スナーク号の航海 (84) - ジャック・ロンドン著

第十六章

ピジン語*1

白人の交易商人の数が多いこととエリアが広いこと、原住民の言語や方言が二十以上もあるということになれば、交易商人たちは、まったく新しい、科学的とはいえないものの、完全に実用に適した言葉を作り出す。そうやって実際に作り出された言葉の例が、ブリティッシュ・コロンビアやアラスカ、北米のノースウェスト地域で使われているチヌーク語だ。アフリカのクルメン族の言葉や極東のピジン英語、南太平洋西部のピジン語もそれに該当する。このピジン語というやつ、広い意味でピジン英語と呼ばれることが多いが、いわゆるピジン英語とははっきり違っている。どれくらい違っているかについては、中国語で伝統的な数に関係してピーシーを使うことがないという事実を指摘すれば十分だろう。

たとえば船長が現地人のボスを船室に呼ぶ必要があり、そのボスが甲板にいるとする。船長は中国人の接客係には、こう指示する。「ヘイ、ボーイ、ユー、ゴウトゥ、トップサイド、キャッチー、ワン・ピーシー・キング(おい、君、上まで行って大将をつかまえてきてくれ)」 接客係がニューヘブリディーズ諸島かソロモン諸島出身だったら、その指示はこうなる。「ヘイ、ユーフェラ、ボーイ、ゴウ、ルックン、アイ、ビロンギューアロングデッキ、ブリングン、ミーフェラ、ワン、ビッグフェラ、マースター、ビロング、ブラックマン(おい、そこの君、甲板まで探しに行って、この私のところに黒人の大将を連れてきてくれ)」

初期の開拓者たちの後にメラネシアを航海した最初の白人たち、ナマコ漁の漁師や白檀の売買商人、真珠取り、労働者を集めてまわる者たちがピジン語を発明したのだ。たとえば、ソロモン諸島では、二十もの言語や方言が話されている。交易商人たちがそうした方言を覚えようとしても無理である。というのも、行く先々で言葉が違うし、それが二十もあるのだ。共通の言語が必要だ――子供でもおぼえられる、単純で、実際に使う現地の連中のオツムの程度に合わせて語彙も制限された言語が。交易商人たちは理詰めでそういうものを案出したのではない。ピジン語は条件と状況の産物である。機能が組織に先行している。ピジン語が誕生する前から、まず統一されたメラネシアの言語の必要性があったのだ。ピジン語はまったく偶然の産物だった。しかも、言語は必要性から生まれるという事実に裏づけされたピジン語の由来は、エスペラント*2の信奉者にとっても大いに参考になるだろう。

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マライタ島の男

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マライタ島の美女

語彙が限定されるため、一つ一つの言葉には多くの意味が割り当てられることになる。ピジン語でフェラ(やつ)は、一人を指す場合もあるし、可能なあらゆる結びつきで使用されることもある。よく使われるもう一つの言葉は「ビロング(属する)」である。単独では使わない。すべて関係性において使用される。ほしいものは、別のものとの関係で示される。未発達の語彙では表現も素朴になる。雨が降り続くことは、レイン、ヒー、ストップ(雨、やめ)と表現される。サン、ヒー、カムアップ(日が昇る)は誤解の余地がないが、語句の構造自体は変えず、一万通りもの異なる意味を伝えられる。たとえば現地の人が君に、海に魚がいるのを知らせようとする場合、「フィッシュ、ヒー、ストップ(魚、いる)」と言うのだ。イザベル島での取引の最中に、ぼくはこの用法の利便性を悟った。ぼくはペアの大きな(三フィートもある)クラムシェルを二つ三つほしかったのだが、内部の肉は別にいらなかった。もっと小さいクラムの肉でクラムチャウダーを作りたかった。それで、ぼくの原住民への頼は最終的にはこうなった。「ユーフェラ、クラム――カイカイ、ヒー、ノーストップ、ヒーウォークアバウト。ユーフェラ、ブリング、ミーフェラ、スモールフェラ、クラム――カイカイ、ヒー、ストップ(君、クラム――食べ物、いらない、肉はよそに行く。君、持ってくる、ぼくに、小さいクラム――食べるやつ、いる)」

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ベラ・ラベラの男

カイカイとは、食い物、肉、食事を指すポリネシア語だ。だが、この言葉は白檀の交易商人によってメラネシアに持ちこまれたのか、ポリネシア人が西に流されて伝わったのかは、よくわからない。ウォークアバウト(歩きまわる)という表現は、ちょっと変わった使い方をされる。ソロモン諸島の船乗りにブームを扱うよう命じると、彼は「ザッツフェラ、ブーム、ヒー、ウォークアバウト、ツーマッチ(あいつ、ブーム、うごきまわる、ひどく)」と言うのだ。そしてその船乗りが海岸での自由を求めた場合、ウォークアバウトするのは自分だと述べるのだ。その船乗りが船酔いすると、彼は自分の状態について「ベリー、ビロング、ミー、ウォークアバウト、ツーマッチ(胃、オレの、むかむか、とても)」と説明するだろう。

訳注
*1: ピジン語(Bêche de Mer English)。Bêche de Merはフランス語でナマコを指す。ソロモン諸島付近はナマコの産地でもあるので、そう呼ばれる。
英語は世界のいたるところで話されているが、現地の言葉と組み合わされ、独特の方言として定着したものも多い。東南アジアから南太平洋にかけてのそれは特にピジン英語と呼ばれる。これは一説には中国語の business がなまってピジンと聞こえるためともされる。
たとえば、日本のテレビドラマで日本語のできる中国人という設定の登場人物が、語尾に「~あるね」という独特の表現を使ったりするが、こういう日本語はいわば「ピジン日本語」になる。その英語版がピジン英語だ。

*2: エスペラント。ポーランドの眼科医で言語学者のL.L.ザメンホフが世界共通の言語をめざして作った人工の言葉。文法は単純明快で、スナーク号の航海の二十年ほど前に発表されたばかりだった。二十一世紀の現代から見ると、なぜ当初予想されたように普及しなかったのかのヒントがここにあるかもしれない。つまり頭脳明晰な人が考え出した論理的で合理的な言語が必ずしも人間にとって現実に必要な言葉になるとは限らない、ということだ。

スナーク号の航海(83) - ジャック・ロンドン著

その夜、コールフェイルド氏は警告を発した。ぼくらが募集した労働者の一人に、貝の貨幣を五十ファザムとブタ四十匹の賞金がかかっているというのだ。船の略奪に失敗した森の民は、その男の首を狙うことにしたらしい。殺し合いが始まってしまうと、いつ終わるのかはわからない。それで、ヤンセン船長は武装したボートで浜辺まで行った。ウギというボートの乗組員の一人が立ち上がり、船長に代わって話をし、夜間にカヌーを見つけたら鉛弾を撃ちこんで沈めてしまうぞと警告した。ウギは宣戦布告したわけだ。そうして、次のように締めくくった。「おまえらがオレの船長を殺したら、オレは船長の血を飲んで一緒に死んでやる!」

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市場へ向かう海の民の女たち――マライタ島マル

森の民は腹いせに無人の宣教師館を燃やして森に引き上げていった。翌日、ユージニー号がやってきて投錨した。ミノタ号は三日と二晩の間、座礁していた。それからやっと離礁し、穏やかな海面に錨を降ろした。ぼくらは全員がそこでミノタ号に別れを告げてユージニー号に乗り移り、フロリダ島に向けて出発した*1。

原注1
スナーク号のぼくらだけに異常に病人が多かったわけではないと指摘しておくため、ここでユージニー号の航海日誌から、ソロモン諸島の航海の例とみなせるものを引用しておこう。

ウラバ、木曜、一九〇八年三月十二日
朝、ボートで上陸。2つの荷を入手。ゾウゲヤシの実とコプラ四千個。船長は熱病で寝こんでいる。

ウラバ、金曜、一九〇八年三月十三日
森の民から堅果1トン半を購入。航海士と船長が熱病で寝ている。

ウラバ、土曜、一九〇八年三月十四日
正午、揚錨し、東南東の微風でンゴランゴラへ向かう。水深八尋(ひろ)で錨泊――海底は貝とサンゴまじり。航海士、熱病で寝たまま。

ンゴランゴラ、日曜、一九〇八年三月十五日
夜明けに、ボーイのバグアが赤痢で死んでいると判明。罹患して約十四日目。日没時に、南西から激しいスコール。(二つ目の錨を用意した)。スコールは一時間三十分続いた。

海上、月曜、一九〇八年三月十六日
午前四時にシキアナに向けて針路を設定。風が落ちた。夜間、激しいスコール。船長ともう一人が赤痢に罹患。

海上、火曜、一九〇八年三月十七日
船長と二名の乗組員が赤痢で寝こむ。航海士は熱病。

海上、水曜、一九〇八年三月十八日
波が高い。風下側の舷はずっと海水に洗われている。縮帆したメインセールに、ステイスルとインナージブで帆走。船長ほか三名が赤痢。航海士は熱病。

海上、木曜、一九〇八年三月十四日
視界が悪く何も見えない。常に強風が吹いている。ポンプが詰まったのでバケツで排水。船長と五名のボーイが赤痢で寝こむ。

海上、金曜、一九〇八年三月二十日
夜にハリケーンなみのスコール。船長と六名が赤痢。

海上、土曜、一九〇八年三月二十一日
シキアナから戻る。終日、スコール。豪雨と高波。船長と元気だった乗組員が赤痢。航海士は熱病。

といった具合で、ユージニー号の航海日誌では来る日も来る日も、こんな調子で、船上のほとんどの者が病に倒れている。唯一の変化は三月三十一日で、この日には航海士が赤痢に倒れ、船長が熱病で寝こんだ。

スナーク号の航海 (82) - ジャック・ロンドン著

ミノタ号は手を抜かずに建造されていた。こういうことは、船が岩礁に乗り上げたようなときにものを言う。船が何に耐えたかについては、座礁して最初の二十四時間に二本の錨鎖がちぎれ、八本の太いロープが切れたという事実でもわかるだろう。乗組員たちは海に飛びこんでは錨を探して新しいロープを結びつける作業に忙殺された。ロープで補強した鎖が切れたりもした。それでも、まだ耐えていた。キールや船底を守るため、海岸から三本の大木を運んで船の下に押しこんだが、太い幹もずたずたになって裂けてしまい、それを固縛していたロープもぼろぼろになった。船は何度もドシンドシンとぶつけられたが、持ちこたえた。だが、ぼくらはアイバンホー号より幸運だった。アイバンホー号は大型のスクーナーで労働者の募集に使われていたのだが、数カ月前にマライタ島の海岸に乗り上げてしまい、たちまち原住民による略奪にあったのだ。船長と乗組員はボートで脱出に成功したものの、陸の民と海の民が持ち運べるものをすべて運び出してしまった。

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ケウムの人々――ソロモン諸島
土砂降りの雨が続き、眼もあけていられないほどの強風がミノタ号をおそっている。海は大荒れになってきた。五マイルほど風上にユージニー号が錨泊していた。が、途中に岬があって視界をさえぎっているため、ミノタ号のトラブルに気づくはずもなかった。ヤンセン船長の提案で、ぼくはケラー船長宛に、余分に錨があれば持ってきてもらえないかという手紙を書いた。しかし、その手紙を運んでやろうというカヌーは一隻もなかった。半ケースのタバコをやると言ったのだが、連中はニヤッと笑うだけで、またすぐ離れてしまうのだ。半ケースのタバコといえば三ポンドの価値がある。風や波は高かったが、その手紙を運ぶほんの二時間ほどの手間をかけるだけで、農園で半年汗水流してやっと手にする賃金に相当する価値のあるものを受けとれるのに。ぼくはコールフェイルド氏がボートで錨を運んでいるところまで、なんとかカヌーを漕いでいった。彼ならぼくらより原住民に対する影響力があるだろうと思ったのだ。氏は周囲のカヌーを自分のところに呼び集めた。二十人ぐらいが近づいてきて、半ケース分のタバコをやるという話に耳を傾けた。皆、無言だった。

「君たちが何を考えているのか、私にはわかる」と、伝道師は語りかけた。「座礁したあの船にはたくさんのタバコが積んであるはずだから、それをごっそりいただこうと思ってるんだろう。だがね、船にはライフルもたくさんあるんだよ。タバコどころか銃弾をくらうことになるぞ」

やっとのことで、小さなカヌーに乗った男がその手紙を運んでくれることになり、一人で出発した。救助を待つ間も、ミノタ号では作業が続けられた。水タンクを空にし、円材や帆、バラストを陸に運ぶ。ミノタ号が揺れるたびに船上には活気が戻った。交易品を詰めた箱やブーム、八十ポンドもある鉄のバラストが一方の舷からもう一方の舷まで飛び交うたびに、二十人もの男たちが押しつぶされないよう逃げまわるのだ。かわいそうに、この船はおだやかな港内での帆走用に建造された華奢なヨットだったのに! 甲板も動索もぼろぼろになっていた。甲板の下では、何もかもがひっくり返っていた。船室の床にはバラストを取り出すための穴が開けられていたし、錆の浮いたビルジが船底でびちゃびちゃはねていた。ライムを入れた樽が、調理中のシチューからこぼれた団子のように、小麦粉をぶちまけた海水にプカプカ浮かんでいた。奥の船室では、ナカタがライフルと弾薬を守っていた。

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市場に出かけてゆく森の民の女たち――マライタ島マル

手紙を持って出発してから三時間がたった。激しい風雨をついて、一隻のボートが巨大な帆を揚げてやってきた。ケラー船長だった。雨と波しぶきでずぶ濡れになっていたが、ベルトには拳銃を差し、ボートの乗組員は完全武装していた。ボート中央には錨とロープが山のように積みこまれていた。突風も顔負けの迅速さだった――白人が白人の救助に来てくれたのだ。

ハゲタカのようにじっと待っていたカヌーの列が乱れ、来たときと同じようにあっという間に消えてしまった。結局、一人の死者も出なかった。これでボートは三隻になったので、二隻がミノタ号と海岸との間を往復し、もう一隻が錨を担当した。切れたロープを補修し、失った錨を回収した。その日の午後遅く、話し合いをし、船の乗組員の数と採用した地元の労働者が十人になったことを考慮して、ぼくらは乗組員の武装を解いた。それで、両手を自由に使って船の作業に専念できるようになった。ライフルはコールフェイルド氏の手伝い五人に預けた。壊れた船室では、伝道師と彼が改宗させた地元の少年たちがミノタ号を救ってくれるよう神に祈っていた。印象的な光景だった。一点の曇りもなく信じて祈っている丸腰の男の背後で、元は野蛮だった連中がライフルを持ち、アーメンと唱えているのだ。船室の壁が揺れた。船が持ち上がり、波が寄せるたびにサンゴにぶつかった。甲板からは吐いたり疲労困憊した声や、目的も腕力もある連中が別の流儀で祈ったりする大きな声が聞こえてきたりした。

スナーク号の航海(81) - ジャック・ロンドン著

もう一つの人工島のスアヴァで、チャーミアンは二度目の災難にあった。スアヴァで一番の大物だという男(つまり、スアヴァで最高の偉い人)が船に乗ってきたのだ。だが、そいつは最初、ヤンセン船長に自分の高貴な身を包みかくす布が必要だと使者を送ってきた。その間、船に横づけしたカヌーから出ようとはしなかった。この高貴な人の胸には垢が半インチほどの厚さでこびりついていた。その下の層の汚れは十年から二十年は経っていそうだった。貴人はまた使者を船によこした。使者はスアヴァの大君の意向として、ヤンセン船長やぼくに握手する栄誉を与え、ステッキや取引用のたばこをもらってやってもよいが、名門たる自分の立場では女ふぜいと握手をすることは、とうていできることではない、というのだった。かわいそうなチャーミアン! マライタ島での女性蔑視の体験から、彼女はすっかり生まれ変わっていた。表向きはおそろしく従順で謙虚になっていた。ぼくらが文明世界に戻って歩道を歩くときに、彼女が一ヤードほど後ろからうつむいてついてきても驚きはしないほどだ。

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ソロモン諸島のカヌー

スアヴァでは、そうたいしたことは起きなかった。地元出身のコックのビチュが職務放棄して逃げた。ミノタ号は走錨した。激しい風雨に襲われた。航海士のヤコブセンとワダが発熱して病に倒れた。ぼくらの潰瘍はひどくなり拡大した。船にいたゴキブリが七月四日の独立記念日と戴冠式のパレードを一緒にしたような賑わいで歩きまわっていた。きまって深夜に狭い船室に出没した。長さは二、三インチあった。何百匹もいて、それがぼくらの体の上をはいまわるのだ。捕まえようとすると、固い床からパッと飛び上がり、ハチドリのように羽ばたいて移動した。スナーク号にいるゴキブリよりも、ずっと大きかった。スナーク号のゴキブリはまだ幼くて、成長しきれていないのかもしれない。また、スナーク号にはムカデもいた。長さが六インチもある大きなやつだ。ときどき見かけて殺したが、たいていはチャーミアンの寝床にいた。ぼくは二度かまれた。卑怯にも、どちらも眠っているときだった。とはいえ、かわいそうなのはマーチンで、運に見放されていた。病気で三週間も寝ていたのだが、やっと起き上がれるようになったものの、一日で元に戻ってしまった。冒険航海に出てみようなんて夢にも思わない人は賢明だと、ときどき思ったりもする。

この後、ぼくらはマルに戻り、七人の労働者を集めた。錨を上げて、出口に向かった。ここは危険な場所だ。風が急変し、荒々しい岩礁に押し寄せている流れも強くなった。そこをかわして外海に出ようというまぎわに、風向が四十五度も変化した。ミノタ号はそれに合わせてタッキングしようとしたが失敗した。ツラギで錨を二個も失っていたので、残った一つを投錨した。チェーンが出て行き、サンゴにしっかり食いこんだ。ミノタ号の細長いキールが海底に当たった。メインのトップマストが大きく揺れ、それから激しく振動した。頭上に落ちてくるんじゃないかと思うほどだった。急に停止してチェーンがゆるんだところに、大波が押し寄せてきて船にぶつかった。チェーンが切れた。それが残った唯一の錨だった。ミノタ号はぐるりと向きを変えると、そのまま船首から砕け散る波に突進していった。

ひどい混乱が起きた。農園の労働者として採用された連中は甲板の下にいたが全員が陸の民で海をおそれていたので、パニックになって甲板に飛び出してきて、てんでに駆けだした。と同時に、船の乗組員もライフルを取りに走った。彼らはマライタの海岸で起きたことを知っていた。片手は船のために、片手は原住民と戦うために、というわけだ。実際には彼らが片手で何につかまっていたのか、ぼくは知らない。ミノタ号は波に持ち上げられ、転がされ、サンゴにぶつけられるので、ともかく振り落とされないよう何かにつかまっている必要があった。陸の民は索具にぶらさがっていた。トップマストをしっかり見張っておくという発想はないようだった。乗組員たちは上陸用ボートで漕ぎ出し、ミノタ号がさらに岩礁の方に流されないよう、無駄と知りつつ懸命に曳航しようとした。その一方、ヤンセン船長と航海士、彼は発熱で青白い顔をして衰弱していたのだが、バラスト代わりに船底に放り込んであった壊れた錨をまた使えるようにしようと、ストックを取りつけていた。コールフェイルド氏が仲間の少年たちとボートで駆けつけてくれた。

ミノタ号が座礁した当初、周囲にカヌーはいなかった。しかし、青い空を旋回するコンドルのように、あらゆるところからカヌーがやってきた。乗組員たちはいつでもライフルを撃てるよう構え、それ以上近づくと殺すぞと警告した。連中は百フィート(約三十メートル)の距離を保っている。波が打ち寄せる危険な場所だが、黒っぽく不気味な姿で列をなし、パドルを漕ぎつつカヌーの位置を維持している。浜辺の方も、山から降りてきた陸の民ですし詰め状態だった。手に手に槍やスナイドル銃、弓やこん棒で武装している。事態を複雑にしたのは、農園の労働者募集に応じた十人以上の連中が、たばこや交易品、船上のすべてを略奪しようと浜辺で待ち構えている、まさにその陸の民の出身者だったということだ。

スナーク号の航海(79) - ジャック・ロンドン著

ぼくらはランガランガから礁湖をさらに進んだ。マングローブの生い茂った沼沢地で、航路はミノタ号よりちょっとだけ幅があるかなというくらいだ。海沿いのカロカ村とアウキ村を通り過ぎた。ベニスを作った人々と同じように、ここの海の民はもともと本土から避難してきた連中だ。虐殺を逃れてきたのだが、森で生活するには弱すぎるので、砂州を島にしてしまったのだった。食料は海の幸に頼らざるをえず、しだいに海の民になっていく。やがて魚や貝を捕る方法を覚え、針や釣り糸、網や漁労用の仕掛けも作り出した。体つきもカヌーに適したものに変わっていった。歩きまわるのが苦手だが、いつもカヌーに乗っているので、腕は太くなり、肩幅も広かった。一方、腰まわりは小さく、足はかぼそかった。海の恵みを受けて豊かになり、岸辺で森の奥の連中とも交易を行っていた。とはいえ、この海の民と森の民との間には、はてしない反目があった。実際には取引の市が開かれる日だけ停戦になるのだが、普通は週に二回だ。森の民と海の民の女たちが物々交換を行うのだが、その間、森では百ヤードほど離れたところに武装した森の男たちが隠れていたし、海の方でも男たちがカヌーに乗って待機していた。市のある日に停戦協定が破られることはめったになかった。森の民も魚が好きだし、海の民も土地が狭い人工島では育てられない野菜をほしがっていた。

ランガランガから三十マイルほど進んだところで、ハッサカンナ島と本土の間にある航路に出た。ここで夜になり風も落ちたので、ボートを漕いでミノタ号を曳航した。懸命に漕いだが、潮の流れが逆だった。真夜中に、航路のど真ん中でユージニー号と遭遇した。大型のスクーナーで、この船も同じように人集めをしていたが、やはりボートで曳航されていた。指揮をとっているのはケラー船長で、二十二歳のがっしりした若いドイツ人だった。親睦を深めようとミノタ号に乗船してきたので、マライタ島の最新情報を交換しあった。船長の方は運にも恵まれ、フィウ村で二十人も集めていた。そこに滞在しているときに、いつものように殺し合いがあった。殺された少年は、いわゆる海で生きるようになった森の民だった。つまり、半分は森の民で海育ちだが、島には住んでいないという連中だ。彼が働いている農園に、三人の森の民がやってきた。彼らは友好的にふるまっていたが、しばらくして、カイカイをくれと言った。カイカイとは食い物のことである。それで、彼は火をおこし、タロイモを煮た。鍋をのぞきこんだとき、森の民の一人が銃で頭を撃った。男は火の中に倒れた。三人組はすかさず槍で腹を突き、切り裂いた。

「ひどいもんだよ」、とケラー船長はいった。「オレが殺されるとしたら、スナイドル銃で撃たれるのだけはごめんだね。パッと広がってさ! 頭に馬車が通り抜けられるくらいの穴が開いちまうんだから」

マライタ島に関してぼくが聞いた別の人殺しは、老人の殺害だった。森の民の重鎮がなくなったのだが、自然死だった。森の民で、自然死を信じる者なんていない。いままで自然死というのが存在しなかったからだ。死ぬというのは、銃で撃たれるか、斧でなぐり殺されるか、槍で突かれるかしかないのだ。それ以外の方法で誰かが死んだとなると、呪い殺されたということになる。ボスが自然死したとき、部族の連中はある家族にその罪をきせた。罰としてその一族の誰を殺すかは重要ではなかったので、一人暮らしの老人が選ばれた。その人なら簡単に殺せるだろうからだ。その老人はスナイドル銃を持っていなかったし、盲目だった。老人は自分がどんな目に遭うかを悟ると、矢を大量に集めた。スナイドル銃を手にした三人の勇敢な戦士が彼を夜襲した。戦いは一晩中続いた。森を何かが移動する音や何か鳴る音がすると、老人はすかさずそっちの方向に矢を射たのだ。朝になり、最後の矢がつきたところで、この三人の英雄は老人に忍び寄って頭を吹き飛ばした。

夜が明けても、ぼくらはまだ航路でうろうろしていた。へとへとに疲れてしまったので、この航路はあきらめて、広い海に出た。バッサカンナ経由で目的地のマルに向かって帆走した。マルの泊地は非常によかったが、陸とむき出しの岩礁との間にあるため、入るのは簡単、出るのは厄介という場所だった。風上に進むには南東の貿易風が必要だった。砂州のところは幅が広かったが、水深は浅く、常に潮が流れていた。

マルに住んでいる伝道者のクライフィールド氏が自分のボートで岸ぞいをやってきた。細身の繊細そうな人で、職務には情熱を抱いていた。分別があり実際家でもあって、神にとっては本物の二十世紀の使者といったところである。マライタ島のこの地にやってきたとき、約束の任期は六ヶ月だったんですよ、と彼は言った。その期間をぶじに生き延びると、氏は期間延長に同意した。それから六年が経過していたが、まだ滞在を続けているのだ。とはいえ、氏は自分がまだこれから六ヶ月以上も住むのかについては確信を持っていなかった。マライタ島で、氏の前任の布教者は三人いたが、そのうちの二人は任期満了前に熱病で死んだし、三人目は帰国の途中で難破していた。

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海の民が作った人工島のアウキ島。

スナーク号の航海(78) - ジャック・ロンドン著

ソロモン諸島ではよくあることだが、船上でのジョニーの仕事は、たばこと交換で、上陸用ボートの帆柱やメインスル、ジブを取り戻すことだった。その日も遅くなって、村長(むらおさ)のビリーが船にやってきて、マストとブームを返し、たばこを受け取った。こうした道具はヤンセン船長がミノタ号での前の航海で取り戻したボートの備品だった。この上陸用ボートはイザベル島のメリンゲ農園の所有物だった。十一人の契約労働者とマライタ島の男たち、森の住人たちが農園からの逃走をはかった時に盗んだものだ。連中は森の民だったので、海についても海に浮かぶボートについても何も知らなかった。それで海の民であるサン・クリストバルの出身者二人を誘い、一緒に逃げようと説得したのだ。サン・クリストバルの住人にとっても渡りに船だった。とはいえ、彼らはもっとよく知っておくべきだった。盗んだボートを無事にマライタまで導いてやったところで、用済みになった二人は殺された。ヤンセン船長が取り戻したボートと道具が、そのときのものなのだ。

ソロモン諸島まではるばる航海してきたというのに、いろんな問題があった。ついに、チャーミアンの誇り高き精神も失墜し、ほこりにまみれてしまった。それは、ランガランガの人工島の、家も見えない浜辺で起きた。ここで、ぼくらは何百人もの物怖じしない裸の男女や子供たちに囲まれていた。あちらこちらと歩きまわり、いろんな景色を眺めた。ぼくらは銃を携帯し、いつでも出発できるよう船尾を浜に着け、オールをこぐばかりにした状態で、完全武装の乗組員をボートに待機させていた。とはいえ、問題を起こしたらどうなるかという教訓を軍艦が示していった直後だったので、トラブルは生じなかった。ぼくらはいろんなところを歩きまわり、何でも見てまわったが、最後に浅い河口を渡る橋の役目をしている、大木の切り株のところに出た。黒人たちはぼくらの前で壁を作り、通行を阻止した。ぼくらは制止される理由を知ろうとした。黒人たちは、ぼくらには渡ってよいと言った。そこに誤解があったのだが、ぼくらはその通りに進んだ。すると、事情が明白になった。ヤンセン船長とぼくは男なので進んでもよいが、メアリーがその橋を渡ることは認められない、というのだ。「メアリー」はピジン英語で女性を指す。メアリーとはチャーミアンのことだった。女は橋にとってのタンボ、つまり現地の言葉でタブーとされていた。ぼくはむかついた! ついに、ぼくが自分の男らしさを証明するときがきたのだと思ったほどだ。とはいえ、ぼくは優遇される側にいるので文句は言えない。チャーミアンは歩きまわることは認められたものの、橋を渡るのを許されたのはぼくら男だけで、彼女はボートに戻るしかなかった。

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海の民が作りあげたランガランガの人工島

その後に起きたことについても、あえて言っておくと、ショックのあまり熱が出るというのは、ソロモン諸島ではよくあることで、チャーミアンは通行を拒否されてから半時間もたたないうちに発熱してミノタ号へと大急ぎで運ばれたのだった。毛布にくるまり、キニーネを処方された。ワダとナカタがどういうショックで発熱を引き起こしたのかは知らないが、彼らも熱でダウンしていた。ソロモン諸島がもっと健康的な場所になるよう祈るばかりだ。

さらに、この発熱のさなかに、チャーミアンはソロモン痛にも襲われた*1。通行拒否は、すでに限界に達していた彼女を倒した最後のワラ、最後の一撃だったのだ。スナーク号では、彼女をのぞいて皆がこの病気にかかっていた。ぼくは潰瘍がひどくて、くるぶしのところから足を切らなきゃならないのではないかと思っていたほどだ。ヘンリーとタイヘイイ、それにタヒチの船乗りたちも、その多くがひどい潰瘍に悩んでいた。ワダは自分にできた潰瘍の数を二十個単位で数えることができた。ナカタの数は少なかったが、大きさが三インチもあった。マーチンは潰瘍の根が伸びていって脛骨が壊死しはじめていると思いこんでいた。だが、チャーミアンは、そういうものと無縁だったのだ。彼女はずっと無事だったので、ぼくらの間ではむしろ小馬鹿にされていたくらいだった。ある日、彼女は、やっぱり根が純粋無垢だと病気もよりつかないのねと、ぼくにささやいたものだ。ぼくらは彼女をのぞいて全員が病気にかかっていて、彼女だけがそうではなかったのだが――ともかくも、その彼女も罹患した。潰瘍は一ドル銀貨ほどの大きさだったが、純粋無垢な血液のおかげか、数週間の苦しみをへて治癒した。彼女は昇汞(しょうこう)*2が効くと信じていた。マーチンはヨードホルムだと言い張った。ヘンリーは薄めていないライムジュースを使った。ぼくはといえば、昇汞がなかなか効いてこないときには、包帯を過酸化水素水に浸して代用した。ホウ酸をくれたソロモン諸島の白人もいたし、ライゾールという消毒剤がいいという者もいた。万能薬と称するものも持っていたが、あまり効き目はなかった。効くのはカリフォルニアでの話だ。ぼくは、ソロモン諸島のこの病気にカリフォルニアでかかってみろよと言いたい。効くわけないんだから。

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人工島

脚注
*1: 症状からすると、いわゆる「風土性トレポネーマ症」(イチゴ腫)という細菌感染症かもしれない。

*2: 昇汞(しょうこう)は塩化第二水銀または塩化水銀(II)とも呼ばれ、殺菌力があるものの毒性も強いため、現在は使用されていない。

スナーク号の航海(19) - ジャック・ロンドン著 

スナーク号の建造中、ロスコウとぼくとの間では、こんな合意ができていた。「教本や計器類を船に持ちこむから、今から航海術を勉強しておいてくれ。これから忙しくなるはずだから、ぼくに勉強する暇なんてないと思う。だから、海に出てから、お前が覚えたことをぼくに教えてくれ」と。ロスコウは喜んだ。前にも書いたように、ロスコウは率直で無邪気で謙虚なやつなのだ。だが、海に出ると、やつは聖なる儀式をつかさどる風を装うようになり、ぼくが感心するように見ていると、ちょっとした進路の変化をもったいぶって海図に書きこんだりしたものだ。正午に太陽の高さを測定するとき、やつの姿は神々しく光り輝いた。船室に降りて行って観察したデータに基づいて計算し、また甲板に戻ってきて現在地の緯度経度を教えてくれた。口調も一変して厳粛になっていた。とはいえ、問題なのはそういうことではない。やつは、ぼくらに伝えられない情報をいっぱい抱えるようになったのだ。つまり、スナーク号が海図上でいきなり瞬間移動する距離が大きくなるほど、やつの情報ではその理由を説明できず、位置情報が神聖で不可侵のものになっていったのだ。ぼくも自分で勉強すべきころあいかなと言ってみたのだが、気のない返事しかせず天測を教えようとはしなかった。最初に同意したことを守るつもりはさらさらないようだった。

だが、これはロスコウが悪いというのではない。どうしようもないことなのだ。やつは単に先人の航海士たちと同じ道をたどったにすぎない。天測で得られた数値が違っていたとしても、ま、それはわかるし許されもすることなのだが、やつは船の現在地を割り出して進むべき方向を決めるということの責任の重さを痛感しつつ、大海原で太陽や星を見て位置を判断する神のような力が自分に備わっているという体験を重ねていたのだ。ロスコウはそれまでの人生をずっと陸上で過ごしてきた。常に陸が見えていた。絶えず陸地が見えていて、目印となるものがあるため、たまに道に迷ったとしても、地上ではなんとか方向がわかったものだ。しかし、ここは果てしなく広がっている海の上だ。海の向こうには、どこまでも丸く広がる空があるだけだ。この丸い水平線はいつでも同じに見える。陸標などありはしない。太陽は東から上って西に沈み、夜には星々がずっとまわっていた。つまり、太陽や星を見て「いまいる場所はスミザースビルのジョーンズさんちの現金売りの店の西、四と四分の三マイルだ」とか「自分がいまどこにいるかわかっているさ。というのも、リトル・ディッパーがボストンは二番目の角を右に曲がって三マイル先だと教えているからね」などと、誰が言えようか。ロスコウが航海士としてやっていたのは、それと同じことなのだ。最初は自分がやってのけたことに驚いてもいたが、それにも少しずつ慣れてきて、畏敬の念を起こさせる仕草で奇跡のような妙技を披露するようになった。広い海面で自分の位置を割り出す行為は儀式となり、奥義を知らずやつに頼り切りのぼくら、大陸と大陸をつなぐ波だけで道標もない大海原で進路を教えて面倒を見てやっているぼくらよりも自分の方が優秀だと感じるようになっていったのだ。それで、やつは六分儀を用いて太陽神に敬意を表し、専門書と魔法のような符号表のページを繰り、目盛り誤差、視差、屈折といった呪文をつぶやき、聖杯と呼ばれる祈祷書──つまり海図のことだが──に神秘的な記号を書きつけ、追加し、移動させて、割り出した空白部分を指さして「現在地はここだ」と宣言するのだ。ぼくらがその空白部をのぞき「位置は?」と聞くと、彼は高貴なアラビア数字で答えるのだ「31─15─47北緯、133─5─30西経」と。そこで、ぼくは「ほう」感心することになる。

というわけで、はっきり言っておくが、これはロスコウが悪いのではない。やつは神の領域に近づき、ぼくらを掌に載せて海図上の空白のスペースを進ませてくれたのだ。ぼくはロスコウを尊敬した。この尊敬の念はますます大きくなり深くなっていったので、やつは「膝まづき、あがめよ」と命令するほどになった。ぼくは自分が甲板に座りこみ大声でそうたたえるべきだとわかってはいた。だが、ある日、ふと気づいたのだ。「こいつは神なんかじゃない、ロスコウだ」と。「ぼくと同じ人間だ。こいつにできたのなら、ぼくにもできるだろう。やつは誰に教わったんだっけ。独学だ。じゃあ、ぼくも同じようにすればいい──自分で勉強するんだ」と。そして、そこでロスコウと衝突したのだ。やつはもうスナーク号であがめられる司祭などではない。ぼくは聖域に侵入し、専門書と魔法の表と祭具、つまり六分儀を渡すよう命じたのだ。

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航海術の秘儀