スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 (9)

サンブル運河──クアルトまで

午後三時ごろ、グラン・セールの従業員全員が水際までぼくらの見送りにきてくれた。その中には乗合馬車の男もいたが、しょぼくれた目をしていた。かわいそうなカゴの鳥君! ぼく自身もかつては駅をさまよいながら次から次へとやって来る列車が自由人たちを夜の闇のかなたへと運んでいくのを眺めては、羨望にかられ、時刻表に書いてある遠い土地の名前を読んだりしたこともあるのだった。

この要塞化した地方を抜けてしまう前に雨が降りだした。向かい風で、猛烈に吹いた。周囲の自然も天候に負けていなかった。ところどころ雑木林があるだけの荒廃した雰囲気の土地で、通過する際には、あちらこちらに工場の煙突群が見えた。木々の間に土が見えている牧草地に上陸した。晴れ間がのぞいたところで、一服した。しかし、風はますます吹きつのり、タバコを吸うことはほとんどできなかった。近隣には薄汚い作業場がいくつかあるだけで、自然のものは何もない。背の高い少女を先頭にした子供たちが、ぼくらのいるところから少し離れたところに立っていた。あの子たちの目に、ぼくらはどう映っているのだろうかと気になった。

オーモンでは、水門を通り抜けることはほとんどできない状態になっていた。上陸するはずの所は川から急勾配の高い崖になっているし、船着き場は離れたところにあった。一ダースほどの埃まみれの労働者が手を貸してくれた。彼らは謝礼を受け取ろうとはしなかった。それどころか、ぼくらが金を渡そうとしたことで彼らを侮辱したという印象を与えないよう配慮し、上手に断ってくれた。「ここでは、いつもこんな風だよ」と、連中は言った。そして、それはとても似つかわしいやりかただと思う。ぼくの故郷のスコットランドでも代価を求めず手を貸してくれるのだが、そういう親切な人々に手伝ってくれたお礼として金銭を与えようとすると、選挙で有権者を買収しようとしているかのごとく乱暴に拒否されてしまう。ここの人々みたいに、やっかいごとを無償で手伝ったりした際には、もうひと頑張りして、相手に気まずさを感じさせないよう配慮するのは悪くない。ぼくらの勇敢な母国イギリスでは、一生の間ずっと泥の中をとぼとぼ歩き、誕生から埋葬まで耳元で風が吹き続けているといった風だが、善行も悪行も尊大かつ横柄に行われている。誰かに施しをするのでも、つい社会正義の矛盾を糾弾するような調子になってしまうのだ。

オーモンを過ぎると、太陽がまた顔を出し、風もおさまった。少し漕いでいくと、製鉄所のある一帯を過ぎ、気分が高揚する楽しい景色になってきた。川は低い丘の間を蛇行しながら続いているので、太陽はぼくらの背後になったり正面になったりした。前方の川面がまぶしいほどぎらぎら輝いている。両岸に牧草地や果樹園があり、スゲの木や水生植物の花で縁どられていた。生垣はとても高く、楡の木の幹を縫うように張り巡らしてあった。平坦な場所では非常に小さく区切られていて、川ぞいに木陰の休憩所が並んでいるように見えた。あたりを眺望できるような場所はなかった。時々、木の生えた丘の頂上が近くの生け垣ごしに見えたりしたが、その背後には空があるだけで、それがすべてだった。空に雲はなかった。雨がやんだ後の空気は澄みきっていた。川は丘をめぐりながら鏡のように光り輝き、カヌーを漕ぐごとにその波紋が岸辺の花々を揺らした。

牧草地では白黒まだらの目立つ模様の牛が歩きまわっていた。頭が白く体の他の部分は黒々とした毛におおわれた一頭が川岸まで水を飲みにやってきて、芝居に出てくる妙な坊さんが儀式をやっているみたいに、立ったまま両耳をぼくの方に向け、通り過ぎるまで小刻みに動かしていた。ザブンという水音を聞いてすぐに振り返ると、例の坊さんめいた牛が川に落ち、陸にあがろうともがいているのだった。岸辺の土が牛の重さに耐えかねて崩れたのだ。

小鳥やたくさんの釣り人を除き、牛の他に生き物は見えなかった。釣り人たちは牧草地の縁に座っていて、釣竿が一本の者がいるかと思えば十本も並べている者もいた。彼らは満ち足りた気分でいるようだった。天気について話をすると、彼らの声は静かで、遠くから聞こえてくるようだった。彼らは全員が川には魚が多いことに同意したが、何を釣ろうとしているのかについては、それぞれ意見が違っていた。二人として同じ種類の魚を釣ろうとしていないのは明白なので、逆に、ぼくらは誰も魚を釣っていないのではないかと疑わざるをえないほどだった。とても素敵な午後だったので、彼らが皆、獲物を釣り上げ、それをカゴに入れて家に持ち帰って夕食に食べられたのであればよいがと思う。こういうことを言うと、動物愛護に燃える友人のうちには、ぼくを非難する人がいるかもしれない。だが、ぼくは世界中のどんな勇敢な魚よりも、釣り人の方を尊重したい。ぼくは料理されて食卓に出されたものでなければ魚には興味がない。カヌーに乗って川を行く者にとって、釣り人は川の景色で重要な役割を果たしていて好ましい存在なのだ。自分がいまいる場所がどこなのか聞くと、いつも穏やかな口調で教えてくれるし、そうした釣り人がひっそりと存在していることが孤独と静謐を際立たせてくれるし、カヌーの下に銀鱗をきらめかせた魚のいることを思い出させてくれる。

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