スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (17)

ランドルシーにて

ランドルシーでは、雨はまだ降っていて、風も吹いていた。だが、ぼくらが見つけたホテルの部屋にはベッドが二つあり、たくさんの家具が備えつけてあった。水差しにはちゃんと水が入れてあったし、食事もきちんとしていて、ワインも本物だった。前の宿では行商人として扱われたし、翌日は一日ずっと悪天候にたたられた後だったので、こういう快適な環境では、心に暖かな日差しがふりそそいだように感じられた。夕食はイギリスの果実商と一緒になったが、ベルギーの同業者と旅をしていた。夕方のカフェでは、このイギリス人が惜しげもなく酒に金を使うのを見た。なぜだかわからないが、なんだかうれしくなった。

ランドルシーには当初予定していたより長く滞在した。というのも、翌日の天気が大荒れだったからだ。ここは、一日骨休みに選ぶような場所ではない。ほとんどの場所が要塞の一部となっているからだ。城壁の内側には数棟の住宅と長く続く兵舎があり、教会が一つあることで、ともかくも町としての体裁を整えていた。商売もほとんど行われていないらしく、ぼくが六ペンスの火打ち道具を買った店の主人は、よほどうれしかったのか予備の火打ち石をおまけでポケットに詰めてくれた。ぼくらが興味を持てる公共の建物といえば、ホテルとカフェだけだった。とはいえ、教会には行ってみた。ここにはクラーク元帥なる人物が埋葬されていた。しかし、ぼくらは二人ともその偉大な軍人のことを耳にしたことがなかったので、不屈の精神の持ち主が眠っている場所にいっても退屈なだけだった。

軍隊が駐屯している都市ではすべて、衛兵を招集したり起床ラッパを吹き鳴らすといったことが、ふだんの生活にロマンチックな彩りをそえることになる。ラッパや太鼓、横笛はそれ自体がすばらしいものだが、軍隊の行進や戦争に伴う苦難を想起させもするので、心をかきたてられるものがある。しかし、戦闘がほとんどないランドルシーのような町では、太鼓やラッパの音はそれだけ目立つし、実際にも、それしか記憶に残っていない。こういうところこそ、暗い夜に行進する軍隊と鳴り響く太鼓を聞くのにふさわしい場所といえるのかもしれない。ここは欧州にある軍隊駐屯地の一つであり、いつの日か大砲の煙と轟音が鳴り響き、戦闘で重要な場所になることがあるかもしれないと思ったりもした。

いずれにしても、太鼓は戦闘意欲をかき立てるし、生理的にも目を見張るような効果がある。扱いにくい形をして滑稽でもあるが、音をたてる道具としては際立っている。太鼓はロバの皮で覆われていると聞いたことがあるが、そうだとすれば、なんとも皮肉がきいているではいか。ロバという生き物は、生きている間は、現代ではリヨンの八百屋に、そしてかつての傲慢なヘブライ人の予言者に酷使されたりしているが、それだけでは十分ではないとでもいうように、ロバが死ぬと臀部から皮がはぎ取られ、なめされて太鼓に張られ、夜になると欧州の軍隊が駐屯しているあらゆる町の通りで連打されることになるのだ。アルマやスピシュラン*1の高地や、死というものが赤い旗をひるがえし大砲の音を轟かせて存在を誇示しているような場所では、鼓手は、この平和を好む従順なロバの腰からはぎとった皮を張った太鼓を激しく打ち鳴らしながら、青ざめた顔で、倒れた同志を乗り越えていかねばならないのだ。

 

脚注
*1: アルマやスピシュラン - アルマはクリミア戦争(1853年~1856年)の激戦地、スピシュランは普仏戦争(1870年~1871年)の激戦地。この紀行が出版されたのは1878年で、普仏戦争が終了から十年も経過していない。

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