スナーク号の航海 (57) - ジャック・ロンドン著

ハワイでは長期にわたり優良な移住者を必要としていた。多くの時間やアイディア、資金を投入して適した人材を移住させているが、まだ十分ではない。にもかかわらず、ハワイはこの自然人を追放した。チャンスを与えなかったのだ。というわけで、ハワイの誇り高き精神とやらに対抗し、ぼくとしては、この機会にハワイがこの自然人を追放したことで失ったものについて書いてみようと思う。彼はタヒチに到着すると、自分が食べる食い物を栽培するための土地を探した。しかし、そういう土地、つまり安く手に入る土地を見つけだすのはむずかしかった。金持ちというわけではなかったからだ。急峻な山岳地帯を何週間も歩きまわり、小さな谷がいくつか点在する山を見つけた。八十エーカー(約三十二ヘクタール)ほどの密林で、誰かの財産として登記されているのではないようだった。政府の役人は、土地について、彼が所有すると宣言して誰からも異議がなく三十年たてば、彼の所有物になると教えてくれた。

彼はすぐに作業に取りかかった。その場所は耕作に適してはいなかった。そんな高地で農業をしようという者などはいなかったのだ。密林で、野生化したブタや無数のネズミが走りまわっていた。パペーテや海の眺めはすばらしかったが、だからといって、それが何かの役に立つというわけでもない。まず、農園にする土地までの道を作るだけで何週間もかかった。植えた作物は、芽が出たとたんに、かたっぱしからブタやネズミに食われた。彼はブタを撃ち、ネズミには罠(わな)をしかけた。つかまえたネズミは二週間で千五百匹にもなった。必要な物資は何でも自分の背中にかついで運んだ。荷馬のように荷物を担ぎ上げる作業は、たいてい夜にやった。

徐々に成果がでてきた。草壁の家も建てた。火山性の肥沃な土壌でジャングルやジャングルの動物と闘い、五百本のココナツの木、五百本のパパイヤの木、三百本のマンゴーの木を植えた。野菜も作った。ツタや灌木もあれば、のパンノキやアボカドの木もたくさんあった。谷の源流から水を引き、効率のいい灌漑設備を考案した。谷から谷へとさまざまな高低差のある場所に水路を掘った。こうして細長い谷間は植物園になった。かつて灼熱の太陽が密林を干上がらせ裸の土がむき出しとなっていた尾根筋の不毛な峠には、樹木や灌木や生い茂り、花が咲き乱れた。この自然人は自給自足した上に、今ではパペーテの都市部の住民に作物を売る裕福な農業者となっていた。

その後、政府の役人が所有者はいないとしていた土地に、実際には所有者がいて証書類や登記も存在することが判明した。となれば、苦労して得たものを失うことになりかねない。入植したとき、その土地は価値がなかったし、大地主の所有者は、この自然人が開拓したことは知らなかった。適正価格で合意が成立し、ダーリングは正式に登記された権利証書を手にしたというわけだった。

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額に汗して働く

その後も痛烈な打撃があった。市場に出入りする道が封鎖されたのだ。彼がこしらえた道には三重の有刺鉄線の柵が張られて通れなくなった。これは社会制度の不条理としてよくある人間社会の混乱の一つだ。こうした背景には、ロサンゼルスの精神障害に関する委員会がこの自然人を引きずりだし、ハワイがこの自然人を追放したのと同じ、伝統を重んじる人々の意向が働いていた。自己満足している者たちが、自分とまったく違う価値観を持った男を理解するのは無理だった。役人連中が、こうした伝統主義者たちの行為を黙認していたことは明らかなようだ。というのは、今にいたるまで、この自然人が作った道は閉ざされたままだからだ。何も講じられていない。それについては何もしないという暗黙の、断固たる意思があちらこちらに存在している。だが、この自然人は踊ったり歌ったりして自分流を貫いている。夜も寝ずにどうしようかと悩んだりはせず、そういうことは邪魔したい者の好きにさせておいた。そんなことを恨んだりするほど暇ではないのだ。自分がこの世に存在するのは幸せになるためだと信じていた彼には、他人を訴えたりして無駄にする時間は一秒もなかった。

農園に向かう道は封鎖されている。地面に余裕がないため、新しい道を作ることもできない。政府は、彼が通ることができる道を、野生化したブタが山に登るための急峻な獣道(けものみち)に限定した。ぼくは彼と一緒にその獣道を登った。よじ登るために足だけでなく両手も使わなければならなかった。野生化したブタの獣道は、エンジニアが蒸気機関や鉄製ワイヤーで作る道ほど立派ではなかった。だが、この自然人は何も気にかけてはいなかった。この穏やかな男の道徳では、誰かに悪さをされたら、自分の方は善行でお返しするのだ。となれば、どっちが幸福なのか論じるまでもあるまい。

「うっとうしい連中の道のことなんか気にするな」と、彼はぼくに言った。岩棚によじ登ったところで息を切らし、休憩しようと腰をおろしていたときだ。「そのうち飛行機*1を手にいれて黙らせてやるよ。飛行場用に平らな場所を作ってるんだが、あんたが次に来るときには飛行機で俺の家のドアまで来れるぜ」

そう、この自然人は、アフリカのジャングルで胸をたたいているゴリラの真似をするだけじゃなくて、奇抜な発想もするのだ。この自然人は空中飛行についても一家言持っていた。「だからさ」と、彼は語を継ぐ。「空を飛ぶのは不可能じゃない。それができたとしたら、と想像して見ろよ。意思の力で地面から離れるんだ。考えても見ろよ。天文学者は俺たちの太陽系は死につつあると言っているだろ。とんでもないことが起きない限り、地球の温度はどんどん下がっていって生物は生きられなくなるんだ。でも、かまわないぜ。そうなる頃には人類すべてが空を飛べるようになっていて、この滅びゆく惑星を捨てて、どこか住みやすい世界を探しに行くんだ。どうすれば空中飛行できるのかって? 進歩は早いぜ。そうさ。俺は何度も跳び上がっているが、実際に自分が少しずつ身軽になってきている気がするよ」

狂ってるのか、こいつ、とぼくは思った。

「むろん」と、彼は続けた。「これは俺の理論にすぎなくて、人類の輝かしい未来をあれこれ考えるのが好きなんだ。空を飛ぶことはできないかもしれないが、できるかもしれないと思いたいんだよ」
訳注
*1 ライト兄弟が自作の飛行機で初めて空を飛んだのは一九〇三年。ジャック・ロンドンがスナーク号を建造して航海に出たのはそのわずか四年後の一九〇七年で、「機械が空を飛ぶはずがない」と主張する専門家も多くいた時代である。
 そうした時代に南太平洋の孤島の密林に住みながら自家用飛行機や宇宙旅行を論じているのだから、周囲から頭のおかしな変人扱いされるのも無理はない。
 それにしても、ジャック・ロンドンの行くところ、ユニークな人間に遭遇することが多い。これは単なる偶然ではなく、常にそういうアンテナを張りめぐらせていて、捉えたものを自分の色メガネで見ないようにしているためだろう。

スナーク号の航海 (56) - ジャック・ロンドン著

精神疾患の専門家の一人が、彼をターボル山の療養所に運んだ。彼が無害だとわかると、そこでは好きにさせてくれた。何を食べろとか指示されなかったので、彼は果物と木の実――それにオリーブオイルやピーナツバター、バナナを中心にした食事を再開した。体力が回復するにれて、自分の望む生活をしようと心に決めた。他の連中と同じように社会の慣習に従って暮らしていたら死んでしまうと思ったのだ。まだ死にたくはなかった。この自然人が誕生するにあたって、死の恐怖はもっとも強い要素の一つだった。生きるために、自然の産物と屋外と日光が必要だった。

オレゴン州の冬は自然に戻りたいと願う者には魅力的ではなかった。それで、ダーリングは適した地域を探した。自転車に乗り、太陽のふりそそぐ南をめざした。スタンフォード大学に一年在学した。ここで、裸に近い格好での受講を大学当局に認めてもらい、リスのいた森で学んだ、生きるための原則をできるだけ適用しながら勉強し、苦労しつつ自分の道を切り開いていった。好きな勉強方法は、大学の裏山に登り、服を脱いで草の上に寝そべり、日光浴しながら健康になると同時に知識の海に没入することだった。

しかし、カリフォルニア中部にも冬があり、自然人の適地探求はさらに進められた。彼はロサンゼルスや南カリフォルニアもためしてみたが、何度か逮捕され、精神鑑定を受けさせられた。というのも、彼の生き方は同時代の人々の暮らし方とはまったく違っていたからだ。彼はハワイにも行ってみたが、そこでは精神異常扱いはされなかったものの、強制退去させられた。正確には強制退去ではなかった。刑務所に一年もぶちこまれる可能性もあったのだ。彼らは彼に自分で選択するようにと言った。刑務所に入るというのは、野外で日光をあびたいと願っているこの自然人にとっては死ぬも同然だったので退去を選んだのだ。ハワイの当局を責めることはできない。ダーリングは好ましからざる国民だった。協調性のない者は好ましくない、というわけだ。異議を唱えるべきは、ダーリングが素朴な生活という自分の哲学で行った範囲で、好ましからざる人物というハワイ当局の彼に対する裁定の正当性だ。

というわけで、ダーリングは自然な生活にふさわしいだけでなく、自分が好ましからざる人物とされないような土地を探し求めた。そしてそれをタヒチに見つけた。楽園中の楽園。噂通りの楽園で、そこで自分の思うとおりに暮らしたのだった。身につけるものといえば腰巻と袖のない漁網でこしらえたシャツだけだ。裸になった体重は百六十五ポンド(約七十五キロ)。健康状態は申し分ない。一時は駄目になったと思われた視力もすばらしくなっている。現実に三度の肺炎で痛めつけられた肺が回復しただけでなく、以前よりも強靱になった。

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自然人の農園。左がジャック・ロンドン

ぼくは、彼と話をしているときに彼が蚊を殺したときのことは決して忘れないだろう。この血を吸う虫が彼の背中で両肩の間にとまったのだ。彼は会話の流れを切らず、よどみなく話をしながら、握り締めた拳を背中の方にまわして肩の間にいた蚊をたたきつぶした。彼の体はバスドラムのような音をたてた。馬が厩舎の材木を蹴っているような音だった。

「アフリカのジャングルにいるゴリラは、一マイル先からでも聞こえるように胸をたたくんだ」と、彼はふいに言った。ぞっとするような音をさせて胸に入れた悪魔の入墨をたたいた。

ある日、彼はスナーク号の船室の壁にボクシングのグローブが吊るされているのに気づき、すぐに目を輝かせた。
「ボクシングやるのか?」と、ぼくは訊いた。
「スタンフォード時代はボクシングを教えてたんだぜ」という返事だった。

ぼくらはすぐに裸になって、グローブをはめた。バン! ゴリラのような長い腕が一閃し、グローブがぼくの鼻に当たった。ドス! 彼が姿勢を低くして、ぼくの側頭部にパンチを当てたので、あやうく横だおしになるところだった。その一発でできた腫れは一週間もひかなかった。ぼくは左のパンチをしゃがんでかわすと、彼の胃袋に右を一発お見舞いした。ものすごく効いた。ぼくの全体重をのせたパンチで、彼の上体は前かがみになった。ぼくはパンチをあびせながら、彼が倒れるだろうと思った。彼は破顔して言った。「いいパンチだ」 と、次の瞬間、ぼくは嵐のように繰り出されるフック、ジョルト、アッパーカット*1をあびせられ、防戦一方になった。が、チャンスとみるや、こっちもみぞおちめがけてパンチを繰り出した。当たった。自然人は両腕をだらんと下げて、あえぎながら、ふいに座りこんだ。

「大丈夫だと思うが」と、彼は言った。「ちょっと待った」
彼は三十秒もしないうちに立ち上がると、お返しとばかり、こっちのみぞおちにもフックをぶちこんでくれた。息がつまり、ぼくは両手をだらりと下げたまま、彼のときよりも少し早く崩れ落ちた。

こうして述べていることはすべて、ぼくがボクシングをした相手が八年前には九十ポンド(約四十キロ)そこそこの体重しかなく、医者や精神鑑定の専門家にオレゴン州ポートランドの部屋に閉じこめられたあわれなやつではなくなっていたということの証拠だ。アーネスト・ダーリングはここでの生活で見違えるように元気になり、その体験を経た体そのものが彼が書いた本というわけだった。

訳注
*1: ジャック・ロンドンはボクシングをテーマにした小説も何作か書いている。
フック=相手に対し、自分の体の外側から内側に向かうように打つパンチ。
ジョルト=ステップを踏んで体を動かしながら、踏み込んで打つパンチの総称。
アッパーカット=肘を曲げたまま突き上げるように打つパンチ。

スナーク号の航海 (55) - ジャック・ロンドン著

「じゃあ、あんたも本を書いてるわけだ」と、彼は言った。ぼくは苦心して朝の分の執筆を終えたところだった。
「俺も本を書いてんだよ」と、彼は告げた。
おいおい、こいつの書いた物の面倒までみなきゃなんないわけかよ、とぼくは思った。イラッとした。文壇ごっこをするためにはるばる南太平洋まできたわけじゃないのだ。
「これが俺の書いてる本なのさ」と、握ったこぶしで大きな音をたてて胸をたたきながら、彼は言った。「アフリカのジャングルのゴリラは、音が一マイルも離れたところで聞こえるまで胸をたたくんだってよ」
「分厚い胸だ」と、ぼくはほめた。「ゴリラもうらやましがるだろうよ」

それからまもなく、ぼくはアーネスト・ダーリングの書いたすばらしい本の詳細を知った。十二年前、彼は死に瀕していた。体重は九十ポンド(約四十キロ)しかなく、衰弱して話すこともできなかった。医者たちもさじを投げていた。開業医だった父親もあきらめていた。他の医師の意見も求めた。望みはなかった。教師として、そして大学生として、勉強のしすぎで二度も続けて肺炎になって衰弱してしまったのだった。日ごとに体力が失われていった。与えられた固形物からは栄養を吸収できず、粒や粉状にしても胃が受けつけなくなった。体が衰えただけでなく、精神的にもまいってしまい、神経も張りつめていた。病気なのだが、薬はうんざりだった。人間もそうだ。人の話し声もかんに障った。注目されると、ひどく興奮した。どうせ死ぬのだから、悩んだりいらいらしたりしないで屋外で死にたいと思った。胃にもたれる固形物や薬をやめ、いらいらさせるおせっかいな連中がいなければ、死ぬことはないのではないかという思いが、ふと忍び寄ってきていた。

やせて骨と皮だけになったアーネスト・ダーリングは、生気もなく死にかけたままよろよろ歩いた。人や住宅地には背を向け、オレゴン州ポートランドの市街地から雑木林を通り抜けて五マイルも足を引きづって歩いた。むろん、頭がおかしくなっていた。狂気が彼を死の床から引きずり出したのだ。

とはいえ、森では、ダーリングは自分が求めていたものが休息だと知った。もうビフテキや豚肉で悩ませる者はいない。脈をとって疲れ切った神経をさかなでしたり、弱った胃に錠剤や粉末を飲ませて苦しめようとする医者もいなかった。症状は改善した。輝く太陽が、あたたかく降り注いでいた。太陽の光こそ万能の薬だ、と彼は感じた。疲弊した体全体が太陽を求めているように思えた。彼は服を脱ぎ捨て、日光浴をした。気分がよくなった。たしかに効果があった――苦痛にさいなまれたこの数ヶ月間ではじめて安息を得た。

症状がよくなると、起き上がれるようになったが、そうして、彼は気がついたのだ。自分という存在は、はばたいたり、さえずったりしている小鳥や、鳴き交わしたり遊んだりしているリスのようなものなのだ、と。健康で元気があり、幸福そうで、心配事もなさそうな存在をうらやましく思った。自分の置かれた条件と小鳥やリスの置かれた条件を比較すると、自分が病気になるのは必然でもあったのだ。となれば、自分は病弱で死にかけているのに、小鳥やリスはなぜあれほどにも元気なのだろうと疑問を呈せずにはいられなかった。小鳥やリスは自然のままに生きているが、自分は自然に反して生きている。生きようと思えば、自然に帰らなければならないという結論が導かれるのは自明だった。

森の中にただ一人いて、彼は自分の問題にけりをつけ、実地に応用しはじめた。服を脱ぎ捨て、跳んだり、はねたり、四つんばいになって走ったり、木に登ったりした。要するに、めちゃくちゃに体を動かしたのだ――そして、いつも太陽を浴びていた。彼は動物たちをまねた。乾いた葉や草で夜寝るための巣を作り、早秋の雨をしのぐため樹皮をかぶせた。「これはいい運動になるぜ」と、彼は両腕で体側を強くたたきながら言ったことがある。「おんどりを見てやってみたんだ」 また別の機会に、彼がココナツミルクを音をたてて飲んだので、ぼくが注意すると、彼は雌牛だってこんな風に水を飲むし、そこには何か意味があるはずだ、と説明した。実際にやってみて、体にいいとわかったので、何か飲むときはそういう流儀でしかやらないのだ。

リスは果物と木の実を食べて生きているとも言った。果物と木の実にパンだけの食事をはじめて健康を取りもどし、体重も増えた。三ヶ月間、彼は森の中で原始の生活を続け、それからオレゴンの激しい雨でそうした生活を断念し、人間の住むところに戻ってきた。三ヶ月と経たないうちに、二度の肺炎から生き延びた九十ポンドの生存者は、野外でオレゴンの冬をすごす十分な体力を回復させていた。

彼は多くのことをやりとげたが、意に沿わないこともあった。父親の家に戻らざるを得なかったのだ。そこで野外の大気を胸一杯に吸いこんでいた体で、また閉ざされた部屋の中で暮らすようになり、彼は三度目の肺炎にかかった。前にもまして衰弱した。死者のように横たわり、立つことも話すこともできず、いらいらして疲れ切っていたので、他の者の言うことにも耳を傾ける余裕はなかった。自分の意思でできる唯一の行為は指を耳に突っこんで、話しかけられる言葉を一つも聞きたくはないと示すことだった。精神疾患の専門家が呼ばれた。頭がおかしいと診断され、余命一ヶ月はあるまいと宣告されたのだった。

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漁網でこしらえたシャツ

スナーク号の航海 (54) - ジャック・ロンドン著

第十一章

自然人

ぼくがはじめて彼に会ったのはサンフランシスコのマーケット・ストリートだった。霧雨の降る午後、彼は膝までしかない丈の短いズボンをはき、シャツの袖をまくって、ぬかるんだ歩道を裸足ですたすた大股で歩いていた。足元は二十人もの浮浪児が興奮して飛び跳ねているようだった。この男が通ると、何千人もの人が好奇の目で振り返った。ぼくもその一人だった。これほど見事に日焼けした男は見たことがない。皮がむけていなければブロンドぽかったろうが、全身くまなく日焼けしていた。長く黄色い髪も日に焼けていたし、ヒゲもそうだ。カミソリをあてたこともないようだった。黄褐色、金色がかった黄褐色の肌が陽光をあびて輝いている。もう一人の予言者が世界を救うというメッセージをたずさえて街にやってきたのかと、ぼくは思った。

数週間後、ぼくは友人数人とサンフランシスコ湾を展望するパイドモントの丘にあるバンガローにいた。「あいつを見つけたぜ、あいつをさ」と連中が大声で言った。「木の上にいたんだ。ケガはしていない。手づかみで食うんだぜ。会いに来いよ」 それで、ぼくは一緒に丘の上まで行って、ユーカリの林の中にある掘っ立て小屋で、街で見かけた例の日焼けした予言者に会ったのだ。

彼はすぐにぼくらの方にやって来た。ぐるぐるまわったりトンボ返りしたりしながらだ。握手はしなかった。挨拶がわりに曲芸をやってのけた。さらに宙返りもやってみせてくれた。準備運動がわりに体がやわらかくなるまでヘビのように体をしなやかにひねらせてから、腰を折り、ひざはそろえたまま、足はまっすぐ伸ばし、両掌で刺青をたたく。体を回転させ、つま先立ちしてくるくるまわりながら踊り、酔っぱらったサルのように跳ねまわった。生きている喜びがあふれ、顔を輝かせていた。彼のうたう歌には歌詞がなかったが、ぼくはとても幸福な気分になった。

彼は体をずっと動かしながら、いろいろ変化をつけて一晩中歌っていた。「あきれたね! バカだよ! 森で変なやつに会っちまった!」と、ぼくは思った。とはいえ、尊敬すべきバカであることは、彼みずからが証明してみせた。トンボ返りしたりぐるぐる回転している間、彼は世界を救うことになるであろうメッセージを届けていたのだ。それは二つの意味があり、まず、苦しんでいる人々は、衣服を脱いで山や谷で自由気ままに振る舞わせよう。第二に、この救いようのない世界では表音式つづり*1を採用させよう、というのである。ぼくは、都会の人々が大挙して裸足で自然の中に入っていくことで大きな社会問題が解決されるのが見えるような気がした。散弾銃の音や牧場の犬たちの吠える声がひびき、怒った農夫が熊手をふりかざして威嚇する様子が目に浮かぶ。

それから何年か経ったある天気のよい朝、スナーク号は貿易風によるうねりが押し寄せて波しぶきがあがっている岩礁にできた狭い開口部からゆっくりとタヒチのパペーテ港に入っていった。一隻のボートがぼくらの方にやってくる。黄色い旗*2を掲げていた。医者が乗っているのだろう。しかし、そのボートの後方には小さなアウトリガーカヌーもいて、ぼくらを当惑させた。それは赤い旗*3を揚げていたのだ。何か船にとって危険なものが海中に隠れているのではないかと不安になったので、最近難破した船が沈んでいないか、航路を示すブイや標識が流されてしまってはいないかと、ぼくは双眼鏡片手に探したものだ。まもなく医者がスナーク号に乗りこんできた。ぼくらの健康状態を調べた後で、スナーク号に生きたネズミは一匹もいないことを保証してくれた*4。赤い旗についてたずねると、「ああ、あれはダーリングですよ」という答えだった。

ダーリングとは、アーネスト・ダーリングのことだ。赤い旗は兄弟の印で、ぼくらを歓迎してくれたのだった。「よお、ジャック」と、彼が叫んだ。「ようこそ、チャーミアン!」 すばやくカヌーで近づいてくる。あのパイドモントの丘で会った黄褐色の予言者がそこにいた。彼はスナーク号の舷側にカヌーを寄せた。この赤い腰巻き姿の太陽神は、桃源郷の贈り物を持ってきてくれたのだ。金色のハチミツの瓶、太陽と土壌のめぐみをたっぷり受けて黄金色に輝く大きなマンゴーやバナナ、パイナップルやライム、果汁たっぷりのオレンジを一杯詰めたカゴを両手に抱えていた。南太平洋の空の下で、ぼくはのこの自然人たるダーリングとこうして再会したのだった。

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スナーク号に乗った自然人

タヒチは世界で最も美しい地域の一つである。正直で信頼できる男女もいるが、泥棒も強盗も嘘つきも住んでいる。人間の闇の部分は感染力があって、タヒチのすばらしい美しさが台なしにされてしまうので、ぼくは、タヒチについてではなく、この自然人について書こうと思う。彼は少なくとも楽しませてくれるし健全だ。彼から発せられる生気はとても穏やかで甘美なものだし何も害はない。搾取する大金持ちの資本家を除けば、誰の気持ちも傷つけることはない。
「この赤い旗はどんな意味があるんだ?」と、ぼくは聞いた。
「社会主義さ、もちろん」
「そんなことは知ってる」と、ぼくは続けた。「それをお前が持っているということに、どんな意味があるんだ?」
「なぜって、ここにメッセージがあるとわかったからさ」
「アメリカからわざわざタヒチまで持ってきたのか?」と、ぼくはあきれながら言った。
「そうとも」と、彼は簡単に答えた。後でわかったことだが、彼の性格もその答えと同じように単純なのだった。
ぼくらは投錨し、足舟を海面に下ろして海岸に向かった。自然人も同行した。やれやれ、とぼくは思った。これから、こいつに死ぬほど質問攻めにあうのかな、と。
だが、それはぼくのとんでもない勘違いだった。ぼくは馬を手に入れ、あちこち乗りまわしたが、この自然人はぼくのそばに近寄っては来なかった。招待されるまでおとなしく待っていたのだ。その一方で、彼はスナーク号の書斎にある大量の科学の本に喜び、後で知ったことだが、大量の小説もあることにショックを受けていた。この自然人は小説を読んだりして時間を浪費したりはしないのだ。

一週間かそこら経ってから、気が引けたぼくは彼をダウンタウンのホテルでのディナーに招待した。不慣れなコットンの上着を窮屈そうに着てきたので、服を脱げよと言うと、にっこり笑い、喜び勇んで脱いだ。目の粗い漁網の切れ端をまとっているだけで、腰から肩にかけて黄金色の皮膚が露わになった。衣装といえば、赤い腰巻きだけだ。その夜とタヒチ滞在中に、彼がどういう人間かがわかって、ぼくらは友人になった。

訳注
*1: 表音式つづり(phonetic spelling)とは、発音と表記をできるだけ一致させようという英語表記の改革運動に伴うもので、長い歴史があり、主張も過激なものから穏やかなものまでさまざま存在する。米国の辞書の代名詞にもなっている辞書編纂家の(ノア・)ウェブスターもそうした英語改革を唱えた一人。

*2: 黄色い旗(国際信号旗のQ旗)は、検疫要請を意味している。通常は検疫を受ける船の方が指定された検疫錨地で所定の旗を掲揚する。船舶間での旗を使った通信は古くから用いられているが、十九世紀半ば(1857年)に国際信号旗としてまとめられ(国際信号書)、世界共通のものとして認められるようになった。

*3: 赤い旗は社会主義・共産主義のシンボルであると同時に、船舶では国際信号旗のB旗でもあり、危険物運搬中などの意味がある。この場面では思想的な意味はなく、旧知の仲間を歓迎するつもりで掲げてあった。
なお、B旗は通常の旗のように長方形ではなく独特の形状をしている。flag B

*4: 現在でも、ヨットなどの船舶で出入国する場合、ねずみ族駆除証明が必要になる。