現代語訳『海のロマンス』157:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第157回)

微笑(ほほえ)みて泣く

その後、四日ぐらいの間隔で汽走と帆走とを交互に用いて、十五ヶ月の間、眠って夢を見ている間も忘れることのできなかった日本の海近く進んできた練習船は、十日の午後四時、最後の汽走に移った。

八日に校長から「諸員の辛苦(しんく)と勤労(きんろう)とを感謝す。健康の回復は最も喜ばし」との祝電を受けた頃から、人々の心は喜ばしいような、忙(いそが)しいような、泣きたいような、むやみと軽い心になって、ただもう小児(こども)のように、いくつ寝たら紫(むささき)匂(にお)う江戸の海へ入るだろうかと指折り数えてばかりいた。

各部屋では、ひげ面の大男が、鹿(か)の子やリンゴを賭(か)けて、館山(たてやま)に到着する日を当てようと一生懸命になっている。 続きを読む

現代語訳『海のロマンス』156:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第156回)

十、南洋の思い出

九月二十二日にコーリング・ワーフに横着けし、きたるべき大汽走航海の準備として約二〇〇トンの石炭を積みこんだ練習船は、九月二十四日の満潮時に、この紫山緑水(しざんりょくすい)の美島(びとう)を辞(じ)した。

午後四時ともなれば、きまったように必ず青く茂った山から吹き下ろしてくる涼しい陸軟風(りくなんぷう)、豊かな広々とした湾水(わんすい)を美しく染めるしんみりした暖かい港の灯(ともしび)や、馬車の燈(あかり)など、アンボイナのなつかしい情趣的印象。

のみならず、「南洋の島」の回想には、いろいろの面白い滑稽(こっけい)なことがある。

ビマで古シャツ一枚と刀一本、手ぬぐい一本と槍(やり)一筋(ひとすじ)などという値段で物々交換をした翌日、上陸してみると、今までの黒い裸体の上に、きれいさっぱりと洗い流した上着やシャツを得意気(とくいげ)に、羽織(はお)ったにわかこしらえの「文明人」が威風堂々と小さな草葺(くさぶ)きの家から出てくる。当人のつもりでは、スンバワ島第一のハイカラ、第一の先覚者をもって任じているらしい。明治初年に、ネクタイもつけずフロックコートを着て威張っていた大臣(だいじん)や参議(さんぎ)の連中と同工異曲(どうこういきょく)の、得意満面の心持ちでいるのだろう。 続きを読む

現代語訳『海のロマンス』155:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第155回)

八、大瀑布(バテガンドン)

こんな話を道連れになった島に住んでいる日本人の口から聞きながら、足はいつのまにやらシダ類が密生し繁茂(はんも)している、けわしい山道に入っている。今日はバテガンドン――アンボイナ市街の南西方向にある、谷間にあるという瀑布(ばくふ)――つまり、滝を見に行こうというので、友と二人して船から上がってきたのだ。

ココアやデイントパームやロイヤルパーム、芭蕉(ばしょう)などが、暑い熱帯の直射光線をさえぎって、清水が音を立てて流れている渓流の面(おも)から吹き上がってくる涼しい風が、汗ばんだ帽子のつばの下を気持ちよく吹いて通る。

瀑布(バテカンドン)は巨人の大きな斧で断ち割ったような岸壁の間から、冷たい清冽(せいれつ)な水が落ちるところにあった。 続きを読む

現代語訳『海のロマンス』154:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第154回)

美港アンボイナ

豊果(ほうか)の王として世界に名高きマンゴステンと、山紫月明(さんしげつめい)の涼夜(りょうや)をもって、世にうたわれているアンボイナ港は、山影(やまかげ)蒼(あお)く、静かなる天然の良港である。

常に気ぜわしい心を抱いて、泊地から港へと忙(せわ)しい思いをはせるのが船乗りの生活である。

九月七日、ビマに投錨した練習船は、同九日午後にはすでにアンボイナへと向かう途上にあった。そして、十五日午前二時、つまり真夜中に、ここ南洋の美港アンボイナの静かな夜の空気を揺るがして、その深い蒼(あお)い湾(うみ)に重い錨(いかり)を投げた。

アンボイナは港湾としての価値からみても、景観をめぐる嗜好(しこう)からみても、実に申し分のない好い港である。適当な広さの港口(こうこう)、錨地(びょうち)(陸岸から一町ばかり)において平均七十尺(約二十メートル)にあまる深さを有するその水深、疾風(ゲール)や怒涛(どとう)を決して経験することのない、その地理的位置。これらはすべて、前者、つまり港湾としての価値を満足させる好条件である。 続きを読む

現代語訳『海のロマンス』153:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第153回)

三、シャンペイ

練習船は遠浅の海を、抜き足差し足、こわごわと探りつつ港に入っていって、上陸場から二海里も手前に投錨する。

入ってみると、案外にやせた、うるおいのない荒れた土地である。心に描いた南洋とはだいぶ違う。これでは、得意のゴムも育つまい。

しばらくすると、変な端艇(ボート)がたくさん、船の周囲(まわり)に集(たか)ってきた。中をくりぬいて左右に一対(いっつい)の防波材(ローリングチョック)をつけている。音に聞いた独木船(カヌー)だ。船の中には魚類、果物、ニワトリなどが積んである。やがて、半裸体の船頭が(さすがに商人だけあって下半身は婦人の腰巻きのような布片(きれ)で覆(おお)っている)、杓子(しゃくし)のような櫂(かい)で巧みにカヌーを進退させながら、口々にシャンペイ、シャンペイと呼び、シャーツルピーと叫び、バジュー、アイアンなどと吠(ほ)える。

いやはや、とんだ港に入ったものだ。これこそ掛け値も飾りもない、正真正銘の外国語で、ちんぷんかんぷんである。 続きを読む