ヨーロッパをカヌーで旅する 10: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第10回)


翌日、乗客の荷物だとはっきりわかるようにカヌーを台車に載せて鉄道の駅まで運び、理をつくしてカヌーが手荷物であることを証明しようとしたが、ポーターたちは頑強にそれを認めようとはしなかった。が、一瞬にして、彼らの態度が一変した。理由はわからないが、あわててぼくらのところにやってくると、放置されていた二隻の「ボート」をひっとらえて貨物車まで大急ぎで運び、中に押し込んで扉をバタンと閉めた。汽笛が鳴り、汽車が動き出した――「連中が突然なぜ折れたのかわかるかい?」と、一人のオランダ人がきいた。彼は英語が話せた。「いや、まったくわかりません」と、ぼくらは答えた。「君らが英国首相の息子とラッセル卿の息子だぞと言ってやったのさ、私がね」

だが、鉄道での相手の対応は、エクス・ラ・シャペル(ドイツ語ではアーヘン)でまた元に戻ってしまった。ぼくらはなんとか説得しようとしたが、今度はこっちが折れるしかなくて、カヌーは「交易品」扱いにされてしまった。夜中にゆっくり運ばれて、「たぶん明日」には到着するだろうというわけだ。責任者だという男は、ぼくらのカヌーを自分の戦利品として分捕ろうとしているのではないかとすら思えたが、そいつが偉そうに声を張り上げているとき、乗客の荷物担当の「上司」が出てきて話を聞いてくれた。そうして、穏やかな口調で、ぼくらのために特別に覆いをつけた貨車を用意するよう命じてくれた。ドイツのケルンに着くと、貨物用の料金は「まったく支払う必要がなかった」3。

原注
*3: これは例外的なケースだ。イギリスに戻ってから、ぼくはその人にお礼状を書いた。こういう手荷物としての優遇措置がまた受けられると期待するのはもう無理だろう。カヌーを貨車に載せる場合、何かと扱いにくく場所もとるので、特別扱いには反対するのが当然だと思われている。フランスでは、鉄道の貨物車は他国の貨車より長さが短いし、関係者たちはカヌーは交易品と同じ扱いになると主張した。ここで述べたのは、ベルギーとオランダで起きたケースだ。ドイツでは、カヌーを手荷物として運ぶことについて問題はほとんど生じなかった。スイスでは、誰も異議をとなえなかった。だって、こいつイギリスからの旅行者だぜ、というわけだ。イギリスの鉄道関係者はどうかといえば、カヌーのような長尺で軽量の物品を好意的に判断してくれる人も多少はいて、カヌーを客車の屋根に載せて運んだりもできる。偉い人たちは、交易品としてカヌーに関税をかけても税収が増えるわけじゃないと思っていて、カヌーイストはポーターが運搬するときには必ず自分も手伝うので、手荷物か否かでトラブルが起きることは少ないだろう。カヌーを使ったこういう旅が現実に可能だと広く理解されるようになれば、いずれ各国の鉄道すべてで何らかの明確な規則が定められることになるだろう。結局、カヌーの旅は貨車で運んだりするため遅いものにならざるをえず、普通の交通機関を利用して観光して歩いたほうがずっと簡単ではある。

静かなところがいいと思って、ケルンでは対岸のドイツ地区にあるベルヴューホテルに行った。ある大きな合唱団体がそこでコンクールをやっていて、すばらしい歌や踊りが演じられていた。翌日の日曜日、この静かなはずのドイツ地区で、射撃祭が行われた。見事な腕前で射撃王に選ばれた男は、その妻とともにオープンカーならぬ幌のない馬車に乗ってパレードをした。二人とも正装して真鍮製の王冠をつけ、歓声を上げる群衆に会釈を返した。闇夜に青い光がきらめき、ロケット花火が打ち上げられた。

ケルンでは、アバディーン伯爵が蒸気船の切符を買いに行っている間に、カヌーを台車に乗せた。彼が前で引っぱり、ぼくは後ろから押して運んだ。川までの道すがら、みすぼらしい身なりの男につきまとわれた。荷物の運搬人として雇ってくれというのだ。断ると、ひどく腹を立てた。大きな石ころを拾い上げ、荷車の後を威嚇しながら追ってきた。あの石をカヌーにぶつけられでもしたら壊れるなと気が気じゃなかった。両手をカヌーから離すわけにもいかないので、近づかないよう足で蹴って遠ざけながら、小走りで急いだ。衛兵の一人がその様子を目撃していた。すぐに警官がそいつを捕まえ、ぼくのところに連れてきた。すると、そいつは怒るどころかガタガタ震えていた。「この辺では旅行者が被害にあってるんですよ」と、警官は処罰したそうな口ぶりだったが、ぼくは彼を罰しないようにと言った。この出来事について書いたのは、今度の航海でこういう目にあったのは、このときのたった一度だけだということを知ってもらいたいからだ。

ぼくらはカヌーを蒸気船に積みこみ、ライン川の川幅が広くなっているビンゲンまで運んだ。ここの景色はすばらしくて、ぼくらは川を存分に楽しんだ。絶好の風を受けて帆走したり、中洲に上陸したり、蒸気船の引き波を利用して波に乗って加速したりと、ヨットの航海にピクニック、それにボートレースをあわせて一度に楽しんだというわけだ。

[ 戻る ]   [ 次へ ]

ヨーロッパをカヌーで旅する 9: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第9回)


ライン川では、若者も少年たちもとても泳ぎが上手で、その多くは飛びこみもうまかった。ところどころに似たような構造の女性用プールもあった。水遊びするときは口数も多くなるので、そういうところでは、うるさいくらい元気な歓声が聞こえてきたりする。

川の近くにある駐屯地の兵士たちも規則正しく行進して水浴びに来ていたが、ある日、ぼくらは大勢の若い新兵が水浴びするために集まっているのを見た。

水につかっている者もいれば、射撃訓練で的を狙っている者もいた。的は三個あって、それぞれ厚紙でできていた。垂直に立てた板に取り付けてある。記録係は防弾用の盾で安全に保護されてはいたが、三つの的すべてがよく見えるように、的から非常に近いところに配置されていた。射撃する側は一人ずつ、それぞれの的に対峙して銃を撃つ。弾丸は厚紙を貫通して丸い穴を残し、弾丸自体は背後の地面にめりこんだ。掘り出してまた使うことができるわけだ。イギリスでは鉄製の的を使うので、弾丸は破裂して四方に散らばってしまい、記録係や周囲の人間にとっては危険きわまりない。

そんな感じで三人が射撃すると、太鼓と旗とラッパの合図で射撃がやむ。と、記録係が防弾用の盾から出てきて、それぞれの的にできた弾丸の痕を示し、紙を貼って穴をふさいだ。記録係が防弾盾の背後に戻ると、射撃が再開される。この安全な射撃訓練のやり方は、イギリスで最近まで軍隊の訓練で用いられていた方法に比べると、ずっとよかった。このフランス流の方法は、射撃の腕前がはっきり示されるという点でも非常に効果的だ。

川で、ある湾曲部を曲がると、牛の大軍が群れをなして川を渡ろうとしているところだった。ぼくはカヌーに乗ったまま、そのど真ん中に入り込んでしまい、牛が闖入者(ちんにゅうしゃ)にどのように反応をするのかを身をもって知るはめになった。ナイル川でカヌーを漕いだときに、朝や晩に黒い牡牛が川を泳いで渡るのを目撃したことがあるのだが、それは川から這(は)い出てくる「牝牛」についてエジプトの王が見た夢の一つを思い出させるものだった*1。創世記に出てくるこの逸話には子供心にも当惑したが、実際に川を渡る牛に遭遇してみると、そうおかしな話でもない。聖書は、牛が川を泳ぐということを明確に示した本でもある。真実は目ではっきり見たときに、より本当らしく思えてくるものなのだ。

夕方になって長い影ができるようになったころ、ぼくらはオランダのマーストリヒトの町の近くまでやって来た。ここには、ヨーロッパでも最も強固な要塞が築かれている。つまり、町は一世紀も前のアームストロング砲やホイットワース小銃に抗するため、まっすぐな高い壁に囲まれていた。

川は深くて流れは速かったが、暗くなってから近づいたのに、どこにも街の灯が見えなかった。林を抜けて、町の真ん中あたりまで来たはずだったが、家々の灯がどこにも見えないのだ。この町の家には窓がなく、明かりもつけず、ロウソクをともすことすらないのだろうか? そう、一つの明かりも見えないのだった!

川の両岸には巨大な高い壁が続いていた。右岸を調べたが門や港のようなものを見つけることはできず、この奇妙な場所の左岸沿いは崩れていた。

後でわかったのだが、交易や往来する船はすべて、そこからぐるっと回って、この古くて荒廃した要塞の上へと続く運河に向かうことになっていた。そのため、両岸の無愛想なレンガ造りの壁がぼくらを取り囲み、脇道にそれないようにしているわけだった。そのまま進んでいくと、闇の中で、頭上に橋がぼんやり見えてきた。そこに到着すると、橋の上にいたオランダの悪ガキどもが小石を雨あられと降らせて、ぼくらを歓迎してくれた。ヒマラヤスギの傷がつきやすいデッキの上で、小石は情け容赦なくぱらぱらと音を立てた。

ようやく壁をよじ登れそうな場所を見つけた。がれきが積み重なり、ちょっとした坂のようになっていて、そこには何もないのだが、そこからカヌーをなんとか堅固な要塞の上まで引き上げることができそうだった。そうやって、この眠ったような町にカヌーを運び入れた。門番がぼくら二人の顔をランプの光で照らし、いぶかしむように凝視したのも無理はない。灰色の服を着た二人のやせた男が運んでいるものは、二つの長い棺桶のように見えただろうから。門番氏は驚いていたが、話のわかる人で、ぼくらをホテルまで、暗くて人気のない通りを歩いて案内してくれた。

脚注
*1:  川から這(は)い出てくる牛 - エジプトの王(ファラオ)が繰り返し見たという、最初は丸々と太った牝牛七頭が、それからやせこけた牝牛七頭が川から出てきた夢のこと。
旧約聖書の創世記によれば、ユダヤ人の祖であるヤコブの子のヨセフが、その夢は「七年の豊作と七年の凶作が続く」ことを示す神のお告げだと預言したことから、ヨセフは王に重用され、イスラエル人をその後の飢饉から救うことになったとされる。

[ 戻る ]   [ 次へ ]

ヨーロッパをカヌーで旅する 8: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第8回)


リエージュでやっとアバディーン伯爵と合流した。計画では、これよりずっと前に一緒になるはずだった。彼も今回の航海用にカヌーを新造していた。ぼくのロブ・ロイ・カヌーより一フィート長く、幅は二インチ細かった。一番の違いは、船体に頑丈なオーク材ではなくモミの木を使ってあることだ。そのカヌーはロンドンからリエージュまで送られてきていたが、輸送中にデッキを縁どりしているコーミングが破損していた。それで、家具職人のところに持ち込み、数時間かけて修理してもらった。

ぼくらはカヌーを川に浮かべた。見送る人はなく、真夏の太陽が照りつけるなかで、リエージュを後にした。

これで、今回の旅も気の合う二人連れとなった。それぞれが自分のカヌーに乗り、とても楽しかった。ときどき帆を揚げてセーリングを楽しんだり、一、二マイルをパドルで漕いだり、互いに助けあって堰(せき)をこえたり、川沿いの土手からカヌーを引いて歩いたりした。*2

原注2:この後も何度かやってみたのだが、ずっと座りっぱなしでいるのが苦痛になってきたときには、カヌーを引いて歩くのもありだと思う。連続して十時間とか十二時間とか、ずっと座りっぱなしだったりすると、カヌーを降りて歩きながら引いていくのもそう悪くない。とはいえ、カヌーの旅になれてくると、ゆったりとくつろいだ状態で長時間をカヌーの床板に座っていても平気になってくる(マットやクッションは不要だ)。それに、条件のよい川では、カヌーを降りて気分転換する必要もない。ぼくのカヌーは非常に軽量だったので、運河では小指一本で引いていくこともできたが、引いて歩くよりは、漕ぎ疲れて腕が痛いときでも川を漕いで下った方が早いのは間違いない。

川では、互いに自分が面白いと思う流れのところを進むようにした。川幅が広いと、かなり離れたところから会話をかわしたりするので、その声に土手にいる地元の人々が驚いたりした。というのも、会話している片方の姿は見えるのに、その相手はとなると、川岸の草や丈の高いスゲに隠れて見えないので、なにやら独り言を大声で叫んでいる変なやつ、となる。こういう風に大きな声で話をしていると、大声で歌をうたっているような感じがしてくる。合唱しているようなものだが、単にハモるよりずっとエネルギーに満ちていて、自由にやっていいというと、ぼくらのような根っからのイギリス人はすぐに一つになって常軌を逸した躁状態になる。

八月の真昼の日射しはすさまじく、そうした元気もしまいにはなくなってきた。それで、とある村で食事をしようと上陸した。

食事をすませてカヌーに戻ったとき、川で鋭い叫び声が聞こえたので、そっちを振り返った。叫び声の主は小さな男の子で、どうやら川に落ちたらしい。流れのなかで必死に大きな荷船にしがみつこうとしている。当然のことながら、ぼくは救助に向かった。カヌーで一直線にすっとんでいき、ずぶ濡れの不運な子供をカヌーの細い船尾につかまらせた。その子は叫んだりもがいたりしていたが、ともかく無事に荷船に引き上げられたのだった。

ベルギーやドイツ、フランスの川では、そのほとんどに、川に浮かべた立派な水浴び場がある。これはとても便利な設備で、イギリス人も外国で水浴びする人はとても多いのに、悲しいかな、イギリス本国にはまだない。

この水浴び場は川岸に係留されている。百フィート(約三十メートル)ほどの木の枠組みに、柱やチェーンや金属網を組み合わせた生け簀(いけす)のような構造で、人為的に作った川底には浅いところから深いところへと傾斜がつけてあり、水浴び中に川下に流されてしまうこともない。こうした簡易プールの周囲には浴槽のようなボックスや階段、ハシゴがあり、技量に応じた飛びこみ板もある。現在では、ロンドンにも一カ所できている。

[ 戻る ]   [ 次へ ]

ヨーロッパをカヌーで旅する 7: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第7回)


美しくて幅も広い川で、流れも早く水深もあり、しかも追い風が吹いているという状況では、帆走も楽ちんだ。通りすがりの小型の蒸気船に近づくと、舷窓ごしに小銭をくれたり、コップについだビールを差し入れてくれたりした。乗客たちはぼくらに驚き、笑ったり、あれこれ言いあったりしていたが、なかには、この、どうみても惨めな英国人を見て「笑ったりするのは不作法では?」と懸命にしかめっ面をしている人もいた。

今度の航海では、こうしたかぞえきれないほどの、ちょっとした出来事が次々に起きた。そういうことはすべて、岸辺での出会いとはまるで違っている。ウイという地名の砦まで来たところで一日目の予定が終了したのだが、絵に描いたような、まったく新しい体験はこうしてはじまったのだった。

カヌーは夜間には馬車置き場に保管してもらった。翌朝見るとカヌーに問題はなく、馬具をかける釘に引っかけて干していた帆はまだ半乾きだった。が、厩務員やその仲間の連中がどこにもいなかった。皆、ある偉大な音楽家の長い葬列に参加していたのだ。その音楽家の名前も、ウイという地名についても、それまで聞いたことがなかったのだが、死んだ音楽家はウイに住んでいて、五十歳だったという。ウイについては、巻末の地図に掲載してある。

はじめての川をのんびり下っていく楽しみというのは、なんとも独特で魅力的なものだ。少し進むごとに新奇なものが見えてくるか、わくわくするようなことが始まるのだ。こっちでツルが舞い上がったかと思うと、向こうではアヒルが羽をばたばたさせていたりする。カヌーの脇でマスが跳ねて水しぶきをあげたりするし、川の湾曲部を曲がるときには、岩場を流れ落ちる水音が用心するよう警告してくれる。いきなり水車用の水路が出現することもある。こうしたことすべてが――風景や川沿いに住む人々や天候に加えて、難所に出くわしても何とか先へ進もうと決意したり、カヌーを無人の原野に放置できないので、なんとか暗くなる前に人家のあるところまでたどり着こうと思ったり、昼食を入れるはずのバッグはずっと空っぽだったりという――こうしたことすべてが、馬車にゆられて百マイルの旅をしているときには居眠りしていびきをかいていたはずの旅人の心に緊張感をみなぎらせてくれるのだ。

人生という旅と同じように、悩みや困難も、それ自体がそれぞれ人生について教えてくれる。人生がすべて、一直線の運河で曳航される船に乗っているようなものだったら、どうしたって緊張感も失われるし、ボーッとしたまますごしてしまうだろう。カヌーの旅では、浅瀬や岩場や渦が魂をゆさぶるような試練となって襲いかかるので、波を受けて激しく上下動したりすることのない大型帆船の旅では、小さなカヌーでなんとか無事に港までたどり着けたときの、あの、ほっとした気持ちを半分も味わえないだろう。

川の流れはすぐに早くなり、生命があるようにリズミカルになった。必死で漕いだので、お腹もすいた。いきなり木々が前方に出現し、どんどん高くなってくる。が、実際には、ぼくの方から林に向かって突っ走っているのだ。川岸では、感じのよい村々が、ぼくに会いに来るように、ゆっくり動いている。夢のなかの絵のように、すべての生命が一つになって穏やかに滑っていく。はるか遠くで何か音がしているが、気になるほどではなく、ごみごみもしていない。突然に何かが起きたり、けたたましい物音が聞こえたりすることもない。自分が動いているのではなく、つねに他の物が動いているようだった。州都のリエージュに近づくにつれて、さすがに街の喧騒が聞こえてきた。そこでは高速船スラン号を見た。両舷で水をかいて推進していた。その蒸気船の引き波で、カヌーは激しくゆれた。その波は船着き場の中まで追いかけてきた。着くとすぐにカヌーを陸揚げし、庭のようなところに置いた。夜間はそこに保管するのだ。

リエージュは、いたるところ銃だらけだった。この地では、だれもかれもが銃を作ったり携帯したり発砲したりしていた。背中にライフルを背負った女性さえいたが、ライフル一丁の重さは十ポンドもある。市場にはたくさんの果物が並んでいたし、訪ねてみる価値が十分にある教会も存在しているものの、この地のイメージは結局は銃だった。

だが、旅で目撃した町々の様子をこと細かに表現することがぼくの目的ではない。リエージュについては何年も前に訪ねたことがあるし、実際にこの航海記で取り上げる町のほとんどは、はじめての場所ではない。だから、今度の航海の魅力がどこにあるかといえば、知らない土地に行くことではなく、すでに知っている土地を新しい視点で眺めてみるというところにあるのだ。

[ 戻る ]   [ 次へ ]

ヨーロッパをカヌーで旅する 6: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第6回)


シーアネスからドーバーまで鉄道でカヌーを運ぶことにした。機関車の燃料となる石炭を積んだ貨車の上に積むしかなかったが、土砂降りの雨が降りだし、風も強くなったので、蒸気機関から出る火花が大量にカヌーにも吹き込んでしまう。それで、カヌーは大型のスーツケースみたいなものだからと頼み込んで、なんとか貨物車に積むことができた。今度の長旅は、こんな風にして始まった。

ロンドン・チャタム・ドーバー鉄道会社は、この新種の「箱」を乗客の手荷物として取り扱ってくれたので、追加料金を支払う必要はなかった。ベルギーのオステンドまでの船旅でも、汽船会社は同じように寛大に取り扱ってくれた。というわけで、イギリスのカヌーイストが大陸に渡る際には「このコースがお勧め」だ。

ベルギーに渡航する前、ドーバーに一日滞在した。必要な物資を買い入れ、カヌーで使うジブ(前帆)を腕の良い職人に仕上げてもらった。ドーバーでは、カヌーを緑色の海に浮かべ、埠頭の先端付近の、波が打ち寄せているあたりで試走を兼ねてカヌーを漕いでもみた。ベルギーのオステンドでも、押し寄せてくるうねりに乗ってみたり、巻き波や堤防の砕け波の近くで漕いでみたりもした。オステンドでは、風はドーバーほどではなかったが、引き潮が強くて波も高かった。浅いところでは、太った海水浴客たちがパチャパチャやっていた。アヒルのようにすいすい泳いでいる人もいた。妙な服を着せられ、波で体が上下するたびに泣き叫んでいる子供たちもいて、大人たちは大喜びしていた。そうした光景を横目で見ながら、幅が広くて直線上の運河で帆を揚げて静かに進んでみたりした。

そこからまた汽車に乗ったのだが、鉄道会社にかけあって事情を説明すると、カヌーを貨物車で運ぶことに同意してくれた。ブリュッセルまでの「超過貨物」分の料金として一フランか二フラン払った。ブリュッセルでは、カヌーを荷車に載せ替え、街なかを突っ切って別の駅まで運んだ。夕方にはナミュールに着いた。ここでは夜の保管場所として宿の主人が空き部屋を提供してくれたので、椅子を二つ並べてカヌーを載せておいた。

翌朝、ポーター二人に担いでもらって市街地を抜け、サンブル川でカヌーを漕いだが、漕ぎ下るというほどのこともなく、すぐにムーズ川*1に合流した。

きらめく川面に光輝く太陽、小さく可憐なカヌー、うきうきする心、積みこみ終わった荷物たち、速い川の流れ──こういうものを、だれが徒歩や鉄道や汽船や馬の旅と交換しようと思うだろうか?

こういう航海の最初の段階では、快適な流れがあれば、それで十分に満足できる。岩や急流の魅力についてはまだよくわかっていないからだ。川旅では、川にいるというだけで目新しいことの連続なのだから、初めのうちはこのムーズ川のように静かで、のんびりできる、ちゃんとした川を選ぶべきだ。川岸は水辺から見るとおとなしい感じだが、流れの中央に出てみると新鮮な景色がひろがっている。普通の旅行では車窓に見えている風景が、川の上では自分を中心に一気に拡大し、前方から押し寄せてくるのだ。川に浮かんで穏やかに揺れていると、景色はこっちでは大きくなり、あっちではまた新しくなって、次から次へと自分に向かって迫ってくる。

最初の浅瀬では、ぼくは慎重の上にも慎重を期した。カヌーから降り、手にかかえて渡ったのだ。それからひと月もすると、こういう浅瀬があっても平気で突っこんで舟底を小石でがりがりこすりながら突っ切ったりするようになってしまった。とはいえ、この最初の障害物に遭遇したときは心細くて、どうやって乗りこえようかと思案したものだ。そのとき、うまい具合に男が一人やってきて(ま、たいていはそうなるんだが)、二ペンス払うというと、喜んでカヌーを抱えて陸上を迂回するのを手伝ってくれた。それで、またカヌーに飛び乗ったわけだ。

脚注
*1 ムーズ川 - フランス北東部からベルギー、オランダを経て北海へとそそぐ全長950キロメートルの川(オランダではムース川ともいう)。

[ 戻る ]    [ 次へ ]