現代語訳『海のロマンス』142:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第142回)

大シケに苦しめられる

ものすごく黒ずんだ、威嚇(いかく)するような空。むやみにさわぎ、シケる、かんしゃく持ちの海洋(うみ)。冷たい雨に、寒い風。連続した不快な印象だけを南大西洋から受けた練習船は、六月十日になって、ドサッと最後に圧倒的な大シケをくらった。

この、音に聞こえた喜望峰沖でのシケについての物語は、六月十三日に始まった。

海は、昨夜から根気(こんき)よく荒れに荒れて、今は必死の勢いで力のかぎり、根のかぎりに荒れている。晴雨計(バロメーター)は行きどまりなどないかのように、一時間に〇・〇五くらいずつ、ズンズン下がっていく。

しかし、船はシケに対する可能な限りの、あらゆる用意について、手がつくせるだけのことはすでにつくしていた。

これからさらに、いかに海が荒れようが、いかに晴雨計(バロメーター)が威嚇(おど)かそうが、いかに風が強くなってウミツバメ(ストームペトレル)が飛びまわろうが、仕方がない。どうとも勝手にしろと度胸を決めたら、気持ちは案外に落ち着いてきた。

うぬぼれではないが、これでも、この二年間というもの、南に北に、赤道直下や南極海域において、長い波、巨大な波、高い波、いろいろなおそろしい波を矢つぎばやにくらってきた船の兄さんである。少しくらいの波で驚くことはない。

この勇ましい兄さんをいやというほど驚かし、たまげさせた喜望峰の波は、さすがにものすごい。

吹雪のような煙波(スプレイ)が、理由(わけ)もなくむやみに入り乱れ、けいれんし、戦慄(せんりつ)している海面(うなづら)を一面におおって、水平線はぼやけている。そもそも、よく見えてもいない。見張り当番で檣頭(マストヘッド)から海を見おろすと、船の周囲(まわり)には、青い波の頂点が白濁した三角波がワニの歯のような波がしらを立てているばかりで、それ以外は、全体が意味もなくぼやけている。一面に霧(きり)がたちこめたような中を、二千四百トンの楼船(ろうせん)がギギーとよろけながらも危(あや)うげに走っている。

パミール高原から動きの激しい雲がそのまま下りてきたような勢いで、長さ四百尺(百二十メートル)、高さ三〇尺(九メートル)にあまる大波(スウェル)がまっしぐらに押し寄せる。この大波(スウェル)が船にぶつかって破壊しようとする威力はすさまじく、舷側をかめば、船はゆらゆらと意気地なく一方に傾いて、あはやと手に汗をにぎる瞬間、ようやく復元力(スタビリティ)で原姿(もと)に戻る。

見ている人の心は、例の「ハラハラ」と「安心」の間で振り子のようにゆれ動く。かくて、この、音に聞こえた喜望峰沖のシケ物語は、とんで六月の十七日にいたる。

十七日午後一時半、十二の風力*を有する一大陣風(スコール)が北北西から襲来し、一瞬の短い間に、主檣(メインマスト)および前檣(フォアマスト)のトップスル上下四枚を破りさった……あたかも、リボンのごとくに……

と、当日の航海日誌(ログブック)に記入された。

* 十二の風力  当時も使用されていたビューフォート風力階級表で風力12は「秒速32・7m以上」で、風速だけでいえば、すでに「台風」クラス。
ちなみに、北西太平洋の熱帯低気圧で最大風速が17m(風力8)を超えると台風になる。風力12は、日本語では、颶風(ぐふう)という和名が使用される(英語では「ハリケーン」)。

二、三日前から、この荒天のため、事前学習はもちろん中止である。断続的に降りそそぐ雨音と、乱れながらも、よどみなく流れていく舷側の波の音とを聞きながら、静かに昼寝していた自分の夢を覚ますように、激しく響く陣風(スコール)の音が千万の妖魔(ようま)がたたく戦鼓(せんこ)のように響く。

さては、ホワイト・スコール*が……と、なかば肩を起こしかけたぼくの耳をつんざくように、ズッズッズドーンと巨人のような波の手が舷側に当たるのを合図に、一層強くなった。耳を聾(ろう)するばかりのものすごい風の声に入り交じって、ガラガラガラというチェーンの音がする。続いて、驚き騒ぐ甲板上の人々の足音と、バタバタと帆があおられる音がして、船はズズズッと右舷に傾く。

* ホワイト・スコール  熱帯地方の海上で発生する、雨雲を伴わない(ことが多い)急激に吹きおこる風。

さては……!!

一大事が起こったらしい!!

踊るように夢中で昇降口を舞い上がると、三尺幅でリボンのように裂けた主檣(メインマスト)の上下のトップスルが、手傷を負った大鷲(おおわし)のように、それを見上げている乗組員の頭上で激しくゆれ動いている。

見れば、下側のトップスルを張る右シートのブロックがやられたとみえて、シート・チェーンはガランガランとうなりまわり、危険(あぶな)くてそばに寄りつけたものではない。

前檣(フォアマスト)の二枚のトップスルも同じ運命であった。

「総員、上へ……!!!」といううろたえた声を聞く前に、妙に興奮し、緊張した身体にカッパと帽子をつけて、いち早く飛び出す。

恐怖から生まれる、肝を冷やすような心細さと、壮快で絶倫なる実験からくる痛快味(つうかいみ)とで、しばらくはバントラインも引かず、ぼんやりと破れた黒い帆をあおぎながら、壮烈絶倫なる風の力を思わずにはいられなかった。

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