スナーク号の航海 (60) ― ジャック・ロンドン著

少し帆走してスナーク号に戻ると、彼は身振り手振りでスナーク号の目的地を聞いてきた。サモア、フィジー、ニューギニア、フランス、イギリス、カリフォルニアと、航海予定の順に言うと、彼は「サモア」と口にし、自分も行きたいと身振りで示した。船には君を乗せるだけのスペースがないと説明するのはむずかしかった。「舟が小さいから」という理由をフランス語で言って納得してもらった。彼は微笑したが、その後に失望した表情を浮かべた。とはいえ、すぐにタハアに来るようまた招待してくれた。

チャーミアンとぼくは互いに顔を見合わせた。セイリングして高揚した気分がまだ残っていたぼくらは、ライアテア宛の手紙や訪ねる予定だった役人のことはすっかり忘れてしまった。靴にシャツ、ズボン、たばこ、マッチ、読むべき本をあわててビスケットの缶に詰めてゴム生地の布で包み、カヌーに乗った。

「いつごろ迎えに行こうか?」と、ウォレンが声をかけた。帆に風をはらんでタヘイに向かいかけていたので、ぼくはすでにアウトリガーに身を乗り出していた。
「わからない」と、ぼくは答えた。「戻るときにはできるだけ近くまで来るよ」

そうして、ぼくらはスナーク号を離れた。風は強くなっていた。追い風を受けて帆走した。カヌーの乾舷は二インチ半(約七~八センチ)しかないので、小さな波でも舷側をこえて入ってくる。水くみが必要だった。水くみはバヒネの仕事だ。バヒネとはタヒチ語で女性を指すが、カヌーに女性はチャーミアンしかいないので、彼女の役割になった。タイハイイとぼくは二人ともアウトリガーに乗り出していて、カヌー本体の水くみはできなかったし、カヌーがひっくり返らないようにするだけで手一杯なのだった。それで、チャーミアンが単純な形の木椀で海水をすくいだしたのだが、見事な手際でかいだしてしまうので、航程のほぼ半分は手を休めてのんびりしていた。

ライアテアとタハアは、周囲をサンゴ礁に囲まれた同じ海域にあるユニークな島だ。どちらも火山島で、山稜には凹凸があり、山頂は尖塔(せんとう)のように屹立(きつりつ)していた。ライアテア島は周囲三十マイル、タハア島は十五マイルある。となれば、それをぐるりと取り囲んでいるサンゴ礁の大きさも想像できるだろう。二つの島の間には一、二マイルの砂州が伸びていて、美しい礁湖となっていた。広大な太平洋からの波が、長さ一マイルか半マイルも一直線になってサンゴ礁に押し寄せてくる。サンゴ礁を乗りこえ、無数の水しぶきとなって降り注いでいる。もろいサンゴでできた岩礁はその衝撃に耐えて島を守っていた。その外側には頑丈な船が難破して浮かんでいた。サンゴ礁の内側は波もなく穏やかで、ぼくらが乗っているような乾舷が二インチほどのカヌーでも帆走できるのだ。

上がタハア(タアア)島で、下がライアテア島。
島を取り囲むようにサンゴ礁が形成されているのがよくわかる。この両島から南東百数十キロのところ(神奈川・三浦半島から伊豆七島・御蔵島ほどの距離)にタヒチ島がある。

ぼくらは海面をすべるように飛んでいった。しかも、なんという海だ! わき水のように透明で、最高級の水晶のように透き通っている。しかも、さまざまな色の壮大なショーが展開され、どこの虹よりもすばらしい見事な虹がかかっていた。カヌーはいまや赤紫の海面を飛ぶように走っていたが、ヒスイを思わせる深緑色はトルコ石の色に変わり、その深い青緑は鮮やかなエメラルド色に変化した。海底がまた白いサンゴ砂になると、まばゆいばかりに白く輝き、奇怪なウミウシも出現した。あるときは、すばらしいサンゴの庭の上にいた。そこでは、色とりどりの魚が遊び、海のチョウチョがひらひら飛んでいるようだ。と思うまもなく、次の瞬間には、ぼくらはサンゴの魔法の庭にいた。その次の瞬間には、ぼくらは深い海峡の濃い海面を突っ走っていた。トビウオの群れが銀色に輝きながら飛翔している。さらにまた次の瞬間には、ぼくらはまた生きているサンゴの庭の上にいて、それぞれがさっき見たばかりのサンゴよりすばらしいのだ。頭上には熱帯の空がひろがり、ふわふわした雲が貿易風に流されながら浮かんでいる。柔らかいかたまりの雲は水平線のはるか上方まで積み重なっていた。

ふと気がつくとタハア島の近くまで来ていた。タハアはター、ハー、アーと同じ強勢で発音する。タイハイイはチャーミアンの水くみの達者なことに満足し微笑を浮かべていた。岸から二十フィートほど離れたところでカヌーが浅い海底につかえたので、ぼくらはカヌーから海に降りた。足の下が妙にやわらかだった。大きなウミウシがまるまり、ぼくらの足の下で身をよじっていた。小さなタコを踏みつけたときは、それにましてグニャッという感じがして、すぐにわかった。浜辺に近づいてみると、ココナツとバナナの林の中に、竹でできた草葺きの屋根を持つ高床式のタイハイイの家があった。家から奥さんが出てきた。やせた小柄な女性で、親切そうな目をしていた。北米のインディアンの血筋でないとすれば、蒙古系かなと思える特徴があった。「ビハウラだよ」と、タイハイイが紹介した。ビハウラと呼んだが、英語のスペルがどうかなんて考えて発音したのではない。ビハウラは一音節ごとに鋭く強調され、ビー・アー・ウー・ラーと聞こえた。

彼女はチャーミアンの手をとり、家の中へ導いた。後に残されたタイハイイとぼくもその後についていった。そこで、彼らが所有しているものはすべてぼくらのものだと伝えられた。身振り手振りだったが、それは間違いない。与えるという行為について言えば、ヒダルゴウと呼ばれるスペインの下級貴族ほど気前のよいものはない。とはいうものの実際には、ぼくは本当に気前のいいヒダルゴウにおめにかかったことは、ほとんどない。ぼくとチャーミアンはすぐに、彼らの所有物をあえてほめないようにしようと心がけた。というのは、ぼくらが特定のものをほめると、それはすぐにぼくらへの贈り物になってしまうからだ。二人の女性は女同士で服について話をしたり互いの服を手にとったりしていた。タイハイイとぼくは男同士というわけで、ダブルカヌーに乗って四十フィートの竿でカツオを釣る仕掛けは言うまでもなく、釣りの道具や野生化したブタの狩猟について話をした。チャーミアンが編み籠をほめた――ポリネシアで見た最高の籠だ。すると、それは彼女のものになった。ぼくは真珠貝で作ったカツオ釣りの針をほめたが、それはぼくのものになった。チャーミアンはワラを編んだヒモの編み目に魅了された。一巻きで三十フィートはあり、どんなデザインの帽子も思いのままに作れる量だ。するとそのヒモ一巻が彼女に進呈された。ぼくは昔の石器時代にまで起源をさかのぼれるようなポイを作る臼をじっと見つめていたが、それはぼくに進呈された。チャーミアンはポイ用のカヌーのような形をした木椀を感心して眺めていた。木に四本の脚まで彫りこんである。それも彼女のものになった。ぼくはひょうたんで作った大きな置物をつい二度見してしまったが、それもぼくのものになった。それで、チャーミアンとぼくは相談し、もう何もほめないようにしようと決めたのだ。その価値がないというのではなく、ぼくらがもらってしまうにはもったいなさすぎるからだ。そして、スナーク号に積んであるもので何かお返しになるものはないか頭をひねった。こうしたポリネシアの贈り物をする風習に比べれば、クリスマスの贈り物なんて頭をなやますほどの問題ではない。

スナーク号の航海 (59) - ジャック・ロンドン著

第十二章

歓待

よそ者が到着すると、誰もがわれさきに駆け寄って友人として自分の住まいに連れて行こうとする。そこでは地区の住民から最大級のもてなしを受ける。上座に座らされ最高のごちそうがふるまわれる。
ポリネシア人の研究

スナーク号はライアテア島でウツロア村の沖合いに錨泊していた。昨夜着いたときは暗くなっていたので、ぼくらは朝から上陸する準備をしていた。早朝、ぼくは小さなアウトリガーカヌー*1が礁湖を飛ぶようにやってくるに気がついた。ちょっと考えられないような巨大なスプリットスルを揚げている。カヌー自体は棺桶のような形をした丸木舟で、長さ十四フィート(約四・二メートル)、幅十二インチ(約三十センチ)、深さ二十四インチ(約六十センチ)ほどだ。両端がとがっているのを除けば、船というにはほど遠い。舷側は垂直になっているし、アウトリガーがなければすぐにひっくり返ってしまうだろう。ちゃんと縦になって浮かんでいられるのはアウトリガーのおかげだ。

ありえないセイルと言ったが、たしかにそうなのだ。実際に自分の目で見ない限り、とても信じられないだろう。というか、見たって目を疑うしかない。セイルを揚げた状態でのブームの長さに衝撃を受けてしまう。帆の上の方がとんでもなくでかいのだ。あまりにも大きいので、普通の風が吹いただけでスプリット(斜桁)はそのパワーを支えきれないだろう。帆を支えている帆桁の一端はカヌーに固定されているが、もう一端は海面上に飛び出していて、張り綱で支えてある。セイルの下縁はメインシートで下に引かれているが、帆の上縁はスプリットに固定されている*2。

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とんでもない帆

単なるボートではないし、単なるカヌーでもなく、セイリングに特化したマシンというべきか*3。操作している男は自分の体重をうまく使って強心臓で帆走させているが、心臓の強さの方がまさっているだろう。このカヌーが風下から風上へ向かうのと村の方へ風下帆走するのを見ていたが、一人きりの乗員は、風上に切り上がっていくときはアウトリガーの外側の方に身を乗り出し、風が強くなるとうまく風を逃がしていた。

「ようし決めた」と、ぼくは宣言した。「あのカヌーに乗るまでライアテアを出ないぞ」
数分後、ウォレンがコンパニオンウェイからぼくを呼んだ。「あんたが言ってたカヌーがまた来たぜ」
ぼくは甲板に飛び出し、持ち主に挨拶した。長身痩躯のポリネシア人で、無邪気な顔をしていた。澄んだきらきらした眼をして、頭も良さそうだった。赤い腰巻きに麦わら帽子という格好だ。両手には贈り物を持っていた。魚一匹とひと抱えの野菜類、それに何個かの巨大なヤムイモ。そのすべてが微笑(これがポリネシアの島々での通貨だ)と何回ものマウルール(タヒチ語で「ありがとう」)で受け渡しされる。ぼくは、そのカヌーに乗って見たいと身振り手振りをまじえて伝えてみた。

彼の顔は喜びに輝いて「タハア」とひとこと言い、同時に三マイルほど離れた島の、高くて雲がかかった山頂にカヌーを向けた。タハア島だ。いい風が吹いてはいたが、戻りは風上航になるし、ここにきてタハア島に行きたいとは思わなかった。ぼくはライアテアへの手紙をことづかってきていたし、役人にも会わなきゃならず、下の船室には上陸する準備をしているチャーミアンもいた。ぼくは何度も身振りで礁湖でちょっと帆走してみたいだけだという希望を伝えた。彼の顔にはすぐに失望した表情が浮かんだが、微笑して承諾してくれた。
「ちょっとセイリングしようぜ」と、ぼくは下のチャーミアンを呼んだ。「でも水着を着ろよ。ぬれるから」
現実とは思えなかった。夢だった。カヌーは海面を猛スピードで滑走した。タイハイーが操船している間、ぼくはアウトリガーに身を乗りだして、風でカヌーが持ち上がるのを体重で抑えた。風が強くなると、彼もアウトリガーに身を乗りだし、同時に足でメインシートを押さえこみ、両手で大きな舵を操作した。
「タック用意!」と、彼が叫んだ。
帆から風が抜けていくときにバランスをとるため、ぼくは慎重に体重を内側に移動させる。
「タック!」と叫ぶと、彼はカヌーを風上に向けた。
ぼくはカヌーから横につきだしている腕木に乗って反対側の海面上に移動した。反対舷で風を受けてまた帆走する。
「オーライ」と、タイハイーが言った。
タック用意、タック、オーライという三つの言葉がタイハイーの知っている英語だった。それで、彼はアメリカ人の船長のいる船にカナカ人の船乗りとして乗り組んでいたことがあったのではないかと、ぼくは思った。風がとぎれ、また次の風が吹いてくるまでの間、ぼくは彼に対して繰り返し「船乗り」という言葉を口にしてみた。フランス語でも言ってみた。海という言葉も水夫という言葉も通じなかった。ぼくのフランス語の発音が悪いのか、他の理由からか、反応しないのだ。で、ぼくは勝手に自分の想像は当たっていることにした。最後に、近くの島々の名前を言ってみたところ、うんうんと、それには反応した。ぼくの質問がタヒチに及ぶと、彼はその意味がわかったようだった。彼がどういう風に考えているのか、ほとんど手に取るようにわかったし、彼が思案する様子を見ているのは楽しかった。彼ははっきりとうなづいた。そう、タヒチに行ったことがあるのだ。しかも、ティケハウ、ランギロア、ファカラヴァなどの島々の名前も自分から口にした。それはツアモツまで行ったことがある証拠だった。貿易船のスクーナーに乗り組んでいたのだろう。

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タイハイー

訳注
*1: アウトリガーカヌーは南太平洋で発達したカヌーの一種で、細長いカヌーが転覆しないように片側あるいは両側につきだした腕木の先にアマなどとよばれる細い浮力体がつけてある。一般的なカヌーのようにパドルでこいだり帆走したりできる。

*2: 写真で見るかぎり、帆の形状はクラブクロウ(カニのハサミ状)で、とんでもない帆というのは、上部が大きい逆三角形の帆がついていることを指す。

*3: 現代のセイリング・マシンといえば、海のF1とも呼ばれるアメリカズカップに使用されるヨットになるだろう。2016年9月現在、このアメリカズカップの予選となるルイ・ヴィトン・カップが世界各地を転戦しながら行われているが、使用されているヨットは、アウトリガーカヌーが起源ともされるカタマラン(双胴ヨット)である。カタマランは外洋でより遠くへ行けるように、アウトリガーの代わりにカヌーを二隻ならべた進化形で、通常のモノハル(単胴船)が海水を押しのけながら進むのに比べると、海面をすべるように進むので、はるかに効率がよく高速帆走が可能になる。

スナーク号の航海 (58) - ジャック・ロンドン著

ある日の夕方、彼があくびをしたので、何時間ぐらい眠るようにしてるんだ、
と聞いてみた。
「七時間」という返事だった。「だが十年後には六時間にし、二十年後には五時間だけにするつもりだ。つまり、十年ごとに一時間ずつ減らしていこうってわけさ」
「じゃあ百歳になったら、まったく寝ないというのか?」
「そう、そのとおりだね。俺は百歳になったら寝る必要もなくなると思ってるんだ。それに、そのころはもう宙に浮いてる暮らしているはずさ。植物にも空中で育ってるのがあるだろ」
「だが、そんなことできたやつなんかいないだろ?」
彼は頭を振った。
「そんなやつのことは俺も聞いたことがない。ま、これは、俺独自の理論ってやつでね、宙に浮いて暮らすのは気持ちよさそうだとは思わないか? むろん不可能かもしれないが――無理というわけじゃない。あんたも知っているように、俺は夢想家ってタイプじゃないだろ。現実を忘れたことはないんだ。未来に思いをはせるときには、いつも戻り道がわかるように紐をつけておくのさ」
この自然人は冗談めかして言っているのだろうが、いずれにしても単純明快な生活をしてはいるのだ。衣装持ちじゃないので洗濯代はたいしてかからないし、自分の農園では果実を売って暮らしているが、労賃については自分では一日五セントと見積もっている。いまのところ市場への道が封鎖され、社会主義も広めなきゃってんで街で暮らしているが、街での生活費は家賃を含めれば一日に二十五セントになる。こうした経費の支払にあてるために、中国人向けの夜間学校も経営していた。

この自然人は理屈にこり固まったやつじゃない。菜食主義者だが、肉しかなければ肉も食うし、たとえば牢屋や船上では木の実や果物でやっていける。日焼けをのぞけば、何か具体的な計画があるというのでもなかった。

「投錨しても、錨がきかずに走錨することがあるだろ――つまり、人の心は無限で底なしの海みたいなもので、犬の檻とは違うんだ」と、彼は語を継いだ。「要するに、俺はいつも走錨してるんだ。俺は人類の健康と進歩を願って生きていて、そっちの方向に走錨するようにしてるってわけだ。この二つは俺には同じことなんだよ。錨がきいて一カ所に閉じこめられなかったから俺は救われたんだ。俺は錨で死の床につなぎとめられはしなかった。俺はヤブの中まで錨を引きずっていって、医者連中から逃れたのさ。健康を取り戻し、強くなったところで、人々に自然に帰ろうと呼びかけたんだが、だれも聞く耳を持たなかった。それで、汽船に乗ってタヒチまでやってきたんだ。俺に社会主義を教えてくれたのは操舵手だったな。人間が自然に帰って生きていくには、経済的に平等じゃなきゃだめだってね。それで、俺はまた錨を引きずっていきながら、共同体を作ろうとしているわけさ。それが実現すれば、自然の中で暮らすことも簡単になるだろうよ」

「昨夜、夢を見たんだ」と、彼は思い出しながら続けた。顔は少しずつ輝いてくる。「自然の生活をしたいという二十五人の男女がカリフォルニアから汽船で到着したみたいだった。それで俺は連中と一緒に野ブタの獣道を農園まで登りはじめたんだ」

ああ、日光浴が好きな自然人のアーネスト・ダーリングよ、ぼくは君や君の気ままな暮らしをうらやましく思ったことが何度もある。今でも踊りながら階段を上ったり、ベランダでおどけた仕草をしていたり、崖から海に飛びこんだりしているのが見えるよ。目を輝やかせ、陽光をあびた体は光に包まれ、「アフリカのジャングルのゴリラは、自分の胸をたたく音が一マイル離れたところで聞こえるまで胸をたたくんだ」と言いながら胸をたたく音が鳴り響いている。

そうして思い出すのはいつも、別れを告げた最後の日の君だ。スナーク号は再び外海に向けて、波がくだけている岩礁の間を抜けようとしていた。ぼくは海岸にいる連中に手を振った。とくに、ちっぽけなアウトリガーカヌーの上に直立している、赤いふんどし姿の、日に焼けた太陽神のような男に対して友情と愛情をこめて別れを告げたのだ。

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パンノキの朝食

スナーク号の航海 (57) - ジャック・ロンドン著

ハワイでは長期にわたり優良な移住者を必要としていた。多くの時間やアイディア、資金を投入して適した人材を移住させているが、まだ十分ではない。にもかかわらず、ハワイはこの自然人を追放した。チャンスを与えなかったのだ。というわけで、ハワイの誇り高き精神とやらに対抗し、ぼくとしては、この機会にハワイがこの自然人を追放したことで失ったものについて書いてみようと思う。彼はタヒチに到着すると、自分が食べる食い物を栽培するための土地を探した。しかし、そういう土地、つまり安く手に入る土地を見つけだすのはむずかしかった。金持ちというわけではなかったからだ。急峻な山岳地帯を何週間も歩きまわり、小さな谷がいくつか点在する山を見つけた。八十エーカー(約三十二ヘクタール)ほどの密林で、誰かの財産として登記されているのではないようだった。政府の役人は、土地について、彼が所有すると宣言して誰からも異議がなく三十年たてば、彼の所有物になると教えてくれた。

彼はすぐに作業に取りかかった。その場所は耕作に適してはいなかった。そんな高地で農業をしようという者などはいなかったのだ。密林で、野生化したブタや無数のネズミが走りまわっていた。パペーテや海の眺めはすばらしかったが、だからといって、それが何かの役に立つというわけでもない。まず、農園にする土地までの道を作るだけで何週間もかかった。植えた作物は、芽が出たとたんに、かたっぱしからブタやネズミに食われた。彼はブタを撃ち、ネズミには罠(わな)をしかけた。つかまえたネズミは二週間で千五百匹にもなった。必要な物資は何でも自分の背中にかついで運んだ。荷馬のように荷物を担ぎ上げる作業は、たいてい夜にやった。

徐々に成果がでてきた。草壁の家も建てた。火山性の肥沃な土壌でジャングルやジャングルの動物と闘い、五百本のココナツの木、五百本のパパイヤの木、三百本のマンゴーの木を植えた。野菜も作った。ツタや灌木もあれば、のパンノキやアボカドの木もたくさんあった。谷の源流から水を引き、効率のいい灌漑設備を考案した。谷から谷へとさまざまな高低差のある場所に水路を掘った。こうして細長い谷間は植物園になった。かつて灼熱の太陽が密林を干上がらせ裸の土がむき出しとなっていた尾根筋の不毛な峠には、樹木や灌木や生い茂り、花が咲き乱れた。この自然人は自給自足した上に、今ではパペーテの都市部の住民に作物を売る裕福な農業者となっていた。

その後、政府の役人が所有者はいないとしていた土地に、実際には所有者がいて証書類や登記も存在することが判明した。となれば、苦労して得たものを失うことになりかねない。入植したとき、その土地は価値がなかったし、大地主の所有者は、この自然人が開拓したことは知らなかった。適正価格で合意が成立し、ダーリングは正式に登記された権利証書を手にしたというわけだった。

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額に汗して働く

その後も痛烈な打撃があった。市場に出入りする道が封鎖されたのだ。彼がこしらえた道には三重の有刺鉄線の柵が張られて通れなくなった。これは社会制度の不条理としてよくある人間社会の混乱の一つだ。こうした背景には、ロサンゼルスの精神障害に関する委員会がこの自然人を引きずりだし、ハワイがこの自然人を追放したのと同じ、伝統を重んじる人々の意向が働いていた。自己満足している者たちが、自分とまったく違う価値観を持った男を理解するのは無理だった。役人連中が、こうした伝統主義者たちの行為を黙認していたことは明らかなようだ。というのは、今にいたるまで、この自然人が作った道は閉ざされたままだからだ。何も講じられていない。それについては何もしないという暗黙の、断固たる意思があちらこちらに存在している。だが、この自然人は踊ったり歌ったりして自分流を貫いている。夜も寝ずにどうしようかと悩んだりはせず、そういうことは邪魔したい者の好きにさせておいた。そんなことを恨んだりするほど暇ではないのだ。自分がこの世に存在するのは幸せになるためだと信じていた彼には、他人を訴えたりして無駄にする時間は一秒もなかった。

農園に向かう道は封鎖されている。地面に余裕がないため、新しい道を作ることもできない。政府は、彼が通ることができる道を、野生化したブタが山に登るための急峻な獣道(けものみち)に限定した。ぼくは彼と一緒にその獣道を登った。よじ登るために足だけでなく両手も使わなければならなかった。野生化したブタの獣道は、エンジニアが蒸気機関や鉄製ワイヤーで作る道ほど立派ではなかった。だが、この自然人は何も気にかけてはいなかった。この穏やかな男の道徳では、誰かに悪さをされたら、自分の方は善行でお返しするのだ。となれば、どっちが幸福なのか論じるまでもあるまい。

「うっとうしい連中の道のことなんか気にするな」と、彼はぼくに言った。岩棚によじ登ったところで息を切らし、休憩しようと腰をおろしていたときだ。「そのうち飛行機*1を手にいれて黙らせてやるよ。飛行場用に平らな場所を作ってるんだが、あんたが次に来るときには飛行機で俺の家のドアまで来れるぜ」

そう、この自然人は、アフリカのジャングルで胸をたたいているゴリラの真似をするだけじゃなくて、奇抜な発想もするのだ。この自然人は空中飛行についても一家言持っていた。「だからさ」と、彼は語を継ぐ。「空を飛ぶのは不可能じゃない。それができたとしたら、と想像して見ろよ。意思の力で地面から離れるんだ。考えても見ろよ。天文学者は俺たちの太陽系は死につつあると言っているだろ。とんでもないことが起きない限り、地球の温度はどんどん下がっていって生物は生きられなくなるんだ。でも、かまわないぜ。そうなる頃には人類すべてが空を飛べるようになっていて、この滅びゆく惑星を捨てて、どこか住みやすい世界を探しに行くんだ。どうすれば空中飛行できるのかって? 進歩は早いぜ。そうさ。俺は何度も跳び上がっているが、実際に自分が少しずつ身軽になってきている気がするよ」

狂ってるのか、こいつ、とぼくは思った。

「むろん」と、彼は続けた。「これは俺の理論にすぎなくて、人類の輝かしい未来をあれこれ考えるのが好きなんだ。空を飛ぶことはできないかもしれないが、できるかもしれないと思いたいんだよ」
訳注
*1 ライト兄弟が自作の飛行機で初めて空を飛んだのは一九〇三年。ジャック・ロンドンがスナーク号を建造して航海に出たのはそのわずか四年後の一九〇七年で、「機械が空を飛ぶはずがない」と主張する専門家も多くいた時代である。
 そうした時代に南太平洋の孤島の密林に住みながら自家用飛行機や宇宙旅行を論じているのだから、周囲から頭のおかしな変人扱いされるのも無理はない。
 それにしても、ジャック・ロンドンの行くところ、ユニークな人間に遭遇することが多い。これは単なる偶然ではなく、常にそういうアンテナを張りめぐらせていて、捉えたものを自分の色メガネで見ないようにしているためだろう。

スナーク号の航海 (56) - ジャック・ロンドン著

精神疾患の専門家の一人が、彼をターボル山の療養所に運んだ。彼が無害だとわかると、そこでは好きにさせてくれた。何を食べろとか指示されなかったので、彼は果物と木の実――それにオリーブオイルやピーナツバター、バナナを中心にした食事を再開した。体力が回復するにれて、自分の望む生活をしようと心に決めた。他の連中と同じように社会の慣習に従って暮らしていたら死んでしまうと思ったのだ。まだ死にたくはなかった。この自然人が誕生するにあたって、死の恐怖はもっとも強い要素の一つだった。生きるために、自然の産物と屋外と日光が必要だった。

オレゴン州の冬は自然に戻りたいと願う者には魅力的ではなかった。それで、ダーリングは適した地域を探した。自転車に乗り、太陽のふりそそぐ南をめざした。スタンフォード大学に一年在学した。ここで、裸に近い格好での受講を大学当局に認めてもらい、リスのいた森で学んだ、生きるための原則をできるだけ適用しながら勉強し、苦労しつつ自分の道を切り開いていった。好きな勉強方法は、大学の裏山に登り、服を脱いで草の上に寝そべり、日光浴しながら健康になると同時に知識の海に没入することだった。

しかし、カリフォルニア中部にも冬があり、自然人の適地探求はさらに進められた。彼はロサンゼルスや南カリフォルニアもためしてみたが、何度か逮捕され、精神鑑定を受けさせられた。というのも、彼の生き方は同時代の人々の暮らし方とはまったく違っていたからだ。彼はハワイにも行ってみたが、そこでは精神異常扱いはされなかったものの、強制退去させられた。正確には強制退去ではなかった。刑務所に一年もぶちこまれる可能性もあったのだ。彼らは彼に自分で選択するようにと言った。刑務所に入るというのは、野外で日光をあびたいと願っているこの自然人にとっては死ぬも同然だったので退去を選んだのだ。ハワイの当局を責めることはできない。ダーリングは好ましからざる国民だった。協調性のない者は好ましくない、というわけだ。異議を唱えるべきは、ダーリングが素朴な生活という自分の哲学で行った範囲で、好ましからざる人物というハワイ当局の彼に対する裁定の正当性だ。

というわけで、ダーリングは自然な生活にふさわしいだけでなく、自分が好ましからざる人物とされないような土地を探し求めた。そしてそれをタヒチに見つけた。楽園中の楽園。噂通りの楽園で、そこで自分の思うとおりに暮らしたのだった。身につけるものといえば腰巻と袖のない漁網でこしらえたシャツだけだ。裸になった体重は百六十五ポンド(約七十五キロ)。健康状態は申し分ない。一時は駄目になったと思われた視力もすばらしくなっている。現実に三度の肺炎で痛めつけられた肺が回復しただけでなく、以前よりも強靱になった。

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自然人の農園。左がジャック・ロンドン

ぼくは、彼と話をしているときに彼が蚊を殺したときのことは決して忘れないだろう。この血を吸う虫が彼の背中で両肩の間にとまったのだ。彼は会話の流れを切らず、よどみなく話をしながら、握り締めた拳を背中の方にまわして肩の間にいた蚊をたたきつぶした。彼の体はバスドラムのような音をたてた。馬が厩舎の材木を蹴っているような音だった。

「アフリカのジャングルにいるゴリラは、一マイル先からでも聞こえるように胸をたたくんだ」と、彼はふいに言った。ぞっとするような音をさせて胸に入れた悪魔の入墨をたたいた。

ある日、彼はスナーク号の船室の壁にボクシングのグローブが吊るされているのに気づき、すぐに目を輝かせた。
「ボクシングやるのか?」と、ぼくは訊いた。
「スタンフォード時代はボクシングを教えてたんだぜ」という返事だった。

ぼくらはすぐに裸になって、グローブをはめた。バン! ゴリラのような長い腕が一閃し、グローブがぼくの鼻に当たった。ドス! 彼が姿勢を低くして、ぼくの側頭部にパンチを当てたので、あやうく横だおしになるところだった。その一発でできた腫れは一週間もひかなかった。ぼくは左のパンチをしゃがんでかわすと、彼の胃袋に右を一発お見舞いした。ものすごく効いた。ぼくの全体重をのせたパンチで、彼の上体は前かがみになった。ぼくはパンチをあびせながら、彼が倒れるだろうと思った。彼は破顔して言った。「いいパンチだ」 と、次の瞬間、ぼくは嵐のように繰り出されるフック、ジョルト、アッパーカット*1をあびせられ、防戦一方になった。が、チャンスとみるや、こっちもみぞおちめがけてパンチを繰り出した。当たった。自然人は両腕をだらんと下げて、あえぎながら、ふいに座りこんだ。

「大丈夫だと思うが」と、彼は言った。「ちょっと待った」
彼は三十秒もしないうちに立ち上がると、お返しとばかり、こっちのみぞおちにもフックをぶちこんでくれた。息がつまり、ぼくは両手をだらりと下げたまま、彼のときよりも少し早く崩れ落ちた。

こうして述べていることはすべて、ぼくがボクシングをした相手が八年前には九十ポンド(約四十キロ)そこそこの体重しかなく、医者や精神鑑定の専門家にオレゴン州ポートランドの部屋に閉じこめられたあわれなやつではなくなっていたということの証拠だ。アーネスト・ダーリングはここでの生活で見違えるように元気になり、その体験を経た体そのものが彼が書いた本というわけだった。

訳注
*1: ジャック・ロンドンはボクシングをテーマにした小説も何作か書いている。
フック=相手に対し、自分の体の外側から内側に向かうように打つパンチ。
ジョルト=ステップを踏んで体を動かしながら、踏み込んで打つパンチの総称。
アッパーカット=肘を曲げたまま突き上げるように打つパンチ。

スナーク号の航海 (55) - ジャック・ロンドン著

「じゃあ、あんたも本を書いてるわけだ」と、彼は言った。ぼくは苦心して朝の分の執筆を終えたところだった。
「俺も本を書いてんだよ」と、彼は告げた。
おいおい、こいつの書いた物の面倒までみなきゃなんないわけかよ、とぼくは思った。イラッとした。文壇ごっこをするためにはるばる南太平洋まできたわけじゃないのだ。
「これが俺の書いてる本なのさ」と、握ったこぶしで大きな音をたてて胸をたたきながら、彼は言った。「アフリカのジャングルのゴリラは、音が一マイルも離れたところで聞こえるまで胸をたたくんだってよ」
「分厚い胸だ」と、ぼくはほめた。「ゴリラもうらやましがるだろうよ」

それからまもなく、ぼくはアーネスト・ダーリングの書いたすばらしい本の詳細を知った。十二年前、彼は死に瀕していた。体重は九十ポンド(約四十キロ)しかなく、衰弱して話すこともできなかった。医者たちもさじを投げていた。開業医だった父親もあきらめていた。他の医師の意見も求めた。望みはなかった。教師として、そして大学生として、勉強のしすぎで二度も続けて肺炎になって衰弱してしまったのだった。日ごとに体力が失われていった。与えられた固形物からは栄養を吸収できず、粒や粉状にしても胃が受けつけなくなった。体が衰えただけでなく、精神的にもまいってしまい、神経も張りつめていた。病気なのだが、薬はうんざりだった。人間もそうだ。人の話し声もかんに障った。注目されると、ひどく興奮した。どうせ死ぬのだから、悩んだりいらいらしたりしないで屋外で死にたいと思った。胃にもたれる固形物や薬をやめ、いらいらさせるおせっかいな連中がいなければ、死ぬことはないのではないかという思いが、ふと忍び寄ってきていた。

やせて骨と皮だけになったアーネスト・ダーリングは、生気もなく死にかけたままよろよろ歩いた。人や住宅地には背を向け、オレゴン州ポートランドの市街地から雑木林を通り抜けて五マイルも足を引きづって歩いた。むろん、頭がおかしくなっていた。狂気が彼を死の床から引きずり出したのだ。

とはいえ、森では、ダーリングは自分が求めていたものが休息だと知った。もうビフテキや豚肉で悩ませる者はいない。脈をとって疲れ切った神経をさかなでしたり、弱った胃に錠剤や粉末を飲ませて苦しめようとする医者もいなかった。症状は改善した。輝く太陽が、あたたかく降り注いでいた。太陽の光こそ万能の薬だ、と彼は感じた。疲弊した体全体が太陽を求めているように思えた。彼は服を脱ぎ捨て、日光浴をした。気分がよくなった。たしかに効果があった――苦痛にさいなまれたこの数ヶ月間ではじめて安息を得た。

症状がよくなると、起き上がれるようになったが、そうして、彼は気がついたのだ。自分という存在は、はばたいたり、さえずったりしている小鳥や、鳴き交わしたり遊んだりしているリスのようなものなのだ、と。健康で元気があり、幸福そうで、心配事もなさそうな存在をうらやましく思った。自分の置かれた条件と小鳥やリスの置かれた条件を比較すると、自分が病気になるのは必然でもあったのだ。となれば、自分は病弱で死にかけているのに、小鳥やリスはなぜあれほどにも元気なのだろうと疑問を呈せずにはいられなかった。小鳥やリスは自然のままに生きているが、自分は自然に反して生きている。生きようと思えば、自然に帰らなければならないという結論が導かれるのは自明だった。

森の中にただ一人いて、彼は自分の問題にけりをつけ、実地に応用しはじめた。服を脱ぎ捨て、跳んだり、はねたり、四つんばいになって走ったり、木に登ったりした。要するに、めちゃくちゃに体を動かしたのだ――そして、いつも太陽を浴びていた。彼は動物たちをまねた。乾いた葉や草で夜寝るための巣を作り、早秋の雨をしのぐため樹皮をかぶせた。「これはいい運動になるぜ」と、彼は両腕で体側を強くたたきながら言ったことがある。「おんどりを見てやってみたんだ」 また別の機会に、彼がココナツミルクを音をたてて飲んだので、ぼくが注意すると、彼は雌牛だってこんな風に水を飲むし、そこには何か意味があるはずだ、と説明した。実際にやってみて、体にいいとわかったので、何か飲むときはそういう流儀でしかやらないのだ。

リスは果物と木の実を食べて生きているとも言った。果物と木の実にパンだけの食事をはじめて健康を取りもどし、体重も増えた。三ヶ月間、彼は森の中で原始の生活を続け、それからオレゴンの激しい雨でそうした生活を断念し、人間の住むところに戻ってきた。三ヶ月と経たないうちに、二度の肺炎から生き延びた九十ポンドの生存者は、野外でオレゴンの冬をすごす十分な体力を回復させていた。

彼は多くのことをやりとげたが、意に沿わないこともあった。父親の家に戻らざるを得なかったのだ。そこで野外の大気を胸一杯に吸いこんでいた体で、また閉ざされた部屋の中で暮らすようになり、彼は三度目の肺炎にかかった。前にもまして衰弱した。死者のように横たわり、立つことも話すこともできず、いらいらして疲れ切っていたので、他の者の言うことにも耳を傾ける余裕はなかった。自分の意思でできる唯一の行為は指を耳に突っこんで、話しかけられる言葉を一つも聞きたくはないと示すことだった。精神疾患の専門家が呼ばれた。頭がおかしいと診断され、余命一ヶ月はあるまいと宣告されたのだった。

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漁網でこしらえたシャツ

スナーク号の航海 (54) - ジャック・ロンドン著

第十一章

自然人

ぼくがはじめて彼に会ったのはサンフランシスコのマーケット・ストリートだった。霧雨の降る午後、彼は膝までしかない丈の短いズボンをはき、シャツの袖をまくって、ぬかるんだ歩道を裸足ですたすた大股で歩いていた。足元は二十人もの浮浪児が興奮して飛び跳ねているようだった。この男が通ると、何千人もの人が好奇の目で振り返った。ぼくもその一人だった。これほど見事に日焼けした男は見たことがない。皮がむけていなければブロンドぽかったろうが、全身くまなく日焼けしていた。長く黄色い髪も日に焼けていたし、ヒゲもそうだ。カミソリをあてたこともないようだった。黄褐色、金色がかった黄褐色の肌が陽光をあびて輝いている。もう一人の予言者が世界を救うというメッセージをたずさえて街にやってきたのかと、ぼくは思った。

数週間後、ぼくは友人数人とサンフランシスコ湾を展望するパイドモントの丘にあるバンガローにいた。「あいつを見つけたぜ、あいつをさ」と連中が大声で言った。「木の上にいたんだ。ケガはしていない。手づかみで食うんだぜ。会いに来いよ」 それで、ぼくは一緒に丘の上まで行って、ユーカリの林の中にある掘っ立て小屋で、街で見かけた例の日焼けした予言者に会ったのだ。

彼はすぐにぼくらの方にやって来た。ぐるぐるまわったりトンボ返りしたりしながらだ。握手はしなかった。挨拶がわりに曲芸をやってのけた。さらに宙返りもやってみせてくれた。準備運動がわりに体がやわらかくなるまでヘビのように体をしなやかにひねらせてから、腰を折り、ひざはそろえたまま、足はまっすぐ伸ばし、両掌で刺青をたたく。体を回転させ、つま先立ちしてくるくるまわりながら踊り、酔っぱらったサルのように跳ねまわった。生きている喜びがあふれ、顔を輝かせていた。彼のうたう歌には歌詞がなかったが、ぼくはとても幸福な気分になった。

彼は体をずっと動かしながら、いろいろ変化をつけて一晩中歌っていた。「あきれたね! バカだよ! 森で変なやつに会っちまった!」と、ぼくは思った。とはいえ、尊敬すべきバカであることは、彼みずからが証明してみせた。トンボ返りしたりぐるぐる回転している間、彼は世界を救うことになるであろうメッセージを届けていたのだ。それは二つの意味があり、まず、苦しんでいる人々は、衣服を脱いで山や谷で自由気ままに振る舞わせよう。第二に、この救いようのない世界では表音式つづり*1を採用させよう、というのである。ぼくは、都会の人々が大挙して裸足で自然の中に入っていくことで大きな社会問題が解決されるのが見えるような気がした。散弾銃の音や牧場の犬たちの吠える声がひびき、怒った農夫が熊手をふりかざして威嚇する様子が目に浮かぶ。

それから何年か経ったある天気のよい朝、スナーク号は貿易風によるうねりが押し寄せて波しぶきがあがっている岩礁にできた狭い開口部からゆっくりとタヒチのパペーテ港に入っていった。一隻のボートがぼくらの方にやってくる。黄色い旗*2を掲げていた。医者が乗っているのだろう。しかし、そのボートの後方には小さなアウトリガーカヌーもいて、ぼくらを当惑させた。それは赤い旗*3を揚げていたのだ。何か船にとって危険なものが海中に隠れているのではないかと不安になったので、最近難破した船が沈んでいないか、航路を示すブイや標識が流されてしまってはいないかと、ぼくは双眼鏡片手に探したものだ。まもなく医者がスナーク号に乗りこんできた。ぼくらの健康状態を調べた後で、スナーク号に生きたネズミは一匹もいないことを保証してくれた*4。赤い旗についてたずねると、「ああ、あれはダーリングですよ」という答えだった。

ダーリングとは、アーネスト・ダーリングのことだ。赤い旗は兄弟の印で、ぼくらを歓迎してくれたのだった。「よお、ジャック」と、彼が叫んだ。「ようこそ、チャーミアン!」 すばやくカヌーで近づいてくる。あのパイドモントの丘で会った黄褐色の予言者がそこにいた。彼はスナーク号の舷側にカヌーを寄せた。この赤い腰巻き姿の太陽神は、桃源郷の贈り物を持ってきてくれたのだ。金色のハチミツの瓶、太陽と土壌のめぐみをたっぷり受けて黄金色に輝く大きなマンゴーやバナナ、パイナップルやライム、果汁たっぷりのオレンジを一杯詰めたカゴを両手に抱えていた。南太平洋の空の下で、ぼくはのこの自然人たるダーリングとこうして再会したのだった。

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スナーク号に乗った自然人

タヒチは世界で最も美しい地域の一つである。正直で信頼できる男女もいるが、泥棒も強盗も嘘つきも住んでいる。人間の闇の部分は感染力があって、タヒチのすばらしい美しさが台なしにされてしまうので、ぼくは、タヒチについてではなく、この自然人について書こうと思う。彼は少なくとも楽しませてくれるし健全だ。彼から発せられる生気はとても穏やかで甘美なものだし何も害はない。搾取する大金持ちの資本家を除けば、誰の気持ちも傷つけることはない。
「この赤い旗はどんな意味があるんだ?」と、ぼくは聞いた。
「社会主義さ、もちろん」
「そんなことは知ってる」と、ぼくは続けた。「それをお前が持っているということに、どんな意味があるんだ?」
「なぜって、ここにメッセージがあるとわかったからさ」
「アメリカからわざわざタヒチまで持ってきたのか?」と、ぼくはあきれながら言った。
「そうとも」と、彼は簡単に答えた。後でわかったことだが、彼の性格もその答えと同じように単純なのだった。
ぼくらは投錨し、足舟を海面に下ろして海岸に向かった。自然人も同行した。やれやれ、とぼくは思った。これから、こいつに死ぬほど質問攻めにあうのかな、と。
だが、それはぼくのとんでもない勘違いだった。ぼくは馬を手に入れ、あちこち乗りまわしたが、この自然人はぼくのそばに近寄っては来なかった。招待されるまでおとなしく待っていたのだ。その一方で、彼はスナーク号の書斎にある大量の科学の本に喜び、後で知ったことだが、大量の小説もあることにショックを受けていた。この自然人は小説を読んだりして時間を浪費したりはしないのだ。

一週間かそこら経ってから、気が引けたぼくは彼をダウンタウンのホテルでのディナーに招待した。不慣れなコットンの上着を窮屈そうに着てきたので、服を脱げよと言うと、にっこり笑い、喜び勇んで脱いだ。目の粗い漁網の切れ端をまとっているだけで、腰から肩にかけて黄金色の皮膚が露わになった。衣装といえば、赤い腰巻きだけだ。その夜とタヒチ滞在中に、彼がどういう人間かがわかって、ぼくらは友人になった。

訳注
*1: 表音式つづり(phonetic spelling)とは、発音と表記をできるだけ一致させようという英語表記の改革運動に伴うもので、長い歴史があり、主張も過激なものから穏やかなものまでさまざま存在する。米国の辞書の代名詞にもなっている辞書編纂家の(ノア・)ウェブスターもそうした英語改革を唱えた一人。

*2: 黄色い旗(国際信号旗のQ旗)は、検疫要請を意味している。通常は検疫を受ける船の方が指定された検疫錨地で所定の旗を掲揚する。船舶間での旗を使った通信は古くから用いられているが、十九世紀半ば(1857年)に国際信号旗としてまとめられ(国際信号書)、世界共通のものとして認められるようになった。

*3: 赤い旗は社会主義・共産主義のシンボルであると同時に、船舶では国際信号旗のB旗でもあり、危険物運搬中などの意味がある。この場面では思想的な意味はなく、旧知の仲間を歓迎するつもりで掲げてあった。
なお、B旗は通常の旗のように長方形ではなく独特の形状をしている。flag B

*4: 現在でも、ヨットなどの船舶で出入国する場合、ねずみ族駆除証明が必要になる。

スナーク号の航海 (53) - ジャック・ロンドン著

ホオウミは小さな谷で、タイピー渓谷とは低い尾根で分けられている。ぼくらは言うことをきかない馬にさんざん手こずった末に、尾根のこちら側から出発した。一マイルほど進んだところで、ウォレンの馬がよりによってこの細い道で一番危険なところを選んだものだから、ぼくらは五分ほどはらはらさせられた。タイピー渓谷の入口あたりまで行くと、かつてメルヴィルが逃げだした浜辺が下の方に見えた。その当時、そこには捕鯨船のキャッチャーボートが停泊していたのだ。タブー視されたカナカ人のカラコエエがその海辺に立ち、とらわれた水夫たるメルヴィルを引き取るべく交渉していたのだ。メルヴィルはその場所でファヤウェイと別れの抱擁をし、ボートに向かって突進したのだった。その先の方には、モウモウをはじめとする追っ手たちがメルヴィルを乗せて逃げるボートを阻止しようと泳ぎだした場所があった。追っ手の連中は船縁をつかんだが、その手首にボートをこいでいた連中のナイフが振り下ろされた。親玉のモウモウはといえば、メルヴィルの手にしたボートフックの一撃をのどにくらったのだ。

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強かった民族の末裔の一人

ぼくらはホオウミまで馬に乗って行った。ここもタイピーに属するので、メルヴィルはここの住人にはしょっちゅう会っていたのだが、あまりに近いので、彼はここにこんな谷が存在するとは思ってもいなかった。ぼくらはそのときと同じ放棄されたパエパエを通った。海に近づくにつれて、たくさんのココヤシやパンノキやタロ芋畑、それに一ダースほどの草ぶきの家が見えてきた。そうした家の一つで、夜をすごすことになった。すぐに宴が始まった。子豚を殺して熱した石にのせて焼き、鶏はココナツミルクのシチューの具になった。ぼくは料理をしていた一人に頼んで特に高いココヤシの木に登ってもらった。実がなっている木のてっぺんは地上からゆうに百二十五フィート*1はあった。頼んだ男はすたすた登っていく。両手で木を抱え、足裏を幹にぴたりとつけ、腰にはジャックナイフを差した格好で、上まですいすいと登っていった。この木には足がかりになるようなものはないし、ロープも使わなかった。百二十五フィートもの高さの木にさっと登って、てっぺんから実を落とす。こんな芸当は誰もができるわけじゃない。というか、ここにいる大半の連中は今にも死にそうに咳をしていた。たえずぐちを言ったりうめき声をあげている女もいた。ひどく肺をやられているのだ。男女どちらにも完全に純粋なマルケサス人はほとんどいなかった。大半がフランス人やイギリス人、オランダ人、中国人などとのハーフやクォーターだ。新鮮な血の注入はせいぜい種としての滅亡を遅らせただけだったが、こうした状況を目にすると、はたしてその甲斐があったのか疑問にも思えてくる。

宴会は広いパエパエで開かれた。パエパエは石組みの祭壇のようなものだ。その奥に、ぼくらが眠る予定の住居があった。料理では最初に生魚とポイポイが出てきた。これはタロ芋でつくるハワイのポイより酸味が強かった。マルケサス諸島のポイポイはパンノキの実で作られる。熟した果実の芯をとりのぞいてヒョウタンの器に入れ、石棒ですりつぶす。この段階で葉で包んで地中に埋めておくこともできる。何年も持つ*2。とはいえ、食べるには、さらに処理が必要だ。葉で包んだものを、豚と同じように、熱した石の上に並べて焼くのだ。それから水をまぜて薄くのばす。とけ出すほど柔らかくはせず、人差し指と中指の間にはさんで食べられるくらいにする。知れば知るほど、これはうまくて健康的な食べ物だということがわかってくる。熟したパンノキの実は煮るか焼く! うまい。パンノキとタロ芋という組み合わせは食用野菜の王様だ。パンノキという呼称は明らかに誤りで、食感はどちらかといえばサツマイモに近いが、サツマイモほど粉っぽくもなく甘くもない。
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ココヤシの木陰

宴は終わった。タイピー渓谷に月が昇るのが見えた。大気には香油のような、かすかに花の香りが漂っている。魔法のような夜だった。葉を揺らすそよ風すらなく、死んだように静かだ。ひと休みすると、あまりの美しさに痛いほど悲しい気がした。はるか遠く、浜辺に寄せる波音がかすかに聞こえてくる。ベッドなどはなかった。ぼくらは眠くなると地面の柔らかいところに横になって寝た。近くに一人の女性が寝ていた。苦しそうにうめいている。ぼくらのまわりでは、死にかけた島人たちの咳が一晩中とぎれることなく聞こえていた。

訳注
*1: 百二十五フィートは約三十八メートル。一般にココヤシの樹高は高いもので三十メートルとされるが原文のまま訳出。ココヤシの実がココナツ。
*2: 地中で発酵させることで長期保存が可能になる。

スナーク号の航海 (51) - ジャック・ロンドン著

南太平洋の島々の住民すべてのうちで、マルケサス諸島の人々が最強で、最も美しいとみなされていた。メルヴィルは彼らについて「とくに体の強さと美しさに強い印象を受けた…。姿態の美という点では、これまでに見たどの民族よりもすぐれている。体に自然にできた傷のようなものはないか探してみたが、酒宴に参加している群衆の誰一人として美形でないものはなかった。完全さをそこなうシミ一つないように見えた。彼らが肉体的にすぐれているという意味は、単に異形なところがないというだけではなく、ほとんどすべてが彫刻家のモデルにもなれそうなくらいだった」 マルケサス諸島を発見したメンダーニャ*1も先住民は驚くほど美しいと形容している。メンダーニャの航海を記録したフィゲロアは彼らについて「肌の色はほとんど白く、均整のとれた美しい体をしていた」と述べている。キャプテン・クックは、マルケサス人を南太平洋でひかり輝いている島民と呼んだ。彼らは「ほぼ全員が長身で、六フィート(約百八十センチ)以下の者はまずいない」と。

ところが、今では、この強さと美しさは消えてしまっていた。タイピー渓谷は、ハンセン病や象皮病、結核に苦しめられている何十人もの悲惨な境遇にある人々の住む地となっていた。メルヴィルは、近くにある小さなホオウミの谷をのぞいて、人口を二千人と推定した。気候は申し分なく、健康的なことでは世界のどこにも引けをとらない、このすばらしい楽園で、生命は腐りはてようとしていた。肉体的にすばらしいだけでなく、タイピーの人々は純血だった。この島の大気には、ぼくらの住む世界に充満している病原菌や細菌など病気をもたらす微生物が含まれていなかったのだ。そして、やがて白人たちが船でやってきて、さまざまな病原菌が持ちこまれたため、タイピーの人々はめちゃめちゃにされて倒れていったのだ。

こうした状況について考えていくと、白人は不純物と腐敗の上に繁栄しているのだという結論をだしたくなる。とはいえ、これを自然淘汰で説明することは可能だ。ぼくら白人は、微生物との戦いで何千世代にもわたり生き残ってきた人々の子孫なのだ、と。つまり、こうした病原菌という敵に弱い体で生まれてきた者はすぐに死んでしまい、耐性を持った者だけが生き残っているのだ。いま生きている僕らは、たちの悪い病原菌が蔓延した世界に最もよく適応し免疫ができているというわけだ。かわいそうなマルケサス人は、そういう自然淘汰の洗礼を受けていなかった。彼らには免疫がなかった。そして敵を食べるという風習を持っていた者たちが、今は顕微鏡でしか見えないほど微細な敵にむしばまれているということになる。この戦いでは、勇猛果敢に突進してヤリを投げるといったことはできないのだ。一方で、かつて数十万人いたとされるマルケサス人で現在までに生き残った人々は、有機毒の煮えたぎるような風呂に飛びこむことを再生と呼べるのであれば、生まれ変わり再生した新しい種としての生存の土台を築いていく可能性もある。

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波をさえぎってくれる珊瑚礁

ぼくらは昼食のため馬をおりた。いがみあう馬同士を離すのも一苦労だった。ぼくの馬は背中を何カ所か新たにかまれていた。サンドフライというブユみたいなやつに悩まされたあげく、ぼくらはバナナと缶詰の肉を口に押しこみ、ココナツミルクで勢いよく流しこんだ。見るべきものはほとんど何もなかった。かつて人間が切り開いたところは再生した密林に浸食され飲みこまれつつあった。あちこちに建物の土台が見えたが、碑などはなく、文字が彫られているわけでもなく、過去の証(あかし)となる手がかりはなかった。あるのは、かつて手作業で造られるか削られるかした、ありふれた石ころだけで、それにもほこりが積もっていた。土台内部から、大きな木が育ってきていた。人間の痕跡を消そうとして、かつては土台となっていた石を割り、散逸させて、原始の混沌が出現しかけているのだった。

ぼくらは密林での探索を放棄し、サンドフライを避けようと小川を探した。だが無駄だった! 泳ごうとすれば、まず服を脱がなければならない。サンドフライはちゃんとそのことを知っていて、とんでもない数のサンドフライが土手で待ち伏せしていたのだ。島の言葉ではナウナウと呼ぶ。英語では今ということだが、その名前の通り、過去や未来の話ではなく、今この瞬間に自分の肌の上にいるというのが問題なのだ。賭けてもいいが、ウマル・ハイヤームだって、このタイピー渓谷にいて『ルバイヤート』を書くなんてことは絶対にできなかったはずだ。心理的に不可能だ。ぼくは、川岸が崖になっているところで服を脱ぐという戦略的な誤りをおかしてしまった。川には飛びこめるが、そこからすぐには岸に戻れない。川から上がって服を着ようとして、服を脱ぎすてたところまで百ヤードほど歩いて行かなければならなかった。一歩踏み出したとたん、何万というナウナウが飛びかかってきた。二歩目には、空が暗転した。その後どうなったか覚えていない。脱いだ服のところまで戻ったときには、頭がおかしくなっていたし、ここでも戦術的な誤りをおかしてしまった。ナウナウに対処する鉄則は一つしかない。やつらをたたいてはだめなのだ。他にどんなことをしてもいいが、絶対にたたきつぶしてはだめだ。たちが悪くて、たたきつぶされる瞬間に、やつらは毒を獲物の体に注入してしまうのだ。親指と人差し指でそっとつまみ取り、皮膚から吻(くちさき)を引きはがすようにする。歯を抜くような感じだが、むずかしいのは、引きはがされる前にすばやく突き刺してしまうのだ。だから、たたきつぶしてしたとしても、体にはすでに毒が入りこんでしまっている。この体験は一週間前の出来事だ。ぼくはいまも、あわれにも放置されたあげく回復しつつある天然痘患者みたいになっている。

南太平洋の島々の住民すべてのうちで、マルケサス諸島の人々が最強で、最も美しいとみなされていた。メルヴィルは彼らについて「とくに体の強さと美しさに強い印象を受けた…。姿態の美という点では、これまでに見たどの民族よりもすぐれている。体に自然にできた傷のようなものはないか探してみたが、酒宴に参加している群衆の誰一人として美形でないものはなかった。完全さをそこなうシミ一つないように見えた。彼らが肉体的にすぐれているという意味は、単に異形なところがないというだけではなく、ほとんどすべてが彫刻家のモデルにもなれそうなくらいだった」 マルケサス諸島を発見したメンダーニャ*1も先住民は驚くほど美しいと形容している。メンダーニャの航海を記録したフィゲロアは彼らについて「肌の色はほとんど白く、均整のとれた美しい体をしていた」と述べている。キャプテン・クックは、マルケサス人を南太平洋でひかり輝いている島民と呼んだ。彼らは「ほぼ全員が長身で、六フィート(約百八十センチ)以下の者はまずいない」と。

ところが、今では、この強さと美しさは消えてしまっていた。タイピー渓谷は、ハンセン病や象皮病、結核に苦しめられている何十人もの悲惨な境遇にある人々の住む地となっていた。メルヴィルは、近くにある小さなホオウミの谷をのぞいて、人口を二千人と推定した。気候は申し分なく、健康的なことでは世界のどこにも引けをとらない、このすばらしい楽園で、生命は腐りはてようとしていた。肉体的にすばらしいだけでなく、タイピーの人々は純血だった。この島の大気には、ぼくらの住む世界に充満している病原菌や細菌など病気をもたらす微生物が含まれていなかったのだ。そして、やがて白人たちが船でやってきて、さまざまな病原菌が持ちこまれたため、タイピーの人々はめちゃめちゃにされて倒れていったのだ。

こうした状況について考えていくと、白人は不純物と腐敗の上に繁栄しているのだという結論をだしたくなる。とはいえ、これを自然淘汰で説明することは可能だ。ぼくら白人は、微生物との戦いで何千世代にもわたり生き残ってきた人々の子孫なのだ、と。つまり、こうした病原菌という敵に弱い体で生まれてきた者はすぐに死んでしまい、耐性を持った者だけが生き残っているのだ。いま生きている僕らは、たちの悪い病原菌が蔓延した世界に最もよく適応し免疫ができているというわけだ。かわいそうなマルケサス人は、そういう自然淘汰の洗礼を受けていなかった。彼らには免疫がなかった。そして敵を食べるという風習を持っていた者たちが、今は顕微鏡でしか見えないほど微細な敵にむしばまれているということになる。この戦いでは、勇猛果敢に突進してヤリを投げるといったことはできないのだ。一方で、かつて数十万人いたとされるマルケサス人で現在までに生き残った人々は、有機毒の煮えたぎるような風呂に飛びこむことを再生と呼べるのであれば、生まれ変わり再生した新しい種としての生存の土台を築いていく可能性もある。

[写真P.171]
波をさえぎってくれる珊瑚礁

ぼくらは昼食のため馬をおりた。いがみあう馬同士を離すのも一苦労だった。ぼくの馬は背中を何カ所か新たにかまれていた。サンドフライというブユみたいなやつに悩まされたあげく、ぼくらはバナナと缶詰の肉を口に押しこみ、ココナツミルクで勢いよく流しこんだ。見るべきものはほとんど何もなかった。かつて人間が切り開いたところは再生した密林に浸食され飲みこまれつつあった。あちこちに建物の土台が見えたが、碑などはなく、文字が彫られているわけでもなく、過去の証(あかし)となる手がかりはなかった。あるのは、かつて手作業で造られるか削られるかした、ありふれた石ころだけで、それにもほこりが積もっていた。土台内部から、大きな木が育ってきていた。人間の痕跡を消そうとして、かつては土台となっていた石を割り、散逸させて、原始の混沌が出現しかけているのだった。

ぼくらは密林での探索を放棄し、サンドフライを避けようと小川を探した。だが無駄だった! 泳ごうとすれば、まず服を脱がなければならない。サンドフライはちゃんとそのことを知っていて、とんでもない数のサンドフライが土手で待ち伏せしていたのだ。島の言葉ではナウナウと呼ぶ。英語では今ということだが、その名前の通り、過去や未来の話ではなく、今この瞬間に自分の肌の上にいるというのが問題なのだ。賭けてもいいが、ウマル・ハイヤームだって、このタイピー渓谷にいて『ルバイヤート』を書くなんてことは絶対にできなかったはずだ。心理的に不可能だ。ぼくは、川岸が崖になっているところで服を脱ぐという戦略的な誤りをおかしてしまった。川には飛びこめるが、そこからすぐには岸に戻れない。川から上がって服を着ようとして、服を脱ぎすてたところまで百ヤードほど歩いて行かなければならなかった。一歩踏み出したとたん、何万というナウナウが飛びかかってきた。二歩目には、空が暗転した。その後どうなったか覚えていない。脱いだ服のところまで戻ったときには、頭がおかしくなっていたし、ここでも戦術的な誤りをおかしてしまった。ナウナウに対処する鉄則は一つしかない。やつらをたたいてはだめなのだ。他にどんなことをしてもいいが、絶対にたたきつぶしてはだめだ。たちが悪くて、たたきつぶされる瞬間に、やつらは毒を獲物の体に注入してしまうのだ。親指と人差し指でそっとつまみ取り、皮膚から吻(くちさき)を引きはがすようにする。歯を抜くような感じだが、むずかしいのは、引きはがされる前にすばやく突き刺してしまうのだ。だから、たたきつぶしてしたとしても、体にはすでに毒が入りこんでしまっている。この体験は一週間前の出来事だ。ぼくはいまも、あわれにも放置されたあげく回復しつつある天然痘患者みたいになっている。

[訳注]
*1: アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラ(1542年~1595年)。スペイン出身の南米ペルーを拠点にした探検家。インディオに伝わる黄金伝説を信じて南太平洋を探検する途中で、マルケサス諸島にも上陸している。ソロモン諸島への入植などを試みたが失敗。同諸島の一部ともなっているサンタクルーズ諸島で死亡。先住民との戦いで殺されたともマラリアで病死したとも言われている。

 

スナーク号の航海 (51) - ジャック・ロンドン著

ぼくらは馬に乗り、黄色い花粉をつけた桂皮が繁茂している、無限にも思えるやぶの海を進んでいった。ともかくも馬の背中にしがみついてはいるのだから、馬に乗っていると呼べるだろう。この茂みは香りが強くて、ススメバチが住み着いていた。なんというハチだ! 黄色い巨大なやつで、小さなカナリアの倍くらいの大きさはあった。二インチもの長さの脚を後方に流した状態で、矢のように飛んでいく。雄馬がいきなり前脚で立つ格好で、後ろ脚を空に向けて蹴りあげた。つきだした脚を引っこめると、乱暴に前方にジャンプし、それから元の位置にもどった。なんのことはない。馬の皮膚は分厚いのだが、スズメバチの針に刺されたのだ。と、二頭目、三頭目の馬も、さらにはすべての馬が急峻な崖の上で前脚立ちになって跳ねまわった。ビシャ! 猛烈なやつがぼくのほほに突き刺さった。また来た! 首を刺された。ぼくは最後尾にいたので、他の連中よりたくさん刺された。退却することはできない。馬たちは前方に突進し、危険で安全も約束されていない道を駆けた。ぼくの乗った馬がチャーミアンの馬を追いこすとき、この繊細な生物は絶好のタイミングでまた刺されたものだから、後脚のひずめでぼくの馬とぼくを蹴った。ぼくは馬が鋼鉄の靴をはいていなかった幸運に感謝した。さらに刺されたときは、サドルから半分立ち上がった。ぼくはたしかに他の連中より多く刺されたし、それは馬の方も同じだったが、痛みと恐怖はぼくの方が大きかっただろう。
「あっちいけ、じゃまするな!」と、ぼくは自分のまわりにいる羽をつけた毒蛇を帽子ではたきおとしながら叫んだ。
道の片側はほぼ垂直の壁になっていた。反対側は崖で、下の方まで落ちこんでいる。いまの状態から逃れる唯一の方法は、この道をそのまま進むしかなかった。馬の脚が丈夫なことは奇跡だった。前方に向かって突進し、抜きつ抜かれつで全速力で走り、駆け、つまづき、飛び上がり、よじ登り、スズメバチがとまるたびに空に向かって脚を蹴り上げた。やがて、ぼくらはひと息つけるようになり、何カ所刺されたか数えあった。こんなことは一度や二度じゃなかった。何度も何度もあった。妙な言い方になるが、だからといって慣れるということはなかった。ぼく個人としては、ヤブにさしかかるたびに死にものぐるいで暴れまくって走り抜けたのだ。そうとも、タイオハエからタイピーまでの巡礼では、退屈で途中であくびをかみ殺すということはない。

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マルケサス島でカメラ撮影

やっとの思いでスズメバチに悩まされないところまで登った。ぼくらの不屈の精神が勝ったのではなく、単に生息域より高い場所にきたというだけだ。周囲は、見渡す限り脊梁山脈の荒々しい峰々が貿易風の雲に向かってつきだしていた。はるか下の方に見える穏やかなタイオハエ湾には、スナーク号が小さなオモチャのように浮かんでいた。正面には内陸まで入りこんでいるコントローラー湾が見えた。タイピーは、ぼくらがいまいるところから千フィートも下にある。「天国の庭園が眼前に広がっているようだ。これほどうっとりする光景を見たことがない」と、この渓谷をはじめて見たメルヴィルは言った。彼は庭園を見たのだ。ぼくらが見たのは荒野だった。彼が見た百列ものパンの木など、どこにある? 見えるのはジャングルだけだ。密林以外に何もない。例外は二軒の草ぶき小屋と、原始からの緑の絨毯を破って育っているココナッツ林だ。メヒヴィのティはどこにあるんだろう? 若い男だけの、女人禁制の宮殿――メルヴィルが若い将来の村長(むらおさ)候補たちとたむろしていたあの建物――はどこにあるのだろう? ほこりをかぶったまま眠っている、勇ましかった昔を思い出すために保管されていた半ダースの聖なる盾はどこにあるのか? 流れの急な小川から未婚や既婚の女たちがタパ布をたたく音が聞こえくることもなかった。老ナルヘヨが造っていた小屋はどこにあるんだ? 丈の高いココナツの木に登って地面から九十フィートのところでたばこを吸っている案内人に聞いてみたが無駄だった。

ぼくらは密林の中を通っている曲がりくねった道をくだっていった。頭上には樹木がアーチ状に枝を伸ばしている。巨大な蝶が音もなく漂うように飛んでいた。こん棒やヤリを手にし、入れ墨を入れた野蛮人が道を守っているというわけでもなかった。ぼくらは小川を渡るときだけ、好きなところを歩くことができた。タブーもなければ、聖なるものも無慈悲なものも、このすばらしい渓谷にはなかった。いや、タブーはまだ存在していた。ぼくらが何人かの気の毒な現地の女に近づきすぎると、ぼくらは警告を受け阻止された。無理もない。彼女たちはハンセン病患者だったからだ。ぼくらに警告した男はといえば、象皮病に苦しんでいた。全員が肺の病気に苦しんでいた。タイピーの谷には死が充満し、部族で生き残った連中は、この部族で最後となる苦痛に満ちた息をしているのだった。

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バナナの木の下で

たしかに、この戦いでは強者が勝利したのではなかった。というのも、かつてタイピーの人々はとても強かったのだ。ハッパーの連中より強く、タイオハエの連中より強く、ヌクヒヴァのすべての部族より強かった。「タイピー」や「タイピ」という言葉は本来は人肉を食う人を意味した。マルケサスの人々は他の部族も含めてすべて人肉を食べていたのだが、そのなかでも、タイピーの連中は並外れて人肉を食うということを指しているのだ。ヌクヒヴァだけでなく、タイピーの連中は勇敢で残忍だという評判は広がっていた。マルケサス諸島のすべてで、タイピーという呼び名は恐怖につながる。だれもタイピーを征服することはできなかった。マルケサスを領有したフランスの艦隊でも、タイピーだけはそのままにしておいた。フリゲート艦エセックスの船長ポーターがかつてこの谷に侵攻してきたことがある。配下の水兵や海軍兵士に加えてハッパーとタイオハエの戦士二千人がかり出された。彼らはこの谷に攻めこんだが、猛烈な抵抗に遭って退却し、ボートや戦闘用カヌーに乗って逃げかえったのだ。