現代語訳『海のロマンス』100:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第100回)

ロングウッド館を振り返って

またもやド・ラ・カーズ伯の回想録のご厄介になるのであるが、ナポレオン臨終の箇所に

『……藍色の羅紗(らしゃ)の外套は帝(てい)がマレンゴの役*に着用されたものであるのだが、これで御遺骸(ごいがい)をおおった。手足を自由にし、左の腰間(ようかん)に御剣(ぎょけん)を帯(お)びさせ、胸上に十字架を持たせた。御遺骸(ごいがい)から少し離れたところに銀器を置き、その内に御心臓(ごしんぞう)と御胃(おんい)とを盛る……。』

という一節がある。

* マレンゴの役: 一八○○年六月にナポレオン率いるフランス軍とオーストリア軍が相対した、イタリア北部にあるマレンゴでの戦闘。ナポレオンはその勝利を記念して愛馬をマレンゴと名づけた。

この御心臓(ごしんぞう)と御胃(おんい)については

『……卿(おんみ)はまた朕(ちん)の心臓を取りてこれをアルコールに漬け、バタムに携えて行き、これを朕(ちん)が愛するマリー・ルイーズ皇后にもたらせよ、かつ朕(ちん)がために后(きさき)に言え、朕(ちん)は深く后(きさき)を愛して一日も忘れたることなしと……』

また

『朕(ちん)は卿(おんみ)に、朕(ちん)の胃を特によく診察検査して正確で詳細な報告を作り、これを朕(ちん)の太子(たいし)*に渡すよう依頼する……お願いだから、わが太子がこの苦しい病にかからないようにしてくれ……』と言っている。

* 太子(たいし): 皇位を継承する者のこと。皇太子、王太子とも呼ばれる。ここではナポレオンの息子であるローマ王を指す。
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二十代で夭逝したローマ王(ナポレオン二世)の肖像画
[Moritz Michael Daffinger, Public domain, via Wikimedia Commons]

どんな偉人でも豪傑でも子に対する純愛のためには盲目的となるのは下世話(げせわ)にいう『親馬鹿ちゃんりん』の一句につきている。

しかし、囚(とら)われ人として六年間の流刑地生活で、それを慰謝(いしゃ)するような書簡を一通も送らなかったマリー皇后の冷淡な所作と、病気で苦しく呻吟(しんぎん)しつつもなお思慕(しぼ)の情を最愛の后(きさき)の上にはせている帝(てい)の心持ちとを比べると―-もっとも、当時は島の内外の書簡の交通は実に厳重で、帝(てい)からの手紙もしばしば総督に抑留されたが、逆に欧州より帝(てい)に宛てた書信は問題なく届いたようだし――女の恋は橄欖(かんらん)の杜(もり)の火事のごとし*、手管(てくだ)に乗るな甘い男たちと言ってやりたい。

* 橄欖(かんらん)の杜(もり)の火事: 出所不詳。
橄欖とは「かんらん科」の常緑高木のことだが、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に出てくる橄欖の森は「オリーブの森」の誤訳という。また、女性心理の機微を描くのが巧みなモーパッサンの短編集『オリーブ園』(Le champ d’oliviers)も当時は橄欖の森と訳されていた。

ぼくは――ぼくに限らず、ナポレオンを偉人として崇拝するすべての人々はたぶん――その政策に、兵略に、その外交に、人びとの信頼を得るやり方に、彼の行くところ必ず現れる性格のうちに、必ず啓示される精神力に、離れようとして離れられない魅力を持つ、雄渾(ゆうこん)な思想の閃(ひらめ)きをみとめざるをえない。

こうした色彩を有すると信じられる彼の性格や気魄(きはく)は、ぼくをして過去の歴史上に現れた人物の中で最も崇拝するにいたった理由であろうと思う。清盛に見るような、秀吉に見るような、その鋼鉄をあざむくような冷ややかにして強固なる意志と、いったん志を定めるとあくまでも徹底せずにはおかないといった微動だにしない気概(きがい)は、いかにも男の中の男らしいという、快(こころよ)い響(サウンド)を吾人の耳に与えるのである。

しかも、その境遇がいささか異なるといえども、同じく悲惨極まる末路をたどりながらも、その一方で浄海入道(じょうかいにゅうどう)*は煩悩(ぼんのう)解脱(げだつ)の大事な瀬戸際に立ちつつ不可避の、悪病のむくいたる重い病にうなされつつ、なお、わが死後は一切の供養(くよう)念仏(ねんぶつ)はこれを営むに及ばず、ただ急ぎ右兵衛佐(うひょうえのすけ)の頭をはねて吾が墓前にかけよと豪語したが、それに比べると、なんとも心弱き大ナポレオンの臨終の遺言なることか!!

* 浄海入道(じょうかいにゅうどう): 平清盛(1118年~1181年)のこと。出家後の法号が太政入道浄海。

胃や腸の痙攣(けいれん)、深いため息、悲しい叫び声などに続き、絶え間ないむせび泣きに見舞われた臨終の苦痛は、病気に倒れた日から、湯や水も喉に入らず、その胸中の熱いこと、あたかも火のごとく、その寝ているところから四方へ四、五間(八、九メートル)内では熱気が燃えるように、ほんとうに怪しい病であった、とされる入道が死去した際の苦悩と比べてみると、かの入道にも負けない大なる執着を有し大なる意思の征服を遂行したナポレオンの遺言が、たとえようもなく見劣りすることこそ、口惜(くちお)しくも恨(うら)めしき限りである。

朕(ちん)はセーヌ河畔(かはん)、朕(ちん)の深く愛したるフランス国人民のうちに朕の遺骸が葬られんことを希望する。これは、まずまずよいだろう。

朕(ちん)がために后(きさき)に言え、朕は后を愛して一日も忘れたることなしと。

とは、さてもさても芸のない、のろけなることよ!

卿(おんみ)の目撃したるところをことごとく、彼ら(ナポレオンの母および一家)に告げよ。ナポレオン大帝は身に一物をも所持せず、たった一人で遺棄(いき)され、きわめて悲惨な状態で崩御したと。

というに至っては、はかなく落ちぶれて死んでいく人の声である。

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現代語訳『海のロマンス』99:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第99回)

ナポレオン臨終の部屋

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ナポレオンのデスマスク(Rama, CC BY-SA 2.0 FR, via Wikimedia Commons)

ド・ラ・カーズ伯の回想録に

『ロングウッドの家は、その入口は新設の室にて、この部屋は前室にもなれば食堂にもなりたり。その隣室は客室、その次には第三の薄暗き室ありて、これは帝(てい)の書類等を入れる部屋たりしが、後にこれを食堂とせり。この部屋に入りて右折すれば、帝の御室(おんしつ)の戸あり。御室(おんしつ)は二間続きにして、広さは等しく、二室いずれもはなはだ狭し。一つを書斎とし他を寝室となせり……。』

とあるもの、および

『帝(てい)は正六時にしてまったく絶命せられた。余(よ)は御髪(みぐし)を剃(そ)り、御骸(おんむくろ)を洗わせて、これを他の寝床に移す……。』(同上)

とあるもの、また

『御遺骸(おんいがい)はこれを寝室に安置し、室内をおおうに黒き羅紗(らしゃ)をもってせり。』

とあるものなどから推測すると、現在は塑像(そぞう)が安置してある部屋(当時は客間に使用されていた)の入口の長押(なげし)にある『皇帝崩御の間』なる銘板に十分な信用を置く以上は、当時ナポレオンが書斎とし寝室とした二間とは、現在はロングウッド駐留のフランス国代理領事兼ロングウッド周辺の土地管理者たるボージェ氏の私室となっている部屋で、ナポレオンはなにか偶然の出来事から客間だったこの翼面(ウイング)の第二室で発病し、そのまま起きることができず寝たきりになったために死後に母屋(おもや)の寝室に移したのか、または初め母屋の寝室で病臥(びょうが)したのを自分の希望で比較的に明るくて風の通りもよい客間に移させたまま、そこで永眠したと推定しなければならない。

食堂の左側半分は一時はモントロン伯一家の住居にあてられたが、後にナポレオンの図書室となり、並列している別棟は回想録の著者ド・ラ・カーズ父子および皇帝の随行者の居室にあてられ、元帥(げんすい)ベルトラン伯一家にはこれより二マイルほど後方に孤立している『仮小屋』が与えられた。

寝室にはナポレオンが常用していた小さな寝台と長椅子とがあり、マントルピースの左右には、孤島における六年もの軟禁生活でナポレオンをして最も力強く執着せしめた最愛の子ローマ王の額がかかり、マントルピースの上には同王の大理石の半身像(バスト)が置かれた。この半身像(バスト)が熱烈なるナポレオンの望郷の念を癒(いや)やすべく、わざわざ四千マイルの大海原を超えてセントヘレナに送られたとき、ことごとく反抗的態度をとった狭量なる小心者のハドソンローエはこれを破砕するよう命じて、ナポレオンから『利害が対立する問題のため彼らの加える圧政はなお耐え忍ぶ。しかれども、清らかで尊ぶべき家族間の愛情の表現をも阻止せんとするはこれを許しがたし』と憤怒(ふんぬ)の一喝(いっかつ)をくったという面白い逸話(いつわ)が伝えられている。

* ローマ王: 皇帝ナポレオン(ボナパルト)とオーストリア出身の皇后マリー・ルイーズの息子。
帝政下ではナポレオン二世とも呼ばれたが、父ナポレオンの死から十一年後、二十一歳で病死した(1811年~1832年)。
ちなみに、ナポレオン三世(ルイ・ナポレオン)はナポレオン・ボナパルトの甥(弟の子)で、二世より三歳年長。

その他ローマ王を抱擁(いだ)ける皇后マリー・ルイーズの肖像画、フレデリック大王使用の銀時計およびナポレオンがイタリアでの戦争で所持していた時計などが飾られてあった。しかし、これらの記念物は一八四〇年にことごとくパリに持ち去られて、今もなおブランテイション・ハウス(セントヘレナ総督官邸)に保存されているものはわずかにピアノ、ビリヤード台、食器棚、タンス、書棚などにすぎないとは、ぼくがジェームズタウン港の写真の裏に花押(シグネチュア)を依頼したとき、フランス領事ボージェ氏が親切に教えてくれた話の一節であった。

元来、ロングウッド館は一七四三年に総督ダムバーが予備糧食庫(よびりょうりょくこ)にあてるために建造した納屋(バーン)であって、後年に改造されて副総督の住居となり、一八一六年以降はナポレオンの寓居(ぐうきょ)となった、疎漏(そろう)きわまれる、間に合わせ的のものであった。

このように元は納屋であったためか、ネズミの類が大繁殖していたるところに侵入し、あるときはまさに着用せんとした帽子の中からネズミが踊り出でてナポレオンを驚かせたこともあったとか。

かてて加えて、安定した穏やかな気候とは言いがたいロングウッド台地の天候は、あるときは強風が吹き、あるときは暴雨にさらされ、あるときは妖霧(ようむ)に包まれるというように、すこぶる不健康なもので、屋外は精神(こころ)をくじく湿潤の瘴気(しょうき)に満ち、屋内ではビンの中にいるようなひどい暑さに苦しませられるという、ずいぶん手数のかかった厄介きわまる僻地(へきち)で、その上に給水も完全ではないときているから、賓客(ひんきゃく)たる世にも怖い囚人をまんまともだえ苦しませて死亡させる意図のある人々にとっては、世界に二つとない、おあつらえむきの流刑地である。

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現代語訳『海のロマンス』98:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第98回)

ロングウッドの館

Longwood House(source: Public domain, via Wikimedia Commons)

これぞ、まさに八十八年前の秋九月、自然の花や草も野や丘でいたずらに枯れ、流れる水もいたずらに減ってしまった悲しき朝(あした)、今歩いているのが一世を風靡(ふうび)した一代の益荒男(ますらお)を葬送したし道かと思えば、そぞろ身にしみて懐(なつ)かしく、青き丘に、生い茂れる千草(ちぐさ)の間を切り開いて通じた一筋の赤土路が、一世紀の長き月日にわたっていかに多くの階級の人々が足跡をきざんだことであろうと思いめぐらしたとき、数年来このかた感じたことのない思いが怪しくも浮かびだした。

これが、英雄は死してなお人身を支配するということであろう。不世出(ふせいしゅつ)の傑物と呼び、憎むべき悪魔とそしり、毀誉褒貶(きよほうへん)のちまたに今もなお彷徨(ほうこう)しとどまっているナポレオンも、その遺跡(あと)を訪れてみようとするほどのすべての人の心に、これほど絶大にして比類のない深い印象を与えたことを伝え聞いては、破顔一笑(はがんいっしょう)、「だから俺もハドソン・ローエに向かって、ナポレオン帝は永く歴史の花となり、文明国民の光となって、その口にのぼるべきや疑いをいれず云々(うんぬん)と啖呵(たんか)を切ったのさ」と、豪語するかもしれぬ。

精神的にはぼくとまったく別世界に住んでいる案内の老爺(ろうや)の教(おし)えるままに、秋空にくっきりと高くそびゆる二七〇〇フィート(標高八一八メートル)のダイアナス・ピーク(セントヘレナ島の最高峰)を望めば、白い馬尾雲(メイヤーズ・テイル)はしとやかなる高山の呼吸(いぶき)に静かに呑みこまれたり吐き出されたりしている。肌に快(こころよ)い秋風が白く光って通り過ぎた路に、うすら寒い影を落としながら、案内者はいろいろのことを話して聞かせる。遠く右手に見える富貴湾(プロスペラス・ベイ)から上陸した英人が一六七二年に二度目に、いったんオランダ人の手に委(ゆだ)ねたジェーズムタウンを背面攻撃で難なく攻略した物語、孤島に幽閉された不遇の身に自暴自棄(じぼうじき)になったナポレオンは死にたい死にたいと口癖のように言っておったことなど――

路はさらに一度うねって、ささやかな家が二、三軒、チョコナンとたたずんでいるところへ出た。里標(マイルストーン)が一つ立っている。この家と家の路地をつと抜けた案内のローレンス老は、同じ年配の老人と親しげに挨拶(あいさつ)している。その老人はまだ若いときセントヘレナに来たフランスの宣教師で、今は布教をやめて還俗(げんぞく)している先生だと後でわかった。

この抜け道がすなわちまっすぐにロングウッドの館の正門に通ずるのだと知ったときは、いささか意外な感じがした。

蒼(あお)く美しい芝生で縁をとった砂利まじりの路がゆるく右へ右へとカーブして細々となよやかに縮まり、一面に青い絨毯(じゅうたん)を敷いたような軽い勾配(こうばい)の斜面にスラスラと蛇のごとく這(は)い上がっていく路の末が見える。

漆喰(プラスター)塗りの白い建物が東西に長く、南北に短い丁字形(ちょうじけい)をなし、東西に立てる別の一棟と並行して灰色がかった空の下になつかしげに見えている。この美しい斜面を上りつくしたところに形ばかりの小さな粗末な門があって、これを中心として低い生け垣が四方に連なって「館(やかた」」とニューハウス(英国から新しい材木を送って築造したのだが、ナポレオンは移住せず死んでしまった。今は製麻会社の事務所となっている二階家)との境界を区切っている。この生け垣の外に一つの傾きかかった掘っ立て小屋があって、踏みしだいた飼い葉や燃えさしの薪(まき)などが散らばっている上に、自在鉤(じざいかぎ)*がかかって水桶(みずおけ)を片手にした現地の人が二、三人、ひそひそと話をしておった。

* 自在鉤: 鍋や釜などを吊(つ)るせるようにした鉤(かぎ)

毎度のこととて年中行事の一つでもあるごとく、つと無遠慮に入る案内者の後から、くぐるように半ばくずれかけた屋根のない冠木門(かぶきもん)を通ると、路の左側はひねくれた一本の高い松(まつ)の他はもうもうたる雑草の原であるのに対して、右側の庭の一般は見事な花園(かほ)となって、ゼラニウム、ダリヤ、ベツレヘムの星(オーニソガラム、和名オオアマナ)などが、この時期のこの館にふさわしい風姿(ふうし)を見せ、偉人の跡を偲(しの)べとばかり奥ゆかしく咲きにおっている。なかんずく、もう復活祭(イースター)が近づいたためか(三月三十日のことだ)、ところどころイースター・リリーが藤紫色の花弁をしとやかに風にそよがしているのが美しく目についた。花園(かえん)の柵に沿った道の導くままに、吾らは南北に連なる丁字形の家屋の一角翼(ウイング)の端に出て、ささやかなポルチコ*とベランダとを有する部屋へ通る。澤太郎左衛門のいわゆる『前房(ぜんぼう)』といった応接室であろう。三つの窓がうす暗く開いている右側の壁に沿ってかまぼこ形でビロウド張りの机があって、ペンと芳名録とが載せてあった。右側の中程には黒大理石のマントルピースがあった。

* ポルチコ: 屋根のあるポーチ

何気(なにげ)なく次の部屋へ入ろうとして、ふと入口の上に水平に渡された長押(なげし)を見上げると、粗末なラベルに Salon ou mour ut l’empereur (皇帝が逝去されたサロン)とある。すわとばかり、襟(えり)ならで浮き出しかかったカラーをただす。この涙のもようされるほどにお粗末に見ゆる十畳に足らぬ小さな部屋こそ、かの超人ナポレオンが Tete … Armee(武装の頭)なる二語を最後に、雄図むなしく孤島のがいろうに埋められたところである。一面にそっくれ立った、木目の多い、汚い、赤松の粗材(そざい)を用いた床板に落ちる初秋の力なき薄暗い影を見つめていると、いわれなき涙がとめどもなくにじみ出て、恨めししような癪(しゃく)にさわるような苛々(いらいら)した哀感がそこはかとなく胸にあふれた。今更、狭量(きょうりょう)にして無知なる敵愾心(てきがいしん)を悪しざまに乱用した小人物が腹立たしくもまた気の毒になる。

かつてはチュレリーにフホンテネブローに、あるいはマルメイゾン王宮に翠帳(すいちょう)珠簾(じゅれん)の豪奢(ごうしゃ)な生活に飽きし発乱治世(はつらんじせい)の大天才が、かかるいぶれき陋屋(ろうおく)に幽囚(ゆうじゅう)六年の月を眺めしかと慨(がい)すれば、いたずらに成敗を天の命に帰して一切の執着、隠忍を一笑にふしさる宿命論者の消極的の愚(ぐ)を嘲(あざけ)りたくなる。かく観じきたる時、現今(いま)は知らず一世紀前の英国紳士の武士気質(ナイトシップ)――謹厳にして常識的と天下に呼称しおれる――に忌(い)まわしい疑念を差し挟まずにはいられない。

かく心の興奮と、遊子俯仰(ふぎょう)の涙とに熱き目を上げれば、何一つ飾りのない薄寒い部屋の右側に、大理石のマンテルピースにまたがって幅四尺高さ六尺くらいの見事な鏡がある。

右側の壁に開ける、フランス式シャッターのついた二つの窓を通して見える、花美しき前庭と、うら哀しきロングウッドの至景(ちけい)とを一時にその中に映じている。この鏡と対面(むか)って二つの窓の間に薄い木片(きぎれ)の柵に護られ、月桂冠(ローレル)を戴けるナポレオンの半身像(バスト)が安置せられてある。絵で見、事績で想像した顔とはだいぶ勝手が違うようである。どことなく覇気(はき)とか精悍(せいかん)とかいう分子を去勢(きょせい)したような疲れた表情を見せている。それもそのはず、その下に

Buste àapes lel moule (par Chaudet) 型どりした胸像(ショードによる)
Copy from the Cast after death 死後の型からの写し

と英仏二カ国語で二行に分けて書いてあるのを見ると、この石膏像は帝(みかど)が死去した後の顔面の模型(デスマスク)から、ショーデ氏によって直ちに模造せる最も真に近い最も尊いものであることがわかった。

『……たまたまドクトル・ブルトンは石膏のある地脈を吾らに示してくれたれば、海軍少将マルコルムは直ちに命を与えて端艇(ボート)を海に浮かべ、数時間の後、石灰となれる土(つち)五塊(ごかい)を携え来たりたる故に……』と「ナポレオン回想録」に当時の実況を詳しく伝えている。

この部屋――ささやかな十畳敷きの見る影もなき室なれど、なんのとりえもないこのセントヘレナを懐古的、歴史的に世界に膾炙(かいしゃ)せしめている――と、Sallea manger (食堂)と銘うった次の室(へや)との間には小さな衝立があって、その後ろに暗い大きな室(へや)がどうぜんと見いだされる。この食堂はちょうど丁字形の根元に当たるので、これから左右の母屋の各部屋にはprivate(私室)と扉(ドア)に書いてあった。

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現代語訳『海のロマンス』97:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第97回)

ナポレオンの墓

稲妻のようにジグザグに覇王樹(サボテン)の谷を迂回(うかい)し、屈曲した角石(かどいし)だらけの路は、今日を晴れの日だと清浄(きよ)げに身なりを整えた色黒き案内の好々爺(こうこうや)の指さす杖の先にかすんでいる。混然として白い路と青い峰との溶けあうあたりには、ふわふわと巻雲の浮いているのが見える。 続きを読む