ヨーロッパをカヌーで旅する 27:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第27回)


出発するときも好天が続いていた。深緑色の森から木々の枝が川面まで垂れ下がっている。川の流れというのはえてしてカヌーをそうしたところに運んでいくことがあるのだが、湾曲部で速い流れがそっちに向かっているようなところでは、鋭く曲がった枝で傷つかないように特に注意が必要だ。奇妙に思えるかもしれないが、カヌーにとっては岩や土手より実際にはこうした木々の方が危険だし、はるかに厄介だったりする。というのは、カヌーが低い枝の下に入り込んでしまうと、パドルをうまく使えなくなってしまうのだ。強く水をかこうとパドルを立てると、パドルの反対側が枝にひっかかってしまう。また、枝をかわそうと頭を下げると前方がよく見えなくなるし、一般に太い枝は固くて、頭をぶつけたりしたら、けっこう痛い。といって、上体を後ろにそらせてかわそうとすると、顔を小枝でひっかかれ、特別に高い鼻でなくても穴に枝が食い込んだりする。顔を守ろうと手を使うと、パドルを川に落としてしまうこともある。ぼく自身は帽子を落としたことはなく、石頭だし、パドルをなくしたこともない。むろん鼻を枝で串刺しにされたこともないのだが、川下りでは、できるだけ樹木から離れたところを通過するようにしていた。

それでも、サギやカモの群れをおどかしてやろうと、木陰を進みたいという誘惑にかられるときもある。

一度など、二ダースほどのサギの群れと遭遇したことがある。カヌーは音を立てず静かに水面を滑っていくので、じっくり観察することができた。この鳥たちはその場所でそれまでカヌーなどというものに邪魔されたことがなかったようだ。

サギたちはぼくとカヌーをじっと見つめ、互いに顔を見あわせ、それから、この未知の物が接近してくることについて群れ全体で意思を確認しあっていた。鳥たちの顔に気持ちが出ていて、それを読みとれるとすると、こうしたサギのうちの一羽は他のサギに「こんなの、いままでに見たことがあるか?」と聞いていた。もう一羽のくちばしの動きは明らかに「なんて図々しいやつだ」と応じていた。三羽目が皮肉な調子で甲高く叫んだ。「しかも、よそ者だぜ!」 そうしたことを相談しているようだったが、サギたちはやがて立ち上がって輪を作り、それから下流の方へと飛んでいき、ちょっと離れたところに舞い降りて、またひとかたまりになった。ぼくの方も川を下っていくので、しばらくすると、その新しい場所に接近する。すると、サギはまた飛び立って下流に移動する。こんな調子で同じことを繰り返し、それが数マイルも続いた。しまいにサギの群れは戦略を変更し、下流ではなく脇にどいてカヌーに道をゆずってくれた。

気持ちのよい追い風が吹いていたが、だんだん強くなってきた。帆を揚げると、カヌーはトップスピードで進み、岩を乗りこえ、干し草畑の耕作人たちを追い抜いていく。それを目撃した一人が残りの「仲間」に知らせようと叫んだが、彼らが見ようとやってくるより早く通りすぎてしまった。後方から興奮した調子で、幽霊じゃないかとか話し合っている声が聞こえた。

しかし、何度も幽霊船と間違われるのはうれしいことではない。カヌーについて何も知らない人や船を見たことのない人、外国人を見たことのない人たちの真ん前を突っ切っていく方がずっと面白かった。「突っ込んでいく」には大きすぎる落差の滝があったり、幅のある障害物が存在しているときには、カヌーを陸に上げて迂回する方がよい。ぼくはカヌーの先端を生け垣から突き出して他から見えるようにして干し草畑を突っ切って歩いたり、「水たまりさえあればどこでも」進めるアメリカの浅瀬走行船を真似て、露でぬれている刈り取られたばかりの草地の上を引きずっていったりもした。そういう場合、不意打ちでそういう場面に出会った人々の驚きは、ちょっと言葉では言い表せない。灰色の服を着た怪しい男がにこりともせず地面の上でカヌーを引いて歩き、人に囲まれると、いきなり笑いだしたり英語で熱弁を奮ったりするものだから、逃げ出す者さえいた。子どもたちはたいてい泣き叫んだりした。そういう様子は、ぼくにとって不思議だったが、相手にとっても同じくらい奇妙だったに違いない。

このあたりで川の水はすべて淡い青みがかったものになり、水面下の深いところの美しい光景が見えなくなったのは残念だった。だが、三十マイルほど進んだところで再び川底の小石が見えるようになり、魅力的な透明感を取り戻した。水の色が濃くなったり黒い影ができたりするのは、それなりに重要な問題をはらんでいる。というのは、水に陰影がささず色もつかず透き通っていれば、水中にある岩や大きな石や他の障害物をはっきり視認できるのは無論のこと、多少の経験を積むことで、ちょっと離れたところであっても、どれくらいの深さがあるのかがはっきりわかるようになるからだ。

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現代語訳『海のロマンス』13:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第13回)


船中の音楽とメス猫

すさみやすい船乗りの心をやわらげるものが音楽であることを知るならば、無骨者が集まった越中島(えっちゅうじま)*1にピアノの音が響き、バイオリンの調べが聞こえるこることが、それほど不思議でないことがわかるだろう。

百二十五名の、生死をいとわない海の児が乗った練習船にも、尺八をはじめとしてマンドリン、ハーモニカ、横笛、バイオリン等の軽便にして雅趣のある楽器がたくさん持ちこまれている。また、日曜や大祭日(たいさいじつ)などの休日には学生用食堂の中央に一台の蓄音器が設置され、午前・午後と交代で非直になった者がニコニコしながらそれを取り巻いて座を占める。人々の顔にはもう予期した笑の色が流れる。やがて「鳩ぽっぽ」「雪やこんこん」の無邪気なものをはじめとして「野崎の連引(つれびき)」「三十三間堂」などの呂昇(ろしょう)*1の肉声に至るまで、それぞれ歓笑のうちに迎えられる。大きな子供等が髭面をくずして納まり返るところは本当に無邪気なものである。

この他に日曜の午後には汁粉(しるこ)の缶詰が開かれ、紅茶が供される。これも航海中に日曜を待ち遠しく思う要素の一つである。

前回の米国西海岸のサン・ペドロへの航海のときには、船には犬とワニと猫と三種の小動物がいて、少なからず船内の空気を華やかにした。ジャックと呼ばれた犬と、小さなワニとは在留日本人の贈り物であった。他の愛玩物たる猫は虎ブチのはいったやつで、愛らしい表情と、すばやい目つきとを持った、二等航海士(セカンド)のお気に入りであったが病気になったため、その後任者として三毛の美しい子猫が二匹やってきた。

誰やらの思いつきでさっそく赤と黄のリボンを首につけたまではよかったが、メス猫だからと頭からしたたかに香水をふりかけたところ、面食らって士官室に飛び込み、悪事たちまち露見して大目玉をくった風流児もあった。かてて加えて、こやつ、女に似合わぬしたたかな悪戯(いたずら)者で、さる人の秘蔵のマンドリンにじゃれて糸をめちゃめちゃにして手ひどいお叱りを受け、それからというものは糸の音には耳を伏せて逃げるのが一愛嬌となった。ときどき船倉(ホールド)の底で二匹が可愛らしい赤い口と口を、小憎らしい口ひげと口ひげとを寄せ合っているのを見うける。

「きっと、われわれの世界は動いてやまずとかなんとか言っているにちがいないぜ、君」
と言って、いあわせた者を笑わせた剽軽(ひょうきん)者もあった。この頃では三毛先生もすっかり船に慣れて、揺れ動く床の上を歩く腰つきも巧みである。

風下当番、舵手、見張り

船は今、右舷後方からの順風を満帆にはらみ、五、六度のこころよい傾斜をなし、軽く紺青の水の上をすべって行く。

風はさそれほど強くはないが、風の神の呼吸が規則正しいことを示すかのように、力ある一定の速力でそよそよと吹いてくる。なんとも穏やかで快適な航海である。こういうときには、風下当番(リーサイド)は少しのんびりした心持ちになる。

暁(あかつき)の海が血潮(ちしお)の色に燃える日も、重みのある黒い帆の影が甲板(デッキ)の上にはっている清い月の夜も、船が水に浮かぶかぎり船橋(ブリッジ)の上には必ず二人の学生の影が見られる。停泊中にあっては「甲板当番(かんぱんとうばん)」と呼ばれ、帆走中にあっては、すなわち「風下当番(リーサイド)」となる。

練習船では第一次の遠洋航海をすませた者を二期生と呼び、新乗船者を一期生と呼ぶが、風下当番は二期生および一期生より一人ずつ一時間交代に選び出されるのだ。「風下の水平線を注視し云々(うんぬん)」という指示がこの名称の由来になっているが、そのほかに晴雨計、乾湿計、海水寒暖計等の記入、時鐘(タイムベル)をたたくことなども、なすべき任務である。

時鐘(タイムベル)については、ここに面白い伝説がある。いつごろの世紀からか帆船の船乗りの間に大晦日(おおみそか)の正午の八点鐘*3を打つ独身者には、パンドラ姫のごとく、うるわしき幸ある花嫁が与えられるだろうとの言い習わしがあった。この民間伝承にあるような雰囲気は二十世紀の練習船の中にもはっきり残っておったものとみえ、サン・ペドロへの航海の際に、南カリフォルニアの近海で迎えた昨年の大晦日には、どちらかといえば敬遠されるこの役目を希望する者が多くて、ついにクジで決めたというほほえましい争いもあった。

世の中がだんだん手軽に、都合よく、科学的になって、野菜畑やビリヤードルームまで備えたオリンピック号やタイタニック号などの巨船が生まれてくるという時代に、蒸気力(スチーム)や水圧力(ハイドロール)すべての機械力を白眼視して、白い帆に黒い風が抱擁されるのを待つ帆船の艤装には、黒船のそれに比べて異なったところがたくさんあるが、舵輪(ホイール)などもその一つである。

練習船の艫(とも)には黒船に見られない樫(かし)またはチーク等の堅材で作った直径八フィート大の舵輪(ホイール)がある。これには二人の大の男が常にとっついている。一人は風上舵手(ウェザーヘルム)で他は風下舵手(リーヘルム)である。風上舵手(ウェザーヘルム)は二期生が担当し、一期性は風下舵手(リーヘルム)となる。やはり一時間交代である。舵能(ステアリング)の会得は多年の経験と、高度な技量とを要するもので、その研究は優に一科目を形成するものであるとは、日本航海界の権威たる松本教授の言であるが、実際にも風速、風位、潮流、波の高低および大小船の喫水等と深い関係がある舵能(ステアリング)の修練はとても困難であり、しかも趣(おもむき)のある問題である。だから、舵手(ヘルム)は常にマストヘッドの風見と航走羅針盤とを眺めて、風の方位と進路の保持に細かく心をくだくのである。

「左舷船首(ポートバウ)二点三マイル*4のところにクジラが見えます」と叫んで叱られた先人の逸話は、いまも見張り当番に立つ者が心ひそかにほほえむ種を作っている。手にメガホンを持って船首楼に立ち、水平線を凝視し、舷灯(ランプ)が見えないか、島影はないかと注視するのが見張りである。

夢よりも淡いサンサルバドルの島を遠く水平線のかなたに見いだしたコロンブスの喜びも、三角波が立ち騒ぐインド洋に船を進めてテーブルマウンテンを近くから仰ぎ見たバスコ・ダ・ガマの喜びも、ともに無名の一見張りの鷹のような鋭い視線によるのである。



脚注
*1: 越中島 - 東京都江東区の地名。ここでは東京商船学校(東京高等商船学校、東京商船大学を経て、現在は東京海洋大学)を指す。


*2: 呂昇 -  当時、人気が高かった女義太夫師の豊竹呂昇(1874年~1930年)のこと。


*3: 八点鐘 - かつて船で時間の経過を知らせるために鐘を鳴らしていたが、最初の三十分経過時に一つ鳴らし、一時間後に二つ、一時間半後に三つと、半時間おきに鐘の数を増やし、四時間経過時に八つ鳴らしたことから八点鐘と呼ばれる。通常、当番は四時間おきなので、当番終了を告げる鐘でもある。


*4: 左舷船首二点三マイル - 二点は、360度方位を32度方位で表したときの方位で、一度が11度15分なので「左舷の船首から22度30分の方位で、距離は三海里」の意味になる。ちなみに、陸上の1マイルは1609m、海での1マイル(海里)は1852m。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 26:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第26回)


第五章

ドナウ川の両岸の切り立った断崖は徐々に緩やかになった。道も川の近くを通るようになって、景観も地味というか、よくある風景になってきた。

道の方からガタンゴトンという音が少なくとも半時間ほど聞こえていたし、二頭立ての長い馬車が早足で駆けてくるのも目にしていた。その馬車は明らかにぼくのカヌーと速さを競っているようだった。馬車からはしきりに何か合図がなされていたので、ぼくは漕ぐのをやめた。すると、馬車も停車し、一人の男が飛び出してきた。炎天下に帽子もかぶらず、息を切らせ、野原を横切ってくる。その後に女性が二人続いていたが、どちらも同じように急ぎ足だった。その男はドイツ人で、ロンドンにも短期間だが住んでいたことがあり、現在は一ヶ月の休暇で母国にいるのだった。彼はぼくがカヌーをとめて連れの女性たちに見せてくれた「親切」に大いなる感謝の意を表した。村でカヌー旅の話を耳にして数マイルの距離を追ってきたのだという。またそれとは別に機会では、三人の若者が暑さにあえぎながらカヌーと並走していた。木や石につまづいてひっくり返ったりしている。そういう過激な駆けっこを一マイルも続けた後で、ぼくは何でそんなことをしてるんだいと聞いてみた。すると、この善人の村人たちは、この先に難所があることを、ぼくがそこにさしかかる前に教えてやろうと、わざわざ追いかけて来てくれたのだった。

見ず知らずの人間にそこまで骨を折ってくれるというのは、究極の親切だと思う。それで、ぼくは彼らの手助けをありがたく受け入れた──本音を言えば、その程度の難所は、ぼくにとって難所でも何でもなかったのだが。すると、彼らは目的が果たされたことに喜び、大いに満足し、言葉も元の高地ドイツ語の一種の純粋なシュワーベン語に戻った。

何度も折れ曲がったり急流を下ったりしした後、なんとかジグマリンゲンの町に着いた。住人は三千人足らずだが、どこか貴族的な雰囲気があった。この地域全体の人口は五万二千人にすぎないが、大公と呼ばれる人物が存在している。いわば「ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン公」という立派な名を冠した領主がロンドンの小教区ごとに存在しているようなものだ。その昔、地理の本でこの小公国を見かけるたびに失笑したものだが、ぼくはもう二度と笑ったりはしない。というのも、この地には世界で最も美しい景観の川が存在しているし、破滅的な戦争で爆発寸前の火種に点火する火花という、情け容赦ない興味がこれからも常につきまとうだろうと思われるからだ。

ここには、きれいな庭園がいくつかあった。すばらしいプロテスタントの教会が一つと立派な店も数軒あり、丘陵には複数の城が見える。しかも、高い岩山にそびえている古い方の城はよくある姿ではあるものの絵のように美しい。と同時に、ご先祖が入植したこの地は激動の地でもある。ぼくが宿泊したドイツ・ホフは開業したてのホテルだった。ぼくが客となった最初の英国人というわけだが、その英国人客がカヌーや野次馬と一緒に入口までやってきたときには、従業員一同を含めてハチの巣をつついたような騒ぎになった。ぼくの相手をしてくれた給仕はロンドンのバッキンガム・ゲートにあるパレス・ホテルで一年間の研修を終えたばかりの新人で、食事のときはぼくの横にいて、何かと英語で世話をしてくれた。自分の英会話の能力が必要とされていることをとても喜んでいた。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 25:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第25回)


ベイロンのクロスターは、この近在で行楽に出かける先としては好都合な場所だ。イギリスのカヌーイストがドナウ川を漕ぎ下る場合に定番の「見るべき場所」になるのは間違いないだろう。というのも、川下りでこのあたりを旅するときの状況が効果満点で、こんなところは他にないからだ。ぼくが寝室の窓辺に寄りかかっていると、月が出てきた。天に向かって突き出している岩山を月が銀白色に照らし、周囲の木々はさらに暗くなってそれを縁どっていく。一方で、修道士の礼拝所からは、かすかに淡く赤みがかった光がもれていて、穏やかで低い夜の祈りをささげる声が聞こえてくる。おそらくは、毎日を働き通しでせわしない生活をしている平信徒よりは、修道士にでもなって頭巾をかぶっていた方がよいのかもしれない。仕事に忙殺される世界で、控えめに感謝と信仰心を抱いているよりは、聖廟で精進し、祈り、ひざまづく方がよいかなとも思った。とはいえ、ぼくとしてはまだためらいもあるのだが。

いつものように岸辺からの祝砲と声援に送られてベイロンを去った後、ドナウ川は両側がどちらも切り立った岩場の間を流れた。穏やかな川下りが何時間も続く。水は言葉にできないくらい透明度が高い。離れた深いところの洞窟さえ、のぞきこめるほどだった。ぼくはずっと下を見つめているのにもなれてきたので、泳ぎまわっている魚を見かけるとパドルの先でたたこうとしてみた(一度も成功しなかった)。そのため注意が散漫になり、カヌーが浅瀬に乗り上げたり岩場に激突したりもしたのだが、ぼんやり夢心地で、カヌーがコースを外れているのに気づかず、太い木にぶつかって木の葉やクモやゴミなんかが雨のように降ってきたりして、やっと川を下っていたことを思い出すという始末だった。そういう事件に遭遇すると、さすがに警戒心が芽生えるようになるので、ぼくは真面目に前方を注視するよう心がけた。が、狭いトンネルのような「難所」を通過したり、小さな滝を乗りこえたり、もっと大きな滝ではカヌーを引っ張って迂回したりと、一時間かそこら頑張ったところで、ぼくはついまたキョロキョロしてしまう。頭上にそびえている山の頂きや滑翔している鷲、その背後に広がっている、どこまでも青い空をつい眺めてしまうのだ。と、カヌーがまたしても水面下の岩に接触して大きく傾く。カヌーが損傷しないよう、ぼくは瞬時に飛び降りて船体を守る、といったことを繰り返した。こういう日々が続いているので、すぐに川に飛びこむことができるよう、ぼくはずっと裸足のままで、ズボンはたくし上げていた。濡れても、強烈な太陽がすぐに乾かしてくれるので、この上なく快適だ。

健康で気持ちも乗っていて、信頼できるカヌーがあり、風景もすばらしいという状況で、こうやって自分の体を使って漕ぐ喜びというのは、その本当の気持ちよさというものは、実際に経験してみないとわからない。急流では居眠り禁止ということを忘れさえしなければ、悲惨な結末になることはまずない。実際、ぼくはこの航海で風邪を引かなかったし、ケガもしなかった。カヌーに穴が開くようなトラブルもなく、無事に家に帰りつけた。また、一日たりともカヌー旅を悔いたこともない。願わくば、できるだけ多くの英国人が自由気ままに「自分のカヌーを漕いでみる」ことを体験できますように。

とはいうものの、カヌーを漕いでいるうちに腕が疲れてきたり、まだ目的地に着かないのに日が暮れてきたり、腹が減って死にそうだったりしたとき、特に人家のある場所を教えてくれるような人が誰もいないとか、そこに着いたとして問題なく夜を過ごせるような場所かがわからないなど、早く今日の予定が終わらないかなと願う気持ちになることはある。それは間違いない。5

航海についてガイドもなく、川沿いに舟を引いて歩く小道もないような川では、自分がその日にどれくらいの距離を進むことができるのか予測するのはむずかしい。調整や予測が可能なのは、自分は何時間漕ぐつもりでいるのか、平均の速度、風の強さ、川の流速、食事や休憩で上陸できそうな場所、水車用の堰堤、滝または障害物の有無などは検討がつくものの、それで航程を正確に予測することは不可能だ。

人里離れたスウェーデンの湖では、一日に三十マイルも進めば十分だと思っていたところ、一日に四十マイル進んだことも珍しくなかったし、景色がよく、いろんな出来事に遭遇し、興味のつきることのないようなところでは、一日に二十五マイルがやっとというところもあった。

一般論として、徒歩旅行では、気持ちのよい地方で一日に二十マイルも歩けば身も心も十分に活動し観察も行ったことになるだろう。だが、川旅で生じる出来事は、徒歩旅行者の日記に書かれるような出来事に加えて、自分のカヌーをめぐる状況すべてが関係してくるので、路上で起きる出来事よりはるかに多くのことが頻繁に発生し、しかも興味深いのだ。それにちょっと漕いでいるうちに、カヌー自体が自分の仲間(ぼくの場合は友人かな?)になってくるので、湾曲部をまわるたびに、また舷側に何かがぶつかったり擦(す)れたりするたびに、自分の体に何かが当たったり擦(す)れたりしたように感じるようになってくる。「人と一体化したカヌー」 対「川」という心地よいライバル関係ができるほどカヌーが個性を持つようになり、川もそうなっていくが、そうしたことすべてが航海中に起こりうるのだ。

欧州大陸を何回か旅した後では、鉄道に乗るか見物しはじめて一時間ほどは、すべてが物珍しく楽しいものに感じられるが、やがて早く終着点に着かないかなと願うようになり、町に滞在しても、そう長くならないうちに、帰国のことを口にするか考えはじめたりするものだ。一方、カヌーによる旅の特徴は、そうしたことがゆっくり進行していくので、その間はずっと楽しむことができるというところにある。というのも、いつだって奮闘し体を動かしているのは自分であって、周囲の景色についても仔細に観察できるし、湾曲部を曲がったり傾斜による流速に応じて即座にどうすべきかを判断しなければならないから退屈している暇がない。一日の喜びというものは、確かに、その日に航海した距離の長さでは測れない。たとえば、昨日の航海は景色や出来事や運動という点ではまさに最良の一つだったが、距離は一番短かった。ガイドブックによれば、「ツットリンゲンまで十二マイル」──川旅では、十八マイルといったところ──「クロスター・ベイロンから、美しい景観が展開する。ドナウ川のこの領域は航行不能」となっている。



原注
5: バルト海の航海では、飢えを感じることはなかった。食料や調理具も積んでいたからだ。1867年4月27日にテムズ・ディットンでの最初のカヌークラブの競技会で「陸上と水上での追い駆けっこ」で五隻のカヌーが競った四つの賞のうちの一つは、きれいな小型の調理セットだった。二人分を調理でき、重さは二ポンドだ。その調理セットには今でも「船長が設計し、コックが提供し、パーサーが勝ち取った」と銘が刻まれている。ヨルダン川やナイル川、それに今はもう埋め立てられてしまったオランダのゾイデル海の航海では、ぼくはカヌーの中で眠ったし、カヌーには四日分の食料を積むようにしていたが、そういうところではカヌーを降りて引っ張らなければならないダムがないかわりに、宿泊できるような集落がないところも多かった。しかも、ほとんどの場合、自分の貴重な持ち物から離れた場所で食料を調理し宿泊しなければならなかった。おまけに、そういう東方の航海で最も安全な野営の適地というのは常に、人っ子一人いない人里離れたところなのだ。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 24:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第24回)


この素晴らしい景色はベウロンまで続いた。ドナウ川は広大な草原の周囲をめぐるように流れ、由緒正しい修道院が、深い森と円形競技場のような垂直に切り立った白い崖に囲まれるようにして立っていた。

この場所は美しいのだが、人の気配はなかった。夜の宿を求めるのは無理なようにも思えた。ここに漕ぎ入れてみると、ぼくはまたしても自分一人しか存在しない世界にいるという感覚になった。一本の木のところまで漕ぎ寄せてから上陸し、この秘境のような場所で、草をかき分けながら小さな集落まで歩いていった。

畑仕事をしていた人々は、いきなりフランネル生地の服を着た男が川の方から出現したものだからびっくりしていた。とはいえ、このクロスターの人々も「旅をしている小さな舟」のニュースについては知っていたので、ぼくのカヌーはすぐに二人の男の肩にかつがれて、立派な宿まで堂々と運ばれていった。ここの修道院を設立した王子も修道士なのだろうなと、ぼくは思っている。

「晩祷(夕の祈り)」の鐘が鳴るころ、ぼくが休憩所で壮大な景観を眺めながら食事をしていると、山々はみるみるうちに黒雲におおわれ、ものすごい雷鳴が長くとどろき、土砂降りの雨が降ってきた。

運のよいことに、この豪雨は、ぼくがちゃんとした避難場所を確保してから襲ってきた。空気が急に冷たくなった。これだけ雨が降ると、川は曲がりくねったりせず直線的に流れていくことだろう。尊敬すべき修道士たちは、そういうことにはまったく無頓着だったので、つまり、自分は屋根の下にいて雨中で野外にいる人を見るというのではなく、あるがままの現実をそのまま受け入れている様子だったので、ぼくは感心した。

この土地の友人を訪ねてきた少女の一人が、うまくはないもののフランス語を話すことができたので、ぼくの食事中は話相手をしてくれた。他の家族たちはというと、皆がぼくの持参したスケッチブックを眺めているのだった。何週間も続いたこの航海では、こういうことは少なくとも一日に二度は起きた。音楽が聞けるところはないかと思い切ってたずねてみたところ、大きなホールに移動することになった。そこではギターとピアノとバイオリン各一台で、コンチェルトが演奏されていた。歌をうたうことについては、ドイツの人たちは決してためらったりしない。

案内してくれたメラニー嬢は、今度はドイツ語しか話せない他の人たちとぼくとの通訳になってくれた。ぼくらの話題は、まったく無視するというわけにはいかない、いくつかの高貴なテーマに向けられた──つまり、「宗教」として、何が愛され、何が恐れられ、何が喜ばれ、何が馬鹿にされるのかということだ。

ぼくの荷物はとても少なかったが、選びぬいた品を持ってきていて、聖書の逸話集やフランス語とドイツ語で書いた紙類も含まれている。適当な折を見て使ったりしたのだが、たいていはきちんと受け止められ、大いに興味を持ってくれたり大真面目に感謝されたりもした。

文字が苦手で何か書いてやり取りするのをためらったり嫌がったりする人もいるが、人前で話すのが苦手だったり、乗馬やスケートやボート漕ぎが嫌いだという人だっているわけで、そんなことを詮索して小馬鹿にする必要はない。

外国語では正確に話せないことを明確な言葉で伝えるために、いくつか紙に書いて持ち歩くというのは、控えめに言っても、許容される範囲だろうと思う。自分にとっても相手にとっても非常に役に立ったり興味深く思えたりもするのだ。それで誰かを傷つけることはないし、誇りに思ったり恥ずかしいと思ったりすることでもない。ぼくもそれで人に笑われたりすることはもうない。

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現代語訳『海のロマンス』12:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第12回)


……波は……さざなみに至るまで、ありとあらゆる波はことごとく巨霊のカンナに削りとられて……いま沈みゆく、モヤのかかった赤い大陽は………………

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デッド・カーム(真の無風状態)

総帆を展開

帆船にとって風は生命(いのち)である。総量である。しかし、単に風といっても、微風(ライト)から台風(ハリケーン)まで風力の階段がある。北風、東風、西風等の方位の配列がある。熱帯風、貿易風、季節風等の風帯がある。

本船は十六日午前六時、館山の錨地を出て、九時まで機走を続けて完全な外海に出たとき、総員にて上はローヤルから下はコースまでの総横帆(そうおうはん)*1と、舳(みよし)はジブから、艫(とも)はスパンカーまでの総縦帆(そうじゅうはん)*2と合計三十余枚のセイルを展じた。ちょうどそのとき吹いてきた力強い西方の海軟風(シーブリーズ)をはらんでフワリと前方に張り出した放物線体の帆縁(セイル)の曲線美は、日ごろ見慣れている乗組員の目にも優美に映るとみえ、ここかしこに集まり、空を仰いで賛美する者が多い。実際、今まさに開こうとする蓮の花のような線曲率(カーバチュア)はどんな名工の塑像にも、どんな念入りの肉体美にも発見することのできない柔らかいデリケートな感じを与える。

昼の休みに冷たい甲板(でっき)に汗ばんだ体を投げて、高くマストの上に掲げられた風見の、色彩あざやかな吹き流しを見ていると、馬尾雲(ばびうん)と呼ばれる白い薄い柔らかい夏雲が軽く東へ東へと飛んでいる。船体は五百俵の米と二百樽の味噌や醤油の類と、氷室(アイスチャンバー)に納めた二百貫余の生肉とを満載しているため、赤い水平線を示す塗り色が波に埋まっているくらい喫水が深いので、縦揺れ(ピッチング)も横揺れ(ローリング)も少なく、船は一箇所に静止しているように思われる。かくして練習船はこの西風の好伴侶に送られてカリフォルニアの沿岸に達し、それから沿岸風を利用してサンディエゴに向かう予定である。

東西南北の四風をつかさどる風神のうちで、西風神(ゼフィラス)は最も穏やかな性質だという。この風の吹くところ、冷たい氷雪もとけ、野には薄くしい花が咲き、岡には黄金の果実が熟し、悠々としてくつろいだ雰囲気に満ちると言い伝えられている。われら海の子にとってはまたとない守り神である。

十八日に出帆して以来、青い海に咲く白い波の花と、夕方の空の濃い紫色の雲とをながめてすでに三日が過ぎた。その間も西風は絶えることなく吹き続け、強い黒潮の圧流とを受けて、日々二百海里余*3を走破し、二十日正午に位置は北緯三十六度十分、東経百四十八度四十七分、十九日正午からの航程は実に三百十九海里と、本船の帆走航程の記録(レコード)となるくらいだった。こうして、今や銚子から東に五百海里の沖にある練習船に、さらにこの後も西風神(ゼフィラス)の風が吹いてくれますように。


脚注
*1: 横帆 - 江戸時代の千石船のように、上辺(と下辺)に帆を張る棒(帆桁)がつき、マストと垂直方向に展開されるものを横帆という。
一般的な形状は、等脚台形に近い。
ロイヤル(セイル)もコース(セイル)も横帆で、一番下に張る大きな帆を特にコースセイルと呼ぶ。
メインマストのコースセイルが一番面積が広いため、これをメインセイルと呼ぶこともある。


*2: 縦帆 - 現代のヨットの帆のように、前縁を固定しマストと同じ垂直方向に展開する帆を縦帆という。
追い風を受けたときの推進力は劣るが、風上に向かうときや方向転換するときの効率がよい。
形状は三角形が多いが、ガフリグのように台形もある。
ジブもスパンカーも縦帆だが、ジブはマストの前側に展開し、スパンカーは船尾に展開する。


練習船大成丸は四本マストのバーク型と呼ばれるタイプ(写真)。
大成丸_figure02
前から三本のマストには、上から下へ五、六枚程度の横帆を展開し、
また、それぞれのマストから、ヨットのジブ(前帆)のように、斜めにロープを渡して三角形の縦を展開するようになっている。


ひとくちに帆船といっても多岐にわたり、マストの数や形状、建造年代によって呼び名もさまざまで、それぞれによって帆の名称も異なったりするが、総帆を展開した帆船は、おそらく人類が発明した「最も美しい乗り物」の一つ。


*3: 海里 - 長さの単位のマイルには、陸上のマイル(哩、約1609m)と海上のマイル(海里、浬、約1852m)がある。
原文では哩と浬が混在し、そのどちらにもマイルとルビがつけてある。
緯度経度や海上での距離の計算では主に60進法を使うので、明確に陸上と分かる場合を除き、ほぼ60の倍数となる海里を指すと判断してあります。

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