スナーク号の航海 (95) - ジャック・ロンドン著

あとがき

スナーク号は水線長四十三フィートで全長は五十五フィート、船幅十五フィート、喫水が七フィート八インチだ。二本マストのケッチで、帆はフライングジブにジブ、フォアステイスル、メインスル、ミズン、スピンネーカーがある。船室の高さは六フィートで、甲板は手すりで囲まれたところと平らで何もないところに分かれている。水密区画は四つ。七十馬力の補助ガソリンエンジンを動かすのに、一マイル当たり約二十ドルの経費がかかる。五馬力のエンジンは故障していなければポンプを動かしてくれるが、サーチライトの電源にも二度ほどなってくれた。船載の十四フィートのボートのエンジンはたまには動くようだが、ぼくが乗ろうとすると決まって動かない。

だが、スナーク号は帆船だ。どこへでも帆走で行く。二年間航海したが、岩や暗礁、浅瀬で座礁したことはなかった。船内にバラストは積んでいない。鉄製のキールは五トンの重量があり、喫水は深く乾舷も高い。非常に頑丈だ。フルセールで熱帯のスコールに遭遇すると舷縁も甲板も波に何度も洗われるが、粘り腰があって転覆するまでには至らない。操船は容易だ。舵から手を放しても、風上航だろうが真横からの風だろうが、昼夜を問わず、きっちり走ってくれる。斜め後方からの風では、帆をきちんと調節しておきさえすれば方向のずれは二点内に収まるし、真追っ手の風では勝手に操舵させておいても三点とずれることはない*1。

スナーク号は途中まではサンフランシスコで建造された。キールの鋳造にとりかかろうとした日の朝に、あの大地震が起きたのだ。そこで混乱が生じた。建造は六カ月も遅延し、ぼくはスナーク号をほぼがらんどうのまま、エンジンを船底にくくりつけ、材料は甲板に固縛した状態でハワイまで回航して仕上げをした。サンフランシスコにとどまって完成させようとしていたら、今も進水できていなかっただろう。完成する前からコストは当初の予定の四倍にもふくれあがった。

スナーク号は最初からツキがなかった。サンフランシスコでは訴訟を起こされたし、ハワイでその請求書は詐欺だと抗弁したものの、ソロモン諸島では検疫違反を理由に罰金を課せられた。いろんなしがらみにとらわれた新聞は真実を書かなかった。役立たずの船長を解雇すると、やつがぼろぼろになるまでぼくが暴力をふるったと報道された。一人の若い乗組員が学業を続けるため帰国すると、ぼくは常にウルフ・ラーセン*2みたいな暴君で、とんでもない乱暴者なので、乗組員はみな長続きしないと報じられた。実際に殴ったのは一度だけだ。船長がコックを乱暴に扱ったからだ。この船長は経歴を詐称して乗りこんできたとわかったので、フィジーで解雇した。チャーミアンとぼくは運動をかねてボクシングをしたが、どちらも誰かを本気で殴ったことなどない。

この航海は、ぼくらが楽しみのために発想したものだ。スナーク号を建造したのはぼくだし、費用も経費はすべてぼくが支払った。ぼくはある雑誌と三万五千語の航海記を書く契約を結んだ。稿料はそれまで書いていた原稿と同じだ。雑誌はすぐに、ぼくを世界一周に派遣すると宣伝した。潤沢な資金を持つ雑誌だった。仕事でスナーク号と取引をした誰もが、この雑誌なら負担してくれるだろうと、三倍の値段を吹っかけた。南太平洋の島々にまでこの神話が伝わっていて、ぼくはそれに応じた割高の料金を払った。今になっても、雑誌が経費を払い、ぼくはこの航海でひと財産つくったと誰もが信じこんでいる。ああいう派手な宣伝の後では、航海すべてを自分の楽しみのためだけにやったのだとわかってもらうのは難しい。

ぼくはオーストラリアで入院した。病院で五週間すごした。それからホテルで五カ月も療養していた。悩みの種だった両手の病気は、オーストラリアの専門家の手にも終えなかった。医学文献にも記載されていないのだ。こんな症例はどこにも報告されていない。症状は両手から両足にひろがっていき、子供同然に、まったく力が出せなくなることもあった。大きさで言うと、通常の二倍くらいにふくれたりもした。同時に七カ所で皮膚が死んで皮がむけた。足指の爪の厚みが二十四時間で長さと同じくらいにもなった。それをヤスリで削り落としても、また二十四時間すると、内側から前と同じ厚さの爪が生えてきた。

オーストラリアの専門家たちは、この病気は非寄生性で、慎重に扱わなければならないということで意見は一致したが、いっこうに改善しないので、そのまま航海を続けることはできなかった。続けたとしても、ぼくは寝床に力なく寝たきりで、両手で何かを握ることもできず、小さな揺れる船を動きまわることもできなかっただろう。船はたくさんあるし、航海もたくさん行われているが、自分の両手や足の爪には代替品がないのだと、自分に言い聞かせた。さらに、気候のよいカリフォルニアに戻れば、ずっと落ち着いていられるとも考えて納得し、こうして戻ってきたわけだ。

戻ってきてから、ぼくはすっかり回復した。そして、自分の何が問題だったのかがわかった。合衆国陸軍のチャールズE・ウッドラフ中佐の書いた『熱帯の太陽光が白人に与える影響』という本にめぐりあい、それでわかったのだ。その後、ぼくはウッドラフ中佐にも会い、中佐も同じような症状に見舞われたことを知った。中佐自身は陸軍軍医で、フィリピンで同じような病気になったとき七名の陸軍軍医に診てもらったものの、オーストラリアの専門家と同じようにサジを投げられてしまった。簡単に言うと、ぼくは熱帯の太陽光線による組織破壊性の疾患にかかりやすい傾向があったのだった。X線の照射を何度も受けるみたいに、紫外線にぼくの体は痛めつけられてしまったのだ。

ちなみに航海を放棄せざるを得なかった別の病気について述べると、その一つは正常人の病気、ヨーロッパのハンセン病、聖書のハンセン病などとさまざまな呼び方をされているものだった。本当のハンセン病とは違い、この不可解な病気については何もわかっていない。自然治癒は記録されているが、この症例を治癒させたと言う医者は存在しない。治療方法がわからないのも無理もない。なぜこの病気にかかるのか自体がわかっていないのだ。薬を使用しなくても、ただカリフォルニアの気候に満たされた環境にいただけで、ぼくの銀色がかった皮膚は消えてしまった。医者がぼくに対して持っていた唯一の希望が自然治癒の可能性だったが、ぼくはそのとおりに治ってしまった。

最後に、航海という試練について述べておこう。これは、ぼくにとっても誰にとっても十分に楽しいものだったと言える。とはいえ、それを証言するには、ぼくらよりも適任者がいる。最初から最後まで同行した一人の女性だ。病院で、カリフォルニアに戻らなければならないとチャーミアンに告げると、彼女の眼には涙があふれた。幸福な楽しい航海を放棄するしかないと知ると、彼女は二日間ショックに打ちのめされた。

グレン・エレン(カリフォルニア州)にて
一九一一年四月七日
脚注
*1: 帆船時代の船舶では、360度の方位を32等分したものを1点(11度15分)としていた。2点は22度30分、3点は33度45分になる。
沿岸航海では風向は変わりやすいが、外洋では同じ方向から安定した風が吹いていることが多く、しかも、スナーク号は船底の前後方向にキールが伸びたロングキールで、舵から手を放しても同じ進路を保つ傾向が強いため、こういうことが可能になる。
キールが縦に細長い現代風のヨットでも似たようなことはできるが、こううまくはいかない。その代わり、ウインドベーンやオートパイロットなど、便利な自動操舵装置が開発され利用されている。

*2: ウルフ・ラーセン - 海洋冒険ものの大作『海の狼』(ジャック・ロンドン著)の主人公で、帆船ゴースト号を暴力で支配する船長。

スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 〜 スモールボート・セイリング(その7)

スモールボート・セイリング 【全8回】 公開日
(その1)スモールボート・セイリング 2017年3月29日
(その2)スモールボート・セイリング(2) 2017年4月7日
(その4)スモールボート・セイリング(4) 2017年4月21日
(その5)スモールボート・セイリング 2017年4月30日
(その6)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月7日
(その7)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月14日
(その8)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン 2017年5月21日

Small-Boart Sailing (7)

ジャック・ロンドン

風の強い闇夜に暖かい寝床を抜け出し、状況が悪化した錨泊地から脱出するのは楽しいことではない。そのとき、われわれはやむをえず寝床から起き上がり、メインセールにツーポンリーフを施しておいてから、錨を揚げはじめた。ウインチは古くて、波で船首が上下する際にかかる負荷には耐えられず故障してしまったが、とはいえ、錨を手で揚げるのは無理である。実際にやってもみたのだが、びくともしなかった。むろん、とりあえず錨綱に目印のブイをつけておいてからその場を離れるという手もあったのだが、われわれはそうせず、他のロープを用意して元の錨とは向きを変えて別の錨を投げ入れた。

それからもほとんど眠れなかった。というのも、船が横揺れするため、一人ずつ寝床から放り出されてしまうからだ。海はますます荒れてきて、船が走錨しはじめた。潮通しがよく海底が滑らかになっている海峡まで出てしまうと、二つの錨がスケートをするように滑っている感触があった。海峡は深く、対岸は渓谷のように急峻なかけあがりの崖状になっていた。錨はその崖にぶち当たり、そこで持ちこたえた。

しかし、錨が効いて船がそれ以上流れなくなると、暗闇を通して、背後の岸に砕ける波の音が聞こえた。非常に近くだったので、足舟の舫綱を短くした。

明るくなってみると、足舟の船尾はきわどいところで破損を免れたことがわかった。なんという風だったことか! 時速七十マイルから八十マイル(風速三十六メートルから四十一メートル)の突風が吹いたりもしたのだが、錨は持ちこたえてくれた。逆に、がっしり食いこんでいるので、今度は船首のビットが船からはぎ取られるのではないかと心配になったほどだ。一日中、われわれのスループは船首と船尾が交互に持ち上がったり沈みこんだりしていた。嵐がおさまったのは午後も遅くなってからだったが、最後に猛烈な突風が吹いた。まる五分間の完全な無風状態の後、ふいに雷鳴が起こり、南西方向から風がうなりを上げて吹き寄せてきた。風向は九十度も変化し、暴風が襲ってきた。こんな状況でもう一晩すごすのはこりごりだったので、われわれは向かい風の中で、手で錨を揚げた。重労働なんてものじゃなかった。心が折れるとはこのことだ。われわれは二人とも苦痛と疲労で泣き出す一歩手前までいっていた。ともあれ最初の錨を引き上げようとするものの、錨は抜けない。波が押し寄せてきて船首が下がったときにゆるんだロープを船首のビットに余分に巻きつけておいて、次の波で船首が持ち上がるのを利用して引き上げようとした。ほとんどすべてのものが壊れてばらばらになったが、錨は食いこんだままだった。チョックは急激な力が加わったので外れてしまうし、舷側もちぎれ、それをおおっていた板も割れたが、錨はまだ食いこんだままだった。仕舞いには縮帆したメインセールを揚げて、張力のかかったチェーンを少したるませながら帆走で抜錨しようとした。しかし、力が均衡した状態でにっちもさっちもいかず、船は何度か横倒しになった。われわれはもう一つの錨でもこの作業を繰り返したのだが、そのうち河口の避泊地にはまたも宵闇が迫ってきた。
● 用語解説
ツーポイントリーフ: 二段階に縮帆(リーフ)すること。風の強さに応じて、ワンポン(一段階)、ツーポン(二段階)、スリーポン(三段階)と帆の面積を小さくしていく
ウインチ: ヨットでロープ類を巻き上げる小型の装置。錨を巻き上げるものはウインドラスともいう
ビット: 舫い綱などの端を固定しておく支柱のようなもの。現代のヨットではクリートを用いるのが一般的
チョック: 舫い綱や錨綱を船上に引きこむ際に船縁でロープを通すところ。船体の補強とロープの摩耗防止を兼ねている。フェアリーダーともいう

スモールボート・セイリング 【全8回】 公開日
(その1)スモールボート・セイリング 2017年3月29日
(その2)スモールボート・セイリング(2) 2017年4月7日
(その4)スモールボート・セイリング(4) 2017年4月21日
(その5)スモールボート・セイリング 2017年4月30日
(その6)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月7日
(その7)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月14日
(その8)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン 2017年5月21日

スナーク号の航海 (94) - ジャック・ロンドン著

追伸  というようなことを書いてから、さらに二週間がすぎた。タイヘイイはスナーク号で唯一病気にかかっていなかったのだが、ぼくらの誰よりも高熱が出て、もう十日も寝こんでいる。体温は華氏百四度(摂氏四十度)を何度も繰り返し、脈拍は百十五もある。

再伸  タスマン環礁とマニング海峡の間の海にいる。
タイヘイイの病気は、マラリア熱では最悪の黒水熱*1になってしまった。医学書によれば外部感染によるものらしい。熱を下げようとしているのだが、彼が気力をなくしてしまっているため、こっちも途方に暮れている。精神の病に関しては治療経験がほとんどない。スナーク号の短い航海で、精神錯乱はこれで二人目だ。


友好的なランドリー・ビルズ。洗濯屋だが、服装は文明からは程遠い──ロード・ホウ環礁にて

再々伸  いつか、ぼくは本を書くつもりだ(専門家向けにね)。タイトルは『病院船スナーク号の世界一周』。船に乗せていたペットはまだ逃げだしていない。メリンゲ礁湖からはアイリッシュテリアと白いオウムを一匹づつ乗せていた。テリアはキャビン入口の階段から落ちて後ろ足を引きづるようになったが、また落ちて、こんどは前足も痛めてしまった。現時点では残った二本の足で歩きまわっている。幸運なことに、大丈夫だった足はそれぞれ反対側についているので、なんとか動けている。オウムはキャビンの天窓にぶつかって死んでしまった。これがスナーク号の葬式第一号となった。鳥といえば、ペットじゃないニワトリは病人用のスープになったりしているのだが、何羽かは船から飛び出しておぼれ死んでしまった。丈夫で繁殖しているのはゴキブリだけだ。やつらは病気や事故とは無縁で、日ごとに巨大化し凶暴になって、ぼくらの手や足の爪を眠っている間にかじるようになった。

再々伸
チャーミアンが発熱を伴う別の発作をおこした。マーティンはふさぎこんでいたが、馬専門の獣医のところでイチゴ種を診てもらい硫酸銅の治療を受けた。ぼく自身は航海術や病気の治療、短編の執筆に忙殺されている。体調がいいというわけではない。乗組員の精神錯乱を別にすれば、ぼくとしても事態は最悪で、航海を続けることはもう限界だった。次の蒸気船でオーストラリアへ行き、手術を受けることになるだろう。苦痛の種はいろいろ抱えているが、自分にとって新種でまだ慣れていない疾病について書いておこう。この一週間というもの、ぼくの両手には浮腫ができ、ふくれあがっている。握りこぶしをつくろうとすると痛みがある。ロープを引こうとすると、とても痛いのだ。悪化したた霜焼けみたいな感じだ。また両手の皮がすごい勢いではげ落ち、その下の新しい皮膚は固く厚くなってきている。医学書を見ても、この病気についての記載はない。何なのか、だれも知らないのだ。

再々伸  まあ、とにもかくにもクロノメーターは修理した。この八日間というものスコールと雨がずっと続き、ほとんど漂泊していたのだが、昼に一部だが太陽を観察することができた。それで緯度を計算し、推測航法でロード・ホウのある緯度をめざした。この時点で、ぼくは経度の観測を行ってクロノメーターのテストを行い、三分ほどの誤差があるのに気づいた。一分は十五マイルに相当するので、合計した誤差は推測できる。ロード・ホウでは何度も観測を繰り返してクロノメーターの精度を確かめた。このクロノメーターは一日に一秒の十分の七ずつずれているいることがわかった。一年前にハワイを出帆したときも、この同じクロノメーターには一秒の十分の七の誤差があった。この誤差は毎日積み重なっているはずだ。ロード・ホウでの観測で証明されたように誤差の割合に変化はないので、時間のずれは三分どころではないはずだが、太陽の影響下にある何がいきなり針の進みを変化させて三分まで調整したのだろうか? そんなことがありうるのか? 時計の専門家はそんなことはないと言うだろう。が、ぼくとしては、そういう連中はソロモン諸島で時計を作ったり精度を調べたりしたことがないからだと言いたい。ぼくの見立てでは、気候のせいでそうなるのだ。ともかく、ぼくは精神の異常やマーティンのイチゴ種の治療には失敗したが、クロノメーターの修理には成功したのだった。


ロード・ホウ環礁のルアヌアにある貿易業者の家

再々伸  マーティンが治療に焼きミョウバンをためしている。熱はさらにひどくなった。

再々伸  マニング海峡とパヴヴ諸島の間にいる。
ヘンリーはリューマチで背中の痛みが増した。僕の腕では十カ所の皮膚がはげ落ち、十一個目のはげかかっている。タイヘイイはますます頭がおかしくなり、自分を殺さないよう昼夜を問わず神に祈っている。ナカタとぼくはまたもや発熱で痩せてきた。最新情報として、昨夜、ナカタは食中毒の発作を起こし、ぼくは半ば徹夜で看病した。
————————————————————————————
脚注
*1: 黒水熱 - マラリアの合併症。

スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 〜 スモールボート・セイリング(その6)

スモールボート・セイリング 【全8回】 公開日
(その1)スモールボート・セイリング 2017年3月29日
(その2)スモールボート・セイリング(2) 2017年4月7日
(その4)スモールボート・セイリング(4) 2017年4月21日
(その5)スモールボート・セイリング 2017年4月30日
(その6)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月7日
(その7)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月14日
(その8)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン 2017年5月21日

土手はでこぼこしているし、船の真下では潮が急激に引いて、おそろしく汚くて悪臭のする、潮汐のたびに姿を現すおぞましい干潟が見えていた。クラウズリーがそれを見下ろしながら私に言った。
「愛してるぜ、兄弟。俺はあんたのためだったら決闘もするし、吠えるライオンにだって立ち向かってみせる。野垂れ死にも洪水もこわくはないし、あんたがここに降りさせるようなことはしない」 そう言いながら、彼は吐き気に身震いした。「だけど、もしあんたが落っこちてしまったら、俺にはあんたを引き上げる度胸はねえからな。無理にきまってる。あんたはひどいことになるだろうし、俺にできるのは、ボートフックをつかんで、あんたを見えないところまで押しやることだけだろうよ」

われわれは船室で上になった側壁に座ってデッキにもたれ、船室の屋根に足をぶらぶらさせながらチェスをした。潮が満ちてきたところで、ブームリフトの滑車とタックルを使い、船をまた頑丈な竜骨の上に立たせることができた。それから何年もたってから、私は南海のイサベル島で同じような窮地に陥ったことがある。船体に張った銅板の汚れを落とすため、浜辺でスナーク号の側面を海側に傾けたのだが、潮が満ちてきても船は起き上がろうとしなかったのだ。海水がスカッパーから入ってきた。海水は舷側を乗りこえ、斜めになったデッキをじりじり上がってくる。われわれは機関室のハッチを閉めた。海面はそこまで達し、さらに船室のコンパニオンウェイや天窓の近くまで上昇してきた。われわれは皆熱があったのだが、熱帯の炎天下で何時間も必死に作業するはめになった。一番太いロープをマストヘッドに結んでおいてから陸まで運び、この重い船を引き起こそうとしたが、われわれ自身を含めて、すべてがこわれてしまった。われわれは疲労困憊し、死人のように横たわった。それから、また立ち上がって引っ張り、そうしてまたぶっ倒れた。下側の舷側は海面下五フィートに沈み、さざなみが寄せてきてコンパニオンウェイを包みこむようになってやっと、この頑丈で小さな船は身震いし、動揺し、そうして再びマストが天頂を向いたのだ。

小さな船を帆走させていると運動不足になることはないし、重労働はその楽しみの一部でもあり、医者いらずってことにもなる。サンフランシスコ湾はちっぽけな池などではない。大きいし、風もよく吹き、変化の激しい海域だ。ある冬の夕方、サクラメントの河口へ入ろうとしたときのことを思い出す。川は増水していた。湾からの上げ潮も流れに負けて強い引き潮になっていた。日が差すと、力強い西風は衰えた。日没だった。順風から中風くらいの追い風を受けていたのだが、急流をさかのぼることはできなかった。われわれはいつまでたっても河口にいたのだ。投錨地はなく、後退する速度もだんだん速くなってくる。風がなくなってしまったので、河口の外に出て錨を下ろした。夜になった。美しくて暖かく、星がよく見えた。私がブリストルの流儀ですべてをデッキに出している間に、仲間の一人が夕食を作った。九時になると、天候が回復する見こみがでてきた(気圧計を積んでいたらもっと正確にわかっただろう)。午前二時までにはサイドステイが風で鳴り出したので、私は起きだして錨索を繰り出した。もう一時間もすれば、間違いなく南東の風が吹き出してくるだろう。
● 用語解説
イサベル島: 南太平洋(メラネシア)にある島
スナーク号: ジャック・ロンドンが建造したヨット。これに乗って太平洋を周航し、『スナーク号の航海』(未訳)を著した
スカッパ: 排水口
コンパニオンウェイ: 船室への入口
サイドステイ:  マストを横方向から支える静索

スモールボート・セイリング 【全8回】 公開日
(その1)スモールボート・セイリング 2017年3月29日
(その2)スモールボート・セイリング(2) 2017年4月7日
(その4)スモールボート・セイリング(4) 2017年4月21日
(その5)スモールボート・セイリング 2017年4月30日
(その6)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月7日
(その7)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン著 2017年5月14日
(その8)スモールボート・セイリング ジャック・ロンドン 2017年5月21日

スナーク号の航海 (93) - ジャック・ロンドン著

チャーミアンは菜食主義者と衛生学者に育てられた。彼女を育てた叔母のネッタは健康によい気候の地域に住んでいて、薬なんてものは信用していなかった。チャーミアンもそうだ。おまけに薬と彼女の相性も悪かった。治したい病気そのものより薬の副作用の方がひどかったりしたのだ。とはいえ、彼女はキニーネの効能については耳を傾け、病気になるよりはましだとして受け入れた。その結果、痛みは他の連中ほどひどくなかったし、苦しむ期間も短く、発熱の頻度も少なかった。そんなとき、ぼくらは伝道師のコーフィールド氏と出会ったのだが、彼の前任者は二人もソロモン諸島で暮らすようになって半年もたたないうちに死んでいた。彼らと同様に、彼もまた同毒療法*1なるものをかたく信じていたのだが、自分が発熱すると逆症療法*2とキニーネに頼るようになり、熱に苦しめながらも福音の伝道に努めているのだった。

だが、それにしてもかわいそうなのはワダだ! チャーミアンとぼくが彼を人食い人種のいるマライタ島への航海に連れて行ったことが、コックだった彼を打ち負かす最後の一撃になってしまった。ぼくらが乗せてもらったヨットは小さくて、船長は半年前に殺されていた。カイカイとは食べることを意味するが、ワダは自分は食べられるのだと思いこんでいた。ぼくらは重武装し、警戒を怠らなかった。河口の真水で体を洗うときは、黒人のボーイたちがライフルを構えて歩哨に立ってくれた。ぼくらは英国の軍艦が船長殺害の報復として村々を砲撃し焼き払うところに遭遇した。首に賞金をかけられたお尋ね者の原住民たちがぼくらの船に逃げこもうとしたりした。陸上では人殺し連中が闊歩していた。ぼくらは予想もしないところで人なつこい原住民の差し迫った攻撃に対する警告を受けることになった。ぼくらの船にはマライタ島の原住民が二人乗っていたが、彼らはいつでも連中に寝返りそうだった。おまけに、ぼくらの乗った船は座礁してしまった。船を守ろうと懸命の努力をする一方では、片手にライフルを抱え、略奪しようとカヌーに乗ってやってくる連中に警告した。こうしたことすべてがワダには激しすぎたのだ。彼は頭がおかしくなり、とうとうイザベル島でスナーク号から下船してしまった。熱が小康状態のとき、豪雨の最中に肺炎にかかるおそれがあるというのを押し切って上陸した。彼が人食い人種に食われず、病気と高熱を克服できたのであれば、さらに合理的に判断して幸運に恵まれていたのであれば、ともかくもどこか近くの島へ、近くといっても六週間から八週間はかかるのだが、そういう近くの島に逃げおおせていることだろう。ぼくは彼の歯を二本も引っこ抜いてやったのだが、ぼくの処方する薬はまったく信用していなかった。

スナーク号は何カ月間も病院のようになっていたし、正直に言うと、ぼくらはそういう状態になれてはきている。メリンゲ礁湖では、干潮を利用してスナーク号を干潟にわざと乗り上げて船底の銅板の汚れを落としたりした。岸のプランテーションにいた三人の白人の男は皆、熱で倒れてしまい、海に入って作業できるのは一人だけだった。この原稿を書いている時点で、ぼくらはイサベル島の北東付近の海域で現在どこにいるのかわからなくなり、ロード・ホウ島を探そうと無駄な努力をしている。ロード・ホウ島はマストに登らなければ見えないような低い環礁なのだ。クロノメーターは壊れてしまった。太陽は姿を見せないし、夜も星を観察をすることはできなかった。来る日も来る日もスコールや雨だけだ。コックが蒸発してしまったので、ナカタはコックとボーイの両方を兼務しようとしたのだが、熱を出して寝こんでしまった。マーティンは熱がおさまったと思うとまた発熱している。チャーミアンは定期的に発熱するのだが、手帳の予定を見ながら次の発熱がいつ来るか予測しようとしていた。ヘンリーは期待しつつキニーネをのみ始めた。ぼくの場合、いきなり発作に襲われたので、自分が倒れたときのことは覚えていない。ぼくらは誤って船で最後の小麦粉を、小麦粉がないという何人かの白人男にくれてやってしまった。いつ陸にたどり着けるのかもわからない。ソロモン諸島の病気は悪くなる一方だ。昇こうはうっかり陸のペンドュフリンに置き忘れたし、過酸化水素は使い切っている。それで、ぼくは今はホウ酸と消毒薬、消炎剤で実験しているところだ。いずれにしても、ぼくが尊敬される医者になりきれないとすれば、それは治療の経験が不足したためだということにはなるまい。
脚注
*1: 同毒療法(ホメオパシー)とは、治療しようとする病気の症状をわざと発生させることで病気を直そうという治療法。
*2: 逆症療法(アロパシー)とは、熱が出たら解熱剤を処方するなど、病気の症状と反対の状態を作り出そうという治療。対症療法と呼ばれることもある。

スナーク号の航海 (91) - ジャック・ロンドン著

マーティンはイチゴ種について聞いた。知っておくべき理由があったからだ。彼の腕や足の傷、傷の真ん中のただれた潰瘍を見て判断できるのであれば、やつには確かにわかるはずだった。イチゴ種には慣れていくもんだ、とトム・バトラーは言った。体の奥深くに侵入するまでそう深刻というわけではない。ところが、そいつは動脈の壁を攻撃するようになり、動脈が破裂すると死に至ることになる。最近も何人かの原住民が浜辺でそんな風にして死んでいた。とはいえ、その何が問題なのか? イチゴ種でなければ──ソロモン諸島では──まったく別の話になる。

ぼくはこのときから、マーティンが自分の傷について、どんどん関心を深めていっているのに気がついた。治療薬としては昇こうがよく用いられるが、会話のはしばしから、マーティンは健全な気候のカンザスへの望郷の念が強まっているようだった。チャーミアンとぼくは、カリフォルニアの方がまだちょっとましだと思っていた。ヘンリーはラパ島に着くまで愚痴ばかりこぼしていたし、タイヘイイはボラボラ島ではずっと危険な状態だった。ワダとナカタは日本の歌をうたっていた。

ある夕方、スナーク号がウギ島の南端を周航しながら信頼できる泊地を探していたとき、サン・クリストバルの海岸に向かっていた英国国教会の伝道者ドリュー氏の乗る捕鯨船が接近してきて停船した。一緒に食事をしようというのだ。マーティンはミイラのように足に赤十字の包帯をぐるぐる巻いていたので、そこからイチゴ種についての話になった。マーティンのものもソロモン諸島でよくあるイチゴ種だと、ドリュー氏は断言した。白人はみんなそれにかかるんだ、と。

「あなたもなったことがあるのですか?」と、マーティンは英国国教会の伝道師もこんな病気にかかることがあるのかとショックを受けた様子で聞いた。

ドリュー氏はうなづき、かかっただけじゃなく、今も何人か治療している最中ですよと、つけ加えた。

「治療には何を使ってるんですか?」と、マーティンが勢いこんでたずねる。

ぼくもその答を聞きたくてたまらなかった。回答しだいで、ぼくの医者としての立場が見直されるか、権威失墜してしまうか、のどちらかのだ。ぼくが面目を失うだろうとマーティンは信じているようだった。ところが、氏の返事は──なんと、すばらしい回答だったことか!

「昇こうですよ」と、ドリュー氏が言った。

その瞬間、ぼくはマーティンの信頼を勝ち得たと確信した。ぼくがやつの歯を抜いてやろうかと提案したら、すぐに同意してくれるほどに。

ソロモン諸島の白人はみなイチゴ種にかかている。切り傷やすり傷が新しくできると、現実問題として、それがイチゴ種になった。ぼくが会った人は誰でもかかっていたし、十人中九人まで完治してはいなかった。だが、一人だけ例外がいた。ソロモン諸島に来て五カ月になるという若者だった。着いて十日後に発熱で倒れ、それ以来しょっちゅう熱を出していたが、イチゴ種にはまったくかかったことがないという。


写真を撮るチャーミアン

スナーク号では、チャーミアンをのぞく全員がイチゴ種にかかった。チャーミアンは、日本人やカンザス出身者と同じように、自分だけはかからないと信じこんでいた。自分は純血だから免疫があると説明し、日がたつにつれて、ますます純血を強調するようになった。ぼく個人としては、世界を周航しているスナーク号で男は重労働を強いられるが、彼女は女性だからそういう作業をする必要がないため、その結果として切り傷やすり傷ができることが少なく感染を免れているのだと思っている。むろん、彼女にそのことは告げなかった。そんな身もふたもないことを言ってプライドを傷つけるつもりはなかった。素人医者ではあっても、この病気については彼女より知っているし、時間がぼくの味方だ。だが、残念なことに、彼女のむこうずねにできた小さく魅力的なイチゴ種の処置では、ぼくは時間の使い方を間違ってしまった。すぐに消毒薬を塗ってやったので、イチゴ種とはっきりする前に治癒してしまったのだ。またしても、ぼくは自分の船で医者としての信用を得る機会を逸したことになる。もっと悪いことに、彼女に自分がついにイチゴ種にかかったと思わせてしまったのだったが、イチゴ種とはっきりする前に治ってしまったので、それ以来、彼女の自分の純血性についての確信はかつてないほど強まったので、ぼくは航海術の本に逃避し、この件についてはもう口を出さなかった。それはマライタ島の海岸に沿って航海していたときだった。

「君のかかとの裏側にあるのは何だい?」と、ぼくは聞いた。
「なんでもないわ」と、彼女は答えた。
「そうかい」と、ぼくは言った。「でも、やっぱり昇こうを塗っといたらどう。あと二、三週間もしたら死を招くような傷になるかもしれないぜ。純血とか先祖の歴史とか、そういうのはちょっとこっちに置いといて、ともかくイチゴ種についてどう思ってるんだい」

彼女のイチゴ種の大きさは一ドル硬貨くらいで、丸三週間かかって治癒した。チャーミアンはその傷のために歩けないときもあった。彼女の話を聞いていると、イチゴ種のうちで、かかとの裏側にできたのが一番痛いようだ。ぼくの場合、そこにできたことはないので、イチゴ種では足の甲のへこんだところが一番痛い場所だという結論に至ったのだが、それについてはマーティンに判断をまかせることにした。彼はぼくらの両方に反対で、本当に痛い場所はむこうずねだと言い張っていたからだ。競馬が人気なのも当然だ、と。

スモールボート・セイリング(4) 〜 スモールボート・セイリング(その4)

日本人たちは共用しているゴザの下に潜りこんで眠った。私もそれにならい、断続的にではあるが仮眠をとった。氷のような海水が打ちこんでくるし、ゴザの上には数センチの雪まで積もった。潮が満ちてきて風上側の岩礁が見え隠れするようになり、岩の上を波が洗っていた。漁師たちは海岸を心配そうに眺めている。私も同じだったが、船乗りとしての目で見れば、どんなに泳ぎが達者でも、波が打ち寄せている連なった岩のところまで泳いでいける望みはほとんどなかった。私は両方の海岸の先端を示し、どうだときいてみた。日本人たちは頭をふった。それではと、恐ろしい風下側にある海岸を指さすと、彼らはやはり頭をふって黙りこんでしまった。絶望的な状況に呆然となっているのだろうと思った。緩衝帯になってくれていた岩礁が満ち潮のために海面下に消え、錨で支えられているだけの船に波が打ちこんできたし、私たちはたえず波をかぶるようになった。それでも、くだんの漁師たちは波が打ち寄せている岸辺を凝視したまま黙っていた。

何度か完全に水浸しになろうとするところをきわどく逃れた漁師たちは、とうとう行動を起こした。全員がアンカーにとりつき引き上げたのだ。船首が風下に向いたので、小麦粉を入れておく大きな袋ほどの大きさの帆を揚げ、そのまままっすぐ陸へと向かった。私は靴のひもをほどき、厚いコートのボタンをはずして、船が岩にぶつかる前に脱げるよう準備した。しかし、船は岩にはぶつからなかった。そうして、そのまま先へと進んでいったのだ。景色は一変していた。眼前には狭い水路が口を開けていて、その入口に波が押し寄せている。ついさっきまで、いくら岸辺を眺めても、そんな水路などなかったはずなのだ。私は干満の差が三十フィート(約九メートル)もあるのを忘れていた。日本人たちが危険と隣り合わせの状態で辛抱強く待っていたのは、この満ち潮だったのだ。われわれの船は砕けている波に突っこんでいき、そのまま曲がって小さな保護された入江に飛びこんでいった。そこは強風の影響をほとんど受けていなかったし、前の満潮時の潮が寄せた跡が長く湾曲した線になって凍りついている海岸に上陸できた。これがサンパンに乗っていた八日間に遭遇した三度の嵐の一つだった。これは、船に乗っていて打ちのめされたということになるのだろうか。私は、船が辺境の岩礁に乗り上げ、乗員は自制心を失い、そのまま溺れ死ぬのではないかと恐れていたのだったが。

別の小さな船で航海した三日間には、大型船で丸一年外洋を航海したのに匹敵するほどの驚きと災難にたっぷり見舞われた。買ったばかりの小型の三十フィートの船で試験航海に出たときのことも思い出す。六日間で二度も激しい嵐に遭遇した。一度は通常の南西風で、もう一つは荒れ狂った南東風だった。こうした強風の合間に短い完全な凪があった。また、その六日間では三度も座礁した。サクラメント川の岸辺に舫いをとったところ、引き潮で急な斜面に乗り上げた格好になり、船がとんぼ返りでもするように斜面で横転しかけたのだ。カーキーネス海峡では潮が激しく流れているのに、風がまったくなかった。錨は潮流で磨かれた海底を滑るだけで、船は大きな埠頭に吸いこまれるし、あちこちぶつかりながら四分の一マイルほども押し流されてやっと広い海面に出た。それから二時間後、サン・パブロ湾では風が吹き上がり縮帆するはめになった。嵐で荒れた海で流された小舟を拾い上げるのは楽しいことではないが、私たちはそれも強いられた。というのは、曳航していた小舟を留めていたペインターが壊れて流されてしまい、浸水までしてしまったのだ。それを回収したころには疲れきって死にそうだった。スループタイプのヨットの内竜骨から備品に至るまであらゆる箇所を酷使した。その最後の締めくくりとして、母港へ向けてサン・アントニオの河口の一番狭いところを風上に向かって帆走していたとき、タグボートに引かれた大きな船と衝突しそうになり、かろうじてかわしたこともあった。私はずっと大きい船で大海原を一年かけて航海したこともあるのだが、そのときには、こんな肝を冷やすような出来事には遭遇したりはしなかった。
● 用語解説
サンパン: 主に(東/東南)アジアで使用される平底の小型木造船
ペインター: 舫い綱を通して固定する輪などの金具。舫い自体を指すこともある
タグボート: 曳船/押船。小回りのきかない大型船などの動きを助ける

スナーク号の航海 (90) - ジャック・ロンドン著

ある日、ボーイのナカタがアイロンをかけようとして誤って自分の足をアイロン台代わりに使ってしまい、ふくらはぎに長さ三インチ、幅が半インチのやけどを負ってしまった。ぼくが自分のひどい体験から昇こうを塗るよう勧めると、彼も苦笑いし、最高の微笑を浮かべて拒否した。ぼくの血筋では問題であっても、ポートアーサーの誇り高き日本人にしてみれば、こんな病原菌なんか屁でもないと、上品かつ穏やかにぼくに教えてくれたわけだ。


来訪者たち――ソロモン諸島イザベル島のメリンゲ礁湖

コックのワダはボートで上陸する際に、ボートから飛び降りて、押し寄せる波からボートを守ろうとして貝殻やサンゴで足を切ってしまった。ぼくは昇こうを塗るよう勧めた。が、またしても奥ゆかしい微笑でやんわり拒否された。自分の血筋はロシアを打ち負かし*1、いつの日にかアメリカをも打ち破ろうかというものであり、そんなちっぽけな傷すら治せないのであれば、メンツもまるつぶれで切腹も辞さない、といった誇りを抱いていると知らされた。

というわけで、しろうと医師としてのぼくは、自分の傷を治してみせたのにもかかわらず、自分の船においてすら、まるで信用がなかった。他の乗組員たちは、ケガの原因や昇こうを用いる治療に関しては、ぼくをある種の偏執狂者だとみなすようになっていた。自分の血筋が純血ではないからといって、ほかの誰もがそうだと考えるべき理由はない、というわけだ。それからは、ぼくも、こうした提案はしなくなった。ぼくの味方は時間と病原菌で、いずれそれがはっきりするときまで、ぼくにできるのは待つことだけだった。

数日後、「この傷にはなんか変なところがあると思うんだ」と、マーティンがおずおずと切り出した。ぼくは起き上がりもせず無視してやった。彼は「傷口を洗ってやれば、よくなると思うんだ」とも付け加えた。

さらに二日が過ぎた。が、傷はそのままだった。ぼくは、マーティンが自分の足全体にお湯をかけているのを見た。

「お湯なんかじゃねえよ」と、彼は憤然として言った。「医者のくれる薬より効くと思ったんだ。これで朝になれば、よくなってるさ」

だが、朝になっても、彼は顔をしかめていた。勝利のときが近づいているのをぼくは知った。

その日も遅くなって、「その薬をちょっとためしてみようかな」と彼が言ったのだ。「効くと思ってるわけじゃないんだが」と、彼はあいまいに語をにごした。「ともかく、ためしてみようと思うんだ」

その次には、誇り高き日本人の血を引く二人がひどい苦痛に耐えかねてやってきた。ぼくは悪の報いに徳をもって応じた。つまり、二人に同情しつつ、どういう治療をすべきかを事細かに説明してやったのだ。ナカタはだまって指示に従った。彼の傷は日ごとに小さくなった。ワダは関心が薄く、治りも遅かった。とはいえ、マーティンはまだ疑っていた。すぐに治療をしなかったために、医者の処方が正しいという思いこみをさらに強めることになってしまったが、同じ処方が誰にでも有効であるということにはならないのだ。彼自身については、昇こうは何の効果もなかった。おまけに、それが正しい治療であると、ぼくにわかるはずもないのだった。ぼくには経験がなかったし、自分に使ったときはたまたまうまくいったというだけで、それだけでは、どんなときも治癒するという証明にはならない。偶然もあるからだ。この傷を治する治療は疑いもなく存在したし、本物の医者にかかったときに、その処方が何なのか、それでどうなるかがわかるということなのだろう。

ぼくらがソロモン諸島に到着したのは、その頃だった。ぼくら病人に治療や療養について何かを示してくれる医者はいなかった。ぼくは人生で初めて、人間というものはどんなに虚弱でデリケートなのかを身をもって知った。スナーク号の最初の泊地はサンタアンナ島のポート・メアリーだった。一人の白人の貿易業者がやってきた。名前をトム・バトラーといい、どんなに丈夫な男でもソロモン諸島ではどうなってしまうかを見事に示していた。彼は自分の捕鯨船で横になったまま死にかけていたのだ。顔には笑顔一つなく、知性も感じられなくなっていた。骸骨のような憂鬱な顔をして、笑うことを忘れているようだった。ひどいイチゴ腫もわずらっていた。ぼくらは彼を引きずってスナーク号に乗せた。健康状態はよく、しばらくは発熱もないと、彼は言った。腕をのぞけば何も問題はなく体調は悪くなかった。問題はその腕で、どうやら麻痺しているようだった。
彼は苦笑いしながら、麻痺については否定した。以前にわずらったことがあるが、もう回復したというのだ。サンタアンナ島の原住民によくある病気だと言いながら、動かない腕をだらりと下げたまま、体を支えられ、船室に通じるコンパニオンウェイのステップをよろよろと降りていった。これまでにも少なからぬ数のハンセン病患者や象皮病患者をスナーク号に乗せたことがあったが、これまで遭遇したこともないほどぞっとする怖さを感じさせる客だった。


ソロモン諸島ウギ島のエテエテの村

*1: スナーク号の航海に出発する数年前に起きた日露戦争(1904年~1905年)で日本が勝利したことを指す。ジャック・ロンドン自身もこの戦争の取材で来日し、スパイ容疑で逮捕されたりもしている

スモールボート・セイリング(3) - ジャック・ロンドン著

重労働とアドレナリン? 風はきまぐれで、小さなスループで帆走しながら狭い跳ね橋を通り抜けようとしているときに限って、潮の流れが速いところでやんでしまう。頼みのセイルはと見ると、ふいに風がなくなってしまったので、パタパタしているだけだ。それから、いたずらな風が吹くのだが、九十度も方向が変わったところから突風がおそってきてジブに裏風が入る。船の向きが変わり、波に押され、開けた水路ではなく、頑丈な杭に向かって流されている。潮は音を立てて流れていて、船は橋脚の間に吸いこまれようとする。かわいい、ペンキを塗ったばかりの自分の船が杭に押しつけられ、ぶつかる音が聞こえる。丸みをおびた丈夫な船体を通して衝撃が感じられる。横棒が実際に食いこんでいるのが見える。帆が裂けるのが聞こえる。末端が黒い角材が帆を突き破るのが見える。衝突! トップマストのステイが吹っ飛び、トップマストが頭上で酔っ払いのように暴れる。引き裂き、かみ砕かれる。このままだと右舷側のシュラウドが切れてしまうだろう。ロープをつかめ。なんでもいい。そして、杭に巻きつけろ。とはいえ、ロープが短すぎる。しっかり固縛することができない。ロープから手を離すわけにもいかず、大声で仲間の一人を呼び、もっと長いロープを巻きつけてもらう。しっかり持ってろ! 顔が紫色になるまで、腕が引きちぎられそうになるまで、指から血が流れだすように思えるまで握ってろ。自分がそうやって支えている間に、パートナーがもっと長いロープを持ってきてしっかり結んでくれる。やれやれと背を伸ばして手を見る。傷だらけだ。握りしめていた指は曲がったまま伸ばせない。痛みはひどくなる。だが時間がない。いつも頑固で思いどおりに動いてくれない小船は杭についたフジツボに激しく押し当てられて、ガンネルがこそげ落とされそうになっている。帆を降ろさなければ! ジブを降ろせ! それから、ロープをかけ、引いて、たぐって、持ち上げて――そういうときに限ってやってくる橋の管理人と不愉快なやり取りを交わすはめになるのだ。そうやって一時間も格闘して苦境を脱したときには、背中は痛むし、シャツは汗でびしょぬれ、指は傷だらけ、というわけで、土手の間の狭いところを流れている穏やかで慈悲に満ちた潮流にわれわれが翻弄される様子を、膝まで水につかった牛たちが、びっくりしたように眺めていたりするのだ。なんとも刺激的ではないか! 大海原の穏やかな航海の日々でこれほど刺激的なことがあるだろうか?

私はどちらの経験もある。ニュージーランドの沖で十四日間嵐に苦労したこともおぼえている。われわれは六千トンの石炭を積んだ石炭船の作業員で、錆まみれになり疲れきっていた。ライフラインは前後に伸びきっていた。海の力に抵抗するため、風上側の煙突を支える張り綱と索具に太いロープの網をかけて食堂室の扉を守っていた。しかし、扉は打ち砕かれ、食堂室も同じように海水に押し流されたりした。しかし、そのさなかにも、一つの感覚、つまり退屈だなという感じがあったことは否定できない。

それとは対照的に、私の人生で最も鮮烈な八日間は、朝鮮半島の西岸で小型船に乗っていて体験したものだ。氷点下になる二月になぜ黄海くんだりまで航海したのかはともかく、肝心なのは、私はサンパンという無甲板の船に乗っていたということだ。岩礁の多い海岸で灯台なんかないし、干満の差は三十フィートから六十フィートもあった。一緒に乗っていたのは日本人の漁師たちだ。お互いに相手の言葉ははなせなかったが、その航海は退屈ではなかった。刺すように寒かったことが忘れられないのだが、雪が猛烈に吹き荒れたので、帆をたたんで錨を降ろした。北西の風が吹き荒れ、風下には陸が迫っていた。前後の脱出路は切り立った岩だらけの岬で、その足下では波が砕け散っていた。風上側の遠くないところに低い岩礁があって、吹雪の合間に見え隠れしている。荒れ狂う黄海から私たちを不十分ながらも守ってくれていたのがこれだった。

● 用語解説
シュラウド: 横静索。マストなどを支えるために舷側から伸びているロープ/ワイヤー
ガンネル: 船縁
干満の差: 朝鮮半島では仁川付近の干満の差は最大十メートル(約三十フィート)といわれている。日本国内では有明海で最大六メートル程度

スナーク号の航海(89) - ジャック・ロンドン著

イチゴ腫*1かどうかは、ぼくにはわからない。フィジーの医者はそうだと言ったし、ソロモン諸島の伝道者はそうじゃないと言った。いずれにしても、ぼくとしては、きわめて不快な症状だということは断言できる。タヒチでフランス人を乗せたのだが、それが船乗り一人だけだったのは幸運だった。というのは、海に出ると、彼がひどい皮膚病に悩まされているとわかったからだ。スナーク号はとても小さいので、彼が家族連れだったらとても乗せておく余裕はなかった。とはいえ、ともかくどこかに上陸するまで、彼を看病するのは必然的にぼくの責任になった。医学書を読みあさって処置したのだが、その後では、いつも徹底的に消毒液を使って洗ったものだ。ツルイラ島に到着すると、港の医者は彼に対して検疫を宣言し、上陸を拒否した。面倒を抱えこみたくないというのがみえみえだった。サモアの首都アピアで、やっとのことでニュージーランド行きの蒸気船に乗せてやった。アピアでは、ぼくは蚊にひどく食われ、そこをかきむしっていた――それまでも千回は食われていただろう。それで、サバイイ島に到着したときには、足の甲のへこんだところに小さな傷ができていた。すりむいたことと、熱い溶岩を超えたときにあびた酸煙のせいだろうと思った。軟膏を塗ると直るだろう――とも思っていた。だが、軟膏は効かなかったばかりか、赤くはれ上がって、新たに皮膚がはがれ、傷は大きくなった。こういうことが何度も繰り返された。新しい皮膚ができるたびに、炎症が起こり、傷は大きくなっていった。ぼくは当惑し、こわくもなった。これまでの人生で、ぼくの皮膚の再生能力は高かったのだが、ここではどうしても直らないのだ。それどころか、日ごとに皮膚が浸食され、毒素が皮膚の奥深く入りこみ、筋肉まで犯されるようになった。

その頃、スナーク号はフィジーに向けて航海していた。ぼくはあのフランス人の船乗りのことを思い出し、そのときはじめて本気でヤバイと思ったのだ。他にも四つの傷――というより潰瘍ができていて、痛くて夜も眠れなかった。ともかくスナーク号でフィジーまで行き、着いたらすぐにオーストラリア行きの蒸気船に乗って、そこで医者に診てもらうという計画を立てた。そうこうしている間も、ぼくはしろうと医者として最善をつくした。船に積みこんだすべての医学書を読みあさったが、自分の味わっている苦痛にぴったりの症状は一行どころか一語も見つけられなかった。この問題に関しては、ぼくは分別をわきまえていた。この潰瘍は悪性かつ非常に活発で、ぼくを食いつくそうとしている。有機的な腐食毒がうごめいているのだ。ぼくは自分で結論を二つだした。第一、この毒を破壊する化学物質を見つけること。第二、この潰瘍は外側から治癒できないので、内側から直さなければならない。この毒は昇こう(塩化第二水銀)で処置しようと決めた。病名そのものも気に入らなかった。毒をもって毒を制するしかあるまい! ぼくは腐食毒に犯されていた。だから、別の腐食毒で処置しようというわけだ。数日後、ぼくは昇こうを過酸化水素を、浸透させた包帯に代えた。驚くべきことに、フィジーに到着するまでに、五つの潰瘍のうち四つが治癒し、残った一つはエンドウ豆ほどの大きさもなくなっていた。

イチゴ腫の治療に関しては、ぼくはいまでは十分な資格があると感じている。この疾患については、それなりに配慮するようになった。だが、スナーク号の残りの連中はそうじゃなかった。彼らの場合、百聞は一見にしかず、は当てはまらないのだ。全員がぼくの苦境を見ていた。ぼくが虚弱体質で凡庸だからあんな病気にかかるのだ、自分は体力もあるし、あんな毒にやられるほどヤワじゃないと、連中は密かに思っているのだ。ニューヘブリディーズ諸島のポート・レゾリューションで、マーティンは裸足で藪を歩きまわって船に戻ってきたが、むこうずねには切り傷や擦り傷がたくさんできていた。

「もっと気をつけたほうがいいぞ」と、ぼくは彼に警告した。「昇こうを調合してやるから、傷口を洗っとけよ。後で痛むよりいいだろ」

だが、マーティンは小馬鹿にしたように笑っただけだった。何も言わなかったが、ぼくには、やつがオレは他の連中とは違うんだ、二日もあれば傷は治る、と思っているのがわかった。他の連中というのは、ほかでもないぼくのことだ。彼はまた、自分の体質と高い治癒能力についての記事も読んでくれた。聞き終えると、ぼくはひどく自分がみじめに感じられた。体質という点では、ぼくは明らかに他の連中とは違っていたからだ。


戦闘用のカヌー
脚注
*1: 熱帯の伝染性の皮膚病