サイトの(プチ)リニューアル

過去の海の冒険だけでなく、現在進行中の冒険についても取り上げる予定で以前から準備を続けていましたが、このところの新型コロナウイルスの流行の広がりで中止が相次ぎ、なかなかきびしい状況ですね。

そこで、外観はほとんど変わりませんが、サイトの内容について今後は「海の冒険に関する名著の紹介」と実際に冒険を楽しむための基礎的な知識や技術について取り上げていきます。

サイトのSSL化 (http:// → https://)

セキュリティ強化のため、サイトのSSL化を予定しています。

サイトの URL が https://kaiyoboken.com/ から https://kaiyoboken.com/

に変更になります。

4月13日(月曜)からの予定です。

リンク等に一時的に不具合が生じるかもしれませんが、あしからずご了承ください。

ジャック・ロンドンの処女作 「日本の沖での台風の話」

年の初めということで、ジャック・ロンドンの幻の処女作(初めて活字になった作品)をご紹介します。

『野生の呼び声』や『海の狼』など数多くのベストセラーを書いたアメリカの作家ジャック・ロンドンは、複雑な家庭環境で育ち、家も貧しかったため、小学校は出たものの進学することはできず、缶詰工場で働いたりカキの密漁を行ったりしたあげく、北太平洋でアザラシ漁に従事する遠洋漁船に乗り組みました。このとき、日本の土も踏んでいます。
そのときの体験をエッセイにまとめ、サンフランシスコ・モーニングコール紙のコンテストに応募したのがこの作品で、みごと一等になりました。十七歳のときです。
これが後に時代の寵児ともてはやされることになる作家の、初めて活字になり金を稼いだ作品です。小説ではありませんが、言葉の本当の意味での処女作といってよいでしょう。
ゴールドラッシュの波に乗ってアラスカまで出かけて行ったものの辛酸をなめた経験をもとに描いた『野生の呼び声』がベストセラーになるのは、それから十年後ですが、過酷な自然と人間とのかかわりを描いたもので、将来の人気作家の片鱗を十分に感じさせてくれます。

日本の沖での台風の話

ジャック・ロンドン著
明瀬和弘訳

朝直の四点鍾だから午前六時だった。ちょうど朝食を終えたころ、甲板で当直していた者には停船の準備、他の者は全員、実際に漁猟を行うボートのそばで待機せよという命令があった。

「取り舵! 取り舵いっぱい!」と、航海士が叫んだ。「トップスル、展開! フライングジブ、取りこみ! ジブは風上で裏帆。フォアスル、下ろせ!」 ぼくらの乗ったスクーナー型帆船*1のソフィーサザランド号は日本の北海道・襟裳岬の沖でヒーブツー(停船)した。一八九三年四月十日のことだ。

それから喧噪と混乱があった。六隻のボートに対して十八人の男たちが配置されていた。ボートを吊り下げるためのフックをかける者もいれば、固縛してあるロープをほどく者もいた。操舵手は方位磁石と波よけを持ってきた。漕ぎ手は弁当箱を手にしている。射手は二、三丁の散弾銃、一丁のライフル、それに重い弾薬箱をかつぎ、足元がふらついていた。そうした荷物はすべてすぐにオイルスキン*2や手袋と一緒にボートに収納された。

航海士が最後の号令を発し、ぼくらは出発した。いい猟場を確保するため、三人で三対のオールを漕いで進んだ。ぼくらのボートは風上側にいたので、他のボートより長い距離を漕がなければならなかった。まもなく風下側から順に一番目、二番目、三番目のボートが帆を上げ、追い風を受けて南下するか、横風を受けて西に向かった。母船のスクーナーは散っていくボートの風下へと移動する。万一のトラブルに備えて、ボートが風を受けて母船に戻れるようにするためだ。

美しい朝だったが、ぼくらのボートの操舵手は昇ってくる太陽を眺め、不吉なものを目にしたように頭を振り、予言するようにつぶやいた。「朝焼けか。こりゃ荒れてくるな」 太陽は怒っているように見えたし、斜め後方の明るい「縮れっ毛」のような雲も赤く染まって不気味だった。が、それも間もなく消えた。

ずっと北の方には、襟裳岬が深海から立ち上がった巨大な怪物の恐ろしい頭のように黒い影となって見えていた。まだ溶けきっていない冬の雪が、陽光をあびて白くきらきら輝き、そこから軽風が海の方に向かって吹きおろしてくる。巨大なカモメが羽ばたきしながら海面をバタバタと半マイルほども走り、風を受けてゆっくり上昇していった。バタバタする足音が聞こえなくなるとすぐに、キョウジョシギの群れが飛び立った。ヒューヒューと風切り音を鳴らして風上方向へと飛び去った。そっちの方向ではクジラの大きな群れが遊んでいた。潮を吹く音が蒸気機関の煙を吐く音のように伝わってくる。ツノメドリの鋭く切り裂くような鳴き声が耳をつんざく。ぼくらの前方にいた半ダースほどのアザラシの群れにとってはそれが警告になった。ブリーチングで完全に海面から宙に飛び出したりしながら、アザラシたちは遠ざかっていった。ぼくらの頭上を一羽のカモメがゆっくり大きな円を描いて飛んでいた。母船の船首楼では、故郷の家を思い出させるように、イエスズメが屋根にとまり、おびえたりもせず、頭を一方にかしげて楽しそうにさえずっていた。漁猟用のボートはやがてアザラシの群れに侵入した。バン! バン! 風下の方から銃声が聞こえてくる。

風は少しずつ強くなってきた。午後三時までに、ぼくらのボートは半ダースのアザラシを捕まえた。まだ続けるか戻るか相談していると、本船に戻れという合図の旗がスクーナーのミズンマスト*3に揚がった。風が強くなって気圧も下がり、航海士はボートの安全を懸念したのだろう。

ぼくらはワンポイントリーフ(一段だけ縮帆)し、追い風を受けて戻った。操舵手は歯を食いしばり、舵柄を両手でしっかり握っていた。目には警戒の色が浮かんでいる──波の頂点まで上がると前方にスクーナーが見えた。別の波のときはメインシートが見えた。ぼくらの後方の海面は波立って黒っぽくなっていた。突風かボートを転覆させるような大きな崩れ波が迫っているのだ。波はお祭り騒ぎのようにはしゃいだり踊ったりしながらも高さを維持して次々に迫ってきた。あちらでもこちらでも、いたるところ延々と大きな波が続いていた。緑の海面が脈打つように盛り上がっては、牛乳をこぼしたように白濁した波しぶきをあげて崩れ、他は見えなくなる。だが、それも一瞬のことで、すぐに次の波が出現する。波は太陽から伸びた光の道をたどり、見渡す限り大きい波や小さい波が立ち、溶けた銀のような飛沫やしぶきが飛び散った。濃い緑色だった海は色を失い、まぶしいほどの銀色の洪水となり何も見えなくなった。大しけだ。前方の暗い海面が盛り上がっては砕け落ち、また押し寄せてくる。差しこんでいたきらめく銀の光は太陽とともに姿を消した。西や北西の方からすごい勢いでわき上がった黒雲にさえぎられてしまったのだ。嵐の前ぶれだった。

ぼくらはまもなく母船のスクーナーまでたどり着いた。船に戻ったのは、ぼくらが最後だった。大急ぎでアザラシの皮をはぎ、ボートと甲板を洗い流し、船首楼の船室に降りていって暖をとった。体を拭(ふ)き、服を着替えた。熱い夕食がたっぷり用意されていた。スクーナーは帆を張りっぱなしでアザラシの群れを追い、朝までに七十五海里*4ほども南下していたので、この二日間の狩りで自分たちの居場所もよくわからなくなっていた。

船では午後八時から真夜中までが最初の見張り当番だ。まもなく風はゲール*5ほどにも強くなってきた。航海士は船尾甲板で行きつ戻りつしながら今夜はろくに眠れないだろうと予想していた。トップスルはすぐに下ろして固縛した。フライングジブも下ろしてぐるぐる巻きにした。そのころまでには、うねりもさらに大きくなって、ときどき甲板に波が崩れ落ちては積載したボートに激しくぶつかった。六点鍾(午後十一時)には、全員起きて荒天対策をするよう号令が出た。この作業に八点鍾(深夜十二時)までかかった。深夜当直と交代し、役目から解放された。下の船室に戻ったのはぼくが一番遅かった。スパンカーを巻きとっていたからだ。下の船室では新米の「レンガ積みくん」を除いて全員寝ていた。この新米くんは肺の病気で死にかけていた。海がひどく荒れ、船首楼でもランプの淡い光がちらついたり揺れ動いたりして、黄色のオイルスキンについた水滴に光が当たると黄金のはちみつのように見えた。いたるところで黒い影が駆けまわっていた。船の上方では、棺桶のような船橋のかなたから降下してきた影が甲板から甲板へと走りまわり、洞窟の入口で待ち伏せしているドラゴンのようにも見えた。エレボス*6のような闇だった。たまに一瞬さっと光が差し、スクーナーがいつもよりひどく傾斜しているのが照らしだされたりもした。その光が消えると、それまでよりもっと闇が濃くなり漆黒となった。策具を通り抜ける風がうなりをあげ、列車が鉄橋を渡るときの轟音のようでもあり、浜に寄せる波のようでもあった。波が船首右舷に大きな音をたてて激突し、梁を引き裂かんばかりの勢いで砕け散った。船首楼では木の柱や厚板がバラバラになるんじゃないかと思うほどだった。柱や支柱、隔壁がギーギーときしみ、ミシミシと音を立て、揺れ動く寝床で死にかけている男のうめき声をかき消した。フォアマストが動くたびにマストと甲板ビームがこすれて木の粉が降り注ぎ、その音が荒れ狂う嵐の音に混じって聞こえてくる。海水がちょっとした滝のように船橋や船首楼から流れ落ち、濡れたオイルスキンの継ぎ目から入ってきては床に流れ落ち、船尾の排水口に消えていった。

深夜当直の二点鍾、陸の言葉で言えば午前一時に、船首楼に命令が響いた。「総員甲板に集合。縮帆せよ!」

寝ぼけ眼の船乗り連中は寝床から転がり出て服を着、オイルスキンをはおり、長靴をはいて甲板に出た。こんな命令が出るのは寒くて荒れ狂った嵐の夜だと決まっている。ぼくは顔をゆがめて自分に文句を言う。「ジャックよ、農場を売って船乗りになるなんて狂気の沙汰だったろ?」

風の力を痛感させられるのは甲板にいるときだ。とくに船首楼から出てきた後は身にしみてそれがわかる。風が壁のように立ちふさがり、揺れ動く甲板では動くこともできず、突風に息をすることすらままならない。スクーナーはジブとフォアスル、メインスルだけを張って停船し、漂泊していた。ぼくらは前に進んでフォアスルを下ろし、しっかり縛りつけた。闇夜で、きつい作業だった。嵐の分厚い黒雲が空を覆っているので星も月も見えなかったが、自然の慈悲とでもいうのか、海面の動きに合わせて柔らかい光が発せられていた。強大な波それぞれがすべて、無数の微小生物の発する燐光で輝き、その炎の大洪水にぼくらは圧倒された。波の頂きはますます高く、ますます薄くなり、曲線を描いて高くそびえると、やがて崩れていく。轟音とともに舷墻(げんしょう)*7に落ちてくだけ、柔らかな光の塊と何トンもの海水が船乗りたちをあらゆる方向に押し流し、くぼんだ場所などに残ったものは割れた光の小さな点となって揺れ動いているが、また次の波で押し流され、新しいものと入れ替わっていく。ときどき、いくつかの波が次々に音を立てて船に崩れ落ちてきて舷墻まで水浸しになったが、やがて風下側の排水口から流れ出ていった。

メインスルを縮帆するため、ぼくらは一段リーフしたジブで強風を受けて風下に走らざるを得なかった。その時までには海はとんでもない大荒れになっていたので、もはやヒーブツーすらできる状態ではなかった。ぼくらはゴミや水しぶきの集中砲火をあびながら飛ぶように走った。風は左右に振れ、船尾からの巨大な波に横倒しになりかけたりした。夜が明けてくると、ジブを取りこみ、帆は一枚残らず巻き取った。船はかなり速く流れていたが、船首が波の背に突っこむことはなかった。が、船体中央部では波がくだけて荒れ狂っていた。雨について言えば、降雨はほとんどなかったものの、風が強くて大気には水しぶきが充満し、飛沫が交差した道路を突っ走るように、ナイフで顔を切り裂くように飛び交っているため、百ヤード先も見えなかった。海は暗い鉛色で、長くゆっくりした壮大な巻き波となり、風によって泡が積み重なってできた流体の山のようになった。スクーナーの動きは吐き気をもよおすほど激しかった。山にでも登るように波に当たると船はほとんど行き足を止め、巨大なうねりの頂点に達すると、そこからいきなり左右に傾くのだ。息をのみ、口を開けている断崖におびえたように、一瞬、動きをとめる。それから、いきなり雪崩のように前方に滑り落ちていく。波の背で千個もの破壊槌で打ち砕かれるような衝撃を受け、船首の揚錨架は白濁した泡の海に突っこみ、海水が錨鎖孔を通ったり手すりを乗りこえたりして、あらゆる方向から──前方からも後方からも、右からも左からも甲板に流れこんでくる。

風が落ち始めた。十時までには、船をまたヒーブツーに戻そうかというまでになった。一隻の汽船、二隻のスクーナー、最小限の帆だけ張った四本マストのバーケンティン型帆船*8とすれ違い、十一時には、スパンカーとジブを揚げてヒーブツーした。さらに一時間もすると、はるか西のアザラシの猟場に戻るため、全帆を展開し、風上へと向かった。

甲板下の船室では、二人の男が「レンガ積みくん」の体を布で包んで縫っていた。水葬の準備である。嵐とともに「レンガ積みくん」の魂も消え去った。

<了>

脚注

*1:スクーナー型帆船 - 二本以上のマストを持ち、後方のマストが前側のマストと同じかそれより高いタイプの縦帆を持つ帆船。
schooner-stamp
これは漁船ではないが、カナダの50セント切手に描かれたスクーナー(ブルーノーズ号)。

*2:オイルスキン - いわゆるカッパのこと。布地に油を塗って防水性を高めたことから、特に海で使われるカッパはいまでもこう呼ばれることがある。

*3:ミズンマスト - メインマストの後ろ側にあるマスト。

*4:七十五海里 - 約140キロメートル(1海里は1,852m)。

*5:ゲール - 風力は風速に応じて階級化されており、現在でも、約二百年前に提唱されたビューフォート風力階級がほぼそのまま使われている(気象庁の風力階級も同じ)。ゲール(疾強風)は風速17.2m~20.7m。むろん、この作品ではそれほど厳密な意味で使われてはいないが、気象庁の台風の基準が風速17mなので、どれくらいの風なのかを知る目安にはなる。

*6:エレボス - ギリシャ神話の地下の闇を意味する原初の神。

*7:舷墻 - ブルワーク。舷側の波よけ/転落防止用の低い柵のようなもの。

*8:バーケンティン型帆船 - マストが三本以上の大型帆船で、フォアマストに横帆を落ち、他のマストには縦帆を持つ。横帆はごく単純化すると日本の千石船のような横向きの帆桁をつけた四角形の帆で、縦帆はいわゆるヨットの三角形の帆のように前縁を固定したもの。

帆船用語について

点鍾は船の当直(ワッチ)で時間を知らせるために鳴らされる鐘。時代や地域によって異なる場合があるが、一般には、一回の当直が四時間続き、鐘は三十分毎に鳴らされる。
この鐘(時鐘、タイムベル)は、一点鍾(カーン)、二点鍾(カンカーン)から八点鍾(カンカーンを四回)まであり、四時間ごとに繰り返される。
ファーストワッチ(初夜直、午後八時~午後十二時)、ミドルワッチ(夜半直、零時~午後四時)、モーニングワッチ(朝直、午前四時~午前八時)、、、と続いていくので、単に四点鍾というだけでは、前後の文脈がわからないと午後十時なのか、午前二時なのか、午前六時なのかは決まらない。

ヒーブツーとは船を止めることを意味するが、帆船やヨットの荒天対策としては最も確実で一般的な方法でもある。
具体的には、マストより前の帆(ジブ)を風上側に張って(裏帆にして)前進する力を止める。船は風に対して斜め前を向いた格好で停船し、ゆっくり風下に流れていく。
ヨットではちょうどタッキングでジブを返すのが早すぎて失敗し船足が止まった状態で、メインセールから風を抜き、舵を風下側に切っておく。風上に向かっているときはすぐにその状態に入れるが、帆船ではマストや帆の数も多く、艤装も多岐にわたるため、縮帆や荒天対策の手順や方法もバリエーションが多い。
風力がさらに強くなると、ヒーブツーでは対処できなくなる。
その段階になると、すべての帆を下ろして漂泊するか、マストなどに当たる風だけか、小さな帆だけを揚げて風下に走ることになる。

時代背景

ゼニガタアザラシのウォッチングが北海道の観光資源になっているくらいで、襟裳岬はこの海域では有数のアザラシの生息地として知られる。
二十一世紀の現代では、捕鯨やアザラシ漁は資源保護や動物保護の観点から批判されることが多いが、当時はアメリカやカナダの重要な産業の一つでもあった。

将来の遊技の一大科(2) 幸田露伴

将来の遊技の一大科 (2)
『蝸牛庵夜譚』所収

 幸田露伴
幸田露伴(1867年~1947年) 明治を代表する文豪。代表作に『五重塔』『天うつ浪』など。
 夏目漱石と同世代だが、文語体の作品や江戸、中国についての博覧強記な随筆などのためか、それより古いタイプの書斎人という印象があるが、釣りなどアウトドア好きの一面も。千島列島の探検・開発で知られる探検家・郡司成忠は露伴の実兄。この随筆は明治40年刊行の『蝸牛庵夜譚』所収。  

 

水上生活の愉快

いかなる富豪でも陸上においては移動しうる大邸宅を有することはできない。実に善美の別荘でも、造花の手で按配(あんばい)せられる四季の変化を除いては、小山(こやま)一つ小流(こながれ)一つを変化せしむることもまず難(かた)い。

で、その高楼から見る景色はいつも同様で、その窓から見る青山白水(せいざんはくすい)はいつも同じ青山白水である。そこで景色の好い方に面した窓を平常は閉じておいたというような面白い心がけの人でない平凡の人であってみると、いくら好い風景のところに家(いえ)しても、三日目には鼻につき、五日目、六日目には感じなくなってしまって、せっかくの別荘にもただちに厭(あ)いてしまうのが常である。財力の非常に豊かなものはその結果として四ヶ所にも五ヶ所にも邸宅を構えるようになり、それまでに及ばぬ者は好風景の地にいながら、窓も明けずに花合(あわ)せ友達と花牌(かるた)遊びをするというようになる。

この海岸線の多い日本に住み、かつは平穏な内海を前にした首都に住んでいながら、変化無尽(むじん)なる景色の中に移動しうる邸宅を構えるもののないのは実に愚かなことではあるまいか。いや愚かなわけではないが、先例のないことには誰しも手を出しかねるもので、ひっきょう水上生活の面白さを解(かい)せぬからのことである。

が、想像してもわかることで、百数十トンから以上の船の広さは、陸上の家屋にしてみてもかなりの大きさである。数百トンの船にしてみればなかなかのものである。好みによってはなお大なるものもよろしい。

それらのヨットを好み通りに建造して、そのサルーンを自己の趣味に従って装飾し、家族や朋友(ほうゆう)と共にこれに乗じて、あるいは海上遠くも去り、あるいは陸地近くも来たり、または北方の障壁断巌(しょうへきだんがん)の凄(すさま)じい景色の地、または南方の砂浜松洲(さひんしょうしゅう)の明媚(めいび)な景色の地、いずこなりともわが好むところの地に船を繋(つな)ぎ、花に月に夏に冬に賞覧(しょうらん)をほしいままにし、時には長風(ちょうふう)に賀(が)して朝鮮半島、中国、ロシア、南洋(なんよう)アメリカないし諸外国へまでも駛走(しそう)したらば、実に雄壮の趣味も優美の趣味もただこの一隻船(いっせきせん)によりて愉快に味わいうることではないか。

しかもサリヴァンの記(しる)するところによれば、ヨットを競走の目的でなく、単に愉快のために使用するにおいては、さのみ費用をも要せないで、百トンから二百トン位の船では幾許(いくばく)も要せぬようである。同人が記(しる)しているには、陸上の生活は贅沢な仲間であれば一週間に宿屋の費用が三十ポンドから四十ポンドあるいは五十ポンドくらいは容易にかかる。けれどもヨットの方はその半額で三、四ヶ月間、百トンあるいは百五十トンの船で遊ばれて、そのうちに水夫などの賃銭や、船具の破損料、食物など一切を含んでいる、とある。

その言の当否は予(よ)には判断しかねるが、けだし費用をかけるかけぬは、陸上で加減するよりよほど自由にゆくらしい。よしや反対に少々高価であるとしたところで、陸上では、たまたま別荘を構えれば、隣家にあまり感心せぬ者が住んでいて不快を与えてくれたり、村人の好遇を受けなかったり、いかんともなしがたい種々のことに遭遇して困却することがありがちのものであるが、ヨットであればすべて不快の箇所には遠ざかり、わが好む所にのみ居(お)るをうるの便があるのだから、むしろ高価でも忍ぶべきである。いわんやまた海上生活が肺病(はいびょう)や気管支病(きかんしびょう)や咽喉病(いんこうびょう)や喘息(ぜんそく)やなんぞに対して自然の薬剤たることは、とても温泉やなんぞの比でないにおいてをやだ。

荒潮(あらしお)に洗われて差し出(いず)る初日、浪の果てに沈む弦月(げんげつ)、あるいは高華(こうか)あるいは清冷(せいれい)、これらの景色はなにほど怯懦(きょうだ)の人や煩悶(はんもん)の人をして自然の大なる教えに浴せしむるを得るだろう。実にあにただ愉快とのみいはんやである。
遠航の愉快
新しい刺激は新しい知識と新しい興感(きょうかん)とを生ずる。この点において外国にまでの遠航は実に人の智を広め肝を壮(さかん)にし感興を新鮮にする。特にヨットに乗じて世界を周遊(しゅうゆう)するなどということになれば、その一船に招致しえた学者や才人や美術家やの知識と技芸の分量とに応じて、世界の種々の価値あるものを吸収したり批評したり消化したりして、直接には興味深く一切の事物に触接(しょくせつ)し、間接には学芸に何物をか貢献寄与することになる。

これらはヨットの本旨(ほんし)の方から言えばむしろ副産物的の結果であるが、決して軽視することのできぬことである。ヨットの本然(ほんねん)から言えば、八方の風を駆使して五大洋をわが馬場のごとくにみなすところに興味があるのであるが、副産物もまた小なるものではない。公務に服する軍艦ではなし、実利を主とする商船ではなし、純粋に遊戯のために万里(ばんり)を往来するというのは、馬鹿げているようではあるが実に尊ぶべきで、そしてその副産物も侮(あなど)るべきではないから、英国政府がヨットに対してはまったく免税し、かつまた軍艦あらざる時は公用浮標に緊纜(けいらん)しうるの権利を与え、また軍艦は入港し来たれる外国のヨットに対して時辰儀(じしんぎ)の差を教え正す等の便宜(べんぎ)を与うるを慣例とするごときことも生じたのであろう。何故となればヨットの乗者は実にその品格において高級を占むべき人士(じんし)なること自明の道理であるからである。

遊戯である、遊戯である、実にただ遊戯である。しかしながら他のいくたの遊戯のごとく不純不美(ふじゅんふび)であったり、または厭(いと)はしい副産物を多く有している遊戯でない。日月(じつげつ)や星辰(せいしん)や雨露(うろ)や霜雪(そうせつ)や、一切の自然に親炙(しんしや)して、そして大海の水の懐(ふところ)に抱かれて大空の風の手に擁せられて遊ぶ遊戯である。ブラッセイ卿がその高名なるサンビーム号その他のヨットに乗じて、遊戯とはいえ千八百五十四年より千八百九十三年までの間において二十二万八千六百八十二海里を悠然航走せるがごときは、実にヨットの遊びの中には無経験者の想到(そうとう)せざる幽趣妙処(ゆうしゅみょうしよ)の人を引きつくるものあるがためであることを思わしめるではないか。
競走の愉快

ありてい言えば予(よ)は競走ということについてあまり多く好まぬ故に、ヨットレースについてはむしろあまり多く言うを好まない。しかしヨットを談じて競走を談じなければ、全然無意味になってしまう。ヨットの競走の妙はけだし一新機軸を出(いだ)したヨット、もしくは大改良を施したるヨットを率いて相戦(あいたたか)うにあるので、他の腕力脚力等の比較、もしくは人間のなんらかの動物的精力の比較に勝負を決するところの、やや愚劣なる競争や競走とは異なっている。

で、千八百七十五年にヨットレース協会ができ、ヨットレースの規則ができてから大(おお)いに一切は整頓して、英国はいうに及ばず米国、ドイツでも各々競走に熱することひと通りではない。むろん小競走は各地にもあるが、大競走は国と国との間にも起こる。すなわち世界的なのである。

ヨットレースの賞杯の歴史はすなわち世界のヨッティングの歴史といってもよかろう。わが国なんぞからも参加するがよいのである。ドイツ皇帝がそのメテオルに乗じてシャツ一枚でメインシートを引っ張ったり、英国皇帝がウェールズ親王時代においてしばしばブリタニヤに乗御(じょうぎよ)せられたことは誰も知っている事実であるが、わが国の貴公子にもやがてあるいはそういう人も生ずるであろう。

英国のヨットの数は純帆船二千二百余艘(そう)にして計六万四千余トン、汽機(きき)を具(ぐ)せるもの七百艘(そう)にして計六万八千余トン、すなわち総計十三万余トンにして、なお小ヨット三千隻はこの算計に包含しないといえば、その盛んなこと、実に驚くべきで、ああさすがに皇帝国たる英国であると思われる。

古い遊戯はもう復興せずともだ。かくのごとき遊戯はあるいは将(まさ)に起こらんとするではなかろうか。予(よ)はわが国の位置から考えてもまさに起こすべき遊戯だと思う。猪牙(ちょき)や屋根船(やねぶね)や屋形船(やかたぶね)や御座船(ござぶね)の時代は過ぎた。横浜から伊豆の大島までの逆風競走が挙行されるなどという新聞紙の記事は、けだし遠からずして世に現われるようになるだろう。                     <了>

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『蝸牛庵夜譚』は1907年刊行。
 底本: 春陽堂版『明治大正文學全集』第六巻。
 旧字体の漢字、旧仮名遣いは新字体、現代仮名づかいに改め、漢字の読みはルビではなく (読み) の形で直後につけ加えてあります。
また、現代の読者の便宜を考慮し、句読点、改行なども必要とみなされる範囲で適宜修正してあります。

将来の遊技の一大科(1) 幸田露伴

将来の遊技の一大科 (1)
『蝸牛庵夜譚』所収

 幸田露伴

幸田露伴(1867年~1947年) 明治を代表する文豪。代表作に『五重塔』『天うつ浪』など。
 夏目漱石と同世代だが、文語体の作品や江戸、中国についての博覧強記な随筆などのためか、それより古いタイプの書斎人という印象があるが、釣りなどアウトドア好きの一面も。千島列島の探検・開発で知られる探検家・郡司成忠は露伴の実兄。この随筆は明治40年刊行の『蝸牛庵夜譚』所収。  

 

明治はわが国の一切の事情に一大横線を画した観があるが、遊技(ゆうぎ)においてもまた実にその通りである。明治以前、すなわち徳川氏時代の遊技は明治において次第々々にその優美な姿を隠して、ようやく世と相遠(あいとお)ざかってゆくものが少なくない。その一方にはまた徳川氏時代においてはいまだ産声をあげなかった新しい遊技が今日ようやくその快活な風采を現わしだしているのが、実に現在の状態ではないか。

楊弓(ようきゅう)は真に美術的の遊技であった。蓬矢抄(ほうししょう)のような書を読み、またその今なおまれに存在している桑(くわ)や紫檀(したん)やの美材が金銀その他の貴金属によって装(よそお)い作られた良工苦心(りょうこうくしん)の痕(あと)の明らかな弓を熟視し、その乾定(かんてい)して歪反(はいはん)せざるを賞するよりして、いくたの書籍の版木を犠牲として造られた桜の木の幹に、角筈(つのはず)や牙筈(けはず)と精良(せいりょう)の細工の鉄族(てつぞく)との取りつけられて、そして朱鷺(とき)その他の麗(うるわ)しい羽の矧(は)がれた箭(や)を熟視し、かつまた同じ時代の浮世絵画家等がその遊技を試みおる美女美男等の状(ありさま)を描いた画図等を見れば、われらは前代の遊技もまたはなはだ愛尚(あいしょう)すべきものであることを感じる。

しかし、その遊技は今どうである! いわゆる楊弓場(ようきゅうば)の感心しがたい情状のみがわずかに残存していたのもすでに古いことで、今は誰がまた楊弓の箭(や)の鏃(やじり)の頭が平らかであるか尖っているか知っていよう! いわゆる矢場の姉様(ねえさん)という語さえもクラシックになりかかっているくらいである。すなわち楊弓は隠れたのである。

蹴鞠(けまり)はもとより賤庶(せんしよ)の遊技ではなかった。けれどもその貴紳富豪(きしんふごう)の間に行われたことは、いかに多く画題や談柄(だんぺい)になっているかに徴(ちょう)しても明らかである。上代の高雅な装束や、鈍い安らかな曲線をなした沓(くつ)や、見るからが上品でこせつかぬ大きな鞠(まり)や、四本懸(よんほんがかり)の鞠坪(まりつぼ)や、今日その物を見たりその画を見たりしてもわれらはその優美な光景を想像して愛すべきを覚える。が、その愛すべき遊技は早く世人と相隔(あいへだ)ってしまって、今の若いものは誰かまた鞠垣(まりがき)の高い低いを明らかに覚えていよう!

狩衣(かりぎぬ)に綾蘭笠(あやいがさ)、弓寵手(ゆごて)行縢(むかばき)といういでたちの流鏑馬(やぶさめ)や、あるいはまた笠懸(かさがけ)や犬追物(いぬおうもの)などの式張(しきば)った競射や、それでなくとも競射や賭弓(かけゆみ)や、貴族的のにせよ平民的のにせよ、それらは皆いづれも勇(いさ)みのある面白い遊びであることは想像するに容易であるが、それらの射術(しゃじゅつ)騎術(きじゅつ)に関した遊びも、また現在においては、わずかに告朔(こくさく)の気羊的(きようてき)に存在しているのみで、時に催さるる競射会もさのみ盛んではないようである。

その他折端(おりは)の双六(すごろく)であれ、投扇興(とうせんきょう)であれ、単に遊びというのでもないが香道茶道というがごときものであれ、いづれも皆あるいは既にまったく滅び、あるいはようやく衰へゆくの勢いを現わしている。昔の遊戯でいまなお盛行(せいこう)しているのはわずかに囲碁、将棋、謡(うたい)などくらいのものである。

かくのごとくに徳川氏時代と明治とはその遊戯の上にも一線を画された観がある。で、新たに起こってきた遊技、すなわち球つきであるとか、端艇(ボート)競漕(きょうそう)であるとか、フートボールその他の球戯であるとか、単に遊戯というでもないが、自転車であるとかいうようなものが、次第々々に前代の遊戯の占めていた椅子の空位を占めて、明治の代(よ)の遊技の主なるものとなってきたのが現在の有様(ありさま)で、椅子の空位はまだ沢山に残っているし、そこで色々の新しい遊技が悠然と歩いて来てその椅子に着(つ)かんとするのもまた現在の有様(ありさま)である。

この時に際してヨットの遊びは確かに新たに起こるべき遊びで、また実に明治の士人(しじん)の手で興(おこ)すべき遊びであろう。

遊びも多い。楽しみの種類も多い。しかしヨッティングほど高尚で、優美で、壮快で、社会的でかつ超世的な面白いものがまた二つあろうか。おそらく二つはあるまいと予(よ)は想像する。高楼(こうろう)に置酒(ちしゅ)して巧笑(こうしょう)愁(うれい)を解(と)くに足り美目(びもく)情を悦ばすべき麗人(れいじん)を侍座(じざ)せしめ、粉陣(ふんじん)香囲(こうい)歌声(かせい)舞影(ぶえい)の裏に夜光の杯を挙ぐるのは、それはなるほど豪興群小(ごうきょぐんしょう)に誇るべくもあろう。しかし、要するに鄙俗(ひぞく)であるを免れない。どうも高尚とはいいかねる。

黒白(こくびゃく)の石子(いし)に一面の盤、疑神枯座(ぎょうしんこざ)して手談の楽みにふけっているのは、いかにも仙趣があって実に高尚である。しかしそれは智を熾 (さかん)にして物を忘るるの戯(たわむれ)で、必ずしも心を喜ばしめ情につちかう楽 しみではない。音楽を聞き演劇を見ることは高尚でもある優美でもある。しかし、いかに弁護者が弁護し、建築家が建築しても、盆の内の炒豆(いりまめ)の一個のような姿になって群衆中に視聴しつつ、ありがたからぬ空気を呑吐(どんと)することは、せっかくの高興を大いに減殺するし、かつまたたとえその楽譜は勇壮にその脚本は痛快なるものにせよ、要するにこれらの娯楽は壮快の娯楽とは決して言えぬのである。

端艇(ボート)競漕(きょうそう)や、競馬や、銃猟やは壮快ではある。ただし、あるものはいささか優美を欠き、あるものは高尚を欠き、かっすべて超世的でなく、これを嗜(たしな)む人の如何(いかん)によっては、ややもすれば修羅的になる傾(かたむ)きがある。釣魚(つり)は非常に複雑な多種多面の好遊技で、かつは超世的であるともいえるが、どうも幽静寂寞(ゆうせいせきばく)を恐るる人や、早急な人のあずかるあたわざる遊びで、かつ必ずしも非社交的ではないけれども、要するに非社交的になる傾きがある。

いや、予(よ)はヨッティングを掲(かか)げんがために他の遊技を抑えんとしたのではない、他の遊技とヨッティングとの差違を明らかにしようとしたのである。遊びも多い。楽しみの種類も多い。しかしヨッティングのように多趣味多方面で、そして社会の各部に関連接触する点の多い、しかも遊技の徳を円満に具有(ぐゆう)しているものはあまりあるまい。実に娯楽の王といってもよかろう。

ただし、強(し)いてその欠点を挙ぐれば、そのやや貴族的富豪的であって、民庶(みんしょ)に佳趣(かしゅ)を供給することの易(やす)からざる一段である。誠に「遊技娯楽の平民的ならざることは、その遊戯娯楽の大なる欠点」と言わざるをえないことであるが、しかしヨッティングも五レーターとか三レーターとか二分の一レーターとかいうような小艇の嗜好(しこう)が起こるに及んで、単に貴族や豪家のみの娯楽といふのでなく、かつは有髯者(ゆうぜんしゃ)のみの娯楽というのでもなく、最上級ならぬ人も、または婦人も、同じ遊技にたづさわるようになって、それらの小帆船、すなわちいわゆる海燕(うみつばめ)がカルショット城付近に群翔する碧瀾(へきらん)雪帆(せつはん)の好光景は実に天下の美観であるとまで人をして言わせるようになっているのが英国の実状であるに徴すれば、ヨッティングに対する唯一の非難さえすでにいくぶんか軽減されているのである。いよいよヨッティングは称揚すべき遊(あそび)である。

遊船構造設計の愉快

世界は人間の理想および理想を実現せんと努める不屈の勢力の発露(はつろ)によって進歩しているのである。ヨッティングは単に快走ということを目的としているので、その目的にかなわんがためには、種々の条件、すなわち構造の費用の多寡(たか)だの、積載する数量の大小だのということを犠牲にして顧みない。で、その点においては世の実用を主としている軍艦や商船の設計とは非常に相違があって、ヨットの船形の案出は、実に船舶の駛走(しそう)という点においては最大自由の境界(きょうがい)にあって人間の理想を最高度に実現せしめうるものである。

すべて何事によらず理想の実現ということは人生においての高級快楽であることは言をまたぬことで、いかなる微小の理想でも、これを実現しえた時、あるいはまさに実現しえんとする時の愉快は、五官に対する欲求の満足をえたときなどの愉快とは比較にもならぬほど大きくて、かつ高いものであるのは、何人も異論のない、換言すれば、ほとんど人間というものはその愉快に憧(あこが)れて営々として生活していると言ってもよいくらいである。そしてまた世界はその愉快を味わんとする人、もしくは味える人のために進歩しているので、汽車汽船であれ電話電信であれ写真であれ写声機であれ印刷機であれ爆発薬であれ、皆その実例である。

故に遊戯の一にして、もしも不正でない理想の実現に努むるものがあったら、その遊戯の性質ははなはだ高尚で、そしてまたその遊戯の効果、(遊戯そのものからいえば副産物であるが)ははなはだ洪大(こうだい)なるものであるとして十二分に尊敬してよい。競馬も実は一の遊戯である。しかし勝負の予想に対して金銭を賭(と)したり、あるいは自ら鞍上(あんじょう)に叱咤(しった)したりするような、賤(いや)しい、もしくは低い愉快を超越してしまって、おのずから理想的の駿馬(しゅんめ)を得ようとする上において焦慮苦心(しょうりょくしん)をするに至ったならば、たとえその人自身が飼料を与えたり、四下(すそ)を仕(し)たりせぬまでも、その人の愉快とするところの趣味ははなはだ高尚で、そしてその効果は階級こそあるだろうが世を益するに疑いないことである。

で、競馬は実に馬匹(ばひつ)を改良する上に大なる力があるという一大事実にも到着するのである。ヨットレースもその通りで、いかにもして快走の目的を十分に達しようという希望からして、種々様々の構造設計が案出され改補され、そして次第々々に最良最好の船形が世間に指示(しじ)発現(はつげん)さるるに至ったのである。水に没する船腹の形が描く曲線といえばそれまでのことではあるが、最も抵抗の少く最も滑らかに水を切って行く曲線の一個の式の価値は、いかに深遠(しんえん)洪大(こうだい)なものであろう! してまたその一曲線が得らるるまでには、いかに良工の苦心によって忠実精美な苦労と思慮が費やされたことであろう!

ワットソンの近代競走遊船(ゆうせん)の進化といえる一篇(いっぺん)を瞥見(べっけん)して、ヨットレースの歴史の初歩の船の形から、名高いブリタニヤだのメテオルだのその他の船に至るまでの種々様々の、あるいは深く、あるいは浅い各船の形を見れば、まったく船舶のことに関して知識のないわれらでさえ、いかに多くの聡明(そうめい)俊敏(しゅんびん)の人々の尊い知識や技術や堅確(けんかく)の意識や優美の趣味やが相合(あいがっ)して働いて、そして今日に至ったかを想像せずにはいられない。

かくのごとくして世は進歩し、古昔(こせき)無智(むち)時代の画家が、船の速力の大なることを現わさんがために船首に白浪の騒(さわ)げるさまを描いたのは既に過去の夢となってしまって、十二分に巧みに水の抵抗を少くするに足る美(うる)わしい曲線をもって造られたる船の舷端(げんたん)には、いわゆる水夫の経帷子(きょうかたびら)のような白浪は無益に立たぬようになってきたから、詩にしても、行船(ゆくふね)の舳浪(へなみ)騒ぎて、などと歌ったら、もはや船の速力は大きくなくて、そして却って非合理的の拙設計(せつせっけい)になった野蛮船であることを現わすようになってきた。

しかし今日でもこのうえ進歩の余地がないというに至ったのではないから、良いが上にも良かれと希望して、理想的の快走船を得んとし、たとえみずからコンパスや鉛筆を用いて設計せぬまでも、知識ある人の知識を使い、技術ある人の技術を用いて、自分の意識の下に新形式のヨットを建造し出そうとしたらば、必らずしも名高いヴァルキリーやナヴァホーをはるかに凌駕するものもできぬとは限るまい。よしやそうまではゆかぬとしても、もし有力者があってそういうことを敢えてしてみたら、その人の享受する快楽はかの万金(ばんきん)を持って宝玉(ほうぎょく)や骨董品(こっとうひん)を購(あがな)うがごとき低微(ていび)なものでなくって、実に趣味の高い、かつは世に対して貢献するところの効果のある高級娯楽であることをその人自身に発見するであろうと信ずる。

[(2)に続く]

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『蝸牛庵夜譚』は1907年刊行。
 底本: 春陽堂版『明治大正文學全集』第六巻。
 旧字体の漢字、旧仮名遣いは新字体、現代仮名づかいに改め、漢字の読みはルビではなく(読み)の形で直後につけ加えてあります。
また、現代の読者の便宜を考慮し、句読点、改行なども必要とみなされる範囲で適宜修正してあります。