スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン 〜 スモールボート・セイリング(その8)

スモールボート・セイリング 【全8回】 公開日
(その1)スモールボート・セイリング 2017年3月29日
(その2)スモールボート・セイリング(2) 2017年4月7日
(その4)スモールボート・セイリング(4) 2017年4月21日
(その5)スモールボート・セイリング 2017年4月30日
(その6)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月7日
(その7)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月14日
(その8)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン 2017年5月21日

Small-Boart Sailing (8)

ジャック・ロンドン

私は古い人間で、ガソリンの時代より前に育った。その結果、古い流儀がしみついてしまっている。モーターボートよりヨットの方が好きだし、セーリングする方がエンジンで走るより美しくもあり難しくもあり、揺るぎない技術が必要とされると信じている。ガソリンエンジンは誰でも扱える。サルでもエンジンで走れると言えば言い過ぎになるだろうが、エンジンは誰にだって動かせる、というのは正しい。ヨットを帆走させるとなると、そうはいかない。技術も知性ももっと必要だし、途方もない訓練も必要になる。少年や若者や大人にとって、これほどすばらしい訓練の場はない。子供が小さければ、小さくて快適な小舟を与えればよい。あとは自分でなんとかするものだ。教えてやる必要はない。すぐに三角の帆を張り、オール一本で舵を取れるようになる。それから、キールやセンターボードについて語りだし、毛布を持ち出して船に泊まりたくなるだろう。

だからといって心配することはない。危険をおかすだろうし事故に遭うかもしれないが、忘れてもらってはこまる、海の上と同じように託児所でも事故は起きるのだということを。大小の船で死ぬより温室育ちのために死んでしまう子供が増えているが、子供は芝生でクロケットをしたりダンス教室に通ったりするよりも、ヨットでの帆走を経験した方が強くて信頼できる大人になるだろう。

それに、一度ヨットのなんたるかを身につけてしまえば、生涯ヨット乗りでいられるのだ。潮気が薄れることはない。ヨット乗りは年をとらず、あえて風や波と格闘することもいとわない。私はそのことを自分で体験し身にしみて知っている。いまは牧場を経営し、海が見えない場所に住んでいるのだが、牧場にいて海から長く離れていると、そう数ヵ月も経つと、何かしら落ち着かなくなるのだ。前回の航海での出来事について白日夢を見たり、ウィンゴ・スラウの川ではもうシマスズキが泳ぎまわっているだろうかと案じたり、カモの最初の北帰行のレポートに熱心に目を通したりしているのだ。そのうち不意に思い立って大急ぎでスーツケースに荷物を詰めこみ、道具類の点検修理をすませてヴァレーホに向けて出かけていくのだ。そこには小さなローマー号が係留され、私を待ってくれている。そう、主人の足舟が寄って来るのを、ギャレーのストーブに点火されるのを、そうして帆を固縛しているロープがとかれ、メインセールが風に揺れ、リーフポイントがカタカタ音をたて、ちょっと停船し、風を受けてまた動きだし、舵輪がまわされ、湾内を突き進んでいくのを、いつも待ってくれているのだ。

ソノマ・クリークのローマー号船上にて
一九一一年四月十五日

● 用語解説
キール: 竜骨。船首から船尾まで船の中央下部を貫く構造材。外洋ヨットではキールと呼び、一般に横流れ防止と横倒しになっても復元するための重しを兼ねている
センターボード: ヨットで横流れ防止用に船底から下に出ている板。一般に小型ヨットでは前部を軸にして下側に回転するものを指し、レーザー級などのディンギーで上から差しこむ矩形の板はダガーボードと呼んで区別される
ウィンゴ・スラウ: ミズーリ州(米国中西部)の地名
ヴァレーホ: カリフォルニア州(米国西海岸)の地名
ギャレー: 調理をする区画。いわゆる厨房
ストーブ: 小型ヨットでは、暖房用のストーブではなく煮炊き用のコンロを指すことが多い

スモールボート・セイリング 【全8回】 公開日
(その1)スモールボート・セイリング 2017年3月29日
(その2)スモールボート・セイリング(2) 2017年4月7日
(その4)スモールボート・セイリング(4) 2017年4月21日
(その5)スモールボート・セイリング 2017年4月30日
(その6)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月7日
(その7)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月14日
(その8)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン 2017年5月21日

スナーク号の航海 (95) - ジャック・ロンドン著

あとがき

スナーク号は水線長四十三フィートで全長は五十五フィート、船幅十五フィート、喫水が七フィート八インチだ。二本マストのケッチで、帆はフライングジブにジブ、フォアステイスル、メインスル、ミズン、スピンネーカーがある。船室の高さは六フィートで、甲板は手すりで囲まれたところと平らで何もないところに分かれている。水密区画は四つ。七十馬力の補助ガソリンエンジンを動かすのに、一マイル当たり約二十ドルの経費がかかる。五馬力のエンジンは故障していなければポンプを動かしてくれるが、サーチライトの電源にも二度ほどなってくれた。船載の十四フィートのボートのエンジンはたまには動くようだが、ぼくが乗ろうとすると決まって動かない。

だが、スナーク号は帆船だ。どこへでも帆走で行く。二年間航海したが、岩や暗礁、浅瀬で座礁したことはなかった。船内にバラストは積んでいない。鉄製のキールは五トンの重量があり、喫水は深く乾舷も高い。非常に頑丈だ。フルセールで熱帯のスコールに遭遇すると舷縁も甲板も波に何度も洗われるが、粘り腰があって転覆するまでには至らない。操船は容易だ。舵から手を放しても、風上航だろうが真横からの風だろうが、昼夜を問わず、きっちり走ってくれる。斜め後方からの風では、帆をきちんと調節しておきさえすれば方向のずれは二点内に収まるし、真追っ手の風では勝手に操舵させておいても三点とずれることはない*1。

スナーク号は途中まではサンフランシスコで建造された。キールの鋳造にとりかかろうとした日の朝に、あの大地震が起きたのだ。そこで混乱が生じた。建造は六カ月も遅延し、ぼくはスナーク号をほぼがらんどうのまま、エンジンを船底にくくりつけ、材料は甲板に固縛した状態でハワイまで回航して仕上げをした。サンフランシスコにとどまって完成させようとしていたら、今も進水できていなかっただろう。完成する前からコストは当初の予定の四倍にもふくれあがった。

スナーク号は最初からツキがなかった。サンフランシスコでは訴訟を起こされたし、ハワイでその請求書は詐欺だと抗弁したものの、ソロモン諸島では検疫違反を理由に罰金を課せられた。いろんなしがらみにとらわれた新聞は真実を書かなかった。役立たずの船長を解雇すると、やつがぼろぼろになるまでぼくが暴力をふるったと報道された。一人の若い乗組員が学業を続けるため帰国すると、ぼくは常にウルフ・ラーセン*2みたいな暴君で、とんでもない乱暴者なので、乗組員はみな長続きしないと報じられた。実際に殴ったのは一度だけだ。船長がコックを乱暴に扱ったからだ。この船長は経歴を詐称して乗りこんできたとわかったので、フィジーで解雇した。チャーミアンとぼくは運動をかねてボクシングをしたが、どちらも誰かを本気で殴ったことなどない。

この航海は、ぼくらが楽しみのために発想したものだ。スナーク号を建造したのはぼくだし、費用も経費はすべてぼくが支払った。ぼくはある雑誌と三万五千語の航海記を書く契約を結んだ。稿料はそれまで書いていた原稿と同じだ。雑誌はすぐに、ぼくを世界一周に派遣すると宣伝した。潤沢な資金を持つ雑誌だった。仕事でスナーク号と取引をした誰もが、この雑誌なら負担してくれるだろうと、三倍の値段を吹っかけた。南太平洋の島々にまでこの神話が伝わっていて、ぼくはそれに応じた割高の料金を払った。今になっても、雑誌が経費を払い、ぼくはこの航海でひと財産つくったと誰もが信じこんでいる。ああいう派手な宣伝の後では、航海すべてを自分の楽しみのためだけにやったのだとわかってもらうのは難しい。

ぼくはオーストラリアで入院した。病院で五週間すごした。それからホテルで五カ月も療養していた。悩みの種だった両手の病気は、オーストラリアの専門家の手にも終えなかった。医学文献にも記載されていないのだ。こんな症例はどこにも報告されていない。症状は両手から両足にひろがっていき、子供同然に、まったく力が出せなくなることもあった。大きさで言うと、通常の二倍くらいにふくれたりもした。同時に七カ所で皮膚が死んで皮がむけた。足指の爪の厚みが二十四時間で長さと同じくらいにもなった。それをヤスリで削り落としても、また二十四時間すると、内側から前と同じ厚さの爪が生えてきた。

オーストラリアの専門家たちは、この病気は非寄生性で、慎重に扱わなければならないということで意見は一致したが、いっこうに改善しないので、そのまま航海を続けることはできなかった。続けたとしても、ぼくは寝床に力なく寝たきりで、両手で何かを握ることもできず、小さな揺れる船を動きまわることもできなかっただろう。船はたくさんあるし、航海もたくさん行われているが、自分の両手や足の爪には代替品がないのだと、自分に言い聞かせた。さらに、気候のよいカリフォルニアに戻れば、ずっと落ち着いていられるとも考えて納得し、こうして戻ってきたわけだ。

戻ってきてから、ぼくはすっかり回復した。そして、自分の何が問題だったのかがわかった。合衆国陸軍のチャールズE・ウッドラフ中佐の書いた『熱帯の太陽光が白人に与える影響』という本にめぐりあい、それでわかったのだ。その後、ぼくはウッドラフ中佐にも会い、中佐も同じような症状に見舞われたことを知った。中佐自身は陸軍軍医で、フィリピンで同じような病気になったとき七名の陸軍軍医に診てもらったものの、オーストラリアの専門家と同じようにサジを投げられてしまった。簡単に言うと、ぼくは熱帯の太陽光線による組織破壊性の疾患にかかりやすい傾向があったのだった。X線の照射を何度も受けるみたいに、紫外線にぼくの体は痛めつけられてしまったのだ。

ちなみに航海を放棄せざるを得なかった別の病気について述べると、その一つは正常人の病気、ヨーロッパのハンセン病、聖書のハンセン病などとさまざまな呼び方をされているものだった。本当のハンセン病とは違い、この不可解な病気については何もわかっていない。自然治癒は記録されているが、この症例を治癒させたと言う医者は存在しない。治療方法がわからないのも無理もない。なぜこの病気にかかるのか自体がわかっていないのだ。薬を使用しなくても、ただカリフォルニアの気候に満たされた環境にいただけで、ぼくの銀色がかった皮膚は消えてしまった。医者がぼくに対して持っていた唯一の希望が自然治癒の可能性だったが、ぼくはそのとおりに治ってしまった。

最後に、航海という試練について述べておこう。これは、ぼくにとっても誰にとっても十分に楽しいものだったと言える。とはいえ、それを証言するには、ぼくらよりも適任者がいる。最初から最後まで同行した一人の女性だ。病院で、カリフォルニアに戻らなければならないとチャーミアンに告げると、彼女の眼には涙があふれた。幸福な楽しい航海を放棄するしかないと知ると、彼女は二日間ショックに打ちのめされた。

グレン・エレン(カリフォルニア州)にて
一九一一年四月七日
脚注
*1: 帆船時代の船舶では、360度の方位を32等分したものを1点(11度15分)としていた。2点は22度30分、3点は33度45分になる。
沿岸航海では風向は変わりやすいが、外洋では同じ方向から安定した風が吹いていることが多く、しかも、スナーク号は船底の前後方向にキールが伸びたロングキールで、舵から手を放しても同じ進路を保つ傾向が強いため、こういうことが可能になる。
キールが縦に細長い現代風のヨットでも似たようなことはできるが、こううまくはいかない。その代わり、ウインドベーンやオートパイロットなど、便利な自動操舵装置が開発され利用されている。

*2: ウルフ・ラーセン - 海洋冒険ものの大作『海の狼』(ジャック・ロンドン著)の主人公で、帆船ゴースト号を暴力で支配する船長。

スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 〜 スモールボート・セイリング(その7)

スモールボート・セイリング 【全8回】 公開日
(その1)スモールボート・セイリング 2017年3月29日
(その2)スモールボート・セイリング(2) 2017年4月7日
(その4)スモールボート・セイリング(4) 2017年4月21日
(その5)スモールボート・セイリング 2017年4月30日
(その6)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月7日
(その7)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月14日
(その8)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン 2017年5月21日

Small-Boart Sailing (7)

ジャック・ロンドン

風の強い闇夜に暖かい寝床を抜け出し、状況が悪化した錨泊地から脱出するのは楽しいことではない。そのとき、われわれはやむをえず寝床から起き上がり、メインセールにツーポンリーフを施しておいてから、錨を揚げはじめた。ウインチは古くて、波で船首が上下する際にかかる負荷には耐えられず故障してしまったが、とはいえ、錨を手で揚げるのは無理である。実際にやってもみたのだが、びくともしなかった。むろん、とりあえず錨綱に目印のブイをつけておいてからその場を離れるという手もあったのだが、われわれはそうせず、他のロープを用意して元の錨とは向きを変えて別の錨を投げ入れた。

それからもほとんど眠れなかった。というのも、船が横揺れするため、一人ずつ寝床から放り出されてしまうからだ。海はますます荒れてきて、船が走錨しはじめた。潮通しがよく海底が滑らかになっている海峡まで出てしまうと、二つの錨がスケートをするように滑っている感触があった。海峡は深く、対岸は渓谷のように急峻なかけあがりの崖状になっていた。錨はその崖にぶち当たり、そこで持ちこたえた。

しかし、錨が効いて船がそれ以上流れなくなると、暗闇を通して、背後の岸に砕ける波の音が聞こえた。非常に近くだったので、足舟の舫綱を短くした。

明るくなってみると、足舟の船尾はきわどいところで破損を免れたことがわかった。なんという風だったことか! 時速七十マイルから八十マイル(風速三十六メートルから四十一メートル)の突風が吹いたりもしたのだが、錨は持ちこたえてくれた。逆に、がっしり食いこんでいるので、今度は船首のビットが船からはぎ取られるのではないかと心配になったほどだ。一日中、われわれのスループは船首と船尾が交互に持ち上がったり沈みこんだりしていた。嵐がおさまったのは午後も遅くなってからだったが、最後に猛烈な突風が吹いた。まる五分間の完全な無風状態の後、ふいに雷鳴が起こり、南西方向から風がうなりを上げて吹き寄せてきた。風向は九十度も変化し、暴風が襲ってきた。こんな状況でもう一晩すごすのはこりごりだったので、われわれは向かい風の中で、手で錨を揚げた。重労働なんてものじゃなかった。心が折れるとはこのことだ。われわれは二人とも苦痛と疲労で泣き出す一歩手前までいっていた。ともあれ最初の錨を引き上げようとするものの、錨は抜けない。波が押し寄せてきて船首が下がったときにゆるんだロープを船首のビットに余分に巻きつけておいて、次の波で船首が持ち上がるのを利用して引き上げようとした。ほとんどすべてのものが壊れてばらばらになったが、錨は食いこんだままだった。チョックは急激な力が加わったので外れてしまうし、舷側もちぎれ、それをおおっていた板も割れたが、錨はまだ食いこんだままだった。仕舞いには縮帆したメインセールを揚げて、張力のかかったチェーンを少したるませながら帆走で抜錨しようとした。しかし、力が均衡した状態でにっちもさっちもいかず、船は何度か横倒しになった。われわれはもう一つの錨でもこの作業を繰り返したのだが、そのうち河口の避泊地にはまたも宵闇が迫ってきた。
● 用語解説
ツーポイントリーフ: 二段階に縮帆(リーフ)すること。風の強さに応じて、ワンポン(一段階)、ツーポン(二段階)、スリーポン(三段階)と帆の面積を小さくしていく
ウインチ: ヨットでロープ類を巻き上げる小型の装置。錨を巻き上げるものはウインドラスともいう
ビット: 舫い綱などの端を固定しておく支柱のようなもの。現代のヨットではクリートを用いるのが一般的
チョック: 舫い綱や錨綱を船上に引きこむ際に船縁でロープを通すところ。船体の補強とロープの摩耗防止を兼ねている。フェアリーダーともいう

スモールボート・セイリング 【全8回】 公開日
(その1)スモールボート・セイリング 2017年3月29日
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(その4)スモールボート・セイリング(4) 2017年4月21日
(その5)スモールボート・セイリング 2017年4月30日
(その6)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月7日
(その7)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月14日
(その8)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン 2017年5月21日

スナーク号の航海 (94) - ジャック・ロンドン著

追伸  というようなことを書いてから、さらに二週間がすぎた。タイヘイイはスナーク号で唯一病気にかかっていなかったのだが、ぼくらの誰よりも高熱が出て、もう十日も寝こんでいる。体温は華氏百四度(摂氏四十度)を何度も繰り返し、脈拍は百十五もある。

再伸  タスマン環礁とマニング海峡の間の海にいる。
タイヘイイの病気は、マラリア熱では最悪の黒水熱*1になってしまった。医学書によれば外部感染によるものらしい。熱を下げようとしているのだが、彼が気力をなくしてしまっているため、こっちも途方に暮れている。精神の病に関しては治療経験がほとんどない。スナーク号の短い航海で、精神錯乱はこれで二人目だ。


友好的なランドリー・ビルズ。洗濯屋だが、服装は文明からは程遠い──ロード・ホウ環礁にて

再々伸  いつか、ぼくは本を書くつもりだ(専門家向けにね)。タイトルは『病院船スナーク号の世界一周』。船に乗せていたペットはまだ逃げだしていない。メリンゲ礁湖からはアイリッシュテリアと白いオウムを一匹づつ乗せていた。テリアはキャビン入口の階段から落ちて後ろ足を引きづるようになったが、また落ちて、こんどは前足も痛めてしまった。現時点では残った二本の足で歩きまわっている。幸運なことに、大丈夫だった足はそれぞれ反対側についているので、なんとか動けている。オウムはキャビンの天窓にぶつかって死んでしまった。これがスナーク号の葬式第一号となった。鳥といえば、ペットじゃないニワトリは病人用のスープになったりしているのだが、何羽かは船から飛び出しておぼれ死んでしまった。丈夫で繁殖しているのはゴキブリだけだ。やつらは病気や事故とは無縁で、日ごとに巨大化し凶暴になって、ぼくらの手や足の爪を眠っている間にかじるようになった。

再々伸
チャーミアンが発熱を伴う別の発作をおこした。マーティンはふさぎこんでいたが、馬専門の獣医のところでイチゴ種を診てもらい硫酸銅の治療を受けた。ぼく自身は航海術や病気の治療、短編の執筆に忙殺されている。体調がいいというわけではない。乗組員の精神錯乱を別にすれば、ぼくとしても事態は最悪で、航海を続けることはもう限界だった。次の蒸気船でオーストラリアへ行き、手術を受けることになるだろう。苦痛の種はいろいろ抱えているが、自分にとって新種でまだ慣れていない疾病について書いておこう。この一週間というもの、ぼくの両手には浮腫ができ、ふくれあがっている。握りこぶしをつくろうとすると痛みがある。ロープを引こうとすると、とても痛いのだ。悪化したた霜焼けみたいな感じだ。また両手の皮がすごい勢いではげ落ち、その下の新しい皮膚は固く厚くなってきている。医学書を見ても、この病気についての記載はない。何なのか、だれも知らないのだ。

再々伸  まあ、とにもかくにもクロノメーターは修理した。この八日間というものスコールと雨がずっと続き、ほとんど漂泊していたのだが、昼に一部だが太陽を観察することができた。それで緯度を計算し、推測航法でロード・ホウのある緯度をめざした。この時点で、ぼくは経度の観測を行ってクロノメーターのテストを行い、三分ほどの誤差があるのに気づいた。一分は十五マイルに相当するので、合計した誤差は推測できる。ロード・ホウでは何度も観測を繰り返してクロノメーターの精度を確かめた。このクロノメーターは一日に一秒の十分の七ずつずれているいることがわかった。一年前にハワイを出帆したときも、この同じクロノメーターには一秒の十分の七の誤差があった。この誤差は毎日積み重なっているはずだ。ロード・ホウでの観測で証明されたように誤差の割合に変化はないので、時間のずれは三分どころではないはずだが、太陽の影響下にある何がいきなり針の進みを変化させて三分まで調整したのだろうか? そんなことがありうるのか? 時計の専門家はそんなことはないと言うだろう。が、ぼくとしては、そういう連中はソロモン諸島で時計を作ったり精度を調べたりしたことがないからだと言いたい。ぼくの見立てでは、気候のせいでそうなるのだ。ともかく、ぼくは精神の異常やマーティンのイチゴ種の治療には失敗したが、クロノメーターの修理には成功したのだった。


ロード・ホウ環礁のルアヌアにある貿易業者の家

再々伸  マーティンが治療に焼きミョウバンをためしている。熱はさらにひどくなった。

再々伸  マニング海峡とパヴヴ諸島の間にいる。
ヘンリーはリューマチで背中の痛みが増した。僕の腕では十カ所の皮膚がはげ落ち、十一個目のはげかかっている。タイヘイイはますます頭がおかしくなり、自分を殺さないよう昼夜を問わず神に祈っている。ナカタとぼくはまたもや発熱で痩せてきた。最新情報として、昨夜、ナカタは食中毒の発作を起こし、ぼくは半ば徹夜で看病した。
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脚注
*1: 黒水熱 - マラリアの合併症。

スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 〜 スモールボート・セイリング(その6)

スモールボート・セイリング 【全8回】 公開日
(その1)スモールボート・セイリング 2017年3月29日
(その2)スモールボート・セイリング(2) 2017年4月7日
(その4)スモールボート・セイリング(4) 2017年4月21日
(その5)スモールボート・セイリング 2017年4月30日
(その6)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月7日
(その7)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月14日
(その8)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン 2017年5月21日

土手はでこぼこしているし、船の真下では潮が急激に引いて、おそろしく汚くて悪臭のする、潮汐のたびに姿を現すおぞましい干潟が見えていた。クラウズリーがそれを見下ろしながら私に言った。
「愛してるぜ、兄弟。俺はあんたのためだったら決闘もするし、吠えるライオンにだって立ち向かってみせる。野垂れ死にも洪水もこわくはないし、あんたがここに降りさせるようなことはしない」 そう言いながら、彼は吐き気に身震いした。「だけど、もしあんたが落っこちてしまったら、俺にはあんたを引き上げる度胸はねえからな。無理にきまってる。あんたはひどいことになるだろうし、俺にできるのは、ボートフックをつかんで、あんたを見えないところまで押しやることだけだろうよ」

われわれは船室で上になった側壁に座ってデッキにもたれ、船室の屋根に足をぶらぶらさせながらチェスをした。潮が満ちてきたところで、ブームリフトの滑車とタックルを使い、船をまた頑丈な竜骨の上に立たせることができた。それから何年もたってから、私は南海のイサベル島で同じような窮地に陥ったことがある。船体に張った銅板の汚れを落とすため、浜辺でスナーク号の側面を海側に傾けたのだが、潮が満ちてきても船は起き上がろうとしなかったのだ。海水がスカッパーから入ってきた。海水は舷側を乗りこえ、斜めになったデッキをじりじり上がってくる。われわれは機関室のハッチを閉めた。海面はそこまで達し、さらに船室のコンパニオンウェイや天窓の近くまで上昇してきた。われわれは皆熱があったのだが、熱帯の炎天下で何時間も必死に作業するはめになった。一番太いロープをマストヘッドに結んでおいてから陸まで運び、この重い船を引き起こそうとしたが、われわれ自身を含めて、すべてがこわれてしまった。われわれは疲労困憊し、死人のように横たわった。それから、また立ち上がって引っ張り、そうしてまたぶっ倒れた。下側の舷側は海面下五フィートに沈み、さざなみが寄せてきてコンパニオンウェイを包みこむようになってやっと、この頑丈で小さな船は身震いし、動揺し、そうして再びマストが天頂を向いたのだ。

小さな船を帆走させていると運動不足になることはないし、重労働はその楽しみの一部でもあり、医者いらずってことにもなる。サンフランシスコ湾はちっぽけな池などではない。大きいし、風もよく吹き、変化の激しい海域だ。ある冬の夕方、サクラメントの河口へ入ろうとしたときのことを思い出す。川は増水していた。湾からの上げ潮も流れに負けて強い引き潮になっていた。日が差すと、力強い西風は衰えた。日没だった。順風から中風くらいの追い風を受けていたのだが、急流をさかのぼることはできなかった。われわれはいつまでたっても河口にいたのだ。投錨地はなく、後退する速度もだんだん速くなってくる。風がなくなってしまったので、河口の外に出て錨を下ろした。夜になった。美しくて暖かく、星がよく見えた。私がブリストルの流儀ですべてをデッキに出している間に、仲間の一人が夕食を作った。九時になると、天候が回復する見こみがでてきた(気圧計を積んでいたらもっと正確にわかっただろう)。午前二時までにはサイドステイが風で鳴り出したので、私は起きだして錨索を繰り出した。もう一時間もすれば、間違いなく南東の風が吹き出してくるだろう。
● 用語解説
イサベル島: 南太平洋(メラネシア)にある島
スナーク号: ジャック・ロンドンが建造したヨット。これに乗って太平洋を周航し、『スナーク号の航海』(未訳)を著した
スカッパ: 排水口
コンパニオンウェイ: 船室への入口
サイドステイ:  マストを横方向から支える静索

スモールボート・セイリング 【全8回】 公開日
(その1)スモールボート・セイリング 2017年3月29日
(その2)スモールボート・セイリング(2) 2017年4月7日
(その4)スモールボート・セイリング(4) 2017年4月21日
(その5)スモールボート・セイリング 2017年4月30日
(その6)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月7日
(その7)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月14日
(その8)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン 2017年5月21日

スナーク号の航海 (93) - ジャック・ロンドン著

チャーミアンは菜食主義者と衛生学者に育てられた。彼女を育てた叔母のネッタは健康によい気候の地域に住んでいて、薬なんてものは信用していなかった。チャーミアンもそうだ。おまけに薬と彼女の相性も悪かった。治したい病気そのものより薬の副作用の方がひどかったりしたのだ。とはいえ、彼女はキニーネの効能については耳を傾け、病気になるよりはましだとして受け入れた。その結果、痛みは他の連中ほどひどくなかったし、苦しむ期間も短く、発熱の頻度も少なかった。そんなとき、ぼくらは伝道師のコーフィールド氏と出会ったのだが、彼の前任者は二人もソロモン諸島で暮らすようになって半年もたたないうちに死んでいた。彼らと同様に、彼もまた同毒療法*1なるものをかたく信じていたのだが、自分が発熱すると逆症療法*2とキニーネに頼るようになり、熱に苦しめながらも福音の伝道に努めているのだった。

だが、それにしてもかわいそうなのはワダだ! チャーミアンとぼくが彼を人食い人種のいるマライタ島への航海に連れて行ったことが、コックだった彼を打ち負かす最後の一撃になってしまった。ぼくらが乗せてもらったヨットは小さくて、船長は半年前に殺されていた。カイカイとは食べることを意味するが、ワダは自分は食べられるのだと思いこんでいた。ぼくらは重武装し、警戒を怠らなかった。河口の真水で体を洗うときは、黒人のボーイたちがライフルを構えて歩哨に立ってくれた。ぼくらは英国の軍艦が船長殺害の報復として村々を砲撃し焼き払うところに遭遇した。首に賞金をかけられたお尋ね者の原住民たちがぼくらの船に逃げこもうとしたりした。陸上では人殺し連中が闊歩していた。ぼくらは予想もしないところで人なつこい原住民の差し迫った攻撃に対する警告を受けることになった。ぼくらの船にはマライタ島の原住民が二人乗っていたが、彼らはいつでも連中に寝返りそうだった。おまけに、ぼくらの乗った船は座礁してしまった。船を守ろうと懸命の努力をする一方では、片手にライフルを抱え、略奪しようとカヌーに乗ってやってくる連中に警告した。こうしたことすべてがワダには激しすぎたのだ。彼は頭がおかしくなり、とうとうイザベル島でスナーク号から下船してしまった。熱が小康状態のとき、豪雨の最中に肺炎にかかるおそれがあるというのを押し切って上陸した。彼が人食い人種に食われず、病気と高熱を克服できたのであれば、さらに合理的に判断して幸運に恵まれていたのであれば、ともかくもどこか近くの島へ、近くといっても六週間から八週間はかかるのだが、そういう近くの島に逃げおおせていることだろう。ぼくは彼の歯を二本も引っこ抜いてやったのだが、ぼくの処方する薬はまったく信用していなかった。

スナーク号は何カ月間も病院のようになっていたし、正直に言うと、ぼくらはそういう状態になれてはきている。メリンゲ礁湖では、干潮を利用してスナーク号を干潟にわざと乗り上げて船底の銅板の汚れを落としたりした。岸のプランテーションにいた三人の白人の男は皆、熱で倒れてしまい、海に入って作業できるのは一人だけだった。この原稿を書いている時点で、ぼくらはイサベル島の北東付近の海域で現在どこにいるのかわからなくなり、ロード・ホウ島を探そうと無駄な努力をしている。ロード・ホウ島はマストに登らなければ見えないような低い環礁なのだ。クロノメーターは壊れてしまった。太陽は姿を見せないし、夜も星を観察をすることはできなかった。来る日も来る日もスコールや雨だけだ。コックが蒸発してしまったので、ナカタはコックとボーイの両方を兼務しようとしたのだが、熱を出して寝こんでしまった。マーティンは熱がおさまったと思うとまた発熱している。チャーミアンは定期的に発熱するのだが、手帳の予定を見ながら次の発熱がいつ来るか予測しようとしていた。ヘンリーは期待しつつキニーネをのみ始めた。ぼくの場合、いきなり発作に襲われたので、自分が倒れたときのことは覚えていない。ぼくらは誤って船で最後の小麦粉を、小麦粉がないという何人かの白人男にくれてやってしまった。いつ陸にたどり着けるのかもわからない。ソロモン諸島の病気は悪くなる一方だ。昇こうはうっかり陸のペンドュフリンに置き忘れたし、過酸化水素は使い切っている。それで、ぼくは今はホウ酸と消毒薬、消炎剤で実験しているところだ。いずれにしても、ぼくが尊敬される医者になりきれないとすれば、それは治療の経験が不足したためだということにはなるまい。
脚注
*1: 同毒療法(ホメオパシー)とは、治療しようとする病気の症状をわざと発生させることで病気を直そうという治療法。
*2: 逆症療法(アロパシー)とは、熱が出たら解熱剤を処方するなど、病気の症状と反対の状態を作り出そうという治療。対症療法と呼ばれることもある。