スナーク号の航海 (66) - ジャック・ロンドン著

友人のタイハイイとビハウラがぼくらに敬意を表してこの漁に誘ってくれたのだが、迎えに来ると約束していた。甲板から呼ぶ声が聞こえたとき、ぼくらは船室に降りていた。すぐにコンパニオンウェイまで行って外を見たが、ぼくらが乗る予定のポリネシアの舟を見て圧倒された。横木でつながれている長い双胴のカヌーで、舟全体が花やゴールドの草で飾られているのだ。花の冠をつけた十二名の女たちがパドルを持ち、カヌーそれぞれの最後尾には舵をとる男がいた。みんな赤い腰巻姿で、金や赤、オレンジの花で飾りたてている。どこもかしこも花だらけ。花、花、花できりがない。すべてが色彩の爆発だった。カヌーの船首に渡した板の上ではタイハイイとビハウラが踊っていた。全員が声をそろえて歓迎の歌をうたってくれている。

彼らはスナーク号のまわりを三周してから、チャーミアンとぼくを乗せるためにスナーク号に横づけした。それから釣り場へと向かったが、五マイルほども風上にあり、そこまで漕いでいくのだ。「ボラボラではだれもが陽気だ」という格言めいたおのがソシエテ諸島全体にあるが、ぼくらはそれを実際に体験した。漕ぎながら、カヌーの歌、サメの歌、釣りの歌をうたう。漕ぎながら声をそろえてうたう。ときどき、マオ! という叫び声があがる。と、全員が必死に漕ぐ。マオとはサメのことで、この海のトラが出現すれば、住民たちはまっしぐらに浜へと戻っていく。ちっぽけなカヌーがひっくり返って食われる危険があるとわかっているからだ。むろん、この場合はサメが実際に出たのではなく、サメに追われているときのように必死に漕がせるためだ。「ホエ! ホエ!」という叫び声もあった。ホエは漕げという意味で、パドルはそれまでにもまして激しく海を泡立てた。

渡した板の上ではタイハイイとビハウラが踊っていたが、手拍子に歌やコーラスも加わった。パドルでカヌーの両舷をたたいてリズムをとったりもした。一人の少女がパドルを下に置き、プラットフォームに飛び乗ってフラダンスを踊った。踊りながら左右に体を揺らし、前屈みになり、ぼくらの頬に歓迎のキスをした。歌あるいは頌歌には宗教的なものもあり、それは特に美しく、男たちの深い低音に女たちのアルトやかすかなソプラノがまじって、オルガンを思わせるような音の組み合わせになった。実際に「カナカのオルガン」というのが、この地域の頌歌の別名でもある。その一方で、詠唱やバラードは非常に荒々しく、キリスト教が伝えられる前の時代からのものだ。

そんな風に歌ったり踊ったり漕いだりしながら、この陽気なポリネシア人たちはぼくらを釣りに連れて行ってくれたのだった。ボラボラ島を統治しているフランス人の憲兵も家族同伴で、自分の持つダブルカヌーでぼくらについてきた。漕いでいるのは囚人だ。このフランス人は憲兵で統治者というだけでなく、看守でもあるのだ。そして、この陽気な土地では、誰かが釣りにいくときは皆が行くのだった。ぼくらのまわりには、アウトリガーをつけたカヌーの一団がいた。あるポイントでは、大型の帆走カヌーが姿を現し、ぼくらに挨拶し、追い風を受け、優雅に帆走している。不安定なアウトリガー上でバランスを取りながら、若い三人の男たちが太鼓を激しくたたき、ぼくらに敬意を示してくれた。

次のポイントはそこからさらに一マイルほど先にあったが、そこでも出会いが用意されていた。そこにはウォレンとマーチンが乗ってきた船がいて注目を集めていた。ボラボラ島の人々は、その船の動力の仕組みが理解できないようだった。カヌーを砂浜に引き揚げ、全員が浜にあがってココナツを飲み、歌い、踊った。近くの住家から歩いてやってきた大勢の人々がそれに加わった。花の冠をかぶった女性たちが二人ずつ手をつないで砂浜を歩いてやってくるのが見えたが、とてもかわいらしかった。

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花の冠をかぶり、二人ずつ手をつないだ女性たち

「いつも大きな獲物がかかるんだ」と、ヨーロッパとアジアの血をひくアリコットが言った。「しまいには海が魚であふれるんだ。おもしろいよ。もちろん獲れた魚は全部あんたのものだ」
「全部?」と、ぼくはうめいた。スナーク号はすでに、気前よく贈ってもらった品々、カヌーで運んできてくれた果物、野菜、ブタ、ニワトリを満載しているのだ。
「そうだよ。最後の一匹まで」と、アリコットが答えた。「ほら、まわりを取り囲んでしまったら、あんたが客人の栄誉として、まず最初の一匹をモリで仕留めなきゃなんない。そういう習慣なんだ。それから、みんなが中に入って捕まえた魚を砂浜まで運ぶんだ。魚の山ができるよ。長老の一人が、それをすべてあんたらに捧げるという演説をすることになってる。全部もらう必要はない。あんたは立ち上がって自分がほしい魚を選び取り、残りは返すんだ。すると、みんなが、あんたは気前がいいってほめるわけさ」
「だけど、ぼくが全部もらうって言ったらどうなるんだ?」
「そんなことには決してならない」という返事が来た。「贈り贈られるっていうのが誰にも染みこんでいるから」

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漁の指揮をとるリーダー

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カヌーの輪が小さくなりはじめた

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人間の足で柵をつくる

スナーク号の航海(65) - ジャック・ロンドン著

第十三章

ボラボラの石を使った追いこみ漁

午前五時、ホラ貝が吹き鳴らされた。浜辺のいたるところから、昔の戦闘におけるトキの声のような不気味な音が聞こえてきた。漁師たちに起床し準備するよう促しているのだ。スナーク号にいたぼくらも目が覚めてしまった。うるさいくらいホラ貝が吹き鳴らされているのだから眠ってなんかいられない。ぼくらも石を使った追いこみ漁に出かけるのだが、ほとんど準備はしていなかった。

タウタイ・タオラというのが、この石を使った漁の名称だ。タウタイは「釣り道具」、タオラは「投げられた」という意味で、タウタイ・タオラという風に組み合わせると「石を使ったフィッシング」になる。投げる道具というのが石だからである。石を使ったフィッシングというのは釣りではなく、ウサギ狩りや牛追いのように、実際には魚を追い立てていく漁だ。ウサギ狩りや牛追いは追う方も追われる方も同じ地面にいるが、魚の追いこみ漁では、人間は息をするため海面上にいなければならないし、水中の魚を追い立てることになる。水深が百フィートあっても問題はない。人間は海面にいて魚を追いこんでいく。

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一ダースもの屈強な男たちが漕ぐ双胴のカヌー

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水に浮かぶと注目が集まる

具体的なやり方はこうだ。カヌーを百フィートから二百フィートずつ離して一列に並べる。カヌーの船首には男がいて、重さ数ポンドの石をふりかざしている。石には短いロープが結びつけてある。その石を海面にたたきつける。引き上げては、またたたきつける。何度も繰り返す。それぞれのカヌーの船尾には別の漕ぎ手がいて、カヌーは隊列を組み、同じペースで前進していく。カヌーの列が一、二マイル離れた先に想定したラインまで達すると、両端にいたカヌーが急いで円を描くように距離をせばめていき、海岸にまで達する。カヌーを並べてつくった円は海岸に向かって小さくなっていく。浜辺では、女たちが海に入り、列を作って立っている。足がずらりと並んで柵のようになり、逃げようとする魚を阻止するわけだ。円が十分に小さくなると同時に、一隻のカヌーが浜から飛び出し、ココナツの葉で作った間仕切りのようなものを海中に沈め、円に沿ってぐるぐるまわる。それが人の足でできた柵の効果を高めることになる。むろん、この漁はいつも、礁湖にある砂州の内側で行われる。

「スバラシイ」と、憲兵が合図と身振りで表現しながらフランス語で言った。小魚からサメまで、さまざまな大きさの何千という魚が囲いこまれることもある。追いこまれた魚は海上に飛び上がり、そのまま海岸の砂の上に落ちてくるというわけだ。

これはよくできた魚の捕獲方法の一つで、食糧確保のための退屈な漁というよりは、ちょっとした野外のお祭りのようだった。ボラボラでは、こんな漁を兼ねたお祭り騒ぎが月に一度の割で行われ、昔から受け継がれた風習になっている。これを創始した男については不明だ。ずっとこれを行ってきたという。しかし、針も網もヤリも使わない、こんな簡単な漁を誰が思いついたのだろうと思わずにはいられない。その男について一つだけわかることがある。保守的な部族の連中には、バカで伝統を重んじない、突飛な空想をする男だとみなされていたに違いないということだ。そいつが直面した困難は、手始めに一人か二人の資金提供者を見つけなければならない現代の発明家が直面する問題よりずっと大きかっただろう。大昔にこの漁を思いついた奴は、部族の連中の協力が得られなければ自分のアイディアを試すことすらできないので、まず自分に協力してくれるよう全員を説得しなければならなかったはずだ。頭の固い連中を集めて、この原始的な島で夜ごと寄り合いを開いても、皆はやつを愚か者とか奇人とか変人と呼び、この田舎者めとバカにしたんじゃなかろうか。自分のアイディアを実際にためしてみるのに必要な人間を確保するまでに、どれほど罵倒され、どれくらい苦労したかは、天のみぞ知るだ。とはいえ、その新しいやり方はうまくいった。試験に合格した──魚が捕れたのだ! そうなってみると、だれもが、最初からうまくいくと思っていたよと言いだしたりしたんだろうなということも想像がつく。

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ぼくらが乗る予定のポリネシアの舟

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石を投げる人

スナーク号の航海(64) - ジャック・ロンドン著

翌朝早く、タイハイイが船にやってきた。捕らえた新鮮な魚をヒモに通して持っている。その日の夕食に招待しにきてくれたのだ。食事に行く途中、ぼくらは頌歌(しょうか)がうたわれる家に立ち寄った。同じ顔ぶれの長老たちが、昨夜は見なかった若者や娘たちと一緒に歌をうたっていた。様子から判断すると、祭りの準備をしているようだった。果物や野菜が山のように積み上げられ、周囲にはココナツの繊維を編んだヒモをつけられたニワトリがたくさんいた。何曲か歌った後で、男の一人が立ち上がって話をした。その話はぼくらに向けられたもので、まったくちんぷんかんぷんだったが、山のように積み上げられた食べ物はぼくらと何か関係がある、ということだけはわかった。

「これぜんぶ私たちにくれるっていうの?」と、チャーミアンがささやいた。
「ありえない」と、ぼくも小声で返した。「くれる理由なんかないだろ? それに船には積む場所もないし、十分の一も食べきれやしない。あまらせても腐るだけだしな。祭に招待するって言ってくれてんだろ。いずれにしても、ぜんぶくれるなんてありえないよ」

とはいえ、ぼくらはまたも最高の歓待というものを受けることになった。話をしていた男は身振り手振りで、山のように積み上げられたすべての品々は間違えようもなく、ぼくらへの贈り物だと伝えたのだ。なんとも困ったことになった。寝室が一部屋しかないところに、友人が白いゾウをくれると言っているようなものだ。スナーク号は小さいし、すでにタハア島でもらった品々を満載しているのだ。ここでまたこんなにもらってしまうと、もうどうしようもなくなってしまう。ぼくらは赤面しながら、片言の言葉でマルルーと言った。タヒチ語でありがとうという意味だ。すばらしいという意味のヌイという言葉も繰り返して感謝の気持ちを伝えた。同時に、身振り手振りをまじえて、これほどの贈り物を受け取るわけにはいかないとも伝えたが、これは礼儀に反することだった。歌をうたっていた人々はがっかりした様子を見せた。明らかに裏切られたという感じだった。で、その晩、ぼくらはタイハイイの助けを借りて妥協し、ニワトリを一羽とバナナを一房、それにタロイモなどを少しだけもらうことにした。

とはいえ、歓待を逃れるすべはなかった。ぼくはすでに現地の人から一ダースものニワトリを買っていたのだが、翌日、その人が十三羽のニワトリを届けに来たとき、カヌーに果物を満載して持ってきてくれたのだ。フランス人の商店経営者はザクロをプレゼントしてくれたし、立派な馬も貸してくれた。憲兵も同様に大切にしている馬を貸してくれた。誰もが花を贈ってくれた。貯蔵庫に入りきらないため、スナーク号は花屋や八百屋の店先のような状態になった。いたるところ花だらけだ。頌歌(しょうか)の歌い手たちが乗船してくると、娘たちはぼくらに歓迎のキスをしてくれた。乗組員は船長から給仕にいたるまで、ボラボラの娘に心を奪われてしまった。タイハイイはぼくらのために大物釣りのプランを立ててくれた。漕ぎ手として一ダースもの屈強な男たちが乗った双胴のカヌーで出かけるのだ。魚が釣れなかったので、ほっとした。でなければ、スナーク号は係留したまま積み荷の重さで沈没しかねなかった。

そうやって日々がすぎていったが、歓迎はおさまる気配もなかった。出発する当日、カヌーが次から次へとやってきた。タイハイイは、キュウリやたくさんの実がついたパパイヤの若木を持ってきた。しかも、小さな双胴のカヌーに、ぼくのために釣り具一式を積んできてくれた。タハア島の時と同じように、果物や野菜もたっぷり持ってきた。ビハウラはチャーミアンにいろんな特別な贈り物を持ってきてくれた。絹綿の枕や扇、飾りマットなどだ。住民たちも果物や花やニワトリを運んできたが、ビハウラはそれに生きた子豚をプラスした。会ったか記憶もないような連中も船の手すりから身を乗り出して、釣り竿や釣り糸や真珠貝で作った釣り針をくれた。

スナーク号が帆をあげて礁湖を進んでいくとき、船尾には小舟を曳航していた。これはタイハイイ用ではなくて、ビハウラがタハア島に戻るためのものだ。その小舟を切りはなすと、東に向かって遠ざかっていった。スナーク号は船首を西に向けた。タイハイイはコクピットにひざまづき、無言で祈りをとなえている。頬を涙がつたっていた。一週間後、マーチンが機会を見つけて現像した写真をプリントし、何枚かをタイハイイに見せた。すると、この褐色の肌をしたポリネシアの男は、最愛のビハウラの顔写真に号泣した。

とはいえ、いかんせん歓迎でもらった品数が多すぎる! 大変な量だ。船上で作業しようとしても果物が通路をふさいでしまっている。どこもかしこも果物だらけで、スナーク号にも足船にもあふれていた。天幕をかぶせていたが、それを張っているロープに重みがかかり、きしんだ音をたてている。しかし、貿易風の吹く海面に出ると、積み荷が減り始めた。横揺れするたびに、バナナの房やココナツ、籠に入れたライムが振り落とされるのだ。金色の大量のライムが風下側の排水口まで流されていった。ヤムイモを入れた大きな籠が破れ、パイナップルやザクロはごろごろ転がっていた。ニワトリは自由の身になり、いたるところにいた。天幕の上で寝たり、前帆用のブームにとまって羽をばたばたさせたり鳴いたりしている。スピンネーカーを揚げるためのポールを止まり木にして器用にバランスをとっているのもいた。このニワトリたちは野鶏で、飛ぶのになれていた。つかまえようとすると、海上に飛び出し、ぐるりと旋回して船に戻ってくる。戻ってこないのもいた。そうした混乱のさなか、見張っているものが誰もいなくて自由に動けるようになった子豚が足をすべらせて海に落ちてしまった。

『よそ者が到着すると、誰もがわれさきに駆け寄って友人として自分の住まいに連れて行こうとする。そこでは地区の住民から最大級のもてなしを受ける。上座に座らされ最高のごちそうがふるまわれる』

スナーク号の航海(63) - ジャック・ロンドン著

カッターのところまで行く途中、タハアで唯一の白人男性に会った。ニューイングランド出身のジョージ・ルフキンだ! 八十六歳。本人によれば、四十九のときにゴールドラッシュでエルドラドに行ったり、カリフォルニアのツゥーレアの近くの牧場に短期滞在したそうだが、そうした短期の不在をのぞけば、この六十数年間をソシエテ諸島で過ごしてきたのだという。医者に余命三ヶ月と宣告されてから南太平洋に戻り、八十六歳になるまで生きてきたが、余命宣告した当の医者たちはとっくに死んじまったと含み笑いを浮かべた。彼もフィーフィーをわずらっていた。現地語で象皮病を指し、フェイフェイと発音する。この病気にかかったのは四半世紀前で、死ぬまで直ることはあるまい。親類縁者はいないのか、と聞いた。隣にいた六十歳ほどの快活な女性が娘だった。「この娘だけさ」と、彼は悲しげに言った。「娘の子は死んじまったし、ほかにはもう誰もいない」

カッターは小さくて、一本マストで前帆と主帆を持つスループ型の帆船でもあったが、タイハイイのカヌーと並べると巨大に見えた。礁湖に出ると、強風を伴うスコールに襲われた。カッターはスナーク号に比べると想像上の小人国の船のように小さかったが、どっしりとしていて、まったく安定感があった。乗組員の腕もよかった。タイハイイとビハウラも見送りにやってきた。ビハウラも腕のいい船乗りだとわかった。カッターは十分なバラストを積んでいたので安定していた。スコールに襲われたときもフルセールで帆走していたのだ。暗くなり始めていた。礁湖にはところどころサンゴが群生していて、ぼくらはその上を進んだ。スコールが激しくなってきたところで、タックしようと船首を風上に向け、サンゴの群生地を迂回した。コースも短縮されるし、海底まで一フィートもなかったからだ。反対舷に風を受ける前にカッターは「死んだ」状態になった。風に吹き倒されかけたのだ。ジブシートとメインシートを緩めると、船は起き上がったものの風に立ってしまった。風上を向いたところで、それ以上は向きを変えることができず、船の勢いがとまってしまった。三度試みて、そのつど横倒しになりかけた。シートを緩めて風を逃がしつつ、三度目にやっとのことで風軸をこえて反対舷で風を受けることができた。

次にタックするまでの間にすっかり暗くなった。そのころには、ぼくらはスナーク号の風上側に出ていた。スコールは居丈高な音を響かせていた。メインを下ろし、小さなジブだけにした。スナーク号は二本の錨をがっしりきかせていたが、カッターはそこを通り過ぎてしまい、もっと岸よりのサンゴに座礁してしまった。スナーク号から一番長いロープを繰り出してもらって一時間ほど四苦八苦したあげくにカッターを引き出し、無事にスナーク号の船尾につないだ。

その日、ぼくらはボラボラに向けて出帆したのだが、風が弱く、タイハイイとビハウラがぼくらと会う予定だったところまでエンジンをかけて機走した。サンゴ礁に囲まれた陸地まで来て友人たちを探したが見つからない。気配もなかった。
「待てないぜ」と、ぼくは言った。「この風じゃ暗くなるまでにボラボラには着けないだろうし、必要以上にガソリンは使いたくないしな」

そう、南太平洋ではガソリンが問題なのだ。次にいつ手に入るか、誰にもわからない。

と、そのとき、タイハイイが木々の間から姿を現して岸辺までやってきたのだ。シャツを脱ぎ、それを激しく振った。ビハウラはまだ用意ができていないようだった。乗船してきたタイハイイは、この陸地に沿って彼の家の対岸まで行かなければならないと伝えた。サンゴ礁を抜けるときには彼が舵を握った。すべて通り抜けるまで、要所でうまく導いてくれた。歓迎する叫び声が浜辺から聞こえてきた。ビハウラが何人かの村人の助けを得て二隻のカヌーに荷物を載せてやってきた。甲板には、ヤムイモや、タロイモ、フェイス、パンノキ、ココナツ、オレンジ、ライム、パイナップル、スイカ、アボカド、ザクロ、魚がところ狭しと積み上げられ、コッココッコと鳴いたり卵を産んだりするニワトリもいれば、いまにも屠殺されるんじゃないかと不安にかられてブーブーと鼻をならしている、生きたブタもいた。

月あかりの下で、ボラボラ島のリーフの間を通っている危険な航路を抜け、ヴァイタペ村の沖会いに投錨した。ビハウラは主婦らしく心配し、迎える準備が整う前にぼくらが到着してしまわないよう上陸をぎりぎりまで遅らせた。彼女とタイハイイがボートで小さな突堤まで行く間、静かな礁湖に、音楽や歌声が流れていた。ボラボラ島の連中はとても陽気だったが、ソシエテ諸島ではどこもそうだった。チャーミアンとぼくは海岸まで行って見物し、忘れ去られた墓所のそばにある村の共有草地で、花冠をつけたり花で飾り立てたりした若者や娘達が踊っているのを見た。髪には不思議な光を帯びた花を差し、それが月明かりに光ったりしていた。浜辺には、長さ七十フィートの巨大な楕円形をした草の家があり、そこで村の長老たちが賛美歌のような歌をうたっていた。彼らも陽気で花冠をつけており、ぼくらを迷える羊のように家の中へと迎え入れてくれた。

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ライアテアで、スナーク号を訪問してくれた人々

スナーク号の航海(62) - ジャック・ロンドン著

まず最初に気づいたのは、ベッドが斜めになったということだ。訪問客達は柔らかいマットを抱えてどこかへ行ってしまった。タイハイイとビハウラも同じように姿を消した。家は大きなワンルームのような状態になったが、それがぼくらに丸ごと提供され、家の主人達はどこか他の場所に寝に行ってしまった。つまり、この城がぼくらのために提供されたのだ。ここで言いたいのは、ぼくは世界のいろんな場所でいろんな人々から歓待された経験があるが、このタハア島の褐色の肌のカップルから受けた歓待に匹敵するものはなかった。なんでもほめると提供してくれるということや見返りを求めない気風とか、気前がいいとかを言っているのではない。そうではなくて、礼儀正しさだったり、思慮深さだったり、分別だったりという、相手を理解した上で示される心からの共感ということを言っているのだ。彼らは自分たちの道徳に従って義務としてやったのではなく、ぼくらがしてほしいと思っていることを理解した上で、それを行ってくれたのだ。しかも、その判断は当たっていた。出会って数日のうちに彼らが考えてやってくれた、こまごまとした多くのことをいちいち数え上げることはできないが、ぼくがこれまでに受けたもてなしや歓待はどれも、この二人のもてなしや歓待ほどではなかったし、それに匹敵するものでもなかった、とだけ言わせてもらえば十分だ。最もすばらしいと思えるのは、そうしたことが訓練されて身についたものではなく、複雑な社会の理想によるのでもなく、心からほとばしりでた飾り気のない自然な発露によるものだったということなのだ。

翌朝、ぼくら――つまりタイハイイ、チャーミアンとぼくは棺桶の形をしたカヌーで釣りに行った。このときは例の巨大な帆は持っていかなかった。この小さな舟で帆走と釣りを同時にはできないからだ。数マイル離れた、岩礁の内側にある海峡の深さ二十尋(ヒロ)ほどのところで、タイハイイは針に餌をつけた。餌はタコの切り身で、錘は石だ。タコはまだ生きていて、カヌーの底でくねくね動いている。投入した釣り糸は九本で、それぞれの釣り糸の端には竹の浮きがつけてあり、海面に浮かんでいる。魚がかかると、竹の一端が海中に引きづりこまれるが、当然のことながら竹は縦になって反対側が空中に突き出して、ピクピク動いたりはげしく揺れたりして、ぼくらに早く引き上げるよう促すのだ。竹の浮きが次々に合図を送ってくるので、パドルで漕ぎつつ、そのたびに歓声やら叫び声をあげて大急ぎで引き上げると、長さ二フィートから三フィートのきらきらと輝く見事な獲物が深いところから上がってきた。

東の方にあやしげな雨雲が立ち上り、貿易風帯の明るい空を着実にこちらに迫ってくる。ぼくらは家のあるところから三マイルほど風下側にいた。最初の突風が吹き、白波が立った。やがて雨も降りはじめた。熱帯特有のスコールで、空のあちらこちらに青空が見えているが、雨雲の下になると、いきなり土砂降りになった。チャーミアンは水着を着ていたが、ぼくはパジャマ姿だったし、タイハイイは腰巻きだけだった。浜ではビハウラが待っていて、母親が泥遊びしていたおてんばな幼い娘に対するように、チャーミアンを家の中に連れて行った。

服を着替えていると、カイカイを調理している乾いた煙が静かに立ち上ってきた。カイカイというのは「食べ物」とか「食べる」という意味のポリネシア語で、太平洋の広大な地域で幅広く使われているが、これがむしろ語源に近い形だろう。マルケサス諸島やラロトンガ、マナヒキ、ニウエ、ファカアフォ、トンガ、ニュージーランド、ヴァテではカイと言っていた。タヒチでは「食べる」はアムに変化し、ハワイやサモアではアイに、バウではカナに、ニウアではカイナに、ノンゴネではカカに、ニューカレドニアではキに変化していた。とはいえ、発音や表記が異なっていても、雨に濡れながらずっとパドルを漕いできた身には、この言葉の響きはここちよい。ぼくらはまたも上座に座らされてごちそう責めになり、キリンやラクダのイメージと違ってしまったことを悔いた。

スナーク号に戻ろうと準備していると、東の空がまたも暗くなり、別のスコールが襲ってきた。だが、今度は雨が少なくて風だけだった。何時間もうなりをあげてヤシの林を吹きすさび、もろい竹の住居を引きちぎり、吹き倒し、揺さぶっていった。外洋に面した岩礁では大海のうねりが押し寄せるたびに雷鳴のような轟音が響いた。砂州の内側の礁湖は保護されているのだが、白波が立ち、ハイハイイの腕を持ってしても、細いカヌーで進むことはできなかった。

スコールは日没までには通り過ぎたが、カヌーで戻るにはまだ波が高かった。それで、ぼくはタイハイイにライアテアまでカッターを出してくれる人を見つけてもらった。運賃は計二ドルと一チリ。チリは米国の通貨で九十セントに相当する。タイハイイとビハウラが大急ぎで用意した贈り物を運ぶのに村人の半数が必要だった。籠に入れた鶏、下ごしらえして緑の葉で包んだ魚、見事な金色のバナナの房、オレンジとライム、アリゲーターピア(バターフルーツとも呼ばれるアボカド)がこぼれんばかりに詰め込まれている葉で編んだ籠、ヤムイモ、タロイモ、ココナツの入った巨大な籠、最後に大量の木の枝や幹――これはスナーク号で使う薪用だった。