スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (34)

この町のどこにも他に宿屋はないようだった。町の人に道をたずねると教えてはくれるのだが、たずねていくと、そこはぼくらが侮辱された例の宿屋なのだった。ラフェール中を右往左往したが駄目で、悲しくなってしまった。シガレット号の相棒はすでにポプラの木の下で野宿すると決意し、パンでも食おうぜといった。だが、向こうの方に、城門の脇に明かりのともっている家があった。「バザン、旅館」と看板がかかっている。「マルタの十字架」という名の宿だ。ぼくらはここに泊まれることになった。

この宿は酒を飲んだりタバコを吸ったりしている予備兵で騒々しかった。だから、太鼓やラッパが鳴り響いて、誰もが帽子をとって兵舎に戻っていったときには、本当にほっとした。

バザンという宿の主人は長身で少し太っていた。話し方はおだやかで、繊細な、おとなしそうな顔をしていた。一緒にワインを飲まないかと誘ったが、主人はこの日は予備兵たちとずっと乾杯しつづけていたので、もう結構ですと答えた。自分も働きながら宿屋を営んでいるといっても、あのオリニーの自己主張の激しい旅館経営者とはまったく違うタイプの人だった。この主人もパリを愛していた。若い頃はそこで装飾画家として働いていたのだ。パリには独学する機会もあると彼は述べた。労働者階級の結婚式の参列者たちがルーブル美術館を訪れるところを描写したゾラの『居酒屋』を読んだことがある人は、一種の解毒剤として、このバザンのいうことも聞いておいたほうがよいだろう。彼は若い頃にこの美術館を楽しんだ。「あそこでは奇跡的な作品が見られるんです」と、彼はいった。「それがよい仕事につながるんですよね。心に響くというか、触発されるものがあるんです」 彼にラフェールでの暮らしはどうだと聞いてみると、「私は結婚していて」と彼は答えた。「子供もたくさんいるんです。でも正直にいうと、これは人生というものではありませんね。朝から晩まで、いい人たちだけど何も知らない大勢の人たちのお世話をしているだけですから」

夜がふけるにつれて天気が回復し、雲間から月が姿を見せた。ぼくらは戸口に座り、バザンと静かに語りあっていた。道の向かいにある詰め所では、夜になって野戦砲隊がガチャガチャ音を立てて戻ってきたり、マント姿の騎兵が巡回に出たりして、そのたびに衛兵が整列するのだった。しばらくしてバザン夫人が家から出てきた。一日の仕事で疲れているようだった。彼女は夫に寄り添い、頭を彼の胸に預けた。夫は妻に腕をまわし、肩をやさしくたたいた。バザンのいうように、彼は確かに結婚しているのだった。夫婦であっても、こんな風に自分は結婚しているといえる人は決して多くはないのだ!

バザン夫妻がぼくらのためにどんなにつくしてくれたか、彼ら自身は気がついていなかった。ぼくらはローソク代や飲食費にベッド代は請求されたが、この夫との心地よい会話の代金は含まれていなかったし、彼らのすばらしい結婚生活を垣間見させてくれたことも料金に含まれていなかった。さらに請求されなかったことがもう一つある。彼らはぼくらに礼儀正しく接してくれたが、それがぼくらを本当に元気づけたということだ。ぼくらは思いやりを欲していた。侮辱されたという思いはまだ心に強く残っていたし、夫妻のぼくらに対する扱いは、ぼくらの社会的地位を回復してくれたように思えたのだった。

人生で自分に与えられたことに対して、ぼくら自身がきちんと報いているかといえば、そういうことはほとんどない! ぼくらは財布を取り出していろいろなものに支払をしているが、こういうもてなしの心に報酬を支払うことはないからだ。だが、感謝する心というものは、受けたもてなしに負けないくらいよいものを相手に与えていると、ぼくは思いたい。おそらく、バザン夫妻はぼくが彼らにどれほど好意を持っていたか、わかっていただろう。ぼくがぼくなりのやり方で感謝したことで、彼らもいくぶんかは癒やされたのではないだろうか?

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (33)

 

中に入って服を着替え、ワインを頼むことができれば、行き違いは解決されるだろうと感じていた。それで「泊まれないんだったら、食事だけでもしようか」といって、バッグを下ろそうとした。

そのとき女将の顔に、けいれんの発作のようなものが浮かんだ! 彼女はぼくらに向かって突進してくると、足で床をドンドンと踏みならした。

「出ておいき――出口はそっち!」と彼女は叫んだ。「さあ出ておいき、ドアから出るのよ!」

何がどうなったのかわからなかったが、次の瞬間には、ぼくらは雨の降っている暗い屋外に放り出され、門前払いをくらった物乞いのように入口の前で悪態をついているのだった。ベルギーの親切なボート乗りたちははどこへ行ったのだろう? あの判事やおいしいワインはどこに消えてしまったのだろう? オリニーの娘たちはどこにいるのだろう? 明るい厨房から夜の闇に放り出されると、本当に真っ暗に感じられたが、それはぼくらの暗澹たる思いによるのだったろうか? 宿を断られたのは、これが最初ではなかった。こんな屈辱をまた受けたときにどうすべきか、ぼくは何度も何度も頭の中で対策を練っていた。とはいえ、計画を立てるだけなら簡単だ。だが、はらわたが煮えくりかえっているときに、どうやればうまく実行できるというのだろう? 誰か実際にやってみて、どうなったか教えてくれないか。

放浪者や規範意識について語るのは大いに結構だ。(ぼく自身が実際に体験したように)六時間も警察で監視されたり、にべもなく宿泊を断られたりすると、そうしたテーマについて一連の講義を受けたように、物の見方が変わるはずだ。上流社会にいて、世間というものすべてが自分に頭を下げてくれている限り、この社会の取り決めは非常にうまくいっているように思える。だが、いったん自分が車輪の下敷きにされてしまうと、こんな社会なんか悪魔に食われちまえと願いたい気になってくる。正論を唱えている立派な人々にそうした生活を二週間もさせてみて、それでも彼らに多少なりとも立派な規範意識が残っているとすれば、それは賞賛に値する。

ぼく自身についていえば、牡鹿だか牝鹿だか、そんな名前の宿から追い出されたとき、ぼくは近くにダイアナ神殿があればすぐにでも放火したいくらいだった*1。人間の社会なんか認めないぞと叫びたいほどだったが、それに見合う犯罪など他になかった。シガレット号の相棒も豹変した。「また行商人と思われたのさ」と、彼はいった。「くそったれが。実際に自分が行商人だったらどんな気持ちがするだろうな!」 彼は女将の体の関節一つ一つが病気にかかるよう念力をこめて文句をたれた。シェークスピア作の人間不信にこりかたまったアテネのタイモンですら、この相棒に比べれば博愛主義者だった。彼は罵詈雑言を口にしたかと思うと、いきなりそれをやめて、今度は貧しき者たちに同情してめそめそ泣き出した。「神よ」と、彼は誓った――そうして、ぼくはこの祈りはかなえられたと信じているのだが――これから私は決して行商人にそっけなくしたりはしません」 これがあの沈着冷静なシガレット号の相棒なのだろうか? これが、この男が彼なのだった。あまりの変わりように、まったく信じられない!

その間も、ぼくらのために天も涙を流しているように雨が降り続き、夜の闇が増すにつれて家々の窓は明るさを強めていった。ぼくらはラフェールの通りをとぼとぼと歩いた。店があり、人々が豊かな夕食をかこんでいる住宅があった。馬小屋も見た。たくさんの飼い葉や清潔なワラを与えられた荷馬車を引く老いた馬がいた。あちこちに予備役の姿があった。この雨で彼らも夜間の勤めをなげき、故郷を恋しがっているだろうとは思ったが、彼らも皆、このラフェールの兵舎には自分の居場所があるのだった。が、ぼくらには何があるというのだろう?

 

脚注
*1: ダイアナ神殿 - トルコのアルテミス神殿のこと。ダイアナはローマの呼び方。アレキサンダー大王時代に全盛だったとされるこの神殿は放火などで何度も破壊されたが、その都度再建され、世界の七不思議として知られている。
スティーヴンソンによるこの航海の少し前にイギリスの探検隊が神殿跡を発掘し世界的に話題になっていた(さらにその数年後にシュリーマンのトロイ遺跡の発見があり、一大考古学ブームが訪れることになる)。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (32)

ラフェールでのさんざんな記憶

その日のほとんどは、モイですごした。というのも、ぼくらはのんびりと物思いにふけったりするのが好きだったし、舟で一日に航海する距離をのばすのは好きではなく、朝早く出発するのもいやだった。おまけに、ここはゆっくりしていきなさいといわんばかりの土地だった。凝った狩猟服に身を包んだ人々が銃や獲物袋を抱えて城から出てくる。こういう快楽を追い求める上品な連中が朝から精を出している一方で、自分たちだけは残ってのんびりするということ自体が楽しかった。こうして気持ちにゆとりがあれば、だれもが貴族のような気分になれるし、侯爵のなかの公爵、さらに公爵を支配者する君主を演じることもできるわけだ。沈着冷静な態度は辛抱強さから生まれる。落ち着いた心というものは当惑させられたり驚かせられたりすることがなく、雷雨のさなかにも幸運や不運に一喜一憂せず、時計のように自分のペースでやっていくことになる。

その日は近場のラフェールまでにした。薄暗くなりかけていたし、舟をしまう前に小雨が降り出したからだ。ラフェールは平原にある軍事要塞化された町で、城壁が二重に張り巡らされている。最初の城壁と二番目の城壁の間には荒れ地と畑があった。道ばたには、あちこちに軍隊名で立ち入り禁止の札が立っていた。二列目の城門まで来ると、やっと町が姿を現した。窓に明かりがともっているとうれしくなるし、煮炊きの煙も漂ってきた。町には仏軍の秋の軍事演習に参加している予備兵がおおぜいいて、彼らはいかめしいコート姿で足早に歩いていた。室内で食事をしながら、窓に当たる雨音を聞いたりするのは、夜のすごし方としては最高だろう。

ラフェールには豪華な宿が一軒あると聞いていたので、シガレット号の相棒とぼくは互いにそうした幸運をわかちあえる喜びにわくわくしていた。どこもかしこもポプラだらけの田舎で雨宿りする家もない人々に雨が降り続く! その一方で、ぼくらはそんなところで夕食を食べられるのだ! そんなところで眠りにつくことができるのだ! ぼくらの胸は期待でふくらんだ。その宿屋には森の生き物の名前がついていた。アカシカだったか牡鹿か雌鹿だったか、もう忘れてしまった。だが、近づくにつれて、そこがとても大きく、とても居心地がよさそうに見えてきたのは覚えている。エントランスは明るかった。専用の照明があるわけではなく、建物のあちこちにある暖炉やろうそくの光が漏れてきて、それほど明るくなっているのだった。皿がカチャカチャいう音が聞こえた。長大なテーブルクロスが見えた。厨房は鍛冶場のように赤く燃えさかり、いろんな食べ物のにおいが漂っている。

厨房というものは宿屋の光り輝く最奥の心臓部であって、いろんな炉が燃えさかり、棚にはずらりと皿が並んでいる。そこへ、くたびれたゴム製の袋を抱え、ぼろぼろの服を着たゴミ拾いのような格好をした二人連れ、つまり、ぼくらが意気揚々と入っていくところを想像してみてほしい。ぼくはそういう輝かしい厨房が見られると思っていたのだが、白いコック帽の連中が大勢ひしめいていて、そのだれもが片手鍋から目を離してぼくらを振り返り、驚いているのだった。女将が誰かはすぐにわかった。彼女は部下に指図していたが、顔を紅潮させ、何かに怒っているようで、とにかくせわしない女性だった。ぼくは彼女に対して丁寧に――シガレット号の相棒によれば丁寧すぎるほどに――泊めていただけますかと聞いた。彼女は冷たい目で、ぼくらの頭からつま先までじっと見て品定めをした。

「宿なら町外れにあるでしょうよ」と、彼女はこたえた。「うちは忙しくて、あんたたちにかまってる暇はないの」

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (31)

実際のところ、オアーズ川自体に問題は何もなかった。このあたりの上流部では、海に向かって、まだとても速く流れていた。川が湾曲しているところも急流で音を立てて流れていた。この激流と闘っているうちに、ぼくは親指を痛めてしまい、その後はずっと片方の手を宙に浮かせたまま漕がなければならなかった。まだ小さな川なのに水車をまわすため取水されたりしていて、水量が減って浅くなったところもあった。ぼくらは舟から足を出して砂まじりの川底を蹴って進まなければならなかった。それでも川はポプラの間を軽やかに流れ、緑の渓谷を作りあげていた。いい女に、よき本、そしてタバコ。その次に来るのが川で、これほど気持ちのよいものはない。この川が命を奪おうとしたことについては、ぼくは許した。結局、その責任の一端は木をなぎ倒した暴風のせいだし、ぼく自身がへまをしたためでもあり、川に責任があるとすれば三番目になるが、悪意があったわけではなく、海へそそぐという川本来の役目を果たそうとしただけにすぎない。何度も迂回し蛇行して海へ向かっているので、海へそそぐのも簡単ではない。地理学者たちはこの川を正確に再現した地図を描くのは断念したようだった。というのも、この川がクネクネと曲がっているのを正確に描いた地図を見つけることができなかったからだ。実際のところ、どんな地図よりもすごいことになっていた。何時間か急流を下った後で、ぼくの記憶が確かなら三時間ほど漕ぎすすんで集落のあるところまで来たので、ここはどこですかと聞いたところ、その場所はオリニーから四キロ(二マイル半)と離れていなかったのだ。(スコットランドのことわざのように)激流を楽しんで漕ぎ下ったこと自体を誇りに思うのでなければ、まったく動かずじっとしていた場合とほとんど同じことなのだった。

ポプラの生い茂った四角い牧草地で昼食をとった。ぼくらの周囲では木々の葉が風に舞い、ざわざわと音を立てていた。川の流れは相変わらず速くて、のんびりしているぼくらをせかしているようだった。ぼくらは少しも気にしなかった。川はどこへ流れていくか知っているが、ぼくらはそうじゃない。急ぐ必要はなかったし、気持ちのよい場所を見つけたら一服して楽しんだ。この時間、パリ証券取引所では株式仲買人たちが二、三パーセントの値動きに声を張り上げているはずだ。だが、ぼくらは、そういうことは川の流れほどにも気にしなかったし、ビジネスの世界で貴重なその時間をタバコと胃の消化をつかさどる神にささげた。急いでしまうと人としての誠実さが失われてしまう。自分の心と友人の心が信頼できるのであれば、明日は今日にまさるとも劣らないよき日になる。また、その間に死んでしまったとしても、もう死んでしまったのであるから、それで問題は解決されている。

午後になると、ぼくらは舟を運河に運ばなければならなかった。川が運河と交差しているのだが、そこには橋がなく、川は導水用の管になっていて漕げなかった。川沿いの道にいたある紳士がぼくらの航海にひどく興味を持ってくれた。それで、ぼくは、シガレット号の相棒がホラを吹きまくるのを目撃するはめになった。相棒はノルウェー製のナイフを持っていたのだが、実際には行ったことのないノルウェーでの冒険譚をあれこれ語った。相棒はしまいにはとても熱くなっていたが、後で、このとき自分は悪魔にとりつかれていたのだと釈明した。

モイは気持ちのいい小村で、城の周りに堀がめぐらしてあった。近隣の畑から麻のにおいが漂ってきていた。ゴールデンシープという宿では、最高のもてなしを受けた。ラウンジには、ラ・フェレを占拠したときのドイツの砲弾やニュルンベルグの人形、鉢にはいった金魚、あらゆる種類の小間物などが飾られていた。女将は太って地味な格好をした、近眼の、肝っ玉母さん風の人だったが、料理の腕は天才的で、自分でもそう思っているようだった。食事が運ばれるたびに彼女もやってきて、しばらく食事の様子を眺めているのだが、近眼なので目を細めて見ながら「おいしいでしょ?」と聞き、期待した「うまい」という返事が得られると厨房に姿を消した。この宿屋で食べたヤマウズラとキャベツというありふれたフランス料理は、ぼくの抱いていたイメージを一新した。それ以降、食事でこの料理を食べるたびに、ぼくはゴールデンシップで食べたものとの落差にがっかりすることになった。モイにある宿屋ゴールデンシープでの滞在は快適なものだった。