スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (11)

ポン=シュル=サンブル

行商人

シガレット号が朗報を持って戻ってきた。ぼくらのいるところから歩いて十分ほどのポンと呼ばれるところに宿があるらしかった。穀物倉庫にカヌーを置かせてもらって、子供たちに道案内を頼んだ。子供たちはぱっとぼくらから離れ、ご褒美をあげるよという申し出にも返事をせず黙りこむ。子供たちにとって、ぼくらは明らかに二人連れのおそろしい青ひげ*1だったのだ。公共の場で話しかけたり数の優位を頼りにできるときはいいが、この穏やかな日の午後に自分たちの村に雲の上から舞い降りてきた、腰帯を締め、ナイフを差した二人連れ、遠いところから旅してきたらしい、物語にでも出てきそうな怪しい大人を一人で道案内するとなると話は別なのだろう。穀物倉庫の主人が出てきて、案内役として一人の子供を無理やり指名した。ぼくらは自分で道を探していくべきだったかもしれない。だが、その子はぼくらより穀物倉庫の主人の方を怖がっていた。前にどやされるようなことをしていたのかもしれない。この子の小さな心臓は激しく脈打っていたに違いない。というのも、彼はぼくらよりずっと前を小走りにどんどん進み、ぼくらを振り返るその目はおびえているようだったからだ。ジュピターやオリュンポスの神々*2をその冒険で案内したのも、こんな風な子供たちだったのかもしれない。

教会やくるくる回る風車のあるクアルトから、どろんこ道の上り坂が続いていた。農作業を終えた男たちが家路についている。元気のいい小柄な女性がぼくらを追いこしていった。彼女はロバに横向きに乗り、ロバの背にはきらきら輝く牛乳缶が左右に振り分けて吊るされていた。追いこしながら彼女はロバの腹を蹴り、徒歩の連中に声をかけていく。疲れ切った男たちはだれも返事をしなかった。まもなく道案内の子供は道を外れ、野原を進んだ。太陽は沈んだが、ぼくらは西に向かっていて、前方の空は金色に輝く湖がひろがっているようだった。開けた田園地帯がしばらく続き、やがて葉の生い茂った木々がアーチのように道におおいかぶさってくるようになった。道のどちら側も薄暗い果樹園で、木立ちの間に農家が低く点在し、煙が空に昇っていた。西の方角には、ちらちらと大きな金色に輝く空が見えた。

シガレット号の相棒は、これまで見たことがないほど、くつろいでいるようだった。この田園風景に感動し抒情的になっている。ぼくの方も少し気分が浮きたっていた。歩くにつれて、夕方の心地よい空気や木々の影、輝くような明るさや静寂も調和を乱さずついてくる。ぼくらは、これからは市街地を避けて農村に泊まろうと心に決めた。

道はしまいに二軒の建物の間を抜けて、広いがぬかるんだ幹線道路に出た。見渡す限り、どちらの側にも不格好な集落が並んでいる、家々は道路から離して建てられていて、道路の両側の空き地には積み上げた薪や荷馬車、手押し車、ゴミの山があり、草も生えていた。左手の離れたところには、不気味な塔が通りの真ん中に立っていた。かつてそれが何だったのかはわからないが、たぶん戦争があったころの陣地のようなものだろうか。今では文字盤の数字が読めなくなった時計が上の方に取りつけてあり、下には鉄製の郵便受けがあった。

クアルトで教えてもらった宿屋は満室だった。あるいは女将がぼくらの身なりを気に入らなかったのかもしれない。ぼくらは長くて濡れたゴム製のかばんを抱えていたので、いかにもうさんくさい格好──シガレット号の相棒によればゴミを集めて回っている業者も同然──だった。「あんたたち、行商してるの?」と女将が聞いた。そして、わかりきったことだと思ったのか、返事を待たず、街のはずれに旅行者を泊めてくれる肉屋があるので、そこに行って泊めてもらうようにといった。

ぼくらはそこへ行ってみた。だが、肉屋は忙しそうで、そこでも満室だと断られた。やはり、ぼくらの格好が気に入らなかったのかもしれない。別れ際に「あんたら行商人かね?」と聞いた。

暗くなってきた。よく聞きとれない夕方の挨拶をしていく通りすがりの人の顔を見ても区別がつかない。ポンの人々は油を倹約しているようだ。長く伸びた村で、窓に灯りがともっている家は一軒もなかった。ここは世界で一番長く村ではないかと思う。暗くなってきたのに宿が見つからないという困った状況で、一歩が三歩にも感じられた。最後の宿屋に来た時には体力も気力もなくなっていて、薄暗い扉ごしに、おずおずと今晩泊めてもらえますかと聞いた。まったく愛想のない女の声で、いいよという返事があった。ぼくらはかばんを投げ出し、手探りで椅子のところまで行った。
脚注]
*1: 青ひげ - グリム童話などに出てくる、何人もの妻を殺した殺人鬼。
*2: ジュピターやオリュンポスの神々 - ギリシャ神話でオリュンポス山(標高2919m)の神殿に住むとされた十二神。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (10)

サンブル運河は小さな丘の間を縫って蛇行しながら流れていたので、クアルトの水門の近くまでたどりついた時には午後六時を過ぎていた。船を曳いて歩く道には何人か子供たちがいて、道沿いにぼくらを追いかけてきた。シガレット号の相棒は彼らと冗談を言いあっている。ぼくは相手にわからないよう英語で相棒に警告しようとした。やつらは最も危険な生物で、下手にかかわると、しまいには石が雨のように飛んでくるぞと、ね。だが、ダメだった。ぼくはといえば、にっこり笑って頭をかしげ、フランス語があまりわからない、無害な人間だというふりをした。実際にぼくは母国で経験しているのだ。こういう元気いっぱいの悪ガキの相手をするくらいなら危険な野生生物と出会うほうがましだ。

だが、ぼくはこの若く友好的なエノー州の子供たちに対して不当な仕打ちをしていたのだった。シガレット号が宿を探して運河を離れたので、ぼくは土手に上がってカヌーの番をしながらパイプをくゆらせたが、すぐに好奇心旺盛な、この人なつっこい連中に取り囲まれた。そのころまでには、子供たちに若い女性と片腕のない温和な青年が加わっていたので、ちょっと安心ではあった。ぼくがフランス語を一言二言口にすると、少女の一人が妙に大人ぶった様子でうなずいた。「やっぱりね」と、彼女は言った。「この人、ちゃんとわかるのよ。さっきは、わかんないふりしてただけ」 そして、子供たちは人が好さそうな笑い声をたてた。

ぼくらがイギリスから来たと聞くと、とても驚き感銘を受けたようだった。さっきの少女は、イギリスは島で、ここからずっと遠いんだよ(ビヤン・ロワン・ディシ)と説明している。

「そう、ここからずっと遠いんだ」と、片腕の若者が言った。

ぼくは人生ではじめてホームシックを感じた。子供たちの反応を見ていると、とんでもない遠くまで来た実感がわいてきた。子供たちはカヌーについて口をそろえてほめてくれた。この子供たちはちょっとした配慮もみせたのだが、それはここに書いておくに値するだろう。というのは、ぼくらが上陸しようとする最後の百ヤードほど、子供たちは乗せてくれと耳を聾するほどの大声をあげていたし、翌朝ぼくらが出発するときも同じ調子で頼みこんできたくせに、カヌーを岸につけて空っぽで係留しているときに乗せてくれとは口にしなかったのだ。それなりに気を使ったということだろうか? それとも、カヌーに自分たちだけで乗って、ぐるぐる回転するだけでうまく進めずに恥をかくことを心配したのだろうか? こういう皮肉というか、斜に構えたものの見方は好きじゃない。というか、この二つは同じことなのかもしれない。感傷にひたろうとする者に冷水をあびせ、バスタオルでごしごしこすれば元気が出てくるように、感受性が鋭敏すぎる人間には、人生においてこういう皮肉な見方も必要なのかもしれない。

子供たちの関心はカヌーからぼくの服に移った。彼らはぼくの赤い帯に感心し、ナイフには畏怖の念を抱いた。

「イギリスでは、こんな風に作るんだ」と、片腕の少年が言った。現在のイギリスで作られているナイフがどれほどひどいものか彼が知らなくてよかったと、ぼくは思った。「こういうナイフは船乗り用なんだ」と、彼はつけ加える。「大きな魚から自分の命を守るためにね」

言葉をかわすごとに、ぼくは自分が子供たちにとって、だんだんロマンティックな存在になっていくのを感じた。実際にそう思われていたのだと思う。ぼくが持っているパイプはフランス製の粘土でできた、ごくありきたりのもので汚れてもいたのだが、彼らの目には、遠くから運ばれてきた貴重なものに見えたらしい。ぼくの服にほめるところがなければ、それはすべて海を超えてきたからだとされた。とはいえ、ぼくの服装で一つだけ、そうしたほめ言葉の対象にならなかったものがある。泥まみれのズック靴だ。彼らとしても、この泥だけは自分たちの国のものだと認めざるをえなかったのだろう。さきほどの少女は子供たちのリーダー的な存在だったが、ぼくに恥をかかせないよう率先して自分の汚れた木靴を見せたりもした。彼女がいかに優雅に明るい調子でそうしたことを行ったか、みんなにも見てもらいたかった。

若い女性は取っ手が二個ついた真鍮製の牛乳入れを抱いていたが、いまは少し離れた草地に置かれていた。ぼくは連中の注意を自分以外のものに向ける機会を見つけてうれしかったし、それをほめることで少しはお返しをすることができた。ぼくは缶の形と色の両方を本気でほめ、金でできているみたいに美しいと言った。彼らは少しも驚かなかった。この地方では明らかに誇らしく思われている製品だったからだ。子供たちは口々に、この缶がいかに高いかを語った。一個が三十フランで売られることもあるのだという。この缶をロバでどうやって運ぶのかというと、サドルの両側にそれぞれ一個ずつ吊るすのだが、それだけで豪華な飾りをつけたようになる。しかも、この地方一帯に広く普及しているため、大きな農場には大きな缶がたくさんあるのだ、と。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (9)

サンブル運河──クアルトまで

午後三時ごろ、グラン・セールの従業員全員が水際までぼくらの見送りにきてくれた。その中には乗合馬車の男もいたが、しょぼくれた目をしていた。かわいそうなカゴの鳥君! ぼく自身もかつては駅をさまよいながら次から次へとやって来る列車が自由人たちを夜の闇のかなたへと運んでいくのを眺めては、羨望にかられ、時刻表に書いてある遠い土地の名前を読んだりしたこともあるのだった。

この要塞化した地方を抜けてしまう前に雨が降りだした。向かい風で、猛烈に吹いた。周囲の自然も天候に負けていなかった。ところどころ雑木林があるだけの荒廃した雰囲気の土地で、通過する際には、あちらこちらに工場の煙突群が見えた。木々の間に土が見えている牧草地に上陸した。晴れ間がのぞいたところで、一服した。しかし、風はますます吹きつのり、タバコを吸うことはほとんどできなかった。近隣には薄汚い作業場がいくつかあるだけで、自然のものは何もない。背の高い少女を先頭にした子供たちが、ぼくらのいるところから少し離れたところに立っていた。あの子たちの目に、ぼくらはどう映っているのだろうかと気になった。

オーモンでは、水門を通り抜けることはほとんどできない状態になっていた。上陸するはずの所は川から急勾配の高い崖になっているし、船着き場は離れたところにあった。一ダースほどの埃まみれの労働者が手を貸してくれた。彼らは謝礼を受け取ろうとはしなかった。それどころか、ぼくらが金を渡そうとしたことで彼らを侮辱したという印象を与えないよう配慮し、上手に断ってくれた。「ここでは、いつもこんな風だよ」と、連中は言った。そして、それはとても似つかわしいやりかただと思う。ぼくの故郷のスコットランドでも代価を求めず手を貸してくれるのだが、そういう親切な人々に手伝ってくれたお礼として金銭を与えようとすると、選挙で有権者を買収しようとしているかのごとく乱暴に拒否されてしまう。ここの人々みたいに、やっかいごとを無償で手伝ったりした際には、もうひと頑張りして、相手に気まずさを感じさせないよう配慮するのは悪くない。ぼくらの勇敢な母国イギリスでは、一生の間ずっと泥の中をとぼとぼ歩き、誕生から埋葬まで耳元で風が吹き続けているといった風だが、善行も悪行も尊大かつ横柄に行われている。誰かに施しをするのでも、つい社会正義の矛盾を糾弾するような調子になってしまうのだ。

オーモンを過ぎると、太陽がまた顔を出し、風もおさまった。少し漕いでいくと、製鉄所のある一帯を過ぎ、気分が高揚する楽しい景色になってきた。川は低い丘の間を蛇行しながら続いているので、太陽はぼくらの背後になったり正面になったりした。前方の川面がまぶしいほどぎらぎら輝いている。両岸に牧草地や果樹園があり、スゲの木や水生植物の花で縁どられていた。生垣はとても高く、楡の木の幹を縫うように張り巡らしてあった。平坦な場所では非常に小さく区切られていて、川ぞいに木陰の休憩所が並んでいるように見えた。あたりを眺望できるような場所はなかった。時々、木の生えた丘の頂上が近くの生け垣ごしに見えたりしたが、その背後には空があるだけで、それがすべてだった。空に雲はなかった。雨がやんだ後の空気は澄みきっていた。川は丘をめぐりながら鏡のように光り輝き、カヌーを漕ぐごとにその波紋が岸辺の花々を揺らした。

牧草地では白黒まだらの目立つ模様の牛が歩きまわっていた。頭が白く体の他の部分は黒々とした毛におおわれた一頭が川岸まで水を飲みにやってきて、芝居に出てくる妙な坊さんが儀式をやっているみたいに、立ったまま両耳をぼくの方に向け、通り過ぎるまで小刻みに動かしていた。ザブンという水音を聞いてすぐに振り返ると、例の坊さんめいた牛が川に落ち、陸にあがろうともがいているのだった。岸辺の土が牛の重さに耐えかねて崩れたのだ。

小鳥やたくさんの釣り人を除き、牛の他に生き物は見えなかった。釣り人たちは牧草地の縁に座っていて、釣竿が一本の者がいるかと思えば十本も並べている者もいた。彼らは満ち足りた気分でいるようだった。天気について話をすると、彼らの声は静かで、遠くから聞こえてくるようだった。彼らは全員が川には魚が多いことに同意したが、何を釣ろうとしているのかについては、それぞれ意見が違っていた。二人として同じ種類の魚を釣ろうとしていないのは明白なので、逆に、ぼくらは誰も魚を釣っていないのではないかと疑わざるをえないほどだった。とても素敵な午後だったので、彼らが皆、獲物を釣り上げ、それをカゴに入れて家に持ち帰って夕食に食べられたのであればよいがと思う。こういうことを言うと、動物愛護に燃える友人のうちには、ぼくを非難する人がいるかもしれない。だが、ぼくは世界中のどんな勇敢な魚よりも、釣り人の方を尊重したい。ぼくは料理されて食卓に出されたものでなければ魚には興味がない。カヌーに乗って川を行く者にとって、釣り人は川の景色で重要な役割を果たしていて好ましい存在なのだ。自分がいまいる場所がどこなのか聞くと、いつも穏やかな口調で教えてくれるし、そうした釣り人がひっそりと存在していることが孤独と静謐を際立たせてくれるし、カヌーの下に銀鱗をきらめかせた魚のいることを思い出させてくれる。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (8)

相棒一人をのぞいて他には知り合いが誰もいないという場所でも、それなりに幸福に生きられるというのがわかった。が、これは奇妙なことではある。自分とかかわりのない人々の生活を眺めているうちに、個人的な欲望がマヒしてくるのだろうか。単なる傍観者であることに満足してしまうらしい。パン屋が店の戸口に立ち、夜になると勲章を三つも飾りつけた大佐がカフェにやってきたりする。軍隊は太鼓をたたき、ラッパを吹き鳴らし、ライオンの群れのように雄々しく城壁を守っている。こうしたことすべてを平穏な気持ちで眺めていられるのはなぜかを、言葉で表現するのはむずかしい。自分が何かしら根を張っている土地では、そうしたことに無関心ではいられない。すでにそうした生活に自分もかかわってしまっていて、たとえば友人が軍隊に入って戦っていたりするからだ。だが、すぐに知りつくせるほど小さくはなく、といって旅行者用の施設が確保されるほど大きくもない初めての町では、自分の商売から遠く離れて、もっと親密になることも可能だということすら忘れてしまう。周囲の人々に関心を抱くこともほとんどなく、自分が人間だということも忘れそうになる。たぶん非常に短い期間に人間ですらなくなってしまうのではあるまいか。裸の修行者たちは真理を求めて自然に満ち満ちて、いたるところに冒険があふれている森へと入っていく。が、それよりも、こういう退屈なほど関心が持てない田舎町に居を定めるほうが、修行の目的にはかなっているのではあるまいか。こういうところでは、人とはもっと離れていたいと思わせられるし、人間の生活の外見、つまり抜け殻だけを見ていて、そういう外見上のつきあいしかない人々は自分にとって死んだも同然で、ぼくらの目や耳には死んだ言葉としか響かず、もはや宣誓や挨拶以上の意味を持たなくなってしまう。ぼくらは結婚した夫婦が日曜に教会に行くのを見慣れているので、夫婦というものが何なのかをすっかり忘れてしまう。そのため、男と女がお互いのために生きることがどれほど美しいのかを示そうとすると、作家は日常から逸脱した不倫を描かざるをえないのだ。

だが、モーブージュで、抜け殻ではないことを示した男がいた。それはホテルの乗合馬車の御者だった。ぼくの記憶に残っている限りでは、痩せて小柄な男だったが、魂には火花の散るような人間らしさがあふれていた。ぼくらのささやかな航海について耳にすると、すぐに羨望と共感を抱いてぼくらのところにやってきて、自分もこういう旅をしたかったんだと告げた。どこかよその土地に行き、世界を見てまわってから死にたいのだと。「自分はいまここにいるんだけど」と、彼は言った。「駅まで行って、それからまたホテルまで戻ってくるんだ。それが毎日、毎週ずっと続くわけ。なんだかねえ、これが人生ってやつなんだろうか?」 それが君の人生だ、とは言えなかった。彼は、ぼくが行ったことのある場所や行きたいと思っている場所を教えてくれと迫った。ぼくの話にじっと耳を傾け、そうして、ため息をついた。もしかすると勇気あるアフリカの旅行者になっていたり、ドレーク*1の後にインドに行ったりしていたかもしれないのだった。だが、放浪癖のある者にとって今は悪魔のような時代で、富や栄光がおとずれるのは事務所の椅子に満足して座っていられる者に対してなのだ。

あの彼はいまもグラン・セールでホテルの乗合馬車を駆っているだろうか? いや、その可能性は低いと、ぼくは信じている。というのは、ぼくらがあの町を通ったとき、彼は我慢の限界まできていて、おそらくは、ぼくらの航海が彼の背中を押すことになったのでは、と思ったりもする。彼は世界を放浪して歩くべきだったろうし、道端で深鍋や平鍋を修理し、木の下で眠り、毎日新しい水平線に夜明けと日没を見たりするわけだ。乗合馬車の御者という仕事はそれなりに立派だという声が聞こえてきそうだ。それはそうかもしれない。だが、その仕事が好きではない者がその地位にしがみつき、その仕事をやりたい人を締め出していてよいのだろうか? かりに料理が自分の好みにあわず、自分以外の仲間はそれが好きだとすると、どういう結論を出すべきだろうか? 自分が好きでもない料理を無理に食べることはないのでは、とぼくなら思う。

世間体というのは、それはそれで大事なことではあるのだが、それが万事に優先されるわけではない。好みの問題だと言うつもりは毛頭ないが、少なくともこうは言っておきたい。もしその地位が当人にとって相性が悪く、気づまりで、不必要かつ無益であるのならば、たとえそれが英国聖公会ほど尊敬すべきものであったとしても、そこから去るのが早ければ早いほど、本人にとっても関係する誰にとってもよいのだ、と。

脚注
*1: ドレイク - フランシス・ドレイク。マゼランから半世紀ほど遅れて世界で二番目に世界一周したイングランドの英雄たる航海者。敵対するスペインでは、私掠船船長として海賊行為を行ったため悪魔的存在としておそれられた。
私掠船とは、交戦状態にある国同志で敵対国への海賊行為が国家として認められた船をいう。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (7)

モーブージュにて

ロイヤル・ノーティークのよき友人たちや、ブリュッセルとシャルルロア間に五十五は下らない水門があることに恐れをなしたぼくらは、国境はカヌーや荷物もまとめて一緒に列車で超えることにした。一日の航程に五十五も水門があるというのは、その間をずっとカヌーをかついで歩くのも同然だ。運河沿いの木々もびっくりだし、常識を持った子供たちにとっては嘲笑の対象になってしまう。

ぼくという人間にとっては、列車であっても国境を通過すること自体が厄介だった。なにしろ役人には要注意人物に見られることが多く、旅をするとどこでも彼らが集まってきてしまう。いろんなまじめな条約が締結され、中国からペルーにいたるまで、外務大臣や大使、公使が威儀を正して座し、イギリス国旗のユニオンジャックもいたるところで風になびいている。そういう庇護の下で、でっぷり太った牧師や女教師、グレーのツイードスーツを着た紳士など、マレーのガイドブックを手にした英国の旅行者たちが大挙して大陸の鉄道に乗り嬉々として旅をしているのだが、アレトゥサ号の痩身の男、つまりぼくだけは、なぜか法の網にひっかかってしまうのだった。パスポートを持たずに旅をしていると、そのまま薄汚い地下牢に投げ込まれてしまうし、旅券が整っていれば入国はできるが、周囲の人々には疑惑の目でみられてしまう。ぼくは生まれも育ちも生粋のイギリス人なのだが、役人にそう思われたことは一度もない。自分は率直で正直だと誇りに思っているが、スパイじゃないかと疑われることも多く、そうした人々の不信感を払拭しようとしても、自分がとんでもなく恥ずべき商売をしているに違いないと思われなかったことはない……

ぼくはどうしてもそれが理解できない。ぼくだって教会で祈ったり、良家の人々の会食に列席したこともあるのだが、そういう雰囲気がぼくにはまったく感じられないらしい。役人にはインド人の誰かみたいな、妙なやつだと思われてしまう。自分がいまいるところとは別の世界のどこかからやってきたやつだと思われてしまう。先祖たちの努力は無駄になり、栄光に包まれたイギリスの憲法でも、外国を歩いているときのぼくを守ることはできない。というわけで、自分が属している国のごく普通の国民とみられることは、それ自体がすばらしいことだ。

ぼくをのぞけば、モーブージュに行く途中で旅券を見せるよう求められた者はいなかった。ぼくは自分の権利を主張したが、しまいにはこの屈辱的な扱いに従うか列車に乗るのをあきらめるかを選択するほかなかった。譲歩するのは嫌だったが、モーブージュにはどうしても行きたかった。

モーブージュは要塞化された町で、グラン・セールという非常によい宿屋がある。兵隊とセールスマンだけが住んでいる感じだ。少なくともホテルの従業員を除いて、ぼくらが見かけた人々は皆そうだった。カヌーの到着が遅れ、最後は税関で止められてしまったため引き取りに行ったりした。そのため、この地にしばらく滞在せざるをえなかった。その間は何もすることはなかったし見るものも何もなかった。食事はおいしくて、それはそれですばらしかったが、でもそれだけのことだ。

シガレット号の相棒の方は、要塞をスケッチした嫌疑で拘束されかけた。彼にそんなことができるはずもないのに。交戦国はそれぞれ相手の要塞化された場所の図面くらいは持っているだろうから、こうした予防措置は馬が逃げた後に馬小屋の戸を閉めるようなものだという気もする。とはいえ国民の士気高揚に役立つのは間違いない。内輪だけの秘密を共有しあっていると人々に思いこませることができれば、それはそれですばらしいことではある。自尊心も大きくなるしね。ちょっと刺激がなくなって退屈しはじめたフリーメーソンの会員にもその種のプライドはあって、会員になっている八百屋の大将が自分は人畜無害の正直者だと心の底で思っていたとしても、仲間内の秘密の会合に出た後は、自分はひとかどの人物だという誇りを抱いて家に戻っていくだろう。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (6)

ボートでおバカなことをするより商売の方が面白いと誰が言えるだろうか? そういうことを言う人はボートを見たことがないか商売というものを知らないに違いない。少なくともボートの方が健康にはずっとよいのは確かだ。人間がやるべきは、まず楽しむことだ。金を稼ぐこと以外に、これに対抗できるものはない。あの

          マンモン──そうだ、天から堕ちた天使のうちこれほど
さもしい根性の持ち主もなかったという

(ミルトン『失楽園』平井正穂訳)

あの拝金主義の権化くらいしか一語でもあえて反論しようという者はいないだろう。商売人や銀行家を人類のため滅私奉公する人々とみなし、彼らが取引に没頭しているときに最も貢献しているというのは上っ面のきれい言だ。というのは、人間自身の方がその人の職務より重要だからだ。このロイヤル・ノーティークのクラブ員たちが帳簿以外の何かに情熱をそそぐことができない、希望に満ちた若さというものから堕ちてしまっていたら、彼らがこんないい人でいるはずはないし、夕闇が迫ってからずぶ濡れになってボートを漕いでブリュッセルまでやってきたイギリス人をこれほど暖かく歓迎してくれたりはしないだろう。

ぼくらは服を着替えて、クラブの繁栄のためにペールエール*1で乾杯した。それから、一人がぼくらをホテルまで送ってくれた。彼はぼくらの夕食には加わらなかったが、ワインには付き合ってくれた。情熱というものは非常に疲れるものだ。ぼくは、預言者が地元のユダヤでなぜ人気がないのか、だんだんわかってきた。この若者は三時間ほどぼくらと一緒にいて、ボートやボート競技について語り、帰る際には親切にもぼくらの寝室のローソクを注文してくれた。

ぼくらは何度か話題を変えようとしたが、うまくいかなかった。このロイヤル・ノーティークのクラブ員はぼくらの意図には乗ってこず、質問に答えるとまたしてもボートやボート競技について熱く語りだすのだった。ぼくは話題と言ったが、その話題と彼自身が一体になっていた。アレトゥサ号に乗っているぼくとしては、レースなんてものはすべて悪魔が生み出したものだと思っているくらいだし、ジレンマも感じた。祖国イギリスの名誉のためにもレースについて無知をさらすわけにはいかないし、以前には聞いたこともないイギリスのクラブやイギリスのボート競技者について話を合わせたりした。何度か、とくに一度などは、スライド式のシートという質問で無知がばれそうになった。シガレット号のオーナーはかつて真剣にレースをしたことがあるのだが、今ではそうした行為を若気の至りと思うようになっていたので、ぼくよりもっと大変だった。というのも、ロイヤル・ノーティークの連中が、翌日にクラブ所有のエイト*2に乗って、イギリスの漕ぎ方とベルギーの漕ぎ方を比べてみないかと提案したからだ。その話が出るたびに彼が椅子に座ったまま冷や汗をかいているのがわかった。すると、さらに、ぼくら二人が同じように感じる、もう一つの提案がなされた。カヌーのヨーロッパ・チャンピオンが(他のほとんどのチャンピンと同じく)ロイヤル・ノーティークのクラブ員だということだった。ぼくらが日曜まで待ってくれれば、ぼくらにとってはとんでもない名手が次の航程でぼくらに同行してくれるだろうというのだ。ぼくらには太陽神アポロンの馬と競争しようなんて気持ちはまったくなかった。

この若者が戻っていくと、ぼくらはローソクを消してブランデーと水を注文した。大波が頭上を乗りこえていったようだった。ロイヤル・ノーティークのスポーツマンたちは誰もが出会いたいと思うすてきな若者たちだったが、いかんせん若すぎたし、ぼくらからすれば潮っけがありすぎた。ぼくらは自分が年をとりシニカルになっていると感じさせられた。ぼくらはのんびりするのが好きだったし、あれやこれや、とりとめのない話をするのが好きなので、エイトに乗って必死に漕いだり、四苦八苦しながらもカヌーの選手権者の後塵を拝して祖国に泥を塗りたくもなかった。それで、早い話が、ぼくらはとんずらした。面目ない話だが、せめて心からの称賛を書きつらねたカードで感謝の意を表して埋め合わせようとした。実際、罪の意識を感じる暇もなかった。ぼくらは首筋にまでチャンピオンの熱い息吹を感じたような気がしていたのだった。
脚注
*1: ペールエール - ビールの一種。
*2: エイト - 八人の漕手が乗るのでエイトと呼ばれ、ボート競技では最大かつ最速。これに舵手が一人加わる。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (4)

ウィレブルークとヴィルボールデの途中で、地主の館へと続く道のように美しい運河のところで、ぼくらは昼食にしようと上陸した。アレトゥサ号には卵二個とパン、ワイン一本があり、シガレット号には卵二個とエトナ製のコンロを積んでいた。シガレット号の相棒は上陸する際に卵一個をつぶしてしまった。とはいえ、そいつは薄焼き卵にすればいいとなって、フランドル語*1の新聞がついたままコンロに放り込んだ。晴れている間に上陸したが、二分もしないうちに風が強くなり、雨が音を立てて降りだした。ぼくらはコンロにできるだけ体を近づけた。燃料のアルコールがいきおいよく燃え上がり、一、二分ごとに炎が草に燃えうつるので、それを踏み消さなければならなかった。ぼくらはまもなく何本か指をやけどした。こんな騒動をした割に、料理の方はパッとしなかった。二回も火をつけてみて、やっとあきらめたが、割れなかった方の卵は生暖かいままだし、紙がついた卵といえば印刷のインクと割れた殻を一緒に煮こんだ、いかにもまずそうなフリカッセ*2みたいだった。ぼくらは残りの卵二個を燃えているアルコールの方に押しやるようにして焼いたが、こっちはなんとかうまくいった。それからワインのコルクを抜き、溝の縁に座ってカヌーのスプレースカートを膝に広げた。雨は激しくなった。まずい状況だ。正直、不快ではあるのだが、不快すぎてしかめっつらもできない。屋外でびしょ濡れになり感覚もなくなってしまうと、ただ笑うほかはない。そう考えれば、食べるつもりだった紙まじりの卵も一興ではある。とはいえ、こうしたことは笑いとばすことで、なんとかしのぐことはできるが、もう一度やれと言われたって繰り返す気にはならない。というわけで、それ以降、エトナのコンロはシガレット号の奥深くしまわれたままになった。

昼食を終えたぼくらが、またカヌーに乗りこんで帆を上げたとたんに風がなくなったことは言うまでもない。ヴィルボールデまでの残りの旅では風に恵まれなかったが、帆は上げたままにしておいた。ときどきは風も吹いたし、それが途切れると、水門から水門まで両側に規則正しく並んでいる木々の間を漕いでいった。

緑ゆたかな風景だった。というか、村と村をつなぐ緑の水路のようだった。ずっと長く人が住んできた、落ち着いた土地のようだった。ぼくらが橋の下に差し掛かると、坊主頭の子供たちがよそ者に対する敵愾心を発揮してつばをはきかけた。だが、もっと保守的なのは釣り人で、浮きに集中し、ぼくらが通りかかっても一顧だにしなかった。彼らは橋脚の水切りや補強部のでっぱり、土手の斜面に座って静かに釣りに没頭していた。生命のないものが流れていくように、ぼくらには無関心だった。古いオランダの版画の中の釣り人のように、彼らはまったく動かなかった。葉が風にそよぎ、川面にさざ波がたっても、国法で設立された多くの教会のように、彼らも微動だにしなかった。連中の無邪気な頭の一つ一つに穴を開けてみても、頭蓋骨の下には巻いた釣り糸しか見えないのではないか。インドゴム製の長靴をはきマス釣りの竿を手に山岳地帯の急流に立ち向かう屈強な釣り師なんかどうでもいいが、こうやって穏やかで人影もまばらな水面で釣れもしない釣りに打ち込んでいる連中は嫌いではない。

ヴィレボールデをすぎたところにある最後の水門には、上手なフランス語をはなす管理人の女性がいて、ブリュッセルまで二リーグ(約十キロ弱)ほどだと教えてくれた。その場所で、また雨が降り出した。雨粒はまっすぐ平行線を描いて落ちてきて、川面は雨に打たれて無数の小さく透明な噴水でおおわれた。近くに宿屋はなかった。ともかく帆をたたみ、雨の中をひたすら漕いだ。

時計があり鎧戸を閉めた窓がたくさん並んでいる田舎の美しい館や、林や通りに立つ立派な老木を見ていると、運河の岸辺に降り続く雨や深まっていく夕闇とあいまって、豊かで厳粛な雰囲気がもたらされてくる。版画でも同じ効果を持つものを見たことがあるような気がする。豊かな風景が迫りくる嵐のために見捨てられた印象を与えるやつだ。そうして、運河を進んでいる間ずっと、運河沿いの道を速足で進む幌のついた一台の粗末な荷馬車と一緒だったが、ほぼ同じ距離でついてくるのだった。

脚注
*1: フランドル語 - 広い意味のオランダ語。特にベルギーで使用される言語を指す。
*2: フリカッセ - フランスの家庭料理。白いソースの煮込み料理。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (3)

ウィレブルーク運河

翌朝、ぼくらはウィレブルーク運河に入ったが、雨が激しく降って寒かった。こんなに冷たい雨が降りそそいでいるのに、運河の水は紅茶を飲むのにちょうどよいくらいの温かさだったので、水面から蒸気が立ち上っていた。あいにくこんな状態だったが、出発するときの高揚した気分もあったし、パドルでこぐたびにカヌーが軽快に動いてくれるので、苦にはならなかった。雲が流れて太陽がまた顔を出すと、家に引きこもっていては感じられないくらいに、ぼくらの気分も高揚してきた。風は音をたてるほど吹き、運河ぞいの木々が揺れていた。葉もかたまりとなって揺れ動き、陽光に輝いたり影になったりしている。目や耳にはセーリング日和という感じだったが、土手にはさまれた川面までおりてくる風は弱く、気まぐれに強く吹いたりするものの、ちゃんと帆走できるほどではなく、速くなったり遅くなったりムラがあった。かつて船乗りだったと思われるひょうきんな男が船を曳いて歩く道からぼくらの方に向かって「速いな、だが先は長いぞ」とフランス語で声をかけてきた。

運河の交通量は多かった。ときどき緑色の大きな舵柄のついた列をなす船と行き会ったり追い越したりした。船尾が高く、舵のいずれの側にも窓があり、そうした窓の一つには水差しや花瓶が置かれたりしていた。船尾から小さなボートを曳航し、女性が食事の準備に忙しそうだったり、子供がいたりした。こうした荷船は二十五か三十もあっただろうか、牽引ロープでつながれ、風変わりな構造の蒸気船に曳航されていた。牽引している蒸気船には外輪もスクリューもなかった。機械工学の心得のないものには理解できないような装置があるのだろう。その船は運河の川底に敷かれた細い鎖を光を反射させながら引き上げては船尾から降ろしていき、そうすることで鎖の輪をたどって積み荷を搭載した平底船の列を進めているのだった。この謎を解くカギを見つけるまでは、前進しているのを示すものはなにもないのに、こうした荷船の列が穏やかに水面を進み、横を流れる渦が航跡の中に消えていく様子には、どこか厳粛ではあるが妙に落ち着かないものがあった。

商業目的で作られたあらゆるもののうちで、運河の荷船ほどあれこれ考えさせることができて楽しいものはない。帆を展開して水路橋をわたったり緑のトウモロコシ畑を通り抜けたりすると、その帆が木々や風車ごしに見えるし、水陸両用のものでは最も魅力的だ。また、まるで世の中にそんな商売はないとでもいうように、馬が並足で歩きながら船を引き、ぼんやりと夢うつつで舵柄を持っている男は一日ずっと水平線に同じ尖塔を見ているのだ。こんなペースで荷物をどうやって目的地に運べるのかと不思議にもなってくる。さらに水門で荷船が順番を待っているのを見ると、これが世の中だと教えられもする。こうした船に乗っている人々には自分の生活に満足している人が多いはずだ。というのは、こういう船での生活は、旅をすることと家にいることの両方を兼ねているからだ。

進んでいくと、夕飯の支度をする煙が煙突から立ちのぼる。運河の土手からの景色が少しずつ展開していき、荷船は大きな森のそばに浮かんでいたり、公共の建築物があったり夜に街灯のきらめく大都会を通り抜けたりしていく。船頭にとって荷船は浮かぶ家であり「旅の寝床」でもある。他人の話を聞いたり関心のない絵本のページをめくっていくようなものだ。運河の土手に上がればそこは外国だし、そこで午後の散歩をし、それから家に戻って自分の炉端で夕食をとってもよいのだ。

こんな生活は、健康という観点からは、運動が十分とはいえない。とはいえ高い健康意識は健康でない人々に必要なだけだろう。病気でも健康でもない怠け者はこんな感じで静かな人生をすごし、そうやって安らかに死んでいくのだ。

ぼくは通勤の必要があるどんなよい地位につくよりも、荷船の船頭でいたほうがいいと思っている。呼び出されることはほとんどないし、暮らしに困らないようにするために断念する自由が少なくてすむからだ。荷船の船頭は船に乗っているが、自分の船だ。自分が上陸したいと思えばいつでも上陸できるし、ロープが鉄のように固く凍りつく寒い夜に一晩中、風上帆走しつづけることもない。ぼくにわかる範囲では、就寝時間や夕食の時間はあるものの、時間はほとんど静止している。荷船の船頭には死んだりする理由もあまりなさそうだ。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (2)

川の上は快適だった。一、二隻の干し草を積んだ荷船と行き過ぎた。川の両岸にはアシや柳が生えていて、牛や灰色の年老いた馬がやってきた。土手ごしに頭を出してこちらを眺めている。木々に囲まれた感じのよい村には活気のある造船所があり、芝生に囲まれた館も見えた。風に恵まれてスケルト川をさかのぼり、ロペル川までやってきた。さらに追い風を受けて先へと進むと、はるか遠く右岸にボームのレンガ工場が見えてきた。左岸はまだ草の生い茂った田園地帯で、土手ぞいに並木が続いている。あちこちに船着き場の階段があり、婦人が肘を膝に乗せて座っていたり、銀縁メガネをかけてステッキを持った老紳士がいたりした。だが、ボームとそこのレンガ工場群に近づくにつれて、すすけた印象となり、みすぼらしくもなったが、時計台のある大きな教会や川にかかる木の橋のあたりまで来ると町の中心という感じになった。

ボームはすてきな場所というわけではなく、唯一の取柄は、住人の大多数が自分は英語を話せると思っていることだった。が、実際はそうではない。話をしても、何を言っているのか、よくわからない。宿をとったオテル・デ・ラ・ナヴィガシオンについて言えば、この場所の悪いところが全部でているようなところだ。通りに面して休憩室があり、床には砂をまいてあって、一方の端にはバーがあった。別の休憩室はもっと暗く寒々としていて、飾りといえば空っぽの鳥かごと三色旗をつけた寄付金用の箱があるだけだ。ぼくらはそこで愛想のない技師見習い三人に寡黙なセールスマンと一緒に食事をすることになった。ベルギーではよくあることだが、食事はなんの変哲もないものだった。実際、この感じのよい国民の食事に、人を喜ばせる何かを見つけだすことは、ぼくにはできなかった。ここの連中はたえず何か食べ物をつまんだり口に入れたりしているのだが、およそ洗練されているとは言えず、フランス風ではあるが根はドイツ、どっちつかずの中途半端という代物だった。

空の鳥かごはきれいに掃除され飾りもつけられていた。が、鳴き声を聞かせていた鳥の姿はなく、角砂糖をはさむため押し広げられた二本の針金が残ったままで、宴の後のようなもの悲しさがあった。技師見習いたちはぼくらに声をかけようとはしなかったし、セールスマンにも何も言わず、声をひそめて話をするか、ガス灯の明かりにメガネを光らせながら、こっちをちらちら見ていた。顔立ちはよいのに全員がメガネをかけていた。

このホテルにはイギリス人のメイドがいた。国を出て長いので、いろんなおかしい外国の言いまわしや奇妙な外国の習慣が身についてしまっていた。そうした変な流儀について、ここで書いておくことはあるまい。彼女は手慣れた様子で独特の表現を使ってぼくらに話しかけ、イギリスで現在はどうなっているのかと情報を求め、ぼくらがそれに答えると、親切にもそれをいちいち訂正してくれるのだった。とはいえ、ぼくらの相手は女性なのだし、ぼくらが提供した情報は思ったほどは無駄にならないのかもしれない。女性はなんでも知りたがるし、教えてもらう場合でも自分の優越性は保とうとするものなのだから。それは、こんな状況では賢明なやりかただし、そうする必要があるともいえる。というのは、女性が自分をほめているとわかると、たとえそれが道をよく知っているという程度のことであっても、男はすぐに調子にのって鼻の下を長く伸ばしたがる。この手の図に乗った男をあしらうには、女の立場としては、たえず肘鉄をくらわせるようなことをしていくしかないわけだ。男なんて、ハウ嬢やハーロー嬢*1が述べているように「そんな侵入者」なのだ。ぼくは女性を支持している。幸せな結婚をした夫婦は別として、狩猟する女神の神話ほど美しいものはこの世に存在しないと思っている。男が森で苦行しようとしても無駄だ。ぼくらは実際にそうした男を知っている。聖アントニウスもずっと前に同じことをやって悲惨な目にあったではないか。しかし、女性には男の最高の求道者にもまさる、自分に満足できる者がいて、男の顔色をうかがうこともなく、寒冷の地で気高く生きていくことができる。ぼくは禁欲主義者というわけではないが、女性にこうした理想があるということには感謝している。ただ一人を除き、どんな女性に自発的にキスされたとしても、それ以上に、こういった女性という存在がいることに感謝している。自主独立してやっている人々を見ることほど勇気づけられるものはない。スリムで愛らしい娘たちがダイアナ*2の角笛の音に駆られて一晩中森の中を走りまわり、そうした木々や星あかりのように、男たちの熱い息吹やどたばた騒ぎにわずらわされず、オークの老木の間を縫って動きまわっているのを想像すると──ぼくにとってもっと好ましい理想は他にもたくさんあるが──そういう様子を思い浮かべるだけで、ぼくの胸は高鳴ってくる。そうした生き方はたとえ失敗したとしても、なんと優美な失敗だろうか! 自分が後悔しないものを失ったところで、それは失ったことにはならない。それに──ここでぼくの内なる男がでてきてしまうのだが──こっちを軽蔑している相手をなんとか説き伏せていくのでなければ、どこに恋愛における喜びがあるというのか?
脚注
*1: ハウ嬢やハーロー嬢 - 英国の小説の祖と言われるサミュエル・リチャードソンの書簡体小説『クラリッサ』の登場人物。
*2: ダイアナ - ローマ神話の月や狩猟の処女神ディアーナ。ギリシャ神話では月と貞潔と狩猟の女神のアルテミスとなり、鹿の角と関係が深い。

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (1)

ロバート・ルイス・スティーヴンソン著
明瀬和弘訳

原著の序は本文の末尾に掲載します。

アントワープからボームまで

アントワープ*1のドックではちょっとした騒ぎになった。港湾作業の監督一人と荷役人たちは二隻のカヌーをかつぎ上げると船着き場に向かって駆け出し、おおぜいの子供たちが歓声をあげながらそれを追った。まずシガレット号が水しぶきをあげて水面に突進し、アレトゥサ号がすぐにそれに続いた。ちょうど外輪式蒸気船がやってきたところで、船上の男たちは大声で警告し、監督や荷役人たちも波止場からどなっていた。とはいえ、ぼくらのカヌーはひとかきふたかきしただけで、軽々とスケルト川*2の中央部まで進んだ。行き交う蒸気船や港湾作業の人々、陸の喧騒はすぐにはるか後方に遠ざかった。

太陽はきらきらと輝き、上げ潮が時速四マイルでいきおいよく流れていた。風は安定していたが、ときおり突風が吹いた。ぼくはこれまでカヌーで帆走したことはなかった。正直、この大河のど真ん中で初めて経験するという不安はあった。この小さな帆に風を受けたらどうなるのだろう、と。最初の本を出版したり結婚に踏み切ったりするのと同じで、未知の世界に乗り出していくようなものだろう。とはいえ、ぼく自身の不安はそう長くは続かなかった。五分もすると、ぼくは帆を操るロープをカヌーに結びつけていた。

これには自分でも少なからず驚いた。むろんヨットで他の仲間と一緒にいるときには、帆を操るロープはいつも固定していたが、こんな小さく転覆しやすいカヌーで、しかも、ときおり強風が吹くような状況で、同じやり方をする自分が意外だった。それまでの自分の人生観がひっくり返るような感じでもあった。ロープを固定しておけば、たばこだって楽に吸えるが、ひっくり返るかもしれないという明らかな危険があるときに、のんびりパイプを吹かそうという気になったことは、これまで一度だってない。実際にやってみるまで自分でもよくわからないというのは、よくあることだ。だが、自分で思っている以上に自分が勇敢でしっかりしているとわかって自信が持てたという話は、あまり人の口からは聞こえてこない。似たようなことは誰でも経験しているだろうが、妙な自信を持ってしまうと、この先で自分に裏切られるかもしれないという不安があるので、そういうことをあまり人に吹聴しないのではないか。もっと若いころに人生に自信を持たせてくれる人がいてくれたら、危険は遠くにあるときにこそ大きく見えるが、人間の精神の善なるものはそう簡単には屈服しないし、いざという時に自分を見捨てることは稀か決してないと教えてくれる人がいてくれたらと、心から思う。そうであったら、ぼくはどれほど救われていたことだろう。とはいえ文学では誰もセンチメンタルになるし、こんな勇気を鼓舞するようなことを書いてくれることはないだろう。

脚注
*1: アントワープ - ベルギー北部の都市(オランダ語ではアントウェルペン)。
*2: スケルト川 - 源流はフランス北部。ベルギーのフランドル地方を流れて北海にそそぐ国際河川。スヘルデ川、エスコー川(フランス語)とも呼ばれる。