現代語訳『海のロマンス』84:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第84回)

グルート・シューア(続き)

グルート・シューアの部屋はいずれもさほど大きくない。客間の鏡板(パネル)は実に見事なインド産チークでできていた。すこぶる神秘的な構図の大きな織物のタペストリーが壁にかかっている食堂には、十五、六人も並べるような大きな長方形の食卓が置かれてあった。

「日曜休日ごとに市民に庭園を公開したローズはまた、その食卓で食事することの名誉と愉快とを彼らに与えた」と本に書かれているのは、これであろう。また歓談(かんだん)笑語(しょうご)のうちに本国からわざわざ下ってきた名士と南アフリカの政策を議論したのもここであろうし、イエズス会の一長老の金剛石(ダイヤモンド)発見の風変わりな新しい方法を揶揄(やゆ)したのもここであろう。

そもそもローズは食卓において自分から話を進める人ではなくて、客が意見や理想を述べるのを微笑をもって静かに聴取するといったタイプの人柄であった。

彼の治世と事業と人格とを生みだした研鑽(けんさん)の部屋、つまり図書室は居間の次にある。布張りの本や革装の本、山羊皮を使った本などが色々の美しい背皮を厚いガラス窓の奥に輝かせ、ギッシリと大きな本棚に積んである。

日頃からローズはギボンの不世出の名著たる『ローマ帝国衰亡史』を読んで、シーザーの人となりや彼に心躍らせていたとのことである。そして一方、彼の寝室にナポレオン大帝が使用したと伝えられる古色蒼然たる時計(クロック)と、ナポレオンの立像とが飾られてあるのを見れば、英雄崇拝(えいゆうすうはい)の傾向がある人々の系統について、面白い事実を発見することができる。

遊戯室の二階はローズの寝室で、その大きな張り出し窓(ベイウインドウ)は人間界の巨人が朝な夕な天然界の巨人たるテーブル・マウンテンに親しんだところだという。

もともと日本人は偉人ゆかりの跡とか、一族存亡の跡とかいう歴史的に著名な場所に到(いた)ると、たちまちインスピレーションに感銘して、むやみに感慨にふけり、むやみに憧憬(どうけい)し、追憶して、同情的にかられた涙もろい気分に陥(おちい)ってしまうのが癖(くせ)である。

ところがこの第一の癖(くせ)に次いで、その強烈な感興(かんきょう)も決して長持ちがしないという第二の癖(くせ)を十分に発揮するので、はたの者は幸いにしてあまり当てられずにすむ。まことに淡泊な、あっさりしたよい気象である。どんな偉人でも、護国救世(ごこくきゅうせい)の大人物でも等しくお宮や銅像で葬(ほうむ)り去られたが最後、きれいに忘れられてしまう。これでようやく義理がすんだというようにすましてしまう。古い昔のことは言うに及ばず、今日この頃の谷垂(たにだれ)の墓地*を訪問した者はなるほどと合点するであろう。

* 谷垂(たにだれ): 現在の東京都品川区西大井。初代内閣総理大臣・伊藤博文の墓所がある。

こういう気象から論じていくと、キンバレーの金剛(ダイヤモンド)鉱を英人の権力内に収め、かのローデシアを創出し、北方のいわゆる国土拡大(グレイト・エキスパンション)に努力し、ケイプ植民地の首相となってはよく善政をしいたローズのために、デビルス・ピークの中腹に広壮な一大記念堂を設立して、どんな男でもいざとなるとローズ、ローズと口癖のようになつかしがる南アフリカの英人は、執拗(しつよう)なネチネチした思いきりの悪い国民かも知れない。

タウンからワインバルグ行きの汽車に乗る人は終始(しゅうし)右側の車窓を通じて、縦線が特に目立つ白い建物を、うっそうたるデビルス・ピークの緑葉の間に見いだすであろう。

ゆるやかな傾斜をもって隠れたる技巧と努力をしのばせる、美しく加工されたけわしい山道が、のどかな春の光陰(ひかり)にのんびりと浮かれ出た蛇(くちなわ)のように延々と山をうねり登る。

快い肺の拡張と、生ぬるい身内の汗とを意識しつつ登り登りて、ホッと軽い息をついたとき、目の前に「肉体(フィジカル)の精華(エナジー)」の像が出現し、それを仰(あお)ぎ見ながら、なるほど評判に聞いたとおり勇ましい武者ぶりだと褒(ほ)めたくなった。見るからに荒馬然とした精悍(せいかん)なる裸馬(はだかうま)に、いわゆる眼光するどく引き締まった体の男が、これもまた裸体(はだか)のまま著(いちじる)しく身体を左方にねじ向けながら危うげに踏みまたがって、拳闘家(けんとうか)に見るような、たるみのない隆々たる筋肉美を、新緑の炎を吐くという盛夏(せいか)の大気のうちに匂わしている。

ギリシャ神話の女怪物ゴルゴン・メドゥーサを斬ったというペルセウスの腕もかくやと思うような手を、精悍(せいかん)の気あふれるばかりにただよう眉間(みけん)に添えて、不敵(ふてき)な面魂(つらだましい)を北の方なるローデシアへと向けている。

なぜ「心霊の精華(スピリチュアル・エナジー)」と呼ばずして、フィジカル・エナジーと呼びならわしたかはわからない。こういうときには、あれこれ考えこんだりせず、あるものをそのまま素直に受け入れる性格の人がうらやましい。

この騎馬像(エケストリアン)は、かの英国はロンドンのケンジントンにある像と同じくワッツ*の作であって、グレイ伯とワッツ夫人との承諾のもとにここに飾られたという話だ。

* ジョージ・フレデリック・ワッツ: 英国の画家・彫刻家(1817年~1904年)。フィジカル・エネルギーと題する騎馬像は南アフリカのセシル・ローズにささげられた。鋳造された作品は二体あり、それぞれロンドンのケンジントンと南アフリカのローズ・メモリアルに設置されている。

夕闇(ゆうやみ)の空に美しくちりばめられた星のように光る多くの鉱物を含む花崗岩(みかげいし)を重ねた、コロシアム式に太い円柱(コリーム)の列群と二つの翼房(ウイング)とを持つ、いわゆる「殿堂」に通じる石燈(せきとう)の左右には、スワンの作と伝えられる八つのいかつい獅子(しし)の像がある。

「殿堂」の中にはベイカーの作とされる、テーブルにもたれてまさに来るべき飛躍(ひやく)を夢見つつ瞑想(めいそう)にふけっているローズの胸像(バスト)がある。すこぶる陰気(グルーミー)な表情をしているが、最もよくローズを表しているとの評判である。

像の上の碑文に To the Spirit and Life work of Cecil John Rhodes who loved and served South Africa (南アフリカを愛し奉仕したセシル・ジョン・ローズの精神と生活に捧げる)と彫られてあるのを見て、意味もなく気まぐれな悲哀が胸に満ち、そぞろに涙ぐむ心地がした。

この心地は、グルート・シューアの一部を占めるジェイムソン博士の邸宅のほとり、深い涼しい松並木や美しい花の冠をいただく生け垣の間を、かわいい目つきをしたリスの幾群れかが飛び交う平和な郊外の風光にふれてきたことによる複雑な気分から来たのか、またはこの山腹から茫漠(ぼうばく)として涯(はて)しなきテーブルのように平らな夕暮れの夢幻的な情趣(じょうしゅ)――それは泰西(たいせい)の風趣(ふうしゅ)に一貫して独特なる――にかられたためか、いまだに疑問である。

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現代語訳『海のロマンス』83:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第83回)

グルート・シューア
――セシル・ローズを想う――

「ケープタウンの名物はテーブル・マウンテンとシルバー・リーフ、それにセシル・ローズにて候(そうろう)」と、誰かの手紙にこんな文句があったのを覚えている。名物とはおかしな言葉だが、南アフリカを最も簡単明瞭に代表するものとして、この三者を選ぶのはすこぶる適切である。

偉人の生活は、彼らの生きていた年代と、その当時の周囲の状態とが与える景色(パースペクティブ)によって、最も明確に描写されうるとのことである。かの汎英国主義(パン・ブリタニズム)の張本人にして、キンバリーのダイヤモンド鉱山の経営者であり、アフリカ縦貫鉄道の企画者にして、偉大なる平民的な南アフリカ人(サウス・アフリカンダー)であることに満足していたセシル・ローズ閣下(ライト・オノラブル)が、風光明媚のミューゼンバーグで、”So Little done, so much to do”(達成したことは少なく、やるべきことは多い) という有名な別辞と共に逝去されたのは、つい一九〇二年のことである。されば、われわれはこの世界的偉人の内的生活を想い、かつは同時に偉大な業績をしのぶため、氏の拠点でもあったグルート・シューアの与える景色(パースペクティブ)に浴するのは、唯一にして最も確実な方法である。

「グルート・スキュアーへの道順は……」と尋ねるや否や、テーブル・マウンテンの一件で知りあいになった例のアディックソン老は無遠慮にもアハハハハと心地よげに笑い出した。何がアハハハハだ。英国人にも似合わぬ無作法者めと腹の中で少しく憤慨(ふんがい)していると、すこぶる悦にいった先生、おかしくてたまらぬという表情を強いてやわらげながら、「誰でも初めての者はついグルート・スキュアーとやりたくなるがね、実はオランダ語でグルート・シューアというのさ。英本国から来るそうそうたる名士でさえきっと失策(しくじ)るんだからね」と、なぐさめるように言って、「君なんかは無理はないさ、まあ安心したまえ」は、得意の表情に富んだ目で物を言っている。

厚い皮張りの見事なイスに腰を下ろしたとき、光沢(つや)やかにニスを塗った樫の客車の重い扉(ドア)に Wacht tat dat de trein stopt と Wait till the Train stop (列車が停車するまでお待ちください)とが行儀よく二行に書かれてあるのを見て、今日のグルート・シューア行きの期待と感興とに少なからぬ恐慌(きょうこう)を生じたのを自覚した。議会で英語とオランダ語の二カ国語が差し障(さわ)りもなく併用されているのみか、こんなささいな汽車の中の注意書きにさえ、南アフリカのオランダ人に対する配慮が見られるのは、かの偉大なる大英主義を唱道した人の権威を疑わしめるようで、行きずりのぼくらにさえあまり気持ちのよい感じがしないのに、本家本元の英国人がよくも辛抱できることよと、少なからずその根気のよいのに感服(かんぷく)した。もっとも、ローズを称揚するのは英国人だけで、オランダ人は「フフーン、あのジョンが」と、しゃくにさわるほど軽く鼻の先であしらっている。

汽車はロンデボッシの停車場(ステーション)にぼくらを下ろし、さっさと行ってしまった。樫(かし)の涼しい木陰を、強い昼下がりの太陽光線をさけながら歩いて行くと、道をひとめぐりするまもなく、ぼくらの前に多くの鋭角と曲率(カーブ)とを組み合わせた奇形の破風(ゲイブル)を前景にした、目もさめるような広壮なオランダ式の一大建築が現れた。細緻(さいち)の技巧を示す赤レンガと、理髪店(とこや)の看板のような、例の飴(あめ)の棒のように奇妙によれた煙突(チムニー)と、中央の破風(ゲイブル)を飾るファン・リーベック上陸*を表現した浅浮き彫り(ロー・レリーフ)とが際立(きわだ)って訪問者の好奇の心をそそる。

* ファン・リーベックの上陸: ヤン・ファン・リーベック(1619年~1677年)は、アフリカ大陸南端にあるケープ植民地を建設したオランダの植民地監督。
この植民地を建設する前、鎖国中の日本の長崎・出島にも来ている。

ローズがその華々しい公的な生涯に入って、その名声がようやく世間で認められるようになったとき、彼は自分の名声を慕(した)ってくる多くの訪問者に適切に応接するため、住居を定める必要を感じた。かつてキンバリーでジェイムソン博士と二人で移動式ベッドを唯一の休養所としていた独身者の簡易生活も、またはアデレイ街の一銀行の二階で、同居者たるキャプテン・ベンフホルドに衣服の世話までやかせた仮住まいの生活も、共に周囲の状況がこれを許さぬこととなった。

テーブル・マウンテンに到る裾野(すその)にかけての広大な地面がローズによって購入されたとき、彼がみずから「お寺」と呼んだその丸い破風(ケイブル)に大理石の付柱(ピラスター)がある家も、ライオンやシマウマやラマなどが飼育されている大きな動物園も、日本の伊万里焼やローデシアのオランダ式遺物や有名なるジムバベ塔の装飾物などを陳列しているその博物館も、みなこの敷地の上に建てられるように設計されていた。そのとき、彼は声明を出して、このわが企画には二つの目的がある――市民共同の遊歩地とすることと、わが愛するテーブル・マウンテンの雄姿をこれによって引き立たせることである、と。ぼくは天下に希有(けう)な、この天然の壮大なる引き立て者を反対に引き立てるのだと言い放った彼の肝(きも)の太さと抱負の偉大さとに、心からの痛快味(つうかいみ)を感じずにはいられない。

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現代語訳『海のロマンス』75:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第75)
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テーブルマウンテン

一、厳粛なる啓示者

西暦一六一五年にサー・トーマス・ハーバードは「なに、テーブル・マウンテンに登るくらいはなんでもない。ほら見ろ。船乗りは普段から保養がてら登っておるわい」と喝破(かっぱ)して、一五〇三年にはじめてこの山に第一登山者の誇りを残したポルトガル人、アントニオ・ダ・サルダンハの高々とうごめかす得意の鼻をへし折った。

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