現代語訳『海のロマンス』11:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第11回)


さらば富士山*1

連日の出港延期に、いささか退屈していた乗組員も、いよいよ十八日未明、さすがに懐かしい本土の最後の一角を離れて、左に洲崎(すのさき)、右に大島を望むにいたって、大いに士気を奮い起こした。午前九時、野島の鼻*2を左舷後方六マイルに遠望しつつ、総帆(そうはん)を展開したころの「燃え方」といったら、たいしたものであった。

このとき、わが左舷の後甲板員(こうかんぱんいん)の一人はコールタールを塗ってかたく密封したサイダービンを持ってきた。これは本船が航海中、毎日正午における船の位置を記した紙片を封入したビンを流して、大洋の潮流を測定する、いわゆる「潮流ビン」を模倣したもので、後甲板員(こうかんぱんいん)が徒然なるままに好奇心と面白半分とで製作したのだ。

その中には、次のような文句を書いた無変質紙が入っているはずである。

このビンを拾ってくださった方に、そのご親切に便乗し、お願いがあります。
私どもはこの近海の潮流の速度と方向とを知り、あわせてこのビンがどのような数奇な漂泊をした後に、あなたに拾われたのかを知りたいと思っています。
もし可能であれば、拾った場所と日時を、表記の練習船の寄港地まで、ご一報ください。

部員の一人はビンを投げ込むとき、何かつぶやいていた。いぶかしく思った仲間にたずねられたのだが、そのときの返事がふるっていた。「なに、実はちょっと、いいか潮流ビンよ、できれば、白砂青松の土地で見目麗(みめうるわ)しい乙女の手に拾われてくれ、と言ったまでさ」

心ある人に見せたいのは、このあたりの海から見た富士山である。紺碧の波が連なる水平線のかなたに、夢よりも淡く立っている姿、藍色に光る海の色に照り映えるその桃色の雪の肌、おとなしい内湾曲した弧線(カーブ)が白い空からボンヤリ浮かび出ている様子は、ラファエロの描く精女(ニンフ)の姿にもたとえられようか。乾ききった赤茶色の禿山(はげやま)を始終(しじゅう)見慣れた外国人が遠く船の上から見たとき、感嘆の声を放つのも無理はないと思う。いかにも彼らが「日本のパルナッソス山*3」と褒めるはずである。

白い白浜の灯台も青い野島の鼻もともに青い海の波のかなたに沈み去ったとき、日本に向かっての最後の名残は、この山によって惜しまれるのだ。しかし、それも一瞬の間で、やがて天城(あまぎ)の方から流れ漂っていった意地悪い灰色の雲に包まれた。さらば、わが富士山よ。さらば、わが故国よ、永久(とこしえ)に幸多かれ、わが美しき郷土よ!!


脚注
*1: 富士山 - 原文では、富士山の旧称の芙蓉峰(ふようほう)が用いられている。
*2: 鼻 - 海では、岬など海に突き出た部分を指す。鼻の語源とされる端(はし、はな)から。
「~鼻」という地名は西日本に多いとされる。
*3: パルナッソス山 -ギリシャ神話に登場する標高2457mの山。 ギリシャのあるバルカン半島を東西に分ける脊梁山脈のピンドス山脈の一部。

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