スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (26)

 

夕方、ぼくらは手紙を出すために、またカヌーに乗った。すずしくて快適だった。サーカスの見世物になっている動物を見るように、ぼくらについてくる何人かの腕白小僧をのぞいて、この細長い村に人影は見えなかった。大気はすみきっていて、村のどこからでも、山々や木々の梢が見えた。教会の鐘がまた別の儀式のために鳴っていた。

ふいに、さっきの三人の娘たちが四人目の妹と一緒に街道沿いの店の前に立っているのが目に入ってきた。ぼくらはついさきほどまで彼女たちと意気投合していたのは確かだ。とはいえ、こういう場合、オリニーではどうするのがエチケットなのだろう? 田舎道だったら、もちろん声をかけるわけだが、ここでは人目もあるし噂もたちやすいだろう。会釈するくらいならかまわないだろうか? シガレット号の相棒にどうするか聞いた。

「ま、あれ見ろよ」と彼はいった。

ぼくは見た。四人の娘は同じ場所にいたが、四人ともぼくらに背中を向けて体を硬くし、話しかけてくれるなというのがありありだった。慎み深く、娘たちはそろってまわれ右をしたのだ。ぼくらの姿が見えている間、彼女たちはずっとそうしていたが、くすくす笑っているのも聞こえたし、初対面の四人目の娘は肩ごしにこっちを見ながら、口を開けて笑っていた。こうしたことはすべて慎み深いといえるのだろうか、それともこの地方独特の挑発なのだろうか?

宿屋に戻る途中、白亜の崖や頂上に生えている樹木の上、金色に輝く夕方の空に何かが浮かんでいるのが見えた。凧にしては高すぎるし、非常に大きくて、安定しすぎてもいる。暗くなっていたが、星であるはずはなかった。というのも、星がインクほどにも黒く、クルミほどにもでこぼこしていたとしても、こんな状況で日光をあびれば、ぼくらには光の点のように輝いて見えるはずだ。村のあちこちで人々が空を見上げていたし、子供たちは通りを駆けていたが、その通りは山の上へと一直線に続いていた。そこにも駆けている人影がぱらぱらと見えた。正体は気球だった。後で知ったのだが、夕方の五時半にサンカンタンを出発したものらしかった。大人のほとんどは冷静にそれを受けとめていた。だが、ぼくらはイギリス人だし、すぐに必死で丘を駆け上った。ぼくら自身も旅行者の端くれなので、同じ旅行者たちが空から舞い降りてくるところを見たかった。

しかし、丘の頂上に近づく頃には、見るべきものは終わっていた。金色の空は色あせかけていたし、気球の姿は消えていた。どこへ? ぼくは自問した。はるかかなたの天まで昇っていってしまっただろうか? それとも、坂道が続いている青みがかった起伏のある景色のどこかに着陸しているのだろうか? 上空は寒いらしいし、気球を操縦していた人たちは今頃はどこかの農場の暖炉で体を温めているのかもしれない。秋の日はつるべ落しで、すぐに暗くなった。道路沿いの木々や、牧草地を通って戻っている見物人たちの姿が、地平線に沈みかけた赤い夕陽をバックに黒い影となっていた。登ってきた坂の方が明るいので、ぼくらはそのまま引き返して丘を降りた。木の生い茂る渓谷のはるか上空にメロン色の満月があり、背後の白亜の崖は燃えさかる窯の炎のように赤くなっていた。

川沿いにあるオリニー・サント・ブノワットの村に灯りがともり、夕食のサラダが作られていた。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (25)

ぼくらがカヌーを一晩預けることになった人については、ここではカーニバルと呼ぶことにする。正確な名前をよく聞きとれなかったし、そう褒めている内容でもないので、その人にとってもその方がよいかもしれない。その日、ぼくらがぶらぶら歩いてその人の屋敷まで行ってみると、カヌーを食い入るように眺めている一団がいた。一人は川の知識が豊富な大男の紳士で、教え魔の人だった。黒いコートを着たとてもおしゃれな若い紳士もいて、英語が少ししゃべれたので、すぐにオックスフォードとケンブリッジのボート競走の話をしたがった。若くてきれいな十五から二十歳くらいの娘三人と、シャツ姿の老紳士もいた。老人には歯がなく、きつい訛りがあった。オリニーの典型的な人たちだったと思う。

シガレット号の相棒は馬車置き場で、索具の面倒な調整みたいなことをやっていた。それで、ぼくが一人でその人々の相手をするはめになった。すると、事実はどうあれ、ぼくは英雄に祭り上げられてしまった。航海で怖い目にあったことを話すと、娘たちはおおげさに体をふるわせた。そういう反応はもっと聞きたいということだろうと思ったので、さりげなく川に落ちた顛末を口にすると、ちょっとしたパニックを引き起こした。シェイクスピアのオセロさながらだ。ただし、妻のデスデモーナが三人もいて、共感を寄せている元老院議員たる父親もその背後に何人かいるという状態だ。ぼくらのカヌーがこれほどほめちぎられたことはなかった。しかもほめかたがとても洗練されていた。

「バイオリンみたい」と、娘の一人がうっとりしていった。
「ありがとうございます、お嬢さん」とぼくはいった。「棺桶みたいだっていった人もいたので、よけいにうれしいです」
「まあ! でも、ほんとにバイオリンみたい。仕上げもバイオリンみたいだし」と彼女はつづけた。
「バイオリンのようにピカピカだ」と、元老院議員の一人がつけ加える。
「あとは弦を張るだけ」と、別の男がいった。「で、ポロン、ポロンとね」とバイオリンの音色を口まねした。

これは洗練された、ちょっとした拍手喝采ということではないだろうか? フランス人はどこで、こんなすてきな会話の秘訣を覚えてくるの、ぼくにはわからない。秘訣といっても、心から喜ばせようという気持ちだけなのだろうか? フランスでは物事についてうまい表現を口にしたからといって、それで馬鹿にされることはない。ところが、ぼくらのイギリスときたら、本に書いてあるような言い方をすると、冷笑が返ってきてしまう。

シャツを着た老紳士は馬車置き場にそっと入り、シガレット号の相棒に、自分はあの三人の娘の父親で、子供がもう四人いると唐突にいった。フランス人にしては子だくさんだ。

「とてもお幸せですね」と、シガレット号の相棒が丁重に応じた。

老紳士は明らかに満足したらしく、またそっと出て行った。

ぼくらは皆、とても仲良くなった。娘たちは、翌日さしつかえなければ、ぼくらと一緒に出かけたいとさえいってくれた! 冗談ではなく、全員がぼくらが出発する時間を知りたがった。足場の悪いところでカヌーに乗りこむ際には、仲良くなったとはいえ、その様子を人に見られるのはあまり好ましいことではない。それで、昼までは出発しませんよといったが、内心では、遅くとも十時には出発しようと思っていた。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (24)

オリニー・サント・ブノワット

休日

翌日は日曜で、教会の鐘は休む間もなく鳴っていた。僕の知る限り、この土地ほど信心深い人々が好きなときに礼拝式に出かけられる場所は他にない。明るい日射しを受けて鐘の音が陽気に響きわたり、男連中は犬を連れてビート畑や菜種畑での猟に出かけていった。

朝、露天商とその女房が、非常にゆっくりとした悲しい歌「おお、フランス、愛する祖国」を口ずさみながら通りを歩いて行った。すると、だれもが表に出てきた。ぼくらが泊まっている宿屋のおかみさんが男を呼びとめ、その歌が載っている小冊子を買おうとしたが、もう一冊も残っていなかった。その歌に惹かれたのは彼女一人ではなかったのだ。普仏戦争*1の後、ドイツに敗れたフランスの人々がもの悲しい愛国調の歌を好きになったのには、何か痛ましいものが感じられた。フォンテーヌブローの近くで行われた洗礼式で、だれかが「フランスの悲哀」という歌をうたっていたが、そのとき、ぼくはアルザスから来ていた森林労働者を見たことがある。その男はテーブルから立ち上がると、息子を脇へつれていった。そこはぼくの立っているところから近かったのだが、「聞くんだ、よく聞いておくんだぞ」と、彼は息子の肩に手をのせていった。「しっかりおぼえておくんだ」。それから少しして、彼はふいに庭に出て行った。暗闇でその男のすすり泣くのが聞こえた。

敗戦とアルザスやロレーヌ地方を失った屈辱は、この感受性の強い国民には耐えがたいものだった。ドイツに対してというより、国民には、皇帝ナポレオン三世に対する反感の方が根強く残っていた。愛国の歌がうたわれたからといって、いったい他のどの国で、それを聞いた者がみな通りに出てきたりするだろうか? とはいえ、試練は愛を強くするもので、ぼくら英国人もインドを失うまで、自分は英国人であると自覚することはあるまい。アメリカの独立はいまでも、ぼくにとって十字架となっている。嫌悪感を抱かずにジョージ・ワシントンのことを考えることはできないし、星条旗を見ると、ぼくらの帝国がなりえたはずの国家を思い浮かべ、祖国に対する懐旧の情がわき出てくるのだ。

ぼくがその露天商から買い求めた小冊子には、いろんなものが奇妙なくらいごちゃまぜになっていた。パリのミュージックホールの軽薄で下品なナンセンスがあるかと思えば、詩歌という感じではない牧歌的な作品もたくさん載っていて、フランスの下層階級が持っている自立の気概に満ちてもいた。きこりが自分の斧をいかに誇りに思っているかとか、庭師が自分の鋤を少しも恥ずかしいとは思っていないといった内容だ。うまく書けているわけではないが、こうした労働をうたった詩歌は、そこにこめられた感情が表現の弱さや冗長さをおぎなっている。一方、勇ましく愛国心にあふれた作品は涙をそそるものばかりで、どれもこれもめめしかった。ローマ時代のカウディウムの戦いが終わった故事にならい、その詩の作者は名高い古戦場を銃を逆さにして訪れた軍隊について、その勝利ではなく死を悼んで歌っていた。その小冊子には「フランスの徴集兵」と呼ばれる作品もあった。これは文字になったもののうちではとびきりの厭戦歌かもしれない。こんな精神状態では、戦うなんて、とてもできないだろう。こんな歌がいよいよ戦闘だという朝に流たりしたら、どんなに勇敢な徴集兵でも青ざめてしまうし、連隊全体がその調子にあわせて戦闘を放棄してしまうことだろう。

スコットランドの作家で政治家でソルトーンのフレッチャーがその国の歌謡が持つ影響について述べたことが正しければ、フランスはひどいことになってしまったといえるだろう。しかし、物事というのはみずからそれを癒やしていくもので、健全な心を持ち勇気ある国民は、自国の災難について、めそめそ泣いてばかりいることにやがて飽きてしまう。ポール・デルレードがすでに多くの勇ましい軍の詩をいくつか書いている。そこには、トランペットを吹き鳴らし、人の心に訴えるようなものはあまりない。彼の作品は叙情的な高揚感に欠けるし、激しい動きもないが、荘重かつ高潔で、冷静な精神につらぬかれていて、兵士たちを奮い立たせるはずのものだ。デルレードには、どこか、この人は信頼できると思わせるものがある。もし彼の詩が、自分たちの将来を信じることができるほどにフランスの同胞を鼓舞できるのであれば、それはそれで幸せなことではあるだろう。さらにいうと、彼の詩は「フランスの徴集兵」や他の悲哀をかこつだけの作品に対する解毒剤にもなっている。

[脚注]
*1: 普仏戦争(1870年~1871年)- ビスマルク率いるプロシア(現ドイツ)とナポレオン三世のフランスとの戦争。フランスは一方的に敗れ、多額の賠償金を支払うとともにアルザスやロレーヌ地方の大半をドイツに割譲せざるをえなかった。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (23)

 

ついには鐘の音もとだえ、それにつれて日も陰ってきた。楽しいひとときは終わり、オアーズ川の渓谷を影と沈黙がおおった。ぼくらは立派な舞台を見終えて仕事に戻る観客のように、意気軒昂にパドルをこいだ。このあたりでは、川は前にもまして危険になっていた。流れはさらに急になり、いきなり渦が出現し、しかもさらに激しくなっていた。ぼくらは苦労しながら下っていった。引っかかりそうな簗が設置してあったり、浅いところや杭がたくさん打ってあるところもあって、舟を陸に揚げて迂回しなければならなかったりした。だが、一番やっかいだったのは、最近の強風がもたらしたものだった。二、三百ヤード進むごとに、倒木が川をふさぎ、その巻き添えになった他の木がからみあっていたりした。

多くは木の先端の方に通れるすき間があって、葉の茂った小さな岬をまわっていくと、川の水が小枝を吸いこんで泡立っていたりした。倒木が対岸まで達しているところも多かったが、体を低くすればカヌーに乗ったままその下を通り抜けられたりもしたしし、カヌーを木の幹の上に引き上げて超えざるをえないところもあった。それもできないほど流れが急なところでは、上陸してカヌーを「かついで」運んだ。ずっとこういった調子で気が抜けなかった。

そうやってカヌーをまた川に浮かべたが、ぼくの方が相棒よりずっと先になったところがあり、太陽や急流や教会の鐘の音のおかげで気分もよく、意気揚々と進んでいった。すると川は急カーブを描いて湾曲し、獣が咆哮するような音がとどろいていた。石を投げれば届く距離に、また倒木があるのに気づいたぼくは、すぐさま背板を倒し、木の幹が水面から離れていて、枝もあまり茂らず、その下をくぐれそうなところを目指した。世界と一体になった高揚感に満たされているときには、なかなか冷静な判断というものは下せないもので、この時のぼくの決断は、自分が幸運の星の下に生まれてこなかったということを示す、非常に重要な判断になったかもしれなかった。胸のところが木に引っかかってしまったのだ。なんとか自由の身になろうともがいたが、流れが速くて、ぼくの手にはおえず、舟を川に奪いとられてしまった。アレトゥサ号はぐるりと向きを変えて横向きになって傾き、舟に乗ったぼくの体を吐き出してしまったのだ。木の下で枝にぶつかって元に戻ったカヌーは、そのまま勢いよく下流へと流されていった。

しがみついていた木に必死でよじ登ったものの、それまでにどれくらいの時間がかかったのか、よくわからない。かなり時間がかかったと思う。ぼくはがっくり意気消沈していたが、パドルは離さなかった。なんとか体を肩のところまで倒木の上に引き上げようとするのだが、流れはぼくの足をつかんで引きずりこもうとするし、ズボンのポケットにオアーズ川の水ぜんぶが入っているんじゃないかと思うくらい体が重かった。川の流れがどれほど強いかは、実際にやってみないとわからない。死がすぐそこに迫っていた。ついに最後の待ち伏せで死神自身が乗り出して獲物を引きずりこもうとしているのだ。それでも、ぼくはパドルだけは離さなかった。ようやくの思いで上半身を倒木の上に引き上げると、息も絶え絶えで、びしょぬれのまま動けなかった。おかしくもあったし、なんでこんなはめになったんだという怒りの感情が入りまじっていた。丘の上で畑仕事をしている農夫には、ちっぽけで哀れな男に見えたことだろう。とはいえ、ぼくの手にはパドルが握られている。ぼくが自分の墓を作るときには「彼はパドルを離さなかった」と刻みたいくらいだ。

シガレット号は少し前に通過していった。というのも、ぼくが世界との一体感に満たされて舞い上がっていなければ、倒木のずっと先に通れるところがあるのに気づいていたはずだった。相棒はぼくを引き出してやろうかといってくれたが、ぼくはもう肘のところまで上半身を引き上げていたので、こっちはいいから、それよりアレトゥサ号を追ってくれよと先に進んでもらった。流れはとても急だったので、追いついて回収しても、カヌーに乗ったまま、もう一隻を曳航して川をさかのぼるなんて無理な話だった。それで、ぼくは倒木の幹をはうようにして岸までたどりつくと、川辺の牧草地を歩いていった。とても寒くて、心臓まで痛かった。葦がなぜあんなに激しく揺れていたのか、ようやく自分なりにわかった。ぼく自身が葦よりも激しく震えていたのだ。ぼくが近づいていくと、シガレット号の相棒は「運動」でもしてるのかと思ったと冗談ぽくいったが、ぼくが本当に寒くて震えているのだと、やっとわかってくれた。ぼくはタオルで体をこすりまくり、ゴム製の防水袋から乾いた服を出して着こんだ。だが、それからの航海は、それまでとはまったく違う気分になった。乾いた服を着るのもこれが最後だというような落ち着かない気分になっていた。今回の悪戦苦闘でぼくは疲れきっていて、自覚していたのかわからないが、気持ちの上でも落ちこんでしまっていた。世界の破滅的な要素が、この緑の渓谷の川の流れで加速され、いどみかかってきたのだった。鐘の音はずっと美しい響いていたが、そこに牧羊神のかなでるうつろな響きも聞きとれる気がした。この川は底意地悪くぼくの足をつかんで引きずりこもうとしたのか? それなのに、これほどまでに美しいのか? 結局のところ、自然の穏やかさを表面だけ見て信じてしまうと、とんでもないことになるわけだ。

その後も川は曲がりくねりながら、ずっと続いていた。すっかり暗くなって、ぼくらがオリニー・サント・ブノワットに着いたときには、夜の鐘が鳴っていた。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (22)

 

カヌーは川に浮かぶ木の葉のようだった。流れにとらえられ、ゆさぶられて、半人半馬のケンタウルスに巧みに運ばれる妖精のように押し流されていく。方向を維持するため。パドルを必死にこがなければならない。川は海へ向かって大急ぎで流れていた! 水の一滴一滴が、驚いた群衆の中の人間のように、あわてふためいて流れていた。だが、こんなにも多くの群衆が一つの心で動ていくということがあるだろうか? 見えるものすべてが、飛びはねながら通りすぎていく。目と急流との競争だ。一瞬も気をゆるめることができず、ぼくらの体はよく調律された楽器のように震えた。けだるさなど吹き飛び、血流はとんでもないスピードで動脈から静脈へと、末端に至るまで全身を駆けめぐり、心臓に戻っては出ていく循環は、七十年も毎日コツコツ働いているそれではなく、休日に旅をするような心躍るものだった。葦は警告するように頭を振っていたが、びくびくしたように揺れることで、この川が強いこと、冷たいこと、しかもそれと同じほどにも残酷であり、柳の木にできている渦には死が待ち伏せていることを告げていた。だが、葦はその場から動くことはできない。じっと立っている者は、常に臆病な助言ばかりしたがる。ぼくらは逆に大声で歓声をあげたいくらいだった。この躍動している美しい川が本当に死を招く罠だというのなら、死という年老いた灰色のならず者は、ぼくらに裏をかかれたのだ。実際の一分間に、ぼくはその三倍も生きていた。パドルを一かきするごとに、川の湾曲部をまわるごとに、ぼくは死に対して生の充実という得点をあげていた。人生でこれほど心が高揚したことはない。

死という個人のささやかな戦いについては、こうした光に照らして考えることができると思う。自分が旅に出ていて、いずれ強盗に襲われるとわかっているとする。誰だって宿では最高のものを食べたり飲んだりするのではなかろうか。ただ泥棒に盗られるより、そうした無駄づかいした分だけ得をしたと思いたいからだ。無駄に散財するのと違って、自分の金を失うリスクもなく、利益が出るものに投資にする場合には特にそうだ。充実した生の一瞬一瞬が、特に健康によいというのであれば、すべてを奪っていく者である死に対して得点を重ねることになる。死に襲われて運ばれていくときに、手元の金は少ないかもしれないが、日々の充実という食べ物をたらふく食べて満腹になっているわけだ。急流には死がつきもので、毎年そうした罠にとらわれてしまう者も多いだろう。だが、死がぼくらの勘定を清算しようとするときには、ぼくはオアーズ川の上流での、こうした充実した時間を思い出し、納得して受け入れることができると思う。

午後にかけて、あふれんばかりの日光を浴び、ペースも落ち着いてきた。ぼくらは気持ちの高揚や充実感をこれ以上おさえることはできなかった。カヌーはぼくらには小さすぎた。ぼくらはカヌーを降り、岸辺で思いきり体を伸ばした。草の上で手足を伸ばし、たばこを吸った。神々しいほどの香りだ。世界はすばらしい。それがその日最後のよき瞬間だったが、その後も、ぼくはずっと満足感にひたっていた。

谷の片側は丘になっていて、白亜質の頂上が高くそびえ、土地を耕している農民が一人、同じリズムで姿を見せてはまた消えたりしていた。姿が見えるたびに、彼は空を背景にちょっと立ちどまった。(シガレット号の相棒によれば)その様子はまったく、うっかり野生の花を傷つけてしまったスコットランドの国民詩人バーンズのようだった。川を別にすれば、あの農民は、ぼくらの目に映っている唯一の生物だった。

谷のもう一方の側には、赤い屋根の家々と鐘楼が一つ、木々の間に見えていた。そして、見事な鐘の音によって、その日の午後は音楽的になった。鐘つきのかなでる鐘の音には、何かとても甘い叙情があって、鐘の音がこれほど明瞭に、また旋律豊かに歌うのを聞いたことがない。シェークスピアの芝居『十二夜』の舞台となっているイリリアで糸をつむぐ乙女や娘たちが「おいでよ、死」と歌うのもこんな風だったのだろう。鐘の音はどこか騒々しく金属的で、なにかしら不穏な調子に聞こえたりして、聞いて楽しいというよりも苦痛を感じる方が多いと思う。だが、このとき聞いた鐘の音は高く低く遠くまで響き、流行歌のように耳になじみ、しんみりさせたりもしたが、常に適度に調音されていて、滝の轟音や春にミヤマガラスが鳴き交わすときのように、静かでのどかな田園風景にしっくり溶けこんでいた。ぼくはこの鐘を鳴らしている人の祝福を受けたいと思った。この人は物静かな好々爺で、自分も瞑想しつつ、鐘をならすロープを揺らしているのだろう。神父や鐘を相続した人々、あるいはフランスでそういうことに関わっている人達すべてを、こうした午後の喜びのために古い鐘を残しておいたことについて祝福したいくらいだ。集会を開いて募金をつのり、自分たちの名前を繰り返し地方紙に載せ、新品の真鍮でできたバーミンガム製の代用品の鐘と取り替え、鐘を鳴らす人間も新しく雇って鐘を打ち鳴らさせ、この谷を畏怖と混乱の響きで満たすこともできたはずなのだから。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (21)

増水したオアーズ運河

翌朝、九時前にエトルーで二隻のカヌーを小型の荷馬車に積みこんだ。ぼくらも馬車の後からついていったが、この気持ちのよい渓谷は、見渡す限りホップ畑やポプラの木々でおおわれていた。丘の斜面のあちこちに感じのよい村々が点在している。なかでもテュピニーという村では、非常に狭い通りにホップのツルがおおいかぶさり、マツボックリのような球花を垂らしていた、家々の壁ではブドウが実をつけていた。ぼくらが通ると、人々の興味がかきたてられたようだった。職工たちが窓からのぞいていたり、子供たちが二隻の「ボート」を見て興奮して叫んでいたりした。そして、荷馬車の御者と顔なじみのシャツ姿の歩行者たちが、運んでいる荷物の性質について冗談を言いあったりしている。

一度か二度、にわか雨があったが、ちょっと降っただけで、すぐにやんだ。空気は澄み、緑の平原には甘い香りがただよい、植物がよく育っていた。気候にまだ秋の気配はなかった。ヴァダンクールで、水車とは反対側の小さな芝生からカヌーを浮かべて出発すると、太陽がいきなり顔を出し、オアーズ運河の流れている渓谷の木々の緑がぱっと輝いた。

川は長雨で増水していた。ヴァダンクールからオリニーまでずっと早瀬が続き、一マイルごとに、一刻も早く海に流れこもうとでもするかのように速度を増した。濁流と化した川は、岸辺でなかば水没した柳の間で渦をまき、石だらけの岸辺に激しく打ち当たり、轟音を立てて流れていく。狭く樹木の生い茂った渓谷を、川は曲がりくねりながら流れていく。あるときは護岸の縁に迫り、丘の白い崖を削りとって流れ、木々の間に菜種畑が見えたりもした。またあるときは、家々の庭をかこんだ塀をめぐって流れ、扉ごしに屋内がのぞけたが、日光をあびて歩いている神父さんの姿がかいま見えたりもした。木々の枝葉が厚く重なって前方の視界をふさいでいたものの、とくに問題があるようには思えなかった。ニレの木やポプラの木が柳の茂みの背後からおおいかぶさり、その下を川はものすごい勢いで流れていく。青空のひとかけらを切り取ったようなカワセミが飛び去ったりもした。こうして景色はめまぐるしく変化していったが、慈悲深い太陽はたえず降りそそいでいて、急流の表面にも、動かない牧草地と同じように、影ができていた。踊るようにゆれる木の葉が金色に輝き、野山が目に飛び込んでくる。その間ずっと、川はよどんだりせず、岸辺では渓谷全体にわたって葦が揺れ続けていた。

葦が揺れている光景には何か神話のようなものがあってもよいと思う(あるかもしれないが、ぼくは知らない)。自然のなかで、これほど強い印章を与えるものはない。無言で恐怖を表現している。こうした岸辺のいたるところに、これほど多くの恐怖にかられた生物が逃げこんでいるのを見ると、おばかな人間の方にもその恐怖が伝染してくる。葦は、おそらくは、冷たいが別に不思議なことなどない、腰までの深さの流れに抗して立っているだけなのだろう。あるいは、川の流れの速度や奔流、または連続した奇跡というものに慣れるということがないのだろう。牧羊神はかつて葦の祖先で作ったパンフルートを使って音楽をかなでたが、それと同じように、いまもなお、川の力を借り、オアーズ川の渓谷全体で葦の子孫たちを使って同じように笛を吹き、甘く鋭い音楽をかなでることで、ぼくらに世界の美しさとおそろしさを同時に教えているのだ。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (20)

同じことをイギリスでやってみれば、すぐに反駁されるだろう。とんでもない、自分の生活はひどいもので、あなたの方が恵まれてますよ、と。フランスのよいところは、だれもが自分は恵まれているとはっきり認めることだ。彼らは皆、自分の恵まれている点について承知していて、それを他人にも示すことに喜びを感じている。これは信条として確かによいことだ。自分の境遇をなげくことをいさぎよしとしない国民だが、ぼくに言わせれば、それも雄々しいと思う。ぼくは、イギリスで立派な立場で裕福でもある女性が、自分の子供について「貧乏人の子」と卑下するのを聞いたことがある。相手がウェストミンスター公で、自分のことを卑下したとしても、ぼくならそんな風にはとても言えない。フランス人はこうした独立の精神に富んでいる。おそらくそれは彼らが共和制と呼んでいる制度によるものだろう。というか、本当に貧しい人がとても少ないので、卑下して泣き言をいっても誰にも相手にされないからなのかもしれない。

荷船の夫婦は、ぼくが彼らの生活ぶりをほめるのを聞いて喜んでくれた。あなたが私たちの生活をうらやましいというのは、よくわかります、あなたは間違いなくお金持ちでしょうから、お城のような船を作って運河を旅することができますよ、と。そうして、ぼくを自分たちの住宅でもある荷船に招待してくれた。狭いところですがと謙遜しながら船室に招き入れたが、そういうところまで飾り立てるほどの金持ちではないということなのだろう。

「ここに暖炉がほしいんですよね、こっち側に」と、夫が説明した。「そうすれば、中央に机と本などすべてが置けるんです。そうなれば言うことなし――そうすれば、すっかりよくなるはずです」 それから、もうそうした改築を実際に行ったように彼は部屋を見まわした。想像の中で船室を美しく飾ったりするのは、これが初めてじゃないことは明らかだった。またお金ができたときには船室の中央に机が置かれることになるのだろう。

妻はカゴで三羽の小鳥を飼っていた。たいした鳥じゃない、と彼女は説明した。立派な鳥は高価だからだ。彼らは去年の冬にルーアンでオランダ産の小鳥を探したそうだ。(ルーアンだって? とぼくは思った。犬や小鳥を飼い、煮炊きをする煙突のついた住居でもあるこの船で、そんなところまで行ったのだろうか? そして、サンブル運河の緑の平原のときと同じように、セーヌ河畔の断崖や果樹園の間に船をとめて過ごしたのだろうか?) この夫婦は去年の冬はルーアンでオランダ産の鳥を探したそうだが――それは一羽十五フランもしたらしい――なんと、十五フランとは!

「こんな小さな鳥が、ですよ」と、夫はつけ加えた。

ぼくがずっと褒め続けていたので、この人のよい夫婦は卑下することはやめて、インドの皇帝と皇后のように、荷船や快適な生活について誇りをもって語り出した。こういうのをスコットランドでは聞いていて心地よいと言うが、聞いている方も、世の中も捨てたものじゃないという気になってくる。もし人の自慢話が、架空のものではなく実際にその人が持っているものについてであれば、それを聞いている側もどんなに元気づけられるかを知っていれば、人はもっと自由にもっと優雅に自慢するようになるのではないだろうか。

それから、夫婦はぼくらの航海についてあれこれ質問した。彼らはとても共感したようで、自分たちの荷船を捨てて、ぼくらと同行したいと言わんばかりだった。こうした運河を航行する船で暮らしている人々は、定住する気持ちもまだ固まりきっていない放浪の民だからだろう。とはいえ、定住したいという気持ちもあることは、かなりかわいらしい形で露呈した。妻の方がふいに眉をひそめたのだ。「でもね」と彼女は言いかけて口をつぐみ、それからまた、ぼくに独身かと聞いた。

「そうです」と、ぼくは言った。
「連れのお友達は?」

彼も結婚していなかった。

それが――幸いだった。彼女は、妻を家に残して夫だけが旅に出るというのにはがまんできなかったのだ。だが、妻帯者でなければ、ぼくらのやっていることは何も問題ないわけだった。

「世の中を見て歩くことほど」と、夫が言った。「価値のあることは他にないですよ。熊のように自分の生まれた村にしがみついている人は」と、さらに語を継ぐ。「何も見ていないんです。そうやって死を迎えるわけです。何も見ないまま、ね」

この運河に蒸気船でやってきたあるイギリス人のことを、妻が夫に思い出させた。

「イテネ号のモーンスさんかな」と、ぼくは口にしてみた。

「その人です」と、夫が同意した。「奥さんと家族、それに召使いも一緒でした。水門では必ず陸に上がって村の名前を聞いていました。船に乗っている者や水門の管理人にね。そうしてメモをとるんです。何でもかんでもメモってましたっけ! 私が思うに、賭けでもしてたんでしょうね」

ぼくらの航海については賭けだと説明すれば納得してもらえる。だが、メモをとるというのは、別の理由があるような気もした。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (19)

サンブル運河とオアーズ運河: 運河を航行する船

翌日、ぼくらは遅くなってから雨の中を出発した。判事は傘をさして水門の端まで見送ってくれた。スコットランド高地をのぞけば、めったにこうなることはないのだが、ぼくらは今は天候についてはおそろしく謙虚になっている。ちらっとでも青空が見えたり日が差したりすると、それだけで鼻歌を歌いたい気分になった。ぼくらにとって、豪雨でなければ、その日はほぼ晴天とみなされるのだ。

運河では次から次にやってくる荷船が長い列をなしていた。その多くは、タールで固めた上に白や緑の塗料を塗ってあり、こぎれいで整頓されていた。鉄製の手すりがついていたり植木鉢が花壇のように並べてあったりもしている。スコットランドのキャロン湖付近で育った子供と同じように、船の子供たちも雨が小降りになると甲板で遊びまわっていた。男たちは船べりごしに釣り糸を垂れ、傘をさして釣っている者もいた。女たちは洗い物をしていた。すべての船で雑種の犬が番犬として飼われていた。そうした犬はぼくらのカヌーを見ると吠えまくり、船上を端まで追ってきて、次の船にいる犬に知らせて交代するのだった。その日は漕いでいる間ずっと、通りに立ち並ぶ家のように続いている百隻からの荷船とすれ違ったはずだが、そのうちのどれ一つとして、ぼくらを楽しませないものはなかった。ちょっとした動物園のようだなと、シガレット号の相棒が言った。

こうした運河に並んでいる船でできた、ささやかな村のようなものは、なんとも奇妙な印象をもたらした。植木鉢や煙の出ている煙突、洗濯物や食事の様子など、その土地の景色として根づいているように思えるのだが、その先にある水門が開くと、次々に帆を揚げるか馬に引かれて、てんでにフランス各地に散っていくのだ。一時的に形成されていた集落は家ごとに切り離されて、また散っていく。今日サンブレ運河やオアーズ運河で一緒に遊んでいた子供たちは、それぞれの家族と共に散り散りになり、次はまたいつどこで出会うことになるのだろうか?

しばらく前から、こうした荷船がぼくと相棒の話題の中心を占めていて、ぼくらも年をとったらヨーロッパの運河に船を浮かべて生活しようというような話をしていた。とてものんびりした旅になるはずだ。蒸気船に引かれて駆け抜けるように進んだり、小さな分岐合流地点で引いてくれる馬が到着するまで何日も待ったりするのだ。ぼくらは膝まで届く白いひげをはやし、年齢を重ねた者に伴う威厳をたたえて甲板を行ったり来たりしていることだろう。どこの運河でも、ぼくらの船ほど白いものはなく、ぼくらの船ほど鮮やかなエメラルドの色をしているものがないというように、ぼくらは絶えずペンキを塗ったりして忙しくしているはずだ。船室には本やたばこ入れや、十一月の日没ほどにも赤く四月のスミレほどにも香り高いブルゴーニュ産のワインが置かれている。リコーダーのようなフラジオレットもあるずだ。シガレット号の相棒は星空の下でそれを手に陶然とするような音楽を奏したり、それを脇に置いて――昔ほどの美声ではなく、ところどころ声をふるわせながら、あるいは自然な装飾音と感じられるものを織り交ぜながら――豊かで厳粛な賛美歌を歌ったりする。

こうしたことはすべてぼくの想像だが、こうした理想の家の一つに乗って外国を旅してみたいと思った。船は次から次へと通るので、選ぶのに不自由はない。また、そうした船では、きまって犬がぼくのような放浪者に吠えかかってくる。とはいえ、やがて感じのよい老人とその妻がぼくの方を興味深そうに眺めているのが目に入った。それで彼らに挨拶をし、カヌーをそばに寄せた。まず彼らの犬について、猟犬のポインターのようですねといった話をした。それから奥さんが育てている花を褒め、彼らの送っている生活がうらやましいと言ってみた。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (18)

広く知られていることだが、ロバの尻をたたいて急がせることほど無駄なことはない。ロバの尻をたたいて効果があるかというと、どんなにムチをふるったところで、鈍重なロバという生物がそれに応じて歩を早めることはないと、ぼくらは知っている。しかし、こういう皮をはがれたミイラという、なんとももの悲しい状態では、肉体のない皮は鼓手のバチさばきに応じて鳴り響き、ドンドンという太鼓の音の一つ一つが人の心に、さらには心の奥底にある狂気をゆさぶって、大きく言えば英雄的行為への意欲がかきたてられることになる。それには、生きているときに尻をひっぱたき、こき使ってきた人間に対するロバの復讐といった意味合いもあるのではないだろうか? ロバはこう言うかもしれない。昔から人間は山道や谷間の道でロバを叱咤し酷使したが、ロバとしてはそれに耐えるしかなかった。死んでしまって太鼓の皮になると、そうした田舎道ではほとんど聞こえなかった尻をたたく音が、軍隊の旅団の先頭に立ち、戦意を高揚させる音楽を奏でることになる。ロバの皮でできた太鼓をたたくたびに、人間は自分の仲間が戦闘でよろめき倒れていくのを見ることになるだろう、と。

太鼓の音がカフェを通り過ぎると、ぼくの連れもぼくも眠くなってきたので、ホテルに戻った。ホテルはすぐ近くだった。ぼくらはこのランドルシーという土地にはあまり関心がなかったが、ランドルシーの町の方はぼくらに無関心というわけではなかった。この土地の人々は朝から晩まで雨や風がやむたびに、ぼくらの二隻のボートを見にやってきていたそうだ。町の印象からすると多すぎる気もするが、何百人もの人々が石炭小屋に置いてあったぼくらのボートを熱心に見物していたらしい。ポンにいたとき行商人だったぼくらは、ランドルシーに着くと一晩で勇敢な若者に祭り上げられていた。

カフェを出ると、治安判事だという人物がホテルの前まで追いかけてきた。この役職はスコットランドでいう地方裁判所判事といったところらしい。氏は名刺を差し出し、いかにもフランス人らしく、スマートかつ優雅に食事に誘ってくれた。わが町ランドルシーの名誉のためですと、判事は言った。ぼくらが来たからといって町の名誉になるわけはないと知ってはいたが、これほど丁重な招待を断るのは不作法というものだろう。

判事の家は近くにあった。設備の整った独身者向けの住宅で、壁には古い真鍮の奇妙な暖房用のあんかがたくさんかけてあった。入念に彫刻細工が施されたものもあった。壁の装飾にするとは収集家らしい魅力にあふれた発想だ。これまでにどれほどの数の人が寝るときにこのあんかのお世話になったのだろうと思わずにはいられなかった。どんないたずらがなされ、キスがかわされたりしたのだろう。さらに、死の床でどれくらい無駄に使われてきたのだろう、と。こうしたあんかが口をきけるとすれば、どれほど滑稽で、どれほど不作法で、どれほど悲劇的な場面が繰り広げられたかを語ってくれるに違いない。

ワインはおいしかった。ワインを褒めると、判事は「まあまあですかね」と言った。イギリス人はいつになったら、こういう洗練されたもてなしができるようになるのだろうか。こうしたもてなしの心が日々の生活を豊かにし、なんでもない瞬間に彩りをそえるのだから、学ぶ価値がある。

その場所には判事の他にランドルシーの住人が二人いた。一人は忘れてしまったが何かの徴収官で、もう一人はこの土地の公証人会の会長だそうだ。だから、ぼくら五人は多かれ少なかれ法律に関係する立場だということになる*1。となれば話が専門的になっていくのは避けられない。ぼくの相棒は救貧法について偉そうに論じた。その少し後で、ぼく自身は私生児についてスコットランドの法律の話をするはめになった。自慢じゃないが、それについては知識がまるでないのだ。徴収官と公証人はどちらも既婚だったので、そんな話題をもちこんだことで独身の判事を非難した。フランス人もイギリス人も男は皆そうなのだが、判事はそれについて、いかにもうれしそうに自分のことじゃないよと言った。男という者はすべからく、気を許している仲間と一緒のときに、ちょっと女にだらしないと思われたがるというのは、なんとも不思議なことだ!

夜がふけるにつれて、ワインはますますうまく感じられてきたし、蒸留酒はワインよりもっとよかった。この人々は親切だったし、ぼくらのカヌーの旅全体を通しても最高の瞬間でもあった。結局のところ、判事の家に招待されるということは、それなりに公的なものではないだろうか? 加えて、フランスがなんとも偉大な国であるということに思いをいたせば、遠慮なく飲み食いさせてもらってもかまわないというものだ。ぼくらがホテルに戻ったのは、ランドルシーの町が眠りに落ちてからずいぶん経ってからで、城壁の番兵はすでに夜明けに備えている時刻だった。

脚注
*1: スティーヴンソンはエジンバラ大学で土木工学を学んだが、途中で専攻を法律に変えて弁護士となった。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (17)

ランドルシーにて

ランドルシーでは、雨はまだ降っていて、風も吹いていた。だが、ぼくらが見つけたホテルの部屋にはベッドが二つあり、たくさんの家具が備えつけてあった。水差しにはちゃんと水が入れてあったし、食事もきちんとしていて、ワインも本物だった。前の宿では行商人として扱われたし、翌日は一日ずっと悪天候にたたられた後だったので、こういう快適な環境では、心に暖かな日差しがふりそそいだように感じられた。夕食はイギリスの果実商と一緒になったが、ベルギーの同業者と旅をしていた。夕方のカフェでは、このイギリス人が惜しげもなく酒に金を使うのを見た。なぜだかわからないが、なんだかうれしくなった。

ランドルシーには当初予定していたより長く滞在した。というのも、翌日の天気が大荒れだったからだ。ここは、一日骨休みに選ぶような場所ではない。ほとんどの場所が要塞の一部となっているからだ。城壁の内側には数棟の住宅と長く続く兵舎があり、教会が一つあることで、ともかくも町としての体裁を整えていた。商売もほとんど行われていないらしく、ぼくが六ペンスの火打ち道具を買った店の主人は、よほどうれしかったのか予備の火打ち石をおまけでポケットに詰めてくれた。ぼくらが興味を持てる公共の建物といえば、ホテルとカフェだけだった。とはいえ、教会には行ってみた。ここにはクラーク元帥なる人物が埋葬されていた。しかし、ぼくらは二人ともその偉大な軍人のことを耳にしたことがなかったので、不屈の精神の持ち主が眠っている場所にいっても退屈なだけだった。

軍隊が駐屯している都市ではすべて、衛兵を招集したり起床ラッパを吹き鳴らすといったことが、ふだんの生活にロマンチックな彩りをそえることになる。ラッパや太鼓、横笛はそれ自体がすばらしいものだが、軍隊の行進や戦争に伴う苦難を想起させもするので、心をかきたてられるものがある。しかし、戦闘がほとんどないランドルシーのような町では、太鼓やラッパの音はそれだけ目立つし、実際にも、それしか記憶に残っていない。こういうところこそ、暗い夜に行進する軍隊と鳴り響く太鼓を聞くのにふさわしい場所といえるのかもしれない。ここは欧州にある軍隊駐屯地の一つであり、いつの日か大砲の煙と轟音が鳴り響き、戦闘で重要な場所になることがあるかもしれないと思ったりもした。

いずれにしても、太鼓は戦闘意欲をかき立てるし、生理的にも目を見張るような効果がある。扱いにくい形をして滑稽でもあるが、音をたてる道具としては際立っている。太鼓はロバの皮で覆われていると聞いたことがあるが、そうだとすれば、なんとも皮肉がきいているではいか。ロバという生き物は、生きている間は、現代ではリヨンの八百屋に、そしてかつての傲慢なヘブライ人の予言者に酷使されたりしているが、それだけでは十分ではないとでもいうように、ロバが死ぬと臀部から皮がはぎ取られ、なめされて太鼓に張られ、夜になると欧州の軍隊が駐屯しているあらゆる町の通りで連打されることになるのだ。アルマやスピシュラン*1の高地や、死というものが赤い旗をひるがえし大砲の音を轟かせて存在を誇示しているような場所では、鼓手は、この平和を好む従順なロバの腰からはぎとった皮を張った太鼓を激しく打ち鳴らしながら、青ざめた顔で、倒れた同志を乗り越えていかねばならないのだ。

 

脚注
*1: アルマやスピシュラン - アルマはクリミア戦争(1853年~1856年)の激戦地、スピシュランは普仏戦争(1870年~1871年)の激戦地。この紀行が出版されたのは1878年で、普仏戦争が終了から十年も経過していない。