米窪太刀雄(よねくぼ たちお)著
夏目漱石も激賞した商船学校の練習帆船・大成丸の世界周航記。
若々しさにあふれた商船学校生による異色の帆船航海記が現代の言葉で復活(連載の第157回)
微笑(ほほえ)みて泣く
その後、四日ぐらいの間隔で汽走と帆走とを交互に用いて、十五ヶ月の間、眠って夢を見ている間も忘れることのできなかった日本の海近く進んできた練習船は、十日の午後四時、最後の汽走に移った。
八日に校長から「諸員の辛苦(しんく)と勤労(きんろう)とを感謝す。健康の回復は最も喜ばし」との祝電を受けた頃から、人々の心は喜ばしいような、忙(いそが)しいような、泣きたいような、むやみと軽い心になって、ただもう小児(こども)のように、いくつ寝たら紫(むささき)匂(にお)う江戸の海へ入るだろうかと指折り数えてばかりいた。
各部屋では、ひげ面の大男が、鹿(か)の子やリンゴを賭(か)けて、館山(たてやま)に到着する日を当てようと一生懸命になっている。
いたる所で「同文電報*」が募(つの)られ、「アトセンリ、十五ヒツク、ナミシズカ、ユカイ(あと千里、十五日着く、波静か、愉快」などと欣喜(よろこび)の情を家郷(かきょう)に通じる者、館山(たてやま)へ向け「好(い)イ菜漬(なづけ)用意セヨ」と打電して、ついでのことに故山(くに)の親父へ「許嫁(いいなづけ)用意セヨ」と打電(うて)ばよいものをと野次られる者、八百里沖の異なる世界には袁世凱(えんせいがい)の得意も桂さんの臨終も、はなはだ価値(ねうち)がない**。
* 同文電報 特殊取り扱いの電報で、同じ内容の電報を同じ区域内の複数の人宛に送ることができた。現在は廃止。
** 袁世凱(えんせいがい、1859年~1916年)は中国・清朝末期の軍人。
練習帆船・大成丸が世界周航に出発する前年、辛亥(しんがい)革命を経て、中華民国の初代大総統に就任した。
桂太郎(1843年~1913年)は日本陸軍出身の内閣総理大臣で、練習帆船・大成丸が航海を終えて帰国する直前(ちょうど、この文章に描かれている時期)に病没した。
かくして、巧みに東北の逆風を「間切(まぎ)」って*アンボイナ出航以来、懸念(けねん)した例のこわいサイクロンも食らわずに無事入港できるかと思ったとき、たちまち「北緯十七度、東経百三十九度の地点に、中心示度二九・五三、進行方向西北西なる一低気圧あり」との中央気象台からの急報があった。
* 間切る 風上方向に向かう帆船やヨットの走り方。
帆船は風の吹いてくる方向に直接向かうことはできないので、風を斜め前方から受ける形で進み、途中で風を受ける舷を左右交互に変えながらジグザグに進んでいく。現在は、一般にタッキングと呼ばれる。
十二日午後二時である。
さてはと、心ひそかに当惑の眉をひそめる。海はようやく荒れ出して、船は前後動(ピッチング)はなはだしく、推進器(プロペラ)は空回りして、次第に時化(しけ)模様の前兆(ぜんちょう)を呈する。
続いて、十三日の午前六時、午後二時、同六時と三回の警戒電報が来る。人々の眉はますます暗く、ますます太くひそめられる。
しかし、ぼくは思う。人々の歓楽(かんらく)が一日また一日とその色彩を増し、その容量を増して、ある極限値に近づいたとき、これをして絶対値とするには、よくある一般的な方法では駄目である。
世に「わさび羊羹(ようかん)」というものがある。
ぼくは、この羊羹(ようかん)はわさびによってさらに甘くなると思う。
こわい、怖(おそ)ろしい先生がニヤリと微笑(ほほえ)むときは、さらに凄(すご)が加わるに違いない。男女(ふたり)の仲に障害があり、邪魔が入れば入るほど恋(こい)しさは増す、という。されば、サイクロンが来て入港日が遅れれば遅れるほど、日本の山河はなつかしく、芙蓉峰(ふようほう)*は恋しくなるに違いない。ありがたい。
* 芙蓉峰(ふようほう) 富士山のこと。
かくして十月十五日となった。
忘れもせぬ十月十五日の午後五時である。風力七に匹敵する連日の向かい風の疾風(ゲイル)で船速(せんそく)はやっと三マイルになるかならないようなときである。湯にはいってうっとりと、どんな形とどんな深さとをもって、日本の自然と日本の人間とはぼくらを抱擁(ほうよう)してくれるだろうと楽しい想像にふけっているぼくの耳を、まっしぐらに貫(つらぬ)く勢いで、ワァーツというものすごい鬨(とき)の声と、ドンドンと甲板を蹴(け)る靴の音とが聞こえる。
ぼくは耳をそばだてた。もしやヒョッとして、黒い雲が切れて日本の山が見えたのではあるまいか。
と、たちまち「山が見えるぞ――っ」と、嬉しさに頭がいかれてしまったかと思うような声を響かせて、一人がアタフタと食堂の方へ飛んでいく。
ぼくは思わず夢中で入口まで裸体(はだか)で飛びだしたが、今までたびたびこの手で「雲のやつ」にだまされたことがある。待て、しばしと、静かに着物を着て上甲板に出ると、これは驚いた。まさしく山である。しかも、きれいで、すがすがしく、巻き貝のような形の島が……。
うれしくも西北の水平線が明るんで、忌(い)まわしい黒い雲がたそがれの光線(ひかり)を受けつつ、あかね色に縞(しま)を染めなした下が少し裂けて、その間から紫煙(しえん)かすかに、美人の黛(まゆずみ)のごとく匂うのが伊豆の山である。
目をうるませながら「山だ山だ」と言う者、感慨(かんがい)に満ちた声で「とうとう来たな」と言いながら肩をたたく者、電報を打つ者、双眼鏡(グラス)を持って来る者。歓喜(かんき)のどよめきは船首から船尾へ、甲板から船室(へや)へと湧(わ)いてあふれる。
芙蓉(ふよう)おろしの心地よく
絞(しぼ)る白帆(しらほ)のなびくとき。
と、どこからか、かすかにむせぶような歌う声が聞こえる。
悲しくもまた喜ばしい声である。その「微笑(ほほえ)みて泣く」歓喜の衷心からの思いは、余韻(よいん)を感じさせる曲律(リズム)にこもっていて、聞く人の心にしみじみと「悲しき喜び」を覚えさせる。
やがて、今はもうたまらぬというように、咽喉(のど)をつんざく勢いで、室(へや)から室(へや)へと、全船百二十の感動した生徒たちの合唱が力強くわき起こってくる。
都ははるか霞(かすみ)して、
感慨(かんがい)深き江戸の海、
その抱擁(ほうよう)を身に泌(し)めば
微笑(ほほえ)みて泣くわが身かな。