ヨーロッパをカヌーで旅する 84:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第84回)
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翌日は早朝に出発した。川の流れはまずまずで、この日も青空のもと、強めの追い風を受けて帆走したりもした。川沿いで出会った農夫や市場へ向かう人たちとも興味深い話をした。そういうフランス人が一番驚くのは、ぼくが一人旅で、それで幸せでいられるというところらしい! 身勝手に思われるかもしれないが、こういう旅では完全な一人旅の方が絶対にいい。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 83: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第83回)
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こうした丘の一つに、マダム・クリコの館があるのに気づいた。この名前は多くのシャンパンのボトルやそれ以外のボトルのコルクにも刻印されている。エペルネの近くのアイのブドウ園はこのワインの名産地だ。ワインは瓶詰にされた後、ボトルの首を下に向けて沈殿物をコルク周辺に集める。それから熟練した職人がコルクを交換する際に、瓶内の圧力で少量のワインもろとも沈殿物を吹き飛ばす。ボトルは「洞窟」や巨大な貯蔵室に保管されるが、そうした場所は温度変化がほとんどない。そのために瓶(びん)が破裂することもある。ボトルの四分の一がそうやって爆発したこともあったそうだ。この有名なマダム・クリコでは、一八四三年の暑かった夏、四十万本のボトルが失われたという。その後、大切な貯蔵庫の冷却用に十分な量の氷がパリから調達できるようになると、そういうことはなくなった。フランスでは毎年約五千万本の「本物」のシャンパンが製造されているという。世界中で「フランス製シャンパン」と称するものが年間に何百万本飲まれているのか、確実なところは誰にもわからない。イタリアのワインの産地として有名なベローナでも、ここのシャンパン・ボトルは尊重されている。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 82:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第82回)
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水もれするカヌーに乗っているのは、なんとも情けなくみじめだ──足を引きづった馬に乗ったり、銃身の曲がった銃を使うようなものだ。カヌーでは多くの機能が必要とされるが、最優先すべきは信頼性である。それで、最初の村まで来たところでカヌーを止めた。そこで修理してくれる人を見つけてパテなどを調合してもらい、それを継ぎ目に押し当てた。岸辺の宿で食事をする間に硬化してくれるはずだ。その場所では、長大なイカダが組み立てられていた。パリまで下るのだそうだ。宿ではエネルギーに満ちあふれた農夫たちが一瓶二ペンスのワインを飲んでいた。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 81:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第81回)
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軍が常駐している地区には約五百棟の住宅があった。頑丈な造りで、広々としていて、明るかった。すべてがレンガ造りで屋根はスレートだ。手入れもきちんとされている。建物はそれぞれ長さが約七十フィート(二十一メートル)、幅二十フィート(六メートル)の平屋である。この野営地にはすでに百五十万ポンドが費やされている。この住宅地の奥には兵士向けの庭がある。これはイギリスの野営地でも近年に取り入れられている特徴だ。この場所には数千人の兵士しかいないので、そのうち興味深いものはすべて見てしまった。レストランでは、二十人ほどの将校が連れだって朝食に集まってきているのを目撃した。が、とにかく声が大きく、粗雑で品がなく、言葉づかいも乱暴なことに驚かされた。ものすごい騒音で、それが途切れることがない。フランスの食事で、これほどひどいものには出会ったことがない。朝食を食べる間のわずか半時間ほどだが、これほど大声で怒鳴りちさずにはいられないのは、何か特別な理由があるのだろうと考えざるをえないほどだった。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 80:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第80回)eyecatch_2019

第十四章

運河を通ってナンシーまでやって来た。美しくて古い町だ。カトリックの大司教や陸軍元帥がいて、立派なホテルが一軒に大きな洗濯場が何か所かある。太鼓やラッパに氷菓子など、人生を豊かにする品すべてがそろっている。だが、ナンシーという町が軽騎兵の部隊を招致したことにより、こうしたものすべてが脇に追いやられてしまった! 大聖堂では、イタリアだったか、前にも話したのよりさらに悪趣味なミサが行われていた。ミサを執行する司祭が三十人以上もいて、この物静かな老人たちは豪華で派手な刺繍(ししゅう)をほどこした服をまとい、ラテン語をつぶやきながら、頭を下げたり、向きを変えたり、しかめっ面を浮かべたりしているのだが、実際にあらゆる限度を逸脱していた。こうしたことは、キリストに代わって執り行われるという形の聖餐式(せいさんしき)に参列し、「わたしを記念するため、このように行いなさい」*1という言葉の真実の解釈として、こんな茶番を受け入れざるをえない人々にとって侮辱でしかない。

*1: 新約聖書の「コリント人への第一の手紙」の11章24節。
いわゆる聖餐式(せいさんしき、ミサ)の奥義ともいうべき、パンを裂いて祝福する儀式についてのキリスト自身の言葉とされる(訳文は日本聖書協会発行の新訳聖書より)。

大勢の会衆はほぼ全員が女性で、昔の聖人をたたえる若い神父の雄弁な説教に聞き入っている。古代のお偉い人物が最も尊敬されるべき聖職者であった可能性はあるものの、実際のところ今の修道院で出会う聖職者の多くとそうたいして違ってはいまい。ヨーロッパやアジアやアフリカで聖職者に頻繁に接した経験からすると、そういう聖職者の一人が近寄りがたいほど傑出してすぐれていたと過度に美化されるのを目にすると、つい笑ってしまう。とはいえ、おそらく、この聖職者様は毎日の沐浴をきちんと務めることによって他とは違うんだということを明確に示し、クリーンな人物であるという稀(まれ)な評判を得ていたのだろう。

午後になると、この聖人の遺骸は、何千人もの女と少数の男の行進と共に通りを運ばれて行った。参列したご婦人方のうち、白いモスリン生地の服を着用した人が何百人もいて、ゆっくり行進しながら聖歌を口ずさんでいる。見物人は全員、帽子を脱いでいる。ぼくの方は、痩せこけた修道士の体が邪魔になって、礼拝の様子がよく見えなかったので、麦わら帽子をかぶったまま脱がなかった。

社会性を持って暮らしているフランス人は公共の宗教というべきものを持ち、集団で礼拝し、それとわかる行動や色彩や音を持っているのに違いない。そうした、深い献身と深い沈黙は北の地方には適している。気温が高く活動を控えがちな低緯度地方でも静かな礼拝というものは存在しうるが、やはり太陽がさんさんと輝く地方向きとはいえない。三十年ほど前、ケンブリッジの学生だったぼくらの仲間のうちでも優秀なやつが、イギリスが島国であることとイギリスの気候が国民の気質に与える影響についての論文を読んでくれたことがある。たとえば、ナンシーのような田舎町のフランス人についていえば、快適か否かはほぼすべて天候に左右されるので、雨や雪が降ると気分も落ちこんでしまうだろう。だから、そうしたフランス人がイギリスに行ったとすると、英語がうまくできなくて誤解されて人に笑われたり、夕食には二皿しか料理がでなかったりするし、まずいコーヒーを飲むはめにもなる。夕方に営業している屋外のラウンジなどないし、そういうときはイギリスの家庭生活を見る機会だと言われたとしても招かれることはない(英国の家庭に呼ばれるフランス人はほとんどいない)。そういう外国人の不運な境遇は直接にはイギリスの気候のせいであり、イギリスのあるグレートブリテン島が、イギリス人はみな霧と木綿とたばこの煙に包まれて、すべてがみじめだという印象を与えたとしても何の不思議もない。

ナンシーからマルヌ川まで、カヌーを貨車で運んだ。貨車の方が遅いので、それが着くまでの間、先着していたぼくはフランスのアルダーショットともいうべき軍事施設があるキャンプ・デ・シャロンを訪ねた。駅からバスが出ている。長く埃っぽい街道筋に人家はほとんどなかった。たまにあると、なんともお粗末で、手で押しただけで、そのまま押しつぶされてしまいそうだった。ここは軍事地区というわけではないのだが、軍事施設関連の商人たちが住み着いている町で、たいていの軍事基地の周囲にはこういうところがある。で、ぼくがやって来たのは「プレース・ソルフェリーノ」というところだった。ここに「マラコフ通り」というのがあり、宿屋の印はフランス人が切り落としたブタの尻尾を持った中国人だった。ここの軍事施設は大平原のど真ん中にあって、埃っぽかった。大地の色も白っぽくて、目が痛いくらいにまぶしい。今度の航海で一番暑い日ではあった。とはいえ木陰もあったし、広々とした大地は一面の草原にもなっていた。ここは陸軍の演習地だ。今は亡き皇帝が丘の上の東屋から軍の行進を見守ったりしていたところだ──もっとも、その軍もやがては恐怖にかられて逃げ出してしまうことになってしまったのだが。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 79:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第79回)
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むろん、橋に到達すれば、そこには集落があるはずだ。実際に、そこではまさしくドナウ川のゲーグリンゲンで起こったのと同じ光景が繰り返されることになった。暗くなって川岸にカヌーを着けて引き上げ、水滴をふきとった後、ぼくは土手の上に見える家まで登っていき、ドアをたたいた。窓が開き、夜着を来た立派な夫婦が顔を出した。夜分の侵入者を確かめるように、ローソクを手にしている。このうえなく喜劇的な光景だ。男の方が「これは悪ふざけか?」と聞いてくる。こんな時刻に、こんなところまで、まさかイギリスからの旅人がのこのこやってくるとは想像もしていなかったのだろう。だが、事情がわかると相手はすぐにぼくに手を貸し、近所の小さなレストランまでカヌーを運ぶのを手伝ってくれた。そこでは十人ほどの男たちが飲んでいたが、カヌーを見ようとランプを持って押し寄せてくる。それから、ぼくらは暗い通りを抜けて別の家までカヌーを運んだ。そこでもまた別の酒のみ連中が引き継いでくれて、カヌーをそこの庭に置かせてくれた。翌朝、好奇心にかられた人々が、旗をひらめかせているカヌーを壁ごしに見ようとやってきた。妻を寝かせたまま濡れたカヌーの運搬を手伝ってくれた家のご主人には五フランを謝礼として渡した。喜んでくれた。物価の安いこのあたりでは五ポンドの価値はあるはずだ。夜が明けると、前日に悪戦苦闘した場所をたどってみた。闇夜に手探りで進んできたさまざまな水路を逆にたどっていくのはとても興味深かった。

この町で、一人のフランス人紳士と出会った。陽気で快活な人だったが、あの、楽しくもあり、無分別でもあり華々しくもあるパリと比較して、国境に近いこの町が大きな工場の城下町のようになっていることを嘆いていた。氏によれば、パリでは何日もベッドで眠ることなく舞踏会や芝居見物やパーティーに明け暮れるのだそうだ。その人はご親切に、その大きな製塩工場に連れていってくれた。そこで精製された塩はヨーロッパ中に送りだされているらしい。ここの岩塩は石炭の鉱脈のように地下深くで採掘され、坑道から運び出される。坑道は長くて、高さもあった。水槽に水がためてある。それに岩塩を入れて溶解させる。そこから平たい釜に流し入れる。炉の熱で水分が蒸発し、吹きだまりの雪みたいな乾いた塩のかたまりができる。重量単位で販売する塩にはまた水をかけて湿らせ、容積単位で売る塩は結晶化させて、すきまだらけのいびつな形にして可能な限り大きなスペースをとるようにしてある。なかなか商売上手である。

この場所にも運河があった。川はとても浅いので、カヌーはこの人工の水路に浮かべた。強く絶好の風が吹いているので、すぐに帆走した。この運河は行き交う船が多く、ロックは数えるほどしかなかった。だから退屈することはなかった。ロックでは許可証の提示を求められた。ぼくとしては、これまでと同様に、笑顔の顔パスで通ろうとした。が、運河沿いを巡回していた運河の係員が重大な規則違反だとみなし、ロックでは「通行証」を作る必要があると言ってきかなかった。最後の手段として、ぼくは相手にもう何度も人に見せてすりきれかけているスケッチブックを見せた。すると、彼はすぐに興味を示してページをめくった。規則違反の容疑者のスケッチに大笑いした後に、まじめな顔をして罰を言い渡すことはできない──というわけで、なんとか通してもらった。

不思議なことに、地方の人々はちょっとしたスケッチでも本当に喜んでくれる。なにかと邪魔をしてくる人には、ときどきスケッチを見せたりする。相手は必ずといっていいくらい他の連中にも見せようとその場を離れる。で、彼らが戻ってきたときには、こっちは影も形もないという寸法だ。一度、女の子にぼくの弟の似顔絵を渡したことがある。すると、彼女は翌朝にその絵を戻してくれたのだが、なぜかしわくちゃだった。母親によれば、その娘は一晩中ずっとその絵を握りしめていたのだという。

これは君らにも有効だよ、若いカヌーイストたち。不運な浮浪児となかよくなるには、子供向けの冒険の本でもあればいい。子供たちには物乞(ものご)いするのではなく、稼(かぜ)ぐことを教えよう。色のあせた茶色っぽいボロ服ではなく、靴磨きの子のように明るい赤いコートや少年水夫のような明るい青い上着に変えさせよう。そうして「チチェスター」みたいな川岸に設置された浮浪児の収容施設に声援を送ろう。本の読み方を教え、「イギリスの働く人々」や「少年新聞」、「少年少女文学」とか「おしゃべりっ子」とかを渡し、ゴミみたいな新聞は破り捨てよう。

カヌーに乗っているときは、姿勢をただし、ゆったりと座ろう。

そして、こうした子供たちみんなのために祈ろう。でなければ、君のやっていることは意味がない*1。祈るときは膝まづけという偉そうな「説教」など気にすることはない。ずっと下流では、君やぼくに伸ばされる力強い腕が待っている。少年少女たちがお互いに恵まれない境遇のぼくらに声援を送ってくれるのだ。

*1: 著者のジョン・マクレガーは自設計のカヌーによる航海を行う一方、ロンドンの法廷弁護士として活動し、キリスト教に基づく貧者救済のフィランソロピスト(社会奉仕活動家)としての側面も持っていた。
当時のベストセラーとなったロブロイ・カヌーによる航海記の印税はすべて、難破船の海員協会と王立救命艇協会に寄付されている。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 78:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第78回)
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びっくりした後には、家族の情というものに接することになった。

川岸に、どう見ても心配しきりという様子の三人の女性がいた。母親と娘とお手伝いさんで、魚釣りに出かけたきり何時間経っても戻ってこない男の子二人を探しているのだった。

女たちは二人を見なかったかと、ぼくにしきりに聞き、何か気づいたことはないかと涙ながらにすがってくる。ぼくとしても、なにか安心するようなことを言ってやりたいのだが、そういう男の子は見ていないのだ! 川を下りながら、釣りをしている子供を見た記憶はなかった。女たちはとり乱した様子で去っていったが、ぼくの方にはやりきれない思いが残った──女の涙、特に母親の涙を見て、せつなく感じない者などいないだろう。とはいえ、岩場のど真ん中で必死でパドルを漕ぎながら、不意に、そういえば、彼女たちの説明する姿格好に当てはまる男の子を目撃したことを思い出した。

それで、すぐさま上陸し、おろおろしている母親たちを走って追いかけ、「その子供たちなら一時間前には無事でしたよ」と伝えた。二人には男の召使が付き添っていたのだが、お守りの男は釣りに夢中になっていて、子供たちはといえば、釣りに飽きてヤギと遊んでいたのだ。幼い息子たちが無事だと聞いた母親は喜びのあまりまた泣きだした。それを見て、こっちも自分の学校時代が鮮やかによみがえってきた。子供時代、自分が無分別に遊びまわり、そのことで母親をどれだけ心配させたのかということが。

そういうことがあってからは、川の様子や景観のイメージが一変した。ありきたりの埃っぽい街道やガタンゴトンとうるさい列車での出来事に比べれば、はるかに生き生きとした世界で、存分に楽しむことができた。

二度か三度、浅瀬でカヌーを引きながら歩いて渡ったり、カヌーが川底にぶつかったりした。「堰(せき)」も一つ二つあった。が、夕方までは快適に川下りを楽しめた。しかし、流れは遅く、遠くの地平線にセント・ニコラスの塔群が見えているのに、それが一向に近づいてこない。それどころか、横にずれていく。ということは、この川はとんでもなく蛇行しているということだ。カヌーを精一杯の速さで漕いだものの、夕闇が迫ってくるのも早かった。ボートに乗った二人組を追い越した。フランス人が運動のためにボートを漕いでいるのを、このときはじめて見た。ボートはカヌーについてこれなかった。川底につかえたのだ。そのまま置いてけぼりにしたものの、連中はあわてず騒がず、なかなか座礁したところから動かない。それで引き返して離礁を手伝ったりした。

その後で、高さが十五フィート(約三メートル)はありそうな大きな堰(せき)があった。これまで出会ったなかで一番の高さだ。ため息が出た。丸一日ずっと漕いできた挙句に、カヌーを下り、暗い中でカヌーを土手に引っ張り上げて堰(せき)を超えなければならない。おまけに、その下流では浅い迷路のようなところに入りこんでしまった。灯りもなく、どうやってそこを通り抜ければよいのか見当もつかない。一休みして立ちどまると、周囲を闇と沈黙が支配し、動くものは何もない。やっと流れのあるところに出る。が、喜ぶ元気もない。ぼくはカヌーを引っ張って渡渉し、そこでまたカヌーに乗り、さらに半マイルほど進んだ。すると、右岸で見張りをしていた男が大きな声をかけてくれた。「前方、風下側に橋と家があるよ!」と。われながら、思わず歓声を上げた。この最後の一時間の悪戦苦闘は、ほんの数行でまとめることができるかもしれない。流れはなく、危険もなかった。退屈極まりなく、水に濡れ、灯りもなく、ずっと気がめいるようなことが続いた、と。それで、ぼくはその間はずっと歌を歌ったり口笛を吹いたりしていた。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 77:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第77回)
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フランスの大きな川では釣りが盛んだ。ドイツではほとんどいないのに、フランスの川では、ここぞというところには必ず釣り師がいる。とはいえ、釣りなんてものは、さわがしいフランス人より寡黙なドイツ人に向いているのではないかとまだ思っている人がいるかもしれない。だが、ここでは何百人ものフランス人が、男も女も、毎日釣りをしていて、小さなウキやエサのバッタをじっと見つめている。ときどき親指くらいの魚を釣り上げでもすれば、それで大満足なのだ。こうした釣り師ですら、ぼくが話をした誰一人として毛針を見たことはないらしい。

釣り師は一般に単独行だ。ぼくはホテルでよく「カヌーに一人で乗っていてさびしくはないのか」ときかれたりするのだが、こう答える。「釣り人をごらんなさい。あの人たちは自分の意思で何時間も一人でいるんですよ。ずっと釣りに集中してるんです。ぼくもそれと同じですよ」と。

とはいえ、ときには一隻のボートに何人もが乗り合わせている場合もある。家長みたいな親父が満足そうに座っていて、釣果は気にしない風で、針に餌をつけたり、パイプをくゆらせたりしてすごしている。川岸の方でもまったく同じで、草の上に寝そべり、果報は寝て待てといった風に、あくせくしていない。一方、若い男の方は竿先の反応に全神経をそそいでいるが、水中のすれっからし魚が釣り師をからかってエサをつっついたりし、釣り師があわててそっくり返るのを青い目をぱちくりさせて眺めていたりする。女たちは、魚がかかったかどうかなんかそっちのけで、おしゃべりに興じている。そのうちの一人が(かなりの美人だ)陸に上がり、そこで針に餌をつけたり、しなをつくって周囲の取り巻き連中にこびた笑いを浮かべたりもしている。

そういう人々とは別に、網を持った漁師もいた。そういう人たちはたいてい一隻の、船首と船尾が上を向いたボートに三人で乗っている。まわりの人々は皆、ボートが転覆するんじゃないかと気がかりな様子で見つめている。というのも、そういうボートはルネサンス期の画家ラファエルの絵に描かれたヨハネ福音書の「奇跡の漁」とうり二つで、男たちに比べてボートがなんとも小さいのだ。

V&A - Raphael, The Miraculous Draught of Fishes (1515)

川の石をひっくり返し、ザリガニや淡水エビを捕る子供や若者たちもいる。たくさんとれてはいるが、手間がかかる割に食料になる肉は少ししかない。こうした釣り人たちの近くでは、カワカマスが水面下をものすごい速さで突っ切ったりしている。ときには、その鼻先の長い捕食者から逃れようと、かわいそうに小さなマスが空中に飛び出したりする。それを追って、捕食者も空中に跳びあがり、大きな口を開けてガブリとやる。こうした魚のライズに加えて、中洲の間をすべるように進んできたぼくのカヌーがふいに出現したりするものだから、周囲に目を配りながら流れを泳ぎ下っていたガモの群れのリーダーが警戒音を発した。と、群れのカモすべてがぶしつけな侵入者に対し怒ったように叫びだす。自分たちのいる場所が安全ではないとわかると、一声鳴いて羽ばたき、水面を蹴る。イギリスの変な闖入者(ちんにゅうしゃ)が来ないような落ち着ける場所を求めて、彼らは一団となって飛び去った。

チリンチリンと鐘が鳴る。川の対岸に住んでいる渡し船の船頭を呼ぶ音だ。船頭はそれを聞くと、ちょっと不格好な渡し船に飛び乗る。川の両岸間に滑車つきのワイヤーが張られていて、それにボートのロープが結んである。船頭がオールを軽く漕ぐと、ボートは流れに乗ってすぐに対岸に着く。

そこからさらに先までカヌーで漕ぎ下ったところで、(カヌーに話しかけたそうな)船頭がいたので、ちょっと話をした。その直後、ある現象が生じた。

一軒の大きな、新築の二階建ての家が見えていたのだが──それが現実に動いたのだ!

ぼくらは少し前からその家に気づいてはいた。それが建っているはずのところから移動していく。びっくりして見つめていると、なんと、家全体が消えてしまった。

まもなく、川のその先のカーブを曲がったところで、謎が解けた。その家──川に浮かぶはしけの上に建てられた大きな木製の水浴び「施設」は、蒸気船に曳航されて川を上って来ていたのだった。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 76:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第76回)
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このときは、他の場所でも一、二度、大変な目にあった。具体的にいうと、陸路で迂回する際に生垣を超えたりするのだが、そういうときはカヌーの舳先を生垣の上に押し上げておき、反対側にまわって引き下ろす。そうやって力仕事をした後で、実は下ろす場所が違っているとわかり、逆の順序でカヌーをまた元の場所に戻し、一からやり直すといったことだ。しかも、それがすべて一日のうちに起きた。とはいえ、そういうのは一晩ぐっすり寝るとか、おもしろい激流下りの冒険があったりすれば忘れてしまう程度のことではある。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 75:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第75回)
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ナイフをまた失くした。くやしい。今日は一日、憂鬱な気分だった。イギリスを出発するとき、カヌーには三本のナイフを積んでいた。そのうちの一本は連絡の手伝いを頼んだ人にお礼として提供した。一本はうっかり落としてしまった。何度か跳ねたりしたのだが、つかむことができず、川に落ちてしまった。カヌーではナイフにはちゃんとラニヤード、つまりヒモをつけておけというのが教訓だ。

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