ヨーロッパをカヌーで旅する 89:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第89回)
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また広い川に出て、パリ近郊のヌイイまでやってきた。日曜は川下りも休むことにしているで、目的地までは三十マイルほどだった。たいして疲れもしなかった。カヌーはとあるサマーハウスに置かせてもらい、ぼくはその屋根裏部屋で寝た。屋根裏の天井が低くて立つことができなかった。今回の旅の宿としては最底の部類になるかな。「ジョリー・ロウワーズ(陽気なボート乗り)」という看板にだまされてしまった。翌日はまた流れの速い川を下った。中洲のような島が無数にあるため水路が複雑に入り組んでいる。どのコースを通るべきなのか、選ぶのがむずかしかった。こうした状況の一番の問題点は事前に準備ができないということだ。ルート選択に役立つ情報は地図にも掲載されていないし、川の周辺で生活している人々も、どこを通ったらよいかなどについてはまったく知らない。出発する際、泊まった宿の家主はパリには二時間もあれば着くよと言っていた。そこから十マイルほど進んだところで出会った知的な男性は「パリまでの距離かい? ここから六時間くらいかな」という返事だった。その次にあった人は「この場所からちょうど三リーグ半*1だよ」と答えた。

*1: 1リーグ = 3 マイル = 4.828 km。三リーグ半は17 km 弱。

川の両岸に家が点在するようになってきた。こぎれいな階段状の水下り場が整備され、たくさんのプレジャーボートが係留されている。そのボートの数の多さに驚かされるが、実際に使われているのはごくわずかのようだった。フランス人はボートの製造は巧みだし、水の上では実用性を超えた独創性のあることも見てとれる。いくつかの川では「ウォーキング・マシン」なるものに出会った。浮力体二個の上に立って交互に足を動かして水上を歩くのだ。また、ボート漕ぎでは進行方向に背中を向けることになるが、最近は前を向いたまま漕げる不思議なボートを発明したフランス人もいるらしい2

原注2: これについては、1867年のパリ万国博覧会を三トンの小型ヨットで訪れたときの航海記で詳しく説明した。
編注: 「ヨーロッパをカヌーで旅する」は次回のパリ到着で終了となりますが、ジョン・マクレガーの小型ヨットによる新たな航海記についても引き続き連載予定です。

新しく運河が掘られたところで朝食をとった。周囲には子供がたくさんいたので、舳先(へさき)につけたロープを石に結びつけて、カヌーは岸から離れた川の中に浮かぶようにしておいた。食事をするために座ったあずまやからも見えた。目を輝かせてじっとカヌーを見つめている子供たちから目を離さずにいた。見るだけでなく、いじったり乗ったりしてみたいという欲求は、こういう子供たちには自然なことだからだ。ぼくは子供がいるときはいつも、その子たちが悪さをせず保護者がダメと言わない限り、彼らをカヌーに乗せて、その辺を漕ぎまわったりしてきた。

そういうわけで、フランスの少年たちがカヌーやボートに興味を示すことはよく知っている。だが、彼らが大人になると単なる物見遊山を超えた旅する者へと成熟していかないのは不思議である。そういった好奇心は、小さな集団のこまごまとした、地に足のついた、落ち着いた日常生活ですり減らされてしまうのだろうか。それに比べると、悲しいかなイギリス人はバッグ片手に世界中を放浪し、一言もその国の言葉を知らなくい外国にもずかずか入っていって、楽しくひばりのようにやっている。イギリス人が採用する移動手段もまた妙なものが多く、今回の川旅でも、四頭立ての馬車に予備の馬二頭を伴ってドイツを旅している紳士がいた(その彼は今ではカヌークラブのメンバーになっている)。また鉄道ではなく道路を走る蒸気自動車を七百ポンドで買って旅行し、旅が終わったら売り払ったという人物にも出会ったことがある。買ったときと同じ値段で売れたそうだ。さらに、カヌーを「奇妙な乗り物だ」とみなしていた別のイギリス人は足で蹴って進む自転車のヴェロシペードで外国へと出かけている。とはいえ、こうした人々の誰もがカヌーと違って自分の力で海や湖や川を渡るというわけにはいかなかった。

こうやって麗(うるわ)しのパリが近づいているのに、ここにきて、パリに背を向けて、広大で空漠とした、目指す当てもない田園の方に進むのは自然の摂理に反するように思われる。だが、ぼくが今下っている川はそうするつもりらしい。というのは、ここでまた川は大きく曲がり始め、左へ左へとパリから離れていくのだ。その一方、このマルヌ川は運河が掘られ、それはまっすぐ右へ向かっている。カヌーでそっちについていくことはできない。

川の水量がだんだん減ってきた。川の水は運河に使われていて、もはや流れに力強さはなく広大な大地をちょろちょろと流れているだけだ。この航海の後、普仏戦争(1870年~1871年)において自暴自棄になったデュクロの部隊でこの川筋は血に染まることになる。それはともかく、この長いまわり道で、ぼくのカヌーは頻繁に底がつかえたり、柔らかな苔めいた水草にからめとられたり、川の上につきだした木の枝にひっかかったりした。実際のところ、大きな川で水深が浅いところでは必ずといっていいくらい生じてしまうほとんどすべてのトラブルに見舞われた。湾曲した川を漕ぎ下っていきながら、その曲がり具合はますます不可解になってくる。正午には、顔の真正面に太陽があった。つまり、川はパリに近づいているのではなく、真南に向かっているのだ。カヌーでドイツのど真ん中を旅していた時のように、この地域の人々はぼくを眺めて不思議がっている。この川ではこんなところまでボートに乗った人間がやって来たことがないのは明白だった。ぼくとぼくのカヌーは半ば見捨てられた小川に浮かんでいる珍客というわけだった。

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