現代語訳『海のロマンス』9:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第9回)。


水夫長と木工

「水夫長(ボースン)いなけりゃ夜も日も明けぬ、ましてこの船は動きゃせぬ──」
と気軽な若い一人の水夫が歌っている。

練習船を訪問し、水夫の会食部屋をのぞいた者は、日に焼けた髭面で童顔の小柄な一人の老水夫の周囲に、水夫長(ボースン)々々と親しげに多くの水夫が集まっているのを見ることだろう。水夫長の姓は神谷(かみや)といい、五十年ほど前に、三河のさる漁師の家に生まれたと言われている。

いったい船乗りはいつまでも男くささが抜けず、六十くらいまでは若々しく見えるが、この人もその例にもれず、五十をこえた今日このごろまで、かくしゃくとして若い水夫をしかりとばしている。見るからに貧相な小男だが、その身軽な動作は本当に巧妙で、目もあざやかな離れ業(わざ)を平気でやってのけ、そばにいる士官などをハラハラさせている。マストの上で、足で綱索(つな)を握って両手でむずかしい仕事をしたり、錨に抱きついたまま海面近くまで降りて錨鎖のもつれをとったりするのだ。この男、一九○四年に練習船が神戸の川崎造船所の船渠(ドック)で新造されて以来ずっと乗り組んでいるのだが、つい二日ばかり前に逓信省(ていしんしょう)*1の褒章(ほうしょう)制度によるメダルを貰った。

木工(カーペン*2)は姓を山内と呼び、こちらも練習船の名物男の一人である。「本船の大工は他船にみない優良なる者であるから……」と、常に一等航海士(チーフ)のおほめに預かっている人だ。バルカンの鉄槌*2の下に生まれたというような剛毛の髭に日焼けした黒い顔という不敵な面魂(つらだましい)で、気の弱い者は一目見てびっくりするくらい。

が、この男、面(つら)に不似合いな、やさしい涙もろい心を持っていて、水夫の間に不幸のあったときなどは率先してこれを救助し、誠の心の限りをつくすという変わり者である。

「いまどきの若いやつらのすることは手ぬるくってしかたがねえ」と罵倒する口の下から「無理ねえや、まだケープホルンはおろか紀州灘(きしゅうなだ)も玄界灘(げんかいなだ)*3も通らねえやつらだからなあ」と無邪気な哄笑(こうしょう)をするところなど、なかなかに愛嬌がある。

この人も前記のメダルを貰って、大臣から直接のご褒美(ほうび)だと子供のように喜んでいた。

脚注
*1:逓信省 - 明治時代の政府官庁。当時の役割がそのまま該当する現在の省庁は存在しないが、業務内容は現在の総務省と、民営化された日本郵政(JP)やNTTを併せた役割を受け持っていた。


*2:カーペンはカーペンター(大工)を指す。木造船や帆船の時代には、船大工が果たす役割は大きかった。


*3:バルカンの鉄槌 - バルカン半島にあるギリシャから東欧のブルガリアやクロアチアを含む広大な地域はヨーロッパの火薬庫と呼ばれ、戦火が絶えなかったことから。

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