米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第75)
テーブルマウンテン
一、厳粛なる啓示者
西暦一六一五年にサー・トーマス・ハーバードは「なに、テーブル・マウンテンに登るくらいはなんでもない。ほら見ろ。船乗りは普段から保養がてら登っておるわい」と喝破(かっぱ)して、一五〇三年にはじめてこの山に第一登山者の誇りを残したポルトガル人、アントニオ・ダ・サルダンハの高々とうごめかす得意の鼻をへし折った。
以後、長い年月が経過したが、この英国の名士の責任ある推奨の言葉を実行して恩にこたえようと、このケープタウンを訪れるすべての船の乗組員は、苦しくもまた栄(は)えあるこのテーブル・マウンテン登山なるものをやらざるをえなくなったというしだいである。
世に名のあるほとんどすべての都市は、その地理的および歴史的な経緯から川の近くが有利なるを悟った。したがって、川をもってその膨張因数の一つとしていない都市は、沿海を有せずして世界に雄飛しようと試みる国々と同様の苦しい立場にある。はたして、ケープタウンは川を有せぬ都市であった。産業を発展させることを断念すべき境遇に生まれてきた都市であった──とはいえ、海港(かいこう)として、ある程度まではその欠陥を償うことはできようが。
これだけですんだならばケープタウンも他の平々凡々たる都市と同じく、ただアフリカの一海港くらいにすら人の注意を引かなかったであろうが、ここにテーブル・マウンテンなる怪物があって、珍奇(ちんき)にして無比(むひ)の引き立て役として、甚大(じんだい)なる紹介力をケープタウンの上にふるうに至った。
中学校の地理書で、きれいでにぎやかなアデレイ通りの背後からおおいかぶさるように不気味に立ちはだかっている山岳風景を見たとき、不思議な恐ろしい町もあるものだと思った。二月十三日、他に比類のない異形(いぎょう)の山塊(さんかい)を右舷船首に一望したとき、人の想像の上に偉大なる魔力をふるうに足る山だと思った。さらに、船が東桟橋に着いて、期せずして練習船に乗っていた者たちの視線を引きつけたものは、港内を、市街を走る電車や街の喧噪など、ケープタウンのすべてを圧して屹立(きつりつ)しているテーブル・マウンテンの圧倒的で気品ある、その威容であった。
不思議にも、このテーブル湾に浮かんだ船からテーブル・マウンテンを仰ぎ見る者は、必ずこの千古(せんこ)にわたってゆるぎなき厳粛なる大啓示者より放射される神秘的霊気(れいき)に触れて、その想像をそそられるとみえて、種々様々な見地から見た種々様々な賛辞が四世紀の長き月日の間においてささげられている。
エマーソンはかつてこの山について、「星霜(せいそう)よ──汝(なんじ)の過去は、現時(げんじ)において汝(なんじ)のまさに誇るべき偉大なる箔(はく)である、永劫不滅を示す大なる黙示である。」とうたった。
サー・ウィリアム・バトラーは「うるわしの郷土、ケープ半島よ!! そこには花が咲き乱れる春と一面の露に月光さす秋がある。さらには、オーク・アベニューと松林と、緑深き山と姫百合の谷とがある。こういう時節に、こういう場所を一望し、わがテーブル・マウンテンはその意味ある変化の極まりなき陰影を投じつつあり」と。
その他、ある者は、この山は謙譲(けんじょう)と敬虔(けいけん)の美徳を教えると言い、ある者はこの山の与える啓示は地上の浅はかなる喜悦(きえつ)やめめしい不平のすべてを消し去ると言っている。
情緒は独立したもので、印象は必ず個性を有するとのことであるから、この山を見て衆生救済(しゅじょうきゅうさい)という悟りを得ようが、天然の厳粛な美に感銘を受けようが、皆、各人勝手である。ただ、ぼくは、この珍しい、この怖ろしい、このまじめなる山を東桟橋からまぶたの間に仰ぎ見たるとき、聖にして偉なる大哲人、厳粛なる大啓示者の膝下(しっか)にひざまづいたときのような霊的な印象を心で感じて、ダイアモンドの採掘で成功し南アフリカの首相にまで上り詰めた、かの偉人セシル・ローズの生涯も治世も財産もその事業も、さらにまた彼の背後に潜む汎英国主義(パンブリタニズム)もみな、この山から放射される精気によって発想され、影響を受けたように思われてならなかった。