ヨーロッパをカヌーで旅する 22:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第22回)


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ツットリンゲンの町はライン川の両側に並んでいて、ほぼすべての家が染色業者か皮なめし工場かと思わせるほどで、男たちは川で皮をたたいたり解体したり洗ったりしていた。ぼくはカヌーを流れにまかせていたので、この目新しい乗り物について、少年たちが目ざとく見つけ──男の子というものは(いつの時代もそうなのだろうが)そういうものを見つけると、すぐに何か叫んだり駆け出したりする生き物だ。小さなドイツ人の集団がすぐに周囲に集まってきたが、こっちが期待している宿屋らしきものはどこにも見えなかった。自分が今いるところをじっくり観察できるというのが、川旅の持つ恩恵の一つだ。乗合馬車や蒸気船で運ばれてきた旅行者は、客引きやポーターにつきまとわれたりするが、こちらは川の上という連中の手の届かないところにいるわけなので、そういう煩瑣(はんさ)なことにわずらわされず、どういう町なのかじっくり検討することができる。気が進まなければ、そのまま通りすぎてしまうことだってできる。実際に気に入らなくて次の町まで進んだりしたこともあった。とはいえ、この川旅は今や、まったく窮地に立たされていると言ってよかった。流域の人口がそれほど多くない地域に差しかかっているため、ある町を素通りしたとして、その先にもっとましな町があるのかわからないのだ。上陸に適した場所を探して町外れ近くまで行ってみて、ぼくは水車用の水路に入ってから上陸した。

人々がどんどん押し寄せてきたので、ぼくとしてはそれから逃れるため、たまたま見つけた四輪の小さな手押し車を持っている少年に声をかけ、それを貸してくれないかと頼んでみた。どっと笑いがおこった(むろん、それは彼にとって大いなる名誉なのだった)。で、ぼくらはその手押し車にカヌーを載せて宿まで運んだ。その子にお駄賃(だちん)として六ペンス渡すと、それを見た子どもたちがわんさか集まってきた。ぼくらはカヌーを干し草置き場に吊り上げておき、厩務員に盗まれたりいたずらされたりしないよう見張っていてくれと頼んだ。しばらくすると、大人の見物人たちもやってきて行列ができたので、一人ずつ中に入って眺めることが許された。夜になっても、彼らは──女も男も──提灯(ちょうちん)片手にハシゴに登って「船」を調べていた。

夕方に着替えをすませて村の通りに出てみた。いつもならカヌーで来たやつだとは気づかれないものなのだが、ここでは散歩に出たとたんにバレてしまった。翌朝に出発するときにも、こんな風に多くの見物人が集まってくるのだろう。

ツットリンゲンはとても興味をそそられる古い町だった。立派な宿屋が一軒あり、舗道の状態はよくなかった。高い建物が密集していて、大柄で垢抜けないが正直そうな男たちは仕事をすませて、のんびりしている。仲間同士で集まり、照明のない暗くなってきた通りで愉快そうに談笑したりしていた。馬たちは丸々と太り、楽しげな女性たちに一本の橋、それに大勢の生徒たち──これが、ツットリンゲンの印象だった。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 21:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第21回)


こうしたことは休息について述べているだけで、真昼のぎらぎらした太陽が照りつける前後の比較的に涼しい時間帯に距離をかせぐためにカヌーを漕ぐとなると話はまた別だということは、わかっておいてほしい。カヌーを一生懸命に漕いでいるときには、そんな風にのんびりしている暇はないし、懸命に操船しているときに感じる楽しさも、川を下っていくにつれて変化していく。

出発する時は穏やかだとしても、やがて聞き慣れた水車用の堰(せき)で水が落下する音が聞こえてくる。そういうことは毎日ほぼ五、六回はある。堰に近づくと、ぼくは堰の際まで行って、一直線になっている堰堤に沿って漕ぎながら、そこから下流側を眺めることにしていた。眼下にある数え切れないほどの細流を調べて、どのコースを通るのが最適かを把握するのだ。その頃には、水車を設置している製粉業者やその家族、使用人や近所の人たちが物珍しそうにぞろぞろと集まってくる。ぼくはといえば、毎度のことだが小さなバックパックを背負い、パドルを岸に置き、カヌーを降りて引っ張りながら障害物を乗りこえたり、迂回(うかい)したりすることになる。ときには一つ二つの干し草畑を引いて通ったり、小道や壁に沿って引きずっていって、それから川が深くなっているところでまたカヌーを浮かべるのだった。こういう堰の高さはせいぜい四フィートあるかないかなので、カヌーに乗ったまま頭から「突っ込む」こともできないわけではないのだが、下に岩とかがあってカヌーがそれに激突しひんまがってしまわないとも限らないので、こういうときは素直にカヌーを降り、持ち上げて乗りこえたり、引きずって迂回するほうがよい。

他の場所では、カヌーの船尾にまたがり、両足を水につけた格好で座って、右舷や左舷の岩を蹴りながら慎重に操船しなければならないこともあった3

原注3: このやり方を思いついたのは、この川でだった、この方法の利点は、ラインフェルデンの急流を通過するときにさらに明白になった。あとでスケッチでも紹介するつもりだが、この方法は後に中東のヨルダンでも実際にやってみた。

こういう出来事や浅瀬での渡渉なども多少はあるものの、カヌーに乗っていると、水に濡れることはほとんどない。背もたれに持たれた状態で難所だってスムーズに抜けられるし、流れが早いところでは漕ぐ必要もないので楽ちんだ。そういうところで無理に頑張って漕いで加速させたとしても、何かに衝突したときの衝撃が大きくなるだけだし、そうなれば、どんなに頑丈な舟でも壊れてしまう。

そんなこんなで景色を眺めたり、川沿いの住民とふれあったりしていても、人間の心は貪欲なので、やがてそれだけでは満足できなくなったりもする。とはいえ、やがて何か水音が聞こえてくる。腹にひびくような轟音だ。激流があるのだろう。この音が聞こえてくると、それまで寝ぼけ眼(まなこ)でいたとしてもすぐに覚醒し、全身にエネルギーを充満させなければならない。ぼくはこれまでの航海でカヌーを転覆させたことはなかったが、舟を救うためにカヌーから飛び降りざるをえなかったことは何度もある。こういうときに最優先すべきは舟で、次が荷物だ。特にスケッチブックはなんとしても濡らすわけにはいかない。快適かつ速く進むというのはその次に来る。こういう激しい労働の喜びと休息とを何時間も続け、いろんなものを見たり聞いたりしたわけだが、それについて語りだすと長くなってしまう。ここでは、沈んでいく太陽や猛烈な空腹が、その日の終着点に近づいたことを教えてくれるとだけ述べておく。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 20:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第20回)


マクレガーは、ロシアを除くヨーロッパで最長のドナウ川(全長2850km)の源流からの川下りを開始しました。


仲間の同行者が誰もいなくなって砂漠でラクダに進むべき方向を教えたり、人跡未踏の荒野で一人で馬を駆ったりするのは刺激的ではある。だが、両岸が高い崖になっている未知の川で急流を漕ぎくだっていくカヌーには、そういうものを超えた爽快感がある。

この楽しさは、一つには単に感覚的に動きがとても速いということによる。川で急流を下っていくのは、高所でロープにぶら下がって前方に飛び出すのと同様に、胸がしめつけられるような緊張感がある。ドナウ川での最初の数日は急流だった。水源からドイツ南部にある交通の要所のウルムまでの間、川には千五百フィート(約450メートル)ほどの高低差があった。5日間の航海で毎日三百フィート(90メートル)ずつ下っていく計算だ。だから、そういう日の航海というのは、午前に食事をとる頃が一番元気で、それからは夕方に上陸地点に着くまで休むことなくロンドンのシティーにあるセント・ポール大聖堂と同じ高さを下っていかなければならない。

この航海の楽しみのもう一つの要素は、難所を切り抜ける満足感にある。水路がいくつかに枝分かれしていて、自分が選択した流れに従って半マイルほど進んだところで、選ばなかった水路が中洲を迂回して自分の選択した水路に合流してきたりすると、まちがった水路を選択しなくてよかったと、自然に誇らしい気持ちがしてくる。

こうした感慨にひたりながら緑濃い大平原を曲がりくねりながら進んでいった。川にかかる橋にさしかかると、それだけで文明化した場所のように思えてくる。ある橋の下をくぐろうとしたとき、ドナウエッシンゲンから戻る陽気な歌い手たちを乗せた緑の枝で飾った馬車の一つが、ちょうど橋の上を音をたてて通過していくところだった。むろん、彼らはカヌーを見るなり馬車をとめて歓声をあげ、ドイツ語なまりの英語で「あのイギリス人だ!」「あのイギリス人だよ!」の大合唱になった。

カヌーでドナウ川の水源を出発した朝に集まってくれた、このにぎやかで愉快な人々との出会いがあったおかげで、ぼくの航海はニュースとして近隣の町々にすぐに広まった。そのため、ぼくのカヌー旅はどこでも歓迎され、ドイツやフランスだけでなくイギリスでも、さらにスウェーデンやアメリカでさえも、その進捗状況が新聞で報じられるようになった。

ガイジンゲンという村で、エンジンに燃料を補給する必要があることが判明したので、つまり腹が減って朝飯を食わなきゃと思ったのだが、川の近くには集落がなかった。近くに人もいたし、ぼくは係留ロープを使ってカヌーを岸から離して浮かべておき、利発そうな少年に、ぼくが戻るまでしっかり見張っていてくれと頼んだ。そうしておいて大きな建物まで歩いていって扉をノックし、中に入って朝食を頼んだ。座っていると、すぐにすばらしい食事が運ばれてきた。すると、村の人々が一人また一人と妙な服を着たよそ者を見物しに来た。こいつ、どうやってこんなところまで来たんだ、というわけだ。連中はひそひそ声でそういったことを話しあっていたが、ぼくが食事を終えて代金を払うと、どこへ行くのか確かめようとでもするかのように、ぼくの後をぞろぞろついてくる。こんな風に、いつも旅のそこここで、好奇心にかられた、しかし遠慮深い観察者たちが集まってくるのだった。

話を元に戻そう。八月の日差しは強烈だった。だからといって、途中でやめるわけにはいかない。高い岩場の下や涼しい洞窟、木橋の下や松が生えている崖の際(きわ)のちょっとした長い日陰などでカヌーをとめて休んでいると気持ちがよかった。

ぼくは昼日中には(体を動かすのも嫌なので)岸に上がり、建物の陰や草の生い茂った土手で何度か休んでみたりもした。だが、一番快適だったのは、葉を茂らせたオークの巨木の下にカヌーを係留したまま足を思い切り伸ばし、本を片手に夢見心地で寝そべったり、一日の航海を終えた夕方、川の流域で栽培されている安いタバコの葉を手に入れて前日に宿で作っておいた巻きタバコで一服したりすることだった2

原注
1: 高低差については、地図帳や地理書によって、ここに記載した数値と相違している場合がある。


2: イギリスでよく知られている二つの刺激物──紅茶とタバコ──は、ドイツでも広くたしなまれている。
(1) タバコの木(自生するので雑草木扱いされることもある)の葉を乾燥させて丸める。適当な道具を用いて火をつけ、その煙を吸引する。
多くの人で生じる効果は、気を落ち着かせることだ。が、食欲がなくなることもある。タバコはトルコで過剰に使用されている。葉には毒が含まれている。
(2) 茶の木(栽培もされている)の葉を乾燥させて丸める。適当な道具を用いて加熱処理し、成分を液体に溶け出させて飲む。
多くの人で生じる効果は、元気になることだ。が、眠れなくなることもある。紅茶はロシアで過剰に使用されている。葉には毒が含まれている。
この二つの嗜好品は安くて携帯可能だし、あらゆる地域で何百万もの人々が日常的に楽しんでいる。どちらにも支持者と反対者がいる。この植物が人間にとって有用であるか否かの議論は決着していない。


[訳者注]
タバコがヨーロッパで知られるようになったのは、コロンブスのアメリカ大陸発見以降。日本には、戦国時代にポルトガル人によって鉄砲が伝来したときに一緒に持ち込まれた。
なお、ヨーロッパで紙巻きタバコが普及したのは、十八世紀後半になってから。
また紅茶についても、大航海時代以降にヨーロッパに伝えられ(最初は緑茶)、十九世紀になると、カティーサーク号のような、中国から紅茶を運ぶティークリッパーと呼ばれる大型帆船が速さを競うようになった。
つまり、造船や航海術の進歩と嗜好品を含む新しい産物の伝来や普及とは、コインの裏表のように切っても切り離せない関係にある。
このあたりは、現代のテレビやパソコンやスマホの普及と人々の生活様式や文化の変化との関係に似ている。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 19:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第19回)


いよいよ、ドナウ川の源流からカヌーによる川下りの旅が始まります。


八月二十八日、小さな橋の近くから出発することにしたが、合唱大会に参加していた歌手連中が大勢集まって歌をうたい、カヌーに揚げた英国国旗に別れを告げてくれた。(三日間の宿賃で十三フランも請求した)宿屋の主人は丁寧におじぎをしている(料金をきちんと払ったのだ)。地元の人々に見守られてカヌーを川に浮かべると、ぼくのロブ・ロイ・カヌーは喜び勇んで矢のように進んだ。

はじめのうち、ドナウ川は数フィートの幅しかなかった。が、すぐに大きくなり、大平原を流れるころには、上流域のヘンリー付近を流れるテムズ川くらいにはなった。静かで緑濃いドナウ川は、曲がりくねりつつ平坦な牧草地を、何時間もかけて、ゆったりと、しかしなめらかに流れていく。土手ではスゲが風になびき、岸辺の浅いところには柔らかい水草も茂っている。長い首と長い羽、長い脚を持った一羽の青サギが、さまざまな二十羽ほどのひとかたまりになったカモ類と一緒に餌をついばんでいた。きれいな色をした蝶が陽光をあびて漂うように舞い、ごつい顔のトンボが空中を飛びかっている。

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干し草を作っている人たちが仕事をしていた。なんとも恐ろしげな大鎌を振るう作業の手をとめ、それを水につけている。連中は話をしていた。この実直そうな一団のそばを通りかかると、連中は口をあんぐり開け、こっちを不思議そうに見つめている。が、すぐに我に返ると、帽子をとり、「こんちは」と言ってよこした。彼らは仲間に声をかけ、妙な気どりもなく、こっちを見て素直に笑っていた──小馬鹿にした笑というのではない。祖国から数百マイルも離れたところで小さなカヌーに乗っている男を見て、ちょっとありえない光景に、心底おもしろいと感じているような笑い方だった。

やがて左右の丘陵に、家々や古い城が見えるようになった。それから森に入り、やがて岩場になった。けわしい岩場に荒野、緑あふれる森が混然とし、川というものの持つ美しさが壮大なパノラマのように繰り広げられていく。それが何日も続く。きれいな川は何本も経験しているが、このドナウ川の上流域をしのぐところは、そうあるものではない。森はとても深く、奇岩や高い岩場もあって、変化に飛んでいる。水は透明度が高く、草は青々としている。川は曲がったり向きを変えたりしている。流れも速く、懸命に漕ぐ必要もない。景色が次々に新しくなっていくので、ずっと緊張しっぱなしだ。ボーッとしていると、瀬に乗り上げるか、岩にぶつかるか、無数のブヨやクモがいる木に激突してしまいかねない。そう、これこそ正真正銘の旅なのだ。ここでは、先に進んでいくには、技術や分別が要求される。そうした力を十二分に発揮しなければならない。思うに、人格というものは、こうしたことによって練り上げられていくものなのではないだろうか。というのも、まず自分で選択をしなければならない。それも瞬時に、だ。たとえば、いきなり眼前に五つの水路が出現したりするようなことの連続だ。そのうちの三つはまず安全だろうが、どれが最短で、どれが一番水深があり、現実に航行に適しているのはどれなのかを、瞬時に判断する必要がある。ためらったりすれば、次の瞬間にカヌーは浅瀬に乗り上げてしまう。こうした決断をすばやく行い、それを繰り返すことによって、それがやがては習慣になっていく──これは実に驚くべきことではあるまいか。むろん、そうしたことは何度もひどい目にあった後に可能になるのだったが。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 16: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第16回)


黒い森を進んだマクレガーは、いよいよドナウ川源流のドナウエッシンゲンに到着します。


やっと雨があがって、夏の太陽が顔をだした。路上の水たまりに陽光がきらきら反射している。濡れたカヌーをスポンジでふき、歩いていくうちに、びしょぬれだった体も暖かくなってきた。馬も元気をとり戻し、興奮して実際に駆けだした。道は下り坂になり、太陽は明るく輝いている。森のなかで雷雨に襲われて滅入っていた気分も、ほんの十分ほどですっかり明るくなった。

どんなに厳格な禁酒主義者でも(禁酒といっても、ぼく自身は節度のある飲み方を心がけているだけだが)、こんなときはドイツの蒸留酒であるキルシュヴァッサーを軽く一杯引っかけても許せる気になるのではあるまいか。というわけで、「禁酒している者」はぼくの他にはいなかったので、ぼくは御者とその使用人にたしなむ程度に酒をふるまい、馬には飼料のブランマッシュを与えてブラシをかけた。これで、ぼくらはお互いに満足し、また元気に歩を進めた。

薄暗くなる前に、ドナウエッシンゲンに入った。小さな橋を渡っているとき、ドナウ川については、この水源からそのままカヌーで下ることができるとわかった。というのも、源流域の流れの中央では水深が三インチ(7.5センチ)以上あったからだ。五分もすると、カヌーを荷馬車から下ろす前から周囲には人だかりができた3。

まず、ぶらぶらしている暇な連中がやってきた。それから、もう少し人見知りする町の人たち。さらに、素性のわからない大勢の野次馬たち。この連中がどういう人たちなのか、最初はよくわからなかったが、この町で翌日にこの地方を対象とする合唱の大会が開催されるのだという説明を聞いてやっと合点がいった。六百人もの人々がやっていてきているのだが、全員がそれなりの身なりと立場の男性で国の広範囲から集まっている。この合唱大会のために、町はお祭り状態だった。宿はどこも満室だった。が、橋の近くにある「ポスト」という宿の人のいいご亭主が立派な部屋を提供してくれた。カヌーの方は、馬車置き場の天上から吊り下げさせてもらった。合唱団のテノールやバスの連中が食事中にしゃべる声はすさまじい音量だった。ぼくのロブ・ロイ・カヌーについて、いろんなことが何度も繰り返し話題になっていた。ぼくらの御者氏は別の部屋に聞き手を集め、カヌー旅の何たるかを講義したほどだ。

翌日、この町を見物して歩いたが、それだけの価値はあった。どこもきれいに飾りたてられていたのだ。家という家はきちんと片付けられ、どの通りにもゴミ一つなかった。質素な窓からは木の枝や花飾り、肩掛けやキルトの布や毛布が吊るされているのが見えたが、裕福な家々には、いろんな旗や飾りリボン、アーチに紋章、花輪などが飾られていた。おのぼりさんのような大勢の人々が通りをぞろぞろ歩き、太鼓やトロンボーンの楽隊と押し合いへし合いしながら、でこぼこの舗道をてんでんばらばらな様子で行進している。ときどき、四頭立ての馬車がガタガタ音を立てて遠くの合唱団の人々を運んでくるたびに大歓声が巻き起こった。合唱団の人々は、座席の代わりに並べた袋と袋のすき間に四本の松の木を柱として立てて草花でおおった屋根をつけた長い四輪馬車に乗っているのだが、座席には座らず立ち上がっていて、大きな声で叫び、歌い、掲げた旗を振っている。何百人もの見物人たちは一本調子の大声で「ドイツ万歳」と叫んだりしている。

原注
3: でこぼこした山道を進む長旅で、カヌーをバネのない荷車に固定するため、ぼくはさまざまな方法を試みたが、最善の方法は、長い荷車の上に二本のロープを張り、その上にカヌーを載せることだと確信するにいたった。ロープが緩衝材の役割を果たし、振動をやわらげてくれるのだ。カヌーが前後に動かないように、船首につけた牽引用のロープは前後方向にしっかり固縛しておく。ワラ束を下に敷いても、砂利道や車輪の跡の轍(わだち)が残ったでこぼこ道を数マイルも進むうちに外れてしまう。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 15:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第15回)

 

ライン川源流域の川がカヌーには適していないと知ったマクレガーは、山間部にあるティティゼー湖にカヌーを浮かべることにした。その湖にはイエス・キリストを処刑したピラトの亡霊が潜んでいるという言い伝えが残っていて、生きて戻れないぞと地元民に脅されるが、それを尻目に湖へと漕ぎ出す。


もちろん、そのおかげで決心がついた。さわやかな朝で、霧がかかってはいたが、ぼくは小石まじりの岸辺からカヌーを漕ぎ出した。ざっと数えて少なくとも八人の地元民がかたずを飲んで見守っていた。数マイルを漕いだが、とても快適だった。カヌーは水面からの高さがないので、遠く離れるにつれてカヌーそのものは見えなくなる。「水面に浮いた状態で座った人間が、顔のあたりでパドルを振りまわしているように見えた」だろう。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 14: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第14回)

 

やむなくイギリスに戻った相棒のアバディーン伯爵と別れたマクレガーは、いよいよ単独行で、ロシアを除くヨーロッパで最長のドナウ川(全長2850km)の源流をめざし、ドイツとスイスの国境にある黒い森と呼ばれる山岳地帯に足を踏み入れます。


外国の山の中腹に一人でいる。夕日が荒涼としたな山岳地帯に暖かい日射しを注いでいる。風が軽やかに吹き抜け、まわりでは羊たちがメーメー鳴いている――うきうきするような喜びに満ち、心の底からわくわくしているのだが、この気持ちを伝えるには、同じような経験をしたことがない人々に言葉でどう表現したらよいのだろう?

近辺を歩きまわって、源流域を流れている小川はカヌーで下るにはまったく適していないことがわかった。それで木造建築の宿に戻って寝ることにした。洗い場は楕円形で、壁はとても薄く、深夜には周囲の騒音がすべて聞こえた。いま聞こえているのは、宿の主人の大きないびきと、まだ寝ていない使用人たちの話し声、猫のもの悲しい鳴き声やネズミがガリガリやっている音、牛の寝息、さらに馬をつないだ鎖のガチャガチャいう音だ。

ドイツでは寝台はベッドではなく「ベット」と呼ばれているが、それがいかに入念に組み立てられたものであるかは、夜になって布団にもぐりもうとしてみてはじめてわかる。寝床が適度に傾斜するように、いろんな物を上手に組み合わせて積み上げてあるのだ。そうしたものをいちいち取り出し、掘り崩していかなければならない。まず、少なくとも厚さが六十センチはあるふかふかの袋を引きはがし、ベッドカバーをめくり、それから目の覚めるような緋色の毛布をめくる。次に、巨大な枕を一つ、さらにもう一つ、おまけに、これも大きなくさび形のボルスターと呼ばれる抱き枕風のクッションを引っ張り出さなければならない。ベッドの寝る面に傾斜をつけるのなら、単に一方の側を高く持ち上げるだけですむと思うのだが、ドイツの人たちはどうしてこんな面倒なことをしてまで四十五度で斜めになって眠りたがるのだろうか?*1

人々の物腰は丁重で、地味だが丁寧な行動は、実際ずっとぼくについてまわった。だれもが気軽に「こんにちは」と声をかけてくれるし、ホテルの中でも、朝食をすませて出かけようとすると、まだ一言も発しないうちから「おはようございます」と声がかかるし、食事中の人には「十分に召し上がれ」となる。八時ごろに紅茶かコーヒー、パンとバターに蜂蜜での軽い会話がはじまり、お昼には昼食の「ランチ」、午後七時には夕食という形の食事が続く。

作法が洗練されているわけではない! ぼくが乗った馬車の御者は食事のときにぼくと一緒で、二人の世話をする給仕はそばで待機していたが、給仕の合間にタバコを吸ったりしていた。とはいえ、こうしたことはすべて、カナダやノルウェーでもよく見られる。山や森や急流があって人口の少ないところでは、どこでもそうだ。ノルウェーでもそうだったが、そういうところでは誰でも文字が読めるし、実際に何かを読んでいた。ドイツのごく普通の家では、フランスの似たような場所で一ヶ月に読まれるより多くの文字が読まれている1

ぼくはその日は荷馬車と御者を雇ったが、その御者は、翌朝にぼくが出した最初の指示には難色を示した。ティティゼー湖に行くため、カヌーを積んだ馬車について街道からそれるように命じたからだ。ティティゼー湖は山間にあるきれいな、長さ四マイルほどの湖で、小高い森に囲まれている。御者はぶつぶつ異議を唱えていたが、その理由は表面的なものにすぎず、本人が口に出している言葉より深い理由があるのは明らかだった。事実、人々の間で長く伝えられている迷信があって、イエスを処刑したローマ帝国のポンテオ・ピラトが湖の深いところに住み着いていて、カヌーで漕ぎ出したが最後、かのピラトがそいつを水中に引きずり込むに違いないという、なんとも不吉な噂が語り継がれているらしかった2

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訳注
*1: かつてのドイツでは、仰向けになって眠ると、悪魔が胸に乗ってくるという迷信があった。
眠っている人の胸に老婆がしゃがんでいる、こんなこわい絵も描かれている

John_Henry_Fuseli_-_The_Nightmare

『悪夢』、1781年、ヨハン・ハインリヒ・フュースリー(1741年~1825年)作 (source Wikipedia)

 

金縛りのようなものだろうか。それで、体を横向きにし、しかも上体をかなり高くした状態で眠る人が多かったらしい。

原注
1: 1867年当時のヨーロッパで、ドイツ語で発行された新聞の数は3241紙だった。そのうち747紙は政治新聞である。戦乱が続いているときは、ベルサイユでも印刷された

2: ピラトについての伝説は、ドイツやイタリアで流布している。イタリア南部にあるストロンボリ島は火山島だが、「ポンテオ・ピラトのせい」で、ある斜面の一角に人々が近づこうとしない場所がある。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 13: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第13回)


夏の航海計画を立てるのは楽しい。ブラッドショーの海外鉄道ガイドに読みふけるのは六月とか七月だ。このガイド本には他にも有益な情報は掲載されているのだろうが、どこへ行こうかと思案しつつ、ぼくは自分に興味のある「蒸気船と鉄道」のページだけを何度も読み返した。

こうした楽しみはすべて、次のような質問に対する答えが自分のなかできちんと出ているかにかかっている。気分転換したいのか、ゆっくりのんびり過ごしたいのか? 休息のために出かけていくのか、保養のためなのか、はたまた精力的に動きまわって夏を存分に楽しみたいのか?

とはいえ、誤りのないことでも有名なブラッドショーのガイド本にも、ぼくがカヌーについて知りたいと思っていることに対する答えは載っていなかった。自分で持ち運ぶボートについての旅行ガイドなんて、どこにも存在していないからだ。だから、どうしようかという悩みについては、フライバーグですぐに決着がついた。とにかく「ドナウ川の源流まで行ってみよう」と、単純明快に決心したのだ。

で、翌朝にはもうカヌーを荷車に載せ、例によってグレーの服を着用し、埃っぽいヘレンタールの通りを歩いていた。そのときのぼくは、体調もよく意気軒高で、うきうきと心も軽く、はつらつとして明確な目標も持っていたが、具体的に何をすべきか、何を見るべきか、誰に会うべきかわからないという状態なのだった。これをどう表現したらいいのだろう? こういうときには、とにかくうれしくて、簡単に「感謝の念に満ちた!」状態でいることはできる。

あれこれ思案しながら数マイルほど歩いていくと、イギリス人を満載した馬車が追いこしていった。やがて彼らとも道連れになった。外国でのイギリス人の評判は「他人行儀で、無口で、尊大で、陰気で、信用できない」だ! ぼくに言わせれば、それはとんでもない誤解だ。 非常に美しい深い峡谷を通っていく間ずっと、連れの女性たちはぼくのような者でもちゃんと相手をしてくれたし、ヘレンタール峠をこえるときは、荷車に載せたカヌーがぼくらの後ろからちゃんと運ばれてくるようにしてくれた。旅行者は汽車でスイスに向かうので、フライバーグの尖塔を車窓から眺めて感心する人は多い。が、この峠まで足を運ぶ人はめったにいない。

黒い森という意味のシュワルツワルトがスイスへの入口になっている。森林や岩場が多くて不気味な場所だが、立派な道路が通っているし、ちゃんとした宿もあちこちにあった。村は森の中にあった。一軒おきに製材工場があるのではというくらい、せわしなく活力に満ちた音が響いてくるが、それにカッタンコットンと水車のまわる音がまじって、なんとものどかな感じだ。観光客が景色を眺めに来るのはそこまでだ。さらに進むと、暗い色をした大海原のような壮大な山岳地帯が広がっていた。家々は大きくなる一方で、その数は減っていく。ほぼすべての建物の脇に小さな礼拝堂があり、聖人の等身大の木像が破風の端に取りつけられていた。ある夜、ぼくはこうした巨大な建物の一つに泊まった。使用人やら農作業を終えた連中が戻ってくると、その半数はなかば歌うような調子で、小さな声だが節をつけて祈りを唱え、それから大盛りの夕食に挑むのだった。

馬車はさらにけわしい山岳地帯を登っていった。どちらの側も山に囲まれた渓谷の盆地のようなところで、頭上には巨大な老木がそびえている。こうした巨木はいずれ切り倒され、ストラスブールで見るような大きなイカダの一つに載せられてライン川を流れ下っていくのだろう。

ライン川のイカダは有名だからこまかい説明は省くが、広い水面に丸太が延々とつらなって浮かび、その上に小屋が立ち並び、陽気なイカダ師たちが大挙して乗っている。連結させた長大なイカダを操作しながら流すには五百人もの人手が必要で、その材木の値は三万フランにもなるという。

この峠の一番高いところが分水嶺だった。スイスのバールに宿をとり、カヌーも安全に保管してもらえるようにしておいてから、ぼくはカヌーを浮かべられる流れを探すため徒歩で遠くまで見てまわった。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 12: マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第12回)


天気はまたすぐによくなって楽しくなった。というか、カヌーって狩猟もできるんだって感じになってきた。というのも、いかにもここは俺の縄張りだぞといいたげな野生のカモが浮かんでいたし、浅瀬を歩いていたサギは、ぼくらが近づくと、こわいこわいという風に遠ざかっていったりしたからだ。それで、相棒は銃を構えた。ぼくは猟犬になったつもりで、川の反対側からこっそり忍び寄り、パドルで獲物を指すという遊びをやったりした。

この遊びに、ちょっと夢中になりすぎてしまった。相棒の伯爵は岸に上がり、土手で腹ばいになった。ぼくらを小馬鹿にしている鳥の方へと前進していく。彼の射撃の腕は一流で、ウインブルドンの大会でも実証済みなのだが、いかんせん短銃でサギを撃つのは簡単ではなかった。

影が長く伸びてくると、この単調な川も美しく見えてきた。夕方、人気のないプールで水浴びをし、泳ぎ疲れるとまじりけのない黄色の砂場で横になって休んだ。ハーナウで宿泊することにした。

翌日のマイン川の川下りについては、とにかく楽しかったことだけは覚えているが、最後に大きな城に着いたことを除いて、ほとんど記憶がない。城のある場所で、一隻の船が停泊していた。明らかにイギリスのものだった。その船についてあれこれ探っていると、一人の男が皇太子の船だと教えてくれた。しかも、「いまバルコニーから君たちをご覧になっているよ」と言うのだ。ここはルンペンハイムにあるケンブリッジ公爵夫人の城で、フェリーを下車した四頭立ての馬車が、皇太子夫妻をこの川辺の城へとお連れしたところなのだった。そこからフランクフルトまでは、西の強風が吹いたので、必死でパドルを漕いだ。ルシーという宿で濡れた服を乾かした。ヨーロッパで最高級のホテルの一つだ。

翌日、フランクフルトのボート乗りたちは、イギリスからやってきたぼくらのカヌーが川を軽々と進んでいく様子に驚いていた。風を受けて川を飛ぶようにさかのぼったり、「地面が濡れているだけ」の浅瀬では、パドルを漕いで向きを自在に変えた。二人とも楽しいからカヌーに乗っているのだったし、カヌーに乗ってしまえば体重は関係ない。もっとも、ぼくらの乗っているカヌーには、二人一緒に乗って快適に漕げるだけのスペースはなかった4

原注4
ロイヤル・カヌー・クラブには、何隻か「二人用」カヌーがある。各艇に二人の漕ぎ手が乗るので、非常に速い。最近ではクラブは毎年のように、各艇に四人を乗せ、ダブルパドル*1を使ったレースも行っている。オークやヒマラヤスギやパイン材で作ったカヌー以外にも、皮や帆布、ブリキ、紙、天然ゴム製のカヌーも所有している。

 

脚注
*1:ダブルパドル - 両端に水をかく平たいブレードがついているパドル。ダブルブレードパドルとも呼ぶ。
カナディアンカヌーのようにデッキがないカヌーでは、片側のみのシングルブレードパドルを使うのが一般的で、その場合、一本のパドルを持ち替えて両舷を交互に漕ぐ。

日曜日、例のやんごとなき高貴な方々がフランクフルトにある英国国教会の教会に来場された。他の聴衆と同じように歩いて礼拝堂から出てこられたが、静かで上品なやり方で、派手な行進なんかするより親しみが持てた。

厳粛な場では、シンプルに徹することが真の威厳につながる。

その翌日、とにかく行動的で陽気な相棒は、ぼくと別れて帰国することになっていた。ウインブルドンではその腕前で年間最優秀賞を獲得していたのだが、彼はウインブルドンでの二週間の射撃練習だけでは満足していなかった。沼地や草地での狩猟の予定が詰まっていて、それとは別に仕事でも故国にいる必要があったためだ。相棒はライン川をケルンまで漕ぎ下った。途中で何度か、全速力で進んでいる蒸気船にロープのフックを引っかけてカヌーを引っ張らせるという離れ業を演じて見せたりもした5

原注5
アバディーン伯爵は、後年、ある帆船に乗っていて溺死した。卿の兄弟の故ジェームズ・ゴードン氏はプロのカヌーイストで、ロブ・ロイ・カヌーに乗って英国海峡を横断した最初の人である。現在の伯爵もロイヤル・カヌークラブの会員であり、物故されたがフランスの王位継承者だった方もこのクラブに所属し、四隻のカヌーを所有されていた。協会の会長は英国皇太子である。

一方、ぼくは自分のカヌーを鉄道でフライバーグまで運んだ。そこから、まったく新しい航海を始めるのだ。というのも、ここまでは知っている川だったが、ここから先は、ロブ・ロイ・カヌーでは未知の水域を漕ぐことになる。

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ヨーロッパをカヌーで旅する 11:マクレガーの伝説の航海記

ジョン・マクレガー著

現代のカヤックの原型となった(帆走も可能な)ロブ・ロイ・カヌーの提唱者で、自身も実際にヨーロッパや中東の河川を航海し伝説の人となったジョン・マクレガーの航海記の本邦初訳(連載の第11回)


一日が長く、しかも楽しかった。とはいえ、何度か、にわか雨に降られた。あわやというところで土手に乗り上げたり、竹製のマストが折れたりもした。帆が垂れ下がってしまい、突風で傘が逆さになったみたいに、みっともなかったりもした。こんな状況ではあったが、心配は何もしていなかった。ケガもしていないし、文句をいうことでもない。ぼくは庭師のところに行って、マストの代用になる、もっと強いものを手に入れてきた。タチアオイの支柱として使われたりする、緑色に塗った長い棒だ。これは今度の航海で最後まで持ってくれたし、折れた竹は帆の下縁を張るブームに作り直した。

アバディーン伯爵は次に下る予定のナーエ川を下見に出かけたが、結果はあまりかんばしいものではなかった。ぼくも試験的に河口から漕いでさかのぼってみたが、非常に水深が浅かった。

汽船で別の場所に行こうという意見には同意するしかなかった。ぼくは重力という普遍的な原則を尊重し、それには逆らわないようにしているので、カヌーの旅で地球を味方にするには、川をさかのぼるよりは下る方がずっといいというわけだ。蒸気船や馬や人力を活用してカヌーを川の上流へと運び、重力の助けを借りて川を漕ぎ下るのが賢明なやり方だ。

相棒がイギリスに戻らなければならない期日が迫っていたので、ぼくらはマイエンヌまで行ってから、汽車でマイン川が流れているアシャッフェンブルクに向かった。カヌーを貨車で運搬する際には、例によって一悶着あった。エクス・ラ・シャペルのときのように、寛大な対応をしてくれる救世主みたいな人物は出現しなかった。小うるさい手荷物係と支払いの件で交渉した。ちょっとした悪気のない嘘もついたが、今回の航海でそんなことをしたのはこのときだけだ。

鉄道で乗り合わせた乗客の一人がぼくらの旅に非常に興味を抱いてくれた。ぼくらは事細かに説明した。後でわかったことだが、相手は、ぼくらが「二つの小さなキャノン(cannons)」を伴って旅をしているのだと思い込んでいた。フランス語の小舟(canots)をカノン(Canons)と聞き違え、さらに大砲という意味もあるキャノンだと思い違いしていたのだ。で、そのキャノンとは何だということで、彼はキャノンなるものの長さと重さについても聞いてきた。ぼくらの「キャノン」は長さが「十五フィート」(約4.5メートル)で重さは80ポンド(約32キロ)、しかも、そのキャノンを売るためではなく好きで運んでいるのだと聞いても平然としていた。ぼくらはキリンを運んでいるんですよといっても、彼は少しも驚かなかっただろう。

アシャッフェンブルクという、この長い名前を持つドイツの町の宿屋に宿泊していた客たちは、丁重な受け答えながらも大きな関心を寄せてくれたので、ぼくらとしても嬉しかった。ぼくらは二人ともカヌーに乗るときは灰色のフランネル地の服を着用するのだが、これが彼らをひどく驚かせたようだ。こういう服装についてびっくりされたり、なぜこんな旅をしているのか、どこへいくのかなどと聞かれるのは、海外でカヌーを漕いでいると日常茶飯事だ。

マイン川でカヌーを漕ぐこと自体に問題はなかったが、景色は可もなく不可もなくといったところだった。いい風が吹くと、ぼくらは帆を揚げ、カヌーをヨットのように帆走させようと苦心して時間を無駄にした。川では、追い風でない限り、そううまくいくものではない。う雨が激しくなってきたので、ランチタイムということにして、ぼくらはとある宿屋の一部になっている殺風景な離れのようなところに逃げ込んで昼食をとった。そこには古くなった黒パンと生のベーコンしかなかった。ずぶ濡れになって、この粗末な食事をとっている間も、風は音をたてて吹きつのり、雨音も激しくなった。ぼくらはレインコートを着たまま寒さに震えた。今度の旅でこんなひどい目にあったのは、このときだけだ。この贅沢な旅で、これほど過酷な状況というのは他になかった。

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