スナーク号の航海 (50) - ジャック・ロンドン著

それから長い年月を経ているし、のびたブタを食するというようなことを目撃する機会はないだろうと思っていたのだが、少なくともぼくはすでに、形状は楕円で、奇妙な彫りこみがなされた、百年も前に二人の船長の血を飲むのに使われていた、マルケサス諸島の正真正銘本物のヒョウタンで作った椀を持っているのだ。この船長のうちの一人は卑劣なやつだった。ポンコツの捕鯨船を白いペンキで塗り直して、マルケサスの村長(むらおさ)に新艇として売りつけたのだ。その船長が船に乗って逃げてしまうと、その捕鯨船はすぐにばらばらになった。と、しばらくして、逃げた船長の船が、こともあろうに、その島で難破したのだ。マルケサスの村長は金の払い戻しとか値引きという概念は知らなかったが、本能的に正当な要求を行った。つまり、自然界における収支決算ともいうべき根源的な概念を持っていた。そのだました男を食って帳尻をあわせたのだ。

タイピーの夜明けは涼しい。ぼくらは、なりは小さいが言うことをきこうとしない雄馬にまたがって出発した。が、馬たちは背に乗せた弱々しい人間やすべりやすい大きな石、ぐらぐらする岩、大きく口をあけている渓谷には無関心で、前足で地面をかき、おたけびをあげ、互いにかみつきあって喧嘩しあった。道はバウの木が密生しているジャングルを抜けている古道につながっていた。道のどちら側にも、かつての集落跡があった。こんもり茂った草木ごしに、高さ六フィートから八フィート、幅と奥行きは何ヤードもありそうな頑丈に作られた石壁と石を積み上げた土台部分が見えた。大きな石を積み上げた土台の上に、かつて家が存在していたのだ。しかし、家も人間もいまはなくなってしまい、その石組みの土台には巨木が根を張ってジャングルを上から睥睨(へいげい)していた。こうした土台部分はパエパエと呼ばれている。メルヴィルは耳で聞いた通りにピーピスと書いている。

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熱帯――道徳というものが持ちこまれた後の世界

マルケサスに現在住んでいる世代には、こんなに大きな石を持ち上げて積み重ねていくエネルギーはない。そうしようという気もない。歩いてまわると、たくさんのパエパエがあったが、どれも使われていなかった。一度か二度、ぼくらが谷を上っていくにつれて、普通は大地に張りついたような小さな草ぶき小屋の上にのしかかるように堂々としたパエパエが見えてきたことがあった。大きさの比較でいえば、ケオプス*1のピラミッドの広大な土台の上に造られた投票ブースといったところだろうか。純粋なマルケサス人は減っているし、タイオハエの状況から判断すると、集落が消滅しないですんでいる理由の一つは、新しい血が注ぎこまれているからだ。純粋なマルケサス人の方が珍しい。誰もが混血のように見えるし、何十ものさまざまな人種の血がまじりあっているようだ。十九名の有能な働き手はすべてタイオハエで商売をしていて、ココナツの実を乾燥させたコプラを船に積みこむために集まっていた。イギリスやアメリカ、デンマーク、ドイツ、フランス、コルシカ島、スペイン、ポルトガル、中国、ハワイ、ポリネシア、タヒチ、イースター島といったところの人々の血が流れている。人の数より人種の数の方が多いし、そういう名残もあるといったところだ。人間は弱々しく、よろめき、あえいでいる。この温暖でおだやかな気候は――まさに地上の楽園というべきもので――極端な温度になることはなく、大気には芳香がただよい、オゾンを運んでくる南東の貿易風のおかげで汚染もされていない。だが、気管支ぜんそくや肺結核、結核が植物のように蔓延(まんえん)している。どこでも、わずかに残った草ぶき小屋からは、肺を悪くした苦しそうな咳や疲れきったうめき声が聞こえてくる。それ以外にもおそろしい病気も広がっているが、一番怖いのは肺をやられることだ。「奔馬性」と呼ばれる肺結核があるが、これはおそろしいもので、どんなに頑健な男でも、二ヶ月もすると、死装束を着たガイコツのようになってしまう。谷間の居住地で住人が死にたえたところでは、ゆたかな土壌はまた密林に戻るのだが、それが谷から谷へとそれが広がっていく。メルヴィルの時代には、ハパア(彼は八ッパーとつづっていた)には強くて好戦的な人々が住んでいた。それから一世代たっても二百人がいた。今は無人で、荒涼とした熱帯の荒野になっている。

ぼくらは谷を上へ上へとのぼって行った。ぼくらが乗った蹄鉄をつけていない馬は、いまにも崩れ落ちそうな小道を進んでいったが、この道は放棄されたパエパエやとどまるところを知らず拡大しているジャングルを出たり入ったりして続いていた。ハワイ以来おなじみの赤いマウンテンアップルが見えたので、先住民の一人に木に登ってとってもらった。すると、彼はさらにココナツの木に登った。ぼくはジャマイカやハワイでココナツの果汁を飲んだことがある。が、このマルケサスで飲むまで、こんなにうまいものだとは知らなかった。ところどころ、野生のライムやオレンジが実っていた──土地を耕して植えた人間よりもずっと長く荒野で生き続けている偉大な木々だ。

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ココナツの木立
訳注
*1 : ケオプスはギリシャ語。一般にはクフとして知られている古代エジプトの王。

スナーク号の航海 (49) - ジャック・ロンドン著

朝になって目がさめると、ぼくらはおとぎ話の世界にいた。スナーク号は、巨大な円形競技場のようになった、外洋から切り離された穏やかな港に浮かんでいた。見上げるように高い岩壁はツタにおおわれ、海からそのままそそりたっていた。はるか東には、壁面をこえて続いている踏みかためられた小道が見えた。
「トビーがタイピーから逃げ出すときに通った道だ!」と、ぼくらは叫んだ。

ぼくらはまもなく上陸した。が、長旅を終えるには、それから丸一日も馬に乗っていなければならなかった。二ヶ月も海にいて、その間はずっとはだしだったし、船は運動できほど広くもなかったため、革靴をはいて歩く練習などはしていなかった。おまけに、陸に上がったとたんに足もとが揺れて吐き気がしてくるしまつで、それに慣れるまで待ってから、目もくらむような崖ぞいの道を山羊のような馬に乗って進んだ。ぼくらはちょっと行っては休憩し、植物が繁茂したジャングルをはって進み、そうやって緑のコケにおおわれた人らしき像を見た。そこには、ドイツ人の貿易商人とノルウェー人の船長がいて、像の重さをはかり、半分に切ったら価値がどれくらい落ちるかなどと思案していた。彼らは罰当たりにもその古い像にナイフを当てて、どれくらい固いのか、コケの厚みがどれくらいなのかを調べようとしていた。やがて、像を立てるよう命じた。自分で船まで苦労して運ばなくてすむようにしたのだ。つまり、十九人の先住民に木枠をこしらえさせ、その枠の中に像をつるした状態で船まで運ばせたのだ。いまごろは、南太平洋のハッチをきつく締めた船の中にあって、波を切り裂きながらホーン岬に向かって進んでいることだろう。こういった像はアメリカにも少し持ちこまれるのだが、ぼくがこの原稿を書いているそばでほほえんでいる像をのぞいては、異教徒のすぐれた偶像はすべての安住の地となるヨーロッパに向かっていた。スナーク号が難破しなければ、今ぼくの手元にあるこの像は死ぬまでぼくの身のまわりにあってほほえんでいるだろう。つまり、勝利を収めるのは、この像なのだ。ぼくが死んで塵になるときも、この像はほほえんでいるはずだ。

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水辺の女神

話を元にもどすと、ぼくらはある儀式に参加することになった。それは、捕鯨船から逃げ出したハワイ人の船乗りの息子が、十四匹のブタをすべて焼いて村人を招待するというもので、マルケサス諸島生まれの母親の死をいたむものだった。そこに、ぼくらがやってきたので、神の使者となっている原住民の少女が歓迎してくれたのだ。彼女は大きな岩の上に立ち、ぼくらがやってきたことで儀式が完璧なものになったと、歌うように語った。その情報は、船が到着するごとに決まって示されることではあった。とはいえ、彼女が声音を変えると、座っているものはほとんどいなくなった。一同ははげしく興奮しつづけている。彼女の叫び声は激しく甲高くなり、遠くの方からも、それに応じる男たちの声が聞こえてきた。その声は風の音にまざり、信じられないほど凶暴になって、血と戦闘のにおいがする、荒々しくも野蛮な詠唱となっていった。それから、熱帯の樹木の陰から、ふんどし以外は裸の人々が登場し、たけだけしい行進を見せてくれた。連中は、テンポの遅い深いしわがれ声で勝利と高揚した叫び声を発しつつ、ゆっくり進んだ。若者たちは肩に何かわからないものをのせて運んでいた。かなり重そうだったが、緑の葉で包んであるため、中身は見えなかった。

包みの中には、丸々と太ったブタを焼いて入ってあったのだが、男たちは昔の風習をなぞって「のびたブタ」を宿営地まで運んでいるのだった。のびたブタとは、人肉に対するポリネシア語の婉曲的表現で、彼らはこの人食い人種の子孫であり、村長(むらおさ)は王の息子なのだ。祖父たちがかつて殺した敵の死体を運んでいた頃と同じように、戦利品にみたてたブタを食卓に運んでいるのだ。運搬している連中は、ときおり勝利の雄叫びをあげ、敵をののしり、食ってやると大声を発したりしたので、そのたびに行列はとまった。今から二世代前、メルヴィルは実際に殺されたハッパー族の戦士たちの死体がヤシの葉に包まれて宴(うたげ)に運ばれていくのを目撃した。またそれとは別の機会に、やはり宴の地で「奇妙な木彫りの容器を目撃」している。よく見ると、「人骨が散乱していた。骨にはまだ肉が残っていて、ぬるぬるとし、肉片もあちこちにこびりついて」いた。

カニバリズム(食人の風習)は、自分たちは高度に文明化されたと信じている人々からは信じがたい作り話とみなされることが多いが、それは自分にも野蛮な祖先がいて、かつて同じような行為をしていたのだという考えを嫌悪しているためなのかもしれない。キャプテン・クック*1も、そうしたことには懐疑的だった――ある日、ニュージーランドの港で実際に自分の目で見るまでは。一人の原住民がたまたま物売りのため彼の船に上がってきたのだが、見事に日に焼けた人間の頭を持ちこんだのだ。クックの命令で肉片が切りとられた。それを原住民に手渡すと、そいつはそれをがつがつ食ったのだ。控えめに言っても、キャプテン・クックは徹底した経験主義者だった。ともかく、その行為により、彼は科学がぜひともつきとめるべき一つの事実を提供したことになる。というのも、後年、マウイの一人の族長が、自分の体内にはキャプテン・クックの偉大な足先が入っていると言い張ったため名誉毀損の罪に問われるという奇妙な訴訟が起きることになるのだが、その当時のキャプテン・クックは、数千海里も離れたその島々にそうした人々が存在しているとは夢想だにしていなかった。原告は、その老族長の肉体がキャプテン・クックという偉大な航海者の墓になっているわけではないとは立証できず、訴えは棄却されたそうだ。
訳注
*1: キャプテン・クック(1728年~1779年)。十八世紀イギリスの海軍士官(最終的に勅任艦長)にして希代の探検家。英国・王立協会から「金星が太陽の表面を通過する様子を観測」するために派遣されたことを手はじめに、計三度の航海で、北はベーリング海峡から南は南極海まで、広大な太平洋のほとんど(特に南太平洋)を走破した。ニュージーランドやタスマニア島、グレートバリアリーフを含む数多くの地理的発見を行い、測量や海図製作でも多大な功績を残した。三度目の航海中、ハワイ諸島において原住民とのトラブルで殺害された。

おことわり
本文には現代の倫理基準に照らして適切とはいいがたい表現が出てきますが、その点を現代風(あいまい)にすると、それが通奏低音として重要な意味を持っているハーマン・メルヴィルの『タイピー』の理解をさまたげ、同作に対するオマージュでもある本章の意味が薄れてしまうと判断し、著者の意図を尊重し、できるだけ忠実に訳出してあります。

スナーク号の航海 (48) - ジャック・ロンドン著

第十章
タイピー

 

東の方にあるウアフカ島は、あっという間にスナーク号に追いついてきた夕方の豪雨でまったく見えなくなった。だが、ぼくらの小さな船はスピンネーカーに南東の貿易風を一杯にはらませて快適に進んだ。ヌクヒバ島の南東端にあるマーチン岬を真横に見るところまで来ると、その先には、コンプトローラ湾が大きく口を開けていた。広い入口には、コロンビア川の鮭釣り船のスプリットスル*1のように、セイル・ロックという岩礁が南東のたたきつけるようなうねりや風に抗して立っていた。
「ありゃ何だ?」と、ぼくは舵を握っているハーマンに聞いた。
「漁船」と、彼はじっくり眺めて答えた。
だが、海図にははっきりと「セイル・ロック」と印がつけてあるのだ。
とはいえ、ぼくらが気にしていたのは、その岩ではなく、陸側に入りこんでいるコンプトローラー湾の方だ。陸に三箇所あるはずの湾曲部を必死で探す。夜明けの薄明りを通して、中央の入江に、内陸に深く入りこんでいる谷の斜面がぼんやり見えた。ぼくらは何度も海図と見比べ、中央の湾曲部の谷こそ、奥まで開けているタイピー渓谷だと判断した。海図には「Taipi(タイピ)」と記入され、それが正しいのだが、ぼくは「Typee(タイピー)」を使いたいし、ずっとタイピーを使うつもりだ。というのも、子供のころにハーマン・メルヴィルの『タイピー(Typee)』を読んで、そこに描かれている世界にずっとあこがれていたからだ*2。いや単なる夢ではなく、そのとき、成長して強くなったら自分もタイピーに行くと思ったのだ。世界には不思議なものがあるという思いは、ぼくの小さな心にしみついていた。そうした不思議に導かれるようにして、ぼくは多くの土地を訪れてきたが、それが色あせてしまうことは決してなかった。長い年月が経過したが、タイピーを忘れてはいなかった。北太平洋での七ヶ月の巡航後にサンフランシスコに戻ってくると、ぼくは機が熟したと思った。ブリッグ型帆船のガリラヤ号がマルケサス諸島に向かうことになっていることを知ったぼくは、この帆船の乗組員に欠員はなかったが、タイピーに行きたい一心で、謙遜しつつも給仕として雇ってもらえませんかと申しこんでみた。マストの前で作業する甲板員としての経験はあるものの、正式な資格は持っていなかったし、といって経歴を誇張するほど世慣れてもいなかったのだ。むろん、ガリラヤ号はマルケサス諸島から先はぼくを乗せないで出帆することになるのだ。というのも、ぼくは島で作品に出てくるファーヤウェイやコリコリの現代版の人間を探すつもりでいたからだ。ぼくがマルケサス諸島で職務を放棄するつもりだと船長は気づいたのではないかと、ぼくは疑っている。給仕の職も満席だったのだろう。いずれにしても、雇ってはもらえなかった。

それから、怒涛のような日々が到来し、いろんな計画を立て、結果も残したし失敗もした。だが、タイピーを忘れたことはなかった。だから今、ここにこうしているのだ。ぼくは靄(もや)に包まれた島の輪郭をじっと眺めていたが、雨が激しくなり、スナーク号はどしゃぶりの中を入江に向かって突っこんでいく。前方の視界が一瞬開けたとき、ちらっと見えたセンティネル・ロックの磁針方位を確認した。長い海岸線に打ち寄せている波も見えたが、それも雨と夜の闇にかき消されてしまった。波が砕けている音を頼りに、すぐに舵をきれるようにして、ぼくらはそのまま前進した。コンパスだけを頼りに進むほかなかったのだ。センティネル・ロックを見落とせば、タイオハエ湾も見落とすことになる。そうなったら、スナーク号を風上に向けた状態で一晩ずっと漂白するしかなくない。広大な太平洋を六十日もかけて航海してきて疲れきっている船乗りにとって、陸地に飢え、果物に飢え、長年のあこがれであるタイピー渓谷を見てみたいと切望している船乗りにとって、もう一晩、船にいなければならないというのは、あまり歓迎すべきことではない。

と、いきなり、怒号のような音とともに、雨の中から真正面にセンティネル・ロックが出現した。ぼくらは進路を変えた。メインセイルとスピンネーカーが風をはらみ、速度があがった。この岩礁の風下までくると風が落ち、無風になり、うねりだけが残った。それからまた、風がタイオハエ湾の方から吹いてきた。スピンネーカーを取りこみ、ミズンセイルを上げたが、ほぼ正面からの風で、詰め開きで少しずつ前進していった。測深鉛を投げて水深を測りながら、いまは廃墟となった砦に設置されている赤い灯火が見えないか探した。それが泊地への道しるべになるのだ。風は弱く、気まぐれだった。東風かと思えば西風になり、北から吹いたと思えば南から吹いたりした。どっちの舷側からも、目には見えないが海岸の岩に打ちつける波の音が聞こえた。ぼんやりと崖が見えるようになり、野生の山羊の鳴く声も聞こえてきた。おんぼろ汽車が通過するようにスコールが通り過ぎてしまうころには、ぼんやりと星も見えはじめた。二時間後、さらに一海里ほど湾に入ったところで、ぼくらは投錨した。水深は十一尋(ひろ、約二十メートル)*3。ついにタイオハエに到着したのだ。

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草ぶきの家々
[訳注]
*1: スプリットスル=スプリット(斜檣)+スル(セイル、帆)。スナーク号では船首から突き出したバウスプリットから張っている帆。

*2: ハーマン・メルヴィルは海洋文学の傑作『白鯨』の作者。近年は海洋物以外の多彩な作品群でも再評価がなされている。捕鯨船に乗り組んだことがあり、船乗り時代の体験を元にマルケサス諸島を舞台にした『タイピー』を出版したのは白鯨を発表する前年で、これが処女作になった。時代は異なるが、ジャック・ロンドンとは共通点が多く、彼の愛読書だった。

*3: 尋(ひろ、fathom)は水深を測る単位。一尋は6フィート(約1.8メートル)。11尋は約二十メートル。

スナーク号の航海 (47) - ジャック・ロンドン著

ぼくらは東へと進み、赤道無風帯を通過して南下し、南西からのいい風を捕まえた。この風では詰め開きで風上に向かえば、はるか西にあるマルケサス諸島にもたどりつけるだろう。だが、翌十一月二十六日、火曜日、すごいスコールが襲来し、風がいきなり南東に変化した。ついに貿易風に出会ったのだ。それからはスコールも無風地帯もなく、好天に恵まれ、いい風も吹いてくれた。速度計も元気よく回転していた。シートをゆるめて、スピンネーカーとメインセールを両舷に展開したが、よく風を受けてはらんでくれた。貿易風はどんどん後ろにまわり、北東から吹いてくるまでになった。その間、ぼくらは安定して南西へと進んだ。こういう状態が十日続いた。そうして十二月六日の午前五時、真っ正面の「あるはずのところにある」陸地を見たのだ。ウアフカ島の風下を通ってヌクヒバ島の南端をかわした。その夜、激しいスコールに見舞われ、墨を流したような闇夜になったが、狭いタイオハエ湾にあるはずの泊地へと進路を探りながら進んだ。錨を投下すると、崖の上の野生の山羊が一斉に鳴き出した。強い花の香りがただよってきた。太平洋を横断しつつ南下するこの長い航海がやっと終わったのだ。ハワイを出発して到着するまで、この人の気配のない海を横断するのに六十日かかった。水平線から他の船の帆が見えるということはまったくなかった。
訳注
マルケサス諸島は現在はマルキーズ諸島と呼ばれることもありますが、タヒチを代表とする広い意味のフランス領ポリネシアに含まれる群島です。最大の島がヌクヒバ島で、ここは海洋文学の白眉ともいえる『白鯨』の作者として知られ、近年その多面性が再評価されているハーマン・メルヴィルの『タイピー』という作品の舞台にもなっていて、その作品を愛読していたジャック・ロンドンはこの島に来るのが夢だったのです。

第九章は今回で終了し、次回から第十章になります。このヌクヒバ島での体験が語られていきますが、ジャック・ロンドンのことなので、観光ガイドとは違った一筋縄ではいかない展開になりそうです。

スナーク号の航海 (46) - ジャック・ロンドン著

食料貯蔵庫に追加したもので最も歓迎されたのはアオウミガメだ。重さは優に百ポンド(約四十五キロ)はあり、ステーキにしてもスープやシチューにしても、テーブルに並ぶと食欲を刺激してくれた。最後には絶品のカレーになったが、全員が飯を食いすぎてしまったほどだ。このウミガメは船の風上にいた。大きなシイラの群れに囲まれた海面で眠っているようにのんびり浮かんでいた。一番近い島からでも一千海里は離れている大海原での話だ。ぼくらはスナーク号の向きを変え、ウミガメのところへ戻った。ハーマンが銛(もり)を頭と首に打ちこんだ。船上に引き上げると、無数のコバンザメが甲羅にしがみついていた。カメの足が出ているくぼみから大きなカニが何匹かはい出てきた。ウミガメを見つけたら即座にスナーク号を差し向けて捕獲することで、すぐに全員の意見が一致した。

とはいえ、大海原の王様たる魚といえばシイラだ。シイラほど体色が変化するものはない。海で泳いでいるときは上品な淡い青色がかっているが、体色の変化で奇跡を見せてくれる。この魚の色の変化に匹敵するものは何もない。あるときは緑系の色――ペール・グリーン、ディープグリーン、蛍光グリーンに見えるし、あるときは青系の色――ディープ・ブルー、エレクトリック・ブルーなど青系のすべての波長の色になることもある。釣り針にかかると、ゴールドから黄色味が増し、やがて全身が完全な金色になる。甲板に上げると、波長を変えながら、ありえないほどの青系、緑系、黄系の色へと変化しつつ、と、いきなり幽霊のように白っぽくなる。体の中央に明るいブルーの点があり、それがマスのような斑点に見えてくる。その後、白からすべての色を再現しつつ、最終的には真珠母のような光沢のある色になるのだ。

シイラは釣りが好きな人におすすめだ。釣りの対象としてこれほどすばらしい魚はいない。むろん、リールと竿に細い糸が必要だ。それにオショーネシーの七番のターポンフックを結び、餌としてトビウオを丸ごとつける。カツオと同様に、シイラの餌はトビウオだ。稲妻のように襲いかかってくる。まずリールが悲鳴のような音を立て、糸が煙を出しながら船と直角の方向に出ていくのが見えるだろう。糸が足りるかなと長さを心配するまでもなく、何度か続けて空中にジャンプする。四フィートはあるのがはっきりするので、船に引き上げるまで最高のゲームフィッシングが堪能できる。針にかかると、必ず金色に変色する。一連のジャンプは針を外そうとするためだが、跳ね上がるたびに去勢されていない雄の馬のように金色に輝く体をくねらせる、釣った方としては、これほどきらびやかな魚を見れば心臓がどきどきするし、そうならないとすれば、君の心は鉄でできているか心がすり切れているにちがいない。糸をゆるませるな! ゆるんでしまうと、跳ねたときに針が外れて二十フィート先で逃げてしまう。ゆるめるな。そうすれば、やつはまた海中を走り、ジャンプを続けることになるだろう。なおも糸が全部出てしまうのではないかと不安になるだろう。リールに六百フィートの糸を巻いていたが、九百フィート巻いていたらなと思い始めるわけだ。糸が切れないよう細心の注意を払って魚を操っていれば、一時間もの大興奮のはてに、この魚をギャフに引っかけることができる。そんな風にしてスナーク号の船上に引き上げたやつを測ると四フィート七インチ(約百四十センチ)もあった。

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四フィート七インチもあるシイラ

ハーマンの釣り方はもっと散文的だ。竿を使わず手に糸を持ち、サメの肉を使うだけだ。糸は太いが、それでも切れてバラすことがある。ある日、一匹のシイラがハーマン自作のルアーをくわえたまま逃げたことがある。ルアーにはオショーネシーの針が四本もつけてあった。一時間もしないうちに、その同じシイラが別の釣り竿にかかったのだが、四本の針はついたままだったので無事に回収できた。シイラはひと月以上もスナーク号の周囲にいたが、それ以降は姿を消した。

そうやって日がすぎていった。することがたくさんあったので、退屈はしなかった。することがないときは海の景色や雲を眺めていたが、これがまたすばらしくてまったく飽きなかった。夜明けは、ほぼ天頂まで弧を描いている虹の下から昇ってくる太陽は燃えているように荘厳だったし、日没では、天頂までの青い空を背景に、太陽がバラ色の光に包まれた川を残しつつ紫色の海に沈んでいった。反対側では、昼間は日光が海の深いところまで射しこんでいるため青く穏やかで、波一つなかった。後方では、風があるときには白っぽいトルコ石のような泡だつ航跡ができていた――スナーク号が波を乗りこえて上下するたびに船体が作り出す引き波だ。夜には、この航跡は夜光虫で輝いた。クラゲのようなプランクトンがスナーク号が通った跡を示しているのだ。彗星のように長く波うつ星雲の尻尾がずっと観察できたが、海面下でカツオが通過したためにかきまわされて興奮した無数の夜光虫が発光しているのだ*1。また、スナーク号のいずれの側でも、海面下の闇の中で、さらに大きなリン光を発する生命体が電球のように点滅していた。これは、そんなことには無頓着なカツオがスナーク号のバウスプリットの鼻先で獲物を捕らえようとしてプランクトンと衝突して発光させているのだった。
訳注
*1: いわゆる夜光虫は海洋性プランクトンで、刺激に反応して発光する(ルシフェリン-ルシフェラーゼ反応)。夜の海に青白く光る夜光虫はロマンチックだが、これが大発生すると赤潮として漁業に被害がでることもある。

スナーク号の航海(45)- ジャック・ロンドン著

とはいえ、その夜に雨が降った。水が少ないと思うとかえって喉の渇きを強く感じるものだが、自分の割当分の水をすぐに飲んでしまっていたマーチンは、天幕(オーニング)の下縁で大口をあけ、これまで見たことがない勢いで雨水をがぶ飲みしていた。貴重な水がバケツや桶を満たし、二時間もすると、百二十ガロンもの水が蓄えられた。奇妙なことに、それからマスケサス諸島までの航海ではずっと降雨はなかった。あのスコールがなかったらポンプは施錠したままで、残っているガソリンを燃やして蒸留水を作るしかなかっただろう。

魚も釣った。魚を探す必要はなかった。船の周囲にいくらでもいたからだ。三インチの鋼の釣り針を頑丈なロープの端に結び、白い布きれを餌代わりにつけておくと、それだけで十ポンドから二十五ポンドの重さのカツオが釣れた。カツオはトビウオを餌にしていて、うまそうに見える布きれに針がついているとは思いもしないのだろう。引きも強烈で、針にかかると、釣った本人があっけにとられるくらいの勢いで走りだす。おまけに、カツオは獰猛な肉食系の魚らしく、一匹がかかった瞬間、仲間のカツオがそいつに襲いかかるのだ。船上に吊り上げられたカツオには茶碗ほどの大きさの食いちぎられた跡があったことも一度や二度ではなかった。

何千匹ものカツオの群れが昼夜を問わず三週間以上も船についてきた。スナーク号のおかげで、すばらしい漁を堪能できた。やつらは海上を半海里ほどの幅で千五百海里もの距離を帯状についてきた。カツオはスナーク号の両舷に並行して泳ぎながらトビウオに襲いかかった。なんとかかわして空中を飛翔しているトビウオを後方から追跡し、スナーク号を追いこしていく。後方には、砕け波の前の海面下をゆっくり泳いでいる無数の銀色の魚影が見えた。カツオたちは満腹になると船や帆の陰に入ってのんびり泳ぎながら、ほてった体を冷やしているのだ。

とはいえ、かわいそうなのはトビウオだ! カツオやシイラに追いかけられ、生きたまま食われてしまうので、空中に飛び出すしかない。が、そこでも海鳥に急襲されて海に戻るはめになる。この世界に気の休まるところはないのだ。トビウオが空中を飛翔するのは、別に遊んでいるわけじゃない。生死がかかっている。ぼくらは一日に何千回も顔を上げては、そこで演じられている悲劇を目撃した。一羽の海鳥が旋回している。下を見ると、イルカが背びれを海面につき出して突進していく。その鼻先には海中から空中に飛び出したばかりの、糸を引く銀色の筋が見える。今にも息づかいが聞こえそうだ――パニック、本能の指示、生存の欲求にかられた、きらきらした精妙な有機体の飛翔。海鳥が一匹のトビウオをとらえそこなった。すると、そのトビウオはまた凧(たこ)のように向かい風を受けて高度を上げ、半円を描きながら風下の方へと滑空していく。その下では、シイラが通った跡が泡だっている。シイラは頭上の餌を追跡しながら、大きな目で、朝食となるはずの自分以外の生命体が流れるように滑空していくのをじっと凝視している。シイラはそこまで高く飛び上がれないが、そのトビウオが海鳥に食われなければ遅かれ早かれ海に戻るしかないことをこれまでの経験から知っているのだ。そうなれば――朝食にありつける。ぼくらはこの哀れな翼を持った魚に同情した。これほど欲望がむきだしの血にまみれた大量殺戮を見るのは悲しかった。それからも、夜に当直をしていると、あわれでちっぽけなトビウオがメインセールに当たって落下してきたりした。甲板で跳ねていたりすると、ぼくらはすぐに拾い上げ、シイラやカツオのようにむさぼり食った。朝食だ。トビウオはとてもうまいのだ。こんなうまい肉を食べている捕食魚の体がこれほどうまい肉にならないのか不思議でならない。おそらく、シイラやカツオは餌を捕えるためにものすごいスピードで泳ぐので筋繊維が粗いのだろう。とはいえ、トビウオも高速で移動しているのではあるが。

細いロープに鎖のサルカンと大きな釣り針の仕掛けには、ときどきサメがかかった。サメは水先案内をしてくれるし、邪魔になったりもするが、いろんな形で船を利用しようとする生き物でもある。サメには人食いザメとしておなじみのやつが何種類かいるが、トラのような目に十二列のカミソリのように鋭い歯を持っている。ところで、ぼくらはスナーク号ではたくさんの魚を食べたが、焼いてトマト・ドレッシングにつけこんだサメの肉に比肩できるものはないという点で、ぼくらの意見は一致していた。凪(なぎ)のときには、日本人のコックが「はけ」と呼ぶ魚を釣った。また、スプーンで作った針を百ヤードほどの糸につけてトローリングしていると、長さ三フィート以上で直径三インチほどのヘビのような魚が釣れたこともある。アゴには四本の牙があった。ぼくらが船上で食べたうちでは、こいつが最高にうまかった――肉も香りもすばらしかった。

スナーク号の航海 (44) - ジャック・ロンドン著

日光が灰色と紫がかった雲のベールを通して射しこみ、海面は頻発する激しい豪雨にたたきつけられてフラットになったまま泡立っていた。雨が降り風が吹きすさぶ海面のうねりとうねりの谷間を白い水しぶきが満たし、海面はさらに平らになったが、海は前にもまして激しく襲いかかろうと、風と波が収まるのを待っていた。男たちが起き出して甲板に出てきた。そのなかでもハーマンは、ぼくが風をとらえたのを見てニヤッと笑った。ぼくは舵をウォレンに預け、船室に降りようとした。厨房の煙突が波に流されそうにしていたので、それをつかまえようと立ち止まった。ぼくは裸足だったし、つま先はなんでもつかめるようきたえてもあったのだが、手すり自体が緑の海面に没していたので、ぼくはふいに海水に洗われた甲板で尻餅をついてしまった。ハーマンは、それを見て、ぼくがなぜその場所に座ることにしたのかと、妙に落ち着いた口調でたずねた。すると、次のうねりで奴も不意打ちをくらって尻餅をついた。スナーク号は大きく傾き、手すりはまた海水をすくった。ハーマンとぼくは貴重な煙突をつかんだまま風下舷の排水口のところまで流された。ぼくはそれからやっと船室に降りて着替えたのだが、そこで満足の笑みを浮かべた――スナーク号が東進しているのだ。

いや、まったく退屈するなんてことはなかった。ぼくらは西経百二十六度まで苦労して東進し、そこから変向風に別れを告げて赤道無風帯を横切って南へと向かっていた。ここではずっと無風のときが多く、風が吹くたびに、それを利用して何時間もかけて数マイル進んでは喜んだ。とはいえ、そんなある日、一ダースものスコールがあり、それ以上の雨雲にも囲まれた。スコールのたびに、スナーク号は横倒しされそうになる。スコールの直撃を受けることもあれば、雨雲の縁がかすめ通ることもあったが、どこでどんな風に襲ってくるか、わからなかった。スコールは雨を伴う突風だが、天の半分をおおってしまうようなスコールが発生し、そこから風が吹き下ろしてきた。が、たぶん、ぼくらのところで二つに分かれたのだろう。船には被害を与えず両側を通り過ぎて行った。そうした一方、何の影響もなさそうな、雨も風もたいしたことがなさそうなやつが、いきなり巨大化して大雨を降らせ、強烈な風で押し倒そうとすることもあった。それから、一海里も風下の後方にあったやつが、いつのまにか背後から忍び寄ってきていることもあった。と、またスコールが二つに分かれてスナーク号の両側を通りすぎようとした。手を伸ばせば届きそうなところをだ。強風には数時間もするとなれてくるものだが、スコールは違っていた。千回目のスコールでも、はじめてのスコールと同じくらいに興味深い、というより、もっと面白く感じられる。スコールの面白さがわからないうちは素人だ。千回もスコールを経験すると、スコールに敬意を払うようになる。スコールとはどういうものかがわかってくるからだ。

一番どきどきするような出来事が起きたのは赤道無風帯でだった。十一月二十日、ぼくらはちょっとした手違いで残っていた真水の半分を失ってしまった。ハワイのヒロを出発してから四十三日目だったので、残っている水も多くはなかった。その半分を失うというのは破滅的だ。割当量から推して、残りの水で二十日は持つだろう。とはいえ、場所は赤道無風帯である。南東の貿易風がどこにあるのか、どこから吹き出しているのかすらわからなかった。

ポンプには直ちにカギをかけ、一日に一度だけ割当分の水をくみだすようにした。ぼくらには一人当たり一クォート(一リットル弱)の水が割り当てられ、料理に八クォート使った。心理状態をみてみると、最初に水が不足していることがわかるとすぐに、喉のかわきにひどく悩まされるようになった。ぼくについて言えば、人生でこんなに喉のかわきを覚えたことはなかった。割り当てられたわずかな水は一息で飲んでしまえそうだったし、そうしないようにちびちび飲むには強い意志が必要だった。それはぼくだけじゃない。みんなが水のことを話し、水のことを思い、眠っているときも水のことを夢に見た。窮地を脱するため近くに水を補給できるような島がないか海図を調べた。が、そんな島はなかった。マルケサス諸島が一番近かったが、赤道を超えた向こう側、赤道無風帯を超えた先にあるのだ。そう簡単にはいかない。ぼくらは北緯三度にいた。マルケサス諸島は南緯九度、経度で十四度も西にある――距離にして一千海里を超えるのだ。熱帯で風がなく、うだるように暑い大海原で苦境に陥っている一握りの生物、それがぼくらだった。

ぼくらはメインとミズン二本のマストの間にロープを渡し、雨が降ったら前の方に雨水を集められるように、大きな天幕を後ろを高くして張った。海上ではあちこちでスコールが通り過ぎていった。ぼくらは、このスコールの動向を一日ずっと、右舷も左舷も前方も後方も見張っていたが、近づいて雨を降らしてくれるものはなかった。午後になると大きなスコールがやってきた。海一面に広がって接近してくる。ものすごい量の雨水が海水に流れこんでいるのが見えた。ぼくらは天幕に注目してずっと待った。ウォレン、マーチン、ハーマンは生気を取り戻した。連中は一団となって索具を持ち、うねりにリズムを合わせながら、スコールを見つめた。緊張、不安、そして切望の念が全身から感じられた。彼らの脇には乾いた空っぽの天幕があった。だが、スコールは半分に割れ、一方は前方を他方は後方を風下へと去っていき、彼らの動きはまた気の抜けたものになった。

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これがジョーズだ

スナーク号の航海(42) - ジャック・ロンドン著

すべきことは一つだけだ──北東貿易風の南側に抜けて、変向風のところまでいく、それだけだ。ブルース船長がこの海域で風が変化する場所を見つけられなかったのも、「右舷から風を受けても左舷から風を受けても東には行けなかった」のも本当だ。一定方向の風しか吹かない貿易風帯のようなところではなく、風向が変わりやすいエリアに遭遇できるか否か、ぼくらはブルース船長より運に恵まれるよう祈った。変向風は貿易風と赤道無風帯の間にあるとされるが、赤道無風帯で温められて上昇する大気の動きに影響される。高層では貿易風と反対方向に流れていて、それが海面まで降りてくると、変向風として認識されるわけだ。この風は貿易風と赤道無風帯の間にくさび状に入りこんでいて、その風の吹くエリアでは、日によっても季節によっても風向が変化するのだ。

ぼくらはこの変向風を北緯十一度で見つけ、北緯十一度から離れないよう慎重に進んだ。それより南は赤道無風帯になっている。これより北には北東貿易風がある。来る日も来る日もスナーク号はずっと北緯十一度のラインと平行に進んだ。変向風が観察されるエリアでは、本当に風が変化した。真向いから軽風が吹いてくると思っていたら、風がなくなり、凪(なぎ)の海で丸二日も漂ったりした。そうしているうちに、また真正面から風が吹いてきて、それが三時間も続くと、また丸二日間は無風になる、といった調子だ。そうして──ついに!──西から風が吹き出した。強い。かなり強く、スナーク号はしぶきをあげて飛ぶように走り、後方には長い航跡が一直線にのびていった。風下帆走用の巨大なスピンネーカーを揚げる準備をしていると、半時間もしないうちに、風は息切れし、消えてしまった。またも無風だ。ぼくらは五分もいい風が吹くと、そのつど楽観的になるのだが、すべて裏切られた。どの風も同じように消えてしまうのだ。

だが、例外もあった。定常的な風が吹かない場所でずっと待っていると、何かが起きるのだ。ぼくらは食糧も水もたっぷり積んでいたので、じっくり待つことができた。十月二十六日には実際に東に百三海里も進めたのだが、それについては数日後に話をして確認した。ぼくらは南からの強風をつかまえたのだが、その風は八時間吹き続けてくれたので、その日の二十四時間で東に七十一海里も進むことができた。風がなくなったと思ったら、今度は真逆の北の方向から吹いてきて、さらに東に進むことができたのだ。

長い間、このコースを選択しようとした帆船はなかった。そのため、太平洋のこの地域では、ぼくら以外の船には出会わなかった。ぼくらは六十日間もこのコースを帆走したのだが、水平線上に他の帆影や蒸気船の煙は見なかった。この見捨てられた世界では、動けなくなった船がどれほど長く漂流していても、救助の手がさしのべられることはないだろう。救助の手がのびてくる唯一の機会があるとすれば、それはスナーク号のような船からだろう。ぼくらは水路誌をろくに読みもしないでコースを決めていたので、こんな行き当たりばったりの船と偶然に出会うようなことでもなければチャンスはない、というわけだ。人が甲板に立って水平線を眺めたとすれば、見える範囲は自分の目から水平線まで、直線距離にして三海里半になる*1。つまり、自分を中心にして直径七海里の円の範囲の海である。ぼくらはその円の中心にいて、たえずある方向に移動しているため、それだけ多くの円を見渡したことになるのだが、すべての円は同じように見えた。樹木の生い茂った小島もなければ、灰色の岬が見えてくることもなく、はてしなく広がる丸い水平線の向こうに陽光をあびて光っている白い帆も見えなかった。この広大な円の縁から雲がわき出ては、上昇し、流れ、通りすぎ、反対側の縁の下に消えていった。

何週間も経つうちに、世界は色あせていった。ついには、七人の魂を乗せて広大な海面を漂っているスナーク号という小さな世界以外の他の世界の意味が薄れていった。世界についてのぼくらの記憶、あの偉大な世界は、ぼくらがスナーク号の船上で誕生する前に生きていた以前の生命体としてみた夢のようなものになった。新鮮な果物がなくなった後、ぼくらは父親が自分の少年時代の消えたリンゴについて話すのを聞いたように、あの世界のことを話したりした。人間は習慣の生き物であり、スナーク号船上のぼくらはスナーク号という習慣になっていった。当然のことながら、船と船上生活すべてが重大なものとなり、それが破られるといらいらし攻撃的になったりした。

あの偉大な世界が復活してくる気配はなかった。ベルは時間を告げるが、訪問者はなかった。食事のゲストもなかったし、電報もなければ、耳ざわりな電話が私生活に割りこんでくることもなかった。ぼくらには守るべき約束もなく、乗るべき汽車もなく、朝刊もないので、自分以外の五十億もの人間に起きている出来事を知ろうとして時間を無駄にすることもなかった。

とはいえ、退屈ではなかった。ぼくらのささやかな世界の出来事は規律に従ったものでなければならなかったし、あの偉大な世界とは違って、ぼくらの世界はそれ自体が広大な空間を旅していかねばならなかった。また、混乱しとまどうような出来事もあったが、この大きな地球に影響するほどの摩擦はなく、無風の空間を進んでいった。ときには、次に何が起きるのかわからないこともあった。刺激も変化も十二分にあった。いまは午前四時だが、ぼくは舵を握っているハーマンに交代を告げる。

「東北東」と、やつはぼくに方角を告げた。「方向が八ポイントずれてるが、舵もきかない」

小さなおどろき。こんな無風状態で舵のきく船など存在しない。

「ちょっと前まで風があった──たぶん、また吹いてくるだろう」と、ハーマンは希望的観測を述べると、寝床のある船室に向かった。

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これがジョーズだ

[訳注]
*1 海の真ん中では見渡す限り365度、水平線が広がっているが、その水平線までの距離は、目標物の標高と観察者の目の高さによって変わってくる。その距離を光達距離という。
 灯台の設計で光がどこまで届くかは重要な問題で、理想的な条件下で光が見える距離を光学的光達距離という。
 現実には、眼高(観察者の目の海面からの高さ)と灯高(海面から灯台のライトまでの高さ)で簡易に計算できる地理的光達距離が用いられる。

 眼高(h 単位:メートル)と灯高(H 単位:メートル)の平方根の和に、係数2.083をかけると地理的光達距離が計算できる(出てきた数値の単位は「海里」)。

2.083(√h + √H)

 水平線を高さゼロ(H=0)とし、スナーク号から見える範囲が本文のとおり直径7海里として、この式から逆算すると、スナーク号の眼高は約2.8mになる。
 海面から甲板までが1m前後、身長を1.7~8mとすれば、ジャック・ロンドンの計算はほぼ正確だとわかる(文系の作家があてずっぽうで書いているのではなく、ちゃんと航海法を勉強したということがわかる)。
 この計算式を応用すれば、海をわたって目指す島のてっぺんが見えたときに、その島までの距離を計算できる。島の標高が1000mで、眼高がスナーク号と同じだとすれば、島までの距離は約67海里になる。
 航海記でよくある「島が見えたぞ」という感動的な陸地初認は、毎日天測で位置をだしている航海士や船長には、少なくとも前日に天測で現在の位置を出した時点で、いまの針路と速度を維持すれば翌日の何時ごろに見えてくるか、ほぼ正確に予測できているはずだ。

スナーク号の航海 (41) - ジャック・ロンドン著

第9章

ハワイから南太平洋へ

 サンドイッチ諸島(ハワイ諸島の旧称)からタヒチへ ── 貿易風にさからうことなるこの航海は過酷だ。捕鯨船の連中などは、サンドイッチ諸島からタヒチへ向かうというコース選定には懐疑的だった。ブルース船長は、目的地に向かう前に、まず風が吹き出しているところまで北よりに進むべきだと述べている。船長が一八三七年十一月に航海したときには、南下する際に赤道付近で風が変化することはなく、なんとか東に向かおうとしたが、どうしてもできなかった。

南太平洋を帆走で周航するコースの選定については、そう言われているし、それが定説になっている。疲れた航海者にとって、この長い航海でこれ以上に役立つ助言はない。ハワイから、タヒチよりさらに八百海里ほど北東にあるマルケサス諸島までの航海についても同じことが言えるが、条件はさらに悪くなる。そういうコース選定が推奨されない理由として、ぼくは風上に向かう航海が続くと船も人も疲弊してしまうからだと思っているが、これは本当に大変なことなのだ。だが、無理だと言われて尻尾を巻くようなスナーク号ではない ── というより、ぼくらは出発するまで、帆走でのコース選定についての指南書をほとんど読んだことがなかったのだ。十月七日にハワイのヒロを出帆し、十二月六日にマルケサス諸島のヌク・ヒバ島に着いた。カラスが飛ぶように一直線に行けば二千海里の距離だが、実際には到着するまでに四千海里以上を走破した。二点間の最短距離が直線とは限らないということが、今回も証明されたわけだ。ダイレクトにマルケサス諸島を目指していたら、五、六千海里も帆走することになっていたかもしれない。

ぼくらが決意していたことが一つあった。それは、西経百三十度より西で赤道をこえるようなことは決してしない、ということだ。その地点より西で赤道をこえてしまうと、南東貿易風のためにマルケサス諸島の風下側に流されてしまう。どんなに頑張っても、そこから風上にのぼっていくのはむずかしい。また、赤道海流もあなどれない。場所によっては、一日に十二海里から七十五海里もの速さで西に流れているのだ。目的地の風下に流されてしまうと、この海流が牙をむいてくるので、にっちもさっちもいかなくなってしまう。だから、西経百三十度より西で赤道をこえるわけにはいかないのだ。とはいえ、南東貿易風は赤道の五、六度北あたりからあるとも予測されているため(つまり、そのあたりで南東か南南東の風が吹いているとすれば、ぼくらは南南西に向かわざるをえなくなるので)、赤道の北側ですでに南東貿易風が吹いているのであれば、少なくとも西経百二十八度に達するまでは東に向かう必要があるのだ。*1

ぼくは、七十馬力のガソリンエンジンが例によって動かないと言うのを忘れていた。だから、風に頼るしかないのだ。進水時のエンジンも動かなかった。エンジンの話をすれば、照明や扇風機、ポンプを動かすはずだった五馬力のエンジンも故障していた。ぼくの脳裏には、魅力的な本のタイトルがちらついている。いつかそれにまつわる本を書き、『三台のガソリンエンジンと妻一人との世界一周』と題するのだ。とはいえ、そんな本を書くことはないだろうとは思う。というのは、スナーク号のエンジンで骨を折ってくれたサンフランシスコやホノルル、ヒロの若い紳士諸君の気分を害するおそれがあるからね。

机上のプランとしては簡単そうだ。現在、ぼくらはヒロにいて、目的地は西経百二十八度だ。北東貿易風が吹いているため、二点間を結ぶ直線を進むことができるだろうし、強いて風上ぎりぎりに船をのぼらせることもあるまい。しかし、貿易風で大きな問題の一つは、その風がどこから吹きはじめ、どの方向に吹いているのかがわからない、ということだ。ぼくらはヒロの港を出てすぐに北東貿易風をつかまえたが、この風は頼りなくてすぐに東よりになってしまった。おまけに、大河のように西に向かって力強く流れている北赤道海流があった。小さな船で逆風と逆波を乗りこえて風上に進もうとしても、いくらも進めない。帆をすべてピンと張りつめ、風下側に傾き、波にたたきつけられ、波しぶきをあげながらも、何とか進もうとする。それを繰り返す。船が進みはじめたと思っても、すぐに山のような波におそわれて止まってしまう。スナーク号は小さいので、貿易風や強力な赤道海流に逆らって東進しようとしても、どうしても南よりにしか進めない。真南に向かうことだけは避けたが、日ごとに東に進める距離が減ってきた。十月十一日は東に四十海里進んだが、十月十二日は十五海里になり、十三日はゼロだった。帆走してはいるのだが、経度上は東にはまったく進めていない。十月十四日、三十海里、十月十五日、二十三海里。十月十六日、十一海里。十月十七日になると西の方向に四海里押し戻されてしまう。といった調子で、一週間に百十五海里だけ東に進んだのだが、平均すると一日に十六海里になる。ヒロから西経百二十八度までは経度で二十七度、距離に換算すると約千六百海里もあるのだ*2。一日に十六海里のペースだと、この距離を走破するのに百日かかってしまう。しかも、ぼくらの目的としている西経百二十八度は、北緯五度での話だ。マルケサス諸島のヌクヒバ島は南緯九度で、それよりさらに十二度も西にあるのだ!*3

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人食いザメ
[訳注]
*1 太平洋の一般的な海流・貿易風(図は、クリックすると拡大)
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海流や貿易風は、強さ/速さや位置を含めて、ほぼ安定しているが、常に同じというわけではなく、局地的にみると変動している。
赤道付近では北側で北東貿易風、南側で南東貿易風が卓越し、それにはさまれたところは両者が収束するように見えるところから熱帯収束帯(低圧帯)とされ、一般に風が弱く、赤道無風帯(ドルドラム)としてヨット航海記にも出てくることがある。季節によって太陽の位置が変わると、この収束帯も南北に移動する。

*2 地球はほぼ球体なので60進法(度・分・秒)と相性がよく、距離の1海里(1852m)はほぼ60の倍数なので、船上での計算では、キロメートルより海里の方が直感的にわかりやすい(船酔い気味の頭でも「比較的」楽に計算できる)。覚えておくと便利なのは、
経度15度 = 時差1時間
赤道での経度1度の距離 = 60海里
速度1ノット = 1時間に1海里進む(= 時速1.8キロ)
風速(時速)1ノット = 風速(毎秒)0.5メートル

*3 風と海流は、ヨットによる外洋航海に大きく影響する。
日本でヨットといえば「太平洋横断」が頭に浮かぶが、これは日本からアメリカへ行くよりも、逆にアメリカから日本に来る方がずっと早いし楽だとされている。
というのは、北米大陸西岸の港を出てから南下し、ほぼ東から西に吹いている北東貿易風帯に入ってしまえば、風速七、八メートル~十メートルの安定した追い風で日本近海まで来ることができるからだ。
おまけに北赤道海流も東から西に流れているので(台風や嵐に遭遇した場合は別として)、ある意味、動く歩道に乗っているようなものかもしれない。
逆に、日本から出発する場合、風向や風速にむらがあり、なかなか安定した風にめぐまれず、黒潮を利用して距離を稼いでも、そのままだと北上しすぎて低気圧の墓場といわれる北太平洋まで持っていかれかねない、、、
ヨットは、原則として、風下方向には自由にコースを選んで帆走できるが、風の吹いてくる方向(風上)にはダイレクトに進むことができないため、ジグザグにタッキングしながら(帆船風にいうと「間切り」ながら)進むことになる。その角度は一般には45度とされている。この角度でジグザグに帆走したとすれば、三平方の定理を使った計算で、帆走距離は約1.4倍になる──というように、セーリングにはベクトルや三角比の初歩的な計算がついてまわる。
いまどきのレース艇は30度くらいまでは上れるが、それにつれて速度が落ちてくるため、スピードと角度のどちらを優先するかは悩ましい問題になる。とはいえ、スナーク号は船型や艤装から推すと、風上への上り性能はせいぜい50度くらいだろうから、本文にもあるように、貿易風にさからって東に向かうのは簡単ではない。にもかかわらず、風下の島に目的地を変更せず、意固地に東へ東へと向かうところがジャック・ロンドンらしいといえばいえる。
「ばっかじゃねえの」という人もいるかもしれないが、そもそも人間とは、ばかなこと、むだなことをする生き物なのだ。

スナーク号の航海 (40) - ジャック・ロンドン著

馬の通れる道といっても、それほど広いわけではない。これを造った技師のように、道自体が何にでも果敢にいどんでいるのだ。ディッチ(水路)は山塊を突き抜け、乗りこえ、峡谷を飛びこえたりしているのだが、馬の道──これからはトレイルと呼ぶが──も、この水路をうまく利用していて、その上を横切ったりしているのだ。この無造作に作られたトレイルは、平気で断崖を上り下りしているし、壁を掘削してできた狭い通路を抜けると、轟音をたてて白い水煙とともに落下している滝の裏側や滝の下に出たりする。頭上は数百フィートもの切り立たった断崖で、足元はと見れば千フィートもの深い谷になっているのだ。ぼくらが乗っているすばらしい馬たちも、トレイルと同様に、そんなことにはおかまいなしだ。足元は雨ですべりやすくなっているのだが、馬の自由にさせておくと、当然のように後ろ足をすべらせたりしながらも駆けていこうとする。このナヒク・ディッチのトレイルについては、豪胆かつ沈着冷静な人しか勧められない。同行しているカウボーイの一人は、ぼくらが宿泊した牧場では一番の勇者だと思われていた。生まれてからずっと、このハレアカラ火山のけわしい西斜面で馬に乗ってすごしてきたのだ。その彼がまず馬をとめた。他の者も当然のことながら前進をやめた。というのも、彼は牛小屋に野生の雄牛が迷いこんでいたら、平気でそれに立ち向かうような男だからだ。彼には名声があった。とはいえ、それまで、このナヒク・ディッチに馬を乗り入れたことはなかった。そうして、彼の名声はここで失われた。髪の毛が逆立つような最初の水路で、それに沿った道は細くて手すりもなかった。頭上で滝が轟音をたてているし、真下には別の滝があって、奔流が何段にもなって落ちている。一帯に水しぶきが舞い上がり、轟音が振動とともに伝わってくる──というようなところで、勇者たるカウボーイは馬から降り、おれには女房も子供もいると言い訳しながら、馬を引きながら歩いて渡ったのだ。

水路が地下深く潜っているところはともかく、峡谷で唯一救いになるのは断崖があることで、そして断崖で唯一救いになるのは峡谷にあるということだ。ぼくらは一度に一頭ずつ、もろくて流されてしまいそうな、左右に揺れる原始的な丸木橋を渡った。白状すると、ぼくは最初にそういう場所に馬で乗り入れるとき、最初のうちはあぶみから足を浮かせていた。垂直な断崖にあぶみが接触しそうになると、意識して足を谷側に寄せ、今度はその足が千フィートも落ちこんでいる谷につき出ているのを見てしまうと山側に寄せたりしていた。「最初のうちは」と断ったが、すぐになれてしまうのだ。クレーターの中ですぐに大きさの感覚が麻痺してしまったように、ナヒク・ディッチでも同じことが起きた。そのうち、ぼくらは深い谷について心配しなくなった。とほうもない高さと深さが延々と繰り返されているところでは、そういう高さも深さも普通に存在するものとして受け入れるようになる。そして、馬上から切り立った崖下を見ても、四、五百フィートは普通で、スリルがあるとも感じなくなってしまうのだ。トレイルにも馬にも無頓着になったぼくらは、目もくらむような高いところを通ったり、落ちこんでいる滝を迂回したり突き抜けたりして進んでいった。

とはいえ、なんという乗馬体験だろうか! いたるところで水がふりそそいでくる。ぼくらは雲の上や雲の下を、さらには雲の中を馬に乗ってつき進んだ。ときどき日が差し、眼下に口を開けた峡谷や火口縁の高さ何千フィートもある鋒が照らしだされたりした。道を曲がるたびに、一つの滝、あるいは一ダースもの滝が空中に何百フィートも弧を描いて流れ落ちている光景が目に飛びこんでくる。キーナ渓谷で最初の宿営をしたのだが、そこから見えるだけで滝の数は三十二もあった。この荒野では、植物も繁茂していた。コアとコレアの森があったし、キャンドルナッツの木もあった。オヒアアイと呼ばれる木もあったが、これは赤いマウンテンアップルの実をつけていた。豊潤で果汁も多く、食べてもうまい。野生のバナナもいたるところで育っていて、峡谷の両側にしがみついていた。トレイルのいたるところで、熟した果実の大きな房が落ちて道をふさいでいた。森の向こうには樹海が広がっていて、多種多様なつる性植物が、あるものは一番上の枝から茎を軽やかに宙に伸ばし、あるものは巨大なヘビのように木々にまきついていた。エイエイと呼ばれるツル性植物はとにかく何にでも登っていき、太い茎を揺らして枝から枝へ、木から木へと伸びていっては、自分が巻きつくことで当の木々を支えているといった格好だった。樹海を見あげると、頭上はるかに木生シダが群葉を広げ、レフアの木が誇らしげに赤い花を咲かせている。ツル性植物の下では、数は少ないが、米国本土では温室でしかお目にかかれないような珍しい暖色系の奇妙な模様をした植物が育っていた。つまり、マウイ島のディッチ・カントリー自体が巨大な温室のようなものなのだ。なじみのある多種多様なシダ類が繁茂し、小さなクジャクシダのようなアジアンタム属のシダ類から、もっと大きくて繁殖力旺盛なビカクシダなど、あまりなじみのないものまで、さまざまな種が入り乱れていた。このビカクシダは林業作業者にとっては厄介きわまりなくて、さまざまにからみあっては巨大化し、五、六フィートの厚さで数エーカーもの広さをおおいつくしてしまうのだ。

二度とできないような体験だった。これが二日続き、やっとジャングルを抜けて普通の起伏のある土地に出た。実際に荷馬車が通る道をたどり、ギャロップで駆けて牧場まで帰り着いた。こんなにも長くて厳しい旅の最後に馬を駆けさせるのは残酷だとわかっていたが、抑えようと必死にたずなをしめても無駄だった。ここハレアカラで育った馬は、そういうものなのだ。牧場では、牛追いが行われ、焼き印をつけたり、馬を調教したりする楽しい行事があった。頭上ではウキウキウとナウルが激しくせめぎあい、そのまたはるか上方には、陽光をあびた壮大なハレアカラ火山の頂上がそびえていた。

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羊毛のような貿易風の雲が、ウキウキウに駆りたてられて割れ目からわき上がっては消えていく。