ヨーロッパをカヌーで旅する 34:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第34回)


その日の午後は、騒々しい二つの楽団でだいなしになった。両者は明らかにライバルで、互いに負けまいと大音響を出しあっていたのだ。とばっちりを受けたのは、週末を湖畔で静かにすごしたいとやってきた旅行者たちだ。ぼくは湖の周辺で長い散歩をしたのだが、この騒音からのがれることはできなかった。おまけに、戻ってくると、月の光に照らされた湖にボートを浮かべている男がいて、打ち上げ花火を発射したり爆竹を鳴らしたり回転花火を放り投げたりしているのだった。ぼくとしては、遠くの、残雪が満月に照らされている山々をうっとりと眺めているほうがずっとよかった。しかも、頭上には「一つ一つの星」がきらめき、それが湖面にも映っているのだ。

コンスタンツ湖は長さが四十四マイル、幅は九マイルほどだ。翌朝早く、心身ともににすっきりして湖にカヌーを浮かべてみた。湖面には、さざなみ一つなかった。すると、もう一度スイスの旅を、以前とは違う新しいやり方でやってみたいという気持ちになった。まもなく、ぼくはカヌーに乗って沖出しし、どちらの湖岸からも同じような距離にあるところまで漕いでいった。ここまで来ると、どっちに漕ぎ進んでも対岸が近づいてくるようには感じられない。それで、一休みした。このときに感じた興奮は確かに初めて体験するものだった。周囲の景色はどこを見ても美しく、どこを眺めるのも自分の勝手だった。どこにも近道はなく、道路もなく、航路も見えない。時間もなく、せかされる予定表もなかった。パドルを漕ぐだけで右にも左にも行けた。どっちに行くか、どこで上陸するかも、まったく自分しだいなのだ。

聞こえてくるのは、一隻の蒸気船の外輪がゴトゴトいう回転音だけだ。しかも、その蒸気船はまだ遠くにあった。その船が近づいてくると、乗客たちはカヌーに喝采してくれた。ぼくの勘違いでなければ、彼らは笑顔を浮かべ、こっちがいかにも楽しそうに、そして素敵に見えるので、それをうらやましがっているというようにも思えた。これからどうするか少し思案したが、このままスイスまで行ってしまおうと決めた。集落が続く湖岸を漕ぎ進み、奥まった入江にある小さな宿屋に寄ることにした。カヌーを係留し、朝食を注文した。宿には八十がらみの老人がいた。彼が主人で給仕も兼ねているのだった。立派な人だった。人は年を重ねるにつれて、年長者には敬意を払うようになる。

その宿屋で食事をしたり本を読んだりスケッチをした。暑く、静かだった。そうしていた五時間ほどの間、彼は日向ぼっこをしながらぼくの話相手をしたり、ぼくの目を山々に向けさせたり、眠そうな声で何かを答えたりしていた。今度の川や湖の旅では、平和でほとんど夢のような休息のひとときだった。激しい川下りをしてきた後なので、なんとも心地よかった。ここには、カヌー旅につきものの急流や悪戦苦闘というものがまったくないのだ。

宿屋の近くに介護施設があった。古い城で、少し認知症気味のかわいそうな女たちが入所していた。カヌーに取り付けた小さな旗が彼女たちの注意を引いた。入所者たちは全員外に出るのを許され、カヌーを見物に来た。楽しそうに笑顔を浮かべ、訳のわからないことを言ったり身振りで示したりしている。この奇妙な集団と別れると、他の場所でまた上陸した。一本のすばらしい樹木があったので、その木の下で一、二時間かけてカヌーの損傷したところを修理した。ちょっとした道具は積んであるのだ。今度の旅の次のステージではイギリス人の視線も気にしなければならないので、念入りに磨き上げた。

あまりに暑く、湖には波を起こすエネルギーすらなかった。羊につけてある鈴が、ときどき、疲れて気乗りしないように、不規則にチリンチリンと鳴っていた。一匹のクモがカヌーのマストから木の枝まで糸を張り、セキレイが近くの小石の上を跳ねながら歩いている。湖水に半分浸かった状態のカヌーと、そばの草むらに寝転んでいるぼくの方をいぶかしげに見つめたりしていた。


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ヨーロッパをカヌーで旅する 33:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第33回)


一九三九年、一隻の蒸気船がここを航行しようとしたが、浅瀬に乗り上げてしまった。努力のかいなく離礁できず、そのまま放置された。というわけで、蒸気船に乗るにはドナウウェルトまで行かなければならない。そこからは蒸気船で黒海まで行くことができる。ウイーンから下流を航行する旅客船は高速で予約も可能だ。

ウルムには丸太のイカダが浮かんでいた。こうした丸太はイル川から来たのだろうと思う。というのは、ドナウ川の上流をカヌーで下っているときには丸太を見かけることはなかったからだ。川には公設の洗濯場がいくつもあった。川に大きな建物が浮かぶように設置され、庇(ひさし)が大きく張り出している。五十人ほどの女性が片膝をついたり低い手すりから身を乗り出すようにして一列に並んでいるのが見える。こぞって服を容赦なくたたきつけている。

ぼくはまっすぐその女性たちのところへ向かった。カヌーを上陸させられるようなところがないか、また駅までどれくらいあるのかを聞くためだ。すると、年かさの婦人がカヌーを運ぶための男手と手押し車を見つけてきてくれた。ぼくがイギリスから来たのだと知ると、女性たちは一斉に前よりも大きな声で話をしだし、懸命にたたいたりこすったりしたので洗われている服がかわいそうだった。

例によって駅ではひと悶着あった。とはいえ、カヌーの取り扱いはその半分にすぎなかった。残りの半分はというと、ヴュルテンベルク王がらみだった。この王様がフリードリヒスハーフェンの王宮に行くための特別列車に乗り込もうとされていたのだ。王族の至近距離にゲーグリンゲンからやってきたみすぼらしい不審な男がいる、目を離すな、というわけだ! この王様は明らかに威厳のある振る舞いをされていたが、すべてが王様らしいというわけではなかった。それどころか、誰も乗っていない王室御用達の列車に敬意を表するよう衛兵に命じるときなど、それを面白がっているようなところもあった。

王様の一行はすぐに出発して見えなくなった。

ぼくが山岳や森林をへめぐり波とたわむれていた十二日間に起きた世の中の動きを知るため、ここで新聞を買った。すると、「アレはどうなってる?」といろんな人に声をかけられた。アレというのは、海底ケーブルを敷設していたグレート・イースタン号での事故と、スイスの氷河で起きた災害のことだ。海底ケーブルの破断と山岳地帯における登山者の死亡事故に何か関係でもあるのかと思わせるほどだった。ぼくが新聞を読んでいる間も、列車はフリードリヒスハーフェンに向けて南下していく。カヌーは貨物扱いで、運賃は三シリングだった。気はすすまなかったが、木片を精緻に組みつけたカヌーの磨き上げた前部甲板に荷札が貼りつけられていた。

コンスタンツ湖*1の北端にある港は活気に満ち、汽車を降りて眼前に広がる魅力的な景色を眺めるだけの価値はあった。この地について、湖を渡ってスイスまで運んでくれる蒸気船を待つ間に半時間もあればあらかた見物できると片づけてしまうのは申し訳ない。ぼくは日曜日には休むことにしている。そのためにここに来たのだ(速く、遠くへ旅行したいというのであれば、逆説めくが、日曜日はむしろ休むようにしたほうがよい)。ホテルは駅前にあり、湖に面してもいたので、ここはまさにカヌー持参で立ち寄るためにあるような場所だった。というわけで、ぼくはカヌーを上の階のロフトまで持ち込んだ。そこでは洗濯女たちがカヌーを置いておくスペースを空けて監視してくれただけでなく、親切にもセイルや激しい航海で傷んでいる他のこまごまとしたものまで修理してくれた。

翌日、プロテスタントの立派な教会で礼拝があった。参列者も多く、きらびやかな衣装を着た典礼係が取り仕切っていた。礼拝は一人の婦人によるヘンデル作曲のメサイアから『慰めよ』の独唱という、絶妙かつシンプルなものではじまった。彼女の声は、この厳粛なメロディーが普通は男声で歌われるものだということを忘れさせてくれた。それから大勢の子供たちが祭壇に上がって十字架像を取り囲み、とても美しい讃美歌をうたった。次に参列者全員が加わり、品よく、しかも熱意をこめて讃美歌を斉唱した。若いドイツ人の牧師が雄弁に説教をたれ、散会となった。



訳注
*1: コンスタンツ湖:ドイツとスイスの国境にある湖で、ボーデン湖とも呼ばれる。面積は約536平方キロで、琵琶湖よりやや小さい程度。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 32:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第32回)


第六章

夜の間、懸念した豪雨もなく、翌朝は晴れて気持ちがよかった。今度の航海では、これまでもこうだったし、これからもそうだろう。昨日が例外なのだ。この場所を出るときになって、そこがゲーグリンゲンと呼ばれるところで、ウルムまでほんの九マイルしかないとわかった。

この町にある教会の高い塔がまもなく見えてきたが、うれしいという気持ちにはならなかった。というのも、ドナウ川を下るぼくの川旅も今週が最後になるからだ。日誌には実際に「景色もよく天気にも恵まれ、体もしっかり動かしたし冒険もできて、最高に楽しい週だった」と書いた。

というわけで、ある種の感慨にふけりながら、とある公園に上陸し、温かい苔むした土手に寝ころがって体を休めながら、あれこれ夢想していたのだが、やがて、大砲を打つドーンという大きな音が山野にこだました。と、すぐに歩兵隊による鋭く切り裂くような銃撃音も聞こえてくる。周囲の高地の縁には、青い制服を着た兵士たちや銃剣が見えた。砲撃の音が聞こえるかなり前に、射撃がなされた銃口から綿毛のような硝煙が立ち上るのが見えた。ウルムは名高いかつての戦場で、この中隊は近くの丘を取り囲んで模擬射撃訓練を行っているのだった。雄々しく闘った兵士たちについては、今はそっとしておいてやろう。普仏戦争におけるウルムでの敗北はメスからスダンにまで及んでいる。

ともあれ、川旅の話に戻ろう。

ぼくはこの川を幼年期ともいえる上流から、いや、正確には、この川が誕生したスイスの源流域から下ってきた。よちよち歩きの子供のように川がジグザグに流れているところでは、ぼくもそれに従ってジグザグに漕ぎ進み、生意気ざかりの少年のようにあっちに行ったりこっちに来たりしているときには、ぼくもそれに合わせてあちこち行ったり来たりしてきた。平野部に入ると川は少しずつ大きくなってきた。若者のように力強く、急流となって岩場を流れ落ちたり、森の奥深くへ入り込んだりした。そういうときでも、川とぼくは仲間だった。そのうち、ついに、ぼくは川が自分の手には負えないほどパワフルで強い流れになってきたのを感じて、川に畏敬の念をおぼえた。そして今、ウルムまでやって来たところで、ぼくはこの気高い川が成年になって安定した速い流れとなっているのを知ったが、それと同時に川が持っていた夢のような神秘さも消えてしまった。他の大河と同じように、航路として船が往来するようになり、橋もかかっていれば沿道を鉄道が走ってもいた。それで、ぼくはこの川に別れを告げることにした。ドナウ川は蛇行しつつも流速を維持し、ますます大きくなっていく。オーフェン付近では川幅一杯に船が往来するようになり、この偉大な川は終着点として黒海に注いでいるのだ。

以前の旅で、ぼくはウルムを訪れていた。いまさらこの町を「見物」に出かけたいとは思わなかった。ぼくが本当に興味があるのは川旅や湖での帆走だけなのだ。まあ、普通の観光地めぐりなら普通のガイドブックにいくらでも書いてある。

「ウルム、緯度97度*1。二つの丘の上にある古い教会のある町(付録参照)。人口9763人。ドナウ川流域に所在する。」

ここでいったんカヌーを止め、あらためて川を眺めた。

ここでは水は変色していた。スコットランドでいう「濁ってる」という状況だが、多少は支流のイラー川の影響があるのかもしれない。イラー川はアルプスのチロル地方をめぐってから、この町の少し上にあるドナウ川に流れ込んでいる。イラー川は独特の荒野の雰囲気を持つ、見捨てられたような川で、荒涼とし、幅の広い流れの半分は冷たく白い砂利が敷き詰められていた。何度も洪水が生じたために、土手はあちこちで寸断され、ちぎれた奇妙な根やゴツゴツした幹の木々も見えている。生き物の鳴き声も聞こえない不毛の地で、すべてがかき乱されているといった感じだ。暗く冬のように寒い夜の雰囲気があって、濁流が逆巻き、渦巻いている。

ここまでくると、ドナウ川にはバージ(荷船)が姿を見せるようになった。単純な作りだが、とにかく巨大だ。平底で、船首や船首材は上を向いている。だだっ広い甲板の真ん中に屋根のついた小屋が設置してある。ドイツの少年たちが英国の幼稚園のためにノアの方舟を作るときには、これがモデルになるわけだ。マレーはこのバージについて「平らな盆に載せた木造小屋」と、うまく言い表している。



脚注
*1: ウルムの緯度97度 -ウルムの位置は北緯48度23分なので、97度は著者の勘違いか誤記と思われる。
ちなみに、北緯48度は北海道より北の樺太(からふと)付近になる。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 30:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第30回)


その次にはリートリンゲンと呼ばれる町に泊まった。外国人にはあまり居心地がよくないところだ。イギリス人でここを訪れる人はほとんどいないため、ぼくとカヌーはここでもこっけいなほどの騒動を巻き起こした。滞米経験があり英語もできるという一人のドイツ人が質問の通訳をしてくれたのだが、他の人々は通訳された返事を聞いているだけだった。ところが、翌朝八時にはなんと千人以上もの人々がカヌーの出発を見届けようと橋の上に集まってきたのだ。本を詰めたナップサック1を背負った大勢の児童も駆けてきた。

ここを出ると、景色はそれまで通ってきたところと似たようなものだったが、いずれにしても、そういう絵のように美しい風景を眺める余裕はほとんどなかった。というのは、風が強く、しかも追い風だったからだ。流れは速く、川は蛇行し、いたるところに浅瀬や渦や無数の中洲や流れを横切る水路などが存在し、どこを通るか、特に順風のときに、どうやって帆を下ろないですませるかにエネルギーのすべてを使ってしまった2。

帆走できるとわくわくするし、体も酷使することになるのだが、昼になっても朝食をとる場所すら見つけられなかった。おまけに後方に黒い雲の塊ができつつあって、やがて雷や雨になる気配があった。

「あ~あ」と、ぼくは心の中でつぶやく。「今朝、あの立派なご婦人が備えをしておきなさいと言ってくれたのに、ちゃんときいておけばよかった!」 彼女は賢母の微笑を浮かべ、おずおずとぼくの腕時計の鎖にさわらせてくれないかと頼んできたのだ。「とても美しいわ」と。しかし、我ながら不思議なのだが、ぼくは今日に限って手軽に食べられる食料を積んでいなかった。風が強く、しかも順風だったので、時間を無駄にしたくなかったのだ。ものすごくスピードが出て、ぼくらはたちまちエーインゲンに着いた。今夜の宿として地図に印をつけておいた村だ。だが、そこに着いてみると、時間はまだたっぷりあった。先へ進む好条件がこれほどそろっているときに、それをあきらめてカヌーを岸につけて村に食事にでかける気にもならなかった。それに集落は川からずっと離れていたので、それまでと同じように流れに乗って帆走して先へ行かざるをえなかった。

ときどき農作業の手を休めて岸辺で眺めている人に一番近い人家の場所を聞いたが、相手は「一番近い」とか「川に近い」という言葉が聞きとれないようだった。それで、そういう会話の最後には、相手はきまって「ヤヴォール(了解)」という言葉を発した。これはアメリカ英語では「そうなんだ」、スコットランドの言葉では「そうか」、アイルランド語では「そうだね」、フランス語では「本当ですね」になるが、どれもぼくの役には少しも立たなかった。

というわけで、腹ペコだし気力もなくなってきた。その先の川の蛇行する様子を調べようと、なんとか上陸したものの、そのまま木の下で眠り込んでしまった。目がさめたときには風は弱まっていた。川の水深があったのでパドルを漕いだ。

ドナウ川は、このときナイル川のように泥まじりの濁流になっていて、両岸の高さも水面から垂直に八フィートから十フィートほどあった。大平原を流れる支流のいくつかが本流に流れ込んできていた。教会の塔が何度も見え隠れした。そこに近づこうと努力したものの、半マイルほど進むと川は急角度で湾曲していく。しかもどんどん曲がり続け、さっき正面に見えた塔が今度は背後に見えたりした。この悩ましい異常な状態については簡単に説明がつく──この近辺は地盤がしっかりしていないので、洪水で新しい流れができると村ごと押し流されてしまう。で、集落の位置を慎重に検討し、川から離れたところに配置したため、いくら漕いでも村には近づかないのだった。

暗くなってきた。ぼくは地図を調べた。大平原に蛇行するドナウ川が描かれているが、蛇行の数は実際の半分にすぎなかった。しかも、今入ったばかりの森の中には適当な集落が一つもないことが判明した。木々が頭上にまで張り出しているため、夕方の薄暮はすぐに夜の闇へと変化し、ミシシッピー川の上流部のように沈んでいる木の数も急に増えた。そのいくつかが川面に揺れている。粘土性の強い泥がついて根っこが重くなっているのだ。川下りでは流れの速いところを通るのが常だが、こういった状況なので、緩やかな流れの方へと慎重に漕ぎ進んで川を横切って移動したりした。



原注
1: 本を詰めたナップサック - ナップサックは「いろんなもの」を入れて背負うバッグ(背嚢)の意味で、語源は schnap(スナップ)とsach(袋)から。英語のハバーサック(肩掛けカバン)がhafer(カラス麦)、forage bag(飼料袋)から来ているようなものだろう。


要調査 - このナップサックを背負わせるのは、少年たちを兵役に順応させるためで、これが多くのドイツ人たちが怒り肩である理由なのだろうか?


[訳注] 日本のランドセルはオランダ語のランセル(背嚢)からで、リュックサックを含めて、本来はほぼ同じ用途だったと思われる。


2: 新聞の天気予報では、このとき中央ヨーロッパでは嵐が通過する、となっていた。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 29:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第29回)


今日、新しい楽しみを発見した──飲み干したワインのボトルを川に放り投げ、プカプカ浮かんだり流されてぐるぐる回ったりする様子を、それと並走しながら観察し、川の自然な流れと自分が頭で考えて選択したカヌーのコースとを比較するのだ。やがてボトルが生き物のように感じられてきて、カヌーとボトルで競争したりもした。ボトルが川底の石に当たるたびに、人にみたてたコルク栓が水中に沈んだりするので同情心もわいてくる。カヌーに比べると浸水が激しいようで、川底にぶつかるたびに、ガラス特有のキンキンする甲高い音が聞こえてきて、やがて沈んだ。

川の近くには低木が生い茂っていた。それがもう数マイルも続いている。枝ごしに陸地が見通せる場所が一箇所あって、二十人ほどが干し草作りをしていた。男も女もいたが、川から離れたところで真面目に仕事をしているので、ぼくが接近しても誰も気がつかなかった。

ここでちょっといたずらをしてみようと思った。で、作業をしている人々が見える状態を維持しながら、カヌーを土手に近づけた。そうしておいて、いきなり大声を張り上げたのだ。

統治せよ、ブリタニア、
ブリタニアは大海原を支配する*1。

この詩で「奴隷(どれい)」のくだりになる前に、作業をしていた全員が石像のように固まってしまった。黙り込み、あぜんとし、前後左右や上の方をキョロキョロ見まわしたりしている。むろん、川の方には目を向けない。というのも、川に誰かがいるはずがない、と思い込んでいるのだ。これまで自分たちの平穏な日常を乱すために川から何者かがやってくるなんてことは一度もなかったからだ。そこで、ぼくは陽気な口笛を吹いた。そうしておいて、隠れるのをやめてカヌーの上に立ち上がり、できる限りわかりやすい英語で彼らに対して短い(が、華麗な)スピーチをし、次の瞬間にはまた姿を消した。

さらに進むと、道路を建設しているところがあった。ぼくはカヌーを木の下に引き上げておいて、「バラック」というか作業員用の食堂まで歩いていき、中に入った。三、四十人のドイツ人の作業員が座っていて、昼間からビールを飲んでいた。ぼくも一杯注文した。彼らの健康を祝し、金を払い、会釈して食堂を出たのだが、このフランネル生地の服を着た男がどこから来たのか知ろうと、連中は大挙してぼくの後をついてきた。ぼくはカヌーで出発したものの、川は建設工事のためにだめになっている。寸断され、迷路のようだ。ぼくは渡渉しながらカヌーを引っぱったり、漕いだり、抱えて運んだりと悪戦苦闘した。彼らは岸辺に並んでそれを眺めていた。

このあたりまで来ると、橋に頻繁に遭遇するようになったが、これは文明が悪い形で川に侵入してきたものだ。というのも、こうした橋のほとんどは高さが非常に低いので、マストを傾けるためにカヌーを片側に倒さないと通過できない。そうなると、カヌーは難破したような状態で自由に動けない。風があるため帆を下ろすことはできないし、それに加えて、川の流れも速いので、ぼくと彼女──カヌーは物ではなく相棒だ──は、橋の中央部のアーチにどんどん接近していく。橋脚の間に入ったとき、流れていくコース上に鋭い突起物があることに気づいた。脇に寄せてかわそうとすれば木製の堤防にぶつかってしまうだろう。とはいえ、突起物に激突すると穴があいてしまうし、堤防にぶつかる方が(両手で押して離れることができるので)まだましだ。

堤防にドシンと当たったカヌーは、ひっくり返ろうとした。転覆させないためには、すぐさまカヌーから飛び降りるしかなかった。無造作に突き出されていた橋の下の突起物は、鉄の杭の先っぽか柵のようなものだったろう。

というわけで、ここで、川旅で遭遇する多くの隠れた危険というものは、橋の周辺で起きるということを述べておきたい。水中に固定された木製または鉄製の棒や、橋の建設で残されて転がっている荒く鋭い岩などが川からきちんと除去されたりすることはないので、そうしたところを漕いで進んだりするのはむずかしい。

川には、もう一つ、別の種類の障害物も存在する。それは川に渡してある細いワイヤーロープだ。このワイヤーロープに取り付けた短いロープをたどって平底の渡し船が流れを横切る仕組みになっている。ロープの色は黒で、近くまでいかないと見えない。見えた時には、もうマストを倒そうとしても間に合わない。とはいえ、こういった危険はしっかり「見張り」をしていれば、回避するのがむずかしいわけではない。川旅を一、二週間も続けていれば、見張りは本能的かつ習慣としてできるようになる。

川旅には多くの利点があるが、その一つは、川では観察力が必要であるし、それが養われるということだ。

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訳注
*1: 統治せよ、ブリタニア(“Rule, Britannia”) - 仮装劇『アルフレッド大王』で歌われるジェームズ・トムソンによる詩の一節。


イギリスの愛国歌であり、ベートーベンが『ルール・ブリタニアによる五つの変奏曲』を、ワーグナーが『序曲 ルール・ブリタニア』を作曲するなど、ドイツ語圏でも知られている。


なお「奴隷」云々は、詩におけるこの呼びかけの後に、ブリトン人(イギリス人)は「奴隷とはならない」という表現が続くことから。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 28:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第28回)



いつもならどこかの村か、少なくとも人家を一軒見つけて十分な食事をとるのだが、ドナウ川のこのあたりは人家がなく、食事は木陰の静かなよどみでのんびりしながらカヌーに乗ったまま持参した食料ですませるのがよさそうだった。この川で他の舟や船に遭遇することは稀だったが、そんな風にくつろいでいるとき、その稀な一隻と出会った。その舟には、少年が一人乗っていた。自作したらしいその舟は、三枚の板を鉄くぎで固定した、喫水の高い、なんとも不格好なものだった。彼が手本にした舟は流線形のロブ・ロイ・カヌーとは対極にあるものだったらしい。ポールが一本あり、スコップも持っていた。スコップをパドル代わりに使うのだ。ぼくは彼にパンを差し出して話をした。バターとチーズも提供した。彼はワインは受けとらず、濡れた上着からたばことマッチを取り出し、なれた仕草で火をつけた。馬やヨットやラクダなど互いにちょっと変わった流儀の一人旅をしている者同士でよくあるように、ぼくらはすぐに仲良くなった。話があい、談笑しあった。本が読めるとわかったので、ぼくは赤い縁どりのドイツ語で書かれた紙片を彼に手渡した。彼はすらすら読み、嬉しそうにポケットにしまった。ぼくに同行したいという思いで、彼はスコップを使って必死に漕いでついてきていたのだが、急流にさしかかると、ボートの性能の差はいかんともしがたく、残念ながらぼくは彼をはるか後方に置き去りにして進まざるをえなかった。そのときの悔しそうにつぶやく低い声と悲しそうな視線は忘れられないだろう。

この川には大小の魚の群れをなしていたが、釣り師はあまりいなかった。十日間で、釣りをしている人は十人もいただろうか。とはいえ、小さくてかわいいカワセミがせっせと魚を捕っていた。ぼくとカヌーがそいつの縄張りに侵入すると、抗議するように一声鳴いて飛び去った。その青く丸い背中が陽光を受けて輝いた。太陽が頭上にあるときは、ミツバチが羽音を立てていた。日が沈むと、ブヨがせわしなく飛びまわり、朝に生まれて夜に死ぬという、一日限りの複雑な踊りを舞っていた*1。

ドナウ川は岩礁によって流れが左右に分かれているところがある。どちらを通っても再び合流するまで数日はかかったりした。そういうところでは、川と岩場による奇妙な悪ふざけが見られたりもする。

まず左右の岸が三十メートルほど隆起した直線の岩場になり、それから、あちこちで崩れた崖になっていたり、隆起したり陥没したり、深い裂け目にかかる橋状になっていたりする。

巨大な歯のように尖った岩が水面のあちこちで斜めに突き出している。前方にノミで削ったようになめらかな垂直な壁があり、それが中央で川を分断している。そういう場所に差しかかると、川のどちら側を進めば出口が見つかるのか判断するのはまったく無理だ。で、間違えて行きどまりの方に入り込んだこともあった。

他にも、ドナウ川の川幅がハングルフォード付近のテムズ川くらいあったものが、いきなり六フィート(約1.8m)ほどに狭くなり、音を立てて流れ落ちているところがあった。そんな場所でも、ロブ・ロイ・カヌーに乗っていると、歓声を上げながら下っていけたりしたが、最大の難所というようなところでは、いきなり突っ込まず、まず上陸してコースを下見することにしていた──こういうとき一人きりというのは、なんと心細いことか!

それよりもっと厄介なのは、川が一ダースもの細流に枝分かれしていて、それぞれが小さな滝のように流れ落ちているところだ。通過できるのは一箇所しかないか、まったくないこともあった。こうした水路を見つると、調べて試してみて、失敗したり、成功したりしたが、それも一興で、楽しみがつきない。一マイル進むごとに面白いできごとが起きて、そうした最後にさっき述べた岩場が登場するわけだ。

そして今、ぼくら(つまり、ぼくとカヌー)は大平原にさしかかっている。川は蛇行し、無数の中洲や渦や「沈木」や水中に突き刺さった流木の間を縫って急な流れが続いている。この迷路のような川で最も重要な地点を、ぼくらは帆走しつつ、ものすごいスピードで突っ走っていった。が、いきなり川が枝分かれしていた。二つある水路のうち、一方は木が枝を伸ばしていて、マストが当たりそうだった。それで、ぼくはすぐさまもう一方の水路にカヌーを向けた。と、一人の男が立ち上がり、そっちはボートでは無理だと叫んだ。危機一髪だった。ぼくはすぐに帆を下ろしてマストを倒し、急流と強風のなかを必死に漕いで引き返し、通過可能だという水路に入った。それまで何時間も人影を見なかったのだが、この警告が耳に届いたのは幸運だった。



訳注
*1: ブヨ - 川辺では朝夕にブヨが発生する(羽化して成虫になる)のはよくある。しかし、成虫になってからの寿命が一日だけということはないので、この部分の記述はカゲロウなどと混同しているのかもしれない。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 27:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第27回)


出発するときも好天が続いていた。深緑色の森から木々の枝が川面まで垂れ下がっている。川の流れというのはえてしてカヌーをそうしたところに運んでいくことがあるのだが、湾曲部で速い流れがそっちに向かっているようなところでは、鋭く曲がった枝で傷つかないように特に注意が必要だ。奇妙に思えるかもしれないが、カヌーにとっては岩や土手より実際にはこうした木々の方が危険だし、はるかに厄介だったりする。というのは、カヌーが低い枝の下に入り込んでしまうと、パドルをうまく使えなくなってしまうのだ。強く水をかこうとパドルを立てると、パドルの反対側が枝にひっかかってしまう。また、枝をかわそうと頭を下げると前方がよく見えなくなるし、一般に太い枝は固くて、頭をぶつけたりしたら、けっこう痛い。といって、上体を後ろにそらせてかわそうとすると、顔を小枝でひっかかれ、特別に高い鼻でなくても穴に枝が食い込んだりする。顔を守ろうと手を使うと、パドルを川に落としてしまうこともある。ぼく自身は帽子を落としたことはなく、石頭だし、パドルをなくしたこともない。むろん鼻を枝で串刺しにされたこともないのだが、川下りでは、できるだけ樹木から離れたところを通過するようにしていた。

それでも、サギやカモの群れをおどかしてやろうと、木陰を進みたいという誘惑にかられるときもある。

一度など、二ダースほどのサギの群れと遭遇したことがある。カヌーは音を立てず静かに水面を滑っていくので、じっくり観察することができた。この鳥たちはその場所でそれまでカヌーなどというものに邪魔されたことがなかったようだ。

サギたちはぼくとカヌーをじっと見つめ、互いに顔を見あわせ、それから、この未知の物が接近してくることについて群れ全体で意思を確認しあっていた。鳥たちの顔に気持ちが出ていて、それを読みとれるとすると、こうしたサギのうちの一羽は他のサギに「こんなの、いままでに見たことがあるか?」と聞いていた。もう一羽のくちばしの動きは明らかに「なんて図々しいやつだ」と応じていた。三羽目が皮肉な調子で甲高く叫んだ。「しかも、よそ者だぜ!」 そうしたことを相談しているようだったが、サギたちはやがて立ち上がって輪を作り、それから下流の方へと飛んでいき、ちょっと離れたところに舞い降りて、またひとかたまりになった。ぼくの方も川を下っていくので、しばらくすると、その新しい場所に接近する。すると、サギはまた飛び立って下流に移動する。こんな調子で同じことを繰り返し、それが数マイルも続いた。しまいにサギの群れは戦略を変更し、下流ではなく脇にどいてカヌーに道をゆずってくれた。

気持ちのよい追い風が吹いていたが、だんだん強くなってきた。帆を揚げると、カヌーはトップスピードで進み、岩を乗りこえ、干し草畑の耕作人たちを追い抜いていく。それを目撃した一人が残りの「仲間」に知らせようと叫んだが、彼らが見ようとやってくるより早く通りすぎてしまった。後方から興奮した調子で、幽霊じゃないかとか話し合っている声が聞こえた。

しかし、何度も幽霊船と間違われるのはうれしいことではない。カヌーについて何も知らない人や船を見たことのない人、外国人を見たことのない人たちの真ん前を突っ切っていく方がずっと面白かった。「突っ込んでいく」には大きすぎる落差の滝があったり、幅のある障害物が存在しているときには、カヌーを陸に上げて迂回する方がよい。ぼくはカヌーの先端を生け垣から突き出して他から見えるようにして干し草畑を突っ切って歩いたり、「水たまりさえあればどこでも」進めるアメリカの浅瀬走行船を真似て、露でぬれている刈り取られたばかりの草地の上を引きずっていったりもした。そういう場合、不意打ちでそういう場面に出会った人々の驚きは、ちょっと言葉では言い表せない。灰色の服を着た怪しい男がにこりともせず地面の上でカヌーを引いて歩き、人に囲まれると、いきなり笑いだしたり英語で熱弁を奮ったりするものだから、逃げ出す者さえいた。子どもたちはたいてい泣き叫んだりした。そういう様子は、ぼくにとって不思議だったが、相手にとっても同じくらい奇妙だったに違いない。

このあたりで川の水はすべて淡い青みがかったものになり、水面下の深いところの美しい光景が見えなくなったのは残念だった。だが、三十マイルほど進んだところで再び川底の小石が見えるようになり、魅力的な透明感を取り戻した。水の色が濃くなったり黒い影ができたりするのは、それなりに重要な問題をはらんでいる。というのは、水に陰影がささず色もつかず透き通っていれば、水中にある岩や大きな石や他の障害物をはっきり視認できるのは無論のこと、多少の経験を積むことで、ちょっと離れたところであっても、どれくらいの深さがあるのかがはっきりわかるようになるからだ。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 26:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第26回)


第五章

ドナウ川の両岸の切り立った断崖は徐々に緩やかになった。道も川の近くを通るようになって、景観も地味というか、よくある風景になってきた。

道の方からガタンゴトンという音が少なくとも半時間ほど聞こえていたし、二頭立ての長い馬車が早足で駆けてくるのも目にしていた。その馬車は明らかにぼくのカヌーと速さを競っているようだった。馬車からはしきりに何か合図がなされていたので、ぼくは漕ぐのをやめた。すると、馬車も停車し、一人の男が飛び出してきた。炎天下に帽子もかぶらず、息を切らせ、野原を横切ってくる。その後に女性が二人続いていたが、どちらも同じように急ぎ足だった。その男はドイツ人で、ロンドンにも短期間だが住んでいたことがあり、現在は一ヶ月の休暇で母国にいるのだった。彼はぼくがカヌーをとめて連れの女性たちに見せてくれた「親切」に大いなる感謝の意を表した。村でカヌー旅の話を耳にして数マイルの距離を追ってきたのだという。またそれとは別に機会では、三人の若者が暑さにあえぎながらカヌーと並走していた。木や石につまづいてひっくり返ったりしている。そういう過激な駆けっこを一マイルも続けた後で、ぼくは何でそんなことをしてるんだいと聞いてみた。すると、この善人の村人たちは、この先に難所があることを、ぼくがそこにさしかかる前に教えてやろうと、わざわざ追いかけて来てくれたのだった。

見ず知らずの人間にそこまで骨を折ってくれるというのは、究極の親切だと思う。それで、ぼくは彼らの手助けをありがたく受け入れた──本音を言えば、その程度の難所は、ぼくにとって難所でも何でもなかったのだが。すると、彼らは目的が果たされたことに喜び、大いに満足し、言葉も元の高地ドイツ語の一種の純粋なシュワーベン語に戻った。

何度も折れ曲がったり急流を下ったりしした後、なんとかジグマリンゲンの町に着いた。住人は三千人足らずだが、どこか貴族的な雰囲気があった。この地域全体の人口は五万二千人にすぎないが、大公と呼ばれる人物が存在している。いわば「ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン公」という立派な名を冠した領主がロンドンの小教区ごとに存在しているようなものだ。その昔、地理の本でこの小公国を見かけるたびに失笑したものだが、ぼくはもう二度と笑ったりはしない。というのも、この地には世界で最も美しい景観の川が存在しているし、破滅的な戦争で爆発寸前の火種に点火する火花という、情け容赦ない興味がこれからも常につきまとうだろうと思われるからだ。

ここには、きれいな庭園がいくつかあった。すばらしいプロテスタントの教会が一つと立派な店も数軒あり、丘陵には複数の城が見える。しかも、高い岩山にそびえている古い方の城はよくある姿ではあるものの絵のように美しい。と同時に、ご先祖が入植したこの地は激動の地でもある。ぼくが宿泊したドイツ・ホフは開業したてのホテルだった。ぼくが客となった最初の英国人というわけだが、その英国人客がカヌーや野次馬と一緒に入口までやってきたときには、従業員一同を含めてハチの巣をつついたような騒ぎになった。ぼくの相手をしてくれた給仕はロンドンのバッキンガム・ゲートにあるパレス・ホテルで一年間の研修を終えたばかりの新人で、食事のときはぼくの横にいて、何かと英語で世話をしてくれた。自分の英会話の能力が必要とされていることをとても喜んでいた。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 25:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第25回)


ベイロンのクロスターは、この近在で行楽に出かける先としては好都合な場所だ。イギリスのカヌーイストがドナウ川を漕ぎ下る場合に定番の「見るべき場所」になるのは間違いないだろう。というのも、川下りでこのあたりを旅するときの状況が効果満点で、こんなところは他にないからだ。ぼくが寝室の窓辺に寄りかかっていると、月が出てきた。天に向かって突き出している岩山を月が銀白色に照らし、周囲の木々はさらに暗くなってそれを縁どっていく。一方で、修道士の礼拝所からは、かすかに淡く赤みがかった光がもれていて、穏やかで低い夜の祈りをささげる声が聞こえてくる。おそらくは、毎日を働き通しでせわしない生活をしている平信徒よりは、修道士にでもなって頭巾をかぶっていた方がよいのかもしれない。仕事に忙殺される世界で、控えめに感謝と信仰心を抱いているよりは、聖廟で精進し、祈り、ひざまづく方がよいかなとも思った。とはいえ、ぼくとしてはまだためらいもあるのだが。

いつものように岸辺からの祝砲と声援に送られてベイロンを去った後、ドナウ川は両側がどちらも切り立った岩場の間を流れた。穏やかな川下りが何時間も続く。水は言葉にできないくらい透明度が高い。離れた深いところの洞窟さえ、のぞきこめるほどだった。ぼくはずっと下を見つめているのにもなれてきたので、泳ぎまわっている魚を見かけるとパドルの先でたたこうとしてみた(一度も成功しなかった)。そのため注意が散漫になり、カヌーが浅瀬に乗り上げたり岩場に激突したりもしたのだが、ぼんやり夢心地で、カヌーがコースを外れているのに気づかず、太い木にぶつかって木の葉やクモやゴミなんかが雨のように降ってきたりして、やっと川を下っていたことを思い出すという始末だった。そういう事件に遭遇すると、さすがに警戒心が芽生えるようになるので、ぼくは真面目に前方を注視するよう心がけた。が、狭いトンネルのような「難所」を通過したり、小さな滝を乗りこえたり、もっと大きな滝ではカヌーを引っ張って迂回したりと、一時間かそこら頑張ったところで、ぼくはついまたキョロキョロしてしまう。頭上にそびえている山の頂きや滑翔している鷲、その背後に広がっている、どこまでも青い空をつい眺めてしまうのだ。と、カヌーがまたしても水面下の岩に接触して大きく傾く。カヌーが損傷しないよう、ぼくは瞬時に飛び降りて船体を守る、といったことを繰り返した。こういう日々が続いているので、すぐに川に飛びこむことができるよう、ぼくはずっと裸足のままで、ズボンはたくし上げていた。濡れても、強烈な太陽がすぐに乾かしてくれるので、この上なく快適だ。

健康で気持ちも乗っていて、信頼できるカヌーがあり、風景もすばらしいという状況で、こうやって自分の体を使って漕ぐ喜びというのは、その本当の気持ちよさというものは、実際に経験してみないとわからない。急流では居眠り禁止ということを忘れさえしなければ、悲惨な結末になることはまずない。実際、ぼくはこの航海で風邪を引かなかったし、ケガもしなかった。カヌーに穴が開くようなトラブルもなく、無事に家に帰りつけた。また、一日たりともカヌー旅を悔いたこともない。願わくば、できるだけ多くの英国人が自由気ままに「自分のカヌーを漕いでみる」ことを体験できますように。

とはいうものの、カヌーを漕いでいるうちに腕が疲れてきたり、まだ目的地に着かないのに日が暮れてきたり、腹が減って死にそうだったりしたとき、特に人家のある場所を教えてくれるような人が誰もいないとか、そこに着いたとして問題なく夜を過ごせるような場所かがわからないなど、早く今日の予定が終わらないかなと願う気持ちになることはある。それは間違いない。5

航海についてガイドもなく、川沿いに舟を引いて歩く小道もないような川では、自分がその日にどれくらいの距離を進むことができるのか予測するのはむずかしい。調整や予測が可能なのは、自分は何時間漕ぐつもりでいるのか、平均の速度、風の強さ、川の流速、食事や休憩で上陸できそうな場所、水車用の堰堤、滝または障害物の有無などは検討がつくものの、それで航程を正確に予測することは不可能だ。

人里離れたスウェーデンの湖では、一日に三十マイルも進めば十分だと思っていたところ、一日に四十マイル進んだことも珍しくなかったし、景色がよく、いろんな出来事に遭遇し、興味のつきることのないようなところでは、一日に二十五マイルがやっとというところもあった。

一般論として、徒歩旅行では、気持ちのよい地方で一日に二十マイルも歩けば身も心も十分に活動し観察も行ったことになるだろう。だが、川旅で生じる出来事は、徒歩旅行者の日記に書かれるような出来事に加えて、自分のカヌーをめぐる状況すべてが関係してくるので、路上で起きる出来事よりはるかに多くのことが頻繁に発生し、しかも興味深いのだ。それにちょっと漕いでいるうちに、カヌー自体が自分の仲間(ぼくの場合は友人かな?)になってくるので、湾曲部をまわるたびに、また舷側に何かがぶつかったり擦(す)れたりするたびに、自分の体に何かが当たったり擦(す)れたりしたように感じるようになってくる。「人と一体化したカヌー」 対「川」という心地よいライバル関係ができるほどカヌーが個性を持つようになり、川もそうなっていくが、そうしたことすべてが航海中に起こりうるのだ。

欧州大陸を何回か旅した後では、鉄道に乗るか見物しはじめて一時間ほどは、すべてが物珍しく楽しいものに感じられるが、やがて早く終着点に着かないかなと願うようになり、町に滞在しても、そう長くならないうちに、帰国のことを口にするか考えはじめたりするものだ。一方、カヌーによる旅の特徴は、そうしたことがゆっくり進行していくので、その間はずっと楽しむことができるというところにある。というのも、いつだって奮闘し体を動かしているのは自分であって、周囲の景色についても仔細に観察できるし、湾曲部を曲がったり傾斜による流速に応じて即座にどうすべきかを判断しなければならないから退屈している暇がない。一日の喜びというものは、確かに、その日に航海した距離の長さでは測れない。たとえば、昨日の航海は景色や出来事や運動という点ではまさに最良の一つだったが、距離は一番短かった。ガイドブックによれば、「ツットリンゲンまで十二マイル」──川旅では、十八マイルといったところ──「クロスター・ベイロンから、美しい景観が展開する。ドナウ川のこの領域は航行不能」となっている。



原注
5: バルト海の航海では、飢えを感じることはなかった。食料や調理具も積んでいたからだ。1867年4月27日にテムズ・ディットンでの最初のカヌークラブの競技会で「陸上と水上での追い駆けっこ」で五隻のカヌーが競った四つの賞のうちの一つは、きれいな小型の調理セットだった。二人分を調理でき、重さは二ポンドだ。その調理セットには今でも「船長が設計し、コックが提供し、パーサーが勝ち取った」と銘が刻まれている。ヨルダン川やナイル川、それに今はもう埋め立てられてしまったオランダのゾイデル海の航海では、ぼくはカヌーの中で眠ったし、カヌーには四日分の食料を積むようにしていたが、そういうところではカヌーを降りて引っ張らなければならないダムがないかわりに、宿泊できるような集落がないところも多かった。しかも、ほとんどの場合、自分の貴重な持ち物から離れた場所で食料を調理し宿泊しなければならなかった。おまけに、そういう東方の航海で最も安全な野営の適地というのは常に、人っ子一人いない人里離れたところなのだ。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 24:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第24回)


この素晴らしい景色はベウロンまで続いた。ドナウ川は広大な草原の周囲をめぐるように流れ、由緒正しい修道院が、深い森と円形競技場のような垂直に切り立った白い崖に囲まれるようにして立っていた。

この場所は美しいのだが、人の気配はなかった。夜の宿を求めるのは無理なようにも思えた。ここに漕ぎ入れてみると、ぼくはまたしても自分一人しか存在しない世界にいるという感覚になった。一本の木のところまで漕ぎ寄せてから上陸し、この秘境のような場所で、草をかき分けながら小さな集落まで歩いていった。

畑仕事をしていた人々は、いきなりフランネル生地の服を着た男が川の方から出現したものだからびっくりしていた。とはいえ、このクロスターの人々も「旅をしている小さな舟」のニュースについては知っていたので、ぼくのカヌーはすぐに二人の男の肩にかつがれて、立派な宿まで堂々と運ばれていった。ここの修道院を設立した王子も修道士なのだろうなと、ぼくは思っている。

「晩祷(夕の祈り)」の鐘が鳴るころ、ぼくが休憩所で壮大な景観を眺めながら食事をしていると、山々はみるみるうちに黒雲におおわれ、ものすごい雷鳴が長くとどろき、土砂降りの雨が降ってきた。

運のよいことに、この豪雨は、ぼくがちゃんとした避難場所を確保してから襲ってきた。空気が急に冷たくなった。これだけ雨が降ると、川は曲がりくねったりせず直線的に流れていくことだろう。尊敬すべき修道士たちは、そういうことにはまったく無頓着だったので、つまり、自分は屋根の下にいて雨中で野外にいる人を見るというのではなく、あるがままの現実をそのまま受け入れている様子だったので、ぼくは感心した。

この土地の友人を訪ねてきた少女の一人が、うまくはないもののフランス語を話すことができたので、ぼくの食事中は話相手をしてくれた。他の家族たちはというと、皆がぼくの持参したスケッチブックを眺めているのだった。何週間も続いたこの航海では、こういうことは少なくとも一日に二度は起きた。音楽が聞けるところはないかと思い切ってたずねてみたところ、大きなホールに移動することになった。そこではギターとピアノとバイオリン各一台で、コンチェルトが演奏されていた。歌をうたうことについては、ドイツの人たちは決してためらったりしない。

案内してくれたメラニー嬢は、今度はドイツ語しか話せない他の人たちとぼくとの通訳になってくれた。ぼくらの話題は、まったく無視するというわけにはいかない、いくつかの高貴なテーマに向けられた──つまり、「宗教」として、何が愛され、何が恐れられ、何が喜ばれ、何が馬鹿にされるのかということだ。

ぼくの荷物はとても少なかったが、選びぬいた品を持ってきていて、聖書の逸話集やフランス語とドイツ語で書いた紙類も含まれている。適当な折を見て使ったりしたのだが、たいていはきちんと受け止められ、大いに興味を持ってくれたり大真面目に感謝されたりもした。

文字が苦手で何か書いてやり取りするのをためらったり嫌がったりする人もいるが、人前で話すのが苦手だったり、乗馬やスケートやボート漕ぎが嫌いだという人だっているわけで、そんなことを詮索して小馬鹿にする必要はない。

外国語では正確に話せないことを明確な言葉で伝えるために、いくつか紙に書いて持ち歩くというのは、控えめに言っても、許容される範囲だろうと思う。自分にとっても相手にとっても非常に役に立ったり興味深く思えたりもするのだ。それで誰かを傷つけることはないし、誇りに思ったり恥ずかしいと思ったりすることでもない。ぼくもそれで人に笑われたりすることはもうない。

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