スナーク号の航海(89) - ジャック・ロンドン著

イチゴ腫*1かどうかは、ぼくにはわからない。フィジーの医者はそうだと言ったし、ソロモン諸島の伝道者はそうじゃないと言った。いずれにしても、ぼくとしては、きわめて不快な症状だということは断言できる。タヒチでフランス人を乗せたのだが、それが船乗り一人だけだったのは幸運だった。というのは、海に出ると、彼がひどい皮膚病に悩まされているとわかったからだ。スナーク号はとても小さいので、彼が家族連れだったらとても乗せておく余裕はなかった。とはいえ、ともかくどこかに上陸するまで、彼を看病するのは必然的にぼくの責任になった。医学書を読みあさって処置したのだが、その後では、いつも徹底的に消毒液を使って洗ったものだ。ツルイラ島に到着すると、港の医者は彼に対して検疫を宣言し、上陸を拒否した。面倒を抱えこみたくないというのがみえみえだった。サモアの首都アピアで、やっとのことでニュージーランド行きの蒸気船に乗せてやった。アピアでは、ぼくは蚊にひどく食われ、そこをかきむしっていた――それまでも千回は食われていただろう。それで、サバイイ島に到着したときには、足の甲のへこんだところに小さな傷ができていた。すりむいたことと、熱い溶岩を超えたときにあびた酸煙のせいだろうと思った。軟膏を塗ると直るだろう――とも思っていた。だが、軟膏は効かなかったばかりか、赤くはれ上がって、新たに皮膚がはがれ、傷は大きくなった。こういうことが何度も繰り返された。新しい皮膚ができるたびに、炎症が起こり、傷は大きくなっていった。ぼくは当惑し、こわくもなった。これまでの人生で、ぼくの皮膚の再生能力は高かったのだが、ここではどうしても直らないのだ。それどころか、日ごとに皮膚が浸食され、毒素が皮膚の奥深く入りこみ、筋肉まで犯されるようになった。

その頃、スナーク号はフィジーに向けて航海していた。ぼくはあのフランス人の船乗りのことを思い出し、そのときはじめて本気でヤバイと思ったのだ。他にも四つの傷――というより潰瘍ができていて、痛くて夜も眠れなかった。ともかくスナーク号でフィジーまで行き、着いたらすぐにオーストラリア行きの蒸気船に乗って、そこで医者に診てもらうという計画を立てた。そうこうしている間も、ぼくはしろうと医者として最善をつくした。船に積みこんだすべての医学書を読みあさったが、自分の味わっている苦痛にぴったりの症状は一行どころか一語も見つけられなかった。この問題に関しては、ぼくは分別をわきまえていた。この潰瘍は悪性かつ非常に活発で、ぼくを食いつくそうとしている。有機的な腐食毒がうごめいているのだ。ぼくは自分で結論を二つだした。第一、この毒を破壊する化学物質を見つけること。第二、この潰瘍は外側から治癒できないので、内側から直さなければならない。この毒は昇こう(塩化第二水銀)で処置しようと決めた。病名そのものも気に入らなかった。毒をもって毒を制するしかあるまい! ぼくは腐食毒に犯されていた。だから、別の腐食毒で処置しようというわけだ。数日後、ぼくは昇こうを過酸化水素を、浸透させた包帯に代えた。驚くべきことに、フィジーに到着するまでに、五つの潰瘍のうち四つが治癒し、残った一つはエンドウ豆ほどの大きさもなくなっていた。

イチゴ腫の治療に関しては、ぼくはいまでは十分な資格があると感じている。この疾患については、それなりに配慮するようになった。だが、スナーク号の残りの連中はそうじゃなかった。彼らの場合、百聞は一見にしかず、は当てはまらないのだ。全員がぼくの苦境を見ていた。ぼくが虚弱体質で凡庸だからあんな病気にかかるのだ、自分は体力もあるし、あんな毒にやられるほどヤワじゃないと、連中は密かに思っているのだ。ニューヘブリディーズ諸島のポート・レゾリューションで、マーティンは裸足で藪を歩きまわって船に戻ってきたが、むこうずねには切り傷や擦り傷がたくさんできていた。

「もっと気をつけたほうがいいぞ」と、ぼくは彼に警告した。「昇こうを調合してやるから、傷口を洗っとけよ。後で痛むよりいいだろ」

だが、マーティンは小馬鹿にしたように笑っただけだった。何も言わなかったが、ぼくには、やつがオレは他の連中とは違うんだ、二日もあれば傷は治る、と思っているのがわかった。他の連中というのは、ほかでもないぼくのことだ。彼はまた、自分の体質と高い治癒能力についての記事も読んでくれた。聞き終えると、ぼくはひどく自分がみじめに感じられた。体質という点では、ぼくは明らかに他の連中とは違っていたからだ。


戦闘用のカヌー
脚注
*1: 熱帯の伝染性の皮膚病

スモールボート・セイリング(2) 〜 スモールボート・セイリング(その2)

ジャック・ロンドン著

 それから十七歳のときに、三本マストのスクーナーの熟練甲板員として契約し、太平洋を巡る七ヶ月の航海に出た。船乗り連中がすぐに、熟練甲板員として契約するとはいい神経してるなと言ったが、なに、私は実際に熟練した船乗りだったのだ。まさにそれにふさわしい(実地で覚えるという)学校を出ていたのだ。スクーナーに乗ってもロープの扱いで初めてというのは少なかったし、その名前や使い方もすぐに覚えた。簡単だった。私は何であれ、何も考えずに丸暗記するなんてことはしてこなかった。小さな船の船乗りとして、何事についても論理的に考え、その理由を知ろうとしてきた。コンパス(方位磁石)を見ながら舵を取る方法は知らなかったので覚えなければならなかったのは本当だが、さほど時間もかからなかった。「詰め開き」とか「クローズホールド」で操舵するとなれば、そこらの船員連中に引けはとらなかった。というのは、私はそれまでまさにその方法で帆走してきていたのだから。十五分とかからず、コンパスを見て進路を確保することにも慣れることができた。複雑な飾りひもとか組みひも、ロープマットの作り方など、いかにも船乗りらしい装飾的な技術を除けば、この七ヶ月の航海で新しく学ばなければならないようなことはほとんどなかった。あらゆる点で、小型船のセイリングという手段が本物の船乗りにとっての最上の学校だったということだ。

  さらに、生まれつきの船乗りで、海という学校の経験がある者は、生涯を通して海から離れることはできない。骨の髄まで潮っけが染みついているし、死ぬまで海が呼びかけてくるのだ。後年、生活費を稼ぐのは楽になったが、私は船首楼で監視するのはやめて、いつも現場に戻ってきた。私の場合、具体的にはサンフランシスコ湾ということだが、ここほど光り輝くように明るくて、しかも厳しくもあり、小さな船でのセイリングに最適な海面はないのだ。

サンフランシスコ湾では本当に強風が吹く。風が安定するのでクルージングに最適な冬の間は南東と南西の風が支配的で、ときどき途方もない北風が吹く。夏になると、平日の午後にはたいてい、大西洋岸のヨット乗りなら疾風と呼ぶような「海風」が確実に太平洋から吹きこんでくる。東海岸の連中はいつもわれわれ西海岸のヨットが展開する帆の小ささに驚いている。連中のなかにはホーン岬をまわったスクーナー乗りもいたのだが、彼らは自分達のとてつもなく高いマストと大きく展開した帆を誇らしく見上げ、こっちの小さくした帆を見くだし哀れむように眺めるのだ。あるとき、たまたま連中がサンフランシスコからメア・アイランドまでの、こっちのクラブのクルーズに参加したことがあった。午前中、連中は湾内を快走しつつ北上していった。午後になって強い西風がサン・パブロ湾の方へ吹きこんできて戻りが長い上りのレグになってくると、事態は多少違ってきた。我々が極上のセイリング向きと呼んでいる風に対して、連中は強風が吹いたと言いながらあたふたとし、行き足を止めて縮帆におおわらわだった。それを尻目に、すでに縮帆していたわれわれの小さい帆のヨットがツバメの飛行のように一艇ずつ連中のヨットを追い抜いていったものだ。その次に彼らが姿を現したときには、マストやブームは短く切り詰められ、帆も全体に小さくされていた。

アドレナリンがほとばしるといえば、大海原で困難に陥った大型船と陸に囲まれた内海で困難に陥った小型船とではまったく違う。が、言わせてもらえば、本当に刺激的でスリルがあるのは小型船の方だろう。小さな船の船乗りなら誰でも知っていることだが、大型船に比べて、何事も一瞬で起きるし、常に何かしらすべきことがあるのだ――それも重労働が。日本の近海で大型船に乗り組んでいて台風に巻きこまれたとき、私はワッチやデッキ作業で夜通し奮闘したのだが、それよりも小さな三十フィートのスループに乗っていて縮帆に二時間も悪戦苦闘したり、南東の風がうなりをあげて吹きすさび、風下側に海岸が迫っている場所で二個の錨を引き上げたりするほうがよほど疲れたりしたものだ。
● 用語解説
熟練甲板員: 原語は able seaman。航海士などの資格は持たないが、技術や経験を持つ甲板員
ワッチ: 夜間当直
詰め開き/クローズホールド: できるだけ風上に向かって帆走すること。風が最も強く感じられ、船の傾きも一番大きくなる
海の学校: 海の上で失敗などを繰り返しながら実地で学んでいくことの比喩的表現
メア・アイランド: サンフランシスコ北方のサン・パブロ湾にある現在は本土と陸続きになっている半島

スナーク号の航海 (88) - ジャック・ロンドン著

「用意はいいか」と、ぼくはマーティンに言った。
「いいぜ」と彼は答えた。

ぼくはぐいと引き抜いた。やった! 歯はゆるゆるで、すぐに抜けた。鉗子にはさんだまま高くかかげた。

「もどしてくれよ、頼むからもどして」と、マーチンが懇願した。「速すぎて撮り損なっちまった」

抜いた歯を元に戻してもう一度、引っこ抜く間、かわいそうな老中国人はじっと座っていた。マーティンがシャッターを押す。一件落着だ。自慢たらたらみたいだって? 鼻持ちならないって? 歯根が三つもある歯をはじめて抜いたんだぜ。このときのぼくほど誇らしい気持ちになった狩人はいないだろうな。なんと言われても、ぼくはやったんだ! できたんだよ! 自分の手で鉗子を使って抜歯したんだ。死人の頭蓋骨を使って練習で抜いたんじゃないんだよ。

次の患者はタヒチ人の船乗りだった。小柄な男で、昼も夜もたえず歯痛に悩まされ、もうぐったりしていた。ぼくはまず歯茎を切開した。切開の仕方は知らなかったが、見よう見まねってやつだ。ひっこ抜くのに時間もかかったし、力も必要だった。その男は立派だった。うめいたり、ぶつぶつ愚痴をこぼしたりしているので、卒倒するんじゃないかと思っていたのだが、口を大きく開いて協力してくれたので、なんとか抜歯することができた。

それからのぼくは、何でも来いって気分になっていた。ワーテルローで敗北する前のナポレオンの心境だ。そうして、そのときは来た。そいつは名前をトミといった。こいつは悪評ふんぷんで、図体のでかい野蛮人だった。しょっちゅう暴力沙汰を起こしていた。とくに女房を二人も殴り殺しているのだ。父親も母親も裸の食人種だ。そいつがぼくの前に座り、ぼくは鉗子をやつの口に入れたのだが、座ったままでも、ぼくの背丈くらいの高さがあった。大男で暴力好きで、ぶくぶく太っているので、ぼくは信用しなかった。チャーミアンがやつの片腕をとり、ウォレンがもう片方の腕をつかんだ。そこから綱引きが始まった。鉗子が歯に近づくと、口を閉じようとする。また両腕を持ち上げ、抜歯しようとしたぼくの手をつかんだ。ぼくは作業を続けようとし、やつはやめさせようとする。チャーミアンとウォレンは腕をつかんだままだ。全員がもみあった。


船底掃除のためわざと干潟に乗り上げたスナーク号

一対三のレスリングで、ぼくは痛んだ歯を鉗子ではさんでいた。それはたしかに反則ではあったんだが、そういうハンデがあったにもかからわず、やつはぼくらを振り切ってしまった。鉗子はつるりと外れて上顎の歯に当たり、神経をさかなでするようないやな音がした。口から鉗子がはずれると、やつは飛び上がり、血に飢えたような雄叫びをあげた。ぼくら三人は後ずさりした。なぐり殺されるんじゃないかと恐れた。だが、大声でうなっている血に飢えた野蛮人は、また椅子に座り直した。両手で頭をかかえ、うめき声をあげ続け、こっちの言い訳を聞こうともしなかった。痛くない抜歯の名人というのは、ぼく自身の単なる思いこみにすぎなくて、プライドはあっという間に消えてしまった。その歯が抜けるか自信がなくなってしまい、袖の下でも渡して話をつけようかとまで思ったほどだ。だが、そうするのは名人としてのプライドに反するので、ぼくは抜歯はせずに、彼をそのまま帰した。鉗子で歯をつかんだものの抜くのに失敗したのは、このときだけだ。それ以来、ぼくは抜歯に失敗したことはない。つい先日も、風上にある島まで自発的に三日間の航海をやって女性伝道師の歯を抜いてあげたくらいだ。スナーク号の航海が終了する頃までには、ぼくはブリッジをつけたり金歯をかぶせたりといったこともやっているのではないかと期待している。

スナーク号の航海 (87-2) ー ジャック・ロンドン著

第十七章

しろうと医師

スナーク号に乗ってサンフランシスコから出帆したとき、ぼくは病気については山国スイスに海軍があるとしてその司令長官が海について知っているのと同じくらいの知識しかなかった。というわけで、ここで、これから熱帯地方に出かけようと思っている人に助言させてほしい。一流の薬局――なんでも知っている専門家を雇っている薬局に行って、事情を説明するのだ。相手の言うことを注意深くメモし、お勧めのものの一覧表を書いてもらい、代価全額分の小切手を切って渡す、だ。

ぼくは自分もそうすべきだったと痛感している。ぼくはもっと賢明であるべきだったし、いまとなっては、小型船の船長がよく使う、できあいの、自分で処置できる、誰でも使える救急箱を買っておけばよかったとつくづく思う。そういう救急箱に入っているビンにはそれぞれ番号が振ってあって、救急箱のふたの内側には簡単な指示が書いてある。整理番号と歯痛、天然痘、胃痛、コレラ、リウマチといった具合に、病気のリストに応じた薬がそろえてあるのだ。そうなれば、尊敬すべき船長がするように、ぼくもそれを使うことができたかもしれない。3番が空になったら1番や2番をまぜるとか、7番がすべてなくなったら、乗組員には4番と3番を処方し、3番がなくなったら5番と2番を使うといった具合にだ。

これまでは、昇こう(塩化第二水銀。これは外科手術での消毒薬としておすすめできるが、まだその目的で使ったことはない)を例外として、実際に持参した薬箱は役に立たなかった。役に立たないどころか、もっと悪かった。というのは場所だけはとるからだ。

手術器具があれば話は別だ。まだ本格的に使ったことはないが、場所を占めるからといって後悔なんかしない。それがあると思うだけで安心する。生命保険みたいなもので、生きるか死ぬかという土壇場では役に立つ。むろん医療器具があっても、ぼくは使い方を知らないし、外科手術についても無知なので、直りそうな症例でも一ダースものインチキ療法を行ったりもすることになるだろう。だが、悪魔が来ているときにはそうせざるを得ないし、陸から千海里も離れていて、一番近い港まで二十日もかかるところまで悪魔がやって来たとしても、スナーク号のぼくらはそれについて誰かから警告を受けることもないのだ。

ぼくは歯の処置については何も知らなかったが、友人が鉗子(かんし)や似たような道具を持たせてくれた。ホノルルでは、歯科の本も手に入れた。また、この亜熱帯の島で、頭を押さえておいて痛みを生じさせずにすばやく抜歯したこともある。こうした備えがあったので、ぼくは自分から望んでということはないものの、自分なりのやり方で歯の問題に取り組む用意はできていた。あれはマルケサス諸島のヌクヒバでのことだった。ぼくが最初に治療したのは、小柄な中国人の老人だった。ぼくは武者ぶるいに震えた。ベテランのふりをしようとしたが、心臓はどきどきするし、腕も震えた。そうなって当然ではあった。中国人の老人はぼくの嘘にだまされなかった。彼もぼくと同じくらい驚いていて、震えはもっとひどかった。彼の恐怖がぼくに伝染し、忘れていた畏怖の念というものを思い出させた。だが、老人が逃げだそうとしたら、落ち着きと理性が戻ってくるまで彼を押さえつけただろう。

ぼくは彼の歯を抜こうとしていた。また、マーチンもぼくが抜歯するところを写真に撮りたがっていた。同様に、チャーミアンもカメラを持っていた。それでぼくらは連れだって歩きだした。ぼくらはスティーヴンソンがカスコ号でマルケサスに来たときのクラブハウスだったところで止まった。彼が何時間も過ごしていたベランダは、光線の具合があまりよくなかった。写真撮影には、という意味だ。ぼくは庭に入りこんだ。片手に椅子を持ち、もう片手にはいろんな鉗子を携えて。みっともないが、膝はがたがた震えていた。かわいそうな中国人の老人もついてきた。彼も震えていた。チャーミアンとマーティンはぼくらの背後で、コダックのカメラを構えている。ココヤシの間を縫って進み、アボカドの木の下までやってきた。マーティンによれば、写真の撮影にはうってつけの場所ということだった。

ぼくは老人の歯を診て、自分が五ヶ月前に引っこ抜いた歯について何も覚えていないことを再認識した。歯根は一本だっけ? 二本、あるいは三本だったっけ? ひどく傷んでいるように見えるほうに残っているのを何と言うんだっけ? 歯ぐきの奥深くまで歯をがっちりはさまなければならないということだけは覚えていたので、歯には歯根がいくつあるのかを知っておく必要があった。ぼくは建物に戻って本で歯のことを調べた。中国人の犯罪者がひざまづいて首をはねられるのを待っている写真を見たことがあるが、このかわいそうな年老いた犠牲者も同じように見えた。

「逃げないよう押さえてろよ」と、ぼくはマーティンに言った。「この歯を抜きたいんだ」
「わかってるさ」と、彼はカメラを抱えたまま自信ありげに答えた。「オレもその写真を撮りたいんだ」

ここにきて、ぼくはこの中国人が気の毒になった。本に抜歯方法は載っていなかったが、あるページにすべての歯を示した図があり、それには歯根やアゴにどう並んでいるかが描かれていた。鉗子が手渡された。七対あった。が、どれを使えばよいのかわからない。ぼくはミスはしたくなかった。鉗子をひっくりかえすときガチャガチャ鳴った。哀れな犠牲者から力が抜け、ぼんやりと峡谷が黄緑色になるのを眺めている。老人は太陽について苦情を言った。しかし、写真を撮影するには必要だし、それくらいは我慢してもらわなければならない。ぼくは鉗子を歯に当てた。患者はガタガタ震え、気力もなえたようだった。


最初の抜歯

脚注
*1: ロバート・ルイス・スティーヴンソン(1850~1894年):『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』などの著作で知られる一九世紀英国の作家自身の健康問題などもあり、四十歳で家族とともに南太平洋のサモア諸島に移り住み、その四年後に同地で没した。

おことわり

『スナーク号の航海』(ジャック・ロンドン著)は、第87回の第十七章から、こちらの海洋冒険文庫で掲載します。

86回までの分は「海の上の編集室」https://atl-publishing.com/blog/に連載しておりました。
興味のある方はそちらもあわせてご覧ください。海の冒険に関係ある内容は、準備ができしだい順次こちらに移転される予定です。

スプレー号世界周航記

slocum-spray-book-soshisya
著者:ジョシュア・スローカム  翻訳:高橋泰邦  出版社:草思社 1977年

 

ジョシュア・スローカムは1895年4月から98年6月にかけて小型ヨットで初めて世界一周したカナダのヨット乗り。

朽ちかけていた漁船を譲り受け、自力でヨットに改造し、46000海里の航海を果たした。

南米南端のマゼラン海峡で海賊に襲われたり、ロビンソン・クルーソーのモデルとなったセルカークが住んでいたチリ沖の太平洋に浮かぶファン・フェルナンデス諸島を訪ねたりしている,ヨットによる航海記の古典。

それからほぼ10年後の1909年に再び航海に出たが、そのまま消息を絶った。

日本語版では中公文庫からも出ているが、いずれも現時点では絶版。

英語版は何種類か出ている。
sailing alone around the world
写真は1900年に出版された初版本を1956年に復刻したもの。

:スプレー号世界周航記 (1977年) - – 古書, 1977/7

ジョシュア・スローカム (著),  (翻訳)

スモールボート・セイリング 〜 スモールボート・セイリング(その1)

スモールボート・セイリング(1)
Small-Boart Sailing (1)

ジャック・ロンドン
明瀬 和弘 訳

船乗りは生まれるもので、作られるものではない。ここでいう「船乗り」とは、外航船の船首楼に陣どっている、そこそこ仕事はこなせるが使えない連中のことではなく、海の上で木や鉄、ロープや帆布からなる構造物を自分の意思に従わせる者たちのことだ。本船の船長や航海士はともかく、小型帆船の船乗りこそ本物の船乗りである。彼は風を利用して船をある場所から次の場所へと運航させる術を知っているし、また知っていなければならない。潮流や激流、渦、砂洲や航路標識、信号や灯火に関する知識は必須だし、観天望気にも熟達していなければならない。船は一隻ごとに構造や艤装も違うし、船が好きであると同時にその特質を把握していなければならない。数限りない状況で船をコントロールする方法を熟知し、行き足を止めないようにし、また風下に流されずに船の向きを変えさせることができなければならない。

現代の外国航路の船員はこうしたことを知る必要がないし、実際、知りもしない。命じられるまま、ロープを引いたり運んだりし、甲板を磨き、塗料を洗い流し、鉄錆を削り落としたりするだけだ。何も知らないし、注意も払わない。こういう船員を小舟に乗せても何の役にも立たない。水夫を暴れ馬に乗せた方がまだましだろう。

こうした奇妙な連中の一人と子供の頃に出会って驚いたことを私は決して忘れない。その人はイギリスの便宜置籍船の船員だった。私は当時十二歳で、デッキのある十四フィートのセンターボード式の小舟に乗っていた。帆走は独学で覚えた。この船員が不思議な土地や人々、暴力ざた、ぞっとするような嵐について話をするとき、私は自分が神の足元に座っているような気がしたものだ。そうしたある日、彼をセイリングに誘った。自分がど素人でへまをするのではないかとびくびくしながら、私はセールを揚げ、船を進めた。その人は一目で私より巧みに船や海の状態を見抜くだろうし、批判的な目でじっと自分のすることを眺めているのだと感じていた。しばらくして彼にティラーとシートをまかせた。私は中央のスウォートに座り、感心するあまり口を開けて本物の帆走がどんなものかを学ぶことになるのだろうと思っていた。私の口はそのまま開いたままだった。というのは、本物の船乗りが小さなヨットに乗ったらどうなるかを知ったからだ。彼は状況に合わせてシートを調節することもできなかったし、一度ならずジャイブに失敗し、突風で何度か船を転覆させそうになった。センターボードがどういう働きをするのか知らなかったし、追い風を受けて帆走するときには片側の舷に寄るのではなく船の中央に座らなければならないということも知らなかった。締めくくりは波止場に戻ってきたときだ。彼はヨットのスピードを落とさずそのまま激突させたので、船首は壊れ、マストステップは吹き飛んだ。それでも、彼は大海原を実際に航海している本物の船員なのだった。

私の得た教訓はこうだ――大きな船の船首楼で生涯を過ごすような船員でも、真のセイリングがどういうものか知らないことがある。私は十二のときから、海に魅了されてきた。十五の時には、牡蠣を密漁するスループの船主船長だった。十六の時には大型で平底のスクーナーに乗って、ギリシャ人たちと一緒にサクラメント川でサケ漁に従事したり、漁業監視船に水夫として乗り込んだりしていた。私が活動していた海域はサンフランシスコ湾とそこに注ぐ川に限られていたが、自分は腕のいい船乗りでもあった。その時点で、私はまだ外洋を航海したことはなかった。

● 用語解説
便宜置籍船: 税金対策などのため外国で船籍を登録した船舶
センターボード: 横流れ防止のため海中に突き出す板
スウォート: ボートを漕ぐために腰かけるところ
ティラー: 舵柄
シート: 帆の開き具合を調節するためのロープ
ジャイブ: 風下に向かっているときに風を受ける帆を出す舷を変えること
強風のときほどタイミングが難しい
スループ: 一本マストの前と後ろに帆を張るタイプのヨット。ヨットと聞いて思いつく一般的なイメージのヨット
スクーナー: 時代や国によって異なる場合があるが、一般に二、三本マストの縦帆を備えたヨットで、後側のマストが高い。

天測航法12─位置の線航法(2)

位置の線航法(2)

前項で説明したように、
天体(ここでは太陽)が真上に見える場所の緯度経度と船がある位置の緯度経度(推定値)がわかれば、船が円周上に存在する円が描ける。

計算した天体の高度と実際に測定した高度の差で、円をもっと大きくすべきか小さくすべきかがわかる。

天体位置決定用図に作図して位置を出す。

という手順で作業が進められる。

では、具体的にみていこう。

1. 天体の高度を測定し、時間を記録する
観測高度に必要な改正を行って真高度 at を求める。
(改正については、子午線高度緯度法の項を参照)

2. 現在の船の推定位置を出す
前回の船の位置から進行方向と経過した時間を考慮して現在の船の位置(緯度と経度)を推定する。推定位置は多少ずれていても問題ない。

3. 天体が真上にある場所Xの緯度(赤緯d)と経度(赤経R.A.)を求める
赤緯は天測暦から赤経はグリニッジ標準時(GMT、または世界時UT)との差から時角(h)として求める。
(子午線高度緯度法の項と経度の項を参照)。

4. 推定位置(2項)と天体の位置(3項)の緯度経度から、AXの方位(計算方位角Z)と計算高度Acを求める

ac:計算高度、ℓ: 推定緯度、d: 赤緯、h:時角とすると

(1) 高度acの計算式

sin ac = sinℓ・sin d + cos ℓ・cos d・cos h

(2) 方位角の計算式

cos Z = (sin d – sin ℓ・sin ac) / (cos ℓ・cos ac)

こういう数式が出てくると面倒に見えるが、天測専用の電卓や関数電卓があればすぐに結果はでる。エクセルなどのスプレッドシートに計算式を入れておいて数値を入力すれば自動的に計算されるようにしておいてもよい。

とはいえ、天測計算表にはすでにそうした計算を行った結果が記載されているので、それを使えば、単純な手計算でも出せる。

いわゆる米村表で「高度方位角計算表」として計算されている。こんな感じ……使い方も欄外に記載されている。

出典:書誌第601号『天測計算表』 海上保安庁

天測計算表を使った計算高度と方位の求め方

(1) 計算高度

地方時角 h に対してA1、赤緯 d に対してA2、推定緯度 ℓ に対してA3の値を計算表から探し出し、A4を求める。

A1+A2+A3=A4

A4 の値から計算表の A4 で該当する欄から A5 を求める。
ℓ と d が同符号のときは ℓ - d異符号のときは ℓ + d をA6とする。下の計算式でA7を求める。

A5 + A6 = A7

計算表で A7 に該当する値が計算高度 ac になる。

(2) 計算方位角

A1 を求めるとき、その列の右に Z1  の値が記載されている。
A2 の値はそのまま Z2 の値になる。
A7 の値を求めるとき、右横に Z3 の値が記載されている。

Z1 + Z2 - Z3 = Z4

表でZ4に該当する値が方位角Zになる。

5. 作図

(1) 天体位置決定用図で、コンパスローズの中心を船の推定位置として、計算方位角の線を引く。
図の線②

(2) 計算高度 at と真高度 ao の差(修正差 I )を求め(単純な引き算)、修正差 I 分だけ、船の推定位置を方位角の線に沿って外側(真高度が計算高度より小さい場合)または内側(真高度が大きい場合)に移動させ、方位角に垂直な線を引く。
これが位置の線になる(細い赤線①)。船はこの位置の線上のどこかにいる。

修正差Iの距離は、緯度によっても異なるので、位置決定用図の右側に印刷されている漸長緯度差の尺度からディバイダで測る(オレンジ)。

6. 数時間後に同じ手順で観測を行って、さらに位置の線を引く。
この二本の線の交点が船の位置(船位)になる。

注意: 最初の位置の線を時間の経過分だけずらす必要がある(転位)。これは速度と進行方向で距離をだして、その分だけ平行移動させるか、最初の推定位置をその分だけずらして作図し直してもよい。

[ 1 ] [ 2 ] [ 3 ] [ 4 ] [ 5 ] [ 6 ] [ 7 ] [ 8 ] [ 9 ] [ 10 ] [ 11 ] [ 12 ]

スナーク号の航海 (87) - ジャック・ロンドン著

第十七章

しろうと医師

スナーク号に乗ってサンフランシスコから出帆したとき、ぼくは病気については山国スイスに海軍があるとしてその司令長官が海について知っているのと同じくらいの知識しかなかった。というわけで、ここで、これから熱帯地方に出かけようと思っている人に助言させてほしい。一流の薬局――なんでも知っている専門家を雇っている薬局に行って、事情を説明するのだ。相手の言うことを注意深くメモし、お勧めのものの一覧表を書いてもらい、代価全額分の小切手を切って渡す、だ。

ぼくは自分もそうすべきだったと痛感している。ぼくはもっと賢明であるべきだったし、いまとなっては、小型船の船長がよく使う、できあいの、自分で処置できる、誰でも使える救急箱を買っておけばよかったとつくづく思う。そういう救急箱に入っているビンにはそれぞれ番号が振ってあって、救急箱のふたの内側には簡単な指示が書いてある。整理番号と歯痛、天然痘、胃痛、コレラ、リウマチといった具合に、病気のリストに応じた薬がそろえてあるのだ。そうなれば、尊敬すべき船長がするように、ぼくもそれを使うことができたかもしれない。3番が空になったら1番や2番をまぜるとか、7番がすべてなくなったら、乗組員には4番と3番を処方し、3番がなくなったら5番と2番を使うといった具合にだ。

これまでは、昇こう(塩化第二水銀。これは外科手術での消毒薬としておすすめできるが、まだその目的で使ったことはない)を例外として、実際に持参した薬箱は役に立たなかった。役に立たないどころか、もっと悪かった。というのは場所だけはとるからだ。

手術器具があれば話は別だ。まだ本格的に使ったことはないが、場所を占めるからといって後悔なんかしない。それがあると思うだけで安心する。生命保険みたいなもので、生きるか死ぬかという土壇場では役に立つ。むろん医療器具があっても、ぼくは使い方を知らないし、外科手術についても無知なので、直りそうな症例でも一ダースものインチキ療法を行ったりもすることになるだろう。だが、悪魔が来ているときにはそうせざるを得ないし、陸から千海里も離れていて、一番近い港まで二十日もかかるところまで悪魔がやって来たとしても、スナーク号のぼくらはそれについて誰かから警告を受けることもないのだ。

ぼくは歯の処置については何も知らなかったが、友人が鉗子(かんし)や似たような道具を持たせてくれた。ホノルルでは、歯科の本も手に入れた。また、この亜熱帯の島で、頭を押さえておいて痛みを生じさせずにすばやく抜歯したこともある。こうした備えがあったので、ぼくは自分から望んでということはないものの、自分なりのやり方で歯の問題に取り組む用意はできていた。あれはマルケサス諸島のヌクヒバでのことだった。ぼくが最初に治療したのは、小柄な中国人の老人だった。ぼくは武者ぶるいに震えた。ベテランのふりをしようとしたが、心臓はどきどきするし、腕も震えた。そうなって当然ではあった。中国人の老人はぼくの嘘にだまされなかった。彼もぼくと同じくらい驚いていて、震えはもっとひどかった。彼の恐怖がぼくに伝染し、忘れていた畏怖の念というものを思い出させた。だが、老人が逃げだそうとしたら、落ち着きと理性が戻ってくるまで彼を押さえつけただろう。

ぼくは彼の歯を抜こうとしていた。また、マーチンもぼくが抜歯するところを写真に撮りたがっていた。同様に、チャーミアンもカメラを持っていた。それでぼくらは連れだって歩きだした。ぼくらはスティーヴンソンがカスコ号でマルケサスに来たときのクラブハウスだったところで止まった。彼が何時間も過ごしていたベランダは、光線の具合があまりよくなかった。写真撮影には、という意味だ。ぼくは庭に入りこんだ。片手に椅子を持ち、もう片手にはいろんな鉗子を携えて。みっともないが、膝はがたがた震えていた。かわいそうな中国人の老人もついてきた。彼も震えていた。チャーミアンとマーティンはぼくらの背後で、コダックのカメラを構えている。ココヤシの間を縫って進み、アボカドの木の下までやってきた。マーティンによれば、写真の撮影にはうってつけの場所ということだった。

ぼくは老人の歯を診て、自分が五ヶ月前に引っこ抜いた歯について何も覚えていないことを再認識した。歯根は一本だっけ? 二本、あるいは三本だったっけ? ひどく傷んでいるように見えるほうに残っているのを何と言うんだっけ? 歯ぐきの奥深くまで歯をがっちりはさまなければならないということだけは覚えていたので、歯には歯根がいくつあるのかを知っておく必要があった。ぼくは建物に戻って本で歯のことを調べた。中国人の犯罪者がひざまづいて首をはねられるのを待っている写真を見たことがあるが、このかわいそうな年老いた犠牲者も同じように見えた。

「逃げないよう押さえてろよ」と、ぼくはマーティンに言った。「この歯を抜きたいんだ」
「わかってるさ」と、彼はカメラを抱えたまま自信ありげに答えた。「オレもその写真を撮りたいんだ」

ここにきて、ぼくはこの中国人が気の毒になった。本に抜歯方法は載っていなかったが、あるページにすべての歯を示した図があり、それには歯根やアゴにどう並んでいるかが描かれていた。鉗子が手渡された。七対あった。が、どれを使えばよいのかわからない。ぼくはミスはしたくなかった。鉗子をひっくりかえすときガチャガチャ鳴った。哀れな犠牲者から力が抜け、ぼんやりと峡谷が黄緑色になるのを眺めている。老人は太陽について苦情を言った。しかし、写真を撮影するには必要だし、それくらいは我慢してもらわなければならない。ぼくは鉗子を歯に当てた。患者はガタガタ震え、気力もなえたようだった。


最初の抜歯

脚注
*1: ロバート・ルイス・スティーヴンソン(1850~1894年):『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』などの著作で知られる一九世紀英国の作家。自身の健康問題などもあり、四十歳で家族とともに南太平洋のサモア諸島に移り住み、その四年後に同地で没した。

天測航法11─位置の線航法 (1)

位置の線については、平面で考えるとわかりやすい。
海上にいて、ある小さな島の山の頂上が磁針方位で60度の方向に見えたとする。
海図のコンパスローズで60度に定規をあてて、その島まで平行移動させ、山頂を通る線(方位線)を引けば、自分の現在地は、その線上のどこかにあるはずだ。

次に別の目標物を調べて、同じようにそれを通る線を引く。二本の方位線の交わる点が自分の位置を示している。これが前回取り上げた、地文航法のクロスベアリング法である。
ichinosen_6-1

この目標物を天体に移したのが天測航法/天文航法の位置の線航法と呼ばれるものである。

ある日ある時間に地球上のある地点から天体(太陽、月、惑星、星)を見上げたとき、その角度が70度だったとする。
地球上でその時間にその天体が高さ70度に見える場所は無数に存在するが、そうした点を結んでいくと、大きな円になる。
ichinosen_6-2

つまり、この円周(赤線)上のどこかにいることになる。

天体を目標物にした場合、この円周が位置の線になるのだが、実際の作図ではずっと狭い範囲を取り扱うので、円周も直線として扱う。

次に別の天体を調べて、その高さに見える場所を点で結べば同じように円が描ける。この二つの円の交点が自分の位置を示している。
ichinosen_6-3

直線と違って、交点は2つできるが、この2つの場所は、たとえば太平洋とユーラシア大陸とか、インド洋と大西洋とか、極端に離れているので、自分のいる場所がどっちかはすぐにわかる。

同時に二つの天体の高度を知るのがむずかしいときは、同じ天体を時間をおいて二度測定しても同じ結果が得られる

星がよく見える夜は水平線が見えにくいし、水平線がよくわかるときは、まだ空に明るさが残っているので星が見えにくく、星は星座として全体でとらえるとわかりやすいが、六分儀のレンズの中では本当にその星かわかりにくかったりと、現実には星の高度を測るのはなかなか厄介なので、一般には太陽を使うことが多い。

太陽の場合、可能であれば、朝、昼、夕方の三回観測する。それぞれ、モーニングサイトヌーンサイトイブニングサイトと呼ぶ。

まず日の出から少し時間が経った頃(たとえば午前八時)に太陽高度を測定し、必要な改正を行って真高度を求める。改正については子午線高度緯度法で述べた方法と同じだ。

その上で、天測計算表から方位角を見つければ、位置の線が一本引ける(具体的な手順は後述)。

さらに、正午か夕方にも測定して同じように位置の線を引く。

最初の線については、時間の差がある分だけ(船の速度×方向で距離を計算して)位置をずらす必要はあるものの、この二本の線の交点が観測者のいる場所になる。

正午の場合は子午線高度緯度法で説明したように、位置の線を使わなくても、それだけで位置を確定できるためバックアップとしても有効だし、両者を比較することで精度の向上にもつながる。

では、もう少し具体的にみていこう。
天体はほぼ規則正しく運行しているので、ある年の○月○日の○時○分に地球上のどの地点の真上にあるかは、あらかじめわかっている(天文暦に記載されている)。

天体をSとする。
観測する自分の位置を推定する(前日の位置から進行方向と速度で推定すれば、だいたいの検討がつく)。この推定位置をAとする。この位置は正確でなくても問題はない。
ichinosen_6-4

観測地点と天体がその時間に真上に来ている場所をXとすると、観測者から見て天体のある方位(A-X)と角度(∠SAX)が計算できる。

自分の推定位置Aと天体が真上にある位置Xを直線で結ぶ(これが円の半径になる)。

そのとき観測した高度と計算で出した高度を比べて、
同じであれば、推定した位置Aが実際の位置になる。

観測値の方が大きければ、推定位置より内側Bになる。
観測値の方が小さければ、推定位置より外側B’になる。

その角度の差を距離に換算して推定位置から内側または外側に移動した点(BまたはB’)を通り、半径A-Xに垂直な線を引く。これが位置の線になる。

大きな円のごく一部になるので、円周は半径に対して垂直な直線とみなすことができる。

これをもう一回、別の天体か、同じ天体であれば時間をずらして行い、最初の線は船が移動した距離だけ平行させる。

この二本の位置の線の交わった点が観測者がいる実際の位置になる。

この作業は海図ではなく、「天測位置決定用図」と呼ばれるものを使って行う。

この上の写真は『天文航法』(長谷川健二著)に付属しているものだが、海図販売所で専用の冊子が販売されている。

(この項は次回に続きます)

[ 1 ] [ 2 ] [ 3 ] [ 4 ] [ 5 ] [ 6 ] [ 7 ] [ 8 ] [ 9 ] [ 10 ] [ 11 ] [ 12 ]

スナーク号の航海 (86) - ジャック・ロンドン著

「ワッツネイム(名前は?)」は、ピジン語で最もやっかいだ。意味はすべて、言い方で変わってくる。「何の商売?」の場合もあれば、「こんな無礼なことをして、どういうつもりだ?」となることもある。何がほしいんだ? 何を探してるんだ? ちゃんと見張ってろ、説明してくれ、など数百通りもある。夜中に原住民を家の外に呼び出すと、相手は「ワッツネイム、ユーシングアウト、アロングミー?(なんでそんな大声でオレを呼ぶんだ?)」と詰問することだろう。

snark-page303
グラッドストン(オーストラリア)に行ったことがあるという男

ブーゲンビル島の農園にいるドイツ人たちは苦労しているらしい。現地の労働者を働かせるためにピジン英語を学ばざるをえないのだが、ドイツ人にとって、ピジン語は非科学的である上に、数カ国語が混在しているし、勉強しようにも教科書なんて存在しないのだ。他の白人農園主や交易商人にとっては、きまじめなドイツ人たちが、まわりくどくて文法や辞書もない言語の習得に真剣に取り組んでいる様子はおかしくもある。

snark-page304
ベラ・ラベラ島の老婦人

数年前、ソロモン諸島の非常に多くの住民がクイーンズランドの砂糖農園での労働に雇われたことがある。宣教師はキリスト教に改宗した労働者の一人に、立ち上がって、到着したばかりのソロモン諸島人たちに教えを垂れるよう勧めた。すると、その男は話のテーマとして人類の堕落を取り上げたのだが、その講話はいまでは南太平洋の島々で古典となっている。こんな感じだ。

「きみたちソロモン諸島人たち、白人ではないきみたち、わたしの仲間たちよ、これから白人について話をしよう。
「はるかな昔、白人には住むところがなかった。ボスである神様も白人で、その人が白人をつくりだしたんだ。このボスの神様は、大きな楽園をつくった。とてもいいことをした。その楽園では、たくさんのヤムイモがとれた。たくさんのココナツ、たくさんのタロイモ、たくさんのクマラ(サツマイモ)。どれもこれもとてもおいしい。
「このボスの神様は白人で、仲間の男を一人つくり、自分の楽園にすまわせた。その男をアダムと呼ぶと、その名前になった。そのアダムを楽園につれていって、こう言った。「この楽園はおまえのものだ」と。そうして、この男アダムが歩きまわるのを見ていた。その男アダムはずっと同じ病気にかかっていた。何も食べないのだ。ただ歩きまわるばかりなので、ボスの神様にはわけがわからなかった。偉大なボスは白人で、頭をかき、こう言った。「なんだ? この男アダムが何をしたいのか、さっぱりわからない」

「そうして神様は頭をかきむしり、また言った。「わかったぞ。こいつはメアリーがほしいんだ」と。それで、神様はアダムを眠らせておいて骨を一本とり、それからメアリーをつくった。その人間メアリーをイブと呼んだ。イブをアダムのところに連れて行き、「仲よくしなさい。この楽園はきみたち二人のものだ」と言った。この木はきみたちには悪さをするから避けなさい。この木にはリンゴがなるんだ」

「アダムとイブの二人は楽園でくらした。とても楽しくすごしていた。ところが、ある日、イブがアダムのところに来て、こう言った。「ねえ、二人でこのリンゴを食べましょうよ」 アダムは言った。「だめだ」 するとイブは「あんた、なんであたしにいじわるするのよ?」と言った。アダムは「おれ、おまえは大好きだけど、神様はこわいよ」 すると、イブが言った。「嘘ばっかり! それがどうしたってのさ? 神様だって、いつもあたしたちを見張ってるわけじゃない、神様はあんたをだましたんだ」 だが、アダムは言った。「いやだ」 だけど、イブは語り続けた――このメアリーはこのクイーンズランドの男にずっと話しかけ、彼をこまらせた。アダムはもううんざりだった。それで「わかったよ」と答えた。そうして、この二人はリンゴを食べた。食べ終わると、なんとまあ、おそろしい地獄が出現し、二人は森に隠れた。

snark-page306
メアリーたち

「すると、神様が楽園にやってきて「アダム!」と呼んだ。アダムは返事をしなかった。ひどくこわかった。すると、なんと! 神様は「アダム!」と怒鳴った。アダムは言った。「お呼びですか?」 神様は言った。「何度も呼んだんだぞ」 アダムは言った。「ぐっすり寝こんでたので」 すると、神様は言った。「おまえ、このリンゴを食べただろ」 アダムは言った。「いいえ、めっそうもない」 神様は言った。「なぜ私に嘘をつく? おまえは食べたんだ」 すると、アダムは言った。「はい、食べました」

「すると、ボスの神様は、アダムとイブの二人をひどく叱って、こう言った。「お前たち二人はもう私とは縁がきれた。このボッキス(箱)を持って森へ行き地獄に落ちろ」

「それで、アダムとイブの二人は森に入っていった。神様は楽園をぐるっと取りかこむ柵をこしらえた。その柵を仲間の一人にゆだねて、マスケット銃を与えて、こう言った。「この二人、アダムとイブを見つけたら、ぶっぱなしてやれ」