現代語訳『海のロマンス』99:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第99回)

ナポレオン臨終の部屋

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ナポレオンのデスマスク(Rama, CC BY-SA 2.0 FR, via Wikimedia Commons)

ド・ラ・カーズ伯の回想録に

『ロングウッドの家は、その入口は新設の室にて、この部屋は前室にもなれば食堂にもなりたり。その隣室は客室、その次には第三の薄暗き室ありて、これは帝(てい)の書類等を入れる部屋たりしが、後にこれを食堂とせり。この部屋に入りて右折すれば、帝の御室(おんしつ)の戸あり。御室(おんしつ)は二間続きにして、広さは等しく、二室いずれもはなはだ狭し。一つを書斎とし他を寝室となせり……。』

とあるもの、および

『帝(てい)は正六時にしてまったく絶命せられた。余(よ)は御髪(みぐし)を剃(そ)り、御骸(おんむくろ)を洗わせて、これを他の寝床に移す……。』(同上)

とあるもの、また

『御遺骸(おんいがい)はこれを寝室に安置し、室内をおおうに黒き羅紗(らしゃ)をもってせり。』

とあるものなどから推測すると、現在は塑像(そぞう)が安置してある部屋(当時は客間に使用されていた)の入口の長押(なげし)にある『皇帝崩御の間』なる銘板に十分な信用を置く以上は、当時ナポレオンが書斎とし寝室とした二間とは、現在はロングウッド駐留のフランス国代理領事兼ロングウッド周辺の土地管理者たるボージェ氏の私室となっている部屋で、ナポレオンはなにか偶然の出来事から客間だったこの翼面(ウイング)の第二室で発病し、そのまま起きることができず寝たきりになったために死後に母屋(おもや)の寝室に移したのか、または初め母屋の寝室で病臥(びょうが)したのを自分の希望で比較的に明るくて風の通りもよい客間に移させたまま、そこで永眠したと推定しなければならない。

食堂の左側半分は一時はモントロン伯一家の住居にあてられたが、後にナポレオンの図書室となり、並列している別棟は回想録の著者ド・ラ・カーズ父子および皇帝の随行者の居室にあてられ、元帥(げんすい)ベルトラン伯一家にはこれより二マイルほど後方に孤立している『仮小屋』が与えられた。

寝室にはナポレオンが常用していた小さな寝台と長椅子とがあり、マントルピースの左右には、孤島における六年もの軟禁生活でナポレオンをして最も力強く執着せしめた最愛の子ローマ王の額がかかり、マントルピースの上には同王の大理石の半身像(バスト)が置かれた。この半身像(バスト)が熱烈なるナポレオンの望郷の念を癒(いや)やすべく、わざわざ四千マイルの大海原を超えてセントヘレナに送られたとき、ことごとく反抗的態度をとった狭量なる小心者のハドソンローエはこれを破砕するよう命じて、ナポレオンから『利害が対立する問題のため彼らの加える圧政はなお耐え忍ぶ。しかれども、清らかで尊ぶべき家族間の愛情の表現をも阻止せんとするはこれを許しがたし』と憤怒(ふんぬ)の一喝(いっかつ)をくったという面白い逸話(いつわ)が伝えられている。

* ローマ王: 皇帝ナポレオン(ボナパルト)とオーストリア出身の皇后マリー・ルイーズの息子。
帝政下ではナポレオン二世とも呼ばれたが、父ナポレオンの死から十一年後、二十一歳で病死した(1811年~1832年)。
ちなみに、ナポレオン三世(ルイ・ナポレオン)はナポレオン・ボナパルトの甥(弟の子)で、二世より三歳年長。

その他ローマ王を抱擁(いだ)ける皇后マリー・ルイーズの肖像画、フレデリック大王使用の銀時計およびナポレオンがイタリアでの戦争で所持していた時計などが飾られてあった。しかし、これらの記念物は一八四〇年にことごとくパリに持ち去られて、今もなおブランテイション・ハウス(セントヘレナ総督官邸)に保存されているものはわずかにピアノ、ビリヤード台、食器棚、タンス、書棚などにすぎないとは、ぼくがジェームズタウン港の写真の裏に花押(シグネチュア)を依頼したとき、フランス領事ボージェ氏が親切に教えてくれた話の一節であった。

元来、ロングウッド館は一七四三年に総督ダムバーが予備糧食庫(よびりょうりょくこ)にあてるために建造した納屋(バーン)であって、後年に改造されて副総督の住居となり、一八一六年以降はナポレオンの寓居(ぐうきょ)となった、疎漏(そろう)きわまれる、間に合わせ的のものであった。

このように元は納屋であったためか、ネズミの類が大繁殖していたるところに侵入し、あるときはまさに着用せんとした帽子の中からネズミが踊り出でてナポレオンを驚かせたこともあったとか。

かてて加えて、安定した穏やかな気候とは言いがたいロングウッド台地の天候は、あるときは強風が吹き、あるときは暴雨にさらされ、あるときは妖霧(ようむ)に包まれるというように、すこぶる不健康なもので、屋外は精神(こころ)をくじく湿潤の瘴気(しょうき)に満ち、屋内ではビンの中にいるようなひどい暑さに苦しませられるという、ずいぶん手数のかかった厄介きわまる僻地(へきち)で、その上に給水も完全ではないときているから、賓客(ひんきゃく)たる世にも怖い囚人をまんまともだえ苦しませて死亡させる意図のある人々にとっては、世界に二つとない、おあつらえむきの流刑地である。

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