現代語訳『海のロマンス』148:練習帆船・大成丸の世界周航記

米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著

夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第148回)

三、プリンセス劇場

西オーストラリア新聞社の主催によるキングス劇場(シアター)観覧の招待を受けたのは、一昨夜(おととい)のことである。その享楽の色美しい印象の消えぬ今宵(こよい)、またもやプリンセス劇場(シアター)から、独唱(ソロ)と歌劇(オペラ)と器楽(オーケストラ)と茶番とのプログラムを並べての招待を受けた。

バイオリン、チェロ、ギター、クラリネット等の管弦の響きが、心地よい享楽の感興を人々の胸に残して、そのととのったリズムの音波は、なめらかに湾曲したドーム型の天井の奥に消える。

中入りである。

巧みに十七、八の「ボニ・レシー」に化(ば)けおおせた四十女の化粧の技巧(たくみ)さや、うす絹を透(すか)して大潮の寄せるがごとく胸郭(むね)を波打たせながら、錐(きり)のごとく鋭い声で何やらを歌った独唱女(ソロイスト)のことなどを思いめぐらせていると、突然、耳にニワトリの声が聞こえた。

オヤと、ちょっとキツネにつままれたような気持ちになる。

続いて、またも二声(ふたこえ)三声(みこえ)……。驚きと、晴れがましさと、欣(よろこ)びとを表しているニワトリの声が……。

重々しく黒ずんだ緞帳(どんちょう)のうちでは、そわそわと忙しそうな人の気配がして、次回(つぎ)の芸当であるニワトリの曲芸を用意しているのがわかる。

と、たちまち「大向こう」の静寂(しずけ)さを破って、コッケコッコウと巧みにニワトリの真似をする男がある。このひょうきんなな中年のひげ面男の声帯が、まだ最後の一韻で振動している間も、すぐさまその周囲(まわり)からベリーグッドとかウェルダンとかいうヤジのような賞賛の歓声が、場内の聴衆に、その笑い声と騒ぐ用意を与えぬ勢いで、矢継(やつ)ぎ早(ばや)に沸(わ)き起こる。

意外性のある奇妙な効果と、群衆に一斉に注視されて、ニワトリの鳴き声を真似た当人は、ソフトで顔をおおいながら、すこぶる恐縮の体(てい)である。

紳士は腹からの、屈託のない、太い低音(ベース)でハハハ……と笑い、淑女はつつましやかに、きれいな頬に軽い微笑(ほほえみ)を浮かべる。二階席の突き出した特等席たるドレス・サークルにいる練習生の間には、「慶応の向(むかう)先生よりも上手だぜ」などという言葉が聞こえる。

よく教えこんだ利口なニワトリの利口な芸に感心した練習生は、裾(すそ)の短いスカートを着こなした美しい二十(はたち)ぐらいの娘が、その細い、ろう細工のような指をリスのごとくに鍵盤(キー)に走らせながら、わざとかわいい子供の声で、有名な童謡「ワニさん、あっちいって」(“Go away mister chrocodile”)にまたもや魅せられて、しばしは帰船の身であるのを忘れた。

面白い、残り惜(お)しい感興を抱いて場外(そと)に出ると、南半球の冬の夜の雨はさびしく冷たく心もとなく降っている。

四、寂(さび)しきパースの町

汽車は赤い石塊(いしころ)まじりの痩(や)せた草地を北西に走っている。これが例の「植民少年」*で心豊かに想像したオーストラリアの風物とはとうてい思われない。

* 植民少年  一九〇一年に桜井鴎村訳で文武堂から出版された「世界冒険譚」シリーズ(のちに博文館が継承)全十二巻の第七編。
桜井鴎村は津田梅子と共に津田塾大学を設立するなど、女子教育の先駆者の一人で、翻訳者、評論家としても活動した。

緑の薫香(くんこう)が強く鼻に感じられる広々とした牧場の夏景色や、綿のように白い羊の群れが風に吹かれて夕月に低く鳴くような情緒的な幻像は、いま見る現実の世界には薬にしたくもない。

ただ痩(や)せたネヅミ色の汚い綿羊(めんよう)が、力なげに首を垂れて、小汚い小僧の口笛についていくのが、あちらに一団、こちらに一郡と、散在しているばかりである。

パースに着いてみると、日曜だったため、街の通りは極めて静かであった。ただ「春が来た、春が来た」という早春の先駆(ヘラルド)ともなっている「ボロニア*売り」と、新聞売り小僧の他は、電車の中も物寂(ものさび)しく、人っ子一人通らぬ状況(ありさま)であった。

* ボロニア  オーストラリア固有の常緑低木。花の形や色は多種多様。

冬のスワン河は灰色に濁(にご)ってヨットを浮かばせている人もなく、毒蛇(どくじゃ)やカンガルーを収容している動物園にも人出が少なく、ギリシャ、ローマの複製の塑像を見渡す限り、真っ白に飾ってある博物館には、ラオコーンはなぜ苦しんでいるか*、ミネルバはなぜオリーブを捧げているか**わからぬ群衆が、少しばかりおっただけであった。

* ラオコーン  ギリシャ神話に出てくるトロイアの神官。トロイの木馬が罠(わな)であることを見破ったが、息子二人と共に殺された。
** ミネルバ  ローマ神話の女神。オリーブの木を作り出して人間に与えたとされる。

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