現代語訳『海のロマンス』17:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第17回)


霧中号角

(むちゅうごうかく)*1

ごうごうという風の叫び声とともに、冷たい白い細霧(さいむ)がマクベスの妖婆の配下にある千万のガマの醜い口から、一斉に吐き出される怨霊(おんりょう)の吐息のように流れ込む。

この細霧(さいむ)たるや、かの赤人(あかひと)のほのぼのと明石の浦の……*2とうたったような、なまやさしいものではない。絵のような詩のような奈良の古都を、いやが上にも古く、いやが上にも詩的に純粋にする初夏の朝霧のそれのようなクラシカルなものでもない。かつてはスペインの無敵艦隊(インビンシビルアルマダ)を漂泊させ、近くは上村将軍*3をして男泣きに泣かせた、海上の腹黒者(はらぐろもの)である。横着な魔物(まもの)である。だから「瓦斯(ガス)」という名称は、船乗りの身に、いかにも毒々しい険悪な律動(リズム)を与える。

ブレイスといわずリギンといわず、マスト、ヤードの別なく*4、この毒ガスがふれるところは、たちまち冷たい針のような細雨(さいう)となって、てきめんに化学反応が生じる。横柄(おうへい)づくで、いやがっていたのに無残にもこの軽い白いふわふわした妖怪に姿を変えられた水は、あわれなものである。雌牛に変えられてただモーと鳴くよう命じられたギリシャ神話の王女アイオのようなものである。

一日に千里を走る台風という大きな翼に駆られ、泣きながら休息(やすみ)もせずドンドンと飛ばされる霧は、涙の雨をそそぐべき格好のところをさがす。この小さな無数の妖鬼(ようき)の行く手にあたるものこそ災難だ。大成丸は運悪くも、この貧乏くじを引いたわけである。

とてつもない大量の「ガス」の恨みが凝縮し、リギンやマストやヤードなどからしたたり落ちる細雨となって、いままで踏み心地のよかった乾いた甲板を冷たくヌラヌラと潤しはじめると、ここに残酷なうら悲しい光景が繰り広げられる。油臭い重い雨合羽(あまがっぱ)が必要となり、長靴(シーブーツ)が引き出される。人々の眉の間には深い谷ができて、のろまで間が抜けた調子の、のんだくれた雄牛の鳴き声のようなフォグホーンが、一分間ずつ、ひっきりなしに鳴らされる。どうしても、ワーズワースの哀詩の題材になってしまう。

また、このときの天気は思い切って人を馬鹿にしたもので、船のブルワーク(舷墻)から外は黒白(あやめ)もわからない霧の海であるが、肝心かなめの太陽様(おてんとうさま)は、十中の八、九はにこやかにマストの頂(てっぺん)で、いつものように光り輝く笑顔を見せている。「雨のふる日は天気がわるい」という俗謡(うた)は、船の中では通用しないことになる。つまり、太陽が見えているのに時ならぬ雨、しかもリギンか降り注ぐ雨という、なんとも奇妙な天気といわなければならない。要するに、北太平洋では妖霧(きり)は立体的ではなく平面的に、ニューヨーク式にではなく東京式に、横に長く広がっていくようだ。

衝突予防法の第十五条第三項に「帆船の航行中は最大一分間の間隔で、右舷開きならば一声を、左舷開きならば二声を連吹(れんすい)し……」*5とあるのは、つまり霧中号角(フォグホーン)についての規定の一節である。薄暗くなったなかを白く軽い霧が蛇のようにもつれて波の上を這い、水平線がはっきりみえなくなると、たちまちボーボーという、色彩も階調も配列もない大陸的なノッペラボーな饗音が見張りの手によって絶え間なく鳴らされる。

フォグホーンという名称は、かつてアリアン民族がまだ定住せず移動して生活し、互いに攻略しあっていた野人時代に、信号用として、または礼節用として用いられた角笛に始まったとか、その後、それが陸上から海上へ、礼節用から警戒用にと変転したもので、昔はさほど無愛嬌な響きを放たなかったらしい。この伝説に加えて三千年後の今日まで帆船に用いられているということを考えあわせると、美しく飾られた高野の山駕籠(やまかご)くらいにはたとえることができるかと思う。

奈良の霧は絵のような都を美化する要因(ファクター)で、テムズ河の霧は沈鬱(グルーミー)な川面の色彩を多少ともやわらげて、その露骨な幾何学的な自然を絵画的に純粋にする効果を持っているとすれば、この場合の妖霧烟雨(ようむえんう)は審美学の第三則として昔の角笛の神秘的な音を悪く誇張し、品位を落として俗化し、このような調和のない、むしろ静寂をぶち壊すような野蛮な音に変えたもので、美化とは反対の効果(エフェクト)を表すものとみてよかろう。

されば、フォグホーンはわれら海上のコスモポリタンが、空中の奇怪な野武士にむかって発する宣戦布告のラッパであるといえよう。「ね、君、ここからこうやって距離をおいて聞いていると、あんな雑音でもちょっと余裕があって、これに銀の鈴の音と牧歌的な奥ゆかしさが加わったなら、たしかにアルプスのカルパチア地方あたりの牧場をイメージできるようだね」と賛美した気まぐれ者があったにしても、だ。まあ、人によっては案外に音楽的に聞こえるかもしれない。ただし、カルパチア地方云々(うんぬん)は保証の限りでない。


脚注
*1: 霧中号角 - 霧にまかれたときに「ふいご」を使って警戒信号の音声を発する装置。霧笛やフォグホーンと同義。現代のフォグホーンは電気やガスなどを用いて音を出す。


*2: かの赤人の - 「ほのぼのと あかしの浦の朝霧に 島がくれゆく 舟をしぞ思ふ」は、古今集に収録された読み人知らずの和歌。
山部赤人の作ではないので、「かの赤人の~」は、作者の思い違いか。


*3: 上村将軍 - 日本帝国海軍の海軍大将・上村彦之丞(かみむらひこのじょう)のこと。
日本海におけるロシアとの海戦で、濃霧などのために失態をおかして国民の非難をあびたりしたものの、その後の戦いで沈没した敵艦の兵士を救助したことから、日本の武士道を世界に示したと称賛され、「上村将軍」という彼をたたえる歌までできた。


*4: ブレイスはヤード(帆桁)をコントロールするロープ、帆桁は帆を張るために帆の上辺につけた棒、リギンは帆船の索具の総称。


*5: 右舷開き - 右舷開きとは、帆走で、右舷から風を受けること。帆は左舷側に張り出す。左舷開きはその逆。
フォグホーンを音響信号として使う場合、現在でも針路を右に転じる場合は一声(一回鳴らす)、左に転汁場合は二声、後進する場合は三声、と指定されている。

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現代語訳『海のロマンス』16:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第16回)


カツオ釣り

和氏(かし)の璧(へき)にもなお一局のこけつあり*1というが、西風神(ゼファー)の寵遇を受けて順風と海流とに乗じ、ひたすらに東へ東へと走れる練習船も、たちまち女神ジュノー*2の妬(ねた)みを受けたのか、二十五日午後から南南西の風が急変して東風となり、みるみる船足は遅くなり、針路を北に向けることを余儀なくされた。東の国に向かう船に、北へ北へ行けとは、すこぶる非人情な要求である。というわけで本船はなるべく行き足が出ないように、なるべく一か所にとどまって、その間に再び例の西風をとらえようと画策した。

このような境地こそ最も表題の事業(カツオ釣り)は成功するというので、漁労長と異名(あだな)をとった水夫長(ボースン)の喜びといったらない。例の見張りがこっそりと、カツオが見えたとの職務以外の報告を水夫長の元にもたらす。やがて、カツオ! カツオ!と告げる声(アラーム)が口より耳へと全船にあまねく伝わる。ちょうど、それが職務遂行中でなかったものなら、それこそ大変、我も我もと太公望を自称する連中が続々と船首楼(フォクスル)に集まってくる。

緑色の碧玉(へきぎょく)を溶いて流したような水から、銀色に光る美しいこまかい物がイナゴのごとくシュシュッと水面をうってはね上がる。イワシである。それっ! 餌が! と大声で甲板上からどなる。晴れた夕映えの光線を受けて、きらきら輝き落ちてくる狐雨(きつねあめ)のごとく水を打つイワシのつぶてのあるところには、プツプツと千万の泡の粒の破(わ)れる音がして、数を知らぬカツオの鋭いすべっこい頭が集まり、ざわざわと水は波紋をなしてさわぎ流れる。きれいであるという優しい審美心と、釣ろうという残酷な功名心とがもつれあって、むらむらと心頭に浮かんでくる。

船に搭載されている竿の中で長く太い竹竿の先に青い糸と角針とをつけた水夫長(ボースン)は、よせくる長波(うねり)の高さに準じ、船体の縦動(ピッチング)に応じて巧妙に長い糸で水の上をなでまわす。晴れ渡った太平洋のはなやかな夏の光線(ひかり)と、心地よくさわやかな海の大気とのため、いやが上にものすごく光る紺碧(こんぺき)の海を通して、藤紫の背と鶯茶(うぐいすちゃ)のヒレをした奴がスウスウと保式水雷(ほしきすいらい)のごとく目にもとまらぬ速さで走り抜ける。見渡せば実(げ)にすばらしい壮観である。船首から覗(のぞ)いた左右両舷の海は果ても知られぬカツオの群集(む)れである。

勇ましく鼻先をそろえて、軽騎兵の密集団体のごとく、勢い込んで真一文字に進んでくる様子、船首線(ステム)でザックと割(さ)かれた波に寄せられて、驚いてサッとばかり水を切るや、チャッと銀色の腹を見せて横ざまに逸(そ)れ走るもの、稲麻(とうま)竹葦(ちくい)*3とはこのことか、あわれ本船はカツオの大軍に取り囲まれたも同然だ。

水夫長(ボースン)はと顧みれば、もう十数尾のはつらつたるものをデッキにと投げ出している。苦しがって尾にヒレに力をこめてわれとデッキに体をうちつけ、生ぐさい血を絞り出す魚を捕らえて、浴場(バス)に放して子供のようにつくづく喜ぶものもある。

「たしか手応えがあったがなあ」というため息の声に振り向くと、一人の学生が竿の先につけた銛(もり)を引き上げている。見れば、なるほど頭から背にかけて真紅の生々しい創傷をもったやつが懲りもせず悠然と泳いでいる。

「さすがは太平洋を横行する魚だけあって鷹揚なものだ」と水夫長(ボースン)はスッカリ感心してしまった。



脚注
*1: 和氏の璧(へき) - 韓非子(かんぴし)に記載された中国・春秋時代の故事から完全な玉(宝石)を指す。「完璧(かんぺき)」という表現の由来となった。ここでは、完全に思わえるものにも欠点はあるという意味で、天候に恵まれた航海で、絶好の天候が乱れてきたことを示すために使われている。


*2: ゼファーとジュノー - いずれもギリシャ神話に登場する神。
ゼファーは西風神で、嵐を呼ぶような強風ではなく、心地よい風を指す。
ジュノーは全能の神ゼウスの妻(ギリシャ語では「ヘラ」)で、結婚や母性、貞節の女神。
6月の花嫁(ジューン・ブライド)の語源は、この女神ジュノーから。


*3: 稲麻(とうま)竹葦(ちくい) - いずれも密集して生える植物であることから、多数が集まっている様子を示す。


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現代語訳『海のロマンス』14:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第14回)


草の枕も結ばねば

「帆のかげに富貴ひそむ」とは、かのジョンブルが豪語している言葉であるが、自分はさらに「帆のかげにロマンスひそむ」と言いたい。

古い昔の匂いをかぎ、神秘の色を味わい、小説(ロマンス)や伝説(トラディション)が好きな者は、この二十世紀の実利優先の世では、無骨者よ、頑固者よと笑われる。そういう人は帆船の空気を吸ったらよいだろう。ロマンスを味わいトラディションを研究することがロマンチックの第一義ならば、船乗り商売はいわゆるロマンチックな生活として、世の青靴下(ブルーストッキング)党*1にうらやまれることだろう。なぜかというと、帆船には昔のロマンスの形見となるべきものが比較多く残っているためだ。

その一例として、自分はここに帆船に絶えず用いられているログなるものについて話したいと思う。

時計はいわずもがな、日時計、漏刻(みずどけい)等の原始的な時間を示す機械がまだ発明される以前に、ギリシャやエジプトの古代王国で砂時計(サンドグラス)なるものが用いられていた。二つの木の台と数本の支柱との間に囲まれた細い頸部(けいぶ)を持つ二つのガラス球の中に細かな砂を入れたものがそれである。この古くさい、五千年前の粗野にして純朴なる一器具が、精巧なクロノメーター、六分儀(セクスタント)等の二十世紀の機器とところを同じくして船内に備えられているさまは、なんとも珍妙な対照を示している。しかし、いかに古い匂いのする帆船とはいえ、五千年前のイリヤン族を真似て、この砂時計を時刻を測るのに用いるわけではない。すなわち、船ではその速力(スピード)を測るために用いるのだ*2

毎時間の終わり五分前に風下船尾(リースターン)に、次の時間の風下当番(リーサイド)、舵手(ヘルム)、見張り(ルックアウト)等が「ログ、流せ!」の号令で集まってくる。やがて、そのうちの一人はくだんの砂時計を持ち、クリヤーグラスと叫ぶ。これは、砂が一方のガラス球に集まったのを告げるのである。測程線(ログライン)──良質の木綿糸を太く撚り合わせた適当な長さの線の先に測程板(ログシップ)という扇型の小板をつけたもの──を手から繰り出す用意をしたもう一人が、測程板(ログシップ)を水に投じると同時に「反転(ターン)」と呼ぶ。砂時計はひっくり返され、測程線(ログライン)は船の速力に応じて繰り出されていく。一つの球内の細かい砂がすべて下方の他の球中に収受されたとき、砂時計を持っていた者が「タイム」と呼び、測程線(ログライン)の送出者は線の送出をとめ、もともと線につけてあった標識(マーク)によって船の速度を知ることができるのだ。

このサンドグラスについては、西洋人もそぞろにロマンチックな感興を享受するものとみえ、ぼくの好きなロングフェローの詩にこんなのがある*3

灼熱のアラブの砂漠から
運ばれてきた、一握りの赤い砂
このガラスの中で、幾多の時代を見守り、叡智を導くものとなる。


(中略)

あるいは、ナザレのキリストを慈しみ深く抱いたマリアの
希望と愛と信仰の巡礼が荒野を明るく照らすところを

どこの野原や海岸のものともわからない、ひと握りの砂から、巧みに夢幻的な韻調(サウンド)や感慨を誘う状況を描きだしたロングフェローは、今この瞬間にサンドグラスを手に持って船尾(プープ)に立っている自分の想像のなかで、白い額で、大きなつぶらな眼をした、濃い縮れた髪の毛の男として描き出される。

そうして不思議にも、十四秒の最後の瞬間に、最後の砂のしたたりが細い頸部(けいぶ)を通過すると同時に、描き出された顔がフイッと消え失せた。あの白い額も、あの大きなつぶらな眼も、さてはあの濃い縮れた髪の毛もまた……。

黒い帆と軽快な船体とを巧みに操って地中海の海上権を握ったフェニキア人が珍重した簡単な器具が、代々伝承されて、ついに飛行機が飛び、無線電信が通じた科学万能の現代に、昔の匂いを吐き、色彩(いろ)を語ると思えば、なんとなく昔が恋しい、古代の人々がなつかしいという思いにかられたりするのだ。

船路(ふなじ)には草の枕も結ばねば、おきながらこそ夢も見えけれ*4 (重之)


 

脚注
*1: 青靴下(ブルーストッキング)党 - 18世紀中頃にイギリスの上流家庭の女性たちの間で開かれていた知的サロンとそのメンバーや同調者を指す。
練習帆船・大成丸の世界周航中に平塚雷鳥により設立された青踏社により出版された雑誌『青鞜(せいとう)』はその日本版ともいうべきもので、ブルーストッキングの活動は、歴史的には、女性をめぐる問題提起やフェミニズムの起源になったとも言える。

 

*2: 船の速度を知る - かつて船舶で速度を調べるために使用されていたのがログ(木片)で、木片を海面に落とし、一定の距離を流れる時間から速度を計算したが、この一定の時間を測るために砂時計が使用された。
帆船時代には木片の代わりに、下におもりをつけて垂直に立つようにした三角形(または扇形)の板を、空に揚げる凧(たこ)のように紐(ひも)をつけて船尾から流した。

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紐(ひも)に一定間隔で結び目(ノット)/印をつけておき、一定の時間(砂時計の砂が落ちきる時間)に、いくつ分の結び目まで流れたかで速度を知った。
海では、1時間(3600秒)に1海里(1850m)進む速度を1ノットと定義するが、これは2秒で約1mになる。
本文にあるように、大成丸の砂時計は14秒(正確には14.4秒)なので、7mごとの印(当初は結び目=knot)1つ分が1ノットを示す。

 

*3: 米国の詩人 H.W. ロングフェロー(1807年~1882年)の「砂時計のなかの砂漠の砂」という詩の一節
(1850年刊行の詩集『海辺と炉辺』所収)。
『海のロマンス』では英語のまま引用されているが、ここでは和訳したものを掲載。

 

*4: 船路… - 源重之(みなもとのしげゆき、生没年不詳)は平安時代中期の歌人で、三十六歌仙の一人。これは筑紫に赴任する際に詠んだ歌で、『拾遺集』に収録されている。

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現代語訳『海のロマンス』13:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第13回)


船中の音楽とメス猫

すさみやすい船乗りの心をやわらげるものが音楽であることを知るならば、無骨者が集まった越中島(えっちゅうじま)*1にピアノの音が響き、バイオリンの調べが聞こえるこることが、それほど不思議でないことがわかるだろう。

百二十五名の、生死をいとわない海の児が乗った練習船にも、尺八をはじめとしてマンドリン、ハーモニカ、横笛、バイオリン等の軽便にして雅趣のある楽器がたくさん持ちこまれている。また、日曜や大祭日(たいさいじつ)などの休日には学生用食堂の中央に一台の蓄音器が設置され、午前・午後と交代で非直になった者がニコニコしながらそれを取り巻いて座を占める。人々の顔にはもう予期した笑の色が流れる。やがて「鳩ぽっぽ」「雪やこんこん」の無邪気なものをはじめとして「野崎の連引(つれびき)」「三十三間堂」などの呂昇(ろしょう)*1の肉声に至るまで、それぞれ歓笑のうちに迎えられる。大きな子供等が髭面をくずして納まり返るところは本当に無邪気なものである。

この他に日曜の午後には汁粉(しるこ)の缶詰が開かれ、紅茶が供される。これも航海中に日曜を待ち遠しく思う要素の一つである。

前回の米国西海岸のサン・ペドロへの航海のときには、船には犬とワニと猫と三種の小動物がいて、少なからず船内の空気を華やかにした。ジャックと呼ばれた犬と、小さなワニとは在留日本人の贈り物であった。他の愛玩物たる猫は虎ブチのはいったやつで、愛らしい表情と、すばやい目つきとを持った、二等航海士(セカンド)のお気に入りであったが病気になったため、その後任者として三毛の美しい子猫が二匹やってきた。

誰やらの思いつきでさっそく赤と黄のリボンを首につけたまではよかったが、メス猫だからと頭からしたたかに香水をふりかけたところ、面食らって士官室に飛び込み、悪事たちまち露見して大目玉をくった風流児もあった。かてて加えて、こやつ、女に似合わぬしたたかな悪戯(いたずら)者で、さる人の秘蔵のマンドリンにじゃれて糸をめちゃめちゃにして手ひどいお叱りを受け、それからというものは糸の音には耳を伏せて逃げるのが一愛嬌となった。ときどき船倉(ホールド)の底で二匹が可愛らしい赤い口と口を、小憎らしい口ひげと口ひげとを寄せ合っているのを見うける。

「きっと、われわれの世界は動いてやまずとかなんとか言っているにちがいないぜ、君」
と言って、いあわせた者を笑わせた剽軽(ひょうきん)者もあった。この頃では三毛先生もすっかり船に慣れて、揺れ動く床の上を歩く腰つきも巧みである。

風下当番、舵手、見張り

船は今、右舷後方からの順風を満帆にはらみ、五、六度のこころよい傾斜をなし、軽く紺青の水の上をすべって行く。

風はさそれほど強くはないが、風の神の呼吸が規則正しいことを示すかのように、力ある一定の速力でそよそよと吹いてくる。なんとも穏やかで快適な航海である。こういうときには、風下当番(リーサイド)は少しのんびりした心持ちになる。

暁(あかつき)の海が血潮(ちしお)の色に燃える日も、重みのある黒い帆の影が甲板(デッキ)の上にはっている清い月の夜も、船が水に浮かぶかぎり船橋(ブリッジ)の上には必ず二人の学生の影が見られる。停泊中にあっては「甲板当番(かんぱんとうばん)」と呼ばれ、帆走中にあっては、すなわち「風下当番(リーサイド)」となる。

練習船では第一次の遠洋航海をすませた者を二期生と呼び、新乗船者を一期生と呼ぶが、風下当番は二期生および一期生より一人ずつ一時間交代に選び出されるのだ。「風下の水平線を注視し云々(うんぬん)」という指示がこの名称の由来になっているが、そのほかに晴雨計、乾湿計、海水寒暖計等の記入、時鐘(タイムベル)をたたくことなども、なすべき任務である。

時鐘(タイムベル)については、ここに面白い伝説がある。いつごろの世紀からか帆船の船乗りの間に大晦日(おおみそか)の正午の八点鐘*3を打つ独身者には、パンドラ姫のごとく、うるわしき幸ある花嫁が与えられるだろうとの言い習わしがあった。この民間伝承にあるような雰囲気は二十世紀の練習船の中にもはっきり残っておったものとみえ、サン・ペドロへの航海の際に、南カリフォルニアの近海で迎えた昨年の大晦日には、どちらかといえば敬遠されるこの役目を希望する者が多くて、ついにクジで決めたというほほえましい争いもあった。

世の中がだんだん手軽に、都合よく、科学的になって、野菜畑やビリヤードルームまで備えたオリンピック号やタイタニック号などの巨船が生まれてくるという時代に、蒸気力(スチーム)や水圧力(ハイドロール)すべての機械力を白眼視して、白い帆に黒い風が抱擁されるのを待つ帆船の艤装には、黒船のそれに比べて異なったところがたくさんあるが、舵輪(ホイール)などもその一つである。

練習船の艫(とも)には黒船に見られない樫(かし)またはチーク等の堅材で作った直径八フィート大の舵輪(ホイール)がある。これには二人の大の男が常にとっついている。一人は風上舵手(ウェザーヘルム)で他は風下舵手(リーヘルム)である。風上舵手(ウェザーヘルム)は二期生が担当し、一期性は風下舵手(リーヘルム)となる。やはり一時間交代である。舵能(ステアリング)の会得は多年の経験と、高度な技量とを要するもので、その研究は優に一科目を形成するものであるとは、日本航海界の権威たる松本教授の言であるが、実際にも風速、風位、潮流、波の高低および大小船の喫水等と深い関係がある舵能(ステアリング)の修練はとても困難であり、しかも趣(おもむき)のある問題である。だから、舵手(ヘルム)は常にマストヘッドの風見と航走羅針盤とを眺めて、風の方位と進路の保持に細かく心をくだくのである。

「左舷船首(ポートバウ)二点三マイル*4のところにクジラが見えます」と叫んで叱られた先人の逸話は、いまも見張り当番に立つ者が心ひそかにほほえむ種を作っている。手にメガホンを持って船首楼に立ち、水平線を凝視し、舷灯(ランプ)が見えないか、島影はないかと注視するのが見張りである。

夢よりも淡いサンサルバドルの島を遠く水平線のかなたに見いだしたコロンブスの喜びも、三角波が立ち騒ぐインド洋に船を進めてテーブルマウンテンを近くから仰ぎ見たバスコ・ダ・ガマの喜びも、ともに無名の一見張りの鷹のような鋭い視線によるのである。



脚注
*1: 越中島 - 東京都江東区の地名。ここでは東京商船学校(東京高等商船学校、東京商船大学を経て、現在は東京海洋大学)を指す。


*2: 呂昇 -  当時、人気が高かった女義太夫師の豊竹呂昇(1874年~1930年)のこと。


*3: 八点鐘 - かつて船で時間の経過を知らせるために鐘を鳴らしていたが、最初の三十分経過時に一つ鳴らし、一時間後に二つ、一時間半後に三つと、半時間おきに鐘の数を増やし、四時間経過時に八つ鳴らしたことから八点鐘と呼ばれる。通常、当番は四時間おきなので、当番終了を告げる鐘でもある。


*4: 左舷船首二点三マイル - 二点は、360度方位を32度方位で表したときの方位で、一度が11度15分なので「左舷の船首から22度30分の方位で、距離は三海里」の意味になる。ちなみに、陸上の1マイルは1609m、海での1マイル(海里)は1852m。

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現代語訳『海のロマンス』12:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第12回)


……波は……さざなみに至るまで、ありとあらゆる波はことごとく巨霊のカンナに削りとられて……いま沈みゆく、モヤのかかった赤い大陽は………………

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デッド・カーム(真の無風状態)

総帆を展開

帆船にとって風は生命(いのち)である。総量である。しかし、単に風といっても、微風(ライト)から台風(ハリケーン)まで風力の階段がある。北風、東風、西風等の方位の配列がある。熱帯風、貿易風、季節風等の風帯がある。

本船は十六日午前六時、館山の錨地を出て、九時まで機走を続けて完全な外海に出たとき、総員にて上はローヤルから下はコースまでの総横帆(そうおうはん)*1と、舳(みよし)はジブから、艫(とも)はスパンカーまでの総縦帆(そうじゅうはん)*2と合計三十余枚のセイルを展じた。ちょうどそのとき吹いてきた力強い西方の海軟風(シーブリーズ)をはらんでフワリと前方に張り出した放物線体の帆縁(セイル)の曲線美は、日ごろ見慣れている乗組員の目にも優美に映るとみえ、ここかしこに集まり、空を仰いで賛美する者が多い。実際、今まさに開こうとする蓮の花のような線曲率(カーバチュア)はどんな名工の塑像にも、どんな念入りの肉体美にも発見することのできない柔らかいデリケートな感じを与える。

昼の休みに冷たい甲板(でっき)に汗ばんだ体を投げて、高くマストの上に掲げられた風見の、色彩あざやかな吹き流しを見ていると、馬尾雲(ばびうん)と呼ばれる白い薄い柔らかい夏雲が軽く東へ東へと飛んでいる。船体は五百俵の米と二百樽の味噌や醤油の類と、氷室(アイスチャンバー)に納めた二百貫余の生肉とを満載しているため、赤い水平線を示す塗り色が波に埋まっているくらい喫水が深いので、縦揺れ(ピッチング)も横揺れ(ローリング)も少なく、船は一箇所に静止しているように思われる。かくして練習船はこの西風の好伴侶に送られてカリフォルニアの沿岸に達し、それから沿岸風を利用してサンディエゴに向かう予定である。

東西南北の四風をつかさどる風神のうちで、西風神(ゼフィラス)は最も穏やかな性質だという。この風の吹くところ、冷たい氷雪もとけ、野には薄くしい花が咲き、岡には黄金の果実が熟し、悠々としてくつろいだ雰囲気に満ちると言い伝えられている。われら海の子にとってはまたとない守り神である。

十八日に出帆して以来、青い海に咲く白い波の花と、夕方の空の濃い紫色の雲とをながめてすでに三日が過ぎた。その間も西風は絶えることなく吹き続け、強い黒潮の圧流とを受けて、日々二百海里余*3を走破し、二十日正午に位置は北緯三十六度十分、東経百四十八度四十七分、十九日正午からの航程は実に三百十九海里と、本船の帆走航程の記録(レコード)となるくらいだった。こうして、今や銚子から東に五百海里の沖にある練習船に、さらにこの後も西風神(ゼフィラス)の風が吹いてくれますように。


脚注
*1: 横帆 - 江戸時代の千石船のように、上辺(と下辺)に帆を張る棒(帆桁)がつき、マストと垂直方向に展開されるものを横帆という。
一般的な形状は、等脚台形に近い。
ロイヤル(セイル)もコース(セイル)も横帆で、一番下に張る大きな帆を特にコースセイルと呼ぶ。
メインマストのコースセイルが一番面積が広いため、これをメインセイルと呼ぶこともある。


*2: 縦帆 - 現代のヨットの帆のように、前縁を固定しマストと同じ垂直方向に展開する帆を縦帆という。
追い風を受けたときの推進力は劣るが、風上に向かうときや方向転換するときの効率がよい。
形状は三角形が多いが、ガフリグのように台形もある。
ジブもスパンカーも縦帆だが、ジブはマストの前側に展開し、スパンカーは船尾に展開する。


練習船大成丸は四本マストのバーク型と呼ばれるタイプ(写真)。
大成丸_figure02
前から三本のマストには、上から下へ五、六枚程度の横帆を展開し、
また、それぞれのマストから、ヨットのジブ(前帆)のように、斜めにロープを渡して三角形の縦を展開するようになっている。


ひとくちに帆船といっても多岐にわたり、マストの数や形状、建造年代によって呼び名もさまざまで、それぞれによって帆の名称も異なったりするが、総帆を展開した帆船は、おそらく人類が発明した「最も美しい乗り物」の一つ。


*3: 海里 - 長さの単位のマイルには、陸上のマイル(哩、約1609m)と海上のマイル(海里、浬、約1852m)がある。
原文では哩と浬が混在し、そのどちらにもマイルとルビがつけてある。
緯度経度や海上での距離の計算では主に60進法を使うので、明確に陸上と分かる場合を除き、ほぼ60の倍数となる海里を指すと判断してあります。

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現代語訳『海のロマンス』11:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第11回)


さらば富士山*1

連日の出港延期に、いささか退屈していた乗組員も、いよいよ十八日未明、さすがに懐かしい本土の最後の一角を離れて、左に洲崎(すのさき)、右に大島を望むにいたって、大いに士気を奮い起こした。午前九時、野島の鼻*2を左舷後方六マイルに遠望しつつ、総帆(そうはん)を展開したころの「燃え方」といったら、たいしたものであった。

このとき、わが左舷の後甲板員(こうかんぱんいん)の一人はコールタールを塗ってかたく密封したサイダービンを持ってきた。これは本船が航海中、毎日正午における船の位置を記した紙片を封入したビンを流して、大洋の潮流を測定する、いわゆる「潮流ビン」を模倣したもので、後甲板員(こうかんぱんいん)が徒然なるままに好奇心と面白半分とで製作したのだ。

その中には、次のような文句を書いた無変質紙が入っているはずである。

このビンを拾ってくださった方に、そのご親切に便乗し、お願いがあります。
私どもはこの近海の潮流の速度と方向とを知り、あわせてこのビンがどのような数奇な漂泊をした後に、あなたに拾われたのかを知りたいと思っています。
もし可能であれば、拾った場所と日時を、表記の練習船の寄港地まで、ご一報ください。

部員の一人はビンを投げ込むとき、何かつぶやいていた。いぶかしく思った仲間にたずねられたのだが、そのときの返事がふるっていた。「なに、実はちょっと、いいか潮流ビンよ、できれば、白砂青松の土地で見目麗(みめうるわ)しい乙女の手に拾われてくれ、と言ったまでさ」

心ある人に見せたいのは、このあたりの海から見た富士山である。紺碧の波が連なる水平線のかなたに、夢よりも淡く立っている姿、藍色に光る海の色に照り映えるその桃色の雪の肌、おとなしい内湾曲した弧線(カーブ)が白い空からボンヤリ浮かび出ている様子は、ラファエロの描く精女(ニンフ)の姿にもたとえられようか。乾ききった赤茶色の禿山(はげやま)を始終(しじゅう)見慣れた外国人が遠く船の上から見たとき、感嘆の声を放つのも無理はないと思う。いかにも彼らが「日本のパルナッソス山*3」と褒めるはずである。

白い白浜の灯台も青い野島の鼻もともに青い海の波のかなたに沈み去ったとき、日本に向かっての最後の名残は、この山によって惜しまれるのだ。しかし、それも一瞬の間で、やがて天城(あまぎ)の方から流れ漂っていった意地悪い灰色の雲に包まれた。さらば、わが富士山よ。さらば、わが故国よ、永久(とこしえ)に幸多かれ、わが美しき郷土よ!!


脚注
*1: 富士山 - 原文では、富士山の旧称の芙蓉峰(ふようほう)が用いられている。
*2: 鼻 - 海では、岬など海に突き出た部分を指す。鼻の語源とされる端(はし、はな)から。
「~鼻」という地名は西日本に多いとされる。
*3: パルナッソス山 -ギリシャ神話に登場する標高2457mの山。 ギリシャのあるバルカン半島を東西に分ける脊梁山脈のピンドス山脈の一部。

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現代語訳『海のロマンス』10:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第10回)


美しきサンゴの墓

出帆はいよいよ十三日午前八時と決まった。碇泊時に帆を固縛しておくロープ(ハーバーガスケット)は航海用のもの(シーガスケット)に交換し、索具関係のチェインなど要所々々には擦(す)れどめのマットを縛(しば)りつけた。これで万事オーケイだ。

山紫水明(さんしすいめい)のここ鏡ヶ浦に別れを告げるのも、わずか数時間後である。富士山の白い冠が遠く水平線のかなたに消えてゆくときの気持ちを今から予想してみる。鷹島(たかのしま)や沖島(おきのしま)のそそぐ視線を少し右に転じると、広大な太平洋の群青色がすぐそこの湾口にまで迫っていて、「来たれ、汝(なんじ)、海の児(こ)よ、われ抱擁(ほうよう)せん」というように光っている。

というわけで出帆の準備は整ったのだが、あるやむをえない事情のために、さらに数日出帆を延期しなければならないことになったのは、はなはだ残念なことだった。

草は緑にかぐわしく、花は紫に匂うワラキア*1の谷間に、髪うるわしい乙女がいる。天鵞絨(びろうど)のような斜面(スロープ)の上に涼しげな月の光がすべるように流れこんでいる夜半、青い海、白い雲を望んで、一人静かに歌っているのが聞こえてくる。

もとより吾(われ)は海を好めば
     涯(はて)しも知らぬ大洋(おおうみ)のさなかに
人知れぬ神秘ひめつつ
     やすらかで静かな海底の
美しきサンゴの墓に
     葬られ去る船人(ふなびと)多しと思う

これは十三歳の一少女の飾り気のない心からの海に対する賛美の声である。船人に対する同情の叫びである。海は生きた教場である。風雨は親切な先生である。台風や怒涛(どとう)はまたと得がたい鍛錬の好機である。だから、十三日未明の出帆予定だった練習船がその後もなお数日引き続いて南総(なんそう)の鏡ヶ浦(かがみがうら)に過ごしたことを、連日のシケや逆風となる暴風を忌避したからだと誤解されては、舵をとる身にとって、子々孫々までの名折れであり、せっかく賛美し同情してくれたやさしい少女の心に対してもすまないことになる。

延期の理由は別に存在している。それは、あるやむを得ない事情のために、最初の訪問港だったメキシコのマンザニロを南カリフォルニアのサンディエゴに変更したからだ。しかし、事情は事情としても、勇んだ心の船人にとって耐えがたいのは、この前代未聞の大帆走航海を前にして何もすることがなく船にいなければならないことである。

風は資本であり、帆は身上であるといっても、この頃の逆風の強風にはほとほと閉口せざるをえない。ビュービューと南西の烈風が一陣二陣と、突如として上空から吹き落ろしてくると、巨大な海の神のネプチューンの手につかみあげられたかのように海は逆立(さかだ)ち、空を圧してく大波が白いたてがみをふり乱しながら押し寄せてくる様子は、神馬ペガサスが常軌を逸しているようである。マストにおびえる風の悲鳴と、白い波頭をもたげてさわぐ三角波の響きに包まれている練習船は、夕方の穏やかな風に漂う笹舟にたとえるのも愚かである。

晴雨計(バロメーター)は、世をのろい大自然に軽んずる者への見せしめを見よやとばかり、ズンズンと下降する。

先日、品川を出帆する二日前に、水天宮様(すいてんぐうさま)ではなくて、いささかお門違いの観音様の浅草寺に「船路やすかれ」とお参りしたことがあった。そのときデルファイの神託ならぬ、ガラガラともったいぶってくじ箱を振って、それとばかりに出された御籤(みくじ)には、かたじけなくも、若聞金鶏声般得順風(夜明けに鶏の鳴き声を聞けば順風にめぐまれるだろう)とあった。

館山(たてやま)に入港して船首を太平洋に向けて以来、少しも祈願の念を中断しなかったのを哀れとおぼしめし、願わくば、金鶏の声を聞かしたまえと祈るのであった。耳をすまし目を見開いて何も聞きのがしたりしないぞと、瞬時ものがさず気にかけていたのは大慈大悲(だいじだいひ)の観音様のお声であった。しかし、よくよく前世に菩薩の扶托(ふたく)が薄かったとみえ、聞こえるものはただマストにうなる風の声である。船の舷をたたく波の音のみである。

「ちょうど盂蘭盆(うらぼん)のことだからひょっとしたら金鶏の奴め、仏様のお供をして陸地(おか)に呼ばれて、盆踊りでも見て悦に入っているだろう」と誰やらが言った。

—————————

脚注
1: ワラキア - 現在のルーマニアの黒海に面した地方にあったワラキア公国を指すと思われるが不詳。吸血鬼ドラキュラのモデルになったとされるヴラド・ウェペシュ公(現在は建国の父として再評価されている)は、このワラキア公国の領主だった。 

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現代語訳『海のロマンス』9:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第9回)。


水夫長と木工

「水夫長(ボースン)いなけりゃ夜も日も明けぬ、ましてこの船は動きゃせぬ──」
と気軽な若い一人の水夫が歌っている。

練習船を訪問し、水夫の会食部屋をのぞいた者は、日に焼けた髭面で童顔の小柄な一人の老水夫の周囲に、水夫長(ボースン)々々と親しげに多くの水夫が集まっているのを見ることだろう。水夫長の姓は神谷(かみや)といい、五十年ほど前に、三河のさる漁師の家に生まれたと言われている。

いったい船乗りはいつまでも男くささが抜けず、六十くらいまでは若々しく見えるが、この人もその例にもれず、五十をこえた今日このごろまで、かくしゃくとして若い水夫をしかりとばしている。見るからに貧相な小男だが、その身軽な動作は本当に巧妙で、目もあざやかな離れ業(わざ)を平気でやってのけ、そばにいる士官などをハラハラさせている。マストの上で、足で綱索(つな)を握って両手でむずかしい仕事をしたり、錨に抱きついたまま海面近くまで降りて錨鎖のもつれをとったりするのだ。この男、一九○四年に練習船が神戸の川崎造船所の船渠(ドック)で新造されて以来ずっと乗り組んでいるのだが、つい二日ばかり前に逓信省(ていしんしょう)*1の褒章(ほうしょう)制度によるメダルを貰った。

木工(カーペン*2)は姓を山内と呼び、こちらも練習船の名物男の一人である。「本船の大工は他船にみない優良なる者であるから……」と、常に一等航海士(チーフ)のおほめに預かっている人だ。バルカンの鉄槌*2の下に生まれたというような剛毛の髭に日焼けした黒い顔という不敵な面魂(つらだましい)で、気の弱い者は一目見てびっくりするくらい。

が、この男、面(つら)に不似合いな、やさしい涙もろい心を持っていて、水夫の間に不幸のあったときなどは率先してこれを救助し、誠の心の限りをつくすという変わり者である。

「いまどきの若いやつらのすることは手ぬるくってしかたがねえ」と罵倒する口の下から「無理ねえや、まだケープホルンはおろか紀州灘(きしゅうなだ)も玄界灘(げんかいなだ)*3も通らねえやつらだからなあ」と無邪気な哄笑(こうしょう)をするところなど、なかなかに愛嬌がある。

この人も前記のメダルを貰って、大臣から直接のご褒美(ほうび)だと子供のように喜んでいた。

脚注
*1:逓信省 - 明治時代の政府官庁。当時の役割がそのまま該当する現在の省庁は存在しないが、業務内容は現在の総務省と、民営化された日本郵政(JP)やNTTを併せた役割を受け持っていた。


*2:カーペンはカーペンター(大工)を指す。木造船や帆船の時代には、船大工が果たす役割は大きかった。


*3:バルカンの鉄槌 - バルカン半島にあるギリシャから東欧のブルガリアやクロアチアを含む広大な地域はヨーロッパの火薬庫と呼ばれ、戦火が絶えなかったことから。

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現代語訳『海のロマンス』8:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若さあふれる商船学校生の手になる異色の帆船航海記が現代表記で復活(連載の第8回)


今回は、六分儀(セクスタント)を使った現在位置の測定(天測術)について述べています。
ヨットのスナーク号で太平洋を周航した作家のジャック・ロンドンによれば、彼のような素人にとって、天測を行う航海士は、凡庸な人でも「神聖な儀式をつかさどる司祭」(『スナーク号の航海』)のように見えたそうです。
現代のヨットマンにとっても、ある種の憧れがある、高尚な(なんか奥深そうな)技術に思えますが、練習船では、、、


山を裂き、岸を噛み、咆哮(ほうこう)と怒号(どごう)に満ちた自然が、その偉大で巨大な手を人間の頭上にかざすとき、人間というこざかしい二本足の動物は冷笑しつつ、見えないように隠れて、ちょこまかと小馬鹿にしたような抵抗を大自然の足元に加えるのだが、天測もその一つである。六分儀(セクスタント)はその目的のために用いる最も皮肉な武器である。

昔、スミスという男は、鏡は人間の個性を消し、人間の尊厳を軽んじる曲者(くせもの)だと述べた。六分儀にはその鏡が二つもついている。いくら日々の船の正午の位置を出すためとはいえ、太陽や月や星の別なく、とにかく赤や青に光るものを見れば、親のかたきにめぐりあったかのように、ただちに二枚の鏡でとって抑え、二つのネジで水平線に並ばせ、長く細い望遠鏡をくぐらせたり、はてはシェイドグラスで赤や青や紫など、さまざまの色に染め分けるなど、なんとも冒涜(ぼうとく)の極みであって、八大地獄の呵責(かしゃく)のムチを受けるのも遠くはないだろう。あるいは、タイタニックが沈んだのも、オリンピックでの失敗*1も、太陽神の知らせによって海神がくだした冥罰(みょうばつ)かもしれない。

アリアン族の理想は太陽神アポロである。大和民族の信仰の最高位は日の女神の天照大神(あまてらすおおみかみ)である。ペルシャの住人は日輪を拝して教えとなし、春秋の民は三尺さがって師の影を避けた。影でさえ三尺さがって踏まなかったのに、最も神聖な天地間の具象を断りもなく玩具(おもちゃ)にするとは大逆もいいところで、ありえないことだ。

練習船では、午前の八時と正午に左右の四舷直*2の学生のいずれかが、専任教官の監督の下で必ず太陽の高度を測定する。ピーッと専任教官の用意を促す笛が鳴りわたると、すわとばかりにテレスコープをのぞく眼差しは稲妻のように光り、各人各種のシェイドグラスで、あるいは真紅に、あるいは紺青に、鴇色(ときいろ)に、鶯茶(うぐいすちゃ)に、無残にもとらえられた太陽の影像を逃すまいとばかりに調整用のねじを動かして、離れよう離れようとするものを無理やりに、空と水とを分ける一本の水平線に引き下ろす。やがてピーッと鳴る専任教官の合図で、そのときの高度の値にクロノメーターの時分秒を組み合わせて自船の位置が決定される。

正午の観測は子午線高度(メリオン)と称し、太陽南中の高度、すなわち一日で太陽が最も高くなったときにレンズに収めて角度を測ることをいう。瑠璃(るり)色の空を切り裂いて、ひた昇りに昇る直径三十二分*3の太陽を追い詰めた一人が「いまだ。もうのぼらない」と叫ぶ。「どっこい、まだ動いてるよ、静かに静かに」と他の一人が舌打ちをする。まるで太陽をモデル扱いにしている。中には「まずいよ、下がりかけた、ちょっと待ってくれ」とどなる二十世紀の浄海入道*4もいる。

しかし、太陽はまだ問題が少ない方で、月とか星とかになると、ちょっと面倒である。ことに銀色に輝く何千万という星屑(ほしくず)の中から、命ぜられた一つの星を抜き取るのは至難の業(わざ)である。要するに、本音をいえば、天測は厄介な作業の最上位にくる。
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訳注
*1: 練習帆船大成丸が世界周航に出発したのは1912年。この年の4月にタイタニック号が沈没し、日本が初参加した同年のオリンピック・ストックホルム大会で、当時の世界最高記録保持者の金栗四三(かなくりしそう)が日射病で倒れたことを指す。 
*2: 舷直とは、乗員を作業グループごとに分けた、いわば勤務シフトのようなもの。
*3: 直径三十二分は太陽の視直径(見かけの大きさ)のこと。平均した太陽の視直径は地表から見た角度で0.5331度、これを時分に換算すると31.99分になる。
六分儀を用いた天測術(太陽や月、星の高度や位置を測定することで、自分の位置を割り出す技術)については、「ノウハウ 天測航法」で詳細に説明しています。
*4: 浄海入道 - 平清盛の戒名。

お断り
現代表記に改める際は原文の表記を尊重して行っていますが、現代の一般人の理解を容易にする範囲で、漢字や仮名遣(づか)いに加えて、[檣(しょう) -> マスト]など、名称の表記や表現自体を変更した場合があります

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現代語訳『海のロマンス』6:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著


夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第6回)


品川を出港した大成丸は横浜で歓迎式典に臨んだ後、東京湾を出たところで六分儀の調整を実施し、房総半島の沖合に錨泊した。


砂とりと水遊び

ボンボヤージの歓声を受け、華やかで華麗に横浜を出た本船が、ここ南総の一角にある鏡ヶ浦に寄港したのは、ただ砂とりという唯一の作業が残っているからだ。

一年二ヶ月の間、訪問する港への出入時はいうまでもなく、その他に毎週土曜日に大掃除を行うのだが、その際の甲板磨き(ホーリーストーン、ホーリーストーニング)に用いる砂は内容積が十一トンもある砂庫(しゃこ)を満杯にしていてもなお足りないほどだ*1。無骨で太く日焼けした腕を持つわれわれは、六丁のオールも曲がれとばかりに、深緑色の清波(せいは)の中に突っこみ、北条六軒町の松原を目がけて懸命に漕いだ。

松青く砂白き浜辺にボートを係留し、シャツ一枚の身軽な格好で、さながら幼児の浜遊びよろしく喜々として砂を浜に積みこむ。積みこみ終われば船に帰って砂庫(しゃこ)に運び入れた。汗をふく暇もなく、ボートを洗う。船乗りの生活は忙しくも面白い。

「本日午後五時より、三十分間、総員泳ぎかた、許す」という告示が一等航海士から下った。これが一年二ヶ月の間の泳ぎじまいだとばかりに、どの船室も大喜びだった!

五時の総員整列の合図で、百二十五人のヘラクレスの申し子たる偉丈夫が、ふんどし一つの裸でズラリと並ぶ。やがて、打ち方はじめの号音で、次々にイナゴのように海に飛びこんだ。貨物の積み込み口から跳びこむものもいれば、海面から十メートルほどの高さがある波よけのブルワークから、龍門入りよ、地蔵入りよと、飛びこみの秘術をつくし、また観海流(かんかいりゅう)だ、水府流(すいふりゅう)だと、抜き手の巧みさを競う。

イナゴのごとく飛べば、スイカのごとくに潜る。泳ぎも速いし、水にもぐるのも巧みで、人間の大きさをした鯉が踊っているようで、足の伸び縮みの自在さ、海にいるとは思えないしなやかさで、走っているようだなどと褒めてやるべき熟練者もいる。やがて五時半となり、打ち方やめの号音と共に、一同再び整列し、一等航海士とドクターの点検をうけた。

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訳注
*1: 帆船の甲板は定期的に海水をまいて掃除するが、その際に甲板に砂をまき、椰子の実を半分に切ったものでごしごし磨く。
これをタンツーと呼ぶが、それに使う砂を海岸で確保するため、ボートで房総半島の砂浜に上陸したもの。
作者はこの砂をホーリーストーンと呼んでいるが、一般には、汚れがひどいときに使う砥石状の石をホーリーストーンと呼ぶことが多い。

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