ヨーロッパをカヌーで旅する 42:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第42回)


カヌーの運搬を頼んだ荷馬車の御者はちょっと変わった客、つまり英国旗を掲げたボートを運んでいることが自慢のようだった。それで、友人と出会うたびに、説明を繰り返している。細かいことはわからないが、かなり話を誇張して伝えているようだ。聴く相手もたいてい大喜びしていた。とはいえ、ツークの町を出たところで、この立派な御者先生に運賃の十三フランを払い、もうこの辺でいいですよと言うと、こんな中途半端な場所でよいのかと、ひどく面食らったようだった。出発の準備や何かで朝から動きまわって休憩もとっていなかったので、ぼくとしては一刻も早くカヌーを水面に浮かべて、のんびり休みたかったのだ。とはいえ、「イギリスから来て荷馬車で運ばれているボート」を見たいという町の人々の好奇心から逃れることはできなかった。見えないようにカヌーを石積みの土手の背後に移したのだが、町の人たちは土手の上によじ登り、立ったままこっちを眺めている。ぼくはそっけない顔をして何も言わずに座っていた。連中も同じように腰を下ろし、辛抱強く待っている。そこで作戦を変更し、カヌーを上下さかさまにして修理するふりをした。底板の継ぎ目にそって赤いパテを塗ってみせる。連中は、その作業が終わるまで、じっと見ている。仕方がないので、同じことを隣の継ぎ目でも繰り返しながら、これを全部やらなきゃならないんですよと説明する。さすがに、そこまでは付き合いきれないと、こっちの意図を察した何人かは腰を上げたが、前列のその空いた場所は、すぐに他の人で埋められた。こんなことを繰り返すのは相手にも失礼な気がしたし、ぼくの方も冷静になってきたので、カヌーを湖に浮かべて荷物を載せ、水上から見物人たちに「アデュー」と別れを告げた1

原注 1: この別れの言葉は、他のフランス語と同じく、ドイツやスイスでもよく用いられている。

パドルに水を感じると、また新しい活力がわいてきた。やわらかく、しなやかな流れと水面の穏やかなうねり──埃(ほこり)まみれの陸の旅の後では、こうしたことがまた新鮮な喜びを感じさせてくれる。こういう文字通り流れるような川旅を体験してしまうと、陸上の旅にはもう戻れないような気もしてくる。

ツーク湖は小さな湖で、山があるのは片側だけだ。そこから見事な丘陵が広がっている。リギ山や百を超える峰々が重なり合ったり、峰と峰の間に独峰が高くそびえたりしている。あまりにも風光明媚すぎて、下手な説明なんか、かえって邪魔なくらいだ。それに、この景色は旅行者にはよく知られてもいる。いろんな店のウインドウに、ここの風景を描いた絵が飾ってあるし、実際に現地に行って自分の眼でながめたことのない人であれば、そうした絵だけでも十分に楽しめるだろう。冠雪した山々を一望したときの感動は、とうてい言葉では伝えることはできない。

Zugersee

ツーク湖 [Lake of Zug, Author= Matthias Alder]

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ヨーロッパをカヌーで旅する 41:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第41回)

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この湖では翌日もカヌーを漕いだ。とても楽しかったが、その魅力の多くは、事前にまったく何も決めておかなかったことにある。つまり「十時までは、ここにいなければならない」とか「夜はあそこで眠らなければならない」といったスケジュールに縛られることがなかったということだ。風の吹くまま好きなようにセーリングで風下に向かってもいいし、朝食をどの村で食べるのか、どこで水浴びしようかといったことも自由に決められる。入江を見つけたら、そこをカヌーでぐるっと一周して探検しても構わない。昼食は対岸に渡ってからにしでもいいし、どこかの岸に寄って食べてもよかった。気が向いたら、カヌーに乗ったまま食べたって何の問題もない。

ぼくは、荷物を持たず首輪もなく、着古すということのない毛皮というコートを一着だけまとって歩きまわっている犬のような気分だった。

水の上を存分に楽しんだので、ちょっと休憩するためにホルゲンに上陸した。うれしかったのは、ホルゲンの子供たちが大喜びしてくれたことだ。見慣れない舟が来たというだけで、子供というのはどうしてあんなに飛び上がったり跳ねまわったり、歓声をあげることができるのだろうか。今回の航海では、どこへ行っても若い人たちが喜んでくれたが、そういう反応を目にするのも大きな楽しみの一つだった。これまでの航海を思い起こしてみると、太ったのや、そうでないのや、何千人もの子供たちや子供っぽい表情を浮かべた顔が目に浮かんでくる。

こうした若い友人たちは、カヌーを荷車に乗せ、御者が脇に立って進み、カヌーの船長たるぼくがその後をてくてくついていくときには、さらに嬉しそうだった。子供たちの母親が何人も家の外に出てきて、そうした行列をにこにこ眺めている。「その舟でイギリスまで行けるの」と聞く人もいる。ぼくの返事は何通りか用意してあって、その日によって違う。「さすがにクリノリンのペチコートを着た女性を乗せるスペースはありませんね」など。その返事をしたとき、一度だけ、じゃあ着ているクリノリン生地のペチコートを重ねてふくらませたスカートは家においてくるから、という女性がいた。これもフランスだったと思うが、別のときには「お金がないから、クリノリンのペチコートなんか着たことないわ」という婦人もいた。

カヌーについては、相手の好奇心に応じて、さまざまな反応があった。質問はせず、念入りに調べ上げるというタイプの人もいたし、逆に、調べたりせず質問攻めにする人もいた。カヌーを持ち抱えて重さを実感したり、掌をデッキに載せ、磨き上げられたシダー材のなめらかさを感じとろうとする人もいた。船底を見てキールの有無をチェックする人もいれば、ロープを曲げて柔らかさを確かめたり、脇に置かれたパドルを握って「実に軽い」という人もいた。カヌー各部のサイズを測定し、さらに突っこんだ質問をする人もいたし、軽くげんこつで船体をたたいたり、すまし顔でカヌーをスケッチしたり、銅釘を食い入るように調べたり、絹地の縁が少しほつれて色あせしている旗にそっとさわってみたりする人もいた。このバージー(三角旗)はどこでも興味の的となったが、まず吟味してみるのは女性たちだった。旅をする者の日々は、こういうちょっとした、どうということもない、すてきな出来事に満ちている。単にどこへ行こうかとか、どこで一息つくか、どこを見物し、どこで人と話をするかといったことは、気高い精神力といったこととは関係ないが、夏の暑さをやりすごすには十分だ。

チューリヒ湖とツーク湖はそれほど離れていない。森林地帯の高い峠を越えることになるが、ちゃんとした道はあるし、歩いても三時間ほどの距離だ。とはいえ、ぼくが歩いたのは十二時から三時までという、一日で日射しが一番強い時間帯だった。暑さと埃(ほこり)にまみれ、ぼくはまた水の上に出たくなった。地図で調べると、ツーク湖まで通じている川は、カヌーを漕いで行けそうだった。しかし、地図というものは、川がカヌーで漕ぐのに適しているかについては教えてはくれない。どの川も紙の上で曲がりくねって引かれている黒い線にすぎない。これだけでは川の深さや流速はわからないし、荷車の御者や宿の主人たちにしても、そんな情報を持っているわけではない。彼らの商売では道がどうなっているかが重要なので、川がどんな風かを知っておく必要はないのだから。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 40:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第40回)


翌日、鉄道の駅で、ぼくは「貨物」受付の窓からカヌーの尖ったバウを突っこみ、「ボートの料金」をたずねた。係員はまったく驚いた様子を見せなかった。というのは、ぼくがイギリス人だとわかったので、どんな奇人変人や狂人的な行動であっても、イギリス人ならやりかねないと思っているのだった。とはいえ、ポーターや警備員、運転士とはちょっと面倒な議論をした末に、やっとカヌーをなんとか貨物車のトランクの間に押しこむことができた。アメリカ人旅行者の尖った鉄張りの箱が薄いオーク材のカヌーに穴をあけていないか、鉄道会社に代わってときどき確かめた。プラットホームで積みこみを待つ頑丈な木製の樽がごろごろ転がされてカヌーのすぐそばを通るのではないかとか、魚籠や鉄の棒や木箱やいろんな不格好な貨物がカヌーに当たりはしないかとか、どうにも気になって仕方がない。こういうものって、汽車が停車したりするたびに貨車の中で倒れたり転がり落ちたりするものなのだ。

単なる物にすぎないカヌーに対して、こうして心配したり不安になったりするというのは、生き物ではないモノに対し、楽しみや苦しさを自分に置き換えて感じたことのない人にとっては、ちょっと異常だと思われるかもしれない。しかし、それ以外の人たちは、こういう航海ではボートに対する愛着がどんなに強いか、わかってくれるだろう。ここで強調しておきたいのは、こういう華奢な乗り物で旅をする人が今では増えていて、旅の折り返し点をすぎると、そうしたモノをなんとか無傷で母国まで持って帰りたいという気持ちが日増しに強くなってくるということだ。

チューリヒまでカヌーを鉄道で運搬する料金は二か三シリングくらいだった──駅とホテル間の運搬に要した費用の方が高くついた。そこからまた車両に載せて、古き良き鉄道の旅のようにトンネルを抜け、スイスを象徴する山岳地帯に到着した。そこにはスイス各地から旅行者が集まってくる。ホテルや巨大なレストランが立ち並び、さまよえるイギリス人にたっぷりの食事を提供したり、食事療法を施したりするのだ。むろん、値段はめちゃくちゃ高い。

ここでは、またしてもぼくの食べっぷりが噂になって、それに悩まされた。そう、これはしょっちゅうで、疑いもなく身体に関することなのだが、山に登ったりカヌーを漕いだり、ラバを御したりと、旅人が自分の筋肉を使って自分の体と荷物を運んでいる場合、たんぱく質をいかに取り込むかというのは、少なくとも当人にとっては死活問題なのだ。

スイスやドイツで快適に過ごしたいと思うのであれば、宿泊はドイツのホテルがおすすめだ。景色のよい観光名所の近くに建てられているイギリス人観光客向けの巨大な宿舎は避けた方がいい。汽車や蒸気船から降りた観光客はそのままバスへと乗せられ、待ち構えたホテル業者のところへと運ばれていくのだが、パパとママと三人の娘、それにお手伝いさんが一人という家族がいる。むろん、案内人が付き添ってくれる。また登山杖を持った、どこか戸惑った様子の女性もいる。手にしている白く長い杖はスイスに着いたときに渡されるのだが、それをどう使うのか、当人には見当もつかないのだ。次に、同じ車両から一ダースもの若いロンドンっ子の集団が下りてくる。一行は男も女も表面を取りつくろった顔をしているが、内心は心細さを感じているので、ホテル経営者は好きなように扱える。

添乗員と一緒ではなく、妻や重い荷物や娘も連れず、ぼくは一人でホテルに入ると、勇気を振り絞って、骨なし肉とジャガイモを注文した。三十分ほどして、肉二切れにホウレンソウを添えたものが出てきた。どちらも一口で食べ終えたし、冷えてもいた。果物を注文した。ナシが出たが、傷んでいた。小さなブドウも一房も出たが、これは高級品だった。代金として二シリングを払った。

翌日は、それと対照的に、湖を三マイルほど漕いで下ったところで、前日と同じように骨なし肉とジャガイモに果物付きの食事を注文した。今度は、二流のドイツの宿屋だ。骨なし肉がすばらしいジャガイモを添えて出されたが、実においしかった。果物は大粒のブドウや桃、果汁たっぷりのナシ、熟したリンゴと赤く色づいたプラムが、大きなカゴに盛り合わせて出てきた。代金は一シリング六ペンスだった。なぜこうなるかというと、イギリス人は値段が高くてもブツブツ言うだけで代金は払ってくれるが、ドイツ人は払わないからだ。イギリス人なら我慢できる料理にも、ドイツ人は我慢できないというわけだ。別にホテルの経営者を責めているわけではない。彼らはできるだけお金を稼ごうとしているわけだし、金を稼ごうとすると、誰でもそうなってしまうというだけの話だ。

夜明けの薄明かりのなかで、チューリヒ湖をカヌーで出発した。夕方まで快適な航海だった。涼しく、静かで、湖面には周囲の色彩豊かな集落が映っていたし、柔らかい歌声やゆったりとした音楽も聞こえていた。月が昇ってくると、はるか遠くの冠雪した山々が銀色に光った。カヌー用のボートハウスを見つけたのは、このときだけだ。また、カヌーが手荒に扱われたのも、このときだけだった。翌朝、責任者だというまじめで実直そうな男がやってきた。カヌーは無残にもひっくり返り、浸水しているのがわかった。座席は放り出され、周囲に浮いていた。カバー類もだめになっていた。帆は結び目がほどけていたし、大切なパドルは、汚い手で握られたために汚れていた。こうしたことを心苦しく思った男は、英語とドイツ語とフランス語の罵詈雑言を黙って聞いていたが、代金の半フランとともに、そのことをずっと忘れないはずだ。それ以来、ぼくは面倒でも、カヌーは必ずホテルまで運ぶようにした。ここでは、もう一つ別の体験もした。荷物を蒸気船で送っておき、目的地で受け取ろうとしたのだが、荷物が無事に着くかなと心配になり、なんとも気がかりで、利便性という効用も吹き飛んでしまった。カヌーの旅では、荷物は常にカヌーのどこかに収納し、自分で持ち運ぶべきだと痛感した。自由であることが、カヌーイストの喜びなのだ。


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ヨーロッパをカヌーで旅する 39:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第39回)


第七章

朝になると、大気に不思議な変化が生じていた。あたり一帯が白く濃い霧に包まれていた。これは「ぞくぞくするような川下り」ができそうだと思ったので、急いでこの乳白色の世界にカヌーを浮かべた。たとえば、橋の下をくぐるとする。人々の声がまるで頭上から、というか天から降ってくるように感じられるのではないかと思ったのだ。しかも、この霧は十一月のチェシャ―チーズほどにも濃厚で、それだけ興味深いものになりそうだった。川旅での霧は何度か経験しているのだが、今回は、つい目と鼻の先にあるカヌーの先端すらまったく見えない。こういう状況──何も見えないまま速い流れに乗って漕ぐという状況──は、まったく予想外だし、新鮮でもあった。何も見えないという状態が、大きな喜びを感じさせてくれる。

空想はいつも無限だ。しかも、脳裏に描く絵はいきいきとして、色もあざやかだ。結局のところ、外部の物体の印象というものは絵にすぎないと、哲学者たちも述べているではないか。景色など見えない霧中の川旅だとしても、頭の中で思い描きながら楽しめばよいのではないか、と。

音もそうだ。声はたしかに聞こえるのだが、魔女や妖精がしゃべっているようでもある。実際には、川岸で女たちが洗濯しながらおしゃべりしているだけなのだろうが。とはいえ、現実と空想の両方で姿の見えない人々の相手をしつつ、神経は極限まで集中させる。またも声が近づいてくる。これは、カヌーがまっすぐ岸に向かっているということだ。気をつけろ! そのうちに霧が晴れてくると、自然の景色の移り変わりが最も興味深いものの一つとなった。山や荒野の旅で、こうした霧に遭遇し、また霧のカーテンが急激に、あるいは徐々に薄れていくのを楽しんだ人は多いと思う。が、なにしろ自分が今いるところは、美しい川の上なのだ。

こうした様子についてうまく表現できればと思ってはいるのだが、なかなかうまく伝えられない。いわば、ターナーの一連の風景画のような景色が左右にちらほら見えたり、頭上に木々や空や城が一瞬だけ輝いて見えたりもした。それがまたベールに包まれ、すっかり隠れてしまったりもした。心の中で、そうした一連の景色をつなげて想像してみるしかない。たまに日光が差しこんできて現実の風景が見えたりもするのだが、それはまったくの興ざめだったりした。しまいには霧はすっかり晴れてしまったのだが、これは太陽神ソールが異様なほど暑い光線を投げかけて霧を払いのけ、自分を隠した恨みをはらしたのだろう。

このあたりのライン川は、土手が急な崖になっている。その向こうには、気持ちのよい草原やブドウ畑、それに森がバランスよく混在して広がっていた。もっとも、カヌーの川下りがそれなりに快適なときは、どんな景色でも好印象になりがちだ。やがて、森が深くなった。背後の山々は屹立していく。流れはどんどん速くなり、丘の上に点在していた家々はぐんぐん近くなり、だんだん都会風になってきた。と思うと、視界がパッと開けて、シャフハウゼンが見えてきた。その間も、不機嫌そうな川音が「前方に急流あり」という警告を発している。こういうところを航行する際は注意が必要だ。とはいえ、別に難所というわけではない。というのも、このあたりになると、蒸気船が通ってきているからだ。蒸気船が航行するような川は、むろん、カヌーにとっては何の支障もない。大きな橋のところまでやってくると、「ゴールデネン・シフ」(英語では、ゴールデン・シップ)という名前のホテルがあった。こういうのを見てしまうと、人は我知らず愛国者になる。というのも、名前はイギリスのもののパクリだし、隣接する壁には、なんとも微妙な一人のイギリス人の巨大な絵が描かれていた。その絵のイギリス人は、スコットランドのハイランド地方の民族衣装らしきものを着ていて、キルト特有の格子柄らしいのだが、イギリスではまったく見かけることのない柄なのだった。

ここでもカヌーは人々を驚かせた。が、その反応は今までにない新しいものだった。現地の人々が「どこから来たの?」とたずねるので、ぼくがイギリスからと返事をする。ところが、相手は、そんなことはありえないと、なかなか信じてくれない。ぼくがたどってきたコースでは、ドイツから来たとしか思えないらしい。

とりあえず宿を確保するという午前の作業はすぐに終わり、それからは一日中ぶらぶらと街を散歩した。太鼓や楽団の演奏が聞こえたので、そっちに行ってみると、そろいの制服を着た二百人ほどの子供たちの集団がいた。本物の銃を持った少年兵だ。命令を聞く合間にリンゴをかじったりしていたが、なかなか勇ましい一団で、歩調を乱す年少の子供をにらんだりもしていた。その子はまだ八歳くらいで、歩幅が足りず、行進についていくのに苦労していた。

連中は小競り合いを模した演習をしていた。ラッパではなく、小さなヤギの角で命令を伝えている。角笛は鉄道でも使われていた。音は明瞭で、遠くからでもよく聞こえる。イギリスの軍事演習でも、この手の角笛を使えば、もっとましになるかもしれない。

シャフハウゼンの滝の上にあるベル・ヴューまでは、わずか三マイルだった。そこまで行けば、気品のある景色が一望できる。ライン川のこの大きな滝は何年か前にも訪ねたことがあった。そのときの記憶よりはずっと立派に見えた。最初に見たときより二度目の方が印象が強くなる景色というのはうれしいものだが、珍しいことではある。夜になると、川はベンガル花火の光を反射して一段とすばらしかった。そして、沸き上がるような水の泡や絶えることのない豊かな水量の流れにその光が当たると、まるで光の川が流れ落ちているようで、魔法のような美しさと華やかさだった。そうした光景はホテルのバルコニーからよく見えた。ホテルにはいろんな国から大勢の旅行者が来ていた。ぼくの隣にはロシア人が、反対側にはブラジル人がいた。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 25:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第38回)


宿の主人はぼくのスケッチブックに興味津々(きょうみしんしん)だった。それで、フランス語のできる友人を一人連れてきた。その人はブリキの管でボートを作ったのだそうだ。人が乗るところが補強されていて、腰かけとオール受けも付いている、世にも奇妙な外観をした細身のボートだ。それはぜひ浮かべてみなくっちゃと、ぼくはなんとか彼を説得してボートを川に浮かべさせ、自分もカヌーに乗って伴走した。二艇で近場を巡航した。二本の金属製チューブを並べたボートは、チューブ以外の部分は足の長いクモのように水面から高いところにある。それに比べると、こっちはオーク材で作った木製カヌーで高さも低い。とはいえ、デッキはニス塗りで小粋に光っているし、旗も風になびいている。二艇で並走する。どっちも単独ですら珍しいのに、それが二隻も並んでいる光景は前代未聞だったろう4

原注4: 英国では今ではペダルを漕いで動かす外輪を持つ双胴船をよく見かけるが、動きは鈍重だ。二つに分かれた船体の内側部分が平行な垂直面になっていれば、この双胴カヌーでの帆走は波のない水面では快適だ。

このあたりの川の雰囲気は、スコットランドのクライド川やその河口付近のカイルズ・オブ・ビュートと呼ばれる多島海に似ていた。国境も入り組んでいる。川に沿ってフランスの集落があり、頭上にはイタリアの空が広がっている。ぼくらは大勢のユダヤ人が住んでいるという集落までやってきた。ユダヤ教の礼拝堂(シナゴーグ)を訪れてみたかったのだ。だが、なんと、ここもまたバーデン大公国になっているのだった。しかも、武装した衛兵が油断なく見張っていて、ぼくらが領土に接近してくるのに気づくと、彼は配置についた。ぼくらと正面から対峙し、上陸するんなら、どこか他の場所にしろと命令した。この男は民間人だったが、その命令はもっともでもあったので、ぼくらはその場を去り、スイス側に向かった。そうして、二隻並んでイバラの生い茂る岸辺に上陸したのだった。イバラの草陰にボートを隠し、丘の上にある休憩所に向かった。六ペンスでワインを飲むためだ。

休憩所では、かわいらしいスイス娘が店番をしていて、イギリス人なら一人知ってるわ、と言った。「イギリス人て、みんなプライドが高いから気の毒よね」とも。そのイギリス人は彼女に英語の手紙を書いてよこしたのだそうだ。じゃあ、その手紙を読んでみてくれないかと、ぼくは彼女に頼んだ。手紙は「いとしの君、あなたを愛しています」と始まっていた。手紙の書きだしとしては、それほど高慢ちきと言われる筋合いのものでもない気がした。連れのブリキ製の双胴船の男は、彼女にコーヒーポットを作ってやろうと約束していた。なにしろ、彼がブリキ職人であることは一目瞭然だったし、なんとも好人物のブリキ職人なのだ。

娘はぼくらがボートやカヌーに乗りこむところまでついてきた。そこに彼女の父親がやってきたのだが、娘が二人の男と一緒にいるのを見て目をぱちくりさせていた。アメリアというこの娘は「誇り高き」イギリス人と船に乗ったブリキ職人に手を振って見送ってくれた。ぼくら二人もそこで別れた。ブリキ職人は大きな四角い彩色した横帆を揚げて帆走し、ぼくはといえば、それと反対の川下の方へ漕ぎ下っていった。

「誇り高きイギリス人」──この言葉を口にした娘が視界から消えても、ぼくの耳にはこの言葉が響いていた。そもそも、ある国の人間が他の国の人間を「誇り高い」──言い換えれば、自尊心が過剰だと判断できるものだろうか。というのも、誇りとかプライドというのは、誰でも同じように持っているものではないのだろうか? これに簡単に答えをだせる人は、天から降ってきた哲学者に違いない。なぜなら、イギリス人でもフランス人でもアメリカ人でもいいが、彼らを第一印象で断言するのは簡単なのだ。だが、実際にその国の人々の間で暮らし、本当に知り合った上で、では彼らはどういう人たちかを判断するとなると、そう簡単ではない。

いわく、ジョン・ブル(イギリス人)は自由を獲得した大昔の勝利を、また世界各地に進出し繁栄していることに、またこの世の終わりまで平和が続くという希望を思い描いて自己満足している。

いわく、ブラザー・ジョナサン(アメリカ人)はまさしく十年前に始まり、ぼくらすべてを本当に驚愕させた南北戦争の勝利に誇りを抱いていて、大海原のかなたの大陸で領土が拡大していく輝かしい未来を楽観的に思い描いて喜んでいる。

いわく、フランス人は自国が輝かしい光に包まれていることを喜んでいる。その光は安全な港を示す灯台というよりは、危険が迫っていることを警告する信号であることの方が多いのだが。いや、それよりもっと悪く、危険な火花や大きな音を伴う戦争という大爆発の予兆かもしれないのだが、それでもフランス人は、他の国がその光を見なければならないこと、その騒音を聞かざるを得ないのに最後にどうなるのかわからないでいることを喜んでいる。

いわく、ジョン・ブルは高所から見下ろして満足している。ブラザー・ジョナサンはその高所を見上げて満足している。フランス人は自分の悪行を他者に見せつけ、自分が世界の手に負えない子供(アンファン・テリブル)であることに満足している。

これまで何週間も、ぼくにとっては毎日がピクニックみたいなものだった。だが、この日に限っては、ぼくは夜も航海を続けた。空気はとてもさわやかで、日没の赤い太陽は、やがて昇ってくる白い月と入れ替わる。川もここまで下って来ると、航海には何の危険もなかった。数マイルごとには集落がある。ぼくは月の光の下での航海を十分に堪能し、シュテインの町で上陸した。夜も遅かったので、川辺にはもう人っ子一人いなかった。到着が遅れたときには、よくあることだ。ぼくはパドルで水音を立てて一かきか二かきし、大きな声で歌を歌った。イタリア語にオランダ語、それにスコットランドのピブロックというバグパイプで奏する景気のよい曲だ*1。それに実際の物音も加えた。すると、それを耳にした暇人たちが集まってくる。そうやって必要な人手を集めるわけだ。

集まってきた人々のうちの一人がすぐにカヌーを宿屋に運ぶ手伝いを買って出てくれた。夜も遅く変な客だったが、宿では上品な女将さんが歓迎してくれた。そのときから、すべてがあわただしくなった。英語でぼくと話をしてみたいというドイツ人がやってきたのだ。何もわからず黙って聞いていた他のドイツ人たちと同じように、彼の英語はぼくにもちんぷんかんぷんだった。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 37:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第37回)

言葉が通じない海外で話をするとなると、絵を描く必要がでてくる。これは、アラブをのぞけば、身振り手振りよりもずっといい。ロシア中央部のニジニ・ロヴゴロドの市場を訪ねたとき、ぼくは「中国人街」で多くの時間をすごしたのだが、チン・ルーという中国人と話をするのがとても難しかった。身振り手振りも役に立たない。だが、連中は茶箱に赤いロウを持っていて、そばには白い壁があった。そこで、ぼくは自分のやっていることについて英語で説明しながら、同時に白い壁に赤いロウで絵を描いてみた。すると、それが興味を引いたらしく、中国人やロシアのカルムイク人、それにどこの国かわからないが異国風の人々が何十人と集まって来るではないか。自分が伝えようとしていた相手の集団は、ぼくの言いたいことを完全にわかってくれたように思えた。

というわけで、カヌーに上達したら、次は通じやすい身振り手振りを覚え、ちょっとした筆記具を携帯しておけば、飢え死にすることもないし、寝るところが見つからないということもなく、ずっと遠くまで、いろんな土地やそこの人々と知りあって楽しく旅を続けることができる。

ヴォルガ川からライン川に話を戻そう。ツェラー湖(またの名をウンター湖)に入ると、流れはずっと穏やかになる。コンスタンス湖の景色に比べると満足できるとまではいえないが、冠雪した山々を背景に持つこの湖は美しくはある。しかも、残念ながらコンスタンス湖には島がなかったが、このツェラー湖にはいくつかあって、そのうちの一つはかなり大きいのだ。ぼくが到着する前、フランス皇帝*1が湖畔の城に二日滞在していたらしい。カヌーで旅している男がやってくると皇帝が知っていたら、もう一週間ほど滞在を延ばしていてくれたのではあるまいか3

皇帝陛下と朝食をともにするには遅すぎたとはいえ、ぼくはカヌーを漕いでシュテックボルンの村に入った。文字通り川の縁に宿屋が一軒建っていて、川旅をする者には便利この上ない環境だ。ライン川のこの付近では、こうした場所をよく目にした。そういうところでは、パドルを手に持ったままドアをたたき、犬に吠えられたりもせず食事を注文できる。熱々のジュージュー音を立てている食事にありつけるのだ。テーブルの支度ができるのを待つ間、カヌーの荷物を整理し、カヌーを窓辺のバルコニーに係留しておく。朝食や食事をとる間も、休憩したり本を読んだり絵を描いたりしている間もずっと、自艇は目の届くところにあるわけだ。

経験から学んだことだが、子供というものは、どんなやんちゃな子であっても、川に浮かべてあるカヌーにちょっかいを出す者はほとんどいない。だが、大人は別だ。どんなに好人物でも、小さな舟が岸辺に残されていたりすると、それを引っ張ってみたり、つっついてみたりしないと気が済まないらしい。



原注
3: この皇帝とカヌーについては、次の記事が参考になる。この記事は四月二十日(皇帝の誕生日)の「グローブ」誌に掲載されたものだ。


「今朝発行された1866年4月6日付の布告により、大臣は、1867年の万国博覧会において、プレジャーボートおよび河川の航行に付随する技術と業界に関連するすべてについて特別展示を行う団体のための特別委員会を設置する。この措置は、素人愛好家の航海が過去数年間に担ってきた重要性を示し──報告書で示されているように、この新しいスポーツに名誉を与えるもので、フランスにおいてこれが発展することを長く妨げてきた古く馬鹿げた偏見をなくすことにつながると考えられている。なんでも英国風を好む皇帝は、特に英国のスポーツすべてを模倣して取り入れることを積極的に後援するようになっているが、マクレガー氏の『ロブ・ロイ・カヌーの航海』を読んだ後、カヌーを展示するよう提案したと言われている。『ロブ・ロイ・カヌーの航海』では、プレジャーボートは単に楽しいだけではなく、フランスの若者たちに人里離れた未知の川や渓流を一人で探検するという多くの新しい発想が展開されている。」


バルト海での航海に用いたロブ・ロイ・カヌーはパリで開催されたこの博覧会に展示された。皇帝はセーヌ川でこのカヌーの性能を自分の目で確かめ、すぐにサールから姉妹艇のカヌーを購入し、それを王位継承者に与えた。この継承者はロイヤル・カヌークラブの一員となったとき、愛艇をローヌと命名し、船長とカードを交換するという良き慣習に従った。

訳注
*1: フランス皇帝 - ナポレオン三世(1808年~1873年)。フランスの英雄ナポレオン・ボナパルトの甥(ルイ・ナポレオン)のこと。
ドイツとの普仏戦争で捕虜になった後、晩年は英国のロンドンですごし、その地で没した。


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ヨーロッパをカヌーで旅する 36:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第36回)


スイスの国境付近のホテルでは一般にドイツ語とフランス語のどちらも通じるし、人々はこうした外国の旅行者の相手をすることにも慣れている。

とはいえ、村をめぐる川旅では、こうした便利なウェイターや複数の言語ができる案内係がどこにでもいるというわけではない。つまり近くにいる人とか、ぶらぶら歩いている通行人に話しかけるしかないわけだ。

言葉が通じない外国からの旅行者と頻繁に接する機会のある人々は、少しずつ「身振りで示す言葉」を習得していく。互いに同じような仕草をやっていると、仲間意識も芽生えてくる。そうなってくれば土地の方言とかなんとかってことも関係がなくなって、カヌーを運ぶ手伝いをしてくれる人を見つけたりするのも簡単だ。つまり、こんな風にやるのだ。

まずカヌーを岸につける。カヌー内部を片づけ、スポンジで水を拭き取ったり、スプレースカートを外したりしていると、そのうち人々が集まってくる。そこで、ズボンのベルトを締め直して歩く用意を整えておく。、ニコニコしながら周囲を見まわし、気のよさそうな人を探し、英語で丁寧に次のようなことを話しかける。身振り手振りは、自国語でその内容を説明しながらやると、より自然にできるようになる。「え~と、ずっとご覧になってたので、ぼくが何をしたいかわかりますよね。これからホテルに行きたいんですけど、そう、ヤ・ド・ヤ。ほら! あなた、──そう、あなたですよ! カヌーのそっち側を持ち上げてくれませんか、そう──そっと、ね、ゆっくり、ゆっくりですよ!──いいよ、そう、腕の下に、こうやって。そう。じゃ行きましょうか、ホテルまで」

となると、自然に行列ができる。子供たちが面白がって先導してくれる。そういうのが好きな子供って、どこにも必ずいるものだ。ギリシャ神話の上半身が人間で下半身が馬のシーレーノスを取り囲む家畜神のファウヌスのように、皆がカヌーを取り囲み、踊るように飛び跳ねたりしている。女たちはそれを見つめたまま、群衆が通り過ぎるまで、おとなしく待っている。土地のお年寄り連中は行列から少し離れた安全なところにいる。こうした行進は、じっくり眺める価値があるのだろう。
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というような具合に、身振り手振りで何かを伝えたいときには、それにあわせて、彼らがわかるような名詞や副詞をその国の言葉で一言、口にするだけで足りる。その代わり、はっきりと発音し、正確に使う必要がある。それが相手にうまく伝わりさえすれば、後は無言でも、全体として間違いだらけの下手なドイツ語でも、うまく理解してもらえる。

とはいっても、その肝心の名詞が思い出せなかったり──あるいは、そもそもそういうことすら下調べしていなかったり──した場合でも、しっかり考えてやれば、それなりに分別のある人が相手の場合は身振り手振りでもかなりの程度正確に伝えることができる。こんな風に──

少し前のことだが、北アフリカのチュニジアにあるカルタゴを出て、アルジェリアの海岸沿いにカヌーで旅したことがある。案内人は、現地で見つけた生粋のカビル族の男だった。どこに行きたいかについては、あらかじめ彼と契約し、訪問地のリストを作っておいた。ところが、その案内人は、ぼくが訪問を希望していた場所を平気で通り過ぎていくではないか。

ぼくはそれを伝えようとしたが、どうしても通じなかった。というのは、ぼくのアラビア語はシリアで覚えたもので、彼の言葉とは発音が違っていたのだ。そうしたある夜、ラバを飼っている集団と出会い、長老がぼくらをジプシーの馬車のような小屋に泊めてくれた。そこで、ぼくは英語で話しながら身振りで目的地について長老に説明した。この案内人はぼくの希望する場所を通り過ぎてしまったのだ、と。それから、ぼくはその場所の名前を発音してみたのだが、全部違っているか、相手にわからせることはできなかった。その場所は「マスクタイン」とか「魅惑的な水域」と呼ばれているのだが、火山性の美しい渓谷で、いたるところで水が沸き上がるように流れ、小さな塩の山ができているところだった。

月の光に照らされて座りながら、身振り手振りでこのむずかしい場所について伝えようとした。ぼくはパイプを砂に浅く埋め、手に水をくんだ。アラブ人はこうした身振り手振りの言葉が好きなので、長老は穴のあくほど見つめている。ぼくは掌の水をパイプのボウルの火に上から降りかけ、吸い口から息を吹き込んでそれを砂ごと吹き飛ばした。その間もずっと英語では説明をしているのだ。同じことを再度やってみた。すると、このイシュマエル*1の子孫の黒い瞳がパッと輝いた。彼は額を打ち、飛び上がった。「わかった」と言っているのだ。それから彼はいびきをかいていた連れのガイドをたたき起こし、大きな声でそのことを教えた。それで、ぼくらは翌日、ぼくが行きたかった場所にまっすぎ向かうことができたのだった。



訳注
*1: イシュマエル - 聖書の創世記に出てくるユダヤ教、キリスト教、イスラム教を信仰する人々の始祖とされるアブラハムの長男。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 35:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第35回)


ここから湖の反対側にあるコンスタンツの町まで漕いでいくのは楽勝だった。とはいえ、そこには税関があり、これを避けて通るわけにはいかない。「カヌーの検査が必要です」「かまいませんよ、どうぞお調べください」というやり取りをしたものの、担当者の上司が不在だったので、明朝までにカヌーを税関まで運んでおいてくれ、という。この件で議論をし、一時間も無駄にした。ぼくはまず「スイスは自由なんじゃないのか」と抗議したい気持ちだ。とはいえ、コンスタンツはスイスにあるのではなかった。この場所は、厳密にはバーデン大公国になっていて、「大」公国という名前を守るために重箱の隅をつつくようなことをやって旅行者を閉口させているわけだった。気のいい地元の人が一人、そういうお役所仕事は恥だと思ったみたいで、カヌーを調べて問題がなければ通してやれよと説得してくれた。

その担当者はまるで三千四百トンもあるブリッグ型帆船でも調べているかのように、小さなカヌーの検査にたっぷり時間をかけた。で、その検査が船尾まで達したところで、ぼくはおもむろにカヌーの隔壁にある丸い穴を指さした。彼はその穴をのぞいた。人だかりができていたが、沈黙して見守っている。穴からのぞいても真っ暗で何も見えない(実際、何も入ってはいないのだ)。お役人は厳かにカヌーについて「入国可」と宣言した。というわけで、晴れてカヌーをホテルまで運ぶことができたのだった。

とはいえ、コンスタンツは、ヤン・フスという、実際に「大」という尊称をつけたくなる、真実を探求する気高い殉教者*1とも縁のある土地なのだ。公会堂では、数百年前にヤン・フスが投獄されていた正真正銘の独房があり、以前に旅行でここを訪れたとき、ぼくは塔から望遠鏡でそれを眺めたことがある。ヤン・フスは鉄の棒で串刺しにされ、火あぶりに処せられた。そのため、彼の偉大な魂は、燃え盛る薪(まき)の山を脱して昇天した。

報復を、ああ、主よ、あなたの聖徒が虐殺され、その骨は凍てつくアルプスの峰々に
捨てられてしまいました
神父たちがことごとく物や石ころをありがたがっているときでさえ
純粋にあなたの真理を守り続けていたというのに

ミルトン*2

ライン川は川幅が広かった。水深があって、かすかに青みがかっている。透きとおっていて、水面下のものもよく見えた。小石まじりの川底は下の方からカヌーへ向けてめくれあがってくるようだったし、集落にある教会なども土手の上で静かに回転しているようだった。川ではなく、土地とそこにあるものの方が動いているように思えた。それほどに川面は鏡のようになめらかで、川はおだやかに流れていた。

この川でもまた漁師を見かけるようになった。立派な網を仕掛けたりしている。さらに、川には四本の杭(くい)の上に建てた標的小屋もあった。標的というのは、一辺が六フィートほどの巨大な立方体である。川の中にある柱の上に設置された別の小屋から、その標的に向けて射撃がなされるのだ。巨大な木片の背後の安全なところに隠れた記録係が、巨大な木片を縦軸に沿って回転させて銃痕を修復し、当たった位置を知らせていた。

コンスタンツ湖はボーデン湖とも呼ばれるが、湖を離れてライン川に入るとまもなく、水路の幅が急激に狭くなった。川幅は逆に幅一マイルか二マイルほどに広がっていた。つまり、あちこちに草の生い茂る島ができていて水路が枝分かれしているのだ。長い棒を差し込んでみると、水の勢いに押されて揺れ動くのがわかる。蒸気船の航路は非常な回り道となっているが、カヌーはそういうところでも快適に飛ぶように流れていくことができる。丈の高いアシの茂った島の背後には、それぞれきまって釣り船がいて、川底に打ちこんだ二本の杭に係留されていたり、釣り船の主が片手でオールを操って音もなく漕ぎながら、魚がいそうな淀みに向かって移動したりしていた──かなり新しいやり方だ──その漁師のもう片方の手は網を繰り出しているのだ。粗雑な造りの荷船も浮かんでいた。深くて流れのあるところでは、なすすべもなく、ぐるぐる回っていたり、巨大な四角い帆を揚げてもっと深い方へ向かおうとしていたり、あるいは無風状態で巨大な四角い横帆が垂れ下がっていたりした──帆の外観については、上下に幅広の紺色の線が二本引かれていた。帆ということでは、ジュネーブの先端がとがった大三角帆*3を広げた様子、特に二本マストで白い帆をこちらに向けて穏やかな追い風を受けて両舷に二枚の帆を展開している様子は、艤装という観点からは、巨大な横帆よりはずっと優雅に見える。

このあたりの川底はかなり起伏があって流れも速いので、ところどころで大きな渦ができている。しかも沸騰するように下から突き上げては盛り上がり、また奇妙な崩れ方をしたりしていた。そしてまた、さっと大きな円を描くように渦をまいてから前方へと進むのだ2



原注
2: こうした大渦は、慣れていないと、接近するにつれて非常な注意が必要に思われるが、そうたいしたことはない。というのは十分に水深があるので、渦はカヌーをひねるように傾けて回転させようとするだけだ。帆を揚げているときは別だが、そう気にすることはない。後戻りしていないかだけ注意していればよい。こうした渦の一つを全速力で横切ってみれば、バウの突然の動きにパドルで対抗する必要すらないことがわかるだろう。何かがカヌーの航行に干渉するわけではなく、そのままこらえておいて、それから渦と逆の方向に漕いでやれば何の問題もない。
 

訳注
*1: ヤン・フス(1369年~1415年)は、チェコ出身の神学者で宗教改革家。歴史的に見ると、マルチン・ルターの宗教改革より百年以上も前から、さまざまな宗教家がカトリック教会の腐敗を糾弾していた。
ヤン・フスもその系譜に連なる一人で、ローマ・カトリック教会を非難したために破門となり、1414年のコンスタンツ公会議で異端として火あぶりの刑にされた。
 

*2: 「報復を……」 - 『失楽園』で知られる十七世紀・英国の詩人ジョン・ミルトン(1608年~74年)の「ピエモント山の虐殺」と題するソネットの冒頭。
1414年~1418年にコンスタンツで開かれたローマ・カトリック教会の公会議で、ヤン・フスは異端とみなされ火刑に処せられたが、この詩はその出来事に触発されたもので、教会の腐敗に対して「神に報復を求め」ている聖書の黙示録の一節(6-10)を下敷きにしている。

*3: 大三角帆 - 帆の形やリグ(艤装)については、こちらで図解しています。

帆(セイル)やヨットのリグ(艤装)による分類と名称

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ヨーロッパをカヌーで旅する 34:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第34回)


その日の午後は、騒々しい二つの楽団でだいなしになった。両者は明らかにライバルで、互いに負けまいと大音響を出しあっていたのだ。とばっちりを受けたのは、週末を湖畔で静かにすごしたいとやってきた旅行者たちだ。ぼくは湖の周辺で長い散歩をしたのだが、この騒音からのがれることはできなかった。おまけに、戻ってくると、月の光に照らされた湖にボートを浮かべている男がいて、打ち上げ花火を発射したり爆竹を鳴らしたり回転花火を放り投げたりしているのだった。ぼくとしては、遠くの、残雪が満月に照らされている山々をうっとりと眺めているほうがずっとよかった。しかも、頭上には「一つ一つの星」がきらめき、それが湖面にも映っているのだ。

コンスタンツ湖は長さが四十四マイル、幅は九マイルほどだ。翌朝早く、心身ともににすっきりして湖にカヌーを浮かべてみた。湖面には、さざなみ一つなかった。すると、もう一度スイスの旅を、以前とは違う新しいやり方でやってみたいという気持ちになった。まもなく、ぼくはカヌーに乗って沖出しし、どちらの湖岸からも同じような距離にあるところまで漕いでいった。ここまで来ると、どっちに漕ぎ進んでも対岸が近づいてくるようには感じられない。それで、一休みした。このときに感じた興奮は確かに初めて体験するものだった。周囲の景色はどこを見ても美しく、どこを眺めるのも自分の勝手だった。どこにも近道はなく、道路もなく、航路も見えない。時間もなく、せかされる予定表もなかった。パドルを漕ぐだけで右にも左にも行けた。どっちに行くか、どこで上陸するかも、まったく自分しだいなのだ。

聞こえてくるのは、一隻の蒸気船の外輪がゴトゴトいう回転音だけだ。しかも、その蒸気船はまだ遠くにあった。その船が近づいてくると、乗客たちはカヌーに喝采してくれた。ぼくの勘違いでなければ、彼らは笑顔を浮かべ、こっちがいかにも楽しそうに、そして素敵に見えるので、それをうらやましがっているというようにも思えた。これからどうするか少し思案したが、このままスイスまで行ってしまおうと決めた。集落が続く湖岸を漕ぎ進み、奥まった入江にある小さな宿屋に寄ることにした。カヌーを係留し、朝食を注文した。宿には八十がらみの老人がいた。彼が主人で給仕も兼ねているのだった。立派な人だった。人は年を重ねるにつれて、年長者には敬意を払うようになる。

その宿屋で食事をしたり本を読んだりスケッチをした。暑く、静かだった。そうしていた五時間ほどの間、彼は日向ぼっこをしながらぼくの話相手をしたり、ぼくの目を山々に向けさせたり、眠そうな声で何かを答えたりしていた。今度の川や湖の旅では、平和でほとんど夢のような休息のひとときだった。激しい川下りをしてきた後なので、なんとも心地よかった。ここには、カヌー旅につきものの急流や悪戦苦闘というものがまったくないのだ。

宿屋の近くに介護施設があった。古い城で、少し認知症気味のかわいそうな女たちが入所していた。カヌーに取り付けた小さな旗が彼女たちの注意を引いた。入所者たちは全員外に出るのを許され、カヌーを見物に来た。楽しそうに笑顔を浮かべ、訳のわからないことを言ったり身振りで示したりしている。この奇妙な集団と別れると、他の場所でまた上陸した。一本のすばらしい樹木があったので、その木の下で一、二時間かけてカヌーの損傷したところを修理した。ちょっとした道具は積んであるのだ。今度の旅の次のステージではイギリス人の視線も気にしなければならないので、念入りに磨き上げた。

あまりに暑く、湖には波を起こすエネルギーすらなかった。羊につけてある鈴が、ときどき、疲れて気乗りしないように、不規則にチリンチリンと鳴っていた。一匹のクモがカヌーのマストから木の枝まで糸を張り、セキレイが近くの小石の上を跳ねながら歩いている。湖水に半分浸かった状態のカヌーと、そばの草むらに寝転んでいるぼくの方をいぶかしげに見つめたりしていた。


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ヨーロッパをカヌーで旅する 33:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第33回)


一九三九年、一隻の蒸気船がここを航行しようとしたが、浅瀬に乗り上げてしまった。努力のかいなく離礁できず、そのまま放置された。というわけで、蒸気船に乗るにはドナウウェルトまで行かなければならない。そこからは蒸気船で黒海まで行くことができる。ウイーンから下流を航行する旅客船は高速で予約も可能だ。

ウルムには丸太のイカダが浮かんでいた。こうした丸太はイル川から来たのだろうと思う。というのは、ドナウ川の上流をカヌーで下っているときには丸太を見かけることはなかったからだ。川には公設の洗濯場がいくつもあった。川に大きな建物が浮かぶように設置され、庇(ひさし)が大きく張り出している。五十人ほどの女性が片膝をついたり低い手すりから身を乗り出すようにして一列に並んでいるのが見える。こぞって服を容赦なくたたきつけている。

ぼくはまっすぐその女性たちのところへ向かった。カヌーを上陸させられるようなところがないか、また駅までどれくらいあるのかを聞くためだ。すると、年かさの婦人がカヌーを運ぶための男手と手押し車を見つけてきてくれた。ぼくがイギリスから来たのだと知ると、女性たちは一斉に前よりも大きな声で話をしだし、懸命にたたいたりこすったりしたので洗われている服がかわいそうだった。

例によって駅ではひと悶着あった。とはいえ、カヌーの取り扱いはその半分にすぎなかった。残りの半分はというと、ヴュルテンベルク王がらみだった。この王様がフリードリヒスハーフェンの王宮に行くための特別列車に乗り込もうとされていたのだ。王族の至近距離にゲーグリンゲンからやってきたみすぼらしい不審な男がいる、目を離すな、というわけだ! この王様は明らかに威厳のある振る舞いをされていたが、すべてが王様らしいというわけではなかった。それどころか、誰も乗っていない王室御用達の列車に敬意を表するよう衛兵に命じるときなど、それを面白がっているようなところもあった。

王様の一行はすぐに出発して見えなくなった。

ぼくが山岳や森林をへめぐり波とたわむれていた十二日間に起きた世の中の動きを知るため、ここで新聞を買った。すると、「アレはどうなってる?」といろんな人に声をかけられた。アレというのは、海底ケーブルを敷設していたグレート・イースタン号での事故と、スイスの氷河で起きた災害のことだ。海底ケーブルの破断と山岳地帯における登山者の死亡事故に何か関係でもあるのかと思わせるほどだった。ぼくが新聞を読んでいる間も、列車はフリードリヒスハーフェンに向けて南下していく。カヌーは貨物扱いで、運賃は三シリングだった。気はすすまなかったが、木片を精緻に組みつけたカヌーの磨き上げた前部甲板に荷札が貼りつけられていた。

コンスタンツ湖*1の北端にある港は活気に満ち、汽車を降りて眼前に広がる魅力的な景色を眺めるだけの価値はあった。この地について、湖を渡ってスイスまで運んでくれる蒸気船を待つ間に半時間もあればあらかた見物できると片づけてしまうのは申し訳ない。ぼくは日曜日には休むことにしている。そのためにここに来たのだ(速く、遠くへ旅行したいというのであれば、逆説めくが、日曜日はむしろ休むようにしたほうがよい)。ホテルは駅前にあり、湖に面してもいたので、ここはまさにカヌー持参で立ち寄るためにあるような場所だった。というわけで、ぼくはカヌーを上の階のロフトまで持ち込んだ。そこでは洗濯女たちがカヌーを置いておくスペースを空けて監視してくれただけでなく、親切にもセイルや激しい航海で傷んでいる他のこまごまとしたものまで修理してくれた。

翌日、プロテスタントの立派な教会で礼拝があった。参列者も多く、きらびやかな衣装を着た典礼係が取り仕切っていた。礼拝は一人の婦人によるヘンデル作曲のメサイアから『慰めよ』の独唱という、絶妙かつシンプルなものではじまった。彼女の声は、この厳粛なメロディーが普通は男声で歌われるものだということを忘れさせてくれた。それから大勢の子供たちが祭壇に上がって十字架像を取り囲み、とても美しい讃美歌をうたった。次に参列者全員が加わり、品よく、しかも熱意をこめて讃美歌を斉唱した。若いドイツ人の牧師が雄弁に説教をたれ、散会となった。



訳注
*1: コンスタンツ湖:ドイツとスイスの国境にある湖で、ボーデン湖とも呼ばれる。面積は約536平方キロで、琵琶湖よりやや小さい程度。

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