スナーク号の航海 (67) - ジャック・ロンドン著

現地人の牧師が釣りがうまくいくよう祈りをはじめると、皆、かぶりものをとった。次に漁労長とでもいう立場のリーダーがカヌーを割り当てて場所を指示する。皆、カヌーに乗りこんで出発した。とはいえ、女たちは、ビハウラとチャーミアンを除けば、誰もカヌーには乗らなかった。かつて女たちも刺青を入れていたものだったが、この漁では女たちは後に残り、水中に並んで足で魚をとめる柵になる役割だ。

浜には大型のダブルカヌーが残されていた。ぼくらは自分たちの舟に乗った。カヌーの半分は風下の方へ漕いでいった。ぼくらは残りの半分と共に一マイルほど風上へ向かい、そこで岩礁に達した。両者の中央にリーダーのカヌーがあった。リーダーが立ち上がる。体格のいい老人で、手に旗を持っている。カヌーの位置を指示し、ホラ貝が吹きならされ、その合図で、二手に分かれたカヌーが整列した。準備が整うと、彼は旗を右に振った。そっち側のカヌーすべてで石が投げられ、一斉に水しぶきがあがった。投げた石をたぐりよせる。石が水面下に沈むか沈まないかのうちに、間髪を入れず、旗が左に振られた。すると左側の海面で、すべての石が一斉に海面を打った。それが繰り返される。投げては引き上げ、右で投げては左で投げる。旗が振られるたびに、礁湖の海面に長く白いしぶきの線が描かれていく。同時にパドルを漕いでカヌーを前へ進める。こっちでやっているのと同じことが、一マイル以上離れた反対側でも行われていた。

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漁師の一人

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囚人たちに漕がせているボラボラ島の憲兵

ぼくの乗った舟の舳先では、タイハイイがリーダーを凝視しつつ他の連中と調子をあわせて石を操っていた。一度、石がロープから外れて落ちた。その瞬間、タイハイイはそれを追って海に飛びこんだ。石が海底に達するかしないかのうちに拾い上げ、舟の横の海面に浮き上がった。近くのカヌーでも同じようなことが何度か起きるのを目撃したが、いずれも投げ手自身が石を追いかけて飛びこみ、すぐに回収して戻ってきた。

岩礁の端に近いラインの両側でカヌーのスピードが増した。それに対して、浜に近い方では速度を出していない。二手に分かれていたカヌーの列は少しずつ円形になっていく。すべては、油断なく目を光らせているリーダーの監督下で行われていた。そうしてできたカヌーの輪が縮まりはじめる。かわいそうに、驚いた魚たちは海面をざわつかせながら猛スピードで浜の方へ向かった。ゾウだって、同じような方法で、丈の高い草むらにしゃがんだり木の背後に隠れたりしているちっぽけな人間がたてる奇妙な物音に驚かされてジャングルから駆りてられるのだ。人が並んでつくった足の柵はすでにできあがっていた。礁湖の穏やかな海面に、女たちの頭が長い線を描いているのが見えた。浜辺の近くに残っている者もいたが、それは例外で、背の高い女ほど沖側に出る形で、ほとんど全員が首まで海中につかっていた。

カヌーの輪はさらに狭められ、カヌー同士が触れあうほどになった。そこで一呼吸あった。長いカヌーが浜から飛び出してきて、輪に沿って進んだ。懸命に漕いでいる。船尾で、一人の男がココナツの葉を編んだ長く連続した幕のようなものを投げ入れていく。カヌーはもう不要になったので、男たちも海に飛びこみ、魚が逃げないように足で柵をつくった。幕は幕であって網ではないので、魚は逃げようとすれば逃げられるはずだ。だからこそ足で幕を激しく動かし、両手では海面をたたいて白濁させ、奇声を上げる必要がある。輪が縮められていくにつれて、魚は大混乱に陥るのだ。

とはいえ、今回は海面上に飛び出したり足にぶつかってくる魚はいなかった。しまいに漁労長自身が輪の内側に飛びこみ、あちこちを探って歩いた。が、一匹の魚も浮いてはこず、飛び上がって砂浜に落ちるのもいなかった。一匹のイワシもいないし、小魚もいなければ、オタマジャクシのようなものすらいなかった。あの大漁祈願に何か不都合があったに違いない。あるいは誰かがぶつぶつ文句を言っていたように、風がいつものように斜め後ろから吹いてなかったので、魚はどこか別のところにいたのだろう。いずれにしても、追い立てるべき魚の姿がまったくないのだ。

「こんな失敗も五回に一回はあるよ」と、アリコットがぼくらをなぐさめた。

そう、ぼくらがボラボラ島までやってきたのは、この石の漁のためだったし、その五回のうちの一回に遭遇したというのが、ぼくらの運だったわけだ。事前福引のようなものだったら逆になっていたはずだ。悲観論を言っているのではないし、世の中はこうしたものだという開き直りでもない。これは、ただ単に一日努力して徒労に終わったときに多くの漁師が抱く感情にすぎない。

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ぼくらには、こういう魚は捕らえられなかった

スナーク号の航海 (66) - ジャック・ロンドン著

友人のタイハイイとビハウラがぼくらに敬意を表してこの漁に誘ってくれたのだが、迎えに来ると約束していた。甲板から呼ぶ声が聞こえたとき、ぼくらは船室に降りていた。すぐにコンパニオンウェイまで行って外を見たが、ぼくらが乗る予定のポリネシアの舟を見て圧倒された。横木でつながれている長い双胴のカヌーで、舟全体が花やゴールドの草で飾られているのだ。花の冠をつけた十二名の女たちがパドルを持ち、カヌーそれぞれの最後尾には舵をとる男がいた。みんな赤い腰巻姿で、金や赤、オレンジの花で飾りたてている。どこもかしこも花だらけ。花、花、花できりがない。すべてが色彩の爆発だった。カヌーの船首に渡した板の上ではタイハイイとビハウラが踊っていた。全員が声をそろえて歓迎の歌をうたってくれている。

彼らはスナーク号のまわりを三周してから、チャーミアンとぼくを乗せるためにスナーク号に横づけした。それから釣り場へと向かったが、五マイルほども風上にあり、そこまで漕いでいくのだ。「ボラボラではだれもが陽気だ」という格言めいたおのがソシエテ諸島全体にあるが、ぼくらはそれを実際に体験した。漕ぎながら、カヌーの歌、サメの歌、釣りの歌をうたう。漕ぎながら声をそろえてうたう。ときどき、マオ! という叫び声があがる。と、全員が必死に漕ぐ。マオとはサメのことで、この海のトラが出現すれば、住民たちはまっしぐらに浜へと戻っていく。ちっぽけなカヌーがひっくり返って食われる危険があるとわかっているからだ。むろん、この場合はサメが実際に出たのではなく、サメに追われているときのように必死に漕がせるためだ。「ホエ! ホエ!」という叫び声もあった。ホエは漕げという意味で、パドルはそれまでにもまして激しく海を泡立てた。

渡した板の上ではタイハイイとビハウラが踊っていたが、手拍子に歌やコーラスも加わった。パドルでカヌーの両舷をたたいてリズムをとったりもした。一人の少女がパドルを下に置き、プラットフォームに飛び乗ってフラダンスを踊った。踊りながら左右に体を揺らし、前屈みになり、ぼくらの頬に歓迎のキスをした。歌あるいは頌歌には宗教的なものもあり、それは特に美しく、男たちの深い低音に女たちのアルトやかすかなソプラノがまじって、オルガンを思わせるような音の組み合わせになった。実際に「カナカのオルガン」というのが、この地域の頌歌の別名でもある。その一方で、詠唱やバラードは非常に荒々しく、キリスト教が伝えられる前の時代からのものだ。

そんな風に歌ったり踊ったり漕いだりしながら、この陽気なポリネシア人たちはぼくらを釣りに連れて行ってくれたのだった。ボラボラ島を統治しているフランス人の憲兵も家族同伴で、自分の持つダブルカヌーでぼくらについてきた。漕いでいるのは囚人だ。このフランス人は憲兵で統治者というだけでなく、看守でもあるのだ。そして、この陽気な土地では、誰かが釣りにいくときは皆が行くのだった。ぼくらのまわりには、アウトリガーをつけたカヌーの一団がいた。あるポイントでは、大型の帆走カヌーが姿を現し、ぼくらに挨拶し、追い風を受け、優雅に帆走している。不安定なアウトリガー上でバランスを取りながら、若い三人の男たちが太鼓を激しくたたき、ぼくらに敬意を示してくれた。

次のポイントはそこからさらに一マイルほど先にあったが、そこでも出会いが用意されていた。そこにはウォレンとマーチンが乗ってきた船がいて注目を集めていた。ボラボラ島の人々は、その船の動力の仕組みが理解できないようだった。カヌーを砂浜に引き揚げ、全員が浜にあがってココナツを飲み、歌い、踊った。近くの住家から歩いてやってきた大勢の人々がそれに加わった。花の冠をかぶった女性たちが二人ずつ手をつないで砂浜を歩いてやってくるのが見えたが、とてもかわいらしかった。

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花の冠をかぶり、二人ずつ手をつないだ女性たち

「いつも大きな獲物がかかるんだ」と、ヨーロッパとアジアの血をひくアリコットが言った。「しまいには海が魚であふれるんだ。おもしろいよ。もちろん獲れた魚は全部あんたのものだ」
「全部?」と、ぼくはうめいた。スナーク号はすでに、気前よく贈ってもらった品々、カヌーで運んできてくれた果物、野菜、ブタ、ニワトリを満載しているのだ。
「そうだよ。最後の一匹まで」と、アリコットが答えた。「ほら、まわりを取り囲んでしまったら、あんたが客人の栄誉として、まず最初の一匹をモリで仕留めなきゃなんない。そういう習慣なんだ。それから、みんなが中に入って捕まえた魚を砂浜まで運ぶんだ。魚の山ができるよ。長老の一人が、それをすべてあんたらに捧げるという演説をすることになってる。全部もらう必要はない。あんたは立ち上がって自分がほしい魚を選び取り、残りは返すんだ。すると、みんなが、あんたは気前がいいってほめるわけさ」
「だけど、ぼくが全部もらうって言ったらどうなるんだ?」
「そんなことには決してならない」という返事が来た。「贈り贈られるっていうのが誰にも染みこんでいるから」

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漁の指揮をとるリーダー

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カヌーの輪が小さくなりはじめた

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人間の足で柵をつくる

スナーク号の航海(65) - ジャック・ロンドン著

第十三章

ボラボラの石を使った追いこみ漁

午前五時、ホラ貝が吹き鳴らされた。浜辺のいたるところから、昔の戦闘におけるトキの声のような不気味な音が聞こえてきた。漁師たちに起床し準備するよう促しているのだ。スナーク号にいたぼくらも目が覚めてしまった。うるさいくらいホラ貝が吹き鳴らされているのだから眠ってなんかいられない。ぼくらも石を使った追いこみ漁に出かけるのだが、ほとんど準備はしていなかった。

タウタイ・タオラというのが、この石を使った漁の名称だ。タウタイは「釣り道具」、タオラは「投げられた」という意味で、タウタイ・タオラという風に組み合わせると「石を使ったフィッシング」になる。投げる道具というのが石だからである。石を使ったフィッシングというのは釣りではなく、ウサギ狩りや牛追いのように、実際には魚を追い立てていく漁だ。ウサギ狩りや牛追いは追う方も追われる方も同じ地面にいるが、魚の追いこみ漁では、人間は息をするため海面上にいなければならないし、水中の魚を追い立てることになる。水深が百フィートあっても問題はない。人間は海面にいて魚を追いこんでいく。

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一ダースもの屈強な男たちが漕ぐ双胴のカヌー

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水に浮かぶと注目が集まる

具体的なやり方はこうだ。カヌーを百フィートから二百フィートずつ離して一列に並べる。カヌーの船首には男がいて、重さ数ポンドの石をふりかざしている。石には短いロープが結びつけてある。その石を海面にたたきつける。引き上げては、またたたきつける。何度も繰り返す。それぞれのカヌーの船尾には別の漕ぎ手がいて、カヌーは隊列を組み、同じペースで前進していく。カヌーの列が一、二マイル離れた先に想定したラインまで達すると、両端にいたカヌーが急いで円を描くように距離をせばめていき、海岸にまで達する。カヌーを並べてつくった円は海岸に向かって小さくなっていく。浜辺では、女たちが海に入り、列を作って立っている。足がずらりと並んで柵のようになり、逃げようとする魚を阻止するわけだ。円が十分に小さくなると同時に、一隻のカヌーが浜から飛び出し、ココナツの葉で作った間仕切りのようなものを海中に沈め、円に沿ってぐるぐるまわる。それが人の足でできた柵の効果を高めることになる。むろん、この漁はいつも、礁湖にある砂州の内側で行われる。

「スバラシイ」と、憲兵が合図と身振りで表現しながらフランス語で言った。小魚からサメまで、さまざまな大きさの何千という魚が囲いこまれることもある。追いこまれた魚は海上に飛び上がり、そのまま海岸の砂の上に落ちてくるというわけだ。

これはよくできた魚の捕獲方法の一つで、食糧確保のための退屈な漁というよりは、ちょっとした野外のお祭りのようだった。ボラボラでは、こんな漁を兼ねたお祭り騒ぎが月に一度の割で行われ、昔から受け継がれた風習になっている。これを創始した男については不明だ。ずっとこれを行ってきたという。しかし、針も網もヤリも使わない、こんな簡単な漁を誰が思いついたのだろうと思わずにはいられない。その男について一つだけわかることがある。保守的な部族の連中には、バカで伝統を重んじない、突飛な空想をする男だとみなされていたに違いないということだ。そいつが直面した困難は、手始めに一人か二人の資金提供者を見つけなければならない現代の発明家が直面する問題よりずっと大きかっただろう。大昔にこの漁を思いついた奴は、部族の連中の協力が得られなければ自分のアイディアを試すことすらできないので、まず自分に協力してくれるよう全員を説得しなければならなかったはずだ。頭の固い連中を集めて、この原始的な島で夜ごと寄り合いを開いても、皆はやつを愚か者とか奇人とか変人と呼び、この田舎者めとバカにしたんじゃなかろうか。自分のアイディアを実際にためしてみるのに必要な人間を確保するまでに、どれほど罵倒され、どれくらい苦労したかは、天のみぞ知るだ。とはいえ、その新しいやり方はうまくいった。試験に合格した──魚が捕れたのだ! そうなってみると、だれもが、最初からうまくいくと思っていたよと言いだしたりしたんだろうなということも想像がつく。

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ぼくらが乗る予定のポリネシアの舟

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石を投げる人

スナーク号の航海(64) - ジャック・ロンドン著

翌朝早く、タイハイイが船にやってきた。捕らえた新鮮な魚をヒモに通して持っている。その日の夕食に招待しにきてくれたのだ。食事に行く途中、ぼくらは頌歌(しょうか)がうたわれる家に立ち寄った。同じ顔ぶれの長老たちが、昨夜は見なかった若者や娘たちと一緒に歌をうたっていた。様子から判断すると、祭りの準備をしているようだった。果物や野菜が山のように積み上げられ、周囲にはココナツの繊維を編んだヒモをつけられたニワトリがたくさんいた。何曲か歌った後で、男の一人が立ち上がって話をした。その話はぼくらに向けられたもので、まったくちんぷんかんぷんだったが、山のように積み上げられた食べ物はぼくらと何か関係がある、ということだけはわかった。

「これぜんぶ私たちにくれるっていうの?」と、チャーミアンがささやいた。
「ありえない」と、ぼくも小声で返した。「くれる理由なんかないだろ? それに船には積む場所もないし、十分の一も食べきれやしない。あまらせても腐るだけだしな。祭に招待するって言ってくれてんだろ。いずれにしても、ぜんぶくれるなんてありえないよ」

とはいえ、ぼくらはまたも最高の歓待というものを受けることになった。話をしていた男は身振り手振りで、山のように積み上げられたすべての品々は間違えようもなく、ぼくらへの贈り物だと伝えたのだ。なんとも困ったことになった。寝室が一部屋しかないところに、友人が白いゾウをくれると言っているようなものだ。スナーク号は小さいし、すでにタハア島でもらった品々を満載しているのだ。ここでまたこんなにもらってしまうと、もうどうしようもなくなってしまう。ぼくらは赤面しながら、片言の言葉でマルルーと言った。タヒチ語でありがとうという意味だ。すばらしいという意味のヌイという言葉も繰り返して感謝の気持ちを伝えた。同時に、身振り手振りをまじえて、これほどの贈り物を受け取るわけにはいかないとも伝えたが、これは礼儀に反することだった。歌をうたっていた人々はがっかりした様子を見せた。明らかに裏切られたという感じだった。で、その晩、ぼくらはタイハイイの助けを借りて妥協し、ニワトリを一羽とバナナを一房、それにタロイモなどを少しだけもらうことにした。

とはいえ、歓待を逃れるすべはなかった。ぼくはすでに現地の人から一ダースものニワトリを買っていたのだが、翌日、その人が十三羽のニワトリを届けに来たとき、カヌーに果物を満載して持ってきてくれたのだ。フランス人の商店経営者はザクロをプレゼントしてくれたし、立派な馬も貸してくれた。憲兵も同様に大切にしている馬を貸してくれた。誰もが花を贈ってくれた。貯蔵庫に入りきらないため、スナーク号は花屋や八百屋の店先のような状態になった。いたるところ花だらけだ。頌歌(しょうか)の歌い手たちが乗船してくると、娘たちはぼくらに歓迎のキスをしてくれた。乗組員は船長から給仕にいたるまで、ボラボラの娘に心を奪われてしまった。タイハイイはぼくらのために大物釣りのプランを立ててくれた。漕ぎ手として一ダースもの屈強な男たちが乗った双胴のカヌーで出かけるのだ。魚が釣れなかったので、ほっとした。でなければ、スナーク号は係留したまま積み荷の重さで沈没しかねなかった。

そうやって日々がすぎていったが、歓迎はおさまる気配もなかった。出発する当日、カヌーが次から次へとやってきた。タイハイイは、キュウリやたくさんの実がついたパパイヤの若木を持ってきた。しかも、小さな双胴のカヌーに、ぼくのために釣り具一式を積んできてくれた。タハア島の時と同じように、果物や野菜もたっぷり持ってきた。ビハウラはチャーミアンにいろんな特別な贈り物を持ってきてくれた。絹綿の枕や扇、飾りマットなどだ。住民たちも果物や花やニワトリを運んできたが、ビハウラはそれに生きた子豚をプラスした。会ったか記憶もないような連中も船の手すりから身を乗り出して、釣り竿や釣り糸や真珠貝で作った釣り針をくれた。

スナーク号が帆をあげて礁湖を進んでいくとき、船尾には小舟を曳航していた。これはタイハイイ用ではなくて、ビハウラがタハア島に戻るためのものだ。その小舟を切りはなすと、東に向かって遠ざかっていった。スナーク号は船首を西に向けた。タイハイイはコクピットにひざまづき、無言で祈りをとなえている。頬を涙がつたっていた。一週間後、マーチンが機会を見つけて現像した写真をプリントし、何枚かをタイハイイに見せた。すると、この褐色の肌をしたポリネシアの男は、最愛のビハウラの顔写真に号泣した。

とはいえ、いかんせん歓迎でもらった品数が多すぎる! 大変な量だ。船上で作業しようとしても果物が通路をふさいでしまっている。どこもかしこも果物だらけで、スナーク号にも足船にもあふれていた。天幕をかぶせていたが、それを張っているロープに重みがかかり、きしんだ音をたてている。しかし、貿易風の吹く海面に出ると、積み荷が減り始めた。横揺れするたびに、バナナの房やココナツ、籠に入れたライムが振り落とされるのだ。金色の大量のライムが風下側の排水口まで流されていった。ヤムイモを入れた大きな籠が破れ、パイナップルやザクロはごろごろ転がっていた。ニワトリは自由の身になり、いたるところにいた。天幕の上で寝たり、前帆用のブームにとまって羽をばたばたさせたり鳴いたりしている。スピンネーカーを揚げるためのポールを止まり木にして器用にバランスをとっているのもいた。このニワトリたちは野鶏で、飛ぶのになれていた。つかまえようとすると、海上に飛び出し、ぐるりと旋回して船に戻ってくる。戻ってこないのもいた。そうした混乱のさなか、見張っているものが誰もいなくて自由に動けるようになった子豚が足をすべらせて海に落ちてしまった。

『よそ者が到着すると、誰もがわれさきに駆け寄って友人として自分の住まいに連れて行こうとする。そこでは地区の住民から最大級のもてなしを受ける。上座に座らされ最高のごちそうがふるまわれる』

スナーク号の航海(63) - ジャック・ロンドン著

カッターのところまで行く途中、タハアで唯一の白人男性に会った。ニューイングランド出身のジョージ・ルフキンだ! 八十六歳。本人によれば、四十九のときにゴールドラッシュでエルドラドに行ったり、カリフォルニアのツゥーレアの近くの牧場に短期滞在したそうだが、そうした短期の不在をのぞけば、この六十数年間をソシエテ諸島で過ごしてきたのだという。医者に余命三ヶ月と宣告されてから南太平洋に戻り、八十六歳になるまで生きてきたが、余命宣告した当の医者たちはとっくに死んじまったと含み笑いを浮かべた。彼もフィーフィーをわずらっていた。現地語で象皮病を指し、フェイフェイと発音する。この病気にかかったのは四半世紀前で、死ぬまで直ることはあるまい。親類縁者はいないのか、と聞いた。隣にいた六十歳ほどの快活な女性が娘だった。「この娘だけさ」と、彼は悲しげに言った。「娘の子は死んじまったし、ほかにはもう誰もいない」

カッターは小さくて、一本マストで前帆と主帆を持つスループ型の帆船でもあったが、タイハイイのカヌーと並べると巨大に見えた。礁湖に出ると、強風を伴うスコールに襲われた。カッターはスナーク号に比べると想像上の小人国の船のように小さかったが、どっしりとしていて、まったく安定感があった。乗組員の腕もよかった。タイハイイとビハウラも見送りにやってきた。ビハウラも腕のいい船乗りだとわかった。カッターは十分なバラストを積んでいたので安定していた。スコールに襲われたときもフルセールで帆走していたのだ。暗くなり始めていた。礁湖にはところどころサンゴが群生していて、ぼくらはその上を進んだ。スコールが激しくなってきたところで、タックしようと船首を風上に向け、サンゴの群生地を迂回した。コースも短縮されるし、海底まで一フィートもなかったからだ。反対舷に風を受ける前にカッターは「死んだ」状態になった。風に吹き倒されかけたのだ。ジブシートとメインシートを緩めると、船は起き上がったものの風に立ってしまった。風上を向いたところで、それ以上は向きを変えることができず、船の勢いがとまってしまった。三度試みて、そのつど横倒しになりかけた。シートを緩めて風を逃がしつつ、三度目にやっとのことで風軸をこえて反対舷で風を受けることができた。

次にタックするまでの間にすっかり暗くなった。そのころには、ぼくらはスナーク号の風上側に出ていた。スコールは居丈高な音を響かせていた。メインを下ろし、小さなジブだけにした。スナーク号は二本の錨をがっしりきかせていたが、カッターはそこを通り過ぎてしまい、もっと岸よりのサンゴに座礁してしまった。スナーク号から一番長いロープを繰り出してもらって一時間ほど四苦八苦したあげくにカッターを引き出し、無事にスナーク号の船尾につないだ。

その日、ぼくらはボラボラに向けて出帆したのだが、風が弱く、タイハイイとビハウラがぼくらと会う予定だったところまでエンジンをかけて機走した。サンゴ礁に囲まれた陸地まで来て友人たちを探したが見つからない。気配もなかった。
「待てないぜ」と、ぼくは言った。「この風じゃ暗くなるまでにボラボラには着けないだろうし、必要以上にガソリンは使いたくないしな」

そう、南太平洋ではガソリンが問題なのだ。次にいつ手に入るか、誰にもわからない。

と、そのとき、タイハイイが木々の間から姿を現して岸辺までやってきたのだ。シャツを脱ぎ、それを激しく振った。ビハウラはまだ用意ができていないようだった。乗船してきたタイハイイは、この陸地に沿って彼の家の対岸まで行かなければならないと伝えた。サンゴ礁を抜けるときには彼が舵を握った。すべて通り抜けるまで、要所でうまく導いてくれた。歓迎する叫び声が浜辺から聞こえてきた。ビハウラが何人かの村人の助けを得て二隻のカヌーに荷物を載せてやってきた。甲板には、ヤムイモや、タロイモ、フェイス、パンノキ、ココナツ、オレンジ、ライム、パイナップル、スイカ、アボカド、ザクロ、魚がところ狭しと積み上げられ、コッココッコと鳴いたり卵を産んだりするニワトリもいれば、いまにも屠殺されるんじゃないかと不安にかられてブーブーと鼻をならしている、生きたブタもいた。

月あかりの下で、ボラボラ島のリーフの間を通っている危険な航路を抜け、ヴァイタペ村の沖会いに投錨した。ビハウラは主婦らしく心配し、迎える準備が整う前にぼくらが到着してしまわないよう上陸をぎりぎりまで遅らせた。彼女とタイハイイがボートで小さな突堤まで行く間、静かな礁湖に、音楽や歌声が流れていた。ボラボラ島の連中はとても陽気だったが、ソシエテ諸島ではどこもそうだった。チャーミアンとぼくは海岸まで行って見物し、忘れ去られた墓所のそばにある村の共有草地で、花冠をつけたり花で飾り立てたりした若者や娘達が踊っているのを見た。髪には不思議な光を帯びた花を差し、それが月明かりに光ったりしていた。浜辺には、長さ七十フィートの巨大な楕円形をした草の家があり、そこで村の長老たちが賛美歌のような歌をうたっていた。彼らも陽気で花冠をつけており、ぼくらを迷える羊のように家の中へと迎え入れてくれた。

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ライアテアで、スナーク号を訪問してくれた人々

スナーク号の航海(62) - ジャック・ロンドン著

まず最初に気づいたのは、ベッドが斜めになったということだ。訪問客達は柔らかいマットを抱えてどこかへ行ってしまった。タイハイイとビハウラも同じように姿を消した。家は大きなワンルームのような状態になったが、それがぼくらに丸ごと提供され、家の主人達はどこか他の場所に寝に行ってしまった。つまり、この城がぼくらのために提供されたのだ。ここで言いたいのは、ぼくは世界のいろんな場所でいろんな人々から歓待された経験があるが、このタハア島の褐色の肌のカップルから受けた歓待に匹敵するものはなかった。なんでもほめると提供してくれるということや見返りを求めない気風とか、気前がいいとかを言っているのではない。そうではなくて、礼儀正しさだったり、思慮深さだったり、分別だったりという、相手を理解した上で示される心からの共感ということを言っているのだ。彼らは自分たちの道徳に従って義務としてやったのではなく、ぼくらがしてほしいと思っていることを理解した上で、それを行ってくれたのだ。しかも、その判断は当たっていた。出会って数日のうちに彼らが考えてやってくれた、こまごまとした多くのことをいちいち数え上げることはできないが、ぼくがこれまでに受けたもてなしや歓待はどれも、この二人のもてなしや歓待ほどではなかったし、それに匹敵するものでもなかった、とだけ言わせてもらえば十分だ。最もすばらしいと思えるのは、そうしたことが訓練されて身についたものではなく、複雑な社会の理想によるのでもなく、心からほとばしりでた飾り気のない自然な発露によるものだったということなのだ。

翌朝、ぼくら――つまりタイハイイ、チャーミアンとぼくは棺桶の形をしたカヌーで釣りに行った。このときは例の巨大な帆は持っていかなかった。この小さな舟で帆走と釣りを同時にはできないからだ。数マイル離れた、岩礁の内側にある海峡の深さ二十尋(ヒロ)ほどのところで、タイハイイは針に餌をつけた。餌はタコの切り身で、錘は石だ。タコはまだ生きていて、カヌーの底でくねくね動いている。投入した釣り糸は九本で、それぞれの釣り糸の端には竹の浮きがつけてあり、海面に浮かんでいる。魚がかかると、竹の一端が海中に引きづりこまれるが、当然のことながら竹は縦になって反対側が空中に突き出して、ピクピク動いたりはげしく揺れたりして、ぼくらに早く引き上げるよう促すのだ。竹の浮きが次々に合図を送ってくるので、パドルで漕ぎつつ、そのたびに歓声やら叫び声をあげて大急ぎで引き上げると、長さ二フィートから三フィートのきらきらと輝く見事な獲物が深いところから上がってきた。

東の方にあやしげな雨雲が立ち上り、貿易風帯の明るい空を着実にこちらに迫ってくる。ぼくらは家のあるところから三マイルほど風下側にいた。最初の突風が吹き、白波が立った。やがて雨も降りはじめた。熱帯特有のスコールで、空のあちらこちらに青空が見えているが、雨雲の下になると、いきなり土砂降りになった。チャーミアンは水着を着ていたが、ぼくはパジャマ姿だったし、タイハイイは腰巻きだけだった。浜ではビハウラが待っていて、母親が泥遊びしていたおてんばな幼い娘に対するように、チャーミアンを家の中に連れて行った。

服を着替えていると、カイカイを調理している乾いた煙が静かに立ち上ってきた。カイカイというのは「食べ物」とか「食べる」という意味のポリネシア語で、太平洋の広大な地域で幅広く使われているが、これがむしろ語源に近い形だろう。マルケサス諸島やラロトンガ、マナヒキ、ニウエ、ファカアフォ、トンガ、ニュージーランド、ヴァテではカイと言っていた。タヒチでは「食べる」はアムに変化し、ハワイやサモアではアイに、バウではカナに、ニウアではカイナに、ノンゴネではカカに、ニューカレドニアではキに変化していた。とはいえ、発音や表記が異なっていても、雨に濡れながらずっとパドルを漕いできた身には、この言葉の響きはここちよい。ぼくらはまたも上座に座らされてごちそう責めになり、キリンやラクダのイメージと違ってしまったことを悔いた。

スナーク号に戻ろうと準備していると、東の空がまたも暗くなり、別のスコールが襲ってきた。だが、今度は雨が少なくて風だけだった。何時間もうなりをあげてヤシの林を吹きすさび、もろい竹の住居を引きちぎり、吹き倒し、揺さぶっていった。外洋に面した岩礁では大海のうねりが押し寄せるたびに雷鳴のような轟音が響いた。砂州の内側の礁湖は保護されているのだが、白波が立ち、ハイハイイの腕を持ってしても、細いカヌーで進むことはできなかった。

スコールは日没までには通り過ぎたが、カヌーで戻るにはまだ波が高かった。それで、ぼくはタイハイイにライアテアまでカッターを出してくれる人を見つけてもらった。運賃は計二ドルと一チリ。チリは米国の通貨で九十セントに相当する。タイハイイとビハウラが大急ぎで用意した贈り物を運ぶのに村人の半数が必要だった。籠に入れた鶏、下ごしらえして緑の葉で包んだ魚、見事な金色のバナナの房、オレンジとライム、アリゲーターピア(バターフルーツとも呼ばれるアボカド)がこぼれんばかりに詰め込まれている葉で編んだ籠、ヤムイモ、タロイモ、ココナツの入った巨大な籠、最後に大量の木の枝や幹――これはスナーク号で使う薪用だった。

スナーク号の航海 (61) - ジャック・ロンドン著

ぼくらは夕食ができるまで、すずしいポーチで、ビハウラが編んだ最高のマットの上に座っていた。同時に村人たちにも会った。二、三人連れや集団でやって来たりしたが、握手をし、タヒチ語で「イオアラナ」と挨拶した。正確な発音はヨー・ラー・ナーだ。がっしりした体躯の男達は腰巻き姿で、シャツを着ていない者もいた。女達はそろってアブーと呼ばれる布で肩から足下までをおおっていた。優美なエプロンのようなものだ。見て悲しくなるのは、象皮病に苦しんでいる者が何人かいることだ。すばらしいプロポーションの魅力的な女性がいる。美人だが、片方の腕の太さがもう一方の腕の四倍、いや十二倍もあるのだ。彼女の横には六フィートの男が立っている。筋肉質で、よく日焼けし、申し分のない体をしているが、足やふくらはぎが象の足のようにむくんでいる。

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南太平洋の島の住居

南太平洋の象皮病の原因について確かなことはわからないようだ。汚染された水を飲んだからだという説もあるし、蚊にかまれて感染したという説もある。元々の素質に加えて環境に順化する過程でそうなったという第三の説もある。とはいえ、それをひどく気にかけている者はだれもいない。南太平洋では似たような病気が伝わっていることもありうる。南太平洋を航海する者にとっては現地の水を飲まなければならないときもあるし、蚊にさされずにすむこともある。とはいえ、そういうことをこわがって予防措置を講じても役には立たない。海で泳ごうとはだしでビーチを走れば、その少し前に象皮病の患者が歩いたところかもしれないのだ。自分の家にとじこもっていても、食卓に並ぶ新鮮な食物すべてが、肉や魚や鶏や野菜がそれぞれ汚染されている可能性だってある。パペーテの公設市場では、ハンセン病とわかっている患者二人が歩いていた。魚や果物、肉、野菜などの日常の食品がどういう経路でその市場に到着したのかは、神のみぞ知る、である。南太平洋の航海を楽しむ唯一の方法は、どういうことも無頓着で、心配したりせず、自分はまばゆいばかりの幸運の星の下に生まれてきたのだと、クリスチャンサイエンスの信者のように固く信じることだ。象皮病に苦しんでいる女性がココナツの果肉から果汁を素手でしぼり出すところを見たとしても、しぼりだす手のことは忘れて飲みほし、なんてうまいんだと感心することだ。さらに象皮病やハンセン病のような病気は接触感染するのではないらしいということも忘れないようにしよう。

異常に肥大し変形した手足を持つラロトンガ島の女性がぼくらに飲ませるココナツ・クリームを準備し、タイヘイイとビハウラが料理をしている調理場に行くのを目撃した。それは室内で乾物類の箱に載せて、ぼくらに供された。主人達はぼくらが食べ終わるのを待っていた。それから自分たちのテーブルを広げたが、それもぼくらに供されたのだった! ぼくらはたしかに歓待されていた。まず、見事な魚が出た。釣り上げるのに何時間もかかったもので、水で薄めたライムジュースにつけ込んであった。それからローストチキンが出た。おそろしく甘いココナツが二個、飲用に供された。イチゴのような風味で、口に入れるととろけるバナナもあったし、アメリカ人の先祖がプディングを作ろうとしたことを後悔するほどにうまいバナナのポイもあった。煮たヤムイモやタロイモ、大きすぎず小さすぎず切り分けた、多汁で赤い色をした調理バナナもあった。ぼくらはその豊富さにびっくりしたが、子ブタがまるまる一匹、かまどで焼かれて運ばれてきたのには仰天した。これはポリネシアで最高に贅沢な食事なのだ。その後にコーヒーが出された。黒くて、うまく、タハア島の丘で栽培された現地産のコーヒーだった。

ぼくはまたタイハイイの釣り道具に魅了された。釣りに行く約束をし、チャーミアンとぼくは今夜はここに泊まることにした。タイハイイがサモアの話を持ち出し、舟が小さいからというこちらの言い訳がまた彼を失望させたが、彼は顔には出さず笑顔を浮かべていた。ぼくらが次に行く予定にしていたのはボラボラ島だ。さほど遠くないが、ボラボラ島とライアテア島との間には小型船が就航していた。それでぼくはタイハイイに、スナーク号でボラボラ島まで行かないかと言ってみた。彼の妻がボラボラ生まれで、そこに実家もあるとわかったので、彼女も誘ってみた。すると彼女の方が、ぜひ実家に泊まるようにと、逆にぼくらを招待してくれた。その日は月曜だった。火曜に釣りに行き、ライアテアに戻ってくる。水曜にぼくらはタハア島まで来て、島から一マイルほどのところでタイハイイとビハウラを拾ってボラボラ島へ行くことにした。こうしたことすべてを決め、それ以外の話もした。だが、タイハイイが知っている英語は三語だけだし、チャーミアンとぼくが知っているタヒチ語は一ダースほどだ。それに、ぼくら四人全員が理解できるフランス語が一ダースくらいあった。むろん、こうした多言語が入り交じった会話はすらすらとは進まなかったが、メモ帳と鉛筆、チャーミアンがメモ帳の裏に画いた時計の文字盤と身振り手振りで、何とかうまくやれた。

スナーク号の航海 (60) ― ジャック・ロンドン著

少し帆走してスナーク号に戻ると、彼は身振り手振りでスナーク号の目的地を聞いてきた。サモア、フィジー、ニューギニア、フランス、イギリス、カリフォルニアと、航海予定の順に言うと、彼は「サモア」と口にし、自分も行きたいと身振りで示した。船には君を乗せるだけのスペースがないと説明するのはむずかしかった。「舟が小さいから」という理由をフランス語で言って納得してもらった。彼は微笑したが、その後に失望した表情を浮かべた。とはいえ、すぐにタハアに来るようまた招待してくれた。

チャーミアンとぼくは互いに顔を見合わせた。セイリングして高揚した気分がまだ残っていたぼくらは、ライアテア宛の手紙や訪ねる予定だった役人のことはすっかり忘れてしまった。靴にシャツ、ズボン、たばこ、マッチ、読むべき本をあわててビスケットの缶に詰めてゴム生地の布で包み、カヌーに乗った。

「いつごろ迎えに行こうか?」と、ウォレンが声をかけた。帆に風をはらんでタヘイに向かいかけていたので、ぼくはすでにアウトリガーに身を乗り出していた。
「わからない」と、ぼくは答えた。「戻るときにはできるだけ近くまで来るよ」

そうして、ぼくらはスナーク号を離れた。風は強くなっていた。追い風を受けて帆走した。カヌーの乾舷は二インチ半(約七~八センチ)しかないので、小さな波でも舷側をこえて入ってくる。水くみが必要だった。水くみはバヒネの仕事だ。バヒネとはタヒチ語で女性を指すが、カヌーに女性はチャーミアンしかいないので、彼女の役割になった。タイハイイとぼくは二人ともアウトリガーに乗り出していて、カヌー本体の水くみはできなかったし、カヌーがひっくり返らないようにするだけで手一杯なのだった。それで、チャーミアンが単純な形の木椀で海水をすくいだしたのだが、見事な手際でかいだしてしまうので、航程のほぼ半分は手を休めてのんびりしていた。

ライアテアとタハアは、周囲をサンゴ礁に囲まれた同じ海域にあるユニークな島だ。どちらも火山島で、山稜には凹凸があり、山頂は尖塔(せんとう)のように屹立(きつりつ)していた。ライアテア島は周囲三十マイル、タハア島は十五マイルある。となれば、それをぐるりと取り囲んでいるサンゴ礁の大きさも想像できるだろう。二つの島の間には一、二マイルの砂州が伸びていて、美しい礁湖となっていた。広大な太平洋からの波が、長さ一マイルか半マイルも一直線になってサンゴ礁に押し寄せてくる。サンゴ礁を乗りこえ、無数の水しぶきとなって降り注いでいる。もろいサンゴでできた岩礁はその衝撃に耐えて島を守っていた。その外側には頑丈な船が難破して浮かんでいた。サンゴ礁の内側は波もなく穏やかで、ぼくらが乗っているような乾舷が二インチほどのカヌーでも帆走できるのだ。

上がタハア(タアア)島で、下がライアテア島。
島を取り囲むようにサンゴ礁が形成されているのがよくわかる。この両島から南東百数十キロのところ(神奈川・三浦半島から伊豆七島・御蔵島ほどの距離)にタヒチ島がある。

ぼくらは海面をすべるように飛んでいった。しかも、なんという海だ! わき水のように透明で、最高級の水晶のように透き通っている。しかも、さまざまな色の壮大なショーが展開され、どこの虹よりもすばらしい見事な虹がかかっていた。カヌーはいまや赤紫の海面を飛ぶように走っていたが、ヒスイを思わせる深緑色はトルコ石の色に変わり、その深い青緑は鮮やかなエメラルド色に変化した。海底がまた白いサンゴ砂になると、まばゆいばかりに白く輝き、奇怪なウミウシも出現した。あるときは、すばらしいサンゴの庭の上にいた。そこでは、色とりどりの魚が遊び、海のチョウチョがひらひら飛んでいるようだ。と思うまもなく、次の瞬間には、ぼくらはサンゴの魔法の庭にいた。その次の瞬間には、ぼくらは深い海峡の濃い海面を突っ走っていた。トビウオの群れが銀色に輝きながら飛翔している。さらにまた次の瞬間には、ぼくらはまた生きているサンゴの庭の上にいて、それぞれがさっき見たばかりのサンゴよりすばらしいのだ。頭上には熱帯の空がひろがり、ふわふわした雲が貿易風に流されながら浮かんでいる。柔らかいかたまりの雲は水平線のはるか上方まで積み重なっていた。

ふと気がつくとタハア島の近くまで来ていた。タハアはター、ハー、アーと同じ強勢で発音する。タイハイイはチャーミアンの水くみの達者なことに満足し微笑を浮かべていた。岸から二十フィートほど離れたところでカヌーが浅い海底につかえたので、ぼくらはカヌーから海に降りた。足の下が妙にやわらかだった。大きなウミウシがまるまり、ぼくらの足の下で身をよじっていた。小さなタコを踏みつけたときは、それにましてグニャッという感じがして、すぐにわかった。浜辺に近づいてみると、ココナツとバナナの林の中に、竹でできた草葺きの屋根を持つ高床式のタイハイイの家があった。家から奥さんが出てきた。やせた小柄な女性で、親切そうな目をしていた。北米のインディアンの血筋でないとすれば、蒙古系かなと思える特徴があった。「ビハウラだよ」と、タイハイイが紹介した。ビハウラと呼んだが、英語のスペルがどうかなんて考えて発音したのではない。ビハウラは一音節ごとに鋭く強調され、ビー・アー・ウー・ラーと聞こえた。

彼女はチャーミアンの手をとり、家の中へ導いた。後に残されたタイハイイとぼくもその後についていった。そこで、彼らが所有しているものはすべてぼくらのものだと伝えられた。身振り手振りだったが、それは間違いない。与えるという行為について言えば、ヒダルゴウと呼ばれるスペインの下級貴族ほど気前のよいものはない。とはいうものの実際には、ぼくは本当に気前のいいヒダルゴウにおめにかかったことは、ほとんどない。ぼくとチャーミアンはすぐに、彼らの所有物をあえてほめないようにしようと心がけた。というのは、ぼくらが特定のものをほめると、それはすぐにぼくらへの贈り物になってしまうからだ。二人の女性は女同士で服について話をしたり互いの服を手にとったりしていた。タイハイイとぼくは男同士というわけで、ダブルカヌーに乗って四十フィートの竿でカツオを釣る仕掛けは言うまでもなく、釣りの道具や野生化したブタの狩猟について話をした。チャーミアンが編み籠をほめた――ポリネシアで見た最高の籠だ。すると、それは彼女のものになった。ぼくは真珠貝で作ったカツオ釣りの針をほめたが、それはぼくのものになった。チャーミアンはワラを編んだヒモの編み目に魅了された。一巻きで三十フィートはあり、どんなデザインの帽子も思いのままに作れる量だ。するとそのヒモ一巻が彼女に進呈された。ぼくは昔の石器時代にまで起源をさかのぼれるようなポイを作る臼をじっと見つめていたが、それはぼくに進呈された。チャーミアンはポイ用のカヌーのような形をした木椀を感心して眺めていた。木に四本の脚まで彫りこんである。それも彼女のものになった。ぼくはひょうたんで作った大きな置物をつい二度見してしまったが、それもぼくのものになった。それで、チャーミアンとぼくは相談し、もう何もほめないようにしようと決めたのだ。その価値がないというのではなく、ぼくらがもらってしまうにはもったいなさすぎるからだ。そして、スナーク号に積んであるもので何かお返しになるものはないか頭をひねった。こうしたポリネシアの贈り物をする風習に比べれば、クリスマスの贈り物なんて頭をなやますほどの問題ではない。

スナーク号の航海 (59) - ジャック・ロンドン著

第十二章

歓待

よそ者が到着すると、誰もがわれさきに駆け寄って友人として自分の住まいに連れて行こうとする。そこでは地区の住民から最大級のもてなしを受ける。上座に座らされ最高のごちそうがふるまわれる。
ポリネシア人の研究

スナーク号はライアテア島でウツロア村の沖合いに錨泊していた。昨夜着いたときは暗くなっていたので、ぼくらは朝から上陸する準備をしていた。早朝、ぼくは小さなアウトリガーカヌー*1が礁湖を飛ぶようにやってくるに気がついた。ちょっと考えられないような巨大なスプリットスルを揚げている。カヌー自体は棺桶のような形をした丸木舟で、長さ十四フィート(約四・二メートル)、幅十二インチ(約三十センチ)、深さ二十四インチ(約六十センチ)ほどだ。両端がとがっているのを除けば、船というにはほど遠い。舷側は垂直になっているし、アウトリガーがなければすぐにひっくり返ってしまうだろう。ちゃんと縦になって浮かんでいられるのはアウトリガーのおかげだ。

ありえないセイルと言ったが、たしかにそうなのだ。実際に自分の目で見ない限り、とても信じられないだろう。というか、見たって目を疑うしかない。セイルを揚げた状態でのブームの長さに衝撃を受けてしまう。帆の上の方がとんでもなくでかいのだ。あまりにも大きいので、普通の風が吹いただけでスプリット(斜桁)はそのパワーを支えきれないだろう。帆を支えている帆桁の一端はカヌーに固定されているが、もう一端は海面上に飛び出していて、張り綱で支えてある。セイルの下縁はメインシートで下に引かれているが、帆の上縁はスプリットに固定されている*2。

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とんでもない帆

単なるボートではないし、単なるカヌーでもなく、セイリングに特化したマシンというべきか*3。操作している男は自分の体重をうまく使って強心臓で帆走させているが、心臓の強さの方がまさっているだろう。このカヌーが風下から風上へ向かうのと村の方へ風下帆走するのを見ていたが、一人きりの乗員は、風上に切り上がっていくときはアウトリガーの外側の方に身を乗り出し、風が強くなるとうまく風を逃がしていた。

「ようし決めた」と、ぼくは宣言した。「あのカヌーに乗るまでライアテアを出ないぞ」
数分後、ウォレンがコンパニオンウェイからぼくを呼んだ。「あんたが言ってたカヌーがまた来たぜ」
ぼくは甲板に飛び出し、持ち主に挨拶した。長身痩躯のポリネシア人で、無邪気な顔をしていた。澄んだきらきらした眼をして、頭も良さそうだった。赤い腰巻きに麦わら帽子という格好だ。両手には贈り物を持っていた。魚一匹とひと抱えの野菜類、それに何個かの巨大なヤムイモ。そのすべてが微笑(これがポリネシアの島々での通貨だ)と何回ものマウルール(タヒチ語で「ありがとう」)で受け渡しされる。ぼくは、そのカヌーに乗って見たいと身振り手振りをまじえて伝えてみた。

彼の顔は喜びに輝いて「タハア」とひとこと言い、同時に三マイルほど離れた島の、高くて雲がかかった山頂にカヌーを向けた。タハア島だ。いい風が吹いてはいたが、戻りは風上航になるし、ここにきてタハア島に行きたいとは思わなかった。ぼくはライアテアへの手紙をことづかってきていたし、役人にも会わなきゃならず、下の船室には上陸する準備をしているチャーミアンもいた。ぼくは何度も身振りで礁湖でちょっと帆走してみたいだけだという希望を伝えた。彼の顔にはすぐに失望した表情が浮かんだが、微笑して承諾してくれた。
「ちょっとセイリングしようぜ」と、ぼくは下のチャーミアンを呼んだ。「でも水着を着ろよ。ぬれるから」
現実とは思えなかった。夢だった。カヌーは海面を猛スピードで滑走した。タイハイーが操船している間、ぼくはアウトリガーに身を乗りだして、風でカヌーが持ち上がるのを体重で抑えた。風が強くなると、彼もアウトリガーに身を乗りだし、同時に足でメインシートを押さえこみ、両手で大きな舵を操作した。
「タック用意!」と、彼が叫んだ。
帆から風が抜けていくときにバランスをとるため、ぼくは慎重に体重を内側に移動させる。
「タック!」と叫ぶと、彼はカヌーを風上に向けた。
ぼくはカヌーから横につきだしている腕木に乗って反対側の海面上に移動した。反対舷で風を受けてまた帆走する。
「オーライ」と、タイハイーが言った。
タック用意、タック、オーライという三つの言葉がタイハイーの知っている英語だった。それで、彼はアメリカ人の船長のいる船にカナカ人の船乗りとして乗り組んでいたことがあったのではないかと、ぼくは思った。風がとぎれ、また次の風が吹いてくるまでの間、ぼくは彼に対して繰り返し「船乗り」という言葉を口にしてみた。フランス語でも言ってみた。海という言葉も水夫という言葉も通じなかった。ぼくのフランス語の発音が悪いのか、他の理由からか、反応しないのだ。で、ぼくは勝手に自分の想像は当たっていることにした。最後に、近くの島々の名前を言ってみたところ、うんうんと、それには反応した。ぼくの質問がタヒチに及ぶと、彼はその意味がわかったようだった。彼がどういう風に考えているのか、ほとんど手に取るようにわかったし、彼が思案する様子を見ているのは楽しかった。彼ははっきりとうなづいた。そう、タヒチに行ったことがあるのだ。しかも、ティケハウ、ランギロア、ファカラヴァなどの島々の名前も自分から口にした。それはツアモツまで行ったことがある証拠だった。貿易船のスクーナーに乗り組んでいたのだろう。

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タイハイー

訳注
*1: アウトリガーカヌーは南太平洋で発達したカヌーの一種で、細長いカヌーが転覆しないように片側あるいは両側につきだした腕木の先にアマなどとよばれる細い浮力体がつけてある。一般的なカヌーのようにパドルでこいだり帆走したりできる。

*2: 写真で見るかぎり、帆の形状はクラブクロウ(カニのハサミ状)で、とんでもない帆というのは、上部が大きい逆三角形の帆がついていることを指す。

*3: 現代のセイリング・マシンといえば、海のF1とも呼ばれるアメリカズカップに使用されるヨットになるだろう。2016年9月現在、このアメリカズカップの予選となるルイ・ヴィトン・カップが世界各地を転戦しながら行われているが、使用されているヨットは、アウトリガーカヌーが起源ともされるカタマラン(双胴ヨット)である。カタマランは外洋でより遠くへ行けるように、アウトリガーの代わりにカヌーを二隻ならべた進化形で、通常のモノハル(単胴船)が海水を押しのけながら進むのに比べると、海面をすべるように進むので、はるかに効率がよく高速帆走が可能になる。

スナーク号の航海 (58) - ジャック・ロンドン著

ある日の夕方、彼があくびをしたので、何時間ぐらい眠るようにしてるんだ、
と聞いてみた。
「七時間」という返事だった。「だが十年後には六時間にし、二十年後には五時間だけにするつもりだ。つまり、十年ごとに一時間ずつ減らしていこうってわけさ」
「じゃあ百歳になったら、まったく寝ないというのか?」
「そう、そのとおりだね。俺は百歳になったら寝る必要もなくなると思ってるんだ。それに、そのころはもう宙に浮いてる暮らしているはずさ。植物にも空中で育ってるのがあるだろ」
「だが、そんなことできたやつなんかいないだろ?」
彼は頭を振った。
「そんなやつのことは俺も聞いたことがない。ま、これは、俺独自の理論ってやつでね、宙に浮いて暮らすのは気持ちよさそうだとは思わないか? むろん不可能かもしれないが――無理というわけじゃない。あんたも知っているように、俺は夢想家ってタイプじゃないだろ。現実を忘れたことはないんだ。未来に思いをはせるときには、いつも戻り道がわかるように紐をつけておくのさ」
この自然人は冗談めかして言っているのだろうが、いずれにしても単純明快な生活をしてはいるのだ。衣装持ちじゃないので洗濯代はたいしてかからないし、自分の農園では果実を売って暮らしているが、労賃については自分では一日五セントと見積もっている。いまのところ市場への道が封鎖され、社会主義も広めなきゃってんで街で暮らしているが、街での生活費は家賃を含めれば一日に二十五セントになる。こうした経費の支払にあてるために、中国人向けの夜間学校も経営していた。

この自然人は理屈にこり固まったやつじゃない。菜食主義者だが、肉しかなければ肉も食うし、たとえば牢屋や船上では木の実や果物でやっていける。日焼けをのぞけば、何か具体的な計画があるというのでもなかった。

「投錨しても、錨がきかずに走錨することがあるだろ――つまり、人の心は無限で底なしの海みたいなもので、犬の檻とは違うんだ」と、彼は語を継いだ。「要するに、俺はいつも走錨してるんだ。俺は人類の健康と進歩を願って生きていて、そっちの方向に走錨するようにしてるってわけだ。この二つは俺には同じことなんだよ。錨がきいて一カ所に閉じこめられなかったから俺は救われたんだ。俺は錨で死の床につなぎとめられはしなかった。俺はヤブの中まで錨を引きずっていって、医者連中から逃れたのさ。健康を取り戻し、強くなったところで、人々に自然に帰ろうと呼びかけたんだが、だれも聞く耳を持たなかった。それで、汽船に乗ってタヒチまでやってきたんだ。俺に社会主義を教えてくれたのは操舵手だったな。人間が自然に帰って生きていくには、経済的に平等じゃなきゃだめだってね。それで、俺はまた錨を引きずっていきながら、共同体を作ろうとしているわけさ。それが実現すれば、自然の中で暮らすことも簡単になるだろうよ」

「昨夜、夢を見たんだ」と、彼は思い出しながら続けた。顔は少しずつ輝いてくる。「自然の生活をしたいという二十五人の男女がカリフォルニアから汽船で到着したみたいだった。それで俺は連中と一緒に野ブタの獣道を農園まで登りはじめたんだ」

ああ、日光浴が好きな自然人のアーネスト・ダーリングよ、ぼくは君や君の気ままな暮らしをうらやましく思ったことが何度もある。今でも踊りながら階段を上ったり、ベランダでおどけた仕草をしていたり、崖から海に飛びこんだりしているのが見えるよ。目を輝やかせ、陽光をあびた体は光に包まれ、「アフリカのジャングルのゴリラは、自分の胸をたたく音が一マイル離れたところで聞こえるまで胸をたたくんだ」と言いながら胸をたたく音が鳴り響いている。

そうして思い出すのはいつも、別れを告げた最後の日の君だ。スナーク号は再び外海に向けて、波がくだけている岩礁の間を抜けようとしていた。ぼくは海岸にいる連中に手を振った。とくに、ちっぽけなアウトリガーカヌーの上に直立している、赤いふんどし姿の、日に焼けた太陽神のような男に対して友情と愛情をこめて別れを告げたのだ。

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パンノキの朝食