米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第59回)
クリスマス・イブ
練習船(ふね)の中で、このクリスマス・イブを最もまじめに、最も楽しみにし、最も期待して迎える者はただ一人の英語教官、ミスター・フィリップである。サルーンにあるその部屋を訪問する。明るい花型の洋灯(ランプ)の下でタイプライターを打っている。机の上には、例の城(キャッスル)とタータンチェックの格子縞と紋章とが美しく描(か)いてあるスコットランドの絵葉書がある。
努めて愛想よく、努めて晴れやかに話すが、人情も風俗もまったく異なった外国の練習船(ふね)で、共に祝い楽しむ友もなく、一人寂しく、一年一度のこの日を送るという、さびしい情(おもい)が心の奥深く潜んでいる。
舌のまわる範囲で、どうやらこうやら慰めたつもりで食堂に帰ると、例のカリフォルニアの母、ミセス・ホラハンの贈り物であるジャムケーキの缶を開けて、みんなで楽しんでいる。一緒に出ているごちそうはカステラと紅茶。
いざ、祝(しゅく)さんかな、ホラハンのクリスマス、いざや歌わんかな、フィリップのクリスマス。
一、紅茶のカップ
あわれ紅茶のカップ
白きカップのめぐるとき
注げよ、いざや
海が荒れようとも風が強かろうとも
腹一杯に飲めや、君
二、甘きジャムケーキ、
あわれ甘きジャムケーキ
君がさかんにぱくつくとき
歌え祝せ
ミセス・ホラハンのプレゼント
眼中にケープホーンなく
勝手次第に高く笑へ。
海上のクリスマスだけに、ブドウの杯(ちょこ)は紅茶のカップで妥協し、王侯はケープホーンに変えてある。女好きの天才、アービングが聞いたら、さぞかし名こそなけれ師匠をしのぐ弟子たる若き詩人が大成丸にいるわいと、驚くことであろう。
餅つき
十二月二十七日。一枚の板を境界(さかい)に上甲板では餅をつき、教室では無線電信学の講義をやる。近頃珍しい、よい天気である。
当直員の中から、一分隊一人ずつの割合で「餅つき係」なるものが選出される。アンテナマストの根本で作った臼(うす)の中へ、コックがポッポと湯気のたつ餅米を放りこんでいく。それっと赤黒い太い二本の手が杵(きね)をつかんだまま、空を切って上下に動く。
「おい、こらっ、右足を出して餅をつくやつがあるものか、それにまたなんだ!? オーイオーイと決闘でもするようなドラ声を出して……」と、仁王様のようないい体格をした男が、こね方の一人に叱られている。
「ハ……ッ、やられたな、しかし進藤、きさまの手つきはなかなかうまいぞ。その水をつけた手でチョイチョイと餅の顔をなでるところは、まるで賃餅(ちんもち)屋の小倅(こせがれ)だね……」
「ハハ……」と笑いながら、太い毛むくじゃらな手がしきりと餅をこねている。
半固体形の餅を介して柔らかく杵(きね)が臼(うす)に当たる音は、帆に船に海に雲に反響して、天下泰平(てんかたいへい)、五穀豊穣(ごこくほうじょう)と、太平のときを謳歌しているように聞こえる。すこぶるおめでたい。すこぶる快活な勇ましい気持ちになる。
「……他の導体の電位をことごとく零とするとき、すなわち一つの導体が他のものと完全なる絶縁状態にあるとき、電池の蓄電容量はその絶対値にある……」とかなんとか、無線電信局長の講義している声が、明かり取りのスカイライトから上甲板に漏れてくる。
局長はまたスカイライトから漏れて入る上甲板の餅の音を聞きながら、「一つの世界が他の者と完全なる絶縁状態にあるとき、静電容量はその絶対値にある……」などと、腹の中で一般原則に帰納しているのだろうか?
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