の朝の雀のさえずりのように断続的に聞こえてくる。通行人はちらほらいたが手に息をはきかけて暖め、血行をよくしようと足踏みして木靴をがたがた鳴らしたりしている。街路はまだ冷たい影におおわれていたが、煙が出ている頭上の煙突には日が差し、黄金色に輝いていた。一年のこの季節に早起きすると、起床したときは十二月の寒さだったものが、朝食を食べるころには六月の陽気になっていることもある。

教会までの道がわかったので行ってみた。教会には、生きた礼拝者だったり死者の墓だったり、何かしら見るべきものがある。真摯な熱意や空虚な欺瞞に包まれていたりする。歴史的に由緒のあるものではないとしても、そこで暮らす人々についての情報が得られるのは確かだ。教会の内部は屋外に比べてさほど寒くはなかったが、どこか冷え冷えとしていた。白い祭壇のまわりは極寒の地のように見えた。人の気配も少なく、寒々として、英国国教会に比べて大陸側の派手なカトリックの祭壇はかえってわびしさを感じさせた。内陣に神父が二人座り、書物を読んだり告解者を待ったりしていた。祭壇から離れたところでは一人の老婦人が祈りをささげていた。健康な若い人々が寒くて掌に息をはきかけたり胸をたたいていたりしているときに、この老婆がロザリオを普通に扱っているのが不思議でもあった。それに気をとられたものの、それ以上に、ぼくは彼女の行動とその意味するものに何か失望を感じざるをえなかった。彼女は椅子から椅子へ、祭壇から祭壇へと動き、教会内をぐるっとまわっていた。聖廟の前まで来ると、どの聖人に対しても同じ数のロザリオで同じ時間だけ祈りをささげるのだった。経済の先行きにあまり楽観していない用意周到な資本家のように、彼女は安寧を願うあまり、さまざまな聖人やら守護神やらに分散投資して歎願しているらしかった。仲裁者を一人に絞って信用するというリスクをおかすつもりはないのだろう。一人と言わず聖人や天使すべてが最後の審判のときに彼女を擁護すべきだと思うように仕向けているのだった! それは、ぼくには、本当には信じきれていない、愚かな、無意識の、見え透いた偽善にしか思えなかった。

彼女は骨と皮だけの、死者と区別がつかないような老婆だった。彼女はぼくを一瞥したが、その目には表情というものがなかった。見るとはどういうことかの解釈にもよるだろうが、彼女はある意味で盲目といってもよかった。おそらく若いころには恋をし、子供も産んだことだろう。子供を育て、愛称をつけてかわいがったりもしたはずだ。しかし今となっては、そういったことすべてが過去のものとなり、彼女はその頃より幸福にもなっていなければ賢くもなっていないのだった。彼女が毎朝できる最善のことは、ここに来て、寒々とした教会の中で、来世の幸福を願うことだけなのだろう。ぼくは通りへと逃げ出し、すばらしい朝の空気を腹いっぱい吸わないではいられなかった。朝だって? 朝にこれほど厭世的であれば、どうやって夜まで過ごすというのだろうか! しかも、夜に眠れなかったりしたら、どうなるのだろうか? 七十歳までも生きた後で、自分の人生が間違っていなかったことを公衆の面前で示さなければならない人はさほど多くないというのは、幸運なことだ。こういう殺伐とした時代には、多くの人々は人生の最盛期に倒れ、どこか見知らぬ土地で自分の愚かな行動の償いをさせられるというのも、見方によれば幸運なことかもしれない。でなければ、病気の子供と愚痴ばかりのお年寄りを抱えて、人生そのものに嫌気がさしてしまうかもしれないではないか。

その日、カヌーを漕いでいる間、ぼくは自分の精神を立て直そうと努める必要があった。あの老婆のことが喉に刺さったトゲのように頭から離れなかった。とはいえ、やがて馬鹿になりきることができた。カヌーに乗って無心に漕ぎ、漕ぐ回数を数えつつ、それが何百になったか忘れたりしながら、それ以外のことは考えないようにした。ときどき漕ぐ回数が何百だったかをおぼえてべきだという不安にかられたりもしたが、そうなると楽しみが苦行になってしまう。そういう不安は漕いでいるうちに頭から消え、ぼくは自分が何をやっているのかもよくわからない状態でひたすら漕ぎ続けたのだった。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (42)

ぼくらが強い関心を持っていた一つは、食べることだった。ぼくは食事に重きをおきすぎたかもしれない。料理のことをあれこれ考えていると、口のなかによだれがたまってきたのを覚えている。そうして夜になるずっと前から、それを食べたくてたまらなくなり、そうした食欲を抑えることが悩みの種になった。ぼくらはときどき並んで漕いだりもしたが、そうやって川を下っていきながら食事の話で互いを刺激しあった。ケーキとシェリー酒なんかは故国ではありきたりすぎるのだが、オアーズ川近辺では手に入らないので、そのことばかり考えながら何マイルも漕ぎ下ったりしたし、ヴェルブリーに近づいたころに、シガレット号の相棒が「牡蠣のパテにちょっと甘い白ワイン」なんてのを口にしたものだから、頭の中はそれを食べたいという思いばかりになったりした。

人生を楽しむうえで飲み食いがいかに重要かということを、誰もきちんと認識していなさすぎるのではないだろうか。ぼくらは食欲旺盛だったので、どんなひどい食事にも我慢できたし、パンと水だけの食事でもうれしかった。何も読むものがなればガイドブックの時刻表でも嬉々として読みふけっている活字中毒の人たちと同じだ。しかし、食べるということは、それだけにとどまらない。食事が大事だという人は、たぶん恋愛が大事だという人より多いだろうから、一般論として食べ物は景色などよりずっと関心をそそるものだと思う。ウォルト・ホイットマンだったらこう言うだろう──だからといって人間としての価値が減るとでもいうのかね? 物質主義を突き詰めていけば、自分の存在自体を恥ずかしいと思うようになる。人間の素晴らしさという点では、料理の隠し味にオリーブが使用されていると見極めることは、決して夕景の空の色に美を感じることに劣るものではない。

カヌーを漕いで川下りすること自体はむずかしくない。適切な傾きを保ってパドルを右、左と交互に川に突っこみ、スプレースカートの膝まわりにたまった水を捨て、水面にきらめく陽光から目を細めて守り、コンデのデオ・グラシアス号やエイモンの四人の息子号などの係留されているロープの下をくぐったりするのだが──それにはたいした技術は必要なくて、川に浮かんでいるときは筋肉が機械的に作業をやってくれるので、その間は脳のほうはお休みしている。ぼくらは周辺の景色をざっと見て把握し、半ば寝ぼけた状態で、岸辺の作業着姿の釣り人や洗濯をしている女たちを目でとらえたりした。ときどき、教会の尖塔や飛び跳ねる魚、あるいはパドルにからみついた川草を引っ張って投げ捨てたりするときに、寝ぼけ状態を脱したりした。とはいえ、それでも完全に目がさめるわけではなかった。無意識の状態から目をさましはするが、体全体が覚醒して反応するというのではない。神経の中枢、ぼくらが自我と呼ぶものは、巨大な政府の一省庁のように、そうしたことに煩わされず休んでいて、知性の大きな車輪はフライホイールのように、何も役に立つ仕事はせず、頭の中でゆっくりまわっている。ぼくは漕ぐ回数を数えつつ、何百になったかを忘れたりしながら、半時間も漕ぎ進んだことがある。獣でもこれだけ無意識の状態になることはあるまいと思うほどだ。なんとも気持ちのよいひとときだった! 無心に漕ぎ進むことで、心が寛大になってくる! この境地に達すれば、人のあら探しをすることもなく、人生において可能な神格化とでもいうか、いわば愚かさの頂点に達してしまい、威厳を感じさせる樹木のように長く生きた気がしてくる。

この没我の状態について、強さと呼んではいけないのであれば、ぼくは深さと呼びたいが、これには現実に奇妙な形而上学が伴っていた。精神が否応なく、哲学者が自我と非我、自己と客体と呼ぶものに向いてしまうのだ。この放心状態では自我が少なくなり、ふだん思っているよりも非我が多くなる。ぼくの心は、自分以外の誰かがカヌーを漕いでいるのを眺めている。自分以外の者が足を踏ん張っていて、自分の体についても、カヌーや川や川の土手以上に自分の心と親密な関係を持っているようには思えないのだった。それだけではない。ぼくの心の中にある何か、自分の脳の一部、自分の正しい部分の一部がぼくから抜け出て、それ自身のため、あるいはカヌーを漕いでいるぼくではない他者のために働いているのだ。ぼくは自分自身の内部で、隅っこの方に縮こまっている。ぼくは自分の頭蓋骨の中で孤立している。勝手に考えが浮かんでくるが、それはぼく自身の考えではなく、明らかに誰か他者の考えだったし、ぼくはそれを風景の一部のようにみなしている。要するに、ぼくは実際の生活に支障がでない範囲で、ちょっと解脱したような状態になっている感じだった。解脱というものがこういう状態なのであれば、ぼくは仏教徒を心から称賛したい。目から鼻に抜けるような利口さではなく、金儲けにもつながらないとはいえ、心穏やかで高貴であり、邪念がなく、物事に右往左往しない、なんとも気持ちのよい状態である。べろべろに酔ってはいるが精神はしらふで、その状態を楽しんでいるとでも説明しようか。屋外で仕事をする人々は日々の多くをこうした没我の状態ですごしているに違いない。彼らの落着きと忍耐力はそれで説明がつく。こういう風に、何も特別なことをしなくても至福の状態になれるのだから、ドラッグに金を使ったりする人の気が知れない。

こういう心の状態が今回の航海での大きな収穫だったし、それがすべてでもあった。ありきたりの言葉による表現とはかけ離れているので、ぼくの、この楽しく自己満足した状態を読者に共感してもらうのはむずかしいかもしれない。太陽光線の中で浮かんでいるほこりのように、いろんな考えが浮かんでは消え、たえず形を変えていく雲を通して、土手沿いの木々や教会の尖塔がときどき確固とした物のように立ち上がって注意を引いたり、水面に浮かぶボートとパドルのたてるリズミカルな音が眠りを誘う子守歌になったりした。デッキについた泥ですら、ときには耐えられなくなったり、逆に気にならなくなったり、考えを集中させる対象になったりした──その間も、川は常に流れていて、川岸も変化していき、ぼくはパドルを漕ぐ数をかぞえ、何百回だったか忘れたりしながら、フランスで最も幸福な動物になっているのだった。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (41)

時間の移り変わり

それからの航海では、こうした霧は、ある意味で、晴れることはなかった。ぼくのノートにも霧が濃く立ちこめている。オアーズ川が田舎を流れる小さな川だったときは民家の近くを通っていたし、川沿いに住む土地の人々とおしゃべりすることもできた。しかし、今では川幅も広くなり、川岸に住む人々も遠くからぼくらを眺めているだけになった。立派な幹線道路と、集落を縫うように続いている田舎道の違いのようなものだ。このあたりまで来ると宿も市街地になるし、地元の人々から質問攻めにあうこともなくなった。いわば文明化された社会までやってきたわけだが、こういうところでは行きかう人々と挨拶することはない。田舎では人と出会うためにいろんなことをやったが、都会では他人と距離を保ち、人の足を踏んづけでもしない限り声をかけることもない。都会では、ぼくらはもう妙な渡り鳥のような存在ではなく、違う村からはるばる旅をしてきたのだと想像されることもなくなった。たとえば、リラダンにやってきた日の午後には、何十隻というプレジャーボートが走りまわっていて、ぼくらのくたびれた帆を別にすれば、本物の旅をしてきた者とちょっと近場で遊んでいるだけの者とを区別するものは何もない。実際に、あるボートに乗った連中はぼくを近所の誰かと思いこんでいたりした。これほどの屈辱は他にないのでは? とはいえ、旅というものはすべて、そうやって終わりを迎えるのだ。オアーズ川の上流域では、魚以外に川を航行している者などいないので、ぼくらのようなカヌーに乗った人間は、地元の者のふりをして人目を避けることはできない。すぐに風変わりな見慣れないよそ者だとばれてしまうし、逆に相手も好奇心にかられたりするので親しくなったりもした。この世界はそうした相手との相互関係で出来上がっているようなところがあり、そうした絆をどこまでもさかのぼっていけるわけではないが、ぼくらの前からずっと続いていることなので、こうした状態に決着がつくということもないのだ。自分が相手に興味を持てば、それに比例して相手もこっちに興味を持ってくれる。ぼくらが一種の奇妙な放浪者でいる限り、じろじろ見つめられたり、ほら吹きやサーカスの一団のように、ぼくらの後ろから地元の人がぞろぞろついてきたりして、それがぼくらにとって面白かったりもした。ところが、ぼくらが一般の人々と区別がつかなくなってしまうと、ぼくらが出会う人々も同じように魔法が解けてしまい、ぼくらへの関心を失ってしまう。平凡な人間にとって世の中が退屈な理由は山ほどあるが、これはその理由の一つである。

冒険航海に出た最初のころは決まって何かすべきことがあり、それに急かされるように行動していた。にわか雨が降ってくるだけで、そうした気持ちが復活し、脳が刺激されて退屈することはなかった。だが、ここまでやって来ると、川はもはや急流ではなくなったし、海に向かって滑るように、しかし、ゆっくりと流れていて、天気は相変わらず好天続きで、ぼくらは野外で激しい運動をした後の満足感にひたっているときのような、ある種の倦怠を感じ始めていた。一度ならず、こんな風な感覚にとらわれたことがあるし、そういう状態になるのも嫌いではなかったが、スリル満点でオアーズ川を漕ぎ下っていたときの快感はもうなかった。虚脱感が頂点に達したような感じだ。

ぼくらは何かを読んだりすることもなくなった。新しい新聞を見つけると、連載小説の一回分を読んで楽しむこともあったが、三回を超えると、もう耐えられなくなり、その二回目には失望していた。話の筋が見えてくると、ぼくにとって、その価値がすべて失われてしまうのだ。一つの場面だけ、あるいは連載の場合は一つの場面の半分だけが、その前後の脈絡もわからないまま夢の一部のように、ぼくの興味を引いたりした。小説全体の筋がわからないほど、その小説が好きになった。これは示唆に富んでいる。すでに述べたように、ぼくらはたいていの場合、何も読まずにすごした。夕食をすませると寝るまでの短い間は何も読まず地図を眺めてすごした。ぼくはずっと地図が見るのが好きだったし、地図上で極上の旅を想像して楽しむことができる。地名はそれだけで訪れてみたい気になるし、海岸線や川の輪郭には心を奪われてしまうものがある。そして、それまで耳にしていた場所を地図で見つけると、その歴史に新しい意味が見えてくる。とはいえ、航海もこのころになると、無関心なまま地図をめくっていくだけだ。どんな場所か、気にすることはなくなった。ぼくらは子供がオモチャのガラガラに耳をすますように、地図をじっと見つめ、町や村の名前を目にしてはいるが、すぐに忘れてしまう。ぼくらは地図の情報自体に思いを寄せているのではなかった。無我の境地、というか虚脱状態だろうか。ぼくらが地図を熱心に眺めているときに誰かがその地図を持ち去ったとしても、ぼくらは同じ熱心さでテーブルをそのまま眺めていたかもしれない。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (40)

ぼくはこの機械仕掛けの人形の動きがとても気に入ったので、鐘が鳴るときは見逃さないよう注意していた。シガレット号の相棒はそんなぼくを小ばかにしていたが、やつ自身もかなり気になっているようだった。オモチャの人形を建物の上で冬の厳しさにさらしているのは、あまりほめられたことではない。ニュルンベルク製の時計の前に、人形用のガラスケースでも置いたらどうだろう。とくに子供たちが眠りにつき、大人も布団にもぐりこんで高いびきをかいている夜間に、こうしたお菓子のジンジャーブレッドでできたような人形たちがウインクしたり、星や天をめぐる月に向かって鐘を鳴らしたするのは場違いな気がしないだろうか? 雨水を吐き出す部分の彫刻が猿のような頭を傾けていたり、磔刑場に向かうキリストの苦難を描いた古いドイツの版画の百人隊長のように国王が軍馬に乗ったりしているのはともかく、オモチャの人形たちは、朝になって子供たちが家の外でまた遊ぶようになるまで、綿にくるんで箱にしまっておくべきだ。

コンピエーニュの郵便局には、ぼくら宛の手紙がたくさん届いていた。郵便物について問い合わせると、このときばかりはとても丁寧な対応で手渡してくれた。

ぼくらの旅は、ある意味、コンピエーニュでこうした手紙を受け取った時点で終わったといえるのかもしれない。旅の途上という魔法がとけてしまったからだ。その瞬間から、なかば帰国したも同然だった。

旅に出るときは手紙を書いたりするものではない。書くのが大変ということもあるが、手紙を受けとってしまうと、休暇を楽しんでいる気分がだいなしになってしまう。

「自分の国と自分自身から離れてみよう」 そういう気持ちで、しばらくの間、それまでとは異なる新しい条件の別の生活に飛びこんでみたいのだ。その間、友人たちとは連絡を絶ち、自分の好きなものとも関係を持たず、出発するときには自分の心は自宅の机の中に置いてくるか、旅行カバンに詰めて終着点まで先に送っておく。友人からの手紙は、旅が終わってから、それにふさわしい気持ちで楽しみながら読むことになる。だが、これだけのお金をかけて、はるばるカヌーを漕いできたのは外国を旅するためだったのだが、手紙はずっと追いかけてきて、まだ自分の国にいるような気分になってしまう。手紙の主たちはぼくの足にひもをつけていて、ぼくは自分がひもでつながれた小鳥だと感じてしまう。手紙はヨーロッパ中を追いかけてきて、自分が放り出して逃げてきた、あれこれの小さな悩み事を思い出させてしまう。人生という闘いに「待った」がないのはよくわかっているが、一週間の休暇すら許されないのだろうか?

出発した日、ぼくらは六時には起きた。ホテルの人間はぼくらにほとんど注意を払わなかったので請求書にも書き忘れがありはしないかと期待したが、しっかり細かいところまで記載されていた。事務的に処理する職員に対し値切りもせずに支払いをすませると、ぼくらは誰の注意を引くこともなく、ゴム製のバッグを抱えてホテルを出た。気にかけてくれる人は誰もいなかった。小さな村で一番に早起きするのは無理だが、コンピエーニュほどの規模の町になると、朝はのんびりしたもので、町の人々がまだガウンとスリッパ姿でくつろいでいる間に、ぼくらは起床し立ち去ったのである。通りには玄関前を掃除している人しかいなかった。公会堂の上にいる人形の紳士たちの他に、正装している者は誰もいなかった。人形たちは露にぬれ、金箔もきれいになって光っていて、世の中というものを知りつくした、プロ意識による責任感に満ちていた。ぼくらが通りかかると、六時半の鐘が打ち鳴らされた。彼らなりの別れの挨拶だと感じた。日曜日の正午でさえも、こんなに上手に鐘は鳴らされなかった。

川に浮かんでいる洗濯台で衣服を洗っていた、早起きで──夜も最後まで仕事をしている──洗濯女たちを別にすれば、見送りは誰もいなかった。彼女たちはとてもにぎやかに、いつもの朝をすごしていた。腕をぐいっと川の中に差しこみ、水の冷たさも平気なようだった。自分だったら、こんなに朝早くから冷たい水で仕事するのは嫌だなと思った。とはいえ、ぼくが自分の生活を彼女たちと交換したいとは思わないように、彼女たちも自分の生活をぼくらの生活を交換したいとは夢にも思っていない風だった。彼女たちは洗濯台の扉のところに集まって、ぼくらが陽光を浴び川霧に包まれてカヌーを漕いでいくのを眺めていた。そして、ぼくらが橋を通過するまで、背後から大声で声援を送ってくれた。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (39)

コンピエーニュにて

ぼくらはコンピエーニュの大きくて活気のあるホテルに泊まったので、だれもぼくらの存在を気にしたりはしなかった。

ここでは予備兵や(ドイツ風にいうと)軍国主義的な風潮が蔓延していた。町外れにある宿営地の円錐形の白いテント群は、聖書に描かれている挿絵のようにも見えた。どのカフェにも壁には剣帯が飾られていたし、通りでは一日中、軍楽隊の音楽が鳴り響いていた。イギリス人としては、気分が高揚せざるを得なかった。というのも、太鼓の後からついていく男たちが小柄で、歩き方もしょぼくれていたのだ。それぞれが自分勝手に体を傾け、好きなように体をゆらしている。長身ぞろいの高地出身者の連隊が音楽隊の後にきちんと整列し、まるで自然現象のように厳粛かつ整然と歩いていくような様子はどこにもなかった。この行進を目にした者は、先頭を歩いて行く楽隊長や、鼓手が身につけたトラの皮、笛奏者のゆれている格子柄の服、連隊全体が歩調をそろえている、ちょっと伸びたり縮んだりしているリズム――そして管楽器が鳴りやんだときの太鼓の音、甲高い管楽器がそれぞれ気分を高揚させて鳴り響く様子を、決してわすれることはできまい。

フランスの学校にいた一人の少女から聞いた話では、その娘は、英国の軍隊の行進する様子についてフランスの生徒に説明しはじめたところ、だんだん思い出が生き生きとよみがえってきて、自分がそんな兵隊さんのいる国の女であることが非常に誇らしくなってきて、それなのに自分がいま別の国にいるということが何か申し訳ないような気持ちにもなって、言葉につまって泣き出したことがあるそうだ。ぼくはその娘のことを忘れたことがない。彼女のために銅像くらい立ててやってもいいのではないかとすら思っている。彼女を若いレディと呼ぶのは上品ぶっていて、逆に彼女を侮辱することにもなるだろう。ただ、これだけは保証していいと思う。彼女が英雄的な活躍をした将軍と結婚することはないかもしれないし、彼女の人生から直接に国にとっての成果が得られることもないかもしれないが、彼女のような人は母国にとって無駄に生きたことにはならないだろう。

フランスの兵士たちは閲兵式ではぱっとしなかったが、しかし行進では、狐狩りにでかけるみたいに嬉々として注意を怠らず、熱心に取り組んでいた。いつだったかシャイー通りの、バス・ブローとレーヌ・ブランシェの間で、一個中隊がフォンテーヌブローの森を通過するのを目撃したことがあった。一人だけ集団の少し先を歩いていて、大声で勇ましい行進曲をうたっていた。残りの者は足並みをそろえ、リズムに合わせてマスケット銃を振りまわしている。馬上の若い将校はその歌詞に吹き出さないよう苦心していた。これほど陽気でおおらかな行進は他では見られないだろう。ウサギ狩りごっこに熱中する男子生徒でも、これほど熱心にはならないだろうし、これほど元気よく行進している連中を疲れさせることもできないだろう。

コンピエーニュで一番よかったのは公会堂だ。ぼくは公会堂に魅せられてしまった。ゴシック建築の持つ不安定さをよく示していて、いたるところに小塔や彫刻を施した雨樋があり、数多くの建築上の工夫が盛りこまれて飾りつけられている。壁のくぼみには金箔がほどこされ、絵が描かれているものもあった。中央の巨大な四角いパネルは金箔の地に黒の浮き彫りで、片手を腰にあて、頭をうしろに引いて馬を御しているルイ十二世が描かれていた。彼の仕草すべてに王族らしい矜持があふれ、あぶみにかけた足先は傲慢な感じで枠からはみだし、眼光は鋭く、誇り高い目をしていた。馬はひれ伏す農奴をうれしそうに踏みつけ、トランペットの音に鼻孔をふくらませているようにも見える。国民の父と呼ばれた善王ルイ十二世は、そうやって公会堂の前でいつまでも馬に乗った姿でいるのだった。

国王の頭上にある、中央の高い小塔には時計の文字盤が見えていた。それよりずっと高いところに、三体の小さな機械じかけの、それぞれハンマーを手にした人形が立っていて、コンピエーニュの市民のために毎正時と十五分おきに時間を告げるのだ。中央の人物は金箔の胸当てをつけ、他の二人は金色の裾広がりの短い半ズボンをはき、三人とも騎士のような、つばの広い優美な帽子をかぶっている。次の十五分が迫ると、彼らは頭を回転させて互いに見つめ合い、それから下にある三つの小さい鐘に三つのハンマーが振り下ろされる。時間になると、塔の内部から、深く朗々とした音で時間が告げられ、金ぴかの紳士たちはひと仕事を終えて一服するのだった。