現代語訳『海のロマンス』25:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第25回)


人食い魚の来襲

船は昨日から暑気(しょき)にあてられた中風病みのように、ブラリブラリと二度目の無風(デッドカーム)を味わっている。

わが練習船も帆前船(ほまえせん)である。先年ドーバー海峡で不慮の災厄にかかった一万二千トン五本マストのバーク型*1のプロイセン号もまた帆船である。ホワイトスター社やキューナードや北ドイツハンブルグ汽船会社等の大会社の練習船もまた帆船である。何故であるか、帆船は石炭を食わぬから……と、世の一般の人々は即答するだろう。それも一つである。因数(ファクター)の一つである。しかし、必須の要点(エレメント)ではない。

わが練習船は大小三十二枚の帆の他に、わざわざ多くの不便と──純帆船に比べると高い──費用とを犠牲にして、立派な補助機関を持っている。時と場合とによってはドンドンと機走をする。氷を作る、電灯をともす。しかし、事情の許す限りは風の慈悲(マーシ―・オブ・ウインド)を頼りに帆走する。風の慈悲にすがるとは、風を受けて進むのを喜ぶだけではなく、風に置いてけぼりを食らわせられるのを喜ぶという気持ちである。真無風(デッドカーム)を楽しむの心である。

青い蒼空(そら)と赤い星(ほし)とを朝に夕にながめ暮らし、しかも単調(モノトニー)を感じないとき、数日にわたる真無風(デッドカーム)を味わって、しかも倦怠(ダル)を知らないとき、われわれは海に慣れたという。最もよく海に慣れたとき、最も長く真無風(デッドカーム)を経験したとき、六十万円の巨額*2を投じて建造された練習船の本来の使命はいかんなく遂げられるのである。このようにしてはじめて、練習船を帆前(ほまえ)にした意味があるというものである。

今本船は、この高貴で偉大な使命の一部を遂行するため、甘んじて無風のうちに逍遥(しょうよう)している。

無風になって、フカが来ないのは、フランス料理にカタツムリが出ないようなもので、コーランを読んでメッカに詣(もう)でないようなものである。物足りないこと、おびただしい。鉛色に悪光(わるびかり)した海は鷹揚(おうよう)にゆらりゆらりとうねって、これでも太平洋かと思わせる。笹舟(ささぶね)を浮かべて吹いたらツイツイと行きそうである。そろそろおいでなさるころだがと思う耳元で、「ホラ、来た」という喜びの声が響いた。

すわ敵が接近したかとばかりに身構える。指さす方(かた)にと眼をこらせば、さても面(つら)憎きまでおさまりかえった敵の振る舞いかな。鋸(のこぎり)の目のような鋭い背びれと、静かに極めて静かに平らに重い水面を破って進み来る様子といったら。美人がにやりと笑うのには不気味なものがあるし、暴君ネロの親切は薄気味が悪い。人食い魚(フカ)*3が静かにふるまう様子は……やはり、すごく恐ろしく薄気味が悪く感じる。船尾の舵で分けられた水が一面に白い軽い泡を吹き、その下に、海の怪物(モンスター)が悠々と長くしなる尾をヘビのようにくねらせている。薄茶の背は直下に見る海の透徹(とうてつ)した色に彩られて、美しい褐色がかって見え、その輪郭(アウトライン)に近づくにしたがって腹の一部分は目も覚めるような深緑色をしている。口とおぼしきあたりは、ただ銀色に光っている。あれで一口にパクリとくるかと思ったら、少なからず興が覚めた。

カツオ釣りの名人にして、アホウドリをとらえるのも巧みだった水夫長(ボースン)は、またこの怪魚の征服者として有名である。フカと聞いて、とるものもとりあえず駆けつけてくる。知己(ちかづき)になろうぐらいの勢いで、さっそく牛肉(にく)の一片を投げてやる。獰猛(どうもう)に寄ってきた怪物は、ユラリとその巨大な腹をひるがえす。その速さ! その軽さ! アッという間に、キラキラと青白く光って落ちていった肉はその巨大な口におさめられた

どうしても針にかからない。「外国のフカは利口だ」と、水夫長(ボースン)が嘆(なげ)く。このとき、一人が「あれ、きれいな小さい魚が──」という。船上から眺める多くの乗員の影法師がはっきりと海面に写っている。多くの眼が一瞬ひかる。ブリモドキとも呼ばれる水先魚(パイロットフィッシュ)である。萌黄(もえぎ)色の細長い体に、暗緑色のシマが見事に列をなしている、二尺ぐらいの小さな魚が四匹。ちょうどフカの案内をするように、鼻先をヒラヒラと喜遊している。どんなに腹が減ってもフカはとって食わないそうだ。それもそのはず、フカはこの魚をダシとして獲物を釣りよせ、水先魚(パイロットフィッシュ)はまた頭部の吸盤でフカに密着して旅行する*4とは水夫長(ボースン)の話(レクチャー)である。「それでは水先魚(パイロットフィッシュ)はちょっと、タバコ屋の看板娘という恰好(かっこう)だね」といって、一同を笑わせたものがいた。



脚注
*1: バーク型 - マストが三本以上あり、一番後ろのマストだけに縦帆を持つ帆船(前側のマストは横帆)。


*2: 六十万の巨額 -物価変動データに基づいて百年前の金額を現在の金額に換算すると、ほぼ二十億円ほど。が、この金額で同規模の帆船を新規建造するのは、現代ではむずかしいかもしれません。
ちなみに、大阪市が二十世紀末(1993年)に竣工させた三本マストの練習帆船「あこがれ」(現「みらいへ」)は、大成丸に比べると二回りほど小さいのですが、建造費は十四億円だったとされています。


*3: フカ -鮫(サメ)と同じ。一般にフカは西日本でよく使われ、古事記に出てくる因幡(いなば)のシロウサギの神話ではワニ(ワニザメ)とも呼ばれている。


*4: 吸盤で - サメとブリモドキが共生しているのは、本文にある通り。しかし、ブリモドキには吸盤はないため、この部分は同じように共生しているコバンザメとの混同があるようです。

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