スナーク号の航海 (44) - ジャック・ロンドン著

日光が灰色と紫がかった雲のベールを通して射しこみ、海面は頻発する激しい豪雨にたたきつけられてフラットになったまま泡立っていた。雨が降り風が吹きすさぶ海面のうねりとうねりの谷間を白い水しぶきが満たし、海面はさらに平らになったが、海は前にもまして激しく襲いかかろうと、風と波が収まるのを待っていた。男たちが起き出して甲板に出てきた。そのなかでもハーマンは、ぼくが風をとらえたのを見てニヤッと笑った。ぼくは舵をウォレンに預け、船室に降りようとした。厨房の煙突が波に流されそうにしていたので、それをつかまえようと立ち止まった。ぼくは裸足だったし、つま先はなんでもつかめるようきたえてもあったのだが、手すり自体が緑の海面に没していたので、ぼくはふいに海水に洗われた甲板で尻餅をついてしまった。ハーマンは、それを見て、ぼくがなぜその場所に座ることにしたのかと、妙に落ち着いた口調でたずねた。すると、次のうねりで奴も不意打ちをくらって尻餅をついた。スナーク号は大きく傾き、手すりはまた海水をすくった。ハーマンとぼくは貴重な煙突をつかんだまま風下舷の排水口のところまで流された。ぼくはそれからやっと船室に降りて着替えたのだが、そこで満足の笑みを浮かべた――スナーク号が東進しているのだ。

いや、まったく退屈するなんてことはなかった。ぼくらは西経百二十六度まで苦労して東進し、そこから変向風に別れを告げて赤道無風帯を横切って南へと向かっていた。ここではずっと無風のときが多く、風が吹くたびに、それを利用して何時間もかけて数マイル進んでは喜んだ。とはいえ、そんなある日、一ダースものスコールがあり、それ以上の雨雲にも囲まれた。スコールのたびに、スナーク号は横倒しされそうになる。スコールの直撃を受けることもあれば、雨雲の縁がかすめ通ることもあったが、どこでどんな風に襲ってくるか、わからなかった。スコールは雨を伴う突風だが、天の半分をおおってしまうようなスコールが発生し、そこから風が吹き下ろしてきた。が、たぶん、ぼくらのところで二つに分かれたのだろう。船には被害を与えず両側を通り過ぎて行った。そうした一方、何の影響もなさそうな、雨も風もたいしたことがなさそうなやつが、いきなり巨大化して大雨を降らせ、強烈な風で押し倒そうとすることもあった。それから、一海里も風下の後方にあったやつが、いつのまにか背後から忍び寄ってきていることもあった。と、またスコールが二つに分かれてスナーク号の両側を通りすぎようとした。手を伸ばせば届きそうなところをだ。強風には数時間もするとなれてくるものだが、スコールは違っていた。千回目のスコールでも、はじめてのスコールと同じくらいに興味深い、というより、もっと面白く感じられる。スコールの面白さがわからないうちは素人だ。千回もスコールを経験すると、スコールに敬意を払うようになる。スコールとはどういうものかがわかってくるからだ。

一番どきどきするような出来事が起きたのは赤道無風帯でだった。十一月二十日、ぼくらはちょっとした手違いで残っていた真水の半分を失ってしまった。ハワイのヒロを出発してから四十三日目だったので、残っている水も多くはなかった。その半分を失うというのは破滅的だ。割当量から推して、残りの水で二十日は持つだろう。とはいえ、場所は赤道無風帯である。南東の貿易風がどこにあるのか、どこから吹き出しているのかすらわからなかった。

ポンプには直ちにカギをかけ、一日に一度だけ割当分の水をくみだすようにした。ぼくらには一人当たり一クォート(一リットル弱)の水が割り当てられ、料理に八クォート使った。心理状態をみてみると、最初に水が不足していることがわかるとすぐに、喉のかわきにひどく悩まされるようになった。ぼくについて言えば、人生でこんなに喉のかわきを覚えたことはなかった。割り当てられたわずかな水は一息で飲んでしまえそうだったし、そうしないようにちびちび飲むには強い意志が必要だった。それはぼくだけじゃない。みんなが水のことを話し、水のことを思い、眠っているときも水のことを夢に見た。窮地を脱するため近くに水を補給できるような島がないか海図を調べた。が、そんな島はなかった。マルケサス諸島が一番近かったが、赤道を超えた向こう側、赤道無風帯を超えた先にあるのだ。そう簡単にはいかない。ぼくらは北緯三度にいた。マルケサス諸島は南緯九度、経度で十四度も西にある――距離にして一千海里を超えるのだ。熱帯で風がなく、うだるように暑い大海原で苦境に陥っている一握りの生物、それがぼくらだった。

ぼくらはメインとミズン二本のマストの間にロープを渡し、雨が降ったら前の方に雨水を集められるように、大きな天幕を後ろを高くして張った。海上ではあちこちでスコールが通り過ぎていった。ぼくらは、このスコールの動向を一日ずっと、右舷も左舷も前方も後方も見張っていたが、近づいて雨を降らしてくれるものはなかった。午後になると大きなスコールがやってきた。海一面に広がって接近してくる。ものすごい量の雨水が海水に流れこんでいるのが見えた。ぼくらは天幕に注目してずっと待った。ウォレン、マーチン、ハーマンは生気を取り戻した。連中は一団となって索具を持ち、うねりにリズムを合わせながら、スコールを見つめた。緊張、不安、そして切望の念が全身から感じられた。彼らの脇には乾いた空っぽの天幕があった。だが、スコールは半分に割れ、一方は前方を他方は後方を風下へと去っていき、彼らの動きはまた気の抜けたものになった。

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これがジョーズだ

スナーク号の航海 (43) - ジャック・ロンドン著

ミズンセールを引きこみ、しっかりたたんだ。夜になると、風がなくなり、うねりだけが残っていたが、索具がマストに当たる嫌な音もしなくなり、空気を震わせる不気味な音もなくなった。だが、大きなメインセールはまだ張っていたし、ステイスルやジブ、フライングジブ*1も展開していたので、船がうねりでゆれるたびに、パタンパタンと音をたてた。満天の星だった。ぼくは幸運を祈って、ハーマンとは反対の方向に舵をいっぱいに切り、背中をもたれて星を見上げた。他に何もすることがない。広漠とした凪(なぎ)の海で揺れているだけの帆船の上では、何もすることがないのだ。

それから、ほほにかすかな風を感じたが、ほんとにかすかで、すぐに消えてしまった。が、次の風を感じ、さらに次の風が感じられ、ついには本物と思える風が吹き出した。スナーク号の帆がどれほどその風を感じたのかはわからないが、風を受けたのは間違いなくて、どうやら動き出した。というのも、羅針盤の針がゆっくり回転したからだ。実際に針がまわっているわけではない。羅針盤の針はアルコールで密閉された容器の中に浮かんだデリケートな装置で、地球の磁力にとらえられて動かないので、向きを変えたのはスナーク号の方だ。

というわけで、スナーク号は本来の進路に戻った。風の息が大きくなる。スナーク号は風の圧力を感じるようになり、実際に少しヒールした。頭上をちぎれ雲が流れていく。雲で星が見えなくなりはじめた。暗黒の壁のようなものがこっちに接近してきて最後の星が見えなくなってしまうと、この闇は手の届くいたるところにあるように感じられた。闇の方に顔を向けると、かすかに風が感じられる。その風はとぎれることがなくなり、ミズンセイルをたたんでいてよかったと思った。おっと! 今のは強かった! スナーク号は風下側の舷が海水をすくうほど傾き、太平洋の海水がどっと入りこんできた。突風が四、五回続き、ぼくはジブとフライングジブをおろそうかと思った。また海に生気がよみがえり、風はますます強く頻繁になり、空中にしぶきが舞うようになった。こうなると風上に向かおうとしても無理だ。暗黒の壁は腕を伸ばせば届くところにある。ぼくはそれを凝視し、どうしてもスナーク号に打ちつける風の強さを測ろうとせずにはいられなかった。風上には何か不吉な脅威と感じられるものがあり、ずっと長く見つめていればわかるのではないかと感じたのだ。無駄だった。突風と突風の合間に、ぼくは舵を離れて船室に通じるコンパニオンウェイまで走っていき、マッチで火をつけて気圧計を確認した。「29-90」を指していた。この繊細な計器では索具が低い音を立てている騒ぎまでは教えてくれない。舵に戻ったところで、次の突風が吹いてきた。これまでで一番強い風だ。とはいえ、横方向からの風なので、スナーク号は進路を保ったまま東進した。悪くはない。

ぼくが悩んでいたのはジブとフライングジブをどうするかだ。この帆をおろしたかった。そうすれば風にも対処しやすくなるし、危険も減る。風のうなりとともに、雨がパラパラと散弾銃のように降ってきた。総員を甲板に招集すべきだとは思ったのだが、次の瞬間には、すこし延期した。おそらく風はこれでやむだろうし、全員を起こしても無駄になりそうだったから、そのまま眠らせていた方がいいと思ったのだ。ぼくはスナーク号の進路を放棄し、闇から抜け出そうと暗闇とは真逆の方向に向けたが、風の音とともに豪雨がやってきた。それから、この暗闇をのぞき、すべてが平穏に戻った。全員を起こさなくてよかったと思った。

風がやんだと思ったら、波が高くなった。もう白波がたっている。船はコルクのように持ち上げられては放りだされる。そうして、闇の中から、それまでより強い風が激しく吹いてきた。風上方向の闇の中に何があるのか知っていさえしたら皆を招集して手を借りられたのに! スナーク号は嵐に遭遇していた。風下側の舷がますます海水をすくうようになった。風の音はいよいよ激しく大きくなった。こうなれば寝ている連中を起こすしかない。よし、総員を招集するぞと決意した。と、雨は激しくなったものの風は弱まったので、ぼくは招集をかけなかった。とはいえ、闇の中で風の咆哮を聞きながら一人ぼっちで舵を握っていると心細くなる。ストレスを受けている状態で、眠っている仲間のことを考えながら、この小さな世界の表面でまったく一人きりでいるというのは責任感のなせるわざだ。突風がさらに吹きつのり、海が荒れてくるにつれて、海水は手すりを乗りこえ、水しぶきがコクピットまで飛びこんでくる。さっきまでの責任感がひるむ。海水は体には奇妙に暖かく感じられたが、幽霊のようなリン光を貫いてたたきつけてくる。ぼくは縮帆するため総員を甲板に出てくるよう招集すべきなのだろう。連中をなぜ寝かせておくのか。こんな状況でも良心の呵責(かしゃく)にかられるのはバカだ。ぼくの理性は心の迷いに異議をとなえる。心が反論する、「あいつらは寝かせておいてやろうや」と。賛成。だが、その判断をくつがえすのも、ぼくの理性なのだ。理性はその判断をくつがえさせる。そうして、その命令をいよいよ出そうという間際になって、突風がやんでしまうのだ。現実のシーマンシップに体を休ませてやりたいという配慮が入る余地はない、とぼくは思慮深くも賢明な結論を出す。だが、次に突風が続いて来たときに呼ぼうという心の迷いに譲歩し、連中を招集することはしない。というわけで、結局のところ、吹きつのる強風にスナーク号が耐えられるか判断しながら、ぼくの理性も、もっと強い風が吹いたら招集しようと先のばしにしているのだ。

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シイラが釣れた

訳注
*1 帆船の艤装では、一口に帆(sail)といっても、時代によって船によって役割によってセール/セイル/スルのように表記が異なる場合があるが、どれが正しくどれが誤りというようなものではない。ここでは、一般的と思われる表現にしてある(写真は進水時のスナーク号)。
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(1) メインセイル(メインスル)、(2) ミズンセイル(ミズンスル)、(3)フライングジブ、(4) (ロアー)ジブ

スナーク号はガフリグ・ケッチで、二本のマストにつける帆に加えて、船首に三枚の帆を張ることができる(この写真では二枚に見えるが)。

ガフリグとは、マストにつけた縦帆が今風のヨットのように三角形ではなく四角形になっていて、上縁に斜桁(ガフ)がついている。その上部にも小さな帆(トップスル)を張ることができるようになっている。

というわけで、帆の数が多いので、基本的に一人や二人で操船するのは無理。

ちなみに、次の図では、左が約百年前の初版本の表紙に使用されていた絵
右がその元になった白黒写真(*1の写真はこれを説明用に加工したもの)
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スナーク号の航海(42) - ジャック・ロンドン著

すべきことは一つだけだ──北東貿易風の南側に抜けて、変向風のところまでいく、それだけだ。ブルース船長がこの海域で風が変化する場所を見つけられなかったのも、「右舷から風を受けても左舷から風を受けても東には行けなかった」のも本当だ。一定方向の風しか吹かない貿易風帯のようなところではなく、風向が変わりやすいエリアに遭遇できるか否か、ぼくらはブルース船長より運に恵まれるよう祈った。変向風は貿易風と赤道無風帯の間にあるとされるが、赤道無風帯で温められて上昇する大気の動きに影響される。高層では貿易風と反対方向に流れていて、それが海面まで降りてくると、変向風として認識されるわけだ。この風は貿易風と赤道無風帯の間にくさび状に入りこんでいて、その風の吹くエリアでは、日によっても季節によっても風向が変化するのだ。

ぼくらはこの変向風を北緯十一度で見つけ、北緯十一度から離れないよう慎重に進んだ。それより南は赤道無風帯になっている。これより北には北東貿易風がある。来る日も来る日もスナーク号はずっと北緯十一度のラインと平行に進んだ。変向風が観察されるエリアでは、本当に風が変化した。真向いから軽風が吹いてくると思っていたら、風がなくなり、凪(なぎ)の海で丸二日も漂ったりした。そうしているうちに、また真正面から風が吹いてきて、それが三時間も続くと、また丸二日間は無風になる、といった調子だ。そうして──ついに!──西から風が吹き出した。強い。かなり強く、スナーク号はしぶきをあげて飛ぶように走り、後方には長い航跡が一直線にのびていった。風下帆走用の巨大なスピンネーカーを揚げる準備をしていると、半時間もしないうちに、風は息切れし、消えてしまった。またも無風だ。ぼくらは五分もいい風が吹くと、そのつど楽観的になるのだが、すべて裏切られた。どの風も同じように消えてしまうのだ。

だが、例外もあった。定常的な風が吹かない場所でずっと待っていると、何かが起きるのだ。ぼくらは食糧も水もたっぷり積んでいたので、じっくり待つことができた。十月二十六日には実際に東に百三海里も進めたのだが、それについては数日後に話をして確認した。ぼくらは南からの強風をつかまえたのだが、その風は八時間吹き続けてくれたので、その日の二十四時間で東に七十一海里も進むことができた。風がなくなったと思ったら、今度は真逆の北の方向から吹いてきて、さらに東に進むことができたのだ。

長い間、このコースを選択しようとした帆船はなかった。そのため、太平洋のこの地域では、ぼくら以外の船には出会わなかった。ぼくらは六十日間もこのコースを帆走したのだが、水平線上に他の帆影や蒸気船の煙は見なかった。この見捨てられた世界では、動けなくなった船がどれほど長く漂流していても、救助の手がさしのべられることはないだろう。救助の手がのびてくる唯一の機会があるとすれば、それはスナーク号のような船からだろう。ぼくらは水路誌をろくに読みもしないでコースを決めていたので、こんな行き当たりばったりの船と偶然に出会うようなことでもなければチャンスはない、というわけだ。人が甲板に立って水平線を眺めたとすれば、見える範囲は自分の目から水平線まで、直線距離にして三海里半になる*1。つまり、自分を中心にして直径七海里の円の範囲の海である。ぼくらはその円の中心にいて、たえずある方向に移動しているため、それだけ多くの円を見渡したことになるのだが、すべての円は同じように見えた。樹木の生い茂った小島もなければ、灰色の岬が見えてくることもなく、はてしなく広がる丸い水平線の向こうに陽光をあびて光っている白い帆も見えなかった。この広大な円の縁から雲がわき出ては、上昇し、流れ、通りすぎ、反対側の縁の下に消えていった。

何週間も経つうちに、世界は色あせていった。ついには、七人の魂を乗せて広大な海面を漂っているスナーク号という小さな世界以外の他の世界の意味が薄れていった。世界についてのぼくらの記憶、あの偉大な世界は、ぼくらがスナーク号の船上で誕生する前に生きていた以前の生命体としてみた夢のようなものになった。新鮮な果物がなくなった後、ぼくらは父親が自分の少年時代の消えたリンゴについて話すのを聞いたように、あの世界のことを話したりした。人間は習慣の生き物であり、スナーク号船上のぼくらはスナーク号という習慣になっていった。当然のことながら、船と船上生活すべてが重大なものとなり、それが破られるといらいらし攻撃的になったりした。

あの偉大な世界が復活してくる気配はなかった。ベルは時間を告げるが、訪問者はなかった。食事のゲストもなかったし、電報もなければ、耳ざわりな電話が私生活に割りこんでくることもなかった。ぼくらには守るべき約束もなく、乗るべき汽車もなく、朝刊もないので、自分以外の五十億もの人間に起きている出来事を知ろうとして時間を無駄にすることもなかった。

とはいえ、退屈ではなかった。ぼくらのささやかな世界の出来事は規律に従ったものでなければならなかったし、あの偉大な世界とは違って、ぼくらの世界はそれ自体が広大な空間を旅していかねばならなかった。また、混乱しとまどうような出来事もあったが、この大きな地球に影響するほどの摩擦はなく、無風の空間を進んでいった。ときには、次に何が起きるのかわからないこともあった。刺激も変化も十二分にあった。いまは午前四時だが、ぼくは舵を握っているハーマンに交代を告げる。

「東北東」と、やつはぼくに方角を告げた。「方向が八ポイントずれてるが、舵もきかない」

小さなおどろき。こんな無風状態で舵のきく船など存在しない。

「ちょっと前まで風があった──たぶん、また吹いてくるだろう」と、ハーマンは希望的観測を述べると、寝床のある船室に向かった。

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これがジョーズだ

[訳注]
*1 海の真ん中では見渡す限り365度、水平線が広がっているが、その水平線までの距離は、目標物の標高と観察者の目の高さによって変わってくる。その距離を光達距離という。
 灯台の設計で光がどこまで届くかは重要な問題で、理想的な条件下で光が見える距離を光学的光達距離という。
 現実には、眼高(観察者の目の海面からの高さ)と灯高(海面から灯台のライトまでの高さ)で簡易に計算できる地理的光達距離が用いられる。

 眼高(h 単位:メートル)と灯高(H 単位:メートル)の平方根の和に、係数2.083をかけると地理的光達距離が計算できる(出てきた数値の単位は「海里」)。

2.083(√h + √H)

 水平線を高さゼロ(H=0)とし、スナーク号から見える範囲が本文のとおり直径7海里として、この式から逆算すると、スナーク号の眼高は約2.8mになる。
 海面から甲板までが1m前後、身長を1.7~8mとすれば、ジャック・ロンドンの計算はほぼ正確だとわかる(文系の作家があてずっぽうで書いているのではなく、ちゃんと航海法を勉強したということがわかる)。
 この計算式を応用すれば、海をわたって目指す島のてっぺんが見えたときに、その島までの距離を計算できる。島の標高が1000mで、眼高がスナーク号と同じだとすれば、島までの距離は約67海里になる。
 航海記でよくある「島が見えたぞ」という感動的な陸地初認は、毎日天測で位置をだしている航海士や船長には、少なくとも前日に天測で現在の位置を出した時点で、いまの針路と速度を維持すれば翌日の何時ごろに見えてくるか、ほぼ正確に予測できているはずだ。

スナーク号の航海 (41) - ジャック・ロンドン著

第9章

ハワイから南太平洋へ

 サンドイッチ諸島(ハワイ諸島の旧称)からタヒチへ ── 貿易風にさからうことなるこの航海は過酷だ。捕鯨船の連中などは、サンドイッチ諸島からタヒチへ向かうというコース選定には懐疑的だった。ブルース船長は、目的地に向かう前に、まず風が吹き出しているところまで北よりに進むべきだと述べている。船長が一八三七年十一月に航海したときには、南下する際に赤道付近で風が変化することはなく、なんとか東に向かおうとしたが、どうしてもできなかった。

南太平洋を帆走で周航するコースの選定については、そう言われているし、それが定説になっている。疲れた航海者にとって、この長い航海でこれ以上に役立つ助言はない。ハワイから、タヒチよりさらに八百海里ほど北東にあるマルケサス諸島までの航海についても同じことが言えるが、条件はさらに悪くなる。そういうコース選定が推奨されない理由として、ぼくは風上に向かう航海が続くと船も人も疲弊してしまうからだと思っているが、これは本当に大変なことなのだ。だが、無理だと言われて尻尾を巻くようなスナーク号ではない ── というより、ぼくらは出発するまで、帆走でのコース選定についての指南書をほとんど読んだことがなかったのだ。十月七日にハワイのヒロを出帆し、十二月六日にマルケサス諸島のヌク・ヒバ島に着いた。カラスが飛ぶように一直線に行けば二千海里の距離だが、実際には到着するまでに四千海里以上を走破した。二点間の最短距離が直線とは限らないということが、今回も証明されたわけだ。ダイレクトにマルケサス諸島を目指していたら、五、六千海里も帆走することになっていたかもしれない。

ぼくらが決意していたことが一つあった。それは、西経百三十度より西で赤道をこえるようなことは決してしない、ということだ。その地点より西で赤道をこえてしまうと、南東貿易風のためにマルケサス諸島の風下側に流されてしまう。どんなに頑張っても、そこから風上にのぼっていくのはむずかしい。また、赤道海流もあなどれない。場所によっては、一日に十二海里から七十五海里もの速さで西に流れているのだ。目的地の風下に流されてしまうと、この海流が牙をむいてくるので、にっちもさっちもいかなくなってしまう。だから、西経百三十度より西で赤道をこえるわけにはいかないのだ。とはいえ、南東貿易風は赤道の五、六度北あたりからあるとも予測されているため(つまり、そのあたりで南東か南南東の風が吹いているとすれば、ぼくらは南南西に向かわざるをえなくなるので)、赤道の北側ですでに南東貿易風が吹いているのであれば、少なくとも西経百二十八度に達するまでは東に向かう必要があるのだ。*1

ぼくは、七十馬力のガソリンエンジンが例によって動かないと言うのを忘れていた。だから、風に頼るしかないのだ。進水時のエンジンも動かなかった。エンジンの話をすれば、照明や扇風機、ポンプを動かすはずだった五馬力のエンジンも故障していた。ぼくの脳裏には、魅力的な本のタイトルがちらついている。いつかそれにまつわる本を書き、『三台のガソリンエンジンと妻一人との世界一周』と題するのだ。とはいえ、そんな本を書くことはないだろうとは思う。というのは、スナーク号のエンジンで骨を折ってくれたサンフランシスコやホノルル、ヒロの若い紳士諸君の気分を害するおそれがあるからね。

机上のプランとしては簡単そうだ。現在、ぼくらはヒロにいて、目的地は西経百二十八度だ。北東貿易風が吹いているため、二点間を結ぶ直線を進むことができるだろうし、強いて風上ぎりぎりに船をのぼらせることもあるまい。しかし、貿易風で大きな問題の一つは、その風がどこから吹きはじめ、どの方向に吹いているのかがわからない、ということだ。ぼくらはヒロの港を出てすぐに北東貿易風をつかまえたが、この風は頼りなくてすぐに東よりになってしまった。おまけに、大河のように西に向かって力強く流れている北赤道海流があった。小さな船で逆風と逆波を乗りこえて風上に進もうとしても、いくらも進めない。帆をすべてピンと張りつめ、風下側に傾き、波にたたきつけられ、波しぶきをあげながらも、何とか進もうとする。それを繰り返す。船が進みはじめたと思っても、すぐに山のような波におそわれて止まってしまう。スナーク号は小さいので、貿易風や強力な赤道海流に逆らって東進しようとしても、どうしても南よりにしか進めない。真南に向かうことだけは避けたが、日ごとに東に進める距離が減ってきた。十月十一日は東に四十海里進んだが、十月十二日は十五海里になり、十三日はゼロだった。帆走してはいるのだが、経度上は東にはまったく進めていない。十月十四日、三十海里、十月十五日、二十三海里。十月十六日、十一海里。十月十七日になると西の方向に四海里押し戻されてしまう。といった調子で、一週間に百十五海里だけ東に進んだのだが、平均すると一日に十六海里になる。ヒロから西経百二十八度までは経度で二十七度、距離に換算すると約千六百海里もあるのだ*2。一日に十六海里のペースだと、この距離を走破するのに百日かかってしまう。しかも、ぼくらの目的としている西経百二十八度は、北緯五度での話だ。マルケサス諸島のヌクヒバ島は南緯九度で、それよりさらに十二度も西にあるのだ!*3

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人食いザメ
[訳注]
*1 太平洋の一般的な海流・貿易風(図は、クリックすると拡大)
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海流や貿易風は、強さ/速さや位置を含めて、ほぼ安定しているが、常に同じというわけではなく、局地的にみると変動している。
赤道付近では北側で北東貿易風、南側で南東貿易風が卓越し、それにはさまれたところは両者が収束するように見えるところから熱帯収束帯(低圧帯)とされ、一般に風が弱く、赤道無風帯(ドルドラム)としてヨット航海記にも出てくることがある。季節によって太陽の位置が変わると、この収束帯も南北に移動する。

*2 地球はほぼ球体なので60進法(度・分・秒)と相性がよく、距離の1海里(1852m)はほぼ60の倍数なので、船上での計算では、キロメートルより海里の方が直感的にわかりやすい(船酔い気味の頭でも「比較的」楽に計算できる)。覚えておくと便利なのは、
経度15度 = 時差1時間
赤道での経度1度の距離 = 60海里
速度1ノット = 1時間に1海里進む(= 時速1.8キロ)
風速(時速)1ノット = 風速(毎秒)0.5メートル

*3 風と海流は、ヨットによる外洋航海に大きく影響する。
日本でヨットといえば「太平洋横断」が頭に浮かぶが、これは日本からアメリカへ行くよりも、逆にアメリカから日本に来る方がずっと早いし楽だとされている。
というのは、北米大陸西岸の港を出てから南下し、ほぼ東から西に吹いている北東貿易風帯に入ってしまえば、風速七、八メートル~十メートルの安定した追い風で日本近海まで来ることができるからだ。
おまけに北赤道海流も東から西に流れているので(台風や嵐に遭遇した場合は別として)、ある意味、動く歩道に乗っているようなものかもしれない。
逆に、日本から出発する場合、風向や風速にむらがあり、なかなか安定した風にめぐまれず、黒潮を利用して距離を稼いでも、そのままだと北上しすぎて低気圧の墓場といわれる北太平洋まで持っていかれかねない、、、
ヨットは、原則として、風下方向には自由にコースを選んで帆走できるが、風の吹いてくる方向(風上)にはダイレクトに進むことができないため、ジグザグにタッキングしながら(帆船風にいうと「間切り」ながら)進むことになる。その角度は一般には45度とされている。この角度でジグザグに帆走したとすれば、三平方の定理を使った計算で、帆走距離は約1.4倍になる──というように、セーリングにはベクトルや三角比の初歩的な計算がついてまわる。
いまどきのレース艇は30度くらいまでは上れるが、それにつれて速度が落ちてくるため、スピードと角度のどちらを優先するかは悩ましい問題になる。とはいえ、スナーク号は船型や艤装から推すと、風上への上り性能はせいぜい50度くらいだろうから、本文にもあるように、貿易風にさからって東に向かうのは簡単ではない。にもかかわらず、風下の島に目的地を変更せず、意固地に東へ東へと向かうところがジャック・ロンドンらしいといえばいえる。
「ばっかじゃねえの」という人もいるかもしれないが、そもそも人間とは、ばかなこと、むだなことをする生き物なのだ。