オープン・ボート 9

スティーヴン・クレイン

砂浜は遠く離れていて、海面より低く見えた。小さな黒い人影を見分けるには、目をこらして探さなければならなかった。船長が棒きれが浮いているのを見つけたので、そこまでボートを漕ぎよせた。ボートにはなぜかバスタオルが一枚あった。それを棒きれに結びつけて、船長が振った。ボートを漕いでいると振り返って見ることもままならないので、聞いて確かめるしかない。

「あいつ、どうしてる?」

「立ったまま動かない。こっちを見てるんじゃないか……また動いた。家の方に向かってる……また立ち止まった」

「こっちに手でも振ってるかい?」

「いや、もうやってない」

「見ろよ、べつの男がやってきた」

「走ってるぜ」

「よく見ててくれよ」

「なぜか自転車に乗ってる。別の男と話をしてるな。二人ともこっちに手を振ってる。見ろよ!」

「何かビーチにやってきた」

「何だ、ありゃ?」

「ボートみたいだ」

「そう、たしかにボートだ」

「いや、車輪がついてるぜ」

「そうだな。救命ボートじゃない……馬車に乗せて引いてるんだ」

「救命ボートだよ、きっと」

「いや、えーと、あれは、あれは乗合馬車だ」

「救命ボートだよ」

「ちがう。乗合馬車だって。はっきり見える。ほら、あそこにある大きなホテルのどれかの馬車なんだ」

「畜生め、そうだな。馬車だ。乗合馬車で何をしようってんだろう? 救助隊のメンバーでも集めてるのか」

「そうだよ。見ろよ! 小さな黒い旗を振ってるやつがいる。乗合馬車のステップに立ってる。もう二人やってきた。ほら、みんな集まって話をしてるぜ。旗を持ってたやつを見てみろよ。もう旗を振ったりはしていないだろ」

「あれは旗じゃないんじゃないか? やつの上着だ。間違いない、あいつの上着だよ」

「そうだな。上着だ。上着を脱いで顔のまわりで振りまわしてる。振ってるのが見えるだろ」

「そうだな。あそこは海難救助の詰め所じゃなかったんだ。ただの避寒地のリゾートホテルの乗合馬車で、おぼれかかってる俺たちを乗客がたまたま見つけたってところか」

「あのくそったれ野郎、上着で何をしようとしてるんだ? 何か合図でも送ってるつもりか」

「北へ行けっていってるみたいだ。そっちに海難救助の詰め所があるに違いない」

「そうじゃない! あいつは俺たちが釣りをしてるって思ってるんだ。ただ合図してるだけさ。見えるだろう、ほら、ウィリー」

「うーん、あれが何かの合図だったらいいんだが。お前はどう思う?」

「意味なんてないんじゃないか。あいつ、ただ遊んでるだけだ」

「そうだな、もういちど陸に近づけとか、沖に出て待てとか、北とか南へ行けとか伝えようとしてるんだったら、そこには何か理由があるはずだ。だけど、よく見ていると、ぼうっと突っ立って上着を腰のあたりで車輪みたいに振りまわしてるだけの大馬鹿野郎だ」

「人が集まってきてる」

「大勢やってきたな。見ろよ! あれこそボートじゃないか?」

「どこ? ほんとだ、見えた。いや、あれはボートじゃない」

「あの野郎、まだ上着を振りまわしてやがる」

「俺たちが感心して眺めてるとでも思ってるんだろう。いいかげん、やめりゃいいのに。意味なんかないんだし」

「かもしれんが、俺には北へ行けっていってるようにも思えるんだがな。そっちの方に海難救助の詰め所があるんだ」

「おいおい、飽きもせずまだ振ってぜ」

「どんだけ長く振ってられんだよ。俺たちを見つけてからずっと振ってるんだぜ、あいつ。馬鹿じゃねえか。なぜボートを出してくれないんだ、あいつら。ちょっと大きな漁船でここまで来てくれさえすれば一件落着なのに、なんでそうしないんだろ」

「あ、もう大丈夫だ」

「やつら、すぐにボートを出して、ここまで来てくれるさ。今、俺たちのことをじっと見てるからな」

オープン・ボート 8

スティーヴン・クレイン著

そのとき迫ってきた波は、さらにおそろしかった。こういう波はいつだって、小さなボートに襲いかかって泡立つ海に引きづりこもうとする。波が迫ってくるときは、その前から長いうなりのような音がした。海になれていなければ、ボートがこれほど急激に盛り上がってくる波を駆け上がっていけるとは、とうてい思えない。岸までは、まだかなりの距離があった。機関士はこういう磯波にはなれていた。「いいか」と、彼は早口でいった。「このままだとボートはあと三分と持たない。といって岸まで泳ぐには遠すぎる。またボートを沖に戻しませんか、船長?」

「そうだな! そうしよう!」と船長がいった。

機関士は目にもとまらぬ早さでオールを操り、次々に打ち寄せる波間でうまくボートの向きを変え、なんとか沖に引き返した。ボートが水深のある沖まで戻る間、ボートでは沈黙が続いた。やっと一人が暗い調子で口を開いた。「やれやれ。ともかく、これで陸の連中には俺たちが見えたはずだ」

カモメたちは風を受けて斜めに上昇し、灰色の荒涼とした東の方角へと飛んでいった。南東ではスコールが起きていたが、出火した建物から立ち上るどす黒い煙のような雲やレンガ色をした赤い雲でそれとわかった。

「救助隊の連中をどう思う? なんともいかしたやつらじゃないか?」

「俺たちを見てないってのは、どう考えてもおかしいよな」

「たぶん遊びで海に出てるとでも思ってるんだろう! 釣りをしてるとか、とんでもない馬鹿だとでも思ってるだろうよ」

午後は長かった。潮流が変わり、ボートを南に押し流そうとした。が、風と波の方は北へ追いやろうとしていた。前方はるかに海岸線をはさんで海と空が接していた。岸辺には小さな点のようなものがいくつかあったが、それは街の存在を示しているようだった。

「セントオーガスティンかな?」

船長は頭を振った。「モスキート湾に近すぎるよ」

そこで、機関士が漕いだ。それから記者が交代して漕ぎ、また機関士が漕いだ。うんざりするような重労働だった。人間の背中には、分厚い解剖学の本に書いてあるよりもっと多くの痛点があるようだ。背中の広さは限られているが、いたるところで無数の筋肉のせめぎあいやもみあいが生じ、よじれたりからみあったり、なぐさめあったりしている。

「ボートを漕ぐのが好きだったことあるかい、ビリー?」と、記者がきいた。

「いいや」と機関士が答えた。「くそおもしろくもねえよ」

漕ぎ手を交代してボートの舟底で休むときには、極度の疲労感から、指の一本がぴくぴく動くのをのぞけば、すべてのことがどうでもよくなってしまう。舟底では、冷たい海水が揺れ動きながらパシャパシャはねている。そこに横になるのだ。漕ぎ座を枕がわりに頭をもたせかけると、そのすぐ横では波が渦をまいていた。海水がどっとボートに流れ込み、一度ならずびしょ濡れになった。だが、そんなことは気にもならなかった。ボートが転覆してしまえば、巨大な柔らかいマットのような海に投げ出されるのは確実だったからだ。

「見ろ! 岸辺に男がいるぜ!」

「どこだ?」

「あそこだ! 見えるだろ、やつが見えるだろ?」

「見えた。歩いてるな」

「お、立ち止まった。見ろよ! こっちを見てる!」

「俺たちに手を振ってるぜ!」

「たしかに! 間違いない!」

「やった、もう大丈夫だ! もう大丈夫だ! 三十分もあれば、救助のボートがここまでやって来るな」

「あいつ、まだ動いてる。走りだした。あそこの家まで駆けてくつもりなんだ」

オープン・ボート 7

IV

「料理長君」と、船長がいった。「君のいう避難所には、人のいる気配がないようだが」

「そうですね」とコックが答えた。「妙ですね、俺たちのことが見えてないなんて!」

 ボートに乗った男たちの眼前には、低い海岸が広がっていた。上が植物で黒っぽくなった低い砂丘のようだった。波の打ち寄せる轟音がはっきり聞こえたし、ときどき海岸に打ち上がる白い唇のような波頭も見えた。空を背景に、小さな家が一軒、黒い影となって見えていた。南の方には、細い灰色の灯台も見えていた。

潮流に加えて風や波がボートを北に押し流していた。「おかしいな、誰も見てないなんて」と、男たちはつぶやきあった。

ボートに乗っていると、波の音はそれほど明瞭ではなかったが、雷鳴のように力強いものだった。ボートが大きなうねりで持ち上げられると、ボートに座っている男たちにも轟音がはっきり聞こえた。

「こりゃきっと転覆するな」と、誰もが口をそろえた。

公正という点では、ボートのある場所からは、どの方向にも、二十マイル以内に海難救助の詰め所はなかったという事実をここで述べておくべきだろう。が、ボートの男たちはその事実を知らなかったので、国の海難救助に携わっている人々の視力について、口を極めて悪口をいいあった。しかめっ面をしてボートに座り、四人は罵詈雑言の限りをつくした。

「俺たちが見えないって、おかしいだろ」

少し前までの助かったという安心感は完全に消え失せていた。心も辛辣になり、やつらは無能なんだとか、何も見えちゃいないんだ、ひどい臆病者なんだなどと、自分たちがまだ発見されていない理由を次から次に数えあげた。人がたくさん住んでいそうな海岸で、人影がまったく見られないというのは、なんともつらいことだった。

「どうやら」と船長が、やっと口を開いた。「自力でなんとかするしかないようだな。こんなところに浮かんだままで救助を待っていたら、ボートが転覆したときに陸まで泳いでいく体力も奪われてしまう」

それを受けて、オールを手にしていた機関士がボートをまっすく陸に向けた。ふいに全身の筋肉が緊張した。考えるべきことがあるのだった。

「全員が上陸しなかったとしても」と、船長がいった。「全員が上陸できるとはかぎらないが、もし私ができなかったとして、私の最後を誰に連絡すればいいか、君らは知ってるかね?」

彼らは万一のときに必要となる連絡先の住所や伝言について教えあった。彼らには強い怒りがあった。それを言葉で表現すると、おそらく、こういうことだ――万一、自分がおぼれることがあったら、もし俺がおぼれたりしたら――おぼれてしまったら、海を支配している七人の怒れる神の名にかけて、なぜこんなにも長く漂流したあげくに砂浜や木々を見せられているのか? 苦労してここまでやってきて、どうやら助かりそうだとなったところで無慈悲にもその望みを絶つためにここまで生き延びさせたってことなのか? それはおかしい。運命という名の年とった愚かな女神にこんなことしかできないのであれば、人間の運命をもてあそぶ力を剥奪すべきだ。自分が何をしようとしているかも知らない老いたメンドリにすぎないのか。運命の女神が俺をおぼれさせると決めたというのなら、どうして船が沈没したときに殺してくれなかったんだ。そうすれば、こんなきつい目にあわなくてもすんだのに。すべてが……不条理だ。だが、いや、運命の女神だって俺をおぼれさせることなんかできはしない。俺をおぼれ死んだりさせたりはしない。こんなに苦労させられた後で、死ぬなんてありえない」 そうして、天にむかって拳を振り上げたい衝動にもかられた。「俺をおぼれさせてみろ。そしたら、俺がお前を何と呼んでやるか聞きやがれ!」

オープン・ボート 6

スティーヴン・クレイン

こうした理由から、機関士も記者も、このときばかりは漕ぎたくなかった。記者は、正直にいうと、まともな人間で、こういうときにボートを漕ぐのが楽しいと思うようなやつがいるわけないと思った。気晴らしのレジャーではないのだ。ひどい罰を受けているみたいだったし、頭のいかれた天才であっても、これが筋肉に対する拷問ではなく、背中に対する罪悪でもないと断言することはないだろう。ボートを漕ぐのがこんなに楽しいとは思わなかったよ、と記者がボートに乗った連中につぶやくと、疲れ切った機関士がまったく同感だというように苦笑した。船が沈没する前、彼は船の機関室で昼も夜も当番を続けていたのだった。

「まだ無理はするなよ」と、船長がいった。「体力を残しておくんだ。波打ち際まできたら、必死でがんばらなきゃならなくなる――泳ぐ羽目になるだろうからな。のんびりいこう」

陸地が少しずつ海面から高くなってくるのがわかった。黒っぽい一本の線だったものが、黒い線や白い線、樹木や砂浜が見わけられるようになった。とうとう、岸辺に家が見えると船長がいった。「あれが避難所でしょう、きっと」とコックが応じた。「そのうち俺たちを見つけて、救助に来てくれますよ」

遠くに見えていた灯台が建物の背後にそびえていた。「もう灯台守が気づいてるはずだな、ちゃんと望遠鏡で見張っててくれれば」と船長がいった。「救助隊に連絡してくれるだろう」

陸地が徐々に、しかも美しく、登場してきた。また風が強くなった。風向は北東から南東に変化していた。そうして、ついに今まで聞こえなかった音がボートの男たちの耳に聞こえてきた。岸に打ち寄せる、低い雷鳴のような波の音だ。「まっすぐ灯台には向かっていけないだろう」と船長がいった。「ボートを少し北に向けてくれ、ビリー」

「少し北ですね、船長」と機関士が応じた。

小さなボートが船首をまた少し風下の方に向けると、漕ぎ手以外の者は、陸が大きく迫ってくるのを見守っていた。陸がだんだん大きくなってくるにつれて、無事に上陸できるかという疑念や不吉な予感めいたものも、彼らの心から消えていった。ボートを操船するのは相変わらずやっかいだったが、それでも、うれしい気持ちは隠しきれなかった。たぶん、あと一時間もすれば上陸しているはずだ。

男たちは自分の体重を使ってボートのバランスをとるのになれてきていた。今では暴れ馬に乗ってロデオをやってみせるサーカスの男たちのようだった。記者は全身びしょ濡れだと思っていたが、上着のポケットを探ってみると、葉巻が八本見つかった。半分は海水で濡れていたが、残りの四本は無事だ。探すと乾いたマッチも三本見つかった。ボートに乗った四人は、救助が近いことを確信し、目を輝かせて葉巻をくゆらせ、互いの長所や短所を判断しつつ、それぞれ水を一口飲んだ。